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商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 東海北陸自動車道によってもたらされたる観光地間の競争激化    岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥町(しろとりちょう)。この町の商店街にまだ勢いがあり、白鳥おどりも最高潮に盛り上がっていた1970年代、一人の中学生が踊り子として会場を駆け回っていた。その子どもの名は、大坪正彦。後に、白鳥観光協会に入り、20年以上も祭りの裏方として白鳥おどりを支えることになる人物だ(2025年に引退)。ここからは、最盛期以降の白鳥おどりの変遷を現場から見守ってきた大坪さんの証言を補助線に、前編で触れた1980年代以降の白鳥おどりの変遷を追ってみたいと思う。    ちなみに個人的な話となってしまうが、大坪さんは、私が白鳥おどりに参加し始めた頃から親しくさせていただいている、いわば「恩人」のような人物でもある。東京でイベントを開催する際に、現地との調整役としていろいろと便宜を図ってくださったり、私が白鳥おどりについて知りたいことがあった時は貴重な資料を提供してくださったり、とにかく、ここでは書き尽くせないくらい、いろいろな面からお世話になったことは記しておきたい。 2019年に高田馬場で開催した白鳥おどりのイベント。ゲストに白鳥観光協会の大坪さんを招いた    まず、大坪さんが体験し、その目で見た白鳥おどりの最盛期とはどのようなものであったのだろうか。「当時(1970年代)は、踊りの輪がすごく大きかったですね」と大坪さんは回想する。「3つの商店会をまたいで開催していたくらいですから。駅前商店街の三叉路に屋台を置いて、北はごんぱちさんのところまで、東は濃飛タクシーさんのところぐらいまで行って。あまりにも輪が大きかったので、端っこと端っこで踊りがずれちゃっているんですよね(笑)。都会に出てた人たちが帰ってきて、本当にお盆の期間は町の人口がバーンと増える感じでした」 大坪正彦さん    大学進学後はしばらく地元を離れ、長らく白鳥おどりから遠ざかっていた大坪さん。ホテルやスキー、ゴルフなどレジャー系の職をいくつか経て、2001(平成13)年に白鳥観光協会に参加したが、そこでおよそ20年ぶりに目にした白鳥おどりの光景に衝撃を受けた。    「もう、自分が踊っていた頃と比べると、あんまりにも人が少なくて驚いたんです。屋台のまわりで踊っている人が、ほとんど保存会のメンバーという日もありましたからね(一般客が少ない)。やはり一番盛り上がっていた時期を知っているもんですから、自分の目が黒いうちに、これはなんとかしないと、と思いましたよね」    大坪さんが踊りの現場を離れているうちに、この町に何が起きたのか。まず観光業全般での話としては、町の主要な観光資源であったスキーが衰えた。    「スキーに関しては、越美南線に乗ってスキー客がやってくるという1回目のブームというのがまずあって、その時に村営の小さいスキー場みたいなのが町中にちょこちょこできたんですよね(1956年から、当時の国鉄によってスキー客のための臨時列車「奥美濃銀嶺号」が、シーズン中各週末に運行されていた)。その次にくらいに、観光バスやマイカーに乗ってスキー客がやって来る時代がきました。ちょうどその頃ぐらいですかね。白鳥町の北にある高鷲町の方に大きくて、設備も充実したスキー場がポンポンとできて、白鳥のスキーが衰退していったんです。リフトなんかも3〜4人乗れるようなゴンドラみたいなタイプなので混まないし、並ばず乗れる。一度便利さを体験しちゃうと、もう戻ってきませんよね。バブルの頃のスキーブーム?   確かにありましたけど、白鳥町への恩恵はそこまで大きくなかったんじゃないですか。テレビなんかで苗場のスキー場なんか見せられちゃうと、余計そっちに憧れちゃいますしね」 白鳥スキー場跡地(現・二日町延年の森公園)    2008(平成20)年に全線開通した東海北陸自動車道も、白鳥町の劣勢に拍車をかけたようである。東海北陸自動車道は、愛知県一宮市を起点に、岐阜県を経由して、富山県砺波(となみ)市に至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路である。1960年代に構想が立ち上がり、その沿線となる白鳥町でも大きな関心と期待が寄せられた。    「東海北陸自動車道などの開設によって、産業と観光の開発はいっそう脚光をあび、大きな伸張が展望される」(1977年刊『白鳥町史 下巻』) 「白鳥町発展のカギを握るものは東海北陸自動車道の問題」(1984年刊『わが町白鳥 : 郷土誌』) 「東海北陸自動車道をはじめとする、道路の整備によって、白鳥町が劇的に変わる可能性がある」(1991年刊『あすをひらく道 : 白鳥町合併35周年記念誌・町勢要覧1991』)    町の発展に寄与する道路として考えられたことから、完成に備え1966(昭和41)年から、町内のすべての道路の舗装と、川への架橋も進められてきた。    道路の整備は段階的に進められ、1997(平成9)年に郡上八幡IC-白鳥IC間が開通、1999(平成11)年には白鳥IC-高鷲IC間が開通となった。これによって地域に何がもたらされたのか。『岐阜県の冬季観光産業(スキー場)の実態調査報告』(2001)では、高鷲町を含む郡上郡北部に対しては「大型施設も加わり、中京圏・関西圏から長野方面に向かっていたスキーヤーも取り込み集客を増加させている」「さらに東海北陸自動車道の貫通がなれば、北陸圏をもマーケット 視野に入れようと計画している」と好ましい影響が報告されているのに対し、白鳥町を含む郡上郡南部には「白鳥IC開通までは、安定した集客を保ってきたが、高鷲ICの開設とともに集客を落としている。各スキー場共に高速道路のインターチェンジから遠いことがネックとなっている」というネガティブな評価が下されている。    数々の資料が、東海北陸自動車道が観光面で沿線エリア全体に何かしらの好影響を与えていることを示しているが、やはり道路の開設による観光地間の競争激化や、地域外への観光客流出といった負の影響も見逃すことはできない。    たとえば、合掌造り集落でおなじみの富山県の五箇山では、東海北陸自動車道全通後に、より規模の大きい白川郷の荻町集落に観光客が集中する傾向が強まり、また宿泊数も減少したことが報告されている(『東海北陸自動車道開通に伴う五箇山観光の変容』)。白鳥町においてもまた、期待ほどの観光誘致が図れていないようで、郡上市白鳥振興事務所『白鳥地域振興計画』(2021)には、2019(平成31)年の白鳥IC-飛騨清見ICの四車線化について触れつつ、「通過点となる恐れがあることから、目的地となるような観光イベント情報の提供が必要」と警戒感をつのらせた文章が記載されている。 五箇山の合掌造り集落    実際のところ、東海北陸自動車道が白鳥おどりの振興に繋がらなかったかというと、そうとも言いきれない。郡上市の発表している平成期の白鳥おどりの来客数を見ると、1995(平成7)年から1996(平成8)年にかけて一旦数は減少しているが(85,000→80,000人)、白鳥ICが設置された1997(平成9)年からは上昇に転じ、2004(平成16年)には平成期のピークとなる131,000人を記録。しかし、その後は下降線をたどり、10年後の2014(平成26)年には55,500人と、来客数はほぼ半減している。大坪さんは、次のように話す。    「白鳥おどりも、一時は郡上おどりに近いくらいの勢いを持った時代があったんですけど。おそらくですが、白鳥に関しては、多分時代の流れの中で来客数が増えていただけで、気づいたら、あれ?って(壊滅的な)状態になってしまっていたということだと思います。郡上おどりは比較的来客数をキープできているようなので、それ以上の努力をずっと続けてきたんでしょうね」...

はじめてのおもちゃピアノに最適!累計10万部の耳が育つ知育玩具「ヤマハのピアノえほん」

はじめてのおもちゃピアノに最適!累計10万部の耳が育つ知育玩具「ヤマハのピアノえほん」

用途たくさん:子どもへの知育玩具用に、出産祝いや誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント用に最適! メリットたくさん:親御さんの手助けなしにお子さんだけで遊べる! 耳を育てる本格的な音、0歳~6歳まで長期間楽しめる! 遊び方たくさん:全曲再生でひとりで遊べる、鍵盤が光って楽しく遊べる、モードがたくさんで飽きずに遊べる! 子どもが動画サイトばかり見ていて心配……何か指を動かして遊べる安全なおもちゃはないかな……。 そんな方にオススメのおもちゃ絵本をご紹介します。 楽しいだけでなく、はじめての音楽体験にもなり、耳も鍛えられて、ピアノの基礎まで学ぶことができるお得な商品。ピアノは習い事ランキングでもつねに上位。本格的にピアノを習う前に、ピアノレッスンの導入としても活用してください! |選ばれる5つの理由 ① かわいい絵と楽譜で見ていて楽しい! ② 充実の機能と多彩な音色ではじめての音楽体験に最適! ③ 子どもがひとりで遊べる! ④ 飽きずに6年間遊べる! ⑤ 親子のコミュニケーションが増える! |実際に使った方の声 |開発者の声 ー 企画はどこから生まれた? ー どんな点で苦労した? ー どんな方に楽しんでもらいたい? |商品概要 1|選ばれる5つの理由 ① かわいい絵と楽譜で見ていて楽しい! カバーイラストは『しましまぐるぐる』の「いっしょにあそぼ」シリーズ(Gakken)で大人気の絵本作家かしわらあきおさん。絵本の部分はかしわらさんほか14人の人気イラストレーターによるかわいい絵が子どもたちを楽しませてくれます。絵とともにメロディ譜と歌詞も載っているので、親御さんが一緒に見て弾くこともできますし、ピアノを習い始めのお子さんが見ながら弾いたり、親子やきょうだいで一緒に歌ったりするのもおすすめです!...

