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「作曲」を通じて新たに学んだこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「作曲」を通じて新たに学んだこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 阿部家恒例のランチタイムショー 皆さん、こんにちは! 前回の更新からすっかりご無沙汰してしまいました。 2026年が始まってはやくもふた月が過ぎましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。 今回、私は年末年始を大阪の実家で家族と過ごしました。両親が主宰する音楽企画会社「あべぷらん」による毎年恒例のランチタイムショーに、私もスペシャルゲストとして出演することになっていたからです。連載の第3回でもちょっと触れましたが、私の両親は合唱指揮者で、現在も合唱団を指揮したり指導したりして夫婦で活動を続けています。両親とその教え子や合唱団メンバーが出演する、歌あり演奏あり寸劇ありというアットホームなコンサートなのですが、昨年はちょうど創立25周年ということもあり、普段は「忙しいから」と免除してもらっていた私もステージに駆り出されることになったのでした。 阿部家恒例のランチタイムショー。左から妹、母、私、父。 私が出演したのは寸劇「ながらづか歌劇団」。説明するまでもないと思いますが、宝塚歌劇団のパロディです(笑)。演じるのは「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」。いつまでたっても曲が書けない!といってピアノをガンガン叩きながら焦っているところへ、妹演じる「長良須磨歩(ながらスマホ)」が現れて、一緒に歌ったり踊ったりしているうちに曲がひらめき、「笑点」のテーマをラフマニノフ風に弾いてめでたしめでたしというオチ(笑)。最後は本家の歌劇団さながら、出演者一同で花を持ってシャンシャンするところまでやりました。会場は終始大爆笑。ちなみに台本を書いているのも妹です。この「ながらづか歌劇団」、長年ランチタイムショーの人気寸劇となっております。こんなことを毎年やっているんですよ。阿部家がいかにオモロい一家であるか、おわかりいただけるでしょうか? 「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」役の私と、「長良須磨歩(ながらスマホ)」を演じる妹(右)。 作曲のことを考え続けた一年 そんな寸劇を笑って演じられるのも、昨年一番の大仕事を無事完遂したから。11月に横浜みなとみらいホールで行われた特別演奏会「オルガン“LUCY”プロジェクト」のことです。横浜みなとみらいホールからの委嘱による私の新曲《風の睦(むつ)び~オルガンとオーケストラのための3章》に、ドビュッシーの交響詩《海》とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」というフレンチ・プログラム。偉大な作曲家の名作に加えて自作の世界初演も指揮するという大役を拝命し、2025年は指揮の仕事と並行していつも作曲のことを考え続けていた一年でした。 “LUCY(ルーシー)”というのは、横浜みなとみらいホールに開館以来設置されているオルガンの愛称。開港の街・横浜は、実は「日本初のパイプオルガン建造の地」として歴史的にもこの楽器と縁の深い街なのです。日本に入ってきた当時、パイプオルガンは「風琴」と呼ばれていました。私はそこに着想を得て、歴史と共に目まぐるしく変容する「横浜の街」と、その姿をたゆまずに見守り続けてきた「風」との関係をオーケストラとオルガンになぞらえ、両者の「睦び(交流、交遊)」の姿を全3楽章構成で描こうと思ったのでした。 正面に鎮座するのは横浜みなとみらいホールのシンボル、パイプオルガンの“LUCY(ルーシー)” 写真:©藤本史昭 もちろんパイプオルガンの入る曲を作曲するのは初めてですから、ホール・オルガニストの近藤岳さんにあらかじめ奏法や音域などについて、じっくりレクチャーをしてもらいました。パイプオルガンというのは、設置されているホールも含めて一つの大きな「楽器」なんです。近藤さんにあれこれ質問を投げかけてはその場で実演していただいたおかげで、ホールの響きも含めたパイプオルガンの音色をしっかり耳に焼き付けることができました。 超絶技巧を披露してくださったオルガニストの近藤岳さん。実は、大学時代の優秀な同級生! 私は基本的に根が「大阪のオバチャン」なので(笑)、サービス精神旺盛というか、何か依頼を受けると自分にどんなことが求められているんだろう?ということをすごく考えるんです。LUCYは横浜みなとみらいホールのシンボルですから、オルガンが一番映えるにはどうしたらいいかな?とか、地元の人に「この街に住んでいてよかった」と思ってもらうにはどうすればいいかな?とか。少しでも多くの人の期待に応えられる方向性を見いだすまで、時間をかけて考えました。 方向性やコンセプトが決まった時点で、全体の大まかな構造や楽器編成、音のイメージもだいたい見えてきます。あとは頭の中にあるイメージの細部を具体化していくのですが、これを普段の指揮の仕事と並行して進めるのはなかなか骨の折れることでした。同じ忙しさでも、全部指揮の仕事だったらここまで消耗しなかったかもしれません。でも作曲は指揮と違って24時間ずっと考え続けてしまうんですよね。寝ている間も夢の中でずっと音が鳴っているし、書き続けてしまう。脳が休まらないんです。夜中に突然ハッと飛び起きて、ピアノに駆け寄ってギャーッと音を出してみたり。まさに「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」さながらです(笑)。 ところどころスケッチを書き留めたりもしますが、そうやって大部分を頭の中で作曲して、最後の2週間で書きあげました。「楽譜を書く」というのは最終工程で、ほとんど頭の中にあるものを書き取るような作業になります。私は楽譜ソフトを使わず手書きするので、そこからさらに浄書して、パート譜を作成する時間も必要です。かなりギリギリでしたが、周囲の方にもご協力いただきながらなんとか間に合わせることができました。 新曲《風の睦(むつ)び~オルガンとオーケストラのための3章》のスコア(※画像は加工しています) 2024年の客演以来の共演となる神奈川フィルハーモニー管弦楽団の皆さんは、今回もとても丁寧に楽譜を読み込んでこちらの意図を理解し、熱演してくださいました。ソリストの近藤さんによる即興の超絶技巧は、まさに圧巻。LUCYのポテンシャルを最大限に引き出す素晴らしい演奏で、怒濤のクライマックスを演出していただきました。私は自分の作品をこんな風に演奏していただいて、感激するやら照れ臭いやら。聴衆の皆さんからの反応も温かく、ようやく肩の荷を降ろすことができたのでした。 熱演していただいた神奈川フィルハーモニー管弦楽団の皆さんと。写真:©藤本史昭 人生2度目のバーンアウト 終演後はしばらく燃えかす状態(笑)。人生2度目のバーンアウトです(1度目は3.11のチャリティーコンサートのあと。連載第5回参照)。作曲って、少なからず自分の内面を掘り起こすような部分があるので、結構しんどい作業なのです。普段は見ないようにしている自己の内側をじーっと凝視することになるので。 今回の新作も、キャリアのほとんどをヨーロッパで過ごしてきた自分の中にある、「日本」という出自と向きあうことになりました。第2楽章でオルガンを発音機構の似ている笙に、ピッコロを能管に、オーボエを篳篥に見立ててオーケストラで雅楽的な響きの空間を作り出したいと思ったのは、自分なりの日本への愛着と憧憬の表れ。なぜか伝統邦楽の中でも私は雅楽にとても惹かれるものがあるんです。 それは、20代で渡仏し、フランス人作曲家と結婚して作曲を封印、以来現代音楽の新作初演を手がけることにまい進してきた私が、はじめて自分の来し方を振り返り、現在の立ち位置を再確認する時間だったのかもしれません。 同時に、過去の大作曲家―――特に指揮も作曲も両方行っていた時代の作曲家―――への畏敬の念をますます深めました。いやはや、自分で指揮もやりながら歴史に残る大作を書き続けていたなんて! とんでもない偉業だということを再認識しました。今回の経験は、図らずも自分自身の指揮者としての在り方を見つめ直す良い機会となりました。我々再現者は、謙虚な姿勢で真摯に作品に取り組まなくてはいけない、と意を新たにした次第です。 2026年の抱負 年が改まったからといって特に「これ!」といった抱負はないんですが、今年はより能動的にプログラムを考えたり新しい曲を演奏したりしたいですね。もともと誰も手をつけないようなことやオリジナリティのあるものが好きな性格なので。同じことを繰り返していると飽きてしまうんです。自己研鑽に励みつつ、今年も「自分にしかできないこと」を貪欲に追求していきたいです。 この連載が公開される頃には終わっていますが、2月には演奏会でキプロスに行きます。東地中海に浮かぶ島ですが、現在は南北に分かれていて、私が行くのは北の「北キプロス・トルコ共和国」の方です。オランダで知り合ったトルコ人ギタリストが繋いでくれたご縁で呼んでいただいたのですが、はじめて訪れる地ということもあり楽しみです。 キプロス演奏旅行中の一枚。豊かな自然と人々の温かさが心に焼き付きました。 トルコ北キプロス大統領府交響楽団を指揮。大統領夫妻も見えるなか、会場はスタンディングオベーションで大盛り上がり!...

