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日はまたのぼるか。太陽へ捧げる祈りの踊り「海神の天道念仏」(千葉県船橋市)【それでも祭りは続く】

日はまたのぼるか。太陽へ捧げる祈りの踊り「海神の天道念仏」(千葉県船橋市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 大地に恵みをもたらす太陽への感謝を込めた行事    全国各地の祭りや民俗行事を訪ね歩き、その豊かさに触れるたびに、ふと思う。自分の故郷にも、誰かに誇れる芸能がないものだろうかと。そんなことを考えているときに知ったのが、地元千葉県船橋市に伝わる「天道念仏(てんとうねんぶつ)」だ。    1980年代後半に船橋市内に分布する天道念仏の現況を調査した、船橋市教育委員会『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』(1990)によると、天道念仏とは太陽を「天道様(テントウサマ)」として崇める信仰に根ざした民俗行事であるという。大地に恵みをもたらす太陽への感謝と祈りを込めながら、念仏を唱えつつ踊る(跳躍する)のが特徴で、その伝承圏は、千葉県旧千葉群一帯のほか、茨城県の旧新治(にいはり)群・旧多賀郡、埼玉県東部一帯など、関東一円に及ぶ。そのほか、福島県、長野県の一部にも天道念仏は伝わっているという。いきなり「天道念仏」と言われてもピンとこないが、考えてみれば、最近ではあまり耳にしなくなった「お天道様に顔向けできない」というフレーズも、もとをたどれば同じ太陽信仰に行き着くのだろう。    天道念仏の行事が行われるのは主に旧暦2月中旬、現在の3〜4月頃。冬から春へと季節が移り変わるこの時期に、豊作や養蚕の順調、病害虫除け、そして死者の供養や地域の安寧を願って執り行われる。自然の目覚めに合わせて生命力の復活を祈るという、農村の人々の切実な思いが込められているそうだ。    海神の天道念仏がいつ始まったかは不明だが、かつての千葉県船橋市における天道念仏の様子を伝える絵図が、天保年間(1830〜1844年)に刊行された『江戸名所図会』という書籍に載っている。 『江戸名所図会』に掲載された「天道念佛踊之図」 出典:江戸名所図会 二十』国立国会図書館デジタルコレクション    説明書きには、土を盛った壇の上に竹の柱を四方に設け、中央に大日如来の像を祀るとある。周囲を、浄衣(じょうえ=神事や仏教の儀式で着用される装束)を着た人々が鐘や太鼓を打ち鳴らし、「弥陀の称号」を唱えながら踊る。昼夜を通して祭壇のまわりを回ったという記述もある。絵図に描かれた人々の表情は誰もが笑顔で、天道念仏がただの宗教行事を超えた、娯楽的な側面も強い行事であることも見て取れる。    また絵図では、四隅の竹柱に美しい装飾がほどこされていることが確認できる。この装飾は「ボンデン」と呼ばれ、天から神が降りてくる依り代であり、太陽や宇宙の象徴とも考えられているそうだ。 出羽三山信仰とのつながり    ところで千葉県の天道念仏は、山岳信仰である出羽三山(でわさんざん)との結びつきが深いとされている。出羽三山とは、山形県の中央に位置する羽黒山・月山・湯殿山の総称だ。この三山は修験道の山として古来より信仰され、多くの参拝者を集めてきた。 千葉県八千代市勝田台にある出羽三山碑。登拝した記念に、このような碑を地元に建立する風習がある    千葉県立中央博物館がまとめた「梵天にみる房総の出羽三山信仰」(「千葉の県立博物館デジタルミュージアム」で閲覧可:2026年6月10日現在)によると、千葉県は全国的に見ても出羽三山への信仰が特に盛んな地域であるという。「男は一生に一度は三山(サンヤマ)に行くもの」という意識が根付いており、登拝を果たした者は村で「行人(ぎょうにん)」と呼ばれて敬われた。そして「三山講」「奥州講」「八日講」といった講のメンバーとして、地域の安泰や豊作を祈る行事に参加した。 千葉県船橋市三山(みやま)の奥州講碑。かつてはこの地でも古式ゆかしい天道念仏が行われていたという    船橋市では、この三山講・奥州講のメンバーが天道念仏を担うグループとほぼ重なる例が多く見られる。また儀式の中では「三山拝詞(はいし)」「三山祝詞(のりと)」「湯殿山御法楽」など、出羽三山修験の影響を色濃く残す唱え言も使われる。文化人類学者の鈴木正崇は、『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』所収の論考の中で、『江戸名所図会』に描かれた天道念仏の様子、浄衣を着て宝冠をつけた人々が祭壇のまわりを回る姿は、祭壇を出羽三山に見立て、その登拝を再現・追体験するものに他ならないと指摘している。 ニュース記事で知ったコロナ禍以降休止の事実    かつて船橋市内では多くの天道念仏が行われていたが、今やほぼすべての行事が途絶えてしまったという。2024年3月23日付の船橋よみうりは「消えゆく地域の伝統芸能」と題し、その消息を伝えている。記事によると、市が把握している範囲では、近年まで中野木(なかのき)と海神(かいじん)の二地区に残っていたものの、中野木ではすでに休止が続き、海神でもコロナ禍をきっかけとして2020年以降、休止状態となっているそうだ。    また、メンバーの高齢化、それに伴う担い手不足などの要因で開催の目処が立っていないこと、そのような苦しい状況にも関わらず、何らかの形で再開をしたいと考えていることなど、主催者たちの切実な思いも記事には綴られていた。 海神の天道念仏の消息を伝える新聞記事    実は偶然、私もこの記事が出る数日前に、海神の天道念仏を見ようと現地を訪れていた。開催当日、会場とされる「海神念仏堂」というお堂に向かうと、祭りの気配はおろか、人の気配もない。日付を間違えたか、あるいは行事が中止となってしまったのか、しばらく待つも一向に祭りが始まる様子もないので、あきらめて帰ったのだが、その数ヵ後に件の記事をインターネットで見て、ことの詳細を知ったのだった。 初めて訪れた海神念仏堂はひっそりと静まりかえっていた(2024)    もし行事が再開するのなら、ぜひ見てみたいし、「再開を果たしたい」と考えている地域の人たちの思いも聞いてみたい。そう考えた私は、2026年3月、船橋市の教育委員会を通じて天道念仏の主催者にコンタクトを取り、念仏堂でお話を聞かせていただくことになった。 ヤマトタケルが訪れた半農半漁の村    個人的な話になるが、海神という地名を明確に認識したのは私が中学生の頃だ。当時所属していた軟式テニス部の市大会で「海神中学校」と背中に書かれたユニフォームを見かけ、字面からして「なんだかすごく厳しい地名だな」と思ったことを覚えている。    実際のところ、「海神」という地名が示す通り、この地域と海の結びつきは深い。いまは江戸時代から続く度重なる東京湾岸の埋立事業によって海の気配をまったく感じることはないが、かつて、国道14号の向こうには遠浅の海が広がり、海神は漁業や塩田が営まれる半農半漁の村だった。 念仏堂の最寄駅である、京成線海神駅...

