指揮者のレパートリー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】
ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新しい年の幕開け 2025年が明けましたね! 皆さんはどんなお正月を過ごしましたか? 昔から「新年に日付が変わるタイミングに何をしているかがその一年を決定する」と信じている私は、今年の元日を作曲しながら迎えました。取り組んでいるのはもちろん、今年11月に自分の指揮で初演するオルガンと管弦楽のための新作(連載第8回参照)です。 作曲する時は、指揮をするのとは全然違う脳みそを使います。だから、ちょっと空いた時間にサッと書き進める、みたいなことができないのが悩みどころ。一方で今年も指揮の方は通常の演奏会に加えて日本とヨーロッパでオペラプロダクションが5作(うち2作が初演)控えていて、作曲に充てられる時間は限られています。でも、私は挑戦することが嫌いではありません。今年も皆さんに素晴らしい音楽をお届けできるよう、時間管理と健康管理に神経を払いつつ、一つ一つ着実にこなしていきたいと思います。 「指揮者のレパートリー」とは 現在では「作曲」と「指揮」を別々の活動、と捉えるのは一般的な感覚かもしれませんが、少し視点を引いて歴史を振り返ると、ロマン派初期頃まではモーツァルトやベートーヴェンのように“作曲家が自作を振る”というのがもっとも一般的な在り方でした。そこから時代が下ってメンデルスゾーン、ベルリオーズ、リストの時代になると作曲家が自作以外の作品も指揮するようになり、加えてオーケストラの大規模化や音楽の複雑化とも相まって指揮者の専業化が進んでいったのですね。ですから、現在のような「古典から現代までさまざまな作曲家の作品を振る指揮者」が現れたのは長い歴史からすればほんの最近のことなんです。 古今東西を合わせれば星の数ほどある作品のなかで、指揮者はどうやって自分のレパートリーを築いていくのでしょう? 今回は編集部からのリクエストにこたえて「指揮者のレパートリー」についてお話ししたいと思います。 私のレパートリー 連載第3回と第4回で私の指揮科時代のエピソードをご紹介しましたが、どこの音大でも指揮科の学生が避けては通れない必修のレパートリーというのがあります。たとえばベートーヴェンの交響曲全曲などがそうです。ピアノ科の学生がショパンを勉強するようなものですね。同時に本人の特性や傾向というのもやはりあって、指揮科の学生時代、現代音楽を演奏する話が来ると同級生がいつも私に譲ってくれていました。「カナコは現代音楽好きだし、きっと卒業してからもたくさん振るでしょ!」と(笑)。 また、ピアノ伴奏科時代(連載第2回参照)にはオペラのコレペティトゥール(音楽の部分をピアノで弾いて歌手に稽古をつける人)をたくさん経験していたこともあり、オペラプロダクションというのもキャリアの初期から大切なレパートリーの一部でした。それから言うまでもなく、ラヴェルをはじめとするフレンチ・レパートリーは、20年以上パリで暮らし、パリ音楽院で指揮法を学んだ私の根幹となるものです。 ベルリオーズ《幻想交響曲》(神戸フィルハーモニック、2023年11月) 逆に、ずっとフランスにいたことでマーラーやブルックナー、R. シュトラウスの交響曲・交響詩などの “ドイツもの”を振ることに対しては、長い間どこか遠慮するところがありました。「私が振っていいのかな?」と。おそらく指揮者を招聘する側としても、“ドイツもの”はドイツのバックグラウンドがある人にお願いしたい、と考えますよね。 でも去年の4月、アルバニアのオケを客演してから少し考えが変わりました。そのコンサートではアルバニアの国民的作曲家、フェイム・イブラヒミ(Feim Ibrahimi, 1935~1997)の代表作であるピアノ協奏曲を振ったのですが、正直なところ、お話をいただくまで私はイブラヒミの名前はもちろん、アルバニアについてほとんど何も知りませんでした。そんな私が、作曲家のご遺族も臨席される大事な演奏会で指揮をしていいのだろうか……。