ピアノレッスンのお困りごとを解決!「わからない」を「できた!」に変える「五線ホワイトボード&音符マグネット」

ピアノレッスンのお困りごとを解決!「わからない」を「できた!」に変える「五線ホワイトボード&音符マグネット」

「音符をなかなか覚えられない」「説明しても伝わっているか不安」「ノート学習の準備に時間がかかる」──日々のピアノレッスンには、年齢やレベルに応じたさまざまなお困りごとがつきものです。そんな現場の悩みに、頼もしく応えてくれるのが五線ホワイトボード&音符マグネットです。 |ピアノの先生のお悩み解決 【悩み1】幼児レッスン:子どもの集中力が続かない! 【悩み2】幼児レッスン:楽譜と鍵盤の位置関係がわからない 【悩み3】初級〜中級向けレッスン:言葉だけでは理解できない! 【悩み4】教材:持ち運びに重すぎる! |活用方法は無限大 【メリット1】ゲーム感覚で楽しめる! 【メリット2】音符マグネットも充実! |子どもたちの反応 |各所からの推薦のお言葉 |商品概要 1|ピアノの先生のお悩み解決 【悩み1】幼児レッスン:子どもの集中力が続かない! 「音符が定着しない」 「集中が続かない」 幼児期の音符学習は、「書いて覚える」ことが基本。 しかし紙を使う場合、ノートを開いて鉛筆と消しゴムを準備する手間や、書いたり消したりを繰り返すことで紙が破けるというストレスがあります。 その点、五線ホワイトボードなら思い立ったらすぐに書いて消せるのが大きな魅力。五線の幅も広めで、幼児でも見やすく、理解しやすい設計です。 さらに音符マグネットを使えば、読む・書く・弾く・並べる・動かす──複数のアプローチから音符に触れられるため、理解がぐっと深まります。黒玉・白玉のマグネットは適度な厚みで、しっかり貼り付くのに動かしやすく、子どもの意識を「音の位置」に自然と集中させてくれます。 「貼るのが楽しくて、つい遊びすぎてしまう」という声もありますが、それも音符に親しんでいる証拠。楽しみながら身体で覚えられるのは、幼児指導において大きなメリットです。 「幼児でも見やすく理解しやすい!」 「読む・書く・弾く以外のアプローチが可能!」 「楽しみながら身体で覚えられる!」 【悩み2】幼児レッスン:楽譜と鍵盤の位置関係がわからない! 「楽譜を使った指導が難しい」 「子供によって音符の理解の個人差が大きい」 ピアノレッスン導入期にあたる3~4歳の子どもは、まだ数や文字に十分慣れておらず、上下や左右といった空間の理解も発達途中です。そのため、楽譜に書かれた音と、実際のピアノの鍵盤の場所を結びつけることは、とても難しい作業になります。 そんな時に役立つのが、この五線ホワイトボードです。A4サイズとA3サイズの2種類があり、A3サイズのほうには五線の下にピアノ鍵盤のイラストが描かれているため、音符を五線に並べながら、同時に鍵盤の位置も確認できます。 A4サイズ。楽譜と一緒にカバンに入るサイズで持ち運びに最適!...

解散危機を乗り越え前に進む「上三坂のヤッチキ踊」(福島県いわき市三和町上)【それでも祭りは続く】

解散危機を乗り越え前に進む「上三坂のヤッチキ踊」(福島県いわき市三和町上)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 きっかけはYouTubeの動画    継承の危機を迎えている郷土芸能に対して、必ずしも地域のメンバーではない人間が個人としてできるサポートにはどのようなものがあるのか。これは、個人的にここ数年考え続けているテーマでもあるのだが、地域の外側から継承に取り組む実践者の一つのロールモデルとして私が参考にしているのが、福島県いわき市を中心に、地域の民俗や芸能についての調査・記録に長年取り組んでいる“地域文化活動家”の江尻浩二郎さんだ。    江尻さんの主要なテーマの一つが、いわき市三和町上三坂地区に伝わる「上三坂のヤッチキ踊」(県指定重要無形民俗文化財)の起源と伝播である。ヤッチキ踊とは、非常に躍動的な動きと、エロチックな歌詞が特徴的な輪踊り。かつては「櫓こわし」とも呼ばれ、踊り子が他所まで遠征して、ヤッチキの激しい踊りでその地域の踊りの輪を崩したと、そんなエピソードも残されている。    この芸能に関して、これまでの記録や調査が非常に少ないなか、江尻さんはコロナ禍以前から丹念に現地や周辺地域、さらには遠く九州や北海道でも聞き取り調査を重ね、さらにリサーチだけにとどまらず、積極的な情報発信やイベント開催などの継承活動に取り組み、いつの間にか、自らも保存会のメンバーとなってしまった。    私がヤッチキ踊のことを知ったのは、まさにこの江尻さんが2020年3月、YouTube上で公開したヤッチキ踊に関する動画がきっかけであった。それまでの調査結果を集大成した、前中後編にわたる大作で、その熱量、面白さに圧倒され、総計3時間以上ある動画も苦もなく視聴できてしまった。    「一体この人は何者だろう」。あまりの衝撃に、動画視聴後、思わず私から連絡を取ったのが交流の始まり。そこから一緒に飲んだり、互いの企画にゲストとして誘い合ったりと、関係はいまも継続している。    江尻さんの出身地は福島県いわき市小名浜である。上三坂も同じいわき市ではあるが、車で1時間ほどの距離にある隔たった地域にあり、つまり上三坂からの人からしたら江尻さんは「部外者」といってもいい存在だ。それでも現地の方と持続的に「良い」関係性を築きつつ、「外」と「内」、その間にある境界線を軽やかにまたぎながら、郷土芸能を盛り立てている。なぜそのようなことが実現できているのか、今回は特別編として、江尻浩二郎さんにヤッチキ踊に関わるようになった経緯から、郷土芸能に対する思いまでお聞きした内容を、インタビュー形式でお届けする。    ※記事中の写真は特に注記のないかぎり、すべて江尻浩二郎氏提供 今回お話を伺った江尻浩二郎さん <プロフィール> 福島県いわき市小名浜出身。地域文化活動家、リサーチャー、ライター。全国放浪後、海外の国際機関に勤務。震災後に帰郷して地元のコミュニティFM、同じく地元の大学非常勤講師を経て、現在はフリーランスとして地域文化・医療・福祉などの分野で活動している。いわき市地域包括ケア推進課によるプロジェクト「igoku」では主にリサーチを担当。県指定重要無形民俗文化財「上三坂ヤッチキ踊」の保存会メンバーでもあり、その記録や継承に地域外から携わっている。 父親から聞かされた津波の話    ――江尻さんが地域の歴史や民俗に興味を持ったきっかけはなんだったんですか?    私の出身地はいわき市の小名浜(おなはま)というところなんですけど、多くの地域と同じく、別に教科書読んでても出てこないし、なんとなく「歴史」って自分とは関係のないTVや本の中のことだと思ってました。でもいま考えれば、私はちっちゃい頃から家族とか親戚とかが語る昔話が妙に好きで、例えば戦争の時みんなであそこに逃げたんだみたいな話を、すごく面白がって聞いてましたね。 江尻さんの故郷、小名浜 その中でも非常に印象的だったのが、小学校3年生だったと思うんですけど、突然親父に出されたクイズでした。簡潔に言うと「小名浜に昔津波が来たとき、富ケ浦(現在は公園整備されている高台)と熊寺(町中にあるお寺)、どちらに逃げた人が助かったか」というものなんですが、正解は熊寺でした。その理由は、私の住む「中島」という地区はかつての中州(島)であり周辺より少し高いということ、そして富ケ浦に行くには川を渡らなければならないんですけど、津波は川を上るので、川を渡る時にみんな流されてしまったということの2点でした。身近な災害の話も衝撃だったんですが、この「自分の住んでいる場所にもその成り立ちや、名も知れぬ多くの人々の暮らしがあった」という感覚が、その後地域に関心を抱く大きなきっかけになったんだと思います。    ――現在、お仕事としては、どのようなことをされているのですか? 歴史の調査などもお仕事としてやられているのでしょうか? 少し前までは、地元の大学の非常勤講師として留学生に日本語や日本文化の授業を行っていましたが、現在は大学を辞めまして、完全にフリーランスです。主にリサーチや執筆、時には文化的なプロジェクトのメンバーとしてお仕事をいただいたりしてます。 いわゆる「歴史」ではなく「民俗」っぽいほうに興味があるので、そういう部分を担当することが多いですね。大きなプロジェクトで言うといわき市の文化事業「いわき潮目文化共創都市づくりの芸術祭に3年間携わったり、また変わったところだと、同じくいわき市の地域包括ケアプロジェクト「igoku」※に2018年から参加してまして、地域の民俗や文化を掘り起こしながら福祉の文脈で記事を執筆したり、調査結果をもとにフェスの企画にも関わったりしています。 ※「地域包括ケア」の推進を目的としたいわき市のコミュニティデザイン・プロジェクト。市職員と地元クリエイターがチームを組んだ「いごく編集部」が、デザインやエンターテインメントを活用して、一般に扱いづらいとされる「老い・病・死」をテーマに情報発信や体験型イベントを実施。住み慣れた地域で自分らしく暮らし続けられる環境づくりを目指している。2019年にグッドデザイン金賞を受賞。    ――いわき市内や、小名浜地域でのツアーガイドなどもされていますよね。以前、僕も参加させていただいた江尻さんが案内する「十十王申す復活プロジェクト」※も面白かったです。ちなみに、郷土芸能にも昔から関心はあったのですか? 20代から日本のあちこちを旅してまして、最初は自分の興味を絞らず、なんでも貪欲に見てやろう聞いてやろうという気持ちだったんですが、そのうち「結局自分は民俗学っぽいものが好きなのかも」と気づきまして。また芸能で言うと、子どものころ一緒に住んでた伯母が家で三味線を弾いてたこともあり、なんかそういう音環境が落ち着くなあと思ったり。で、気づけばどの地域に行っても芸能をチェックするようになり、特に神楽には一時期めちゃくちゃハマりまして、それこそ日本中見て回りました。 ※江戸時代の磐城平(いわきたいら)で行われていた、念仏踊りを伴った巡礼行事「十十王申す(とじゅうおうもうす)」を、現代に復活させる試み。 いわきの城下町周辺に点在する十王堂跡などを徹夜で歩いて巡る市民参加型のまち歩き・巡礼プロジェクトとして展開されている。江尻さんと、大阪府在住のコモンズ・デザイナー・陸奥賢さんとの共同プロジェクト。 鰐浦を見下ろす(長崎県上県郡上対馬町)※現・対馬市上対馬町 大分県豊後高田市に伝わる「ホーランエンヤ」という祭り 銀鏡神楽の風景(宮崎県西都市)...