音楽監督としてオーケストラと共に歩む【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

音楽監督としてオーケストラと共に歩む【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 福間洸太朗さんをお迎えして初共演 皆さん、こんにちは! 5月は私が音楽監督を務めるドーム交響楽団の公演のため、フランスはオーヴェルニュ地方に来ていました。今回の公演でソリストにお迎えしたのはピアニストの福間洸太朗さん。福間さんとは数年前に知り合って以来、お互いオランダの住まいが近いこともあり、個人的に親しくさせていただいていましたが、実は今回が初共演。国際的に活躍する福間さんの演奏を、オーヴェルニュの人々に聴いていただける日をずっと楽しみにしていました。 今回共演した福間洸太朗さんとピュイ・ド・ドームの山頂にて。手に持っているのは公演のチラシ。 この日はオフを利用して、福間さんやオケのメンバーと一緒に登山しました! 福間さんが演奏したのは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第4番。ピアノ協奏曲のなかでもとりわけ難易度が高く、ピアノにもオーケストラにも非常に高度なテクニックが求められる難曲です。そのため2番や3番に比べて演奏される機会は少ないですが、作曲家の新しい試みが随所に盛り込まれていて、演奏するたびにたくさんの発見があります。福間さんもかねてからこの曲が大好きだったそうで、とても意欲的に取り組んでくださいました。 公演は会場を変えて3日間行われましたが、いずれも大盛況! 素晴らしい演奏を披露してくださった福間さんの音楽性と人間性、そして流暢なフランス語は、オーヴェルニュの聴衆だけでなくオーケストラの団員をもすっかり魅了してしまいました。私も、わがドーム交響楽団に尊敬する友人・福間さんをお招きし、一緒に音楽を作り上げる時間を共有することができて胸がいっぱいになりました。 福間さんの演奏に、オーヴェルニュの聴衆は大盛り上がり! ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第4番」を熱演し、会場の熱い拍手に応える福間さん。 オーヴェルニュ地方は「この世のパラダイス」 ドーム交響楽団の本拠地は、オーヴェルニュ地方の豊かな自然に恵まれた街クレルモン=フェランにあります。この地域には世界遺産にも登録されている「シェーヌ・ド・ピュイ」というユーラシア大陸最古の休火山群があり、温泉湧出地としても有名。日本でも「ボルヴィック」というミネラルウォーターが売っていますよね? あれはオーヴェルニュが水源なんですよ。それからタイヤメーカーのミシュラン。「ミシュランガイド」といった方が馴染みのある方が多いでしょうか。ミシュランの本社もここ、クレルモン=フェランにあります。 ドーム交響楽団の本拠地、クレルモン=フェランの街並み。 街中でひときわ目を引く大聖堂。シェーヌ・ド・ピュイ火山群の溶岩から作られたため、こんな黒い色をしています。 フランスのどの都市もだいたいパリからTGV(テージェーヴェー、フランスの高速鉄道)で行けるのですが、クレルモン=フェランだけはTGVが通っていない! ですから、いつもパリから特急電車で4時間弱(!)かけて移動します。大変ですが、駅に降り立った瞬間に体に染みわたる澄んだ空気は格別です。私は小さい頃から大阪で金剛山や六甲山を見て育ったせいか、遠くに山並みが見えると落ち着くんです。だからここへ来るといつもホッとします。「フランスでもっとも開発の遅れた地域」なんて言われていますが、私からすれば「この世のパラダイス」です。 福間さんたちと登ったピュイ・ド・ドームからの眺望。 ここは火山灰を含んだ肥沃な土地のおかげで、農業や畜産がとてもさかんです。山のあちこちに牛や羊が放牧されていて、牛肉やチーズの生産地としても有名です。マッシュポテトにたっぷりチーズをねりこんだ「アリゴ」、ソーセージやハムを野菜と一緒に煮込んだ「ポテ」など、この地ならではの郷土料理がたくさんあります。水も空気も食べ物も美味しい。まさに「この世のパラダイス」でしょう?(笑) オーヴェルニュで有名なチーズ(サンネクテール、サレール、フルム・ダンベール……) 私が音楽監督になった経緯 ドーム交響楽団は今から40年ほど前にこの地で生まれたプロオーケストラです。私は2022年に音楽監督に就任しましたが、その前任者が創設者です。彼はもともと作曲家としてこの地の音楽院で教えていたのですが、音楽院に勤める先生たちがオーケストラで演奏する機会がないのを見て、オーケストラの創設を思い立ったといいます。というのも、オーヴェルニュ地方には国立オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ管弦楽団という国内屈指のレベルを誇る演奏団体があるのですが、「音楽院の先生は採用しない」という方針を採っているのです。おそらく「教師とプロ・プレイヤーは両立できない」という考え方なのでしょう。 当時20代だった創設者は、音楽院の先生たちにもオケでしかできないレパートリーや演奏経験を拡げる媒体が必要だと考えました。また、オーヴェルニュの音楽好きな住民に、クラシック音楽を聴く場を提供したいという思いもあったようです。そして、最初は地域の志ある演奏家を集めてボランティアのようなかたちで始まったのが、少しずつ体制を整えながら現在のようなプロオーケストラに至ったというわけです。 私は、創設者にたまたま日本人の教え子がいたことがきっかけで彼と知り合ったのですが、あるときドーム交響楽団で客演予定だった指揮者が出演できなくなり、急遽代演を務めたことがありました。その公演はとてもうまくいって、オケもお客さんも喜んでくださったし、私も良い思い出になったなぁと思っていたら、「また次回も来てほしい」と。それで何度か客演することが続いたあと、「音楽監督になっていただきたい」というオファーをいただいたのでした。そして2022年には音楽監督に、2024年には芸術監督も兼任するかたちで就任することとなりました。 本来なら、地元に住んでいる指揮者から選ぶべきなのでしょう。実際、オーケストラの経営陣からは、そのような声もあったようです。たしかに私はオーヴェルニュどころかフランスにすら住んでいないですし、一年中世界のあちこちを移動していて、オーヴェルニュに来られる機会は限られています。けれど、それでも私を音楽監督として迎えたいと思ってくださった方が多数いたのだそうです。しかも、「加奈子がオーヴェルニュに来られる範囲で演奏会を開催しましょう」とまで提案してくださった。そんな風に思ってもらえたことがとても嬉しかったですね。 「変えるべきこと」と「変えないこと」 とはいえ、創設から40年以上も同じ人の下で運営されてきたオーケストラですから、やることは山積みです。就任後、最初に着手したのは地元の音楽院・音楽学校との提携です。演奏会に出演するソリストを音楽院に招いてマスタークラスを開催したり、私が音楽院に出向いて演奏会で取り上げる曲の解説を行うなど、地域の音楽教育の推進につながる機会をドーム交響楽団として提供する代わりに、音楽院のホールや楽譜などの貸し出しを優遇してもらうような協力関係を作りたいと思いました。 また、オーケストラに関しても課題は山積みです。私が就任するまでは、創設者が地元の顔のような存在でした。地元企業や支援者とのつながりも、彼のキャラクターでもっていたような部分もあります。彼が引退したことで、これまでのお客さんがオーケストラから離れていってしまうような事態は避けなければなりません。そのためには、オーケストラ自体、つまり「ドーム交響楽団」にしっかりと聴衆がつくことが重要です。また、メンバーの平均年齢も高齢化しているので、若手を入れて育てていくことも考えなければなりません。 しかし、どんどん改革を進めてゆくのが果たして良いことなのかどうかは悩むところです。「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」なんて言葉もありますよね。40年以上、家族のようにやってきたオーケストラですから、急激な変化に不安を感じる人もいるでしょう。やらなければならないことはたくさんありますが、あまり自分のビジョンにこだわらず、長いスパンでとらえていくのが大事かなと思っています。ある意味、いまは「変えるべきこと」と「変えないこと」のさじ加減を見定めているところと言えるかもしれません。 ドーム交響楽団の個性 ドーム交響楽団の音の個性をひと言で表すなら、「熱い」。普通のプロオケと違って年間の演奏回数が少ないので、一つ一つの公演にかける熱量が高いんです。それから、ラテン気質というのか、音のカラーがとても明るい。「明るい」といってもペンキで厚塗りしたようなビビッドカラーではなくて、透明感のある虹のような色合い。だから明るいのに空気を含んだように軽いんです。オケの創設者は作曲家でもあり、自作曲もよく演奏していたので、新しい曲に対する抵抗が少ないのも良いところですね。彼らの持ち味を生かしつつ、少しずつ新しいレパートリーも広げていきたいと思っています。そして、いつか日本へ連れて行って、皆さんにドーム交響楽団の音楽を聴いていただけたら最高です! その日を夢見て、一歩ずつ精進していきたいと思います。(了) 本連載は今回が最終回となります。連載をまとめた書籍は今秋出版予定。ぜひ楽しみにしていてください!(編集部)...

ソルフェージュってこんなに面白いんです! 先生も生徒も楽しくなって「できた!」があふれる!『生徒が変わる!新しいソルフェージュ指導の教科書』

ソルフェージュってこんなに面白いんです! 先生も生徒も楽しくなって「できた!」があふれる!『生徒が変わる!新しいソルフェージュ指導の教科書』

「生徒がなかなか上達しない」「楽譜を読んでくれない」……そんな現場の先生のお悩みに解決策を提案する書籍、 『生徒が変わる!新しいソルフェージュ指導の教科書』。 ピアノの先生にもっとご活用いただくための、本書の使い方のコツを、著者の尾島未佳先生に伺いました。 |ソルフェージュの指導の難しさとは? ポイント①自信がある先生は5%だけ ポイント②音符はひらがなと同じ? |生徒が夢中になるレッスンとは? ポイント①問いかけはオープン・クエスチョン!? ポイント②コミュニケーションができる関係を築く |先生のお悩みTOP5と、その解決策! Q①:生徒が宿題をやってこない……。 Q②:10回教えても、できるようにならない……。 Q③:保護者に、 ソルフェージュの重要性をわかってもらえない……。 Q④:レッスン内容が生徒にとって役立っているかわからない……。 Q⑤:市場のソルフェージュ教本は、 どう教えたらいいかわからない……。 |自作テキストを作成するときのポイント ポイント①生徒にどんな力を身につけてもらいたいのかを考えながら作る ポイント②生徒自身に考えさせる構成にする ポイント③わくわくするデザインで、 積極的に取り組みやすくする |本記事で紹介した書籍 1|ソルフェージュ指導の難しさとは? ポイント①自信がある先生は5%だけ ある論文によると、 現場の先生の中でソルフェージュ指導に自信がある方は5%ぐらいなのだそうです。つまり、95%の人は指導に自信がないとも言えます。 その原因として、 ご自身は苦労せずにソルフェージュを身につけられた先生は、生徒の「できない理由」がわからないということが挙げられます。 また、先生自身がソルフェージュを好きでない場合、あまり積極的にレッスンに取り入れないということもあるでしょう。 そういった理由でソルフェージュレッスンを積極的に研究せず、結果として自信を失っている先生は多くいるのです。...