エレクトーン曲集『WORKS3』発売記念 安藤ヨシヒロに聞く!名曲たちの制作秘話と、“今”。

エレクトーン曲集『WORKS3』発売記念 安藤ヨシヒロに聞く!名曲たちの制作秘話と、“今”。

  エレクトーンプレイヤーとして多くの⼈々を魅了し、現在は作曲家、キーボーディスト、そしてプロデューサーとしても活躍を続ける安藤ヨシヒロ。彼のオリジナル作品を集めたエレクトーン曲集である『WORKS』シリーズに、2025年2⽉18⽇、待望の第3作⽬『WORKS3 〜from "SORA""mindscape<<5"』(『WORKS3』)が加わった。 名曲が世に放たれてから⼗数年たった今、楽曲の制作秘話や作品への思い、安藤ヨシヒロ⾃⾝の”今”について語ってもらった。 ――『WORKS2』から約5年ぶりとなる新刊『WORKS3』が発売となりました。楽譜集『SORA』から収載された3曲(「サクラ」「天上の光」「祈り」)は新たに02シリーズ対応のレジストを制作されたそうですが、改めてご⾃分の楽曲と向き合ってみていかがでしたか?  曲は⼗数年前に作ったものなのですが、今回収載するにあたって、新鮮な気持ちで取り組めました。どうしたら02できれいに⾳が鳴るだろうか試⾏錯誤しながら制作しましたね。⾳⾊を変えたことで曲の雰囲気に違和感が⽣まれたり、「前の⽅がよかった!」となったりしないよう、進化させたいという気持ちで作りました。 15年前も、01でどんな⾵に⾳を鳴らすかを⼀⽣懸命考えながら編曲したのを思い出しました(笑)。 楽譜集『SORA』 ――『SORA』は安藤さんの初メジャーアルバムですが、それまでとは違う挑戦があったのでしょうか。  『SORA』は全体を通してストリングスとピアノ中⼼のサウンドにすると決めて作ったアルバムでした。そんな⾵にコンセプトを決めてアルバムを制作するのははじめてだったんです。それ以前に作ったアルバム『mindscape』シリーズは、好きに作った曲をキュッとまとめる形だったため、『SORA』の制作⼿法は慣れないものでした。弦楽器をフルで収録したのもはじめてで、ああでもないこうでもないとたくさん悩みながら楽譜を書きましたね。エレクトーンはほかの楽器と異なり、演奏しているとさまざまな楽器の⾳⾊に触れます。そうするとひとつの楽器だけじゃなくて、いろいろな⾊のパレットが⾃分の中に⾃然と増えていきます。『mindscape』ではそのパレットから好きな⾊を選んで曲を作って……ということをしてきました。でも『SORA』はコンセプトを決めたことで、⾳⾊的な制約があったのです。その点も、それまでと⼤きく違うところでした。 ――そのようにコンセプトを決めて制作されたのはなぜだったのでしょうか?  いろいろな⾳⾊を使えると、カラフルにはなるのですが、演奏している⼈が⾒えづらくなってしまいます。エレクトーンを知らない⼈が聴いたら、「安藤ヨシヒロ」が何をしているのか、どんな⼈物なのかが⾒えない。だから鍵盤楽器はピアノと決めて、それを「僕」が演奏、プラス弦楽器の⼈がいる。つまり、「⼈がちゃんと⾒える」ように意識しました。制約があったからこそ実現できたと思っています。その制約の中でも「⾃分らしさ」を出したかったので、プロデューサーをはじめいろんな⽅と相談しました。 ――『SORA』の制作には多くの⽅が関わっていたのですね。  最初のアルバムは全部ひとりで作っていました。⾃宅のシンセやエレクトーンで作曲して、それをスタジオに持って⾏ってひとりで編集作業をして。でもエレクトーンプレイヤーとして活動していく中でたくさんのミュージシャンに出会って、楽曲制作に少しずつ参加していただけるようになりました。『mindscape<<5』はもっとも多くの⽅に携わってもらった、僕の活動の中での集⼤成のようなアルバムです。⾃分たちでできることは全部やって、参加して頂いたミュージシャンの⽅たちと全員で作り上げました。スタジオでは⾃分たちでマイクスタンドを⽴てたりして、練習して、レコーディングして……楽しかったですね。今でも作れてよかったなと思う作品です。 楽譜集『mindscape<<5』 ――その『mindscape<<5』から、はじめて「FLY HIGH」が収載されますね。  はい。「FLY HIGH」には「Symphonic ver.」もありますが、元々はこのバージョンが先に出来上がっていたのです。今回収載したノリがいいバージョンは後からできたのですが、バージョン名をなんとつけたらいいかわからなくて(笑)。結局、「バージョン名はつけなくていいよなぁ」ということで今の形になりました。 ――逆だったのですね……! ポップなものを作ってからその後にオケバージョンを制作 するのが⼀般的な⽅法だと思っていました。  そうなんです。先に、とは⾔っても同時期に作っていたもので、「FLY HIGH(Symphonicver.)」はジュニアエレクトーンフェスティバルのテーマ曲として、ノリがいい「FLY HIGH」はエレクトーンステージのテーマ曲として作りました。「FLY HIGH」は直訳すると「⾼く⾶ぶ」ですが、「⼤志を抱く」という意味も持つ、とても前向きな⾔葉です。出演者の後押しをしてくれて元気になれるような、⼒のある曲にしたいと思って作曲しました。  実はどちらの曲もループできるようになっているんです。どんどん転調して、最後まで⾏ったら冒頭と同じ調になって戻る、ループできる構造になっています。そういう⾵に、曲の⾏き先を考えながら作っていました。 ――本当ですね!...

「現代音楽」ってなんだろう?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「現代音楽」ってなんだろう?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新たなチャレンジ みなさん、こんにちは! そろそろ日本でも春を告げる花々が咲き始める頃でしょうか。卒業や入学など、新たな門出を迎える方も多いことと思います。 この記事が公開される頃、私は前回の連載でもちょっとご紹介した新作オペラ《ウンム》の初日を迎えます。「普段はアラブ音楽を演奏している伝統楽器アンサンブルを、フランスで西洋音楽を学んだ日本人が指揮する」というのは、会場となるオランダ国立歌劇場にとっても史上初の試みなのだとか。そんな新しいチャレンジに、私自身とてもワクワクしています! 新作オペラ《ウンム》のリハーサル風景。左から、作曲家のブシュラ、演出家のケンザ、私、ソプラノ歌手のベルナデタ。 オペラ《ウンム》を演奏するアムステルダム・アンダルシアン・オーケストラのメンバー達と。 気づいたら「現代音楽の専門家」に 最近では古典作品を振る機会も増えましたが、私がパリで指揮活動を始めてから15年ほどはずっと現代音楽ばかり演奏していました。これまで手掛けた新作初演は200を超えます。ですから、私のことを「現代音楽の専門家」と認識している人もきっと多いでしょう。 そういう人からすると意外に思われるかもしれませんが、実は昔から現代音楽が好きだったというわけではないんです。むしろ、私の両親は合唱指揮者で、自分も小さい頃からミュージカルや児童合唱団で歌ったりしていましたから、芸高に進んでからも「私はきっと合唱曲を書くような人になるんだろう」と思っていました。学生の頃はフランス近現代の作曲家が好きでよく聴いていましたね。特にメシアンとデュティユー、それからプーランク。自分は、彼らが書くような美しい響きを持つ曲を書きたいと思っていました。私の親戚のおじさん(横川晴児)がNHK交響楽団の首席クラリネット奏者だった関係で、高校時代はクラリネットの作品をよく聴いていたのですが、とりわけ好きだったのがプーランクのソナタです。芸高の作曲科卒業作品にもクラリネット・ソナタを書きました。現代音楽の象徴みたいに思われている、いわゆる無調の音楽(調性のない音楽)を自分で書くことはありませんでした。 プーランク《クラリネット・ソナタ》。当時持っていたCDがポール・メイエさんの演奏によるものでしたが、その後共演をきっかけに仲良くさせていただくことになるなど夢にも思っていませんでした。 ただ、小さいときから「新しいもの好き」だったことと、ソルフェージュ(楽譜を読んで演奏するための基礎能力)が得意だったことは、少なからず影響していると思います。複雑な現代音楽を演奏するのに、ソルフェージュ能力はとても役に立つんです。私はわりと子どものときから楽譜を読むのが速く、また耳も良かったので一度聴いた曲はだいたい覚えてしまいました。だからほかの人が苦労するような変拍子とか複雑な譜面も、わりに楽に読めてすぐ振ることができる。すると周囲からも「あなた得意だからやってよ」と頼られるようになり、私も「自分が得意なことで役に立てるなら」と率先して引き受けているうちに、「あなた現代音楽好きなんでしょう」といってさらに依頼される機会が増え……気づいたら現代音楽の仕事ばかりが私に集中していました(笑)。 音楽家の基礎教養 一般に、現代音楽と聞くと「難解」というイメージを持つ方が多いでしょうか。フランス語で「現代音楽」を含む表現の一つに「musique savante」という言葉がありますが、これは言ってみれば「教養のある人のための音楽」というような意味です。アカデミックな作曲を勉強した人が書いた、歴史に残るような作品を指すときに使います。これは現代音楽の一側面を言い得ているかもしれません。 私が20代の頃に学んだパリ音楽院の楽曲分析のクラスでは、歴史に残る偉大な作曲家の古典作品を徹底的に勉強させられました。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ドビュッシー、フォーレなどの書法を学び、彼らの書法を使って自分でも曲を書いてみるという授業です。過去の偉大な作曲家の書法を学ぶことは、音楽家の基礎教養の一つというわけですね。 楽曲分析のクラスで作曲家の書法を勉強するうち、自分の中で何かが繋がるのを感じました。それまで現代音楽は現代音楽として、古典作品とは別個に存在するものだと思っていたのが、リンクし始めたのです。過去にどんな書法があり、どんな過程を経て現在の書法が生まれたのか、一つの大きな流れとして見えてくるようになりました。すると一見難解に見える現代音楽も、過去の音楽に連なる表現の一つとしてよくわかるようになるんです。 それだけではありません。時代ごとの音楽が、実際の社会の変遷とどう連動し、その結果何が起きたか。その歴史的な繋がりを知ると、自分自身の音楽家としての役割の自覚が促されます。すると、自分が音楽家として社会にどう発信していけばよいかが明確になるし、自分が今後進むべき道も見えてくる。過去を学ぶことは、結局自分の未来にも繋がってくるんです。楽曲分析のクラスでそれを学ぶことができたのは、非常に有意義なことでした。私は猪突猛進したいタイプなので(笑)、自分の進むべき道がよくわからないままなのは嫌ですから。 科学技術の発展と現代音楽 現代音楽というのは、そもそも世の中の大多数の人が是とするものに決然と異を唱えるような、そういう精神を持つものですよね。私が当時知り合った現代音楽の作曲家たちもそうでした。彼らはみな非常に教養があって話していて面白いし、音楽についても教わることがとても多かった。そうして自分も知識が増えてくると、まったく新しい音楽に接したときでも知識をどう応用すればいいかがわかって俄然面白くなるわけです。 他方で、今私がお話ししたような音楽、つまり「musique savante」とはまったく異なるタイプの現代音楽もあります。パリ音楽院にはチリやペルー、ヴェネズエラといった南米出身の留学生もたくさんいるのですが、彼らの多くはそもそも調性だとかバッハから現代に至るまでの作曲の書法を参照して作曲していません。むしろ音楽以外の造形美術や現代アート、映画制作の技術などから影響を受けている人が多いんです。 特に大きな影響を与えているのは電子音楽です。いきなり電子音楽から作曲に目覚める、そういう人たちが生まれてくる世代なんですね。歴史的に見れば電子音楽というのも科学技術の発展のなかで生まれたものですが、電子音楽が生まれたことはその後の現代音楽の有り様にも大きな変化をもたらしました。それまでの音楽がハーモニー・リズム・メロディを三大要素とするようなものだったのに対して、そこからこぼれ落ちるもの、たとえばノイズなども音楽の要素として扱われるようになるわけです。その先駆けとなった作曲家の一人が、エドガー・ヴァレーズ(Edgard Varèse, 1883~1965)です。 エドガー・ヴァレーズ《アメリカ》。いつか日本でも指揮してみたい作品の1つです。 科学技術の発展はそのほかにも同時代の多くの作曲家にインスピレーションを与えました。フランスを代表する作曲家、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925~2016)がパリに国立音響音楽研究所(IRCAM)を創設したのも、その流れの一つです。その頃になると音楽というものが何か情緒的な意味をなすものというだけでなく、科学的な現象の一つとしても捉えられていくようになります。それこそ音の周波数を解析したりするような、緻密な計算のもとに音楽が作られるようになるわけです。 そういう音楽を初めて聴いた人は、耳慣れない響きに戸惑うかもしれません。ですが、音楽というのは本来、言葉にしがたい抽象的なものを表現できるものです。聴き手がどのように受け取るのか、そこに正解はありません。もちろん、聴き手の知識や経験によって受け取る情報が変わってくることはあると思いますが、そこに優劣はないはず。解釈は個人の自由に委ねられています。誰かの受け止め方を「間違っている」などと批判することはできないし、批判する必要もまったくない。そもそも芸術というのは、そういうものだと思っています。 「発明」とは、集積された技術や知識を組み替えること...