「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」最終巻発売。 三原善隆がアレンジに込めた思い。

「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」最終巻発売。 三原善隆がアレンジに込めた思い。

唯一無二のサウンドで数多くの名曲・名アレンジを生み出してこられた三原善隆氏。 エレクトーンプレイヤー、作編曲家として活躍する一方で後進の育成にも力を注ぎ、多くの演奏家・クリエイターに影響を与え、常に第一線で活躍し続けてこられました。 2020年4月号より月刊エレクトーンで連載が始まった「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」は、時代を超えて愛され続ける洋楽スタンダード、歌謡曲などを三原氏のオリジナリティ溢れるアレンジで楽しめる人気コーナー。多くの読者に愛されてきましたが、三原氏のご逝去に伴い惜しまれつつ幕を閉じました。 このたび発売される『月刊エレクトーン Presents 三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ3』は、連載で収載されたスコアをまとめた、三原氏が最後まで筆を執り続けた、集大成ともいえる曲集の最終巻となります。 本記事では、第1巻発売当時『月刊エレクトーン2023年10月号』に掲載した三原氏のインタビューを再掲。連載時のエピソード、そして三原氏が語られた楽曲への思いをあらためてお届けします。 この曲集では、弾き手が楽な気持ちで素敵なメロディーや心地良いリズムを楽しめることを一番に考えています。     月刊エレクトーンで連載「弾いておきたいスタンダードアレンジ」が始まったのが2020年4月号。1970 ~ 80年代の名曲をエレクトーンで楽しもう、というコンセプトでした。     70~80年代に僕は井上晴夫、三羽哲郎、飛田君夫ら三氏と一緒に「FUN FUN FUN」曲集のアレンジをしていて、当時の曲もたくさん聴いていました。その記憶の中から、エレクトーンアレンジに向いていると思うものや、今のエレクトーンで演奏するとより効果的だなぁと思うものをピックアップしたり、インターネットでもかなり聴いたりして選曲しました。     多様なリズムや曲想を楽しんでもらえるように、また、月刊誌では2か月続けて似たものが並ばないようにしています。     月始めに次号で何の曲にしたいかを編集部に伝えます。編曲許諾が下りたら本腰を入れてアレンジ開始。楽譜を書く作業自体は実質2日くらいですが、エレクトーンのアレンジをする時は、楽器の音色やどんな機能を使うか、どんなアカンパニメントがハマるか並行して考えますので、楽器を触りながらの作業も入ります。     レジストレーションまで仕上げて編集部に渡すのが20日くらいで、グレード何級程度にするかとか、その他細かいデータ修正、浄書チェックのやり取り等しているうちに月末が近づいてきて、次の曲のことを考えなきゃいけなくなる。     切れ目がない…いや、一部は重なっていますよね(笑)。     原曲は70~80年代のものでも、当時のエレクトーンでアレンジするのと今のエレクトーンでアレンジするのとでは考え方を変えることもしばしば。昔のエレクトーンでは、原曲の雰囲気は保ちながらも、原曲とは違う、エレクトーンでできる伴奏形とプリセットのリズムパターンのやりくりでアレンジを組み立てました。今のエレクトーンはもちろんそれもできますし、アカンパニメントやリズムの打ち込みなどを活用して、より原曲に寄せた形で演奏することもできます。     今回のアレンジも、たまに原曲とは違う感じになっているものもありますが、エレクトーンの機能を生かして原曲のイメージを尊重したものがたくさんあります。エレクトーンでできることの幅が広がって、表現の選択肢が増えたわけですね。     エレクトーンの機能を生かすと言っても、必ずしも機能を大々的に使って豪華に演出するわけではありません。僕自身も気合いを入れて欲張ってアレンジすることもあるのですが、この曲集に関しては、各種機能には縁の下の力持ち的に働いてもらって、自然なサウンドの中で、弾き手が楽な気持ちで素敵なメロディーと綺麗なハーモニー、心地良いリズムを楽しめることを一番に考えています。     誰かに聴いてもらった時にも、豪華なサウンドが印象に残るというよりは、“いい曲だね”“素敵な演奏だね”と曲自体や演奏者の姿が聴く人に一番に伝わればいいなと思います。     その“自然なサウンド”を実現するためにも実は頑張るわけですが、それは水面下の努力ですね。     この曲集は全曲QRコードでエレクトーンの演奏音源を聴けるようにしています。若い方にとっては知らない曲も多いかもしれません。でも、知らない曲も三度聴けば知っている曲になる。ぜひ出会っていただきたい名曲ばかりで、聴いてるだけでも心地よいですね。     実は僕、このエレクトーンの演奏音源を車の運転中に気分よく聴いているんですよ(笑)。     弾いているうちに、“自分だったらこのメロディーは別の音色で歌いたいな”という欲求が出てくるのも良いことですね。ぜひそうやって音色を自分流に変えたりして、曲をどんどん自分のものにしていってください。そういう欲求が生まれるということが、エレクトーンにはとても大切なことだと思います。     読者の皆さんが応援してくださったからこそ月エレの連載も続き、こうして曲集の形でより多くの方に楽しんでいただけるようになりました。本当にありがとうございます。 月刊エレクトーン2023年10月号より 取材・文/森松慶子 プロフィール...

遺影を背負う盆踊り「木江の盆踊り」(広島県豊田郡大崎上島町)【それでも祭りは続く】

遺影を背負う盆踊り「木江の盆踊り」(広島県豊田郡大崎上島町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 地域で故人を弔うという風習    2025年8月、広島県の離島・大崎上島の木江(きのえ)地区で行われている盆踊り「あら盆供養盆踊り大会」に参加した。    当地の盆踊りは一風変わっており、踊りの際にその年、新盆を迎えた故人の遺影を遺族や地域の人が背負って踊る。遺影や位牌を抱えて踊る盆踊りが、瀬戸内地方のいくつかの地域で伝わっているという話はかねてから噂に聞いており、数年前から訪問の機会をうかがっていた。しかし、開催情報というのが世の中にほとんど出回っていない。そのため、二の足を踏んでいたが、このまま機会を逃がしていては、いつかその伝統も絶えてしまうかもしれない。空振りに終わっても、まずは行ってみようということで、ようやく重い腰をあげたのだった。    実際にその盆踊りを目の当たりにすると感動は大きく、自分もこのように弔われたら心地いいだろうなとも思った。旅を終えてから、さっそくその動画をSNSに投稿。すると私同様、感銘を受けた人は多かったようで、多くの反響が寄せられた(Xで2025年12月7日時点で5,346Like)。遺影を背負って盆踊りをするという、ある意味ではショッキングな光景ではある。しかし、多くの反応は好意的なもので(希少な文化への驚き、消えゆく伝統への郷愁、故人を重んじる姿勢への共感など)、この反響もまた、私にとっては印象深いものだった。    しかし肯定的な意見が集まるほどに、私たち日本人の中にある、ある種の引き裂かれるような感覚を意識せずにはいられない。地域で故人を弔う風景に心を温め、憧れのような感情を抱く一方で、現実として、私たちの「死」はいま、地域社会から大きく乖離している。将来、自分自身の葬儀に地域の人が参列してくれると期待できる人は、どれほどいるだろうか。むしろ私たちは、自らの意思で地域住民を葬儀から遠ざけてはいないだろうか。もっと言えば、知人や友人の参列すら望まず、煩わしい儀式を避け、ひっそりと弔う・弔われることを肯定する声も、決して少なくないはずだ。    「日本人」と大きく括ってしまったが、これは私自身の中にある問題意識である。遺影を背負う盆踊りを支えている「弔い」の社会システムに迫ることで、この「引き裂かれた意識」の正体を探ってみたいと思った。 瀬戸内エリア特有の盆踊り文化    旅のレポートに入る前に、大崎上島の盆踊りについて、まず全体像を整理しておきたい。そもそも私がこの盆踊りの存在を知ったのは、木下恵介「大崎上島の盆踊りについて」(『広島商船高等専門学校紀要』2018年 第40巻)という論文がきっかけである。現在、インターネット上で閲覧できる資料の中では、大崎上島の盆踊りを体系的に扱った、ほぼ唯一の資料と言ってよいだろう。    同報告書では、木江地区のほかに矢弓区、原田区の盆踊りも紹介されている。同じ島内でも地区によって盆踊りの形態には多少の違いがあるものの、初盆の霊を供養することを目的としている点、CDやテープといった音源ではなく、音頭取りが「口説き」と呼ばれる物語形式の唄を歌い、それに合わせて踊り子が踊る点は共通している。また地区によっては、盆踊りの最後に手拭いを使った「手拭い踊り」が披露されることや、遺影を手にしたり、背負ったりすることがあるとも記されている。    他の資料も見ると、大崎上島・旧東野町の郷土史である馬場宏著『移りゆくとき ふるさと東野シリーズ7』には、かつて音頭取りが傘をさして口説きを歌ったという話が紹介されている。この様式は、連載第10回で取り上げた沼島(兵庫県南あわじ市)の盆踊りにも通じるものだ。ただし、同書には遺影を背負うといった風俗についての言及は見られない。    ところで、大崎上島以外にも、遺影を用いる盆踊りは存在するのだろうか。調べてみると、いくつか類例が見つかる。たとえば香川県坂出市の「櫃石(ひついし)の盆踊り」では、過去1年間に亡くなった人の位牌を、家族や親戚が布に包んで背負い、交代しながら踊るという。また、愛媛県松山市・怒和島(ぬわじま)の元怒和地区では、盆踊りで遺影を背負うだけでなく、親族同士が仮装して踊る風習もある。この怒和島の盆踊りは、2023年に愛媛朝日テレビが取材しており、その様子は現在もYouTube上の公式映像で視聴できる。映像では、遺影を納めた箱が花などで華やかに飾られ、地元の人びとが明るく故人を送り出そうとする気概が伝わってきた。 愛媛ニュースチャンネル【eat愛媛朝日テレビ】より(2023年8月21日放送)    さらに、インターネット上で個人の発信をたどると、愛媛県松山市・中島、今治市・大三島、大分県津久見市・保戸島などでも、遺影を背負う盆踊りが行われているという記述が見つかる。こうした盆踊りが、瀬戸内エリアの離島を中心に伝承されていることは、たいへん興味深い事実である。遺影や位牌を抱えたり背負ったりする盆踊りが、どのように生まれ、どのような経路で広がっていったのか。深く掘り下げていけば、きっとおもしろい研究テーマとなるだろう。この点については、今後の宿題としたい。    さて、次からいよいよ、大崎上島の盆踊り模様をレポートしていきたいと思う。 レンタサイクルで島を横断    大崎上島へのアクセスは、そこまで困難なものではない。空路や、島に架かる橋がないので、基本はフェリーや高速艇での移動となるが、島内にアクセスできる港は本州や四国に5つもある。いずれも、航行時間は10〜60分程度だ。私は広島県広島市の竹原港からフェリーに乗り、島へ上陸するルートを選んだ。 広島市の竹原港からフェリーで大崎上島へ向かう    大崎上島の周辺には、大小いくつかの島が点在している。なかでも一際大きい「生野島(いくのしま)」は、大崎上島の北端に近接し、竹原港からの航路は、その合間を縫いながら進んでいくよう設定されている。島と島の間を船で分け入っていくような感覚は面白く、始終、私は外のデッキスペースに居座り船の進む先を眺めていた。 フェリーの船上から大崎上島を眺める。右端に見切れているのが生野島 ちょうどお盆の時期であったが、港は帰省で賑わうという様子もなかった    島に到着すると、私は港に隣接する「大崎上島町観光案内所」へと一直線に向かった。島の移動手段として予約していたレンタサイクルを確保するためだ。建物の前に着くと、開け放たれたドアから思いもかけず、盆踊り唄と思しき音楽が聞こえてくる。ああ、やっぱり盆踊りのシーズンなんだな、と実感する。    「今日は、島で盆踊りありますか?」    受付でレンタルの手続きをしながら、スタッフさんに何気なくそう聞いてみると、「盆踊りに興味あるんですか?」と、その表情に笑顔が灯る。それから、事務所にいた観光案内所のスタッフさんが総出になって島の盆踊り情報や、おすすめのスポットを教えてくれた。 2020年設立という、まだ歴史の浅い観光案内所。中に入ると、おしゃれな物産などが並んでいる    話を聞くと、案内所のメンバーの多くは島外からの移住者だという。島の文化に関心が深く、盆踊りについても毎年自分たちで各地に足を運び、情報を集めている。ただ、まだすべての集落を回りきれているわけではなく、木江の盆踊りについては未知の領域だそうだ。そう聞くと、なおさら自分の目で確かめに行きたくなる。    レンタサイクルにまたがり、さっそく木江地区を目指すことにした。だが、その道のりは自転車乗りにとって少々手ごわい。大崎上島は「島」とはいえ、面積は43.11平方キロメートルあり、芸予諸島に点在する有人島の中でも中規模クラスの大きさを誇る(200近くある島々のうち最大は、愛媛県の大三島で64.54平方キロメートル)。しかも目的地の木江の町は、私が上陸した東野地区の白水港から見ると、ほぼ島の反対側に位置している。そこへ向かうには、島の海岸線に沿って延びる環状道路をぐるりと走るか、あるいは最短ルートとして、内陸の丘陵地を山越えしていくか、いずれかの道を選ばなければならない。...