日本復帰後の発展から生まれた「奄美まつり」(鹿児島県奄美市)【それでも祭りは続く】

日本復帰後の発展から生まれた「奄美まつり」(鹿児島県奄美市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 祭りを求めて南の島へ    飛行機は高度を落とし、島の海岸線に沿うように進んでいく。眼下には、濃淡の異なる青が幾重にも重なった海が広がり、白波がサンゴ礁の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。機体の翼越しに、島の緑が次第に近づいてくる。陸地は彼方へと続いており、一見すると島という感じがしない。さすが「大島」というだけはあるなと、妙に感心する。 海の美しさに南国を感じる    鹿児島県本土の南方海上、距離としては約380kmの地点に位置する奄美大島(鹿児島県奄美市)。8つの有人島で構成される奄美群島の中でも最大の面積(712.39平方キロメートル)を誇り、東京23区の大きさを上回る。それだけの大きさであるが、航空写真で島全体を見渡すと平野部は少なく、緑の豊かさが際立つ。実に島の約80%が山地で占められるそうだ。    気候としては、高温多湿の「亜熱帯」。年間降水量は約3,000mmにものぼり、その豊かな雨量、温暖な気候によって亜熱帯多雨林、マングローブ林などの独特の植生が形成されている。また、そこに生息する多様な動植物が世界的にも高く評価されており、2021(令和3)年7月には、奄美大島をはじめ、徳之島、沖縄本島北部、西表島とともに、世界自然遺産に登録された。こうした豊かな自然を舞台にしたエコツアー、カヌー、ダイビングなどのアクティビティは、奄美大島観光の大きな柱のひとつとなっている。 マングローブの中をカヌーで探検するツアー 提供:奄美市 国内希少野生動植物種に指定されているアマミノクロウサギ 提供:奄美市    私が「奄美」について興味を持ったのは、数年前にSNSで流れてきた祭りの動画がきっかけだった。繁華街のような場所で一心不乱に輪踊りに興じる人々の映像。浴衣や法被を着て踊る姿は、盆踊り好きの私にとっては見慣れた光景だったが、その歌の旋律や歌詞は、まったく聞き慣れないものだった。    調べてみると、それは鹿児島県奄美市で行われている「奄美まつり」という市民まつりの一環で、「八月踊り」というイベントらしい。画面越しにも伝わる熱気に心が持っていかれる。奄美は、九州地方にすらほとんど足を踏み入れたことのない私にとって想像も及ばない未知のエリアだ。最果てのようなイメージがあったが、調べてみると羽田・成田空港から直通便も出ていて、フライト時間はわずか2時間半。意外に近いのだ。    沖縄には本土とは違った独自の文化が存在することはなんとなく認識していたが、ではその中間地点にある奄美にはどのような文化があり、そして芸能が根付いているのだろうか。好奇心に駆られた私は2025年の夏、奄美大島へと向かうことにした。 奄美大島の中核都市・名瀬の発展    空港からバスに乗り、1時間ほどかけて島の中心地・名瀬(なぜ)※へ向かう。名瀬は行政・産業・商業など、島の主要な機関や施設が集まる中心地で、市街地エリアは奄美まつりの開催地にもなっている。 ※「なせ」と読むケースもある バスから撮影した島北部の海岸    バスを降り周辺を散策してみると、思っていた以上の繁栄ぶりに驚く。アーケード商店街、飲み屋街、コンビニ、24時間営業のスーパーマーケット、極め付けにはイオンもある。要するに「島」と呼ぶには、あまりにも都会すぎるのだ。 名瀬市街地にあるアーケード商店街 飲み屋が並ぶ、歓楽街の屋仁川(やにがわ)通り ミスドもある 奄美大島の郷土料理「鶏飯(けいはん)」。ごはんに鶏肉や錦糸卵、パパイヤなどを載せ、鶏ガラスープをかけて食べる    奄美大島は歴史的に、琉球国、薩摩藩、アメリカなど、さまざまな統治者のもとに置かれてきた。駒澤大学教授で人文地理学を専門とする須山聡によれば、名瀬の都市化は薩摩藩統治期に、「代官仮屋」が奄美大島北部の赤木名から名瀬(現在の矢之脇町)へ移転したことに端を発するという。代官仮屋とは、薩摩藩から派遣された役人が駐在する統治の拠点である。 以下では、須山の論考『奄美大島,名瀬の都市景観の特徴 ─ 景観レイヤーを用いた総合 ─』を手がかりに、奄美まつりの拠点となる名瀬がどのように発展してきたのか、その歩みを簡単に整理してみたい。    1871(明治4)年の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県となると、件の代官仮屋も1875(明治8)年に廃止となった。しかし、その跡地は以降も監獄・裁判所など政治関連施設の用地として利用され続けている。1906(明治39)年の火災をきっかけに、庁舎は名瀬市街地西部の金久町へ移された。その後、島の行政機能はおがみ山山麓に集約されることになるが、現在の名瀬市街地エリアが島の政治的中心地であるという位置づけは、薩摩藩統治時代から現在に至るまで変わっていない。    名瀬の経済的発展の歴史に着目すると、明治以降、本土から「寄留商人(きりゅうしょうにん)」と呼ばれる外来商人が名瀬に進出してきたことがその契機となっている。彼らが名瀬に店舗を構えて経済活動を主導したことで、それまで島の特産である黒糖による物々交換に近い状態から、貨幣経済が本格的に導入され、商業空間が形成されるに至った。 大正時代の名瀬町 提供:奄美市 CC...

“悪魔”は仕事も家庭も諦めなかった! シングルファーザー・パガニーニ ~『漫画 パガニーニ』ミニライブ&トークイベントレポートin ヤマハミュージック横浜みなとみらい~

“悪魔”は仕事も家庭も諦めなかった! シングルファーザー・パガニーニ ~『漫画 パガニーニ』ミニライブ&トークイベントレポートin ヤマハミュージック横浜みなとみらい~

  記録的な大雪となった2026年2月8日。ヤマハミュージック横浜みなとみらいで開催された『漫画 パガニーニ』ミニライブ&トークイベントは、悪天候にもかかわらず多くの観客が集い、濃密で忘れがたい音楽体験を生み出した。雪景色の中で鳴り響いた一日限りの“悪魔の旋律”を、現地の熱気とともに振り返る。 大雪の午後、小さな会場に集まった熱  この日行われたのは、やまみちゆかさんの話題作『漫画 パガニーニ ~悪魔と呼ばれた超絶技巧ヴァイオリニスト~』の世界を、国内外で活躍するヴァイオリニスト・對馬佳祐(つしま・けいすけ)さんとの生演奏で味わうミニライブ&トークイベント。パガニーニをきっかけにSNSで交流を深めてきた二人が、特別なステージを届けた。  会場に足を踏み入れると、予想以上に多くの来場者が集まっていた。開演10分前には30席が満席となり、立ち見客も出るほど。大雪の不安を押して集まった人々の熱気が、会場にじんわりと広がっていった。 ▲雪に包まれ、ランドマークタワーもかすむ当日朝の横浜の街並み。 漫画の世界から現れた“悪魔”  開演とともに、スクリーンには『漫画 パガニーニ』冒頭のコマが映し出された。19世紀ヨーロッパを席巻した鬼才と、その演奏に熱狂する聴衆たち。迫力ある漫画のワンシーンとともに對馬さんが登場し、静かにヴァイオリンを構える。  幕開けは、パガニーニ作曲『24の奇想曲』より第24番。1音目が鳴った瞬間、空気が変わった。音が“届く”のではなく、“触れる”ように迫ってくる。スクリーンに映し出された漫画の世界と、生のヴァイオリンの響きが重なり、客席はまるで19世紀の劇場に立ち会っているかのような感覚に包まれた。 ▲リハーサルのひととき。まるでパガニーニが蘇ったかのような對馬さんの演奏。 言葉で浮かび上がるパガニーニの素顔  演奏後、会場は大きな拍手に包まれた。司会に招かれ、對馬さんに加えてやまみちさんもステージへ。演奏の余韻を受け継ぐように、ここからはパガニーニの人物像に迫るトークが展開された。世間には「悪魔」「ギャンブル中毒」「金に汚い」といった強烈なイメージも残る。そんな人物を、やまみちさんはなぜ漫画で描こうと思ったのか。 「悪評ばかりが先行していますが、調べれば調べるほど息子を大切にしていたり、周囲への愛情が見えてくる。たとえば、パガニーニがヨーロッパツアーをしていたとき、彼はシングルファーザーで、息子を抱えながら会場から会場へと渡り歩いていました。そのギャップに惹かれてしまったんです。今日のイベントで、パガニーニの本当の姿を知ってもらえたら嬉しいです」笑顔を添える言葉に、客席にも柔らかな笑みが広がり、遠い偉人がぐっと身近に感じられる瞬間が生まれた。 ▲やまみちさんの“パガ愛”あふれるトークに聴き入る会場。 超絶技巧の秘密――奏法解説コーナー  続いては、ヴァイオリン奏法解説のコーナーへ。パガニーニが編み出したといわれる特殊奏法として、「重音」「ハーモニクス」「左手ピツィカート」の3つが紹介された。まず取り上げられたのは「重音」。本来ヴァイオリンは歌のように単旋律で奏でられる楽器だが、パガニーニは複数の弦を同時に押さえ、音を重ねて鳴らす奏法を発展させたという。次に紹介されたのは「ハーモニクス」。弦に軽く触れて弾くことで、笛のように澄んだ響きを生み出す倍音奏法だ。そして「左手ピツィカート」は、弓で旋律を奏でながら左手で弦をはじき伴奏を加える、一人二役のような技巧。對馬さんがさらりと実演すると、客席からは「おお……!」と感嘆の声が漏れた。技巧が“難しい技”ではなく、“音楽を語る言葉”として立ち上がる瞬間。観客は鮮やかな実演にすっかりくぎ付けになっていた。 リストとシューマン――時代を動かした影響力  話題は音楽史へと広がる。パガニーニの衝撃はヴァイオリン界にとどまらず、他の作曲家たちの人生観さえ揺さぶった。リストは「俺はピアノのパガニーニになる!」と宣言し、超絶技巧作品を次々と生み出す。その象徴が「ラ・カンパネラ」だ。「この曲、リストの曲だと思っている人が多いんですけど、もともとはパガニーニの曲なんです。今日はこれを覚えて帰ってくださいね!」やまみちさんの熱弁に、会場は笑いに包まれた。さらにシューマンもまた、若き日にパガニーニの演奏に衝撃を受け、音楽の道を選んだという。紹介されたのは『パガニーニの奇想曲による6つの練習曲』より第2番。やまみちさんがピアノで一節を披露したあと、本家本元、パガニーニ『24の奇想曲』より第9番《狩》を對馬さんが演奏。超絶技巧が惜しみなく登場しながらも音楽は軽やかに歌い、会場は大きな熱気に包まれた。 ▲リストのイラストとともに、パガニーニが与えた影響を垣間見る。 終盤に響いた“歌うパガニーニ”  ライブもいよいよ終盤。「誤解されてきたパガニーニを、少しでも好きになって、私と一緒に“パガ推し”してくれる方が増えたら嬉しいです」やまみちさんの言葉に、温かな拍手が起こる。  最後に演奏されたのは、パガニーニの「カンタービレ」。對馬さんは「超絶技巧の陰に隠れがちだが、真骨頂は“歌う旋律”にもある」と語る。ここでサプライズとして、やまみちさんがピアノで参加しデュオ演奏が実現。「やまみち先生のピアノ演奏が見られるのはここだけですよ!」と對馬さんが煽ると、「やめてください(笑)」という軽妙なやり取りに会場から笑いがこぼれた。  「カンタービレ」は、先の超絶技巧が映える演奏とは異なり、まるで歌のような穏やかな旋律が紡がれる。そこには、息子を愛し周囲を慈しむパガニーニの人柄が現れているようだった。音楽に合わせてスクリーンに親子の温かなワンシーンが映し出されると、涙ぐむ観客の姿も見られた。外の雪はすっかり止み、音楽の温かさだけが会場を包み込んでいた。 ▲パガニーニと息子アキーレ。親子の物語にも注目です。 サイン会、そして現代に響くパガニーニ  終演後のサイン会には来場者が列を作った。小学生からシニア世代まで幅広い年齢の方が集い、雪の中、静岡や福岡から足を運んだ人もいたという。二人は一人ひとりに丁寧に応対し、「楽しかったです」という言葉に心からの喜びが滲んでいた。...