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 朝4時まで徹夜で踊る盆踊り    2010年代のはじめ頃、盆踊りにハマった。それから全国各地の盆踊りに足を運ぶようになり、いつしか盆踊りに限らず、祭りや民俗行事全般に興味を持つようになった。そういう意味で、盆踊りこそが自分の祭り人生の原点と言えるのかもしれない。思い入れの深い盆踊りを尋ねられれば、いくつか思い浮かぶものがある。なかでも岐阜県郡上市白鳥(しろとり)町の盆踊り「白鳥おどり」は、私にとって特別な存在だ。7月から9月にかけて約20夜にわたり開催され、特にお盆の13〜15日は朝4時まで徹夜で踊り通すという、ぶっ飛んだ盆踊りである。 白鳥おどりの踊り屋台 写真:渡辺 葉 ハイテンションで踊る若者たち 写真:渡辺 葉 小さな子どもたちも踊りに熱狂 写真:渡辺 葉    私が初めて白鳥おどりを体験したのは2014年のことだ。現地に到着したのは深夜0時。大雨の中、エネルギッシュに踊る人々の姿を見た時の衝撃は忘れられない。以来、毎年参加するようになり、あまりにのめり込んで、関連するレコードや資料を収集したり、東京で白鳥おどりに関する体験イベントを開催したり、現地の関係者に取材をして記事を作ったりもした。挙げ句の果てには踊るに飽き足らず、白鳥おどりのお囃子を練習する会まで仲間たちと作ってしまった。 筆者が初めて白鳥おどりに参加した時の写真。深夜0時、土砂降りの雨の中、大勢の人が明け方まで踊っていた(2014)    そんな、私の偏愛する白鳥おどりも継承問題とは無縁ではない。特に近年、大きな問題となっているのが、祭りを支えてきた商店街の衰退だ。町の中心地となる越美南線「美濃白鳥駅」周辺には多くの商店が軒を並べる。この商店主たちが長らく白鳥おどりの運営を担ってきたが、お店の廃業、それに伴う発展会(商店街の組織、白鳥町の商店街は複数の発展会で構成されている)の解散、店主たちの高齢化によって、商店街が運営から離脱しつつあるという。 昼間でも静かな美濃白鳥駅前の商店街    長年白鳥おどりを見つめてきた地元の方々は、その最盛期を昭和50〜60年頃だと証言する。踊りの輪が何重にも形成され、町を人が埋め尽くした。もちろん商店にもずっと活気があった。いまも勢いのある祭りではあるが、昭和末期の最盛期と思しき写真を見ると、明らかに近年の踊り子の数は当時と比べ減少している。それはなぜか。 1985(昭和60)年の徹夜おどりの様子 出典:白鳥踊り保存会五十年史    歴史をたどっていくと、白鳥おどり隆盛の背景には、戦後の好景気によって力を増した町の商店街の存在があったことが見えてくる。そこでこの記事では、白鳥町の商店街繁栄の歴史を補助線としながら、白鳥おどりがいかに誕生し、発展していったのか、その経緯を明らかにしてみたいと思う。 白山信仰の拠点として発展してきた白鳥町    岐阜県中部、福井県の県境に接する白鳥町は、古くから白山信仰の拠点として栄えてきた。白山信仰とは、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2,702mの白山を崇拝の対象とする山岳信仰である。奈良時代に泰澄(たいちょう)という僧が白山に登り、山頂に奥宮を祀ったことで、白山信仰は修験道として体系化され、山伏たちの布教によって全国に広まった。    白山信仰が普及すると、「白山まいり」をする人々の道が整備されていく。白山に至る道は石川、福井、岐阜と三方から開かれていき、奥美濃から白山方面への道筋に位置する白鳥周辺も「美濃馬場(ばんば)」(馬場とは信者が修行する場所)としてにぎわいを見せることになった。 白山信仰の美濃方面における聖地の一つ、白山中居神社(白鳥町石徹白)。かつて信者たちはこの神社にお参りしてから、白山へと向かった    そんな白鳥も、明治から大正初期までは長良川の支流・上保川(かみのほがわ)沿いに点在する集落の一つに過ぎなかったという。しかし、越前街道・飛騨街道が交差する交通の要所でもあったことも起因し、次第に商業の中心地として発展を遂げていくことになった。    木材・繭・生糸・家畜などの農林産物を始め、食料その他の消費財の集散・通過の地点として周辺地域に広範な販路を持ち、周辺農家を中心とする消費需要の伸長と、交通機関の発達に伴って、次第に商取引の規模も大きくなってきた。 (白鳥町教育委員会 編『白鳥町史 下巻』より)    1909(明治42)年には白鳥に「商業組合」(『白鳥町史』では「商業会」)が結成され、現代に連なる近代的な商店街の原型がこの時期に出来上がったと見える。 明治中頃の本町通り 出典:写真に残った白鳥 我がふるさと    1928(昭和3)年、町制施行により上保町から白鳥町に改称。同年、国鉄越美南線が開通し、駅前通りが新設された頃から店舗数が増加。1935(昭和10)年頃には、白鳥町の商家戸数は168戸(全戸数の16.8%)、商店人口は802名(18.0%)となった。この時代、白鳥町内には芸者を抱えた料理店まであったようで「夕方になると首を真白くした女衆が、白鳥稲荷神社へお詣りをしてにぎわった」という古老の証言が『白鳥町商工会二十年のあゆみ...