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<後編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<後編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

    10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 第3次予選(10月14日~16日)     10月14日から始まった第3次予選の課題は、従来と大きな違いはなく、第2番と第3番のソナタから1曲とマズルカが必須の課題で、45分~55分の制限時間内に自由曲を弾くことができます。ソナタでは大規模な作品の構築力、マズルカではポーランドの民族舞曲に込められたショパンの想いにどこまで迫れるか、自由な選曲ではピアニストとしてのセンスと能力、そうしたものが問われる厳しいラウンドです。  初日の午前の部に座ったすぐ近くの席に2015年の第2位のシャルル=リシャール・アムランさんがいらっしゃいました。何度かインタビューさせていただいているので、「あなたが出てからもう10年経つんだね」「ちょうどポーランドで演奏会があるので、若い人たちの演奏を聴きに来たんだよ」などとおしゃべりしました。 2015年の第17回ショパン国際ピアノコンクール第2位のシャルル=リシャール・アムランさんと     第3次予選の審査は、審査員がコンテスタントの演奏を聴き終わった直後に提出した点数を、1次10パーセント、2次20パーセント、3次70パーセントの割合で総合して順位を出したとのことです。ファイナリストが10名ではなく11名になったのは、9位から12位の点数が僅差だったため、11名にするかどうか話し合いが行われ、その結果11名になったそうです。結果発表は、これまでのようにほぼ予定時刻通りでしたから、話し合いはスムーズだったのでしょう。     惜しくもファイナルに進めなかったセミファイナリストのなかで、とくに印象に残っている人について書きたいと思います。     なんと言ってもショックだったのは、牛田智大さんがファイナルに進めなかったこと。第1次予選から第3次予選まで、安定した実力を発揮し、真摯にショパンに向き合う清々しい演奏を繰り広げ、聴衆を感動で包みました。とくに第3次予選の《前奏曲Op.45》から《マズルカOP.56》への流れの美しさは心に沁み、さらに《幻想曲》、《ピアノソナタ第3番》で会場全体が彼の演奏に引き込まれていくのを肌で感じました。     前回19歳で参加し、2023年の第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールでは優勝を果たしたエリック・グオさんも残念でした。フォルテピアノの演奏経験を活かした繊細なニュアンスに富んだ表現が魅力的でした。     前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさんも、それぞれタイプは異なりますが、優れたテクニックとのびやかな感性で魅力的な演奏を楽しませてくれました。近年ポーランドで暮らし、エヴァ・ポブウォツカ氏に師事している2人は、流暢なポーランド語を話すことでも話題となりました。     コンクール後に17歳の誕生日を迎える中国のウー・イーファン(Yifan Wu 呉一凡)さんも、ユニークな個性を持つ逸材だと感じました。今後の成長が楽しみな存在です。 ショパンの命日の聖十字架教会でのミサ(10月17日)     ファイナリストが発表された翌日はショパンの命日で、ショパンの心臓が眠る聖十字架教会で、彼の遺言に従ってモーツァルトの《レクイエム》が演奏されます。     ご存知のようにショパンは、1849年10月17日にパリで亡くなり、マドレーヌ寺院で行われた葬儀で、ショパンの遺言によりモーツァルトの《レクイエム》が演奏されました。遺体はパリに埋葬されましたが、「心臓は祖国に持ち帰ってほしい」という彼の願いに従って、姉のルドヴィカが心臓だけをワルシャワに持ち帰り、聖十字架教会の柱の中に収めました。そして、命日のミサでもモーツァルトの《レクイエム》が演奏されるようになったのです。     ショパンコンクールが10月に開催されるようになったのは1970年の第8回大会からですが(それまでは、ショパンの誕生日をはさんで2月から3月にかけて開催されていました)、ファイナルの前日が命日にあたるようスケジュールが組まれています。     例年、オーケストラと合唱で演奏されるモーツァルトの《レクイエム》ですが、今回はピアノ独奏版(リストの弟子カール・クリングヴォルト編曲)をロシアのピアニスト、ヴァディム・ホロデンコが演奏しました。ピアノはピリオド楽器のエラールで、1850年代に製造されたものということでした。     オーケストラと合唱の演奏だと思っていたので、ちょっとびっくりしましたが、生涯にわたってピアノのための作品だけを書き続けたショパンの命日にふさわしいと思いながら、興味深く聴きました。 ショパンの時代のエラールのピアノでモーツァルト《レクイエム》のピアノ独奏版(クリングヴォルト編曲)を演奏するヴァディム・ホロデンコ この日のミサには多くの人が詰めかけ、ショパンの心臓が収められた柱に祈りを捧げていた。三重県の菰野ピアノ歴史館の岩田光義さん(左)、ピアニストの楠原祥子さん(中央)と ピアノ独奏版の楽譜が掲載された冊子が配られた ファイナル(10月18日~20日)     10月18日から3日間にわたって行われたファイナルの課題も、従来と変わりました。これまでファイナリストはピアノ協奏曲の第1番か第2番を選択して、オーケストラと演奏することになっていましたが、今回はそれに加えて晩年の傑作《幻想ポロネーズ》を弾かなければならないのです。協奏曲は、ショパンが20歳前後の若い時期の作品なので、後期の作品を加えて、より深い音楽性、精神性を評価の材料にしたいという意図のようですが、オーケストラがステージ上にスタンバイした状態で《幻想ポロネーズ》を弾くことになり、これは想像以上にファイナリストにとって負担が大きく、オーケストラのメンバーにとっても大変だったようです。     審査は、やはり点数方式で、前のラウンドの得点を、1次10パーセント、2次20パーセント、3次35パーセント、ファイナル35パーセントという割合で合算するとのこと。最終結果の発表が、予定よりはるかに遅れて午前2時半になったのは、「ファイナリストを点数順に並べた後、各順位は3分の2以上の審査員が同意することで確定する」という規定があるためだったとのことでした。そして、その方法では永遠に決まらないので、最終的に点数順そのままの順位を発表することになったようです。     さて、入賞者たちのファイナルでの演奏について、少し書きたいと思います。コンチェルトで共演したのは、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団。指揮は、音楽監督のアンドレ・ボレイコ氏。今回、オーケストラのスコアは、ショパン研究所がショパンの意図をより反映させるべく1年以上にわたる準備を経て再編集したものを使ったとのこと。生前のオリジナル版に最も近く復元され、かつ演奏家のニーズに合わせて編集されたとの説明がありました。聴いていて、あれ? と思った方もいるかもしれませんね。     17歳で第4位になってから10年の歳月を経てショパンコンクールのステージに戻ってきたエリック・ルーさん(アメリカ)は、持ち前の透明感のある美音と内省的なアプローチにさらに磨きがかかり、《幻想ポロネーズ》を味わい深く聴かせてくれました。10年前は第1番のコンチェルトを弾きましたが、今回は第2番。19歳のショパンが初恋に胸をときめかせながら書いた作品に、エリック・ルーさんのピュアで清冽なキャラクターが合っていると感じました。第2楽章のラルゲットの美しさは、まさに絶品。第3楽章のきらめくようなパッセージも生き生きとして素敵でした。コンクール期間中、プレッシャーに押しつぶされそうになって苦しかったと、結果発表の翌日のインタビューで語っていましたが、「それでも、世界中のショパンを愛する人たちの前で自分自身を試したかったのです。受賞は10年間のショパンとの旅のひとつのゴールであり、新たなスタート地点です」とも語ったエリック・ルーさんの今後の活躍が楽しみです。 ファイナルの演奏が終わった直後のエリック・ルーさん。ホッとしたのか、やっと笑顔を見ることができた     第2位のケヴィン・チェンさん(カナダ)は、優れた技巧を活かして《幻想ポロネーズ》、《ピアノ協奏曲第1番》を清々しく聴かせてくれました。ある意味で、第1位のエリック・ルーさんと対照的なキャラクターのピアニストと言ってもいいかもしれません。ショパンの音楽の魅力をくっきりとした輪郭で美しく描き出し、新鮮な印象を残しました。すでに数々のコンクールで優勝に輝いている20歳の俊英が今後どのように発展していくのか、目が離せません。...