「作曲」を通じて新たに学んだこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「作曲」を通じて新たに学んだこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 阿部家恒例のランチタイムショー 皆さん、こんにちは! 前回の更新からすっかりご無沙汰してしまいました。 2026年が始まってはやくもふた月が過ぎましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。 今回、私は年末年始を大阪の実家で家族と過ごしました。両親が主宰する音楽企画会社「あべぷらん」による毎年恒例のランチタイムショーに、私もスペシャルゲストとして出演することになっていたからです。連載の第3回でもちょっと触れましたが、私の両親は合唱指揮者で、現在も合唱団を指揮したり指導したりして夫婦で活動を続けています。両親とその教え子や合唱団メンバーが出演する、歌あり演奏あり寸劇ありというアットホームなコンサートなのですが、昨年はちょうど創立25周年ということもあり、普段は「忙しいから」と免除してもらっていた私もステージに駆り出されることになったのでした。 阿部家恒例のランチタイムショー。左から妹、母、私、父。 私が出演したのは寸劇「ながらづか歌劇団」。説明するまでもないと思いますが、宝塚歌劇団のパロディです(笑)。演じるのは「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」。いつまでたっても曲が書けない!といってピアノをガンガン叩きながら焦っているところへ、妹演じる「長良須磨歩(ながらスマホ)」が現れて、一緒に歌ったり踊ったりしているうちに曲がひらめき、「笑点」のテーマをラフマニノフ風に弾いてめでたしめでたしというオチ(笑)。最後は本家の歌劇団さながら、出演者一同で花を持ってシャンシャンするところまでやりました。会場は終始大爆笑。ちなみに台本を書いているのも妹です。この「ながらづか歌劇団」、長年ランチタイムショーの人気寸劇となっております。こんなことを毎年やっているんですよ。阿部家がいかにオモロい一家であるか、おわかりいただけるでしょうか? 「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」役の私と、「長良須磨歩(ながらスマホ)」を演じる妹(右)。 作曲のことを考え続けた一年 そんな寸劇を笑って演じられるのも、昨年一番の大仕事を無事完遂したから。11月に横浜みなとみらいホールで行われた特別演奏会「オルガン“LUCY”プロジェクト」のことです。横浜みなとみらいホールからの委嘱による私の新曲《風の睦(むつ)び~オルガンとオーケストラのための3章》に、ドビュッシーの交響詩《海》とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」というフレンチ・プログラム。偉大な作曲家の名作に加えて自作の世界初演も指揮するという大役を拝命し、2025年は指揮の仕事と並行していつも作曲のことを考え続けていた一年でした。 “LUCY(ルーシー)”というのは、横浜みなとみらいホールに開館以来設置されているオルガンの愛称。開港の街・横浜は、実は「日本初のパイプオルガン建造の地」として歴史的にもこの楽器と縁の深い街なのです。日本に入ってきた当時、パイプオルガンは「風琴」と呼ばれていました。私はそこに着想を得て、歴史と共に目まぐるしく変容する「横浜の街」と、その姿をたゆまずに見守り続けてきた「風」との関係をオーケストラとオルガンになぞらえ、両者の「睦び(交流、交遊)」の姿を全3楽章構成で描こうと思ったのでした。 正面に鎮座するのは横浜みなとみらいホールのシンボル、パイプオルガンの“LUCY(ルーシー)” 写真:©藤本史昭 もちろんパイプオルガンの入る曲を作曲するのは初めてですから、ホール・オルガニストの近藤岳さんにあらかじめ奏法や音域などについて、じっくりレクチャーをしてもらいました。パイプオルガンというのは、設置されているホールも含めて一つの大きな「楽器」なんです。近藤さんにあれこれ質問を投げかけてはその場で実演していただいたおかげで、ホールの響きも含めたパイプオルガンの音色をしっかり耳に焼き付けることができました。 超絶技巧を披露してくださったオルガニストの近藤岳さん。実は、大学時代の優秀な同級生! 私は基本的に根が「大阪のオバチャン」なので(笑)、サービス精神旺盛というか、何か依頼を受けると自分にどんなことが求められているんだろう?ということをすごく考えるんです。LUCYは横浜みなとみらいホールのシンボルですから、オルガンが一番映えるにはどうしたらいいかな?とか、地元の人に「この街に住んでいてよかった」と思ってもらうにはどうすればいいかな?とか。少しでも多くの人の期待に応えられる方向性を見いだすまで、時間をかけて考えました。 方向性やコンセプトが決まった時点で、全体の大まかな構造や楽器編成、音のイメージもだいたい見えてきます。あとは頭の中にあるイメージの細部を具体化していくのですが、これを普段の指揮の仕事と並行して進めるのはなかなか骨の折れることでした。同じ忙しさでも、全部指揮の仕事だったらここまで消耗しなかったかもしれません。でも作曲は指揮と違って24時間ずっと考え続けてしまうんですよね。寝ている間も夢の中でずっと音が鳴っているし、書き続けてしまう。脳が休まらないんです。夜中に突然ハッと飛び起きて、ピアノに駆け寄ってギャーッと音を出してみたり。まさに「締め切りに間に合わない作曲家の幽霊」さながらです(笑)。 ところどころスケッチを書き留めたりもしますが、そうやって大部分を頭の中で作曲して、最後の2週間で書きあげました。「楽譜を書く」というのは最終工程で、ほとんど頭の中にあるものを書き取るような作業になります。私は楽譜ソフトを使わず手書きするので、そこからさらに浄書して、パート譜を作成する時間も必要です。かなりギリギリでしたが、周囲の方にもご協力いただきながらなんとか間に合わせることができました。 新曲《風の睦(むつ)び~オルガンとオーケストラのための3章》のスコア(※画像は加工しています) 2024年の客演以来の共演となる神奈川フィルハーモニー管弦楽団の皆さんは、今回もとても丁寧に楽譜を読み込んでこちらの意図を理解し、熱演してくださいました。ソリストの近藤さんによる即興の超絶技巧は、まさに圧巻。LUCYのポテンシャルを最大限に引き出す素晴らしい演奏で、怒濤のクライマックスを演出していただきました。私は自分の作品をこんな風に演奏していただいて、感激するやら照れ臭いやら。聴衆の皆さんからの反応も温かく、ようやく肩の荷を降ろすことができたのでした。 熱演していただいた神奈川フィルハーモニー管弦楽団の皆さんと。写真:©藤本史昭 人生2度目のバーンアウト 終演後はしばらく燃えかす状態(笑)。人生2度目のバーンアウトです(1度目は3.11のチャリティーコンサートのあと。連載第5回参照)。作曲って、少なからず自分の内面を掘り起こすような部分があるので、結構しんどい作業なのです。普段は見ないようにしている自己の内側をじーっと凝視することになるので。 今回の新作も、キャリアのほとんどをヨーロッパで過ごしてきた自分の中にある、「日本」という出自と向きあうことになりました。第2楽章でオルガンを発音機構の似ている笙に、ピッコロを能管に、オーボエを篳篥に見立ててオーケストラで雅楽的な響きの空間を作り出したいと思ったのは、自分なりの日本への愛着と憧憬の表れ。なぜか伝統邦楽の中でも私は雅楽にとても惹かれるものがあるんです。 それは、20代で渡仏し、フランス人作曲家と結婚して作曲を封印、以来現代音楽の新作初演を手がけることにまい進してきた私が、はじめて自分の来し方を振り返り、現在の立ち位置を再確認する時間だったのかもしれません。 同時に、過去の大作曲家―――特に指揮も作曲も両方行っていた時代の作曲家―――への畏敬の念をますます深めました。いやはや、自分で指揮もやりながら歴史に残る大作を書き続けていたなんて! とんでもない偉業だということを再認識しました。今回の経験は、図らずも自分自身の指揮者としての在り方を見つめ直す良い機会となりました。我々再現者は、謙虚な姿勢で真摯に作品に取り組まなくてはいけない、と意を新たにした次第です。 2026年の抱負 年が改まったからといって特に「これ!」といった抱負はないんですが、今年はより能動的にプログラムを考えたり新しい曲を演奏したりしたいですね。もともと誰も手をつけないようなことやオリジナリティのあるものが好きな性格なので。同じことを繰り返していると飽きてしまうんです。自己研鑽に励みつつ、今年も「自分にしかできないこと」を貪欲に追求していきたいです。 この連載が公開される頃には終わっていますが、2月には演奏会でキプロスに行きます。東地中海に浮かぶ島ですが、現在は南北に分かれていて、私が行くのは北の「北キプロス・トルコ共和国」の方です。オランダで知り合ったトルコ人ギタリストが繋いでくれたご縁で呼んでいただいたのですが、はじめて訪れる地ということもあり楽しみです。 キプロス演奏旅行中の一枚。豊かな自然と人々の温かさが心に焼き付きました。 トルコ北キプロス大統領府交響楽団を指揮。大統領夫妻も見えるなか、会場はスタンディングオベーションで大盛り上がり!...

ピアノレッスンのお困りごとを解決!「わからない」を「できた!」に変える「五線ホワイトボード&音符マグネット」

ピアノレッスンのお困りごとを解決!「わからない」を「できた!」に変える「五線ホワイトボード&音符マグネット」

「音符をなかなか覚えられない」「説明しても伝わっているか不安」「ノート学習の準備に時間がかかる」──日々のピアノレッスンには、年齢やレベルに応じたさまざまなお困りごとがつきものです。そんな現場の悩みに、頼もしく応えてくれるのが五線ホワイトボード&音符マグネットです。 |ピアノの先生のお悩み解決 【悩み1】幼児レッスン:子どもの集中力が続かない! 【悩み2】幼児レッスン:楽譜と鍵盤の位置関係がわからない 【悩み3】初級〜中級向けレッスン:言葉だけでは理解できない! 【悩み4】教材:持ち運びに重すぎる! |活用方法は無限大 【メリット1】ゲーム感覚で楽しめる! 【メリット2】音符マグネットも充実! |子どもたちの反応 |各所からの推薦のお言葉 |商品概要 1|ピアノの先生のお悩み解決 【悩み1】幼児レッスン:子どもの集中力が続かない! 「音符が定着しない」 「集中が続かない」 幼児期の音符学習は、「書いて覚える」ことが基本。 しかし紙を使う場合、ノートを開いて鉛筆と消しゴムを準備する手間や、書いたり消したりを繰り返すことで紙が破けるというストレスがあります。 その点、五線ホワイトボードなら思い立ったらすぐに書いて消せるのが大きな魅力。五線の幅も広めで、幼児でも見やすく、理解しやすい設計です。 さらに音符マグネットを使えば、読む・書く・弾く・並べる・動かす──複数のアプローチから音符に触れられるため、理解がぐっと深まります。黒玉・白玉のマグネットは適度な厚みで、しっかり貼り付くのに動かしやすく、子どもの意識を「音の位置」に自然と集中させてくれます。 「貼るのが楽しくて、つい遊びすぎてしまう」という声もありますが、それも音符に親しんでいる証拠。楽しみながら身体で覚えられるのは、幼児指導において大きなメリットです。 「幼児でも見やすく理解しやすい!」 「読む・書く・弾く以外のアプローチが可能!」 「楽しみながら身体で覚えられる!」 【悩み2】幼児レッスン:楽譜と鍵盤の位置関係がわからない! 「楽譜を使った指導が難しい」 「子供によって音符の理解の個人差が大きい」 ピアノレッスン導入期にあたる3~4歳の子どもは、まだ数や文字に十分慣れておらず、上下や左右といった空間の理解も発達途中です。そのため、楽譜に書かれた音と、実際のピアノの鍵盤の場所を結びつけることは、とても難しい作業になります。 そんな時に役立つのが、この五線ホワイトボードです。A4サイズとA3サイズの2種類があり、A3サイズのほうには五線の下にピアノ鍵盤のイラストが描かれているため、音符を五線に並べながら、同時に鍵盤の位置も確認できます。 A4サイズ。楽譜と一緒にカバンに入るサイズで持ち運びに最適!...