アルバニアに行くまではすごく心配でした。 2024年4月、アルバニアのテレビニュースで紹介された際の様子。 ところが蓋を開けてみたら演奏会は大盛況。終演後、作曲家の奥様が楽屋を訪ねてこられて「これこそが亡き夫が聴きたかった演奏だ」「あなたはアルバニアの心をわかっている」と涙を流して感激しておられるのです。私の手を握り締めて感動している夫人を見ていて、自分で壁を作る必要はないんだと気づきました。「ずっとフランスにいたからドイツものを理解していないんじゃないか」とか「日本人だからわからないんじゃないか」と、今まで自分で思い込んでいたものが少しほどけた感じがありました。 レパートリーに対する考え方 レパートリーの深め方として、自分が得意とするものを徹底的に究める、という考え方もあると思います。同じ曲を何百回、何千回と演奏し続けるうちに誰にもたどり着けない新しい境地に達する、というのも芸術家としての一つの有り様でしょう。ですが私の場合、レパートリーを増やしていくことに貪欲でありたい、とずっと思い続けてきました。元来好奇心が強いということもありますが、できるだけ多くの音楽に触れて、そこからさまざまなメッセージを受け取りたいと思っているからです。音楽という言語には果てしない可能性が詰まっています。私はその無限の可能性を一つでも多く学びたい。私が現代音楽を好きなのも、その動機が根底にあります。 ダヴィッド・ウドリ《インターセクションズ》(アンサンブル・ミュルチラテラル、2014年) 私は個人的にも現代音楽が好きで、機会があれば現代音楽を紹介するためにもプログラムに入れたいと思っていますが、より正確に言うと「演奏機会の少ない作品を紹介したい」という気持ちが強いんですね。古い時代の音楽にも、後世の作曲家に大きな影響を残しながら演奏される機会の少ない作品はたくさんあります。そうした知られざる名曲と新しい作品を並べて、新しい作品がいかに古い時代の音楽からヒントを得ていたかがおのずと聴き取れるようなプログラムを組むなど、やってみたいアイデアがたくさんあります。 おそらく、それは私がもともと作曲の出身だからということもあるでしょう。型にはまった「定番・安定」のプログラムではない、何か新しいことをやりたいという気持ちが常にあります。クラシック音楽のリスナーが年々高齢化していて若い人が増えないとよく言われますが、本当はもっとやり方次第で若い世代の人たちを惹きつけることができると思うんです。今は小さい頃からYouTubeやSpotifyでいろんな音楽に触れて、ある意味音楽に対するバリアがない人が増えています。インドネシアでは若者たちがマーラーとメタリカを同時に聴いてましたからね(笑)。彼らのような柔軟な発想に、もしかしたら突破口となるヒントが隠されているのかもしれません。 日本人作曲家の作品 日本人作曲家の作品も世界に紹介していきたいですね。芥川也寸志さん(1925~1989)や黛敏郎さん(1929~1997)、先年亡くなられた西村朗さん(1953~2023)など、振ってみたい優れた作品はたくさんあります。ヨーロッパにはいまだに日本といえば「ゲイシャ・フジヤマ」、音楽といえばすべてペンタトニック(笑)みたいなステレオタイプのイメージを持っている人もいますが、そうではない日本の音楽を発信していきたい。 オランダで私が芸術監督を務めるアンサンブル・オロチという現代音楽アンサンブルのレジデント・コンポーザー、向井響(1993~)君の作品も非常にユニークです。彼の《美少女革命:Dolls》という作品には人形浄瑠璃がとり入れられているのですが、伝統邦楽の要素と西洋音楽の語法が違和感なくマッチしているんです。そんな新鮮な感性を持った若い人たちともたくさんコラボレーションしていきたいと思っています。 こうしてやりたいことを挙げていると体がいくつあっても足りない気がしてきますが(笑)、2025年も健康に留意しつつ精進を続けていく所存です。皆様にとっても幸多き一年となりますように! 今年もどうぞよろしくお願いします。 前の記事...