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 ワルシャワ到着~オープニング・ガラ・コンサート   ショパンコンクールの取材は、2005年以来5回目。全日程を取材するのは2015年から続けて3回目となります。コロナ禍で開催が1年延期された前回の第18回コンクールでは、鮮烈な個性で躍動感あふれるショパンを聴かせたカナダのブルース・リウが優勝に輝き、我らが日本の“サムライ”こと反田恭平さんが第2位、第17回でもファイナルに進出した小林愛実さんが第4位など、日本人の活躍も目立ち、大きな話題を呼びました。 日本中がショパンコンクールブームに沸いた前回のコンクールから4年、今回はどんなスターが生まれるのか、熱い視線が注がれるなか、10月2日、第19回コンクールが開幕しました。   10月2日の朝ワルシャワに到着した私は、いつも宿泊するフィルハーモニーホールの近くのアパートにチェック・イン。近くのスーパーで水や食糧を買い込み、野菜スープを作ってパンやハム、ソーセージ、チーズと共に食べてホッと一息つきました。ポーランドの野菜、パン、ハム、ソーセージ、チーズなどの乳製品、とっても美味しいのです。3週間の取材中、外食もしましたが、基本は自炊。野菜スープやラタトゥイユを仕込んで、あとは買ったものという感じですが、健康的な食生活を心がけました。コンクールが始まると、モーニング・セッションは朝10時から午後3時近くまで、イヴニング・セッションは午後5時から夜10時近くまでというスケジュールなので、ゆっくり食事を摂る暇がないのです。歩いて5分のアパートの部屋に戻って、くつろいで好きなものを食べるのが一番。とりあえず初日の買い出しと仕込みが終わり、シャワーを浴びて昼寝をして、夜20時からのオープニング・ガラ・コンサートに備えました。   オープニング・ガラ・コンサートは、アンドレ・ボレイコ指揮、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団が、ショパンの《ポロネーズOp.40-1「軍隊」》のオーケストラ版を奏でて幕を開けました。ポーランドの民族の誇りを感じさせる勇壮な演奏で、これから始まるショパンコンクールへの期待が高まったところで、前回の優勝者ブルース・リウが登場してサン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》を演奏。鮮やかなテクニックでエキゾティックな作品の魅力をみずみずしく描き出しました。審査委員長のギャリック・オールソンと審査員のユリアンナ・アヴデーエワによるプーランク《2台のピアノのための協奏曲》のエキサイティングな演奏で会場の熱気はさらに高まり、審査員のダン・タイ・ソンが加わって、新旧の優勝者4人によるJ.S.バッハ《4台のチェンバロのための協奏曲》。典雅な響きを現代のピアノから引き出し、4人の個性が溶け合う素敵なアンサンブルで、祝祭のムードに包まれたコンサートを華やかに締めくくりました。 スタンディング・オベーションで新旧4人の優勝者の演奏を称える聴衆 オープニング・ガラ・コンサート翌日のコンクール情報誌「Kurier」の表紙 オープニング・ガラ・コンサートの会場で、日本人コンテスタントの東海林茉奈さん(中央)、京増修史さん(右)と 第1次予選(10月3日~7日)   10月3日から5日間にわたって開催された第1次予選には84名のコンテスタントが出場し、9月29日のオープニング式典で行われた抽選で、姓の頭文字が「T」のコンテスタントからアルファベット順に演奏することになりました。演奏順についてのルールは今回から変わり、ラウンドごとに6文字後ろにずらして第2次予選は「Z」から始まり、4ラウンドでアルファベットが一巡するとのことでした。   今回は課題曲も従来と少し変わりました。第1次予選は、(1)これまで2曲だったエチュードが技巧的難度の高い5曲のエチュードから1曲、(2)指定されたノクターンまたはゆるやかなテンポのエチュードから1曲、(3)バラード、舟歌、幻想曲から1曲、(4)3つの指定されたワルツから1曲を選択することとなり、ワルツという舞曲の要素が加わったことで、より多様な側面からコンテスタントの能力が評価されることになりました。   今回の公式ピアノは、スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ、ベヒシュタインの5メーカー。コンテスタントは、開幕前にひとり15分ずつセレクションの時間が与えられ、ホールのステージで試弾して自身のパートナーとなるピアノを選びました。ここでもルールに変更があり、これまでは先生や家族などに客席で聴いてもらって考えることができたのですが、今回はひとりで決めなければならず、コンテスタントの多くが、最後まで迷ったと語っていました。フィルハーモニーホールは、ステージと客席で音の聴こえ方が大きく違い、ホールの中でも座る場所によって音響が変わります。最初に選んだピアノはファイナルまで変更が認められないので(これも、前回までは認められました)、皆さん悩んだことと思います。   10月3日午前10時、いよいよコンクールが始まりました。姓のアルファベットの頭文字が「T」からなので、牛田智大さんが3番目に登場し、13名の日本人コンテスタントのトップバッターとなりました。爽やかな表情で舞台に現れた牛田さんは、抒情あふれるノクターン、チャーミングなワルツ、晩年のショパンの心情に迫る《舟歌》など、完成度の高い演奏を披露し、会場から大きな拍手を浴びました。   84名のコンテスタントの第1次予選の演奏を聴いて、とにかく全体のレベルが高く、ここから約半分の40名を選ぶのは大変だなと思いましたが、10月7日の夜11時、予定時刻ぴったりに予選通過者が発表されました。日本人は、桑原志織さん、中川優芽花さん、進藤実優さん、牛田智大さん、山縣美季さんの5名が通過。今回の13名の日本人コンテスタントは、それぞれ多彩な個性と優れた音楽性でショパンへの誠実なアプローチを聴かせてくれたので、結果発表の瞬間は辛い気持ちになりましたが、どのコンテスタントにとっても、この経験は必ず今後のピアニスト人生の糧になることでしょう。   今年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでファイナリストとなった桑原志織さんは、昨年末のルールの変更により予備予選免除で参加資格を得て、悩んだ末に参加を決めたとのことですが、ブゾーニ、ルービンシュタインなど数々の国際コンクールに入賞した実力を発揮し、見事な演奏を繰り広げました。コンクール直前の9月19日には、ブラームス《ピアノ協奏曲第2番》を演奏。ショパンコンクールの準備は大丈夫かしら? とちょっと心配しながら、どんなショパンを聴かせてくれるのか楽しみにしていたのですが、期待以上の素晴らしい演奏でワルシャワの聴衆の心を掴みました。   10代の頃からピアニストとして活躍し、多くのファンがいる牛田智大さん、2021年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝した中川優芽花さん、日本音楽コンクール第1位ほか国内外のコンクールで優秀な成績を収めている山縣美季さん、前回のコンクールでセミファイナルまで進んだ進藤実優さん、いずれも独自の世界を持つ優れたピアニストが第2次予選に駒を進めました。   日本人以外では、前々回(2015年)、当時17歳で第4位となったエリック・ルーさん、前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさん、やはり前回のファイナリストのラオ・ハオさん、ジュネーブ、ルービンシュタインなど参加したコンクールすべてで優勝しているケヴィン・チェンさんなど、注目のコンテスタントたちも順当に通過しました。 第2次予選(10月9日~12日)   第2次予選は、10月9日から12日まで4日間にわたって行われました。このラウンドの課題曲も、従来と変わりました。最も大きな変更点は、《24の前奏曲》を全員が弾かなければならないこと。全曲弾いても、6曲ずつ4つに分けた1組を弾いても構いませんが、とにかく全員が弾かなければなりません。前回まで《24の前奏曲》は、第3次予選で2曲のソナタとの選択で選ぶコンテスタントがいましたが、あまり多くは弾かれていませんでした。バッハの《平均律》に着想を得て、ショパンが自由な筆致で書いた24の宝石のような小曲から成るこの作品は、ピアノ音楽の最高傑作と言ってもいいかもしれません。しかし、多彩な小曲のキャラクターを瞬時に描き分けるのは、ソナタやバラードを弾くのとは違う難しさがあります。このほかに第2次予選で課されたのはポロネーズで、40分~50分の演奏時間内であればそのほかの曲を自由に選択して演奏できます。前回よりも全体の演奏時間が10分長くなったのは、《24の前奏曲》を全曲弾くと約35分かかるためです。この10分長くなった第2次予選は、実際に客席で聴いてかなり長いと感じました。ショパンコンクールを聴くのは体力勝負、審査委員長のギャリック・オールソン氏もコンテスタントの演奏の合間に立ち上がって腰を伸ばしていらっしゃいました。 演奏の合間に腰を伸ばす審査委員長(中央)   しかし、《24の前奏曲》が課され、演奏時間が長くなったため、第2次予選はかなり聴きごたえのあるものとなりました。前奏曲を全曲弾いたのは40名中10名で、30名は6曲を弾いて残った時間を自由に使い、あまり弾かれる機会のない《ピアノソナタ第1番》や、前回の優勝者のブルース・リウが弾いた《「お手をどうぞ」の主題による変奏曲》(ラ・チ・ダレム変奏曲)などを組み入れたユニークなプログラムを聴かせてくれたのです。《ピアノソナタ第1番》がショパンコンクールのステージで演奏されたのは、おそらくコンクール史上初めてではないかと思いますが、今回は3人のコンテスタントが演奏しました。しかも同じ日に! また、ケヴィン・チェンさんは作品10のエチュード全曲を鮮烈なテクニックで演奏し、会場を圧倒しました。   数々の名演が繰り広げられた第2次予選ですが、第3次予選に進めるのは半分の20名。最後のコンテスタントの演奏が終わった数時間後に結果が発表されました。第1次予選も第2次予選も、予定時刻通りの発表でしたが、これは採点と集計のルールが変わり、数字の計算だけだったからのようです。   ここで、今回の審査の採点方式について、少し説明しておきたいと思います。これまでのコンクールでは、各審査員がYes/Noと25点満点の点数を提出していましたが、今回は点数のみの審査となりました。自身の生徒は「S」として審査できないのは従来通りです。各ラウンド、コンテスタントの演奏が終わった時点で点数をつけ、第1次予選はラウンド終了後、第2次、第3次予選は午前と夜のセッション終了後(そのラウンドのすべての演奏を聴いてから調整することはできない)に提出します。また、第2次予選以降のラウンドは、前のラウンドの点数を規定の割合で反映させ、その総合点で順位を決めます。たとえば第2次予選は、1次を30パーセント、2次を70パーセントの割合で総合点を出したそうです。さらに、この採点方式が複雑なのは、審査員の採点が、平均点から大幅にかけ離れている場合(1次は±2点以上、2次、3次は±3点以上)、補正されるとのこと。わかりにくいルールで、審査員も、この採点方式に戸惑った方が多かったようです。海老彰子氏は、「結果的に審査員の評価が平均化される傾向にあり、ユニークな個性を持つコンテスタントが評価されにくかったかもしれません。審査員が何を重視して評価するかはそれぞれ異なり、点数だけでは表せないと思います。個人的には、Yes/Noと点数で審査した従来のやり方の方がよかったと思います」と語っていました。   今回の採点のルールについて詳しく知りたい方は、こちら(英語のサイト)をご覧ください。   さて、第2次予選を通過した日本人コンテスタントは、桑原志織さん、進藤実優さん、牛田智大さんの3名。中川優芽花さん、山縣美季さんは、《24の前奏曲》全曲を、それぞれのアプローチで繊細に表現し、聴衆の反応もよかったので、とても残念です。   そのほか、第3次予選に進めなかったコンテスタントで印象に残った人について書きたいと思います。   台湾のチャン・カイミン(Kai-Min...