「女性指揮者ブーム」?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「女性指揮者ブーム」?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 時代の転換期 みなさん、こんにちは! 今月から、3月にオランダ国立歌劇場で初演する現代オペラのリハーサルが始まりました。《ゼロ度の女》の作曲家、ブシュラ=エル・トゥルクさんの新作オペラ《ウンム》です。「ウンム」というのは、アラブ世界では誰もが知る有名な歌姫ウンム・クルスームの名前。アラビア語で歌われる彼女の歌を背景に、とある母と息子の物語が展開します。 演奏は、アムステルダム・アンダルシア・オーケストラ。オーケストラといっても奏者は12人、ほぼ全員が民族楽器の演奏者で楽譜を読める人はわずか数人、という編成です。いわゆる西洋のクラシック音楽とはチューニングも楽器の特性も異なるので、指揮もなかなか一筋縄ではいきません。しかし彼らと仕事をしていると、世界にはまだまだいろんな音楽や多様な表現方法があるということをヒシヒシと感じます。新しいことをたくさん吸収したい私にとっては、毎回が刺激と発見の連続です。 西洋の占星術によると、我々は今ちょうど200年に一度の大きな転換期にあるんだそうです。なんでも、形あるものを重視する物質主義の「土の時代」から、多様な価値観や自由な精神性に重きを置く「風の時代」に移り変わりつつあるのだとか。特に占星術を信じているというわけではないんですが、私自身もこの数年、自分が身を置いている世界の変化を感じていました。 「女性指揮者ブーム」の到来 その変化の一つに、「女性指揮者ブーム」があります。しばらく前からこの言葉を耳にするようになりました。確かに、指揮台に立つのは長らく男性がほとんどでした。もちろん、女性がまったくいなかったわけではないですよ。でも、私の二世代くらい前の先輩方には相当な苦難があったようです。指揮者になったものの壮絶ないじめにあったとか、安定したポストにつけなくて苦労した、という話をたくさん聞きました。それが、現在ではだいぶ潮目が変わっています。日本では沖澤のどか(1987~)さんがブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した2019年頃からでしょうか、指揮者として活躍する女性が増えてきました。 世代の異なる2人のポーランド人指揮者、ゾフィア・ウィスロッカさん(左から2人目)とアンナ・デュツマルさん(右)。女性の指揮者がほとんどいなかった時代に苦労を味わったゾフィアさんは、国際女性マエストロ協会の発起人として女性指揮者の育成・活躍にも尽力されています。 世の中全体がダイバーシティを推進するようになったことも、もちろん影響しているでしょう。これまでの反動か、ヨーロッパではむしろ「女性をどんどん使いましょう!」といって、エージェントが女性の指揮者を積極的にプッシュすることもあるようです。私も知り合いの男性指揮者から、「君は女だからいいよな。今の時代、女性指揮者の方が仕事をもらえるもんな」なんて言われたことがありましたっけ。言ってみれば、今は前の時代の反動で、振り子が正反対に振り切れているような状態なのでしょう。 昨年だけでも、世界有数のオーケストラの音楽監督や芸術監督に就任した女性の指揮者が何人もいました。でも、彼女たちの就任は決して「女性指揮者ブーム」に乗じたものではなく、然るべき実力を評価された結果だと私は見ています。これまでは、実力があっても女性はなかなか相応のポストにつくことはできませんでした。時代の風向きが変わって、今ようやく実力が正当に評価されるようになったのだと思います。 しかしこの「女性指揮者」という言葉、皆さんは違和感ありませんか。私にはなんだか「男がすなる指揮といふものを、女もしてみむとて……」というニュアンスが含まれているように感じてしまいます。今でも時々「女性指揮者の阿部加奈子さんです!」と紹介されることがあり、思わずモヤッとした気持ちになります。もちろん本人に他意はないことはわかっているんですけどね。 同じような言葉に、「マエストロ」「マエストラ」という使い分けがあります。フランス語も男性なら「le chef d'orchestre」ですが、女性になると冠詞もその次の単語も変わって「la cheffe d'orchestre」になる。でも私自身は、わざわざ性別によって言い換えなくていいんじゃない?と思っています。日本語には少なくとも文法上「性の一致」がありませんから、あえて「女性指揮者」という必要はないですよね。もしかしたら、「女性指揮者ブーム」が落ち着く頃には、この言葉自体も使われなくなっているのかもしれません。 リハーサル中の一場面。休憩時間に奏者の質問に答えているところ。 「女性指揮者ブーム」の背景にあるもの ブームのもう一つの背景として、プロオーケストラの水準が向上したことも大きいと思います。カラヤンやフルトヴェングラーに代表されるように、かつてはカリスマ的な指揮者が強いリーダーシップを発揮し、オーケストラを引っ張っていくやり方が主流でした。しかし現在、プロオーケストラの技術は全体的に当時よりもずっと向上しています。その要因としては音楽教育制度の充実と普及、またそれによって個々の演奏家の技術が向上したことなども挙げられるでしょう。オーケストラはある意味一つの生き物のようなものなので、集団で一つの音楽を作ることを通じて優れた技術が次の世代に受け継がれ、時間と共にグループ全体が成熟を遂げていきます。そうしてオーケストラのレベルが向上した結果、強権的なリーダーを必要としなくなった、と言えるのではないかと思います。 今や、ベルリン・フィルとかウィーン・フィルのようなトップレベルのオケは、指揮者がいなくても定番の交響曲ぐらいは演奏できるんです。つまり、単に拍子を取るとか音を揃えるだけなら、もはや指揮者は必要ない。では、オケが指揮者に何を求めているのかというと、それは「音楽性」なんです。指揮者がいったいどんな優れた解釈を持っていて、自分たちをどれほど驚きに満ちた新しい世界に導いてくれるのか? 自分たちの魂をどれほど崇高なところへ誘ってくれるのか? それを期待しているはずです。だって、楽員の一人一人がすでに経験豊かな、音楽を愛する人々なのですから。 リハーサル中、オケのメンバーに特殊な奏法の説明をしている図。 カリスマ指揮者の時代は、オーケストラの運営もトップダウンで決められることが多かったのが、今では楽員の意見を尊重し、民主的に運営されるようになっています。たとえば、初めて客演した指揮者がその後も同じオーケストラから呼ばれるかどうかというのは、楽員さんたちの意見によるところが大きい。それはカラヤンの時代にはありえないことでした。 今の時代に求められる指揮者像 今の指揮者に求められるのは、自分の持つ音楽的信念を押し付けるのではなく、すべてのメンバーが納得して理解できるように伝えるコミュニケーション力。そして多くの人に目を配り、耳を傾ける細やかな気配り。そうしたことができる指揮者が、オーケストラから支持されるようになっています。この時代の流れに、「女性指揮者」という存在がうまくフィットしたのではないでしょうか。 もちろん、女性だからといって必ずしも全員が同じような指揮のスタイルを持つわけではないし、男性指揮者の中にも神経の細やかな人はたくさんいます。あまり物事を「男性・女性」という属性で判断してはいけませんが、「統計的に」女性によく見られる気質とか傾向というのはきっとあるでしょう。昨今の「女性指揮者ブーム」は、今の時代が求める指揮者像に、女性が持つ特質が当てはまった結果なのではないかと考えています。 父性と母性を持ち合わせた指揮者 もっと言うと、私が「優秀だなぁ」と思う人は男性か女性かにかかわらず、父性と母性を両方兼ね備えていることが多いと感じます。父性とは、物事を大局的に捉え、包容力を持って判断する力のこと。母性は、見過ごされがちな細部にまで心を配り、的確にフォローする細やかさ。そんなイメージでしょうか。 私の師匠で現在N響の首席指揮者であるファビオ・ルイージ(Fabio Luisi,...