解散危機を乗り越え前に進む「上三坂のヤッチキ踊」(福島県いわき市三和町上)【それでも祭りは続く】

解散危機を乗り越え前に進む「上三坂のヤッチキ踊」(福島県いわき市三和町上)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 きっかけはYouTubeの動画    継承の危機を迎えている郷土芸能に対して、必ずしも地域のメンバーではない人間が個人としてできるサポートにはどのようなものがあるのか。これは、個人的にここ数年考え続けているテーマでもあるのだが、地域の外側から継承に取り組む実践者の一つのロールモデルとして私が参考にしているのが、福島県いわき市を中心に、地域の民俗や芸能についての調査・記録に長年取り組んでいる“地域文化活動家”の江尻浩二郎さんだ。    江尻さんの主要なテーマの一つが、いわき市三和町上三坂地区に伝わる「上三坂のヤッチキ踊」(県指定重要無形民俗文化財)の起源と伝播である。ヤッチキ踊とは、非常に躍動的な動きと、エロチックな歌詞が特徴的な輪踊り。かつては「櫓こわし」とも呼ばれ、踊り子が他所まで遠征して、ヤッチキの激しい踊りでその地域の踊りの輪を崩したと、そんなエピソードも残されている。    この芸能に関して、これまでの記録や調査が非常に少ないなか、江尻さんはコロナ禍以前から丹念に現地や周辺地域、さらには遠く九州や北海道でも聞き取り調査を重ね、さらにリサーチだけにとどまらず、積極的な情報発信やイベント開催などの継承活動に取り組み、いつの間にか、自らも保存会のメンバーとなってしまった。    私がヤッチキ踊のことを知ったのは、まさにこの江尻さんが2020年3月、YouTube上で公開したヤッチキ踊に関する動画がきっかけであった。それまでの調査結果を集大成した、前中後編にわたる大作で、その熱量、面白さに圧倒され、総計3時間以上ある動画も苦もなく視聴できてしまった。    「一体この人は何者だろう」。あまりの衝撃に、動画視聴後、思わず私から連絡を取ったのが交流の始まり。そこから一緒に飲んだり、互いの企画にゲストとして誘い合ったりと、関係はいまも継続している。    江尻さんの出身地は福島県いわき市小名浜である。上三坂も同じいわき市ではあるが、車で1時間ほどの距離にある隔たった地域にあり、つまり上三坂からの人からしたら江尻さんは「部外者」といってもいい存在だ。それでも現地の方と持続的に「良い」関係性を築きつつ、「外」と「内」、その間にある境界線を軽やかにまたぎながら、郷土芸能を盛り立てている。なぜそのようなことが実現できているのか、今回は特別編として、江尻浩二郎さんにヤッチキ踊に関わるようになった経緯から、郷土芸能に対する思いまでお聞きした内容を、インタビュー形式でお届けする。    ※記事中の写真は特に注記のないかぎり、すべて江尻浩二郎氏提供 今回お話を伺った江尻浩二郎さん <プロフィール> 福島県いわき市小名浜出身。地域文化活動家、リサーチャー、ライター。全国放浪後、海外の国際機関に勤務。震災後に帰郷して地元のコミュニティFM、同じく地元の大学非常勤講師を経て、現在はフリーランスとして地域文化・医療・福祉などの分野で活動している。いわき市地域包括ケア推進課によるプロジェクト「igoku」では主にリサーチを担当。県指定重要無形民俗文化財「上三坂ヤッチキ踊」の保存会メンバーでもあり、その記録や継承に地域外から携わっている。 父親から聞かされた津波の話    ――江尻さんが地域の歴史や民俗に興味を持ったきっかけはなんだったんですか?    私の出身地はいわき市の小名浜(おなはま)というところなんですけど、多くの地域と同じく、別に教科書読んでても出てこないし、なんとなく「歴史」って自分とは関係のないTVや本の中のことだと思ってました。でもいま考えれば、私はちっちゃい頃から家族とか親戚とかが語る昔話が妙に好きで、例えば戦争の時みんなであそこに逃げたんだみたいな話を、すごく面白がって聞いてましたね。 江尻さんの故郷、小名浜 その中でも非常に印象的だったのが、小学校3年生だったと思うんですけど、突然親父に出されたクイズでした。簡潔に言うと「小名浜に昔津波が来たとき、富ケ浦(現在は公園整備されている高台)と熊寺(町中にあるお寺)、どちらに逃げた人が助かったか」というものなんですが、正解は熊寺でした。その理由は、私の住む「中島」という地区はかつての中州(島)であり周辺より少し高いということ、そして富ケ浦に行くには川を渡らなければならないんですけど、津波は川を上るので、川を渡る時にみんな流されてしまったということの2点でした。身近な災害の話も衝撃だったんですが、この「自分の住んでいる場所にもその成り立ちや、名も知れぬ多くの人々の暮らしがあった」という感覚が、その後地域に関心を抱く大きなきっかけになったんだと思います。    ――現在、お仕事としては、どのようなことをされているのですか? 歴史の調査などもお仕事としてやられているのでしょうか? 少し前までは、地元の大学の非常勤講師として留学生に日本語や日本文化の授業を行っていましたが、現在は大学を辞めまして、完全にフリーランスです。主にリサーチや執筆、時には文化的なプロジェクトのメンバーとしてお仕事をいただいたりしてます。 いわゆる「歴史」ではなく「民俗」っぽいほうに興味があるので、そういう部分を担当することが多いですね。大きなプロジェクトで言うといわき市の文化事業「いわき潮目文化共創都市づくりの芸術祭に3年間携わったり、また変わったところだと、同じくいわき市の地域包括ケアプロジェクト「igoku」※に2018年から参加してまして、地域の民俗や文化を掘り起こしながら福祉の文脈で記事を執筆したり、調査結果をもとにフェスの企画にも関わったりしています。 ※「地域包括ケア」の推進を目的としたいわき市のコミュニティデザイン・プロジェクト。市職員と地元クリエイターがチームを組んだ「いごく編集部」が、デザインやエンターテインメントを活用して、一般に扱いづらいとされる「老い・病・死」をテーマに情報発信や体験型イベントを実施。住み慣れた地域で自分らしく暮らし続けられる環境づくりを目指している。2019年にグッドデザイン金賞を受賞。    ――いわき市内や、小名浜地域でのツアーガイドなどもされていますよね。以前、僕も参加させていただいた江尻さんが案内する「十十王申す復活プロジェクト」※も面白かったです。ちなみに、郷土芸能にも昔から関心はあったのですか? 20代から日本のあちこちを旅してまして、最初は自分の興味を絞らず、なんでも貪欲に見てやろう聞いてやろうという気持ちだったんですが、そのうち「結局自分は民俗学っぽいものが好きなのかも」と気づきまして。また芸能で言うと、子どものころ一緒に住んでた伯母が家で三味線を弾いてたこともあり、なんかそういう音環境が落ち着くなあと思ったり。で、気づけばどの地域に行っても芸能をチェックするようになり、特に神楽には一時期めちゃくちゃハマりまして、それこそ日本中見て回りました。 ※江戸時代の磐城平(いわきたいら)で行われていた、念仏踊りを伴った巡礼行事「十十王申す(とじゅうおうもうす)」を、現代に復活させる試み。 いわきの城下町周辺に点在する十王堂跡などを徹夜で歩いて巡る市民参加型のまち歩き・巡礼プロジェクトとして展開されている。江尻さんと、大阪府在住のコモンズ・デザイナー・陸奥賢さんとの共同プロジェクト。 鰐浦を見下ろす(長崎県上県郡上対馬町)※現・対馬市上対馬町 大分県豊後高田市に伝わる「ホーランエンヤ」という祭り 銀鏡神楽の風景(宮崎県西都市)...