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 わずか350名の町民で支えている火祭の困難    祭りの担い手不足という継承課題を支援するため、石川県は2025(令和7)年にボランティア制度「祭りお助け隊」を開始した。前編では県の担当者に取材し、その意義を確認するとともに、実際に支援先となった「向田(こうだ)の火祭」(石川県七尾市・能登島)に参加して、ボランティア活動の様子と祭りの現場をレポートした。 石川県能登島向田    では、祭り主催者には「祭りお助け隊」という取り組みがどう受け止められたのか。後編では、ボランティアの取りまとめ役を務めた火祭実行委員・高橋俊朗さんにインタビュー。祭りお助け隊を導入した経緯について話を伺った。 火祭り実行委員 高橋俊朗さん    まず現在、向田の火祭が抱える継承課題について聞いてみた。    「七尾市には四大祭りと呼ばれる代表的な祭りが四つあります。青柏祭(せいはくさい)、石崎奉燈祭(いっさきほうとうまつり)、お熊甲祭(おくまかぶとまつり)、そして向田の火祭です。向田の火祭は、ほかの三つが複数の町会の連合で行われるのに対し、向田という一つの町だけで執り行われるのが特徴です。あの規模の祭りを、人口350人ほどの町民だけで支えなければいけない、そこが祭りを執行するうえでの難しい点ですね」 デカヤマと呼ばれる巨大な曳山が有名な「青柏祭」    七尾市の公表している人口集計表を見ると、2014(平成26)年1月の能登島向田町の人口は515人、2024(令和6)年1月は398人と、10年で20%近くもの人口減少が起きていることがわかる。この状況で同じような規模の祭りを維持しようとすると、町民一人一人の負担も当然に大きくなってくる。    「例えば、柱松明に使う柴は、住民が総出で集めます。各世帯のノルマは7束です。自分で用意できない家は、近所や親戚に頼んで用意してもらいます。松明起こしなどの重労働も住民が力を合わせて行いますが、どうしても人手を出せない場合は、出不足金を納めれば免除される仕組みもあります。ただ、近年は一人暮らしの高齢者が増え、労働力も資金も負担が難しい世帯が目立ってきています」    また、課題は労働力だけにとどまらない。たとえば、オオナワづくりに欠かせない稲わらの確保も大きな問題だ。現在、火祭で使う稲わらを提供しているのは高橋さんの父である。良質な稲わらを得るため、コンバインではなく手押しのバインダーで刈り取り、さらに「稲架(はさ)掛け」と呼ばれる昔ながらの方法で天日干しを行い、その後に脱穀。こうした手間のかかる工程を経て、稲わらが準備されている。誰でも気軽に引き受けられる仕事ではないからこそ、持続的な稲わら確保の方法も検討していく必要があるだろう。 稲わらの調達を引き受ける高橋さんの父。しかも稲わらは無償での提供だという 「人がいないから祭りはできない」は成り立たない    こういった課題を抱える中で、向田の火祭は震災の起こった2024年、祭りを続けるか否か、大きな岐路に立たされた。高橋さんの話によると、向田は他の地域と比べると比較的地震による被害は少なかったそうだが、やはり「いまは祭りをやっている場合ではない」という声も出てくるようになる。しかし高橋さんの中では、すでにコロナ禍で2年の休止を経験していることもあり、このタイミングでまた休止をしてしまっては、今後の再開はいっそう難しくなるのではという危惧があった。    「地震が起きた2ヵ月後、議決権を持っている51名の住民が集まって、火祭をするか否かという決をとったんです。結果、やりたいという人が27名、やるべきでないという人が24名。まさに紙一重で祭りの実施が決まりました」    この時、開催の方向を決定づけたのは、若い世代の意思だ。    「高校卒業から40歳までの男性が集まった“向田壮年団”という組織があるのですが、彼らが実質的な祭りの実行部隊になるんですね。そんな壮年団の士気が高く、“祭りをやりたい”という声が大きかったんです。ちょうど子育て世代でもあるので、やはり自分の子どもに祭りを見せたいという思いも強くて。壮年団がまとまれば祭りはできるので、彼らをサポートする壮年部(壮年団を卒業した41歳以上の男性が所属する組織)も、そこまで言うのなら我々も手伝おうか、ということになったんです」 柱松明づくりに精を出す壮年団の姿    現在、47歳の高橋さんも壮年部の一員であり、また町会の役員を務めるほか、火祭に関する「祭礼委員」にも関わり、祭りや地域を盛り上げるための、さまざまな取り組みを推進している。    具体策の一つとして、2024年から「応援金(義援金)」の募集を始めた。これまでは、地区内で商売を営む人々に壮年団が寄付をお願いして資金を賄ってきた。だが、地震の影響で商売が立ちゆかなくなり、寄付の確保が難しくなった。そこで、祭りの公式サイトなどを通じて広く応援金を呼びかける方針に切り替えたのである。 祭りの公式サイトに掲載された応援金募集の呼びかけ    また「地域の結束を強め、地縁というリソースを最大限に活用する」という目的で、2025年初頭から電子回覧板サービス「結ネット」を導入した。地域の各種情報をアプリで共有できる機能があり、祭りなどの行事案内もここで発信している。    「電子回覧板のいいところは、紙の回覧板ですと基本的にその家の世帯主しか見ることがないんですけど、アプリで見られるようになれば、子どもたちも情報をチェックできるようになるんですよね。さらには、能登島から離れて住んでいる人たちにも、地域の情報が届くようになる。それで、火祭の日は地元に帰ろうかなとか、現地には行けないけど応援金は出そうかなとか思ってもらえるかもしれないですし、地域行事に関わるきっかけにもつながるんです」    導入には他の役員から反対もあったが、説得を重ねて進めた結果、現在は約100世帯中80世帯が電子回覧板を受け入れるまで、浸透しているという。    そして、今回の祭りお助け隊の取り組みも、やはり高橋さんが中心となって話を進めている。    「今年の4月くらいから、(県職員の)若林さん(連載第15回参照)から祭りお助け隊の話は聞いていて、役員会で“こういう話があるんですけど、どうしますか?”と提案してみたんです。最初は祭りのボランティアというものにみんなアレルギーがあるんじゃないか、これはうちらの祭りだという意見が出るかなと思ったんですが、意外とすんなり話が通って、じゃあ誰が(ボランティアの)面倒を見るんだとなった時に、やるんだったら僕しかいないだろうということで、引き受けました」    では実際に、祭りお助け隊を受け入れて、どういう感想を持ったのだろうか。...

