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ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】

10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 ワルシャワ到着~オープニング・ガラ・コンサート   ショパンコンクールの取材は、2005年以来5回目。全日程を取材するのは2015年から続けて3回目となります。コロナ禍で開催が1年延期された前回の第18回コンクールでは、鮮烈な個性で躍動感あふれるショパンを聴かせたカナダのブルース・リウが優勝に輝き、我らが日本の“サムライ”こと反田恭平さんが第2位、第17回でもファイナルに進出した小林愛実さんが第4位など、日本人の活躍も目立ち、大きな話題を呼びました。 日本中がショパンコンクールブームに沸いた前回のコンクールから4年、今回はどんなスターが生まれるのか、熱い視線が注がれるなか、10月2日、第19回コンクールが開幕しました。   10月2日の朝ワルシャワに到着した私は、いつも宿泊するフィルハーモニーホールの近くのアパートにチェック・イン。近くのスーパーで水や食糧を買い込み、野菜スープを作ってパンやハム、ソーセージ、チーズと共に食べてホッと一息つきました。ポーランドの野菜、パン、ハム、ソーセージ、チーズなどの乳製品、とっても美味しいのです。3週間の取材中、外食もしましたが、基本は自炊。野菜スープやラタトゥイユを仕込んで、あとは買ったものという感じですが、健康的な食生活を心がけました。コンクールが始まると、モーニング・セッションは朝10時から午後3時近くまで、イヴニング・セッションは午後5時から夜10時近くまでというスケジュールなので、ゆっくり食事を摂る暇がないのです。歩いて5分のアパートの部屋に戻って、くつろいで好きなものを食べるのが一番。とりあえず初日の買い出しと仕込みが終わり、シャワーを浴びて昼寝をして、夜20時からのオープニング・ガラ・コンサートに備えました。   オープニング・ガラ・コンサートは、アンドレ・ボレイコ指揮、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団が、ショパンの《ポロネーズOp.40-1「軍隊」》のオーケストラ版を奏でて幕を開けました。ポーランドの民族の誇りを感じさせる勇壮な演奏で、これから始まるショパンコンクールへの期待が高まったところで、前回の優勝者ブルース・リウが登場してサン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》を演奏。鮮やかなテクニックでエキゾティックな作品の魅力をみずみずしく描き出しました。審査委員長のギャリック・オールソンと審査員のユリアンナ・アヴデーエワによるプーランク《2台のピアノのための協奏曲》のエキサイティングな演奏で会場の熱気はさらに高まり、審査員のダン・タイ・ソンが加わって、新旧の優勝者4人によるJ.S.バッハ《4台のチェンバロのための協奏曲》。典雅な響きを現代のピアノから引き出し、4人の個性が溶け合う素敵なアンサンブルで、祝祭のムードに包まれたコンサートを華やかに締めくくりました。 スタンディング・オベーションで新旧4人の優勝者の演奏を称える聴衆 オープニング・ガラ・コンサート翌日のコンクール情報誌「Kurier」の表紙 オープニング・ガラ・コンサートの会場で、日本人コンテスタントの東海林茉奈さん(中央)、京増修史さん(右)と 第1次予選(10月3日~7日)   10月3日から5日間にわたって開催された第1次予選には84名のコンテスタントが出場し、9月29日のオープニング式典で行われた抽選で、姓の頭文字が「T」のコンテスタントからアルファベット順に演奏することになりました。演奏順についてのルールは今回から変わり、ラウンドごとに6文字後ろにずらして第2次予選は「Z」から始まり、4ラウンドでアルファベットが一巡するとのことでした。   今回は課題曲も従来と少し変わりました。第1次予選は、(1)これまで2曲だったエチュードが技巧的難度の高い5曲のエチュードから1曲、(2)指定されたノクターンまたはゆるやかなテンポのエチュードから1曲、(3)バラード、舟歌、幻想曲から1曲、(4)3つの指定されたワルツから1曲を選択することとなり、ワルツという舞曲の要素が加わったことで、より多様な側面からコンテスタントの能力が評価されることになりました。   今回の公式ピアノは、スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ、ベヒシュタインの5メーカー。コンテスタントは、開幕前にひとり15分ずつセレクションの時間が与えられ、ホールのステージで試弾して自身のパートナーとなるピアノを選びました。ここでもルールに変更があり、これまでは先生や家族などに客席で聴いてもらって考えることができたのですが、今回はひとりで決めなければならず、コンテスタントの多くが、最後まで迷ったと語っていました。フィルハーモニーホールは、ステージと客席で音の聴こえ方が大きく違い、ホールの中でも座る場所によって音響が変わります。最初に選んだピアノはファイナルまで変更が認められないので(これも、前回までは認められました)、皆さん悩んだことと思います。   10月3日午前10時、いよいよコンクールが始まりました。姓のアルファベットの頭文字が「T」からなので、牛田智大さんが3番目に登場し、13名の日本人コンテスタントのトップバッターとなりました。爽やかな表情で舞台に現れた牛田さんは、抒情あふれるノクターン、チャーミングなワルツ、晩年のショパンの心情に迫る《舟歌》など、完成度の高い演奏を披露し、会場から大きな拍手を浴びました。   84名のコンテスタントの第1次予選の演奏を聴いて、とにかく全体のレベルが高く、ここから約半分の40名を選ぶのは大変だなと思いましたが、10月7日の夜11時、予定時刻ぴったりに予選通過者が発表されました。日本人は、桑原志織さん、中川優芽花さん、進藤実優さん、牛田智大さん、山縣美季さんの5名が通過。