民族音楽だけじゃない! 心安らぐ癒しの音色『カリンバ』の魅力に迫る

民族音楽だけじゃない! 心安らぐ癒しの音色『カリンバ』の魅力に迫る

  (本記事は、2022年5月に執筆した記事を再掲載しています。) 「カリンバ」という楽器を聞いたことがありますか? 人気ゲーム『あつまれどうぶつの森』にも登場して注目されるなど、おうち時間が増えた今、静かなブームを巻き起こしています。「癒される」とハマる人が続出のこのカリンバ、一体どんな楽器なのでしょうか。 木製の箱の上に並んだ金属の棒を、指で軽やかにはじいて演奏する楽器、カリンバ。楽器名を知らなくても、その音色を聴けば、「オルゴール?」「デパートや歯医者さんのBGMでよく聴く、インストゥルメンタル音楽みたい」と思う人もいるかもしれません。アフリカの伝統的な民族楽器で、親指ではじいて演奏することから“親指ピアノ”と呼ばれたり、その柔らかな音色から“ハンドオルゴール”と呼ばれることも。聴けば誰もが心が落ち着き、“癒される”と感じることでしょう。長引くコロナ禍でおうち時間が増え、現在爆発的に売り上げを伸ばしているというこのカリンバ。楽器店やネット通販などでも気軽に購入することができ、3〜4千円と価格も手頃。指ではじくだけで、誰でも簡単に演奏できることもあり、「気軽に始められる」と人気が高まっています。20年以上前に楽器店で働いていた筆者は、民族楽器が好きで、このカリンバをはじめ、インドの弦楽器「シタール」や、ペルーの縦笛「ケーナ」、木で出来た棒状の本体を上下に振ると、雨が振っているような音がする「レインスティック」など、さまざまな民族楽器を取り扱ってきました。中でも価格の手頃なカリンバは、結婚式や忘年会の余興で演奏するために購入する人も多く、プレゼント用としても人気がありました。当時、このカリンバで演奏する曲目といえば、民族音楽のほかには童謡などのやさしい曲が中心でしたが、YouTubeで検索すると、クラシックの名曲から映画音楽、最新のヒット曲やオリジナル曲まで、世界中のさまざまなカリンバ動画を見ることができます。​​​​​​​ 民族音楽だけではない、カリンバの可能性   人気ゲーム『あつまれどうぶつの森』にもアイテムとして登場していることもきっかけとなり、この数年でカリンバの知名度はずいぶん上がりました。カリンバブームの牽引役ともいえる“カリンバYouTuber”のMisaさんは、YOASOBIの『夜に駆ける』や、人気ボカロ曲『千本桜』、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』などのジブリ映画音楽など、流行曲やヒットソングをカリンバで軽やかに演奏し、コンスタントに動画をアップ。民族音楽だけではないカリンバの可能性を追求し、その音色の美しさや気軽に奏でられる楽しさを広め、注目を集めています。     そもそも、Misaさんはどのようにしてカリンバを知ったのでしょうか。「きっかけは、通勤電車の中で見ていたYouTubeでした。もともとYouTubeを見るのが好きで、ポップスや洋楽など、いろいろな音楽動画をチェックしていたのですが、ある日突然おすすめに出てきたのが、『OCEANS』という海をバックにカリンバを弾いている海外の動画でした。サムネイルにカリンバが映っていたのですが、最初はそれが楽器ということもわからず、『何だろうこれ?』と、何気なくクリックしてみたんです」(Misaさん)ほんの好奇心から観てみたカリンバ動画。「とても癒される美しい音色に、驚いたと同時に感動しました」というMisaさんは、直感でこの楽器の可能性を感じ、その日のうちにネットで注文。翌日に到着し、自分でも「YouTubeで発信することを決意した」といいます。Misaさんにこれまでの音楽遍歴を尋ねたところ、原点となっているのは子どもの頃に始めたピアノで、中高時代に熱中していた吹奏楽部での経験も、現在に大いに生きているそうです。「幼稚園の頃からピアノを始め、中2くらいまでやっていました。中高は吹奏楽部でオーボエを担当し、中学時代はマーチングの全国大会にも出場するなど、かなり熱心に取り組んでいました」(Misaさん)大人になってからは、ピアノやオーボエを演奏する機会はめっきり減ってしまいましたが、音楽が好きなことに変わりはなく、Misaさんの周りは常に音楽であふれていました。そんな時に出会ったのがカリンバだったのです。「カリンバは、自分で弾いていてもその音色に癒されますし、アレンジを考えるのもわくわくします。オーボエも好きですが、音量を考えると家で吹くのをためらってしまいますし、オーケストラや吹奏楽団などに所属しないと難しいですが、カリンバは音量を気にすることもなく、1人で気軽に楽しめるのも魅力ですね。軽くてどこにでも持ち運びができるので、旅先に持って行ってきれいな景色をみつけると、そこで演奏して動画を撮ることもあります。風景とのマッチングを考えるのも楽しいですね」(Misaさん)     YouTubeでは、定期的に動画をアップすることが重要ですが、継続することの大切さは、部活動からも学んだといいます。「中高の部活動で、音楽の楽しさや、毎日コツコツ努力することの大切さを学びました。その時の経験が、日々の動画制作にも生きているなあと、つくづく感じます」(Misaさん)「カリンバが気になるけれど、何から初めていいのかわからない」という人もいると思いますが、現在はさまざまな楽譜集が出版されています。Misaさんも、これまでに初心者向けの教則本や楽譜集を数冊出版していますが、今回新たに出版された『豪華アレンジで楽しむ Misaカリンバセレクション』(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、どのような点にこだわったのでしょうか。「これまでの教則本や楽譜集は、初心者や中級者向けにどんどんステップアップしていく構成で、楽譜も意識して初心者や中級者向けに作っていましたが、今回は完全に私の動画でアップしているアレンジを採用しています。けっこう難しい部分もあると思うんですけど、自分が今できる限りのアレンジを詰め込んだので、ぜひお楽しみいただけるとうれしいです」(Misaさん)カリンバといえば、民族音楽や童謡などを奏でることが主流だった時代を知っているだけに、日本から遠く離れたアフリカの民族楽器でJ-POPやボカロ曲など自由に演奏し、大勢の人たちとYouTubeで楽しさを共有しながらコメント欄で盛り上がることができる現在は、すごい時代になったものだなあ……と、しみじみ感じます。昔はこのような楽しみ方はなく、SNSや動画サイトが当たり前となった、現代ならではといえるでしょう。まだまだ続きそうなおうち時間。年齢問わず気軽にチャレンジできるカリンバで、さらに充実させてみませんか?   <PROFILE> Misa 2019年11月にカリンバに出会いYouTubeに演奏動画を投稿スタート。オルゴールのような癒しの音色のカリンバで演奏する動画が人気急上昇。YouTubeの総再生回数は2200万回。チャンネル登録者は13万人を超える。(2022年5月現在) 各メディアに演奏動画が取り上げられるなど、活動の幅を広げている。 Official Web Site:https://misa-kalimbamusic.com/topYouTube:https://www.youtube.com/channel/UCXxhNwJYn9qcEaevTQebmCwX(旧Twitter):https://x.com/misa_kalimbaInstagram:https://www.instagram.com/misa_kalimba/   Text:梅津有希子   本記事で紹介した楽譜   豪華アレンジで楽しむ Misaカリンバセレクション (発行:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)...

「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方 ~ピアニストで人気YouTuberで東大卒……角野隼斗のマルチな才能はいかにして育まれたか?~

「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方 ~ピアニストで人気YouTuberで東大卒……角野隼斗のマルチな才能はいかにして育まれたか?~