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 能登半島を襲った地震と豪雨    「能登い能登いとヨ みなゆきよ ハー照るよ能登は いいよいかいな 住みヨーエよいかな」(滋賀県伊香郡木之本町)    岐阜県を中心に、長野、滋賀、奈良などの地域に石川県の能登地方について歌い込んだ盆踊り歌が、「能登」「輪島」「笠おどり」など、さまざまな名称で伝わっている。有名なところでいえば、富山県南砺市五箇山地方に伝わる「麦屋節」も、この系統の民謡である。    共通するのは、力強くも、どこか哀愁漂うメロディ。いつしかこの歌を通じて、能登への憧れのような気持ちが、私の中で醸成されていった。    「能登へ能登へと 木草もなびく 能登は木草の 本元だ」(長野県下伊那郡阿南町)    いつか能登を訪れたい、そう思い続けてきた。だが、2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震で、その願いは途切れた。地震は最大震度7を観測し、住家被害は全壊8千棟以上を含む約8万4千棟、避難者は最大で約3万4千人にのぼった。そして、多くの尊い命も失われた。 輪島市堀町における道路被害の状況 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/CC-BY-NC-SA-4.0/    さらに地震の傷も癒えない9月には、能登半島北部を記録的な豪雨が襲い、河川氾濫、浸水被害、土砂災害などが発生。追い打ちをかける形で、被災地への被害をさらに拡大させた。 被災によって4分の3の祭りが実施を断念    地震発生から数カ月が経つと、被災や復興の状況を報じるニュースに混じって、能登の祭りに関する報道も現れはじめた。特に多くの人の関心ごととなったのは、能登半島の各地で7月から9月にかけ開催される「キリコ祭り」の行方だ。    石川県観光戦略課のウェブページ「能登のキリコ祭り」に掲載された観光スペシャルガイド・藤平朝雄氏の解説によれば、キリコ祭りは江戸期に起源をもつ能登一円の灯籠神事で、毎年7〜10月に約200の祭りが行われる。キリコ(切子灯籠)は地域によって「奉燈(ホートー)」「お明かし」とも呼ばれ、神輿の足元を照らす御神燈として担がれたり、押し曳きされたりする。巨大なものは高さ約15m、重さ2〜4tに達する。灯明を「奉る」こと、その日のために精進して「待つ」ことを核に、年に一度、住民と来訪者が一体となって高揚する、まさに能登を象徴する祭りであるという。    祭りの開催には、費用も人手も、そして気力も要る。なかには津波でキリコが流失した地域もある。復興がまだ道半ばの状況で祭りを実施することは決して容易ではない。それでも祭りを待ち望む人はいる。    2024年(令和6年)7月、未曾有の大災害を受けて石川県が策定した「石川県創造的復興プラン」では、能登における祭りの意義について、次のような説明がなされている。 能登には、人々が心を激しく燃やし、地域が一つになる祭りがあります。(中略)能登の祭りは地域のアイデンティティであるとともに、子どもからお年寄りまで幅広い世代が参加することで、地域の結束を高める役割を担っています。祭りが近づくにつれ、道具の 準備や作法の確認、食事の用意など、老若男女問わず皆が忙しくなります。全体の指揮を青年団が執り、そのリーダーは、大人たちから頼られ、子どもたちが憧れる存在です。能登を離れても、祭りの時には地元に帰るという方がとても多く、毎年、年末年始やお盆ではなく、祭りの日に合わせて同窓会が開かれるほどです。(中略)能登の祭りには、地域に関わる全ての人々を魅了し一体にする、激しく燃えるエネルギーがあります。 (石川県「石川県創造的復興プラン」より)    この「創造的復興プラン」では、祭りが“能登らしさ”を体現する重要な柱として大きく位置づけられている。その象徴性ゆえに、震災のあった年は、3カ月続く「キリコ祭り」シーズンの口火を切る能登町・宇出津の「あばれ祭」(例年7月第1金曜日・土曜日開催)が開催できるのか否か、多くの人がその行方を注視することになった。 2024年度開催のあばれ祭 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/ CC-BY-NC-SA-4.0/    過去の報道を追っていくと、2024(令和6)年5月のNHKによる報道で、あばれ祭が例年通り7月に開催されることが決まったと報じられている。地震によって道路や祭りの拠点となる神社の鳥居が壊れるなどし、また安全管理や費用面での問題で開催が危ぶまれたが、祭りの協議会が議論した結果、町の復興につながるという理由から開催が決定したという。    開催に向けて、鳥居の再建や、復興祈願花火大会の開催を目的にしたクラウドファンディングも実施された。祭りのボランティアも集まった。そのように全国へ支援の輪が広がる中で、無事にあばれ祭は開催に至った。しかし、あばれ祭のような幸運な事例もあるが、やはり多くの地域は祭りの開催を断念。被災地では実に4分の3の祭りが開催を見送ることになったという。...

大人のギター倶楽部 presents ライヴレポート 「聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~」

大人のギター倶楽部 presents ライヴレポート 「聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~」

 聖飢魔IIとBABYMETALのジョイントギグ<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>が、8月30日・31日の2日間に亘ってKアリーナ横浜で開催された。実は両アーティストの対バンという話は約10年前の時点であったそうだが、諸般の事情により開催には至らず、聖飢魔IIが地球デビュー35周年期間限定再集結を行った魔暦22(2020)年にも話が出たが、コロナ禍の影響により立ち消えになった。つまり、今回の<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>は足かけ10年を経てようやく実現した公演ということで、聖飢魔IIの構成員、そしてBABYMETALのメンバー共にモチベーションの高い状態で臨んだことは想像に難くない。 そして、邦メタルシーンの二大巨頭ともいえる聖飢魔IIとBABYMETALの競演は、アナウンスされると同時に大きな注目を集めた。両アーティストのファンはもちろん、“観たい!”と思ったリスナーは数知れず、20,000人キャパの横浜Kアリーナにおける2デイズ公演でありながらチケットは瞬時にソールドアウトとなり、両日共に特別席のチケットが追加発売されるほどの大盛況となった。 その理由は、よくわかる。聖飢魔IIとBABYMETALは“ヘヴィメタル”という共通点はあるが、共にシーンの中では異端と呼ばれる存在であり、どちらも強固な世界観を備えている。両者が同じ空間でライヴ(大黒ミサ)を行ったら、どんな化学反応が起きるのだろうと思ったリスナーは多かっただろう。一般的な対バンライヴとは、また違ったものになるに違いないと。自分自身も大きな期待を抱いて、Kアリーナ横浜へと足を運んだ。 8月30日(土) DAY.1『遭遇 -Encounter-』  開演に向けて客席の熱気が徐々に高まっていく中、場内が暗転して<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>の開催に至った経緯のナレーションが入った。 「音楽を媒介にして悪魔教を布教し、地球征服を目指している聖飢魔II。2010年、メタルの神“キツネ様”に召喚された神バンドBABYMETAL。 BABYMETALは“THE ONE”という言葉のもとにバラバラになった世界を1つに纏めると公言。BABYMETALは新しいジャンルのエンターテイメントとして、たちまち世界を席巻した。 聖飢魔IIは10年前の地球視察の際に、この情況を看過できるわけないとして、聖飢魔II結成以来の最大級の問題として扱うこととなった。様子を窺うだけで相まみえることはなかったが、互いに自らのテリトリーを侵すものは許さない。 それから10年が経過し、魔暦27年('25)本日、ついに遭遇する時がきた。敵なのか? 味方なのか? 勝ち残ったほうが、この世の真の支配者となるのか?」 photo by Takahide“THUNDER”Okami 客席から“おおーっ!”という歓声が上がる中、『ゴジラのテーマ』とゴジラの咆哮が響き渡り、 ステージ後方の高所に設置されたサブステージ上に聖飢魔IIの構成員達が姿を現した。楽器陣が奏でる「創世紀」に合わせてステージに棺が運び込まれ、中からデーモン閣下が登場し、大歓声と拍手が湧き起こる。そして、大黒ミサはアップテンポの「1999 Secret Object」で幕を開けた。 身体を揺する怒涛の音圧とタイトさを併せ持ったサウンドが全身に心地いいし、1曲目から華やかなステージングを織り成しながら演奏する構成員達の姿に目を奪われる。現在の聖飢魔IIは地球デビュー40周年期間限定再集結のホールツアーを終えたところだが、同ツアーは全公演ソールドアウトとなった。それも納得できる上質なステージにオーディエンスも熱いリアクションを見せ、大黒ミサが始まると同時に場内のボルテージは一気に高まった。 その後はアッパー&キャッチーな「Jack The Ripper」、ヘヴィなシャッフルチューンの「老害ロック」を続けてプレイ。アリーナ中央まで伸びた花道に力強く立って歌い、圧巻のハイトーンシャウトを決めるデーモン閣下。色気を感じさせる立ち居振る舞いとソリッドなギターワークの取り合わせで魅了するルーク篁参謀。どこかR&Rが香るギタープレイとワイルドなステージングが最高にカッコいいジェイル大橋代官。ベースアンプの前に仁王立ちしてファットなグルーヴを紡いでいく職人的な姿が魅力的なゼノン石川和尚。ドラムセットの後ろから強い存在感を発しながらテクニカルなフィルを織り交ぜたハイレベルなドラミングを展開するライデン湯澤殿下。それぞれが自身の個性を存分に出すことで強固なケミストリーが生まれる辺り、聖飢魔IIはバンドの1つの理想形だなと、あらためて思わずにいられなかった。 デーモン閣下のお馴染みのMC(詳細を書くと問題がありそうなので割愛しますが、閣下が「ミサに向けて、どこの首を洗ってきたんだ?」と問いかけて女性オーディエンスが「〇首ぃー!」と応えたり、青森県南部地方および岩手県地方の紅玉の呼び方を全員に叫ばせたりするというものです)で場内を大いに沸かせた後、中盤では緩急を効かせたリズムアレンジが光る「アダムの林檎」やクールな雰囲気の「Kiss U...

ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

2025年は5年に一度のショパン国際ピアノコンクールの開催年。世界中のピアニストの名演を耳にして、「自分もショパンを弾いてみたい」と思う方も多いのではないでしょうか。そんな初心者や大人の再挑戦にぴったりの、やさしいショパン楽譜を集めた一冊をご紹介します。 やさしい曲を厳選、初心者にも安心 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 楽譜が読めなくても楽しめる!そうちゃんによる「謎解き幻想即興曲」 1. やさしい曲を厳選、初心者にも安心 ショパンといえば「難曲」のイメージがありますが、本書ではやさしく弾ける小品やアレンジ譜を中心に厳選。初心者でも無理なく楽しめるよう、4つのレベルに分けて構成しました。ピアノを始めたばかりの方や、長いブランクのある大人でも「弾けるかも」と思える曲から始められるのが大きな魅力です。 ▲ レベルに合わせた曲を選べるので、初心者でも取り組みやすい! 2. 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 巻頭には、前回のショパンコンクールで活躍した反田恭平さん、小林愛実さん、角野隼斗さんのインタビューも収録。コンクールを振り返るエピソードとともに、彼らの「はじめてのショパン」や「初心者におすすめの1曲」を教えてもらいました。プロの視点で語られる、ショパンを弾く上での演奏アドバイスはピアノ学習者必見です。 ▲ だれがどの曲を「はじめて弾いて」「おすすめ」しているでしょう? 答えは本誌にて! 3. 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 ショパンの人となりや生涯、ゆかりの地、ショパンコンクールのガイドなど、演奏だけでなく“読む楽しさ”も盛り込まれています。人気音楽イラストレーター・やまみちゆかさんによる「ショパンってどんな人?」のほか、全6ページにわたる「第19回ショパン国際ピアノコンクールまるわかりガイド」では、2025年大会の日程や課題曲一覧のほか、舞台裏でサポートに徹するメーカースタッフによる奮闘記まで、ここでしか読めない記事が満載! ▲ 知られざるショパンの姿や、コンクールの珍事件まで幅広く紹介。 4. 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 2024年10月、ニューヨークのモルガン図書館・博物館で新たに発見されたショパンの未発表作品「ワルツ イ短調 遺作(2024年発見)」。長年にわたりショパンのエディション研究に取り組まれてきた岡部玲子先生の監修と解説のもと、本書に楽譜を収録しました。ショパンの新たな響きを、ぜひご自身の手で確かめてみてください。 ▲ 記事ページには岡部玲子先生による解説もたっぷり収録。 5....

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 水になった村「徳山村」    祭りは本来、地域社会の営みであり、その地域の人々だけで行われるのが一般的だ。しかし近年は担い手不足から、地域外の人が参加するケースも増えている。その1つの事例として、著者自身がここ数年「部外者」として参加している、とある地域の郷土芸能活動について紹介したい。その郷土芸能とは、岐阜県揖斐郡(いびぐん)の旧徳山村に伝わる盆踊り「徳山おどり」である。「旧」と付くのは、徳山村という自治体がダム建設によって消滅したためである。    徳山村は岐阜県の最西部、揖斐川流域に位置する集落である。この地に伝わる盆踊り歌に「東にひかえる馬坂(峠)、西は江州(現在の滋賀県)国ざかい、北は越前(福井県と石川県の一部)に連なりて、冠山をば境とし」(括弧内は筆者)と歌われるように、福井県と滋賀県に接し、四方を山々に囲まれた谷間の地であった。 現在、徳山ダムがある岐阜県揖斐郡揖斐川町 ダム湖に沈んだあとの徳山村全景 徳ダムの造成でできた人工湖の「徳山湖」    この地でのダム建設の構想は戦前からあり、水力発電所建設のための調査が断続的に行われていた。戦後の経済発展に伴い、人口の増加と、それに伴う都市用水や電力の確保が課題となり、日本各地で多くのダム建設が計画された。その一環として、1957年(昭和32年)、揖斐川は電源開発株式会社(1952年に制定された「電源開発促進法」に基づき設立された電力会社)の調査河川に指定された。    集落のほとんどが水没するという大規模なダム計画であることが公に明らかになると、当初住民は絶対反対を表明した。しかしその後、補償交渉など紆余曲折があって、ダム計画の正式発表から30年後の1987(昭和62)年に徳山村が閉村、隣接する藤橋村に合併。さらに20年の歳月を経て、2008(平成20)年に、ようやく「徳山ダム」が完成した。    50年という歳月は、あまりにも長い。「いずれ水に沈む村」と見なされた徳山には、ダム完成までの間に民俗学、考古学、生物学など、さまざまな分野の研究者がこの地を訪れ調査を行った。その結果、徳山村に関する本も数多く出版されている。もし徳山村が沈まなければ、これほどの記録が残されることも、この地域が広く世間に知られることもなかったかもしれない。そう考えると、これは皮肉な結果とも言える。 筆者がこれまでに収集した徳山村関連の資料    映像作品を通じて、在りし日の徳山村の姿を確認することもできる。代表的な作品は神山 征二郎監督による『ふるさと』(1983)だ。徳山村戸入地区出身の児童文学作家・平方浩介氏の作品『じいと山のコボたち』を原作とした映画で、徳山村を舞台とし、実際の撮影もダム湖に沈む前の徳山村で行われている。    また、徳山村が廃村となったあと、それでも村に留まって自給自足の生活を送る年寄りたちを取材したドキュメンタリー映画・大西暢夫監督『水になった村』(2007)も、村の人々の地域への深い愛が感じられる素晴らしい作品である。    世間一般的には、“カメラばあちゃん”こと、増山たづ子さんの存在を通じて、徳山村の存在を知った人も多いかもしれない。増山さんは徳山村戸入地区の出身で、この地で民宿を営んでいたが、ダムに沈む前の村の様子を記録しようと、コンパクトカメラで膨大な枚数の写真を撮影。残された写真は生前増山さんと交流のあった研究者・野部博子さんによって管理され、現在でも時折、写真展が開催されている。 2021年に東京都美術館で開催された企画展のメインビジュアルにも、増山たづ子さんが撮影した徳山村の写真が採用された 移転先に受け継がれた徳山おどり    さて、徳山村を離れた住人たちは、親戚などを頼りにまったくの別天地に移り住んだ者もいたが、約70%の人々は、ダム計画の事業主となる水資源開発機構の用意した徳山・文殊・表山・大溝・芝原(すべて本巣市・揖斐川町に存在)の団地に移り住んだ。ちなみに、ここでいう団地とは、一般的にイメージされるアパートやマンションのような集合住宅ではなく、戸建て住宅である。    徳山村といっても、その中には八つの集落があり、それぞれに独自の文化があった。移転先に受け継がれた行事や風習もある。その代表例が、本郷地区で正月に行われていた「元服式」である。現在の成人式にあたるもので、各家庭の子弟が15歳を迎えると、厳粛な儀式を通じて一人前の大人になったことを祝った。 徳山村の集落位置図    徳山村に伝わる盆踊り・徳山おどりもまた、移転先で継承された。集落によって多少の演目の違いや、踊り方の違いはあるものの、徳山の踊りに共通して見られる特徴としては、太鼓や三味線といった鳴り物が入らないこと、音頭取りの生歌で踊ること、踊りの種類が多いこと(全部で11種類)、などの点が挙げられる。徳山の人々はお盆に限らず、何かにつけて一年中踊っていたというし、小学校では必ず「ほっそれ」という踊りを習わされる、また村が解散する際の「お別れ会」でも盆踊りが踊られたということで、村の人々にとって、徳山おどりは生活に密着した、なくてはならない娯楽だったに違いない。 現在伝わる徳山おどりの曲目    それだけに、移転先の各団地でも盆踊り大会が企画され、徳山おどりが踊られたというのも「しかるべし」という話なのであるが、故郷を思い出す懐かしいその行事も、年月が経つと次第に下火になっていったという。その理由はいろいろと考えられるだろうが、地元の人から聞いた話だと、近隣住民から盆踊りに対して「うるさい」というクレームが入ることもあったらしい。    廃れゆく状況に歯止めをかけようと、徳山おどりにもほかの郷土芸能と同じように「保存会」が結成された(徳山踊り保存会)。正確な設立時期は不明だが、現在の保存会会長の小西順二郎さん(通称・じゅんじい)に見せていただいた結成当時のものという役員名簿には「平成12年」「平成13年」という数字が記されており、おそらく2000年前後の結成と考えられる。25年前と聞けば一昔前のように思えるが、郷土芸能の保存会としては比較的新しい団体であると言える。 徳山踊り保存会 会長の小西順二郎さん。徳山村の山手地区の出身    また、この役員名簿には会の「事業計画」も綴じられていた。その中には、「現在11種類の踊りがあるが、先ず理事の方々が代表的な徳山おどりを選び、統一した踊りを習得すること(同じ踊りでも地区毎に多少の違いがある)」「各地区とも踊りよりも先ず音頭とりに一番困っていることと思いますが、理事さん方の一考をお願いしたい処です(中略)音頭とりの育成方法について是非一考を」などの文言がある。当時の住民たちが徳山おどりの保存のため、継承の方法を真剣に模索していた様子がうかがえる。 ニュース記事をきっかけに交流がスタート    私が徳山おどりのことを知ったのは、そこからぐっと時代が下って2018年3月のことになる。当時の私は、盆踊りにハマって全国各地の盆踊りを探訪するようになり、なかでも岐阜県郡上市の郡上おどりや白鳥おどりに特別な魅力を見出していた。そんな中、ネットでたまたま「「ふるさと」の記憶つなぐ――...