「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」最終巻発売。 三原善隆がアレンジに込めた思い。

「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」最終巻発売。 三原善隆がアレンジに込めた思い。

唯一無二のサウンドで数多くの名曲・名アレンジを生み出してこられた三原善隆氏。 エレクトーンプレイヤー、作編曲家として活躍する一方で後進の育成にも力を注ぎ、多くの演奏家・クリエイターに影響を与え、常に第一線で活躍し続けてこられました。 2020年4月号より月刊エレクトーンで連載が始まった「三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ」は、時代を超えて愛され続ける洋楽スタンダード、歌謡曲などを三原氏のオリジナリティ溢れるアレンジで楽しめる人気コーナー。多くの読者に愛されてきましたが、三原氏のご逝去に伴い惜しまれつつ幕を閉じました。 このたび発売される『月刊エレクトーン Presents 三原善隆の弾いておきたいスタンダードアレンジ3』は、連載で収載されたスコアをまとめた、三原氏が最後まで筆を執り続けた、集大成ともいえる曲集の最終巻となります。 本記事では、第1巻発売当時『月刊エレクトーン2023年10月号』に掲載した三原氏のインタビューを再掲。連載時のエピソード、そして三原氏が語られた楽曲への思いをあらためてお届けします。 この曲集では、弾き手が楽な気持ちで素敵なメロディーや心地良いリズムを楽しめることを一番に考えています。     月刊エレクトーンで連載「弾いておきたいスタンダードアレンジ」が始まったのが2020年4月号。1970 ~ 80年代の名曲をエレクトーンで楽しもう、というコンセプトでした。     70~80年代に僕は井上晴夫、三羽哲郎、飛田君夫ら三氏と一緒に「FUN FUN FUN」曲集のアレンジをしていて、当時の曲もたくさん聴いていました。その記憶の中から、エレクトーンアレンジに向いていると思うものや、今のエレクトーンで演奏するとより効果的だなぁと思うものをピックアップしたり、インターネットでもかなり聴いたりして選曲しました。     多様なリズムや曲想を楽しんでもらえるように、また、月刊誌では2か月続けて似たものが並ばないようにしています。     月始めに次号で何の曲にしたいかを編集部に伝えます。編曲許諾が下りたら本腰を入れてアレンジ開始。楽譜を書く作業自体は実質2日くらいですが、エレクトーンのアレンジをする時は、楽器の音色やどんな機能を使うか、どんなアカンパニメントがハマるか並行して考えますので、楽器を触りながらの作業も入ります。     レジストレーションまで仕上げて編集部に渡すのが20日くらいで、グレード何級程度にするかとか、その他細かいデータ修正、浄書チェックのやり取り等しているうちに月末が近づいてきて、次の曲のことを考えなきゃいけなくなる。     切れ目がない…いや、一部は重なっていますよね(笑)。     原曲は70~80年代のものでも、当時のエレクトーンでアレンジするのと今のエレクトーンでアレンジするのとでは考え方を変えることもしばしば。昔のエレクトーンでは、原曲の雰囲気は保ちながらも、原曲とは違う、エレクトーンでできる伴奏形とプリセットのリズムパターンのやりくりでアレンジを組み立てました。今のエレクトーンはもちろんそれもできますし、アカンパニメントやリズムの打ち込みなどを活用して、より原曲に寄せた形で演奏することもできます。     今回のアレンジも、たまに原曲とは違う感じになっているものもありますが、エレクトーンの機能を生かして原曲のイメージを尊重したものがたくさんあります。エレクトーンでできることの幅が広がって、表現の選択肢が増えたわけですね。     エレクトーンの機能を生かすと言っても、必ずしも機能を大々的に使って豪華に演出するわけではありません。僕自身も気合いを入れて欲張ってアレンジすることもあるのですが、この曲集に関しては、各種機能には縁の下の力持ち的に働いてもらって、自然なサウンドの中で、弾き手が楽な気持ちで素敵なメロディーと綺麗なハーモニー、心地良いリズムを楽しめることを一番に考えています。     誰かに聴いてもらった時にも、豪華なサウンドが印象に残るというよりは、“いい曲だね”“素敵な演奏だね”と曲自体や演奏者の姿が聴く人に一番に伝わればいいなと思います。     その“自然なサウンド”を実現するためにも実は頑張るわけですが、それは水面下の努力ですね。     この曲集は全曲QRコードでエレクトーンの演奏音源を聴けるようにしています。若い方にとっては知らない曲も多いかもしれません。でも、知らない曲も三度聴けば知っている曲になる。ぜひ出会っていただきたい名曲ばかりで、聴いてるだけでも心地よいですね。     実は僕、このエレクトーンの演奏音源を車の運転中に気分よく聴いているんですよ(笑)。     弾いているうちに、“自分だったらこのメロディーは別の音色で歌いたいな”という欲求が出てくるのも良いことですね。ぜひそうやって音色を自分流に変えたりして、曲をどんどん自分のものにしていってください。そういう欲求が生まれるということが、エレクトーンにはとても大切なことだと思います。     読者の皆さんが応援してくださったからこそ月エレの連載も続き、こうして曲集の形でより多くの方に楽しんでいただけるようになりました。本当にありがとうございます。 月刊エレクトーン2023年10月号より 取材・文/森松慶子 プロフィール...

遺影を背負う盆踊り「木江の盆踊り」(広島県豊田郡大崎上島町)【それでも祭りは続く】

遺影を背負う盆踊り「木江の盆踊り」(広島県豊田郡大崎上島町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 地域で故人を弔うという風習    2025年8月、広島県の離島・大崎上島の木江(きのえ)地区で行われている盆踊り「あら盆供養盆踊り大会」に参加した。    当地の盆踊りは一風変わっており、踊りの際にその年、新盆を迎えた故人の遺影を遺族や地域の人が背負って踊る。遺影や位牌を抱えて踊る盆踊りが、瀬戸内地方のいくつかの地域で伝わっているという話はかねてから噂に聞いており、数年前から訪問の機会をうかがっていた。しかし、開催情報というのが世の中にほとんど出回っていない。そのため、二の足を踏んでいたが、このまま機会を逃がしていては、いつかその伝統も絶えてしまうかもしれない。空振りに終わっても、まずは行ってみようということで、ようやく重い腰をあげたのだった。    実際にその盆踊りを目の当たりにすると感動は大きく、自分もこのように弔われたら心地いいだろうなとも思った。旅を終えてから、さっそくその動画をSNSに投稿。すると私同様、感銘を受けた人は多かったようで、多くの反響が寄せられた(Xで2025年12月7日時点で5,346Like)。遺影を背負って盆踊りをするという、ある意味ではショッキングな光景ではある。しかし、多くの反応は好意的なもので(希少な文化への驚き、消えゆく伝統への郷愁、故人を重んじる姿勢への共感など)、この反響もまた、私にとっては印象深いものだった。    しかし肯定的な意見が集まるほどに、私たち日本人の中にある、ある種の引き裂かれるような感覚を意識せずにはいられない。地域で故人を弔う風景に心を温め、憧れのような感情を抱く一方で、現実として、私たちの「死」はいま、地域社会から大きく乖離している。将来、自分自身の葬儀に地域の人が参列してくれると期待できる人は、どれほどいるだろうか。むしろ私たちは、自らの意思で地域住民を葬儀から遠ざけてはいないだろうか。もっと言えば、知人や友人の参列すら望まず、煩わしい儀式を避け、ひっそりと弔う・弔われることを肯定する声も、決して少なくないはずだ。    「日本人」と大きく括ってしまったが、これは私自身の中にある問題意識である。遺影を背負う盆踊りを支えている「弔い」の社会システムに迫ることで、この「引き裂かれた意識」の正体を探ってみたいと思った。 瀬戸内エリア特有の盆踊り文化    旅のレポートに入る前に、大崎上島の盆踊りについて、まず全体像を整理しておきたい。そもそも私がこの盆踊りの存在を知ったのは、木下恵介「大崎上島の盆踊りについて」(『広島商船高等専門学校紀要』2018年 第40巻)という論文がきっかけである。現在、インターネット上で閲覧できる資料の中では、大崎上島の盆踊りを体系的に扱った、ほぼ唯一の資料と言ってよいだろう。    同報告書では、木江地区のほかに矢弓区、原田区の盆踊りも紹介されている。同じ島内でも地区によって盆踊りの形態には多少の違いがあるものの、初盆の霊を供養することを目的としている点、CDやテープといった音源ではなく、音頭取りが「口説き」と呼ばれる物語形式の唄を歌い、それに合わせて踊り子が踊る点は共通している。また地区によっては、盆踊りの最後に手拭いを使った「手拭い踊り」が披露されることや、遺影を手にしたり、背負ったりすることがあるとも記されている。    他の資料も見ると、大崎上島・旧東野町の郷土史である馬場宏著『移りゆくとき ふるさと東野シリーズ7』には、かつて音頭取りが傘をさして口説きを歌ったという話が紹介されている。この様式は、連載第10回で取り上げた沼島(兵庫県南あわじ市)の盆踊りにも通じるものだ。ただし、同書には遺影を背負うといった風俗についての言及は見られない。    ところで、大崎上島以外にも、遺影を用いる盆踊りは存在するのだろうか。調べてみると、いくつか類例が見つかる。たとえば香川県坂出市の「櫃石(ひついし)の盆踊り」では、過去1年間に亡くなった人の位牌を、家族や親戚が布に包んで背負い、交代しながら踊るという。また、愛媛県松山市・怒和島(ぬわじま)の元怒和地区では、盆踊りで遺影を背負うだけでなく、親族同士が仮装して踊る風習もある。この怒和島の盆踊りは、2023年に愛媛朝日テレビが取材しており、その様子は現在もYouTube上の公式映像で視聴できる。映像では、遺影を納めた箱が花などで華やかに飾られ、地元の人びとが明るく故人を送り出そうとする気概が伝わってきた。 愛媛ニュースチャンネル【eat愛媛朝日テレビ】より(2023年8月21日放送)    さらに、インターネット上で個人の発信をたどると、愛媛県松山市・中島、今治市・大三島、大分県津久見市・保戸島などでも、遺影を背負う盆踊りが行われているという記述が見つかる。こうした盆踊りが、瀬戸内エリアの離島を中心に伝承されていることは、たいへん興味深い事実である。遺影や位牌を抱えたり背負ったりする盆踊りが、どのように生まれ、どのような経路で広がっていったのか。深く掘り下げていけば、きっとおもしろい研究テーマとなるだろう。この点については、今後の宿題としたい。    さて、次からいよいよ、大崎上島の盆踊り模様をレポートしていきたいと思う。 レンタサイクルで島を横断    大崎上島へのアクセスは、そこまで困難なものではない。空路や、島に架かる橋がないので、基本はフェリーや高速艇での移動となるが、島内にアクセスできる港は本州や四国に5つもある。いずれも、航行時間は10〜60分程度だ。私は広島県広島市の竹原港からフェリーに乗り、島へ上陸するルートを選んだ。 広島市の竹原港からフェリーで大崎上島へ向かう    大崎上島の周辺には、大小いくつかの島が点在している。なかでも一際大きい「生野島(いくのしま)」は、大崎上島の北端に近接し、竹原港からの航路は、その合間を縫いながら進んでいくよう設定されている。島と島の間を船で分け入っていくような感覚は面白く、始終、私は外のデッキスペースに居座り船の進む先を眺めていた。 フェリーの船上から大崎上島を眺める。右端に見切れているのが生野島 ちょうどお盆の時期であったが、港は帰省で賑わうという様子もなかった    島に到着すると、私は港に隣接する「大崎上島町観光案内所」へと一直線に向かった。島の移動手段として予約していたレンタサイクルを確保するためだ。建物の前に着くと、開け放たれたドアから思いもかけず、盆踊り唄と思しき音楽が聞こえてくる。ああ、やっぱり盆踊りのシーズンなんだな、と実感する。    「今日は、島で盆踊りありますか?」    受付でレンタルの手続きをしながら、スタッフさんに何気なくそう聞いてみると、「盆踊りに興味あるんですか?」と、その表情に笑顔が灯る。それから、事務所にいた観光案内所のスタッフさんが総出になって島の盆踊り情報や、おすすめのスポットを教えてくれた。 2020年設立という、まだ歴史の浅い観光案内所。中に入ると、おしゃれな物産などが並んでいる    話を聞くと、案内所のメンバーの多くは島外からの移住者だという。島の文化に関心が深く、盆踊りについても毎年自分たちで各地に足を運び、情報を集めている。ただ、まだすべての集落を回りきれているわけではなく、木江の盆踊りについては未知の領域だそうだ。そう聞くと、なおさら自分の目で確かめに行きたくなる。    レンタサイクルにまたがり、さっそく木江地区を目指すことにした。だが、その道のりは自転車乗りにとって少々手ごわい。大崎上島は「島」とはいえ、面積は43.11平方キロメートルあり、芸予諸島に点在する有人島の中でも中規模クラスの大きさを誇る(200近くある島々のうち最大は、愛媛県の大三島で64.54平方キロメートル)。しかも目的地の木江の町は、私が上陸した東野地区の白水港から見ると、ほぼ島の反対側に位置している。そこへ向かうには、島の海岸線に沿って延びる環状道路をぐるりと走るか、あるいは最短ルートとして、内陸の丘陵地を山越えしていくか、いずれかの道を選ばなければならない。...