  (本記事は、2020年11月に執筆した記事を再掲載しています。) 今、話題のピアニスト角野隼斗の母であり、コンクール入賞者を数多く輩出してきたピアノ指導者・角野美智子が、書籍『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』を上梓した。本インタビューは、音楽ライターであり、大学で教鞭を執る小室敬幸氏が、その“「原石を磨く」子育て論 ”を最も間近で受けてきた隼斗氏に迫った。  かつては「クラシック音楽の演奏家は技術に長けていても、楽譜がなければ何も弾けない」なんて、嫌味を言われることもあったが、そんな状況も徐々に変わりつつある。近年、若手ピアニストたちを筆頭に自ら作曲・編曲をしたレパートリーを披露することも珍しくなくなったからだ。そもそも20世紀前半まで、偉大なピアニストの多くは作曲家でもあったことを思えば、なんら不思議なことではない。むしろ、聴衆をあっと言わせるエンターテイメント性と、心に深く語りかける芸術性を両立できるコンポーザー=ピアニストこそが、クラシック音楽の未来を切り開く存在となり得るはずなのだ。 そうした期待のかかる新世代ピアニストの筆頭格が角野隼斗(すみの・はやと)である。国内外のコンクールで優勝・上位入賞を重ねてきた実力派であると同時に、2020年11月現在でチャンネル登録数55万人を誇る人気YouTuber “Cateen(かてぃん)”として、それまでクラシック音楽に興味のない人々からも熱狂的に支持されている。それでいて東京大学・大学院を修了したインテリジェンスな経歴も持つのだから驚くほかない。この才人は、どのような環境で育ったのか? その謎を解くヒントとなる書籍が11月28日に発売となった。書名は『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』、著者は角野隼斗の母・美智子だ。ピティナ(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会)の指導者賞を連続20回受賞するなど、ベテランのピアノ指導者として知られている角野美智子は、なんと隼斗だけでなく現役の芸大生である妹の未来(みらい)も優れたピアニストへと導いている。 さぞやスパルタ英才教育だったのかと思いきや、そうでもないらしい。書名からも伝わる通り、子ども一人ひとりの「好き」を大切にする指導は、ピアノや音楽だけに留まらず、21世紀に相応しい子育て論にもなっていて、実に興味深い。今回は著者ご本人ではなく、息子・隼斗の目線から母・角野美智子の教育について語ってもらった。     ――まずは率直に、お母様が書かれた原稿を読んでみていかがでしたか? 僕は普段から「好奇心が原動力であることが、一番大事だ」と考えたり、たびたび言ってきたりしたんですけれど、読んでみると同じことが書いてあって、母の受け売りじゃんと(笑)。それで初めて、教育だったんだなと気付きました。そういえば、そうだったなと思い出したというか。――子育て論や音楽教育論であると同時に、隼斗さんと未来さんの半生を綴った内容でしたもんね。 エピソードは盛られていませんでしたよ(笑)。――教育を受けたご当人が読まれても、ありのままの内容だと(笑)。プロを目指すようなピアノのレッスンというと、未だに昭和的な「スポ根」イメージというか、スパルタでビシバシやるもんだと思われている方がいるかもしれないですけど、角野家の教育方針は真逆ですよね。とにかく、子ども自身の意思を尊重する。そして結果を出すことばかりにこだわらない。 そういうことをちゃんとアピールしてくれたのは僕も嬉しくて。実際、厳しく「こうやりなさいっ!」っていうスパルタ教育を受けたわけではないですから。あくまでも楽しんだ先に、たまたま現在のような結果がついてきたんです。教育熱心な方ほど具体的なノウハウを求めがちかもしれませんが、大事なのはマインド。この本もノウハウを書いているんじゃなくて、マインドを示しているんだと思います。――具体的な方法論ではなく、意識の持ち方・考え方が大事だということですよね。ピアノの指導者としてではなく、母としての美智子さんはどんなママだったんですか? 千葉が地元なんですけど、小学校の頃はやんちゃで不真面目で、先生にも呼び出されてましたし、母にもよく怒られてました。今から思えば心配してくれていたんだと思います。でも中学受験をして、開成(中学校・高等学校)に入ってからは何をしても……ってそんなに悪いことをしたわけじゃないけど(笑)、帰りが遅くても勉強しなくても、怒られたり、何か言われたりはしなかったですね。――一方、お母様は本のなかで『中学生になって、子どもたちだけでゲームセンターに出入りするようなことも、まったく気にならなかったと言えば嘘になりますが、隼斗が熱中していたのは音ゲーでしたので、これもまた「音楽に関係があるなら、いいか」とおおらかに見ていました』と正直に書かれていらっしゃいますね(笑)。放任するのではなく、親として心配はする。でも強制や束縛まではしない。言うは易しですけど、親としてはさじ加減が難しいところです……。 母は教えている時に、子どもが楽しそうかそうじゃないかが敏感に分かるみたいなんです。だから無理矢理やらされて、あんまり笑顔がないままというのは、母としても苦しい。とはいえコンクールで良い成績を取るために目指す過程は、成長するためにすごく重要で。なおかつ重要と言いながらも、それが全てにならないよう気を使ってるように見えますね。発表会とかでも、そんなことをスピーチでいつも言っています。 だから「好き」を大事にするというのは、放任しているだけでもなくて、興味がある部分や得意な部分をどうやってブーストしてあげるのかってことだと思うんです。コンクールも結果を出すことにこだわるんじゃなくて、ブーストするために良い成績を目指す。親もピアノの先生も、そのための潤滑油になるというか。     ――結果にこだわってしまうと入賞できなかった時、努力した分だけかえって精神的にこたえますしね……。本に書かれていた、妹・未来さんが小学校5年生の時にコンクールで思うような結果が出なかったことが続き、進学校を目指して中学受験をしたいと言い出したというエピソードは非常に印象的でした。 僕からすると妹は対照的な存在ですね。小さい頃の僕は、本は全く読まない完全に理系でとにかく数字が大好き。それに対して未来は本が大好きで、逆に算数・数学があまり好きではなかった。そして、音楽家としてやっていくために表に積極的に出ていかないといけないと僕が思っているのに対して、妹は自分からあんまり何かを言い出したりはしないんです。――おふたりのTwitterのアカウントを比べると、割となんでもつぶやかれる隼斗さんと、自分の出演情報が中心の未来さんってな感じで、その性格の違いがはっきり出ていますね(笑)。 でも、意思はすごく強くあるんですよ! そういう根本部分は僕も未来も一緒なのかもしれない。妹の意思が強いなと特に感じたのは中学と高校受験を決めた時で、僕も中学受験をしましたけど、そこに強い意思はなかったですから。――本のなかで書かれていたように、小学校の授業が退屈になってしまった隼斗さんに、好奇心を育める環境として塾に行ってみないかとお母様が勧められたんですよね。中学受験をするために塾に通いだしたわけではなかった。 そうなんです。東大に行くときも迷いましたけど、それは開成にいれば普通の道ですから。でも妹は中学受験で進学校を、高校受験で芸高(東京芸術大学附属音楽高等学校)を受けていて、自分がその時いる環境とは敢えて違う選択をするっていうのを、人生で2回もやっている。強い意思がないと出来ないなと。――兄妹でこんなに対照的な受験だったんですね……。でも、ちゃんとどちらの受験勉強も乗り越えられたのは、ただ塾に通わせたり、家で勉強しなさいって言ったりするだけでなく、お父様が朝一緒に勉強に付き合ってくれていたことも大きかったそうですね。 いま思うと本当にすごいなって思うんですよね……。だって毎朝6時に起きるのは僕もつらかったけど、平日毎日遅くまで仕事している父さんの方がもっとつらいじゃないですか。そんな中で朝の1時間、その勉強に付き合ってくれたのは本当にありがたかったなと思っています。 そもそも、もっと小さかった頃からパズルゲームや数学の問題をだしてくれていたので、算数まわりの興味に関しては母だけじゃなく、父のお陰でもありますね。ちょっとした待ち時間に魔方陣の問題を出してくれたりして楽しませてくれましたし。――なんかお話を伺っていくと、家族であり、チームでもあるように思えてきます! 何かプロジェクトを遂行する上で、当人に丸投げされるのではなく、力が発揮できるようチーム一丸となって出来る範囲の協力を惜しみません。 この本は子育て論ということにはなっていますけど、学生とかが読んでもきっと面白いんじゃないかなと思うんです。要は、この本の中における僕の視点で読めば、どういうふうにに考えてどう生きるのか、みたいなところにも通じてくるから。さっきも言ったように、僕は常日頃から「好奇心が原動力であることが、一番大事だ」と思っていて、それは何のどんなジャンルにおいても変わらないんです。     ――ピアニストとしても、YouTuberとしても、東大の大学院で研究をしていた時も、変わらないと! 自分が興味あるかもしれないと思ったことを、どんどん突き詰めていくからこそ、どんどん知らない世界が広がっていってもっと楽しくなる。そこに楽しみを見いだせるようになることこそが、人生を豊かにするために大事なことだと思うので、そういう意味では今後の進路を迷ってる方とか、学生に限らず社会人にとっても、子育てに関係ない目線で読んでも面白いんじゃないかなとは思いますね。――確かに、会社のなかで部下との関係に悩む上司にとっては、どうやったらお互いにとって無理なく、良い仕事が出来るのか?を考えるヒントにもなりそうです。これからの時代に相応しい、根性論とは正反対に位置するこうした考え方へシフトチェンジしていくためには、各々が「誰かの正解」を目指すのではなく、ひとりひとりが「自分の正解」を見つけられるようになる必要があるようにも思えます。 そうですね。やっぱり自信のなさとか、コンプレックスからくるものだと思うんですよ。だから具体的な結果とか、分かりやすく周りから認められる何かに、すがりつこうとしてしまうんじゃないんでしょうか。本来、それは何のためにやっていたかって考えてみれば、ピアノだったら音楽を楽しむ“ため”に始めたわけですよね。でも結果に固執してしまい始めると、何の“ため”だったのか分からなくなってしまう。それはすごくもったいない。 結果って相対的なものだから、コンクールで一位になる経験を全員がするのは不可能なわけじゃないですか。全員が一位になったら、今度は一位の意味がなくなってしまいますし。――都市伝説的に語られた「運動会の徒競走で、全員手を繋いで、並列でゴールする」なんて例と一緒ですもんね。 だからこそ、子どもに頑張れば良い結果が取れるよって言うのも、それはそれで無責任な話だと思っているんです。でも、結果を求めるために起こした行動の中で、自分が何を学んだか? どんな新しい世界を知れたか?っていう、自分の中で変化が起きていれば、それはすごく意味のあることになると思います。それを楽しめるようになってもらいたい。 そのためには、もうひとつ、何が自分の信念で、何がそうではないかっていう意識を持つことも大事ですね。それを貫き通さないと、SNS上の誹謗中傷とか悪口に振り回されてしまうし、ころころと方向性がぶれてしまうと、誰から見ても何をやってるのかが分からなくなってしまいますから。――まさに、それを背中で示してくれていたのがご両親であったわけですよね。この本にお母様が込められたであろう思いと重なってきます。 自分の考え方や興味の方向とかもそうだし、自分のマインドとか考え方みたいなところも学んでいたんだってことを本を読んで改めて気付かされましたし、親の偉大さ、大きさみたいなことを強く感じることが出来ました。――ご本人があとから気付くっていうのは、理想の教育かもしれませんよね。無理強いされることなく導かれていき、辿り着いた先が自分自身にとって幸せで、素直に感謝できる。理想的な親子関係だなって思ってしまいました。是非、色んな方に『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』を読んでいただきたいですね!   (インタビュアー小室敬幸氏と)​​​​​​​   Interview&Text:小室敬幸Photo:神保未来   本記事で紹介した書籍 「好き」が「才能」を飛躍させる 子どもの伸ばし方 (発行:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス) 角野美智子 著発売日:2020年11月28日仕様:四六判縦/168ページ定価:1,760円(税込)ISBN:9784636965551 購入はこちら...

6月にデビュー・アルバムを発表、現役の東大院生でユーチューバーの顔も持つ、角野隼斗とは?

6月にデビュー・アルバムを発表、現役の東大院生でユーチューバーの顔も持つ、角野隼斗とは?