今回の13名の日本人コンテスタントは、それぞれ多彩な個性と優れた音楽性でショパンへの誠実なアプローチを聴かせてくれたので、結果発表の瞬間は辛い気持ちになりましたが、どのコンテスタントにとっても、この経験は必ず今後のピアニスト人生の糧になることでしょう。   今年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでファイナリストとなった桑原志織さんは、昨年末のルールの変更により予備予選免除で参加資格を得て、悩んだ末に参加を決めたとのことですが、ブゾーニ、ルービンシュタインなど数々の国際コンクールに入賞した実力を発揮し、見事な演奏を繰り広げました。コンクール直前の9月19日には、ブラームス《ピアノ協奏曲第2番》を演奏。ショパンコンクールの準備は大丈夫かしら? とちょっと心配しながら、どんなショパンを聴かせてくれるのか楽しみにしていたのですが、期待以上の素晴らしい演奏でワルシャワの聴衆の心を掴みました。   10代の頃からピアニストとして活躍し、多くのファンがいる牛田智大さん、2021年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝した中川優芽花さん、日本音楽コンクール第1位ほか国内外のコンクールで優秀な成績を収めている山縣美季さん、前回のコンクールでセミファイナルまで進んだ進藤実優さん、いずれも独自の世界を持つ優れたピアニストが第2次予選に駒を進めました。   日本人以外では、前々回(2015年)、当時17歳で第4位となったエリック・ルーさん、前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさん、やはり前回のファイナリストのラオ・ハオさん、ジュネーブ、ルービンシュタインなど参加したコンクールすべてで優勝しているケヴィン・チェンさんなど、注目のコンテスタントたちも順当に通過しました。 第2次予選(10月9日~12日)   第2次予選は、10月9日から12日まで4日間にわたって行われました。このラウンドの課題曲も、従来と変わりました。最も大きな変更点は、《24の前奏曲》を全員が弾かなければならないこと。全曲弾いても、6曲ずつ4つに分けた1組を弾いても構いませんが、とにかく全員が弾かなければなりません。前回まで《24の前奏曲》は、第3次予選で2曲のソナタとの選択で選ぶコンテスタントがいましたが、あまり多くは弾かれていませんでした。バッハの《平均律》に着想を得て、ショパンが自由な筆致で書いた24の宝石のような小曲から成るこの作品は、ピアノ音楽の最高傑作と言ってもいいかもしれません。しかし、多彩な小曲のキャラクターを瞬時に描き分けるのは、ソナタやバラードを弾くのとは違う難しさがあります。このほかに第2次予選で課されたのはポロネーズで、40分~50分の演奏時間内であればそのほかの曲を自由に選択して演奏できます。前回よりも全体の演奏時間が10分長くなったのは、《24の前奏曲》を全曲弾くと約35分かかるためです。この10分長くなった第2次予選は、実際に客席で聴いてかなり長いと感じました。ショパンコンクールを聴くのは体力勝負、審査委員長のギャリック・オールソン氏もコンテスタントの演奏の合間に立ち上がって腰を伸ばしていらっしゃいました。 演奏の合間に腰を伸ばす審査委員長(中央)   しかし、《24の前奏曲》が課され、演奏時間が長くなったため、第2次予選はかなり聴きごたえのあるものとなりました。前奏曲を全曲弾いたのは40名中10名で、30名は6曲を弾いて残った時間を自由に使い、あまり弾かれる機会のない《ピアノソナタ第1番》や、前回の優勝者のブルース・リウが弾いた《「お手をどうぞ」の主題による変奏曲》(ラ・チ・ダレム変奏曲)などを組み入れたユニークなプログラムを聴かせてくれたのです。《ピアノソナタ第1番》がショパンコンクールのステージで演奏されたのは、おそらくコンクール史上初めてではないかと思いますが、今回は3人のコンテスタントが演奏しました。しかも同じ日に! また、ケヴィン・チェンさんは作品10のエチュード全曲を鮮烈なテクニックで演奏し、会場を圧倒しました。   数々の名演が繰り広げられた第2次予選ですが、第3次予選に進めるのは半分の20名。最後のコンテスタントの演奏が終わった数時間後に結果が発表されました。第1次予選も第2次予選も、予定時刻通りの発表でしたが、これは採点と集計のルールが変わり、数字の計算だけだったからのようです。   ここで、今回の審査の採点方式について、少し説明しておきたいと思います。これまでのコンクールでは、各審査員がYes/Noと25点満点の点数を提出していましたが、今回は点数のみの審査となりました。自身の生徒は「S」として審査できないのは従来通りです。各ラウンド、コンテスタントの演奏が終わった時点で点数をつけ、第1次予選はラウンド終了後、第2次、第3次予選は午前と夜のセッション終了後(そのラウンドのすべての演奏を聴いてから調整することはできない)に提出します。また、第2次予選以降のラウンドは、前のラウンドの点数を規定の割合で反映させ、その総合点で順位を決めます。たとえば第2次予選は、1次を30パーセント、2次を70パーセントの割合で総合点を出したそうです。さらに、この採点方式が複雑なのは、審査員の採点が、平均点から大幅にかけ離れている場合(1次は±2点以上、2次、3次は±3点以上)、補正されるとのこと。わかりにくいルールで、審査員も、この採点方式に戸惑った方が多かったようです。海老彰子氏は、「結果的に審査員の評価が平均化される傾向にあり、ユニークな個性を持つコンテスタントが評価されにくかったかもしれません。審査員が何を重視して評価するかはそれぞれ異なり、点数だけでは表せないと思います。個人的には、Yes/Noと点数で審査した従来のやり方の方がよかったと思います」と語っていました。   今回の採点のルールについて詳しく知りたい方は、こちら(英語のサイト)をご覧ください。   さて、第2次予選を通過した日本人コンテスタントは、桑原志織さん、進藤実優さん、牛田智大さんの3名。中川優芽花さん、山縣美季さんは、《24の前奏曲》全曲を、それぞれのアプローチで繊細に表現し、聴衆の反応もよかったので、とても残念です。   そのほか、第3次予選に進めなかったコンテスタントで印象に残った人について書きたいと思います。   台湾のチャン・カイミン(Kai-Min...

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 わずか350名の町民で支えている火祭の困難    祭りの担い手不足という継承課題を支援するため、石川県は2025(令和7)年にボランティア制度「祭りお助け隊」を開始した。前編では県の担当者に取材し、その意義を確認するとともに、実際に支援先となった「向田(こうだ)の火祭」(石川県七尾市・能登島)に参加して、ボランティア活動の様子と祭りの現場をレポートした。 石川県能登島向田    では、祭り主催者には「祭りお助け隊」という取り組みがどう受け止められたのか。後編では、ボランティアの取りまとめ役を務めた火祭実行委員・高橋俊朗さんにインタビュー。祭りお助け隊を導入した経緯について話を伺った。 火祭り実行委員 高橋俊朗さん    まず現在、向田の火祭が抱える継承課題について聞いてみた。    「七尾市には四大祭りと呼ばれる代表的な祭りが四つあります。青柏祭(せいはくさい)、石崎奉燈祭(いっさきほうとうまつり)、お熊甲祭(おくまかぶとまつり)、そして向田の火祭です。向田の火祭は、ほかの三つが複数の町会の連合で行われるのに対し、向田という一つの町だけで執り行われるのが特徴です。あの規模の祭りを、人口350人ほどの町民だけで支えなければいけない、そこが祭りを執行するうえでの難しい点ですね」 デカヤマと呼ばれる巨大な曳山が有名な「青柏祭」    七尾市の公表している人口集計表を見ると、2014(平成26)年1月の能登島向田町の人口は515人、2024(令和6)年1月は398人と、10年で20%近くもの人口減少が起きていることがわかる。この状況で同じような規模の祭りを維持しようとすると、町民一人一人の負担も当然に大きくなってくる。    「例えば、柱松明に使う柴は、住民が総出で集めます。各世帯のノルマは7束です。自分で用意できない家は、近所や親戚に頼んで用意してもらいます。松明起こしなどの重労働も住民が力を合わせて行いますが、どうしても人手を出せない場合は、出不足金を納めれば免除される仕組みもあります。ただ、近年は一人暮らしの高齢者が増え、労働力も資金も負担が難しい世帯が目立ってきています」    また、課題は労働力だけにとどまらない。たとえば、オオナワづくりに欠かせない稲わらの確保も大きな問題だ。現在、火祭で使う稲わらを提供しているのは高橋さんの父である。良質な稲わらを得るため、コンバインではなく手押しのバインダーで刈り取り、さらに「稲架(はさ)掛け」と呼ばれる昔ながらの方法で天日干しを行い、その後に脱穀。こうした手間のかかる工程を経て、稲わらが準備されている。誰でも気軽に引き受けられる仕事ではないからこそ、持続的な稲わら確保の方法も検討していく必要があるだろう。 稲わらの調達を引き受ける高橋さんの父。しかも稲わらは無償での提供だという 「人がいないから祭りはできない」は成り立たない    こういった課題を抱える中で、向田の火祭は震災の起こった2024年、祭りを続けるか否か、大きな岐路に立たされた。高橋さんの話によると、向田は他の地域と比べると比較的地震による被害は少なかったそうだが、やはり「いまは祭りをやっている場合ではない」という声も出てくるようになる。しかし高橋さんの中では、すでにコロナ禍で2年の休止を経験していることもあり、このタイミングでまた休止をしてしまっては、今後の再開はいっそう難しくなるのではという危惧があった。    「地震が起きた2ヵ月後、議決権を持っている51名の住民が集まって、火祭をするか否かという決をとったんです。結果、やりたいという人が27名、やるべきでないという人が24名。まさに紙一重で祭りの実施が決まりました」    この時、開催の方向を決定づけたのは、若い世代の意思だ。    「高校卒業から40歳までの男性が集まった“向田壮年団”という組織があるのですが、彼らが実質的な祭りの実行部隊になるんですね。そんな壮年団の士気が高く、“祭りをやりたい”という声が大きかったんです。ちょうど子育て世代でもあるので、やはり自分の子どもに祭りを見せたいという思いも強くて。壮年団がまとまれば祭りはできるので、彼らをサポートする壮年部(壮年団を卒業した41歳以上の男性が所属する組織)も、そこまで言うのなら我々も手伝おうか、ということになったんです」 柱松明づくりに精を出す壮年団の姿    現在、47歳の高橋さんも壮年部の一員であり、また町会の役員を務めるほか、火祭に関する「祭礼委員」にも関わり、祭りや地域を盛り上げるための、さまざまな取り組みを推進している。    具体策の一つとして、2024年から「応援金(義援金)」の募集を始めた。これまでは、地区内で商売を営む人々に壮年団が寄付をお願いして資金を賄ってきた。だが、地震の影響で商売が立ちゆかなくなり、寄付の確保が難しくなった。そこで、祭りの公式サイトなどを通じて広く応援金を呼びかける方針に切り替えたのである。 祭りの公式サイトに掲載された応援金募集の呼びかけ    また「地域の結束を強め、地縁というリソースを最大限に活用する」という目的で、2025年初頭から電子回覧板サービス「結ネット」を導入した。地域の各種情報をアプリで共有できる機能があり、祭りなどの行事案内もここで発信している。    「電子回覧板のいいところは、紙の回覧板ですと基本的にその家の世帯主しか見ることがないんですけど、アプリで見られるようになれば、子どもたちも情報をチェックできるようになるんですよね。さらには、能登島から離れて住んでいる人たちにも、地域の情報が届くようになる。それで、火祭の日は地元に帰ろうかなとか、現地には行けないけど応援金は出そうかなとか思ってもらえるかもしれないですし、地域行事に関わるきっかけにもつながるんです」    導入には他の役員から反対もあったが、説得を重ねて進めた結果、現在は約100世帯中80世帯が電子回覧板を受け入れるまで、浸透しているという。    そして、今回の祭りお助け隊の取り組みも、やはり高橋さんが中心となって話を進めている。    「今年の4月くらいから、(県職員の)若林さん(連載第15回参照)から祭りお助け隊の話は聞いていて、役員会で“こういう話があるんですけど、どうしますか?”と提案してみたんです。最初は祭りのボランティアというものにみんなアレルギーがあるんじゃないか、これはうちらの祭りだという意見が出るかなと思ったんですが、意外とすんなり話が通って、じゃあ誰が(ボランティアの)面倒を見るんだとなった時に、やるんだったら僕しかいないだろうということで、引き受けました」    では実際に、祭りお助け隊を受け入れて、どういう感想を持ったのだろうか。...

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 能登半島を襲った地震と豪雨    「能登い能登いとヨ みなゆきよ ハー照るよ能登は いいよいかいな 住みヨーエよいかな」(滋賀県伊香郡木之本町)    岐阜県を中心に、長野、滋賀、奈良などの地域に石川県の能登地方について歌い込んだ盆踊り歌が、「能登」「輪島」「笠おどり」など、さまざまな名称で伝わっている。有名なところでいえば、富山県南砺市五箇山地方に伝わる「麦屋節」も、この系統の民謡である。    共通するのは、力強くも、どこか哀愁漂うメロディ。いつしかこの歌を通じて、能登への憧れのような気持ちが、私の中で醸成されていった。    「能登へ能登へと 木草もなびく 能登は木草の 本元だ」(長野県下伊那郡阿南町)    いつか能登を訪れたい、そう思い続けてきた。だが、2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震で、その願いは途切れた。地震は最大震度7を観測し、住家被害は全壊8千棟以上を含む約8万4千棟、避難者は最大で約3万4千人にのぼった。そして、多くの尊い命も失われた。 輪島市堀町における道路被害の状況 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/CC-BY-NC-SA-4.0/    さらに地震の傷も癒えない9月には、能登半島北部を記録的な豪雨が襲い、河川氾濫、浸水被害、土砂災害などが発生。追い打ちをかける形で、被災地への被害をさらに拡大させた。 被災によって4分の3の祭りが実施を断念    地震発生から数カ月が経つと、被災や復興の状況を報じるニュースに混じって、能登の祭りに関する報道も現れはじめた。特に多くの人の関心ごととなったのは、能登半島の各地で7月から9月にかけ開催される「キリコ祭り」の行方だ。    石川県観光戦略課のウェブページ「能登のキリコ祭り」に掲載された観光スペシャルガイド・藤平朝雄氏の解説によれば、キリコ祭りは江戸期に起源をもつ能登一円の灯籠神事で、毎年7〜10月に約200の祭りが行われる。キリコ(切子灯籠)は地域によって「奉燈(ホートー)」「お明かし」とも呼ばれ、神輿の足元を照らす御神燈として担がれたり、押し曳きされたりする。巨大なものは高さ約15m、重さ2〜4tに達する。灯明を「奉る」こと、その日のために精進して「待つ」ことを核に、年に一度、住民と来訪者が一体となって高揚する、まさに能登を象徴する祭りであるという。    祭りの開催には、費用も人手も、そして気力も要る。なかには津波でキリコが流失した地域もある。復興がまだ道半ばの状況で祭りを実施することは決して容易ではない。それでも祭りを待ち望む人はいる。    2024年(令和6年)7月、未曾有の大災害を受けて石川県が策定した「石川県創造的復興プラン」では、能登における祭りの意義について、次のような説明がなされている。 能登には、人々が心を激しく燃やし、地域が一つになる祭りがあります。(中略)能登の祭りは地域のアイデンティティであるとともに、子どもからお年寄りまで幅広い世代が参加することで、地域の結束を高める役割を担っています。祭りが近づくにつれ、道具の 準備や作法の確認、食事の用意など、老若男女問わず皆が忙しくなります。全体の指揮を青年団が執り、そのリーダーは、大人たちから頼られ、子どもたちが憧れる存在です。能登を離れても、祭りの時には地元に帰るという方がとても多く、毎年、年末年始やお盆ではなく、祭りの日に合わせて同窓会が開かれるほどです。(中略)能登の祭りには、地域に関わる全ての人々を魅了し一体にする、激しく燃えるエネルギーがあります。 (石川県「石川県創造的復興プラン」より)    この「創造的復興プラン」では、祭りが“能登らしさ”を体現する重要な柱として大きく位置づけられている。その象徴性ゆえに、震災のあった年は、3カ月続く「キリコ祭り」シーズンの口火を切る能登町・宇出津の「あばれ祭」(例年7月第1金曜日・土曜日開催)が開催できるのか否か、多くの人がその行方を注視することになった。 2024年度開催のあばれ祭 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/ CC-BY-NC-SA-4.0/    過去の報道を追っていくと、2024(令和6)年5月のNHKによる報道で、あばれ祭が例年通り7月に開催されることが決まったと報じられている。地震によって道路や祭りの拠点となる神社の鳥居が壊れるなどし、また安全管理や費用面での問題で開催が危ぶまれたが、祭りの協議会が議論した結果、町の復興につながるという理由から開催が決定したという。    開催に向けて、鳥居の再建や、復興祈願花火大会の開催を目的にしたクラウドファンディングも実施された。祭りのボランティアも集まった。そのように全国へ支援の輪が広がる中で、無事にあばれ祭は開催に至った。しかし、あばれ祭のような幸運な事例もあるが、やはり多くの地域は祭りの開催を断念。被災地では実に4分の3の祭りが開催を見送ることになったという。...

大人のギター倶楽部 presents ライヴレポート 「聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~」

大人のギター倶楽部 presents ライヴレポート 「聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~」

 聖飢魔IIとBABYMETALのジョイントギグ<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>が、8月30日・31日の2日間に亘ってKアリーナ横浜で開催された。実は両アーティストの対バンという話は約10年前の時点であったそうだが、諸般の事情により開催には至らず、聖飢魔IIが地球デビュー35周年期間限定再集結を行った魔暦22(2020)年にも話が出たが、コロナ禍の影響により立ち消えになった。つまり、今回の<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>は足かけ10年を経てようやく実現した公演ということで、聖飢魔IIの構成員、そしてBABYMETALのメンバー共にモチベーションの高い状態で臨んだことは想像に難くない。 そして、邦メタルシーンの二大巨頭ともいえる聖飢魔IIとBABYMETALの競演は、アナウンスされると同時に大きな注目を集めた。両アーティストのファンはもちろん、“観たい!”と思ったリスナーは数知れず、20,000人キャパの横浜Kアリーナにおける2デイズ公演でありながらチケットは瞬時にソールドアウトとなり、両日共に特別席のチケットが追加発売されるほどの大盛況となった。 その理由は、よくわかる。聖飢魔IIとBABYMETALは“ヘヴィメタル”という共通点はあるが、共にシーンの中では異端と呼ばれる存在であり、どちらも強固な世界観を備えている。両者が同じ空間でライヴ(大黒ミサ)を行ったら、どんな化学反応が起きるのだろうと思ったリスナーは多かっただろう。一般的な対バンライヴとは、また違ったものになるに違いないと。自分自身も大きな期待を抱いて、Kアリーナ横浜へと足を運んだ。 8月30日(土) DAY.1『遭遇 -Encounter-』  開演に向けて客席の熱気が徐々に高まっていく中、場内が暗転して<聖飢魔II vs BABYMETAL~悪魔が来たりてベビメタる~>の開催に至った経緯のナレーションが入った。 「音楽を媒介にして悪魔教を布教し、地球征服を目指している聖飢魔II。2010年、メタルの神“キツネ様”に召喚された神バンドBABYMETAL。 BABYMETALは“THE ONE”という言葉のもとにバラバラになった世界を1つに纏めると公言。BABYMETALは新しいジャンルのエンターテイメントとして、たちまち世界を席巻した。 聖飢魔IIは10年前の地球視察の際に、この情況を看過できるわけないとして、聖飢魔II結成以来の最大級の問題として扱うこととなった。様子を窺うだけで相まみえることはなかったが、互いに自らのテリトリーを侵すものは許さない。 それから10年が経過し、魔暦27年('25)本日、ついに遭遇する時がきた。敵なのか? 味方なのか? 勝ち残ったほうが、この世の真の支配者となるのか?」 photo by Takahide“THUNDER”Okami 客席から“おおーっ!”という歓声が上がる中、『ゴジラのテーマ』とゴジラの咆哮が響き渡り、 ステージ後方の高所に設置されたサブステージ上に聖飢魔IIの構成員達が姿を現した。楽器陣が奏でる「創世紀」に合わせてステージに棺が運び込まれ、中からデーモン閣下が登場し、大歓声と拍手が湧き起こる。そして、大黒ミサはアップテンポの「1999 Secret Object」で幕を開けた。 身体を揺する怒涛の音圧とタイトさを併せ持ったサウンドが全身に心地いいし、1曲目から華やかなステージングを織り成しながら演奏する構成員達の姿に目を奪われる。現在の聖飢魔IIは地球デビュー40周年期間限定再集結のホールツアーを終えたところだが、同ツアーは全公演ソールドアウトとなった。それも納得できる上質なステージにオーディエンスも熱いリアクションを見せ、大黒ミサが始まると同時に場内のボルテージは一気に高まった。 その後はアッパー&キャッチーな「Jack The Ripper」、ヘヴィなシャッフルチューンの「老害ロック」を続けてプレイ。アリーナ中央まで伸びた花道に力強く立って歌い、圧巻のハイトーンシャウトを決めるデーモン閣下。色気を感じさせる立ち居振る舞いとソリッドなギターワークの取り合わせで魅了するルーク篁参謀。どこかR&Rが香るギタープレイとワイルドなステージングが最高にカッコいいジェイル大橋代官。ベースアンプの前に仁王立ちしてファットなグルーヴを紡いでいく職人的な姿が魅力的なゼノン石川和尚。ドラムセットの後ろから強い存在感を発しながらテクニカルなフィルを織り交ぜたハイレベルなドラミングを展開するライデン湯澤殿下。それぞれが自身の個性を存分に出すことで強固なケミストリーが生まれる辺り、聖飢魔IIはバンドの1つの理想形だなと、あらためて思わずにいられなかった。 デーモン閣下のお馴染みのMC(詳細を書くと問題がありそうなので割愛しますが、閣下が「ミサに向けて、どこの首を洗ってきたんだ?」と問いかけて女性オーディエンスが「〇首ぃー!」と応えたり、青森県南部地方および岩手県地方の紅玉の呼び方を全員に叫ばせたりするというものです)で場内を大いに沸かせた後、中盤では緩急を効かせたリズムアレンジが光る「アダムの林檎」やクールな雰囲気の「Kiss U...

ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

2025年は5年に一度のショパン国際ピアノコンクールの開催年。世界中のピアニストの名演を耳にして、「自分もショパンを弾いてみたい」と思う方も多いのではないでしょうか。そんな初心者や大人の再挑戦にぴったりの、やさしいショパン楽譜を集めた一冊をご紹介します。 やさしい曲を厳選、初心者にも安心 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 楽譜が読めなくても楽しめる!そうちゃんによる「謎解き幻想即興曲」 1. やさしい曲を厳選、初心者にも安心 ショパンといえば「難曲」のイメージがありますが、本書ではやさしく弾ける小品やアレンジ譜を中心に厳選。初心者でも無理なく楽しめるよう、4つのレベルに分けて構成しました。ピアノを始めたばかりの方や、長いブランクのある大人でも「弾けるかも」と思える曲から始められるのが大きな魅力です。 ▲ レベルに合わせた曲を選べるので、初心者でも取り組みやすい! 2. 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 巻頭には、前回のショパンコンクールで活躍した反田恭平さん、小林愛実さん、角野隼斗さんのインタビューも収録。コンクールを振り返るエピソードとともに、彼らの「はじめてのショパン」や「初心者におすすめの1曲」を教えてもらいました。プロの視点で語られる、ショパンを弾く上での演奏アドバイスはピアノ学習者必見です。 ▲ だれがどの曲を「はじめて弾いて」「おすすめ」しているでしょう? 答えは本誌にて! 3. 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 ショパンの人となりや生涯、ゆかりの地、ショパンコンクールのガイドなど、演奏だけでなく“読む楽しさ”も盛り込まれています。人気音楽イラストレーター・やまみちゆかさんによる「ショパンってどんな人?」のほか、全6ページにわたる「第19回ショパン国際ピアノコンクールまるわかりガイド」では、2025年大会の日程や課題曲一覧のほか、舞台裏でサポートに徹するメーカースタッフによる奮闘記まで、ここでしか読めない記事が満載! ▲ 知られざるショパンの姿や、コンクールの珍事件まで幅広く紹介。 4. 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 2024年10月、ニューヨークのモルガン図書館・博物館で新たに発見されたショパンの未発表作品「ワルツ イ短調 遺作(2024年発見)」。長年にわたりショパンのエディション研究に取り組まれてきた岡部玲子先生の監修と解説のもと、本書に楽譜を収録しました。ショパンの新たな響きを、ぜひご自身の手で確かめてみてください。 ▲ 記事ページには岡部玲子先生による解説もたっぷり収録。 5....

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 水になった村「徳山村」    祭りは本来、地域社会の営みであり、その地域の人々だけで行われるのが一般的だ。しかし近年は担い手不足から、地域外の人が参加するケースも増えている。その1つの事例として、著者自身がここ数年「部外者」として参加している、とある地域の郷土芸能活動について紹介したい。その郷土芸能とは、岐阜県揖斐郡(いびぐん)の旧徳山村に伝わる盆踊り「徳山おどり」である。「旧」と付くのは、徳山村という自治体がダム建設によって消滅したためである。    徳山村は岐阜県の最西部、揖斐川流域に位置する集落である。この地に伝わる盆踊り歌に「東にひかえる馬坂(峠)、西は江州(現在の滋賀県)国ざかい、北は越前(福井県と石川県の一部)に連なりて、冠山をば境とし」(括弧内は筆者)と歌われるように、福井県と滋賀県に接し、四方を山々に囲まれた谷間の地であった。 現在、徳山ダムがある岐阜県揖斐郡揖斐川町 ダム湖に沈んだあとの徳山村全景 徳ダムの造成でできた人工湖の「徳山湖」    この地でのダム建設の構想は戦前からあり、水力発電所建設のための調査が断続的に行われていた。戦後の経済発展に伴い、人口の増加と、それに伴う都市用水や電力の確保が課題となり、日本各地で多くのダム建設が計画された。その一環として、1957年(昭和32年)、揖斐川は電源開発株式会社(1952年に制定された「電源開発促進法」に基づき設立された電力会社)の調査河川に指定された。    集落のほとんどが水没するという大規模なダム計画であることが公に明らかになると、当初住民は絶対反対を表明した。しかしその後、補償交渉など紆余曲折があって、ダム計画の正式発表から30年後の1987(昭和62)年に徳山村が閉村、隣接する藤橋村に合併。さらに20年の歳月を経て、2008(平成20)年に、ようやく「徳山ダム」が完成した。    50年という歳月は、あまりにも長い。「いずれ水に沈む村」と見なされた徳山には、ダム完成までの間に民俗学、考古学、生物学など、さまざまな分野の研究者がこの地を訪れ調査を行った。その結果、徳山村に関する本も数多く出版されている。もし徳山村が沈まなければ、これほどの記録が残されることも、この地域が広く世間に知られることもなかったかもしれない。そう考えると、これは皮肉な結果とも言える。 筆者がこれまでに収集した徳山村関連の資料    映像作品を通じて、在りし日の徳山村の姿を確認することもできる。代表的な作品は神山 征二郎監督による『ふるさと』(1983)だ。徳山村戸入地区出身の児童文学作家・平方浩介氏の作品『じいと山のコボたち』を原作とした映画で、徳山村を舞台とし、実際の撮影もダム湖に沈む前の徳山村で行われている。    また、徳山村が廃村となったあと、それでも村に留まって自給自足の生活を送る年寄りたちを取材したドキュメンタリー映画・大西暢夫監督『水になった村』(2007)も、村の人々の地域への深い愛が感じられる素晴らしい作品である。    世間一般的には、“カメラばあちゃん”こと、増山たづ子さんの存在を通じて、徳山村の存在を知った人も多いかもしれない。増山さんは徳山村戸入地区の出身で、この地で民宿を営んでいたが、ダムに沈む前の村の様子を記録しようと、コンパクトカメラで膨大な枚数の写真を撮影。残された写真は生前増山さんと交流のあった研究者・野部博子さんによって管理され、現在でも時折、写真展が開催されている。 2021年に東京都美術館で開催された企画展のメインビジュアルにも、増山たづ子さんが撮影した徳山村の写真が採用された 移転先に受け継がれた徳山おどり    さて、徳山村を離れた住人たちは、親戚などを頼りにまったくの別天地に移り住んだ者もいたが、約70%の人々は、ダム計画の事業主となる水資源開発機構の用意した徳山・文殊・表山・大溝・芝原(すべて本巣市・揖斐川町に存在)の団地に移り住んだ。ちなみに、ここでいう団地とは、一般的にイメージされるアパートやマンションのような集合住宅ではなく、戸建て住宅である。    徳山村といっても、その中には八つの集落があり、それぞれに独自の文化があった。移転先に受け継がれた行事や風習もある。その代表例が、本郷地区で正月に行われていた「元服式」である。現在の成人式にあたるもので、各家庭の子弟が15歳を迎えると、厳粛な儀式を通じて一人前の大人になったことを祝った。 徳山村の集落位置図    徳山村に伝わる盆踊り・徳山おどりもまた、移転先で継承された。集落によって多少の演目の違いや、踊り方の違いはあるものの、徳山の踊りに共通して見られる特徴としては、太鼓や三味線といった鳴り物が入らないこと、音頭取りの生歌で踊ること、踊りの種類が多いこと(全部で11種類)、などの点が挙げられる。徳山の人々はお盆に限らず、何かにつけて一年中踊っていたというし、小学校では必ず「ほっそれ」という踊りを習わされる、また村が解散する際の「お別れ会」でも盆踊りが踊られたということで、村の人々にとって、徳山おどりは生活に密着した、なくてはならない娯楽だったに違いない。 現在伝わる徳山おどりの曲目    それだけに、移転先の各団地でも盆踊り大会が企画され、徳山おどりが踊られたというのも「しかるべし」という話なのであるが、故郷を思い出す懐かしいその行事も、年月が経つと次第に下火になっていったという。その理由はいろいろと考えられるだろうが、地元の人から聞いた話だと、近隣住民から盆踊りに対して「うるさい」というクレームが入ることもあったらしい。    廃れゆく状況に歯止めをかけようと、徳山おどりにもほかの郷土芸能と同じように「保存会」が結成された(徳山踊り保存会)。正確な設立時期は不明だが、現在の保存会会長の小西順二郎さん(通称・じゅんじい)に見せていただいた結成当時のものという役員名簿には「平成12年」「平成13年」という数字が記されており、おそらく2000年前後の結成と考えられる。25年前と聞けば一昔前のように思えるが、郷土芸能の保存会としては比較的新しい団体であると言える。 徳山踊り保存会 会長の小西順二郎さん。徳山村の山手地区の出身    また、この役員名簿には会の「事業計画」も綴じられていた。その中には、「現在11種類の踊りがあるが、先ず理事の方々が代表的な徳山おどりを選び、統一した踊りを習得すること(同じ踊りでも地区毎に多少の違いがある)」「各地区とも踊りよりも先ず音頭とりに一番困っていることと思いますが、理事さん方の一考をお願いしたい処です(中略)音頭とりの育成方法について是非一考を」などの文言がある。当時の住民たちが徳山おどりの保存のため、継承の方法を真剣に模索していた様子がうかがえる。 ニュース記事をきっかけに交流がスタート    私が徳山おどりのことを知ったのは、そこからぐっと時代が下って2018年3月のことになる。当時の私は、盆踊りにハマって全国各地の盆踊りを探訪するようになり、なかでも岐阜県郡上市の郡上おどりや白鳥おどりに特別な魅力を見出していた。そんな中、ネットでたまたま「「ふるさと」の記憶つなぐ――...

【インタビュー】憎しみを直球で受けながら人を信じることをやめない。『オノ・ヨーコ』翻訳家に聞く、世界にオノ・ヨーコが必要な理由

【インタビュー】憎しみを直球で受けながら人を信じることをやめない。『オノ・ヨーコ』翻訳家に聞く、世界にオノ・ヨーコが必要な理由

オノ・ヨーコの決定版伝記として『オノ・ヨーコ』(デヴィッド・シェフ著)が発売された。ビートルズを解散させた悪女、うさんくさい変人などという不当な評価を受けてきたオノ・ヨーコ。世界中に嫌われ、壮絶な差別を受け、それでも人類をあきらめずに大真面目に戦争反対を、愛を、平和を訴え続けたオノ・ヨーコ。本書の翻訳家である岩木貴子さんに話を聞いた。 自分のオノ・ヨーコ像はほとんどが偏見? ――本書の翻訳を手掛ける前、オノ・ヨーコに対してどのような印象を持っていましたか? 本書ではヨーコに対するさまざまな不当な評価について触れていますが、それこそ私自身が彼女に対してもともと持っていた印象でした。たとえば、変な歌唱法を使っていて金切り声ばかりでろくに歌えない、パフォーマンスがうさんくさいといったもの。だからこそ今回の本でオノ・ヨーコ側のストーリーが読めることを楽しみにしていました。翻訳をしたことでその印象がくつがえった部分もあれば、印象通りのままだったところもありましたが、とても翻訳しがいのある本だったことはたしかです。結局、もともと持っていた印象の多くは偏見に基づく差別で、自分もそれに加担していたということに気づいてショックでした。 ――とくにどんな部分で印象が変わりましたか? 大きく変わったのはジョン・レノンとの関係性です。これまでは“ジョン・レノンの奥さん”という視点で見ていたから、ジョンが“主”でオノ・ヨーコは“従”だと思っていたのですが、その点を誤解していました。ジョンはヨーコでないと尊敬できなかったでしょうし、アーティストであるジョンにインスピレーションを与えて、新たな高みに引っ張り上げるのはヨーコにしか無理でした。 ヨーコの楽曲を色眼鏡なしで聴いてみたら…… ――オノ・ヨーコの音楽に対する印象は変わりましたか? 変わりましたね。今まではジョンとヨーコの楽曲を聴いても、うさんくさい人というバイアスがかかっていたからか、「ヨーコがまた変な声出してる」と思うだけでした。しかし今回、ヨーコ自身の楽曲を色眼鏡なしではじめて聴いたところ、この人って本当に才能のあるミュージシャンなんだ! 素晴らしい音楽を作っていたんだなと思いました。申し訳ないというか……懺悔の気持ちですね。ただ、著者の解説による楽曲のバックグランド情報も頭に入っている状態で聞いているので、今度はまた別のバイアスがかかっているかもしれませんが(笑)。 ――難しい楽曲が多いという印象がありましたが、聴きやすい楽曲もありますね。 彼女はポップスを意外と重視していたんですね。尖ったアバンギャルドな前衛音楽の部分と、王道なポップスの部分の二面性がある人だということを知らなくて。前衛のイメージばかり見ていたのだと気づきました。とてもクレバーで、かつ懐が深いのですが、ひとくくりにはできないアーティストです。ひとつだけ取り上げてわかった気になっていたら、オノ・ヨーコのことはまだ理解できていないのです(笑)。 違和感も含めて受け入れる懐の深さ ――懐の深さはどういうところで感じられましたか? 音楽の幅の広さもそうなんですけど、とくに感じたのはアートからですね。当時のボーイフレンドのサム・ハヴァトイから、「初期のアート作品をブロンズで再現したらどうか」という提案があったときのことです。ヨーコはその発言に大きなショックを受けて、「私のアートを根本的に理解していない」と泣くほど怒ります。しかしその後、「泣くほど私を動揺させるということは、何かあるはずだ」と考え直し、結果的に今の時代(1980年代当時)にはブロンズの方が合っているかもしれないと、サムの提案を受け入れたのです。アートの素人から見ると、明らかにブロンズじゃないでしょ! と思うのですが、ヨーコは人の意見を聞き、今の時代にはこうなのかもしれないという違和感も含めて取り入れることで、人に訴えかける作品にしている。60年代には自由だったものが、今(80年代)の世の中はこう変化してしまったのよということを見せてくれているところに懐の深さを感じます。 ――ジョンとの関係性においてはいかがでしょうか。 ジョンとの関係は恋人とか夫婦というだけではありませんでした。ジョンが亡くなった後は、自らにジョンのレガシーの守り手としての使命を課しています。たとえばナイキのCMで「インスタント・カーマ」の使用許諾を出したときのこと。やはり世間からは批判されるわけです。金儲けだと。しかしヨーコはこう返します。「これで何百万人もの人々に『インスタント・カーマ』を聴いてもらえて、80万ドルがもらえて、そのお金はユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンドにまわした。それが、私があの曲で得たものです。何か問題でも?」 何十年もさまざまなことで批判されて叩かれ続けてきた女性ですが、自分のプライドよりも、ジョンと一緒に訴えてきたメッセージは世界にとって大切なのだから守らなくてはいけないという強い使命感があったと思います。正しいものや良いもののために尽くせるところに彼女の懐の深さを感じます。 ――ヨーコは、こんなにも自分を受け入れてくれない世界に対してあきらめませんね。 本当にそう思います。ヨーコが受けてきた差別は壮絶で、世界中の見も知らぬ他人から憎まれ、その憎しみを直球で受けるわけです。たとえば彼女が妊娠をしたときのこと。それまでは妊娠がわかるとすぐに公表していたのですが、彼女は何度も流産を繰り返していたので、今回は少し待ってほしいとジョンに言います。今であれば普通のことですよね。妊娠を公表すると「針が刺さった人形」などが送られてきたそうなんです。子供が生まれないようにと。そういった悪意をヨーコは若い頃からずっと浴びせられ続けてきたのです。それなのに、人類に対する愛情を失わないでポジティブな愛のメッセージをずっと訴え続けられたのがすごい。さらには、人を疑わない純真な気持ちを持ち続けてもいます。ジョンの死後、多くの人に裏切られたり信頼につけ込まれたりしたのに、それでも人を信じることをやめませんでした。 ヨーコ本人の声にできるだけ近づけるために ――本書を翻訳するときに苦労された点はありますか? 原文がわりと淡々としていて、大げさに盛り上げようとするわけでもなく、ただ事実を述べていくという感じで書かれています。おそらく著者が意図的に選んだ文体だと思ったので、無意識のうちに自分の価値判断が入り込まないように、できるだけ原文と同じように淡々と訳すように心がけました。ただ、英語はポンポンポンと事実だけ述べる文体でもそんなに違和感がないのですが、日本語で同じようにするとつまらない文章になってしまいます。そこで、どうしても単調になってしまうくだりでは流れを作ってバランスを取るようにしました。 ――セリフについてはいかがでしょうか。 本書ではヨーコの声を伝える一端を担っていたので、特にセリフの役割語(編注:語り手の性別や職業など、属性を想起させる話し方)では悩みました。役割語は表現を豊かにしてくれるものではありますが、今の時代、くびきから解放した方がいいのではないかという意見もあります。できるだけ使いたくないという思いがある一方で、ヨーコ本人の声に近づけたかったのです。ヨーコの若い頃の動画を見ると、山の手言葉のような話し方をしています。日本語で話している最近の動画は見つけられなかったのですが、文章を見ると割とくだけた話し方をしているようです。それぞれの時代の雰囲気が伝わるように、おさえながらも役割語は使いました。 ――ヨーコはアメリカの大学に入学するまでは主に日本で、日本語を使って生活していたわけですが、ヨーコの発言の中で翻訳しづらい部分はありましたか? いくつか翻訳しづらい箇所がありました。それは日本人だからということではなくて、ヨーコが英語を学んだ事情が関係していると思います。彼女は最初にアメリカ英語に触れているので、その影響が一番強いと思うのですが、ジョン・レノンと過ごした時代は彼からイギリス英語の影響も受けているはずです。そのためか、イギリス英語とアメリカ英語のどちら側から見ればいいのか……と悩む部分がありました。言語からはそれがはっきり読み取れないのです。 私自身はもともとイギリス英語を勉強したのちにアイルランドに留学してアイルランド英語に触れ、翻訳の仕事をするようになってからアメリカ英語を意識的に取り入れて勉強しました。アメリカ英語とイギリス英語は単純にワードチョイスだけの違いではなく国民性による感覚の違いもあるので、その部分についてはヨーコの英語に少し惑わされました。おそらくアメリカ英語がベースにあるのだろうということで、本当に悩んだある箇所ではアメリカ育ちの翻訳家の友人に解釈を確認したりもしました。 自分が“何を知らないか”には気づきにくい ――翻訳をする際には、事前にリサーチをするそうですが、どのぐらいの時間をかけるものなのでしょうか。 実は翻訳そのものよりもリサーチの方に時間がかかっているのですが、リサーチをしっかりやっておくと翻訳がスムーズに行えます。翻訳におけるリサーチの重要性は7~8割だと言っても過言ではありません。なので、今回も知り合いの翻訳家にリサーチで協力していただいています。なぜ大切かというと、知らないことは訳せないからです。当たり前なのですが(笑)。たとえばある物事や現象について書かれているとして、そのことについて知らないと、本当の意味では訳せません。言葉を他言語に置き換える=翻訳ではないからです。時代背景の知識が必要ですし、点だけで存在している事象はないので、ある程度まとまりで調べないといけません。そうしないと、自分が“何を知らないか”ということに気づけないのです。知っているつもりになってしまうのが一番危険です。実感がないまま言葉だけ拾って訳していると、他言語を挟んだ伝言ゲーム状態になってしまいます。...

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 火山の島に伝わる祭りと太鼓    2000(平成12)年。東京都の伊豆諸島南部に位置する三宅島で大規模な噴火が発生した。6月末の海底噴火からはじまり、7月には山頂陥没を伴う噴火が発生。噴火の規模は8月からさらに拡大し、8月18日には噴煙が高さ14,000mに到達。9月からは有害な火山ガス放出もはじまり、結果として約4,000人の島民が全島避難を余儀なくされた。避難指示が解除されたのは、2005年2月のこと。島民が再び島に戻るまでに、実に4年半もの歳月が流れていた。    噴火当時、私は中学3年生で、テレビで連日報道される噴火の経過をただ呆然と見守っていた。自然の力になすすべもなく故郷を追われる人々が味わったであろう無力感は、未熟な中学生の自分でも容易に想像することができる。地域の人はいつ帰島できるのか。何の約束もない永遠の別れがそこに横たわっているようで、深い絶望を感じた。    それから20年以上の歳月が経った2023年11月のこと、私はとある仕事の取材で、はじめて三宅島を訪れた。東京の調布飛行場から乗客定員19名の小型旅客機に乗り、わずか45分間のフライト。災害をテーマとした取材ではなかったため、正直に言えば、島に着くまで噴火のことは、ほとんど意識していなかった。しかし、撮影のために地元の方の運転するタクシーで島内を回るうちに、否応なく、あの未曾有の災害の爪痕を目の当たりにすることになった。 旅客機から見下ろす三宅島    溶岩によって焼かれた建物、泥流(火山灰や溶岩のかけらが水と混ざり合って谷を流れ下る現象)によって埋まった鳥居、島の施設に設置された小型脱硫装置(火山ガスに含まれる二酸化硫黄を除去するための機械)など、その島で見たさまざまな遺物や器具は、文字や数字よりも雄弁に2000年噴火の規模の大きさと、活火山とともにある生活のリアルを如実に物語っていた。動揺とともに、何かいたたまれないような気持ちに襲われた。    撮影をしている最中、運転手さんが三宅島に関するさまざまなことを教えