
ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。
今年3度目の日本
皆さん、こんにちは。
今年も暑い夏がやってきましたね。夏バテなどされていませんか? 私は7月から再び(正確には今年に入って3度目!)、日本に来ています。今年は例年に増して移動が多く、その合間を縫って作曲もしなければならないので、頭の中がいつも落ち着きません。たまには休息を取ろうと思って映画を観ても、「この演出は……」とか「脚本が……」などと指揮者目線でいろいろ考えてしまって、あまり休んだ気がしないんですよね(笑)。これも職業病でしょうか。
室内オペラ《おてんば》初演
日本に来る前はオランダで、私にとって3作目となる室内オペラ、《おてんば:大胆な女性たち (OTEMBA: DARING WOMEN)》の公演がありました。この作品はホラント音楽祭(オランダ芸術祭)の1プログラムとして上演されたものですが、タイトルからもおわかりの通り、実は日本にも縁のある内容で、17世紀に長崎県平戸でオランダ人と日本人の間に生まれたコルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode、1629~1691)という実在の女性が主役の一人として登場します。ちょうど今年がアムステルダム建立750周年にあたるため、芸術祭では周年を意識したプログラム作りがされていて、今回のオペラもその一環として制作されたのでした。
主役のコルネリア・ファン・ネイエンローデを演じるのは能声楽家の青木涼子さん。「能声楽家」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、能の声楽パートである「謡(うたい)」を現代音楽に融合し、新たな表現を切り開いている涼子さんは、今や世界中から熱いオファーの絶えないアーティストの一人です。能の世界も一昔前までは男性だけの世界でしたが、彼女は現在、世界各国の現代作曲家たちとのコラボレーションを通じて日本の「能」を世界に広める、いわば文化大使のような存在となっています。
そして作曲は望月京(みさと)さん。彼女は日本を代表する現代作曲家の一人で、女性の作曲家の草分けといってもよいでしょう。芸大を卒業後、パリで研鑽を積まれ、数々の作曲賞を受賞。現在では世界のあちこちで作品が演奏され、国際的に活躍されていらっしゃいます。私にとっては芸高時代からの先輩ですが、当時から彼女は「超」がつくほど頭が良くて有名でした。ピアノもものすごく上手ですし、文才にも恵まれていて新聞の書評委員も務めておられます。まさに「才女」という言葉がぴったりです。
能声楽家の青木涼子さん(中央)と作曲家の望月京さん(左)。
涼子さんといい京さんといい、今や日本の音楽界を背負って立つ優秀な2人の女性とご一緒できるなんて、私にとってはとても光栄なことです。ですが、最初にお話をいただいたときにいちばん驚いたのは、そのオペラの内容でした。
人類史上初めて訴訟を起こした女性
物語は、アムステルダム国立美術館に勤めるキラナという女性(ベルナデータ・アスタリ、Sop.)が登場するところから始まります。キラナはインドネシア人の絵画保存修復家で、美術館に所蔵されている一枚の絵画を修復しようとしているのですが、その絵に描かれているのが先に触れたコルネリアの一家です。
17世紀の画家ヤコプ・クーマンによって描かれたコルネリアとその夫ピーテル・クノルと二人の娘の家族肖像画。
画面右端、薄暗い背景に2人の奴隷の姿が見える。(1665年)
コルネリアは、東インド会社の一員で平戸の商館長を務めていたオランダ人の父親と日本人の母親との間に生まれました。彼女は不運にも1639年の鎖国令を機に両親と引き離され、バタヴィア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に送還されてしまいます。バタヴィアの孤児院で育った彼女は、やがてオランダ人のピーテル・クノル(彼もまた東インド会社に勤める裕福な商人です)と結婚し、たくさんの子宝に恵まれました(とはいえ、成人したのはたった一人でした)。
青木涼子さん演じるコルネリアが登場する場面。(©Daan van Eijndhoven)