  (本記事は、2019年7月に執筆した記事を再掲載しています。) 2018年、ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリを受賞し、今年6月には初の公式アルバム『パッション』をリリース(デジタル限定配信発売)した角野隼斗。現在、東京大学大学院でAIの研究をしている現役の学生でもある。そしてCateen名義でYouTubeチャンネルを持つユーチューバーでもあるのだ。あらゆる音楽のジャンルを行き来しながらアクティブに活動している彼は、穏やかに、言葉を慎重に選びながらも、研究について、音楽について、興味深い話をいろいろと聞かせてくれた。※ピティナとは、1966年に発足した、ピアノを中心とする音楽指導者の団体で、ピアノ指導者をはじめ、ピアノ学習者や音楽愛好者など、約16,000人の会員が所属する団体。(ピティナHPより)   グランプリを受賞して、ピアノはただの趣味ではなくなった   ―まずは、ピアノを始めたきっかけから教えてください。角野:母がピアノの先生で、3歳頃から始めたみたいですが、最初の記憶は、4歳で初めてピティナのコンクールに出たことですね。当時は、A2級という幼稚園のクラスの下にA3級というクラスがあって、それが最初に出たコンクールです。5歳のときにはA2級で全国(決勝大会)まで行けて、その後ピティナには毎年出ていました。―そして昨年はついに特級グランプリを受賞されて。角野:よかったです、本当に。実は特級に出る前は、コンクールに出ることに対して、自分の中でマンネリ化というか、モチベーションが下がっていたんです。2016年の、大学3年のときには日本国内やアジアで行われた様々なコンクールに出たりしたんですけどコンクールに参加することの意味がわからなくなっていたんです。―それは、なぜですか?角野:音大生でもない人間が、コンクールなんか出て何の意味があるのかな、と思っていました。ピアノを弾くことは変わらず楽しいんですけど、目標というか、向き合い方がわからなくなっていたんです。そんなときに、特級に出ることを勧められて。これは大きな挑戦だし、しっかりやろうと。グランプリをとったことで、世界が一気に開けました。コンサートも爆発的に増えたし、こうやっていろいろなメディアで取材していただいたり。自分の中で、ピアノに対する思いが、ただの趣味ではなくなったというか、責任を持って音楽活動をしていこう、という覚悟ができました。     ―開成中学・高校から東京大学に進まれたわけですが、音大に行こうと思ったことは?角野:実は高校の頃は、ピアノというか、クラシックから気持ちが離れていたんです。部活でX JAPANのコピーバンドをやったりして。僕はドラムを叩いてまして。YOSHIKI、ですね(笑)。あと、音楽ゲームが好きで、jubeat(ユビート)というゲームの全国大会では、高3のときベスト8に入りました。これは、16個のマスから音が出てきて、それを正しいタイミングで指で叩くという、指でやるもぐらたたきみたいなゲームで、ピアノをやってる人はすぐ上手くなっちゃうんですよ(笑)。音ゲーは、音楽が電子音楽なので、エレクトロニカとかテクノとかも好きでしたね。―そうして様々なジャンルを経由して、またクラシックに気持ちが戻ったわけですね。角野:大学に入ってからですね、クラシックの楽しさを再認識したのは。再認識といっても、そもそも小学校の頃だって、クラシックをおもしろいと感じていたかどうか微妙です。おもしろいと感じる以前に、やっているのが当然、だったので。本番で弾くのは好きだったんですけど、練習は嫌いだったし。中学に入ってから、親から練習しろとあまり言われなくなったことで、開放感というか、ちょっと逃げというか、そんな感じになって。思春期にありがちな(笑)。でも、逃げる先は、ジャンルは違ってもやっぱり音楽でしたね。―東大ではクラシックの「ピアノの会」とバンドサークル「POMP」の両方に所属されてたんですよね。角野:はい、POMPではジャズもやってました。やっぱり、複雑に作りこまれているような音楽がおもしろいと思うようになって、ジャズを聴いたり、自分でも弾くようになって。そのうえでクラシックを聴くと、楽曲の構成や、ポリフォニックな和声、音色の美しさに改めて気がついて。アレンジ、作曲の勉強という意味でも、クラシックから学べることは本当に多いんです。   AIと音楽について研究中、AIと人間の演奏は“変さ”が違う!?   ―アレンジといえば、YouTubeでチャンネルを持っているんですよね。米津玄師さんの曲なんかもピアノで演奏されてアップされてます。こういう活動はいつから?  youtube Cateen / Hayato Suminoチャンネル 角野:中学くらいからですね。ニコ動(ニコニコ動画)が盛り上がっていた頃で、自分でもやってみたいと思って、中3のとき初めてボカロとか音ゲーの曲をニコ動にアップしました。―ほんとにジャンルの垣根がないですね~。自由!角野:僕はジェイコブ・コリアーというアーティストが好きなのですが、彼もきっとジャンルのことなんか考えてないと思うんです。自分の表現したいものを突き詰めていった結果、新しい音楽が生まれた、ということだと思います。僕もジャンルのことは今はあまり考えてないです。もちろん、クラシックももっと勉強したいと思っていますが、最終的には自分で作った作品を自分の演奏を通して伝えたい、新しいものを表現したいなという思いがあるので、これからも編曲した曲や作曲した曲をYouTubeで公開していくつもりです。生配信も定期的にやっているので、ぜひ、チャットでリクエストなんかもしていただければ嬉しいです。―昨年はフランスに留学されていたそうですね。角野:フランス音響音楽研究所というところに、9月から5か月間行っていました。僕は音楽とAIの研究をやりたいと思っていて、今、院の研究室では自動採譜、自動編曲の研究をしているんです。音源を与えられたときに自動的にスコアに変換するというのは、ある程度は今の技術でもできるんですが、単純にスコアにするだけではあまりおもしろくないので、オーケストラの音源を、ピアノで演奏したときに近くなるようなスコアにする、要するに編曲が自動でできるような技術を研究しているんです。フランス音響音楽研究所はまさに僕がやりたいことを勉強できる場所でした。―留学中、ピアノは?角野:もちろん、ピアノも弾いていました。ご縁があって、ジャン=マルク・ルイサダ先生とクレール・テゼール先生につくことができて。ルイサダ先生にはショパンを、テゼール先生にはフランスものを主にレッスンしていただきました。パリでは何回かリサイタルもやりました。4月にはサール・コルトーというホールでやらせていただき、300人を超えるお客様にご来場いただけました。     ―大学院を終えられあとは、どうされるんですか。角野:研究もピアノも、どんな形にせよ両立させていきたいと思っています。すごく難しいことですけど、どちらも音楽のことなので、自分で音楽をやっている人間の視点は研究にも絶対メリットになると信じています。この前、とあるイベントでAIとジャズセッションしたんです。POMPの先輩にも参加してもらって、僕はピアノを弾いて。そのときおもしろいことがわかったのですが、AIと人間の演奏は“変さ”が違うんです。AIは人間をまねて作ってるのに、人間とは“ハズれ方”が違うんですよ。そこに、人間の下手な演奏を再現するよりはるかにおもしろい、新たな音楽があるんじゃないかと思いました。芸術の発展というのは、きっとそういうことなのかな、と。人間が予想できる範疇をちょっと超えたところ、それが新しいと感じられるんです。ものすごく遠いことをやると、なんだそりゃ、と理解されないんですよね。そういう“ちょっと超えたところ”をAIで探せるんじゃないかと、今、可能性を感じています。より、ピアノに深く迫ったインタビューは、月刊ピアノ9月号(8月20日発売)に掲載。https://www.ymm.co.jp/magazine/piano/<PROFILE>[角野隼斗(すみのはやと)] 1995年生まれ。2018年、ピティナピアノコンペティション特級グランプリ、及び文部科学大臣賞、スタインウェイ賞受賞。2002年、千葉音楽コンクール全部門最優秀賞を史上最年少(小1)にて受賞。2005年、ピティナピアノコンペティション全国大会にて、Jr.G 級金賞受賞。2011年および2017年、ショパン国際コンクール in ASIA 中学生の部および大学・一般部門アジア大会にてそれぞれ金賞受賞。これまでに国立ブラショフ・フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、千葉交響楽団等と共演。現在、東京大学大学院2年生。金子勝子、吉田友昭の各氏に師事。2018年9月より半年間、フランス音響音楽研究所 (IRCAM)...

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「ルーツ」となる祭りを求めて    郷土芸能を追いかけていると、さて自分のルーツとなる祭りとはなんだろう?という疑問に思い至ることがある。自分が生まれ育った土地に根ざした祭りは何だろうか?と考えると、私の地元千葉県には数えの7年目ごとに開催される、周辺市町村をも巻き込んだ大規模な神輿祭りがあるのだが、地域の氏子が中心となる祭りなので、祖父の代から移り住んできた身としては、町内の祭りとはいえ、いつも内側というよりは、外側から鑑賞しているような他人事感があって、無邪気に“ルーツ”とまで呼んでいいか躊躇する部分がある。    ところで厳密にいうと私は、育ちは千葉だが、生まれは岩手だ。母の出身地が三陸地方沿岸の下閉伊郡普代村(しもへいぐんふだいむら)というところで、下閉伊郡と北で接する久慈市内の病院で生まれた。普代村は朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道沿線の漁村であり、昆布や鮭、ウニなどの海産物を特産品としてうたっている。子どもの頃は、毎年夏になると家族で帰省して、兄弟で虫かごいっぱいトンボを捕まえたり、従姉妹とテレビゲームで遊んだり、近くの海岸へ浜遊びに行ったり、美しい思い出ばかりの場所だが、思春期を迎えてからは足が遠ざかってしまった(慶弔の機会に何度か訪れてはいる)。    しかし年齢を重ねるにつれて、なぜか自分が生まれた場所に対する郷愁の思いは募っていく。もしかしたら、そこに自分のルーツとなる祭りがあるのかもしれない。そういえば母から、普代村には「鵜鳥(うのとり)神楽」という郷土芸能があることを何度か聞いていた。「自分探しの旅」というわけでもないが、神楽を見に2024年2月、普代村を再び訪れた。 明治三陸大津波を機に「三陸」の地域名が浸透    2月4日の夕方、久慈駅に着く。神楽が行われるのは午前帯なので、前日に前乗りする形となった。駅を出ると、バスロータリーを挟んで「駅前デパート」と呼ばれる老朽化の目立つビルがまず視界に入ってくる。外壁には“潮騒のメモリーズ”と書かれた朝ドラ『あまちゃん』の看板が掲げられている。劇中、久慈駅は「北三陸駅」という名称で登場しており、ドラマの第一話、母に連れられてやってきた主人公の「アキ」が降り立った場所でもある。 久慈駅前にある1965(昭和40)年竣工の「駅前デパート」。『あまちゃん』の劇中にも登場した看板が掲げられている(写真は2019年撮影時のもの) 駅周辺のいたるところに『あまちゃん』の案内板やシャッターアートなどが設置されている(写真は2019年撮影時のもの)    駅前デパートだけではない。駅周辺を散策すると『あまちゃん』関連の看板やら、観光案内板やらがいろいろと目に付く。ドラマの放映は2013(平成25)年のことだが、いまだ根強く愛される作品のようで、10年以上たっても三陸沿岸地域の強力な地域振興、または震災復興のシンボルとして君臨している。    久慈駅前のロータリーにたたずんでいると、停車した車の横で手を振る女性がいた。その顔を認め、急いで近寄って「ご無沙汰しています」と挨拶する。運転席から出てきた男性にも「どうもお願いします」と会釈をした。このご夫妻とは2年前に、東京で毎年開催されている「ふるさと普代会の集い」(上京した普代村の出身者同士で親睦を深める郷友会)で知り合った。 2023年の「ふるさと普代会の集い」の様子。学校の校歌を合唱している一幕    夫のSさんが普代村の出身者で、若くして上京され「ふるさと普代会」の運営にも長く関わっていたが、最近になってご夫婦で普代村にUターンして新生活をスタート。普代と東京をつなぐ架け橋となっている。今回も「鵜鳥神楽を見たい」という私の要望に応えていただき、車での移動から、神楽が公演される地域との交渉まで(後にも説明するが、通常、鵜鳥神楽はイベントや神社の例大祭以外では、地域の人のみしか観覧ができない)、いろいろと旅のコーディネートをしていただいた。本当に感謝に堪えない。    「さあ、乗って」というお言葉に甘えて、乗車する。車は勢いよく走り出し、市街地を抜けると東日本大震災からの復興を目的に整備された真新しい自動車専用道路「野田久慈道路」(2021年開通)に乗り、普代への道を一気に駆け抜けた。 「サケはドル箱」サケ漁で栄えた普代村    普代村は人口2,000人ほどの、岩手県北部海岸に位置する漁業や観光業を主産業とした町である。祖父母も、ともに漁業に従事しており、私が物心つく前に亡くなった祖父は漁師であったし、数年前に亡くなった祖母も、家で畑をやりながら、浜でウニの身を殻から取り出す作業を行っていた姿が、私の記憶の中にも残っている。 生まれて間もない私を抱える祖父(写真右)    生ウニと並んで、普代を代表する海の特産品に挙げられるのが、サケとイクラだ。普代村との接点として個人的に印象深かったのが、毎年秋頃に送られてくる、木製のケースにたっぷりと詰められた冷凍イクラだ。実家にいた頃は、解凍したばかりのイクラをスプーンでざっくりとすくって、ほかほかのご飯に乗せてかき込むのが本当に楽しみだった。    吉村健司・青山潤によると、江戸時代、普代村を治める盛岡藩の財政にとって、漁業生産は重要な位置を占めており、なかでもサケは他領移出を許された七品目のうちの一つでもあった。種々の記録からも、当時からサケはすでに三陸の名産品として認知されていたことがうかがい知れるという。またその年に初めて獲られたサケは「初鮭」として珍重され、藩を通じて江戸に献上、献上者には褒美として米一駄(約120kg)が与えられたそうだ。 普代駅前に設置されていた、魚を持ち上げる猫たちの像(2019)    戦後、普代村では漁港整備の進捗とともに、水産養殖業も盛んとなった。サケ漁は昭和末期から平成初期にかけて最盛期を迎え、1984(昭和59)年発行の『普代村史』(普代村)に掲載された普代村漁協太田部市場扱いのサケの漁獲量データは以下の通りになっている。 51年 149.7トン/48,327匹 52年 297.3トン/794,23匹 53年 523.5トン/14,1626匹 54年 1754.3トン/513,540匹 55年 1091.2トン/338,343匹 ※前者は漁獲量、後者は漁獲数    「普代村の場合、サケは普代村水産業のドル箱ともいい得るようになった」という、ちょっと露骨過ぎる普代村史の説明もあながち間違いではなかったようで、景気の良い時期にはサケ御殿とも呼べるような豪邸が建ったとか、村内を外車が走り回っていたとか、海上に大漁を告げる「富来旗(ふらいき)」という大漁旗がいつもはためいていたと、太田部漁港の近くに住む伯母も証言している。    鵜鳥神楽を理解する上で、漁業や漁民という要素は切っても切り離すことはできない。そこで次に、鵜鳥神楽の概要について大まかに解説してみたい。...