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<後編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<後編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

    10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 第3次予選(10月14日~16日)     10月14日から始まった第3次予選の課題は、従来と大きな違いはなく、第2番と第3番のソナタから1曲とマズルカが必須の課題で、45分~55分の制限時間内に自由曲を弾くことができます。ソナタでは大規模な作品の構築力、マズルカではポーランドの民族舞曲に込められたショパンの想いにどこまで迫れるか、自由な選曲ではピアニストとしてのセンスと能力、そうしたものが問われる厳しいラウンドです。  初日の午前の部に座ったすぐ近くの席に2015年の第2位のシャルル=リシャール・アムランさんがいらっしゃいました。何度かインタビューさせていただいているので、「あなたが出てからもう10年経つんだね」「ちょうどポーランドで演奏会があるので、若い人たちの演奏を聴きに来たんだよ」などとおしゃべりしました。 2015年の第17回ショパン国際ピアノコンクール第2位のシャルル=リシャール・アムランさんと     第3次予選の審査は、審査員がコンテスタントの演奏を聴き終わった直後に提出した点数を、1次10パーセント、2次20パーセント、3次70パーセントの割合で総合して順位を出したとのことです。ファイナリストが10名ではなく11名になったのは、9位から12位の点数が僅差だったため、11名にするかどうか話し合いが行われ、その結果11名になったそうです。結果発表は、これまでのようにほぼ予定時刻通りでしたから、話し合いはスムーズだったのでしょう。     惜しくもファイナルに進めなかったセミファイナリストのなかで、とくに印象に残っている人について書きたいと思います。     なんと言ってもショックだったのは、牛田智大さんがファイナルに進めなかったこと。第1次予選から第3次予選まで、安定した実力を発揮し、真摯にショパンに向き合う清々しい演奏を繰り広げ、聴衆を感動で包みました。とくに第3次予選の《前奏曲Op.45》から《マズルカOP.56》への流れの美しさは心に沁み、さらに《幻想曲》、《ピアノソナタ第3番》で会場全体が彼の演奏に引き込まれていくのを肌で感じました。     前回19歳で参加し、2023年の第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールでは優勝を果たしたエリック・グオさんも残念でした。フォルテピアノの演奏経験を活かした繊細なニュアンスに富んだ表現が魅力的でした。     前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさんも、それぞれタイプは異なりますが、優れたテクニックとのびやかな感性で魅力的な演奏を楽しませてくれました。近年ポーランドで暮らし、エヴァ・ポブウォツカ氏に師事している2人は、流暢なポーランド語を話すことでも話題となりました。     コンクール後に17歳の誕生日を迎える中国のウー・イーファン(Yifan Wu 呉一凡)さんも、ユニークな個性を持つ逸材だと感じました。今後の成長が楽しみな存在です。 ショパンの命日の聖十字架教会でのミサ(10月17日)     ファイナリストが発表された翌日はショパンの命日で、ショパンの心臓が眠る聖十字架教会で、彼の遺言に従ってモーツァルトの《レクイエム》が演奏されます。     ご存知のようにショパンは、1849年10月17日にパリで亡くなり、マドレーヌ寺院で行われた葬儀で、ショパンの遺言によりモーツァルトの《レクイエム》が演奏されました。遺体はパリに埋葬されましたが、「心臓は祖国に持ち帰ってほしい」という彼の願いに従って、姉のルドヴィカが心臓だけをワルシャワに持ち帰り、聖十字架教会の柱の中に収めました。そして、命日のミサでもモーツァルトの《レクイエム》が演奏されるようになったのです。     ショパンコンクールが10月に開催されるようになったのは1970年の第8回大会からですが(それまでは、ショパンの誕生日をはさんで2月から3月にかけて開催されていました)、ファイナルの前日が命日にあたるようスケジュールが組まれています。     例年、オーケストラと合唱で演奏されるモーツァルトの《レクイエム》ですが、今回はピアノ独奏版(リストの弟子カール・クリングヴォルト編曲)をロシアのピアニスト、ヴァディム・ホロデンコが演奏しました。ピアノはピリオド楽器のエラールで、1850年代に製造されたものということでした。     オーケストラと合唱の演奏だと思っていたので、ちょっとびっくりしましたが、生涯にわたってピアノのための作品だけを書き続けたショパンの命日にふさわしいと思いながら、興味深く聴きました。 ショパンの時代のエラールのピアノでモーツァルト《レクイエム》のピアノ独奏版(クリングヴォルト編曲)を演奏するヴァディム・ホロデンコ この日のミサには多くの人が詰めかけ、ショパンの心臓が収められた柱に祈りを捧げていた。三重県の菰野ピアノ歴史館の岩田光義さん(左)、ピアニストの楠原祥子さん(中央)と ピアノ独奏版の楽譜が掲載された冊子が配られた ファイナル(10月18日~20日)     10月18日から3日間にわたって行われたファイナルの課題も、従来と変わりました。これまでファイナリストはピアノ協奏曲の第1番か第2番を選択して、オーケストラと演奏することになっていましたが、今回はそれに加えて晩年の傑作《幻想ポロネーズ》を弾かなければならないのです。協奏曲は、ショパンが20歳前後の若い時期の作品なので、後期の作品を加えて、より深い音楽性、精神性を評価の材料にしたいという意図のようですが、オーケストラがステージ上にスタンバイした状態で《幻想ポロネーズ》を弾くことになり、これは想像以上にファイナリストにとって負担が大きく、オーケストラのメンバーにとっても大変だったようです。     審査は、やはり点数方式で、前のラウンドの得点を、1次10パーセント、2次20パーセント、3次35パーセント、ファイナル35パーセントという割合で合算するとのこと。最終結果の発表が、予定よりはるかに遅れて午前2時半になったのは、「ファイナリストを点数順に並べた後、各順位は3分の2以上の審査員が同意することで確定する」という規定があるためだったとのことでした。そして、その方法では永遠に決まらないので、最終的に点数順そのままの順位を発表することになったようです。     さて、入賞者たちのファイナルでの演奏について、少し書きたいと思います。コンチェルトで共演したのは、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団。指揮は、音楽監督のアンドレ・ボレイコ氏。今回、オーケストラのスコアは、ショパン研究所がショパンの意図をより反映させるべく1年以上にわたる準備を経て再編集したものを使ったとのこと。生前のオリジナル版に最も近く復元され、かつ演奏家のニーズに合わせて編集されたとの説明がありました。聴いていて、あれ? と思った方もいるかもしれませんね。     17歳で第4位になってから10年の歳月を経てショパンコンクールのステージに戻ってきたエリック・ルーさん(アメリカ)は、持ち前の透明感のある美音と内省的なアプローチにさらに磨きがかかり、《幻想ポロネーズ》を味わい深く聴かせてくれました。10年前は第1番のコンチェルトを弾きましたが、今回は第2番。19歳のショパンが初恋に胸をときめかせながら書いた作品に、エリック・ルーさんのピュアで清冽なキャラクターが合っていると感じました。第2楽章のラルゲットの美しさは、まさに絶品。第3楽章のきらめくようなパッセージも生き生きとして素敵でした。コンクール期間中、プレッシャーに押しつぶされそうになって苦しかったと、結果発表の翌日のインタビューで語っていましたが、「それでも、世界中のショパンを愛する人たちの前で自分自身を試したかったのです。受賞は10年間のショパンとの旅のひとつのゴールであり、新たなスタート地点です」とも語ったエリック・ルーさんの今後の活躍が楽しみです。 ファイナルの演奏が終わった直後のエリック・ルーさん。ホッとしたのか、やっと笑顔を見ることができた     第2位のケヴィン・チェンさん(カナダ)は、優れた技巧を活かして《幻想ポロネーズ》、《ピアノ協奏曲第1番》を清々しく聴かせてくれました。ある意味で、第1位のエリック・ルーさんと対照的なキャラクターのピアニストと言ってもいいかもしれません。ショパンの音楽の魅力をくっきりとした輪郭で美しく描き出し、新鮮な印象を残しました。すでに数々のコンクールで優勝に輝いている20歳の俊英が今後どのように発展していくのか、目が離せません。...

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 ワルシャワ到着~オープニング・ガラ・コンサート   ショパンコンクールの取材は、2005年以来5回目。全日程を取材するのは2015年から続けて3回目となります。コロナ禍で開催が1年延期された前回の第18回コンクールでは、鮮烈な個性で躍動感あふれるショパンを聴かせたカナダのブルース・リウが優勝に輝き、我らが日本の“サムライ”こと反田恭平さんが第2位、第17回でもファイナルに進出した小林愛実さんが第4位など、日本人の活躍も目立ち、大きな話題を呼びました。 日本中がショパンコンクールブームに沸いた前回のコンクールから4年、今回はどんなスターが生まれるのか、熱い視線が注がれるなか、10月2日、第19回コンクールが開幕しました。   10月2日の朝ワルシャワに到着した私は、いつも宿泊するフィルハーモニーホールの近くのアパートにチェック・イン。近くのスーパーで水や食糧を買い込み、野菜スープを作ってパンやハム、ソーセージ、チーズと共に食べてホッと一息つきました。ポーランドの野菜、パン、ハム、ソーセージ、チーズなどの乳製品、とっても美味しいのです。3週間の取材中、外食もしましたが、基本は自炊。野菜スープやラタトゥイユを仕込んで、あとは買ったものという感じですが、健康的な食生活を心がけました。コンクールが始まると、モーニング・セッションは朝10時から午後3時近くまで、イヴニング・セッションは午後5時から夜10時近くまでというスケジュールなので、ゆっくり食事を摂る暇がないのです。歩いて5分のアパートの部屋に戻って、くつろいで好きなものを食べるのが一番。とりあえず初日の買い出しと仕込みが終わり、シャワーを浴びて昼寝をして、夜20時からのオープニング・ガラ・コンサートに備えました。   オープニング・ガラ・コンサートは、アンドレ・ボレイコ指揮、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団が、ショパンの《ポロネーズOp.40-1「軍隊」》のオーケストラ版を奏でて幕を開けました。ポーランドの民族の誇りを感じさせる勇壮な演奏で、これから始まるショパンコンクールへの期待が高まったところで、前回の優勝者ブルース・リウが登場してサン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》を演奏。鮮やかなテクニックでエキゾティックな作品の魅力をみずみずしく描き出しました。審査委員長のギャリック・オールソンと審査員のユリアンナ・アヴデーエワによるプーランク《2台のピアノのための協奏曲》のエキサイティングな演奏で会場の熱気はさらに高まり、審査員のダン・タイ・ソンが加わって、新旧の優勝者4人によるJ.S.バッハ《4台のチェンバロのための協奏曲》。典雅な響きを現代のピアノから引き出し、4人の個性が溶け合う素敵なアンサンブルで、祝祭のムードに包まれたコンサートを華やかに締めくくりました。 スタンディング・オベーションで新旧4人の優勝者の演奏を称える聴衆 オープニング・ガラ・コンサート翌日のコンクール情報誌「Kurier」の表紙 オープニング・ガラ・コンサートの会場で、日本人コンテスタントの東海林茉奈さん(中央)、京増修史さん(右)と 第1次予選(10月3日~7日)   10月3日から5日間にわたって開催された第1次予選には84名のコンテスタントが出場し、9月29日のオープニング式典で行われた抽選で、姓の頭文字が「T」のコンテスタントからアルファベット順に演奏することになりました。演奏順についてのルールは今回から変わり、ラウンドごとに6文字後ろにずらして第2次予選は「Z」から始まり、4ラウンドでアルファベットが一巡するとのことでした。   今回は課題曲も従来と少し変わりました。第1次予選は、(1)これまで2曲だったエチュードが技巧的難度の高い5曲のエチュードから1曲、(2)指定されたノクターンまたはゆるやかなテンポのエチュードから1曲、(3)バラード、舟歌、幻想曲から1曲、(4)3つの指定されたワルツから1曲を選択することとなり、ワルツという舞曲の要素が加わったことで、より多様な側面からコンテスタントの能力が評価されることになりました。   今回の公式ピアノは、スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ、ベヒシュタインの5メーカー。コンテスタントは、開幕前にひとり15分ずつセレクションの時間が与えられ、ホールのステージで試弾して自身のパートナーとなるピアノを選びました。ここでもルールに変更があり、これまでは先生や家族などに客席で聴いてもらって考えることができたのですが、今回はひとりで決めなければならず、コンテスタントの多くが、最後まで迷ったと語っていました。フィルハーモニーホールは、ステージと客席で音の聴こえ方が大きく違い、ホールの中でも座る場所によって音響が変わります。最初に選んだピアノはファイナルまで変更が認められないので(これも、前回までは認められました)、皆さん悩んだことと思います。   10月3日午前10時、いよいよコンクールが始まりました。姓のアルファベットの頭文字が「T」からなので、牛田智大さんが3番目に登場し、13名の日本人コンテスタントのトップバッターとなりました。爽やかな表情で舞台に現れた牛田さんは、抒情あふれるノクターン、チャーミングなワルツ、晩年のショパンの心情に迫る《舟歌》など、完成度の高い演奏を披露し、会場から大きな拍手を浴びました。   84名のコンテスタントの第1次予選の演奏を聴いて、とにかく全体のレベルが高く、ここから約半分の40名を選ぶのは大変だなと思いましたが、10月7日の夜11時、予定時刻ぴったりに予選通過者が発表されました。日本人は、桑原志織さん、中川優芽花さん、進藤実優さん、牛田智大さん、山縣美季さんの5名が通過。今回の13名の日本人コンテスタントは、それぞれ多彩な個性と優れた音楽性でショパンへの誠実なアプローチを聴かせてくれたので、結果発表の瞬間は辛い気持ちになりましたが、どのコンテスタントにとっても、この経験は必ず今後のピアニスト人生の糧になることでしょう。   今年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでファイナリストとなった桑原志織さんは、昨年末のルールの変更により予備予選免除で参加資格を得て、悩んだ末に参加を決めたとのことですが、ブゾーニ、ルービンシュタインなど数々の国際コンクールに入賞した実力を発揮し、見事な演奏を繰り広げました。コンクール直前の9月19日には、ブラームス《ピアノ協奏曲第2番》を演奏。ショパンコンクールの準備は大丈夫かしら? とちょっと心配しながら、どんなショパンを聴かせてくれるのか楽しみにしていたのですが、期待以上の素晴らしい演奏でワルシャワの聴衆の心を掴みました。   10代の頃からピアニストとして活躍し、多くのファンがいる牛田智大さん、2021年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝した中川優芽花さん、日本音楽コンクール第1位ほか国内外のコンクールで優秀な成績を収めている山縣美季さん、前回のコンクールでセミファイナルまで進んだ進藤実優さん、いずれも独自の世界を持つ優れたピアニストが第2次予選に駒を進めました。   日本人以外では、前々回(2015年)、当時17歳で第4位となったエリック・ルーさん、前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさん、やはり前回のファイナリストのラオ・ハオさん、ジュネーブ、ルービンシュタインなど参加したコンクールすべてで優勝しているケヴィン・チェンさんなど、注目のコンテスタントたちも順当に通過しました。 第2次予選(10月9日~12日)   第2次予選は、10月9日から12日まで4日間にわたって行われました。このラウンドの課題曲も、従来と変わりました。最も大きな変更点は、《24の前奏曲》を全員が弾かなければならないこと。全曲弾いても、6曲ずつ4つに分けた1組を弾いても構いませんが、とにかく全員が弾かなければなりません。前回まで《24の前奏曲》は、第3次予選で2曲のソナタとの選択で選ぶコンテスタントがいましたが、あまり多くは弾かれていませんでした。バッハの《平均律》に着想を得て、ショパンが自由な筆致で書いた24の宝石のような小曲から成るこの作品は、ピアノ音楽の最高傑作と言ってもいいかもしれません。しかし、多彩な小曲のキャラクターを瞬時に描き分けるのは、ソナタやバラードを弾くのとは違う難しさがあります。このほかに第2次予選で課されたのはポロネーズで、40分~50分の演奏時間内であればそのほかの曲を自由に選択して演奏できます。前回よりも全体の演奏時間が10分長くなったのは、《24の前奏曲》を全曲弾くと約35分かかるためです。この10分長くなった第2次予選は、実際に客席で聴いてかなり長いと感じました。ショパンコンクールを聴くのは体力勝負、審査委員長のギャリック・オールソン氏もコンテスタントの演奏の合間に立ち上がって腰を伸ばしていらっしゃいました。 演奏の合間に腰を伸ばす審査委員長(中央)   しかし、《24の前奏曲》が課され、演奏時間が長くなったため、第2次予選はかなり聴きごたえのあるものとなりました。前奏曲を全曲弾いたのは40名中10名で、30名は6曲を弾いて残った時間を自由に使い、あまり弾かれる機会のない《ピアノソナタ第1番》や、前回の優勝者のブルース・リウが弾いた《「お手をどうぞ」の主題による変奏曲》(ラ・チ・ダレム変奏曲)などを組み入れたユニークなプログラムを聴かせてくれたのです。《ピアノソナタ第1番》がショパンコンクールのステージで演奏されたのは、おそらくコンクール史上初めてではないかと思いますが、今回は3人のコンテスタントが演奏しました。しかも同じ日に! また、ケヴィン・チェンさんは作品10のエチュード全曲を鮮烈なテクニックで演奏し、会場を圧倒しました。   数々の名演が繰り広げられた第2次予選ですが、第3次予選に進めるのは半分の20名。最後のコンテスタントの演奏が終わった数時間後に結果が発表されました。第1次予選も第2次予選も、予定時刻通りの発表でしたが、これは採点と集計のルールが変わり、数字の計算だけだったからのようです。   ここで、今回の審査の採点方式について、少し説明しておきたいと思います。これまでのコンクールでは、各審査員がYes/Noと25点満点の点数を提出していましたが、今回は点数のみの審査となりました。自身の生徒は「S」として審査できないのは従来通りです。各ラウンド、コンテスタントの演奏が終わった時点で点数をつけ、第1次予選はラウンド終了後、第2次、第3次予選は午前と夜のセッション終了後(そのラウンドのすべての演奏を聴いてから調整することはできない)に提出します。また、第2次予選以降のラウンドは、前のラウンドの点数を規定の割合で反映させ、その総合点で順位を決めます。たとえば第2次予選は、1次を30パーセント、2次を70パーセントの割合で総合点を出したそうです。さらに、この採点方式が複雑なのは、審査員の採点が、平均点から大幅にかけ離れている場合(1次は±2点以上、2次、3次は±3点以上)、補正されるとのこと。わかりにくいルールで、審査員も、この採点方式に戸惑った方が多かったようです。海老彰子氏は、「結果的に審査員の評価が平均化される傾向にあり、ユニークな個性を持つコンテスタントが評価されにくかったかもしれません。審査員が何を重視して評価するかはそれぞれ異なり、点数だけでは表せないと思います。個人的には、Yes/Noと点数で審査した従来のやり方の方がよかったと思います」と語っていました。   今回の採点のルールについて詳しく知りたい方は、こちら(英語のサイト)をご覧ください。   さて、第2次予選を通過した日本人コンテスタントは、桑原志織さん、進藤実優さん、牛田智大さんの3名。中川優芽花さん、山縣美季さんは、《24の前奏曲》全曲を、それぞれのアプローチで繊細に表現し、聴衆の反応もよかったので、とても残念です。   そのほか、第3次予選に進めなかったコンテスタントで印象に残った人について書きたいと思います。   台湾のチャン・カイミン(Kai-Min...