しかし、クノルを病気で亡くしたあと、再び彼女に受難が訪れます。彼女の再婚相手、ビッターに財産を奪われそうになり、コルネリアは裁判で争うことになるのです。当時、オランダの法律は、夫が妻の財産に対し全面的に支配権を持つことを認めていました。コルネリアはそのような不利な立場にありながら、自分の財産を守るべく人生をかけて闘ったのでした。聞いたところによると、彼女は「人類史上初めて訴訟を起こした女性」とされているそうです。
タイトルの「おてんば」は、もともとオランダ語に由来する言葉ですが、「飼いならすことができない」という意味があるんですね。このオペラは、女性の人権が著しく侵害されていた時代にあって、それに抗って生きた女性の生き様を描いた作品なのです。
オランダ、インドネシア、日本
お話を舞台に戻しましょう。絵画修復家のキラナは、この絵の右端に描かれた2人の奴隷の部分を修復しようと試みます。実は、2人の奴隷のうちオレンジを手にした男性はスラパティといって、のちに逃亡奴隷を率いて東インド会社に反乱を起こした人物とされています。つまり、インドネシア人のキラナにとっては歴史上の英雄なのです。絵画では暗くてよく見えませんが、キラナと同じ美術館に勤めるAI技術師の男性(ミヒャエル・ウィルメリング 、Bar.)がスキャナーを当てると舞台背後のスクリーンに絵の細部が大きく映し出され、そこにスラパティの姿を認めることができます。
バリトンのミヒャエル・ウィルメリング演じるAI技術者が、スキャナーを使って絵画の細部を背後のスクリーンに映し出します。
(©Daan van Eijndhoven)
ある夜、閉館後の美術館でキラナが修復作業を行おうとすると、突然絵画の中からコルネリアが現れ、キラナは彼女から数奇な人生を聞かされることになるのです。
絵画の中からコルネリアが現れ、キラナと対峙する場面。(©Daan van Eijndhoven)
もうおわかりかと思いますが、このオペラはオランダ-インドネシア-日本にまたがる歴史を背景に、異なる時代を生きた2人の女性が邂逅し、自分の人生を取り戻す物語なのです。日本に生まれ、オランダに居住し、インドネシアでユース・オーケストラを立ち上げた私にとってはまるで自分の人生をなぞらえているかのようで、このお話をいただいたときは不思議な巡りあわせを感じずにはいられませんでした。
能の魅力を改めて認識
とはいえ、実際の現場はなかなか過酷でした。リハーサル期間が限られていた上に、能とオペラという、そもそもまったく異なる表現が絡み合う場面が多く、キラナ役のベルナデータとコルネリア役の涼子さんはとても苦労されたことと思います。西洋音楽からすると、謡のテンポは極端に遅く、声域はコントラルトくらいの低さ。一緒に歌っているキラナは、慣れないテンポ感に集中力を乱され、たびたび自分がどこを歌っているかわからなくなってしまうようでした。
しかも、作品の大部分がコルネリアとキラナのやり取りを中心に進行するため、2人は短時間でたくさん暗譜をする必要がありました。涼子さんに至っては、一部を完全に英語で歌う場面もあり、かなりチャレンジングだったと思います。能の謡とはまったく異なるシラブルと発声で歌うわけですから。主役の2人のストレスたるや、想像を絶するものだったと思います。
ですが、そのような難局を乗り越え、本番では2人とも見事に演じ切りました。最後の場面で2人が手を取り合って舞台を去ると、満席のお客様からスタンディングオベーションが! 2人の努力は、まさに賞賛の拍手に値するものだったと思います。
スタンディングオベーションが沸き起こるなかでのカーテンコール。
今回の作品で、私も能の魅力を改めて認識しました。彼女が扇を持ってただ舞台に立っているだけで、その場の空気が変わるんです。あの独特の存在感は、能を知らないオランダの人たちにもしっかり伝わっていました。涼子さんは今回の作品で新境地を切り開いたと言ってもいいのではないでしょうか。加えて京さんの音楽も、よく考えられたすばらしいものでした。演奏してくださったニューヨーロピアン・アンサンブルの皆さんも、難しい状況のなかでこちらの要求に的確にこたえてくださいました。
ニューヨーロピアン・アンサンブルのメンバーたちと。
前列左から京さん、演出家のファンデンベルグさん、ベルナデータ、その後ろが涼子さん。
いずれはインドネシア、日本でも
今回はアムステルダムで3日間の公演でしたが、実は11月にもオランダ国内4都市でのツアー公演が決まっています。さらに、日本やインドネシアでの公演も検討中だそうです。もし日本での公演が決まったら、ぜひ皆さんにも観に来ていただきたいです。日本の皆さんは、このオペラをどんな風に受け止めるでしょうか。我々《おてんば》チームも、今回吸収した内容を咀嚼して、さらに磨きのかかった舞台をご覧に入れることができるでしょう。日本で上演できる日を楽しみにしています。(つづく)
▼2025年7月26(土)、27(日)
- 日生劇場ファミリーフェスティバル
物語付きクラシックコンサート「アラジンと魔法の歌」 - 指揮:阿部加奈子
- 演出:眞鍋卓嗣
- 作曲・編曲・音楽アドバイス:加藤昌則
- 出演:又吉秀樹(アラジン)、岡田誠(ランプの精)、宮地江奈(カンタービレ)、町英和(魔法使いムーサ)
- 演奏:ニッセイシアターオーケストラ
- 会場:日生劇場
- URL:https://famifes.nissaytheatre.or.jp/
▼2025年9月5日(金)、6日(土)、7日(日) 14時00分開演
- 藤原歌劇団公演《ラ・トラヴィアータ》(共催:新国立劇場・東京二期会)
- 指揮:阿部加奈子
- 演出:粟國淳
- 出演:
ヴィオレッタ:迫田美帆(5日)、田中絵里加(6日)、森野美咲(7日)
アルフレード:笛田博昭(5日、7日)、松原陸(6日)
ジェルモン:須藤慎吾(5日、7日)、押川浩士(6日)
フローラ:古澤真紀子(5日、7日)、北薗彩佳(6日)
ガストン:堀越俊成(5日、7日)、工藤翔陽(6日)
ドゥフォール:江原啓之(5日、7日)、アルトゥーロ・エスピノーサ(6日)
ドビニー:坂本伸司(5日、7日)、大塚雄太(6日)
グランヴィル:豊嶋祐壹(5日、7日)、相沢創(6日)
アンニーナ:石井和佳奈(5日、7日)、萩原紫以佳(6日)
ジュゼッペ:濱田翔(5日、7日)、原優一(6日)
使者:江原実
召使:岡山肇 - 合唱:藤原歌劇団合唱部、新国立劇場合唱団、二期会合唱団
- 演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
- 会場:新国立劇場オペラパレス
- URL:https://www.jof.or.jp/performance/2509-la_traviata
▼2025年11月1日(土) 14時00分開演
- 横浜みなとみらいホール特別演奏会
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
~オルガン”Lucy”プロジェクト~ - 指揮:阿部加奈子
- オルガン:近藤岳
- 演奏:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
- ドビュッシー:交響詩「海」
- 阿部加奈子:風の睦び~オルガンとオーケストラのための3章(みなとみらいホール委嘱作品、世界初演)
- サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調op.78「オルガン付」
- 会場:横浜みなとみらいホール
- URL:https://yokohama-minatomiraihall.jp/concert/archive/recommend/2025/11/4004.html
※2025年7月26日現在の情報です
プロフィール
阿部加奈子
指揮者/作曲家/ピアニスト。
オランダ在住。東京藝術大学音楽学部作曲科を経て、パリ国立高等音楽院にて作曲に関連する6つの課程とともに日本人として初めて同音楽院指揮科で学び、フォンティス総合芸術大学大学院指揮科(オランダ)にて修士号を取得。パリ国立高等音楽院在学中より、ヨーロッパを活動の拠点に、指揮者、ピアニスト、作曲家として多方面で活躍する。2025年11月に横浜みなとみらいホールの委嘱による作曲家・阿部加奈子の新作を、阿部自身の指揮にて神奈川フィルハーモニー管弦楽団が初演する予定である。
公式ホームページ:https://www.kanakoabe.com/(英語、フランス語、日本語)
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