指揮者のレパートリー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者のレパートリー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新しい年の幕開け 2025年が明けましたね! 皆さんはどんなお正月を過ごしましたか? 昔から「新年に日付が変わるタイミングに何をしているかがその一年を決定する」と信じている私は、今年の元日を作曲しながら迎えました。取り組んでいるのはもちろん、今年11月に自分の指揮で初演するオルガンと管弦楽のための新作(連載第8回参照)です。 作曲する時は、指揮をするのとは全然違う脳みそを使います。だから、ちょっと空いた時間にサッと書き進める、みたいなことができないのが悩みどころ。一方で今年も指揮の方は通常の演奏会に加えて日本とヨーロッパでオペラプロダクションが5作(うち2作が初演)控えていて、作曲に充てられる時間は限られています。でも、私は挑戦することが嫌いではありません。今年も皆さんに素晴らしい音楽をお届けできるよう、時間管理と健康管理に神経を払いつつ、一つ一つ着実にこなしていきたいと思います。 「指揮者のレパートリー」とは  現在では「作曲」と「指揮」を別々の活動、と捉えるのは一般的な感覚かもしれませんが、少し視点を引いて歴史を振り返ると、ロマン派初期頃まではモーツァルトやベートーヴェンのように“作曲家が自作を振る”というのがもっとも一般的な在り方でした。そこから時代が下ってメンデルスゾーン、ベルリオーズ、リストの時代になると作曲家が自作以外の作品も指揮するようになり、加えてオーケストラの大規模化や音楽の複雑化とも相まって指揮者の専業化が進んでいったのですね。ですから、現在のような「古典から現代までさまざまな作曲家の作品を振る指揮者」が現れたのは長い歴史からすればほんの最近のことなんです。 古今東西を合わせれば星の数ほどある作品のなかで、指揮者はどうやって自分のレパートリーを築いていくのでしょう? 今回は編集部からのリクエストにこたえて「指揮者のレパートリー」についてお話ししたいと思います。 私のレパートリー 連載第3回と第4回で私の指揮科時代のエピソードをご紹介しましたが、どこの音大でも指揮科の学生が避けては通れない必修のレパートリーというのがあります。たとえばベートーヴェンの交響曲全曲などがそうです。ピアノ科の学生がショパンを勉強するようなものですね。同時に本人の特性や傾向というのもやはりあって、指揮科の学生時代、現代音楽を演奏する話が来ると同級生がいつも私に譲ってくれていました。「カナコは現代音楽好きだし、きっと卒業してからもたくさん振るでしょ!」と(笑)。 また、ピアノ伴奏科時代(連載第2回参照)にはオペラのコレペティトゥール(音楽の部分をピアノで弾いて歌手に稽古をつける人)をたくさん経験していたこともあり、オペラプロダクションというのもキャリアの初期から大切なレパートリーの一部でした。それから言うまでもなく、ラヴェルをはじめとするフレンチ・レパートリーは、20年以上パリで暮らし、パリ音楽院で指揮法を学んだ私の根幹となるものです。 ベルリオーズ《幻想交響曲》(神戸フィルハーモニック、2023年11月) 逆に、ずっとフランスにいたことでマーラーやブルックナー、R. シュトラウスの交響曲・交響詩などの “ドイツもの”を振ることに対しては、長い間どこか遠慮するところがありました。「私が振っていいのかな?」と。おそらく指揮者を招聘する側としても、“ドイツもの”はドイツのバックグラウンドがある人にお願いしたい、と考えますよね。 でも去年の4月、アルバニアのオケを客演してから少し考えが変わりました。そのコンサートではアルバニアの国民的作曲家、フェイム・イブラヒミ(Feim Ibrahimi, 1935~1997)の代表作であるピアノ協奏曲を振ったのですが、正直なところ、お話をいただくまで私はイブラヒミの名前はもちろん、アルバニアについてほとんど何も知りませんでした。そんな私が、作曲家のご遺族も臨席される大事な演奏会で指揮をしていいのだろうか……。アルバニアに行くまではすごく心配でした。 2024年4月、アルバニアのテレビニュースで紹介された際の様子。 ところが蓋を開けてみたら演奏会は大盛況。終演後、作曲家の奥様が楽屋を訪ねてこられて「これこそが亡き夫が聴きたかった演奏だ」「あなたはアルバニアの心をわかっている」と涙を流して感激しておられるのです。私の手を握り締めて感動している夫人を見ていて、自分で壁を作る必要はないんだと気づきました。「ずっとフランスにいたからドイツものを理解していないんじゃないか」とか「日本人だからわからないんじゃないか」と、今まで自分で思い込んでいたものが少しほどけた感じがありました。 レパートリーに対する考え方 レパートリーの深め方として、自分が得意とするものを徹底的に究める、という考え方もあると思います。同じ曲を何百回、何千回と演奏し続けるうちに誰にもたどり着けない新しい境地に達する、というのも芸術家としての一つの有り様でしょう。ですが私の場合、レパートリーを増やしていくことに貪欲でありたい、とずっと思い続けてきました。元来好奇心が強いということもありますが、できるだけ多くの音楽に触れて、そこからさまざまなメッセージを受け取りたいと思っているからです。音楽という言語には果てしない可能性が詰まっています。私はその無限の可能性を一つでも多く学びたい。私が現代音楽を好きなのも、その動機が根底にあります。 ダヴィッド・ウドリ《インターセクションズ》(アンサンブル・ミュルチラテラル、2014年) 私は個人的にも現代音楽が好きで、機会があれば現代音楽を紹介するためにもプログラムに入れたいと思っていますが、より正確に言うと「演奏機会の少ない作品を紹介したい」という気持ちが強いんですね。古い時代の音楽にも、後世の作曲家に大きな影響を残しながら演奏される機会の少ない作品はたくさんあります。そうした知られざる名曲と新しい作品を並べて、新しい作品がいかに古い時代の音楽からヒントを得ていたかがおのずと聴き取れるようなプログラムを組むなど、やってみたいアイデアがたくさんあります。 おそらく、それは私がもともと作曲の出身だからということもあるでしょう。型にはまった「定番・安定」のプログラムではない、何か新しいことをやりたいという気持ちが常にあります。クラシック音楽のリスナーが年々高齢化していて若い人が増えないとよく言われますが、本当はもっとやり方次第で若い世代の人たちを惹きつけることができると思うんです。今は小さい頃からYouTubeやSpotifyでいろんな音楽に触れて、ある意味音楽に対するバリアがない人が増えています。インドネシアでは若者たちがマーラーとメタリカを同時に聴いてましたからね(笑)。彼らのような柔軟な発想に、もしかしたら突破口となるヒントが隠されているのかもしれません。 日本人作曲家の作品 日本人作曲家の作品も世界に紹介していきたいですね。芥川也寸志さん(1925~1989)や黛敏郎さん(1929~1997)、先年亡くなられた西村朗さん(1953~2023)など、振ってみたい優れた作品はたくさんあります。ヨーロッパにはいまだに日本といえば「ゲイシャ・フジヤマ」、音楽といえばすべてペンタトニック(笑)みたいなステレオタイプのイメージを持っている人もいますが、そうではない日本の音楽を発信していきたい。 オランダで私が芸術監督を務めるアンサンブル・オロチという現代音楽アンサンブルのレジデント・コンポーザー、向井響(1993~)君の作品も非常にユニークです。彼の《美少女革命:Dolls》という作品には人形浄瑠璃がとり入れられているのですが、伝統邦楽の要素と西洋音楽の語法が違和感なくマッチしているんです。そんな新鮮な感性を持った若い人たちともたくさんコラボレーションしていきたいと思っています。 こうしてやりたいことを挙げていると体がいくつあっても足りない気がしてきますが(笑)、2025年も健康に留意しつつ精進を続けていく所存です。皆様にとっても幸多き一年となりますように! 今年もどうぞよろしくお願いします。 前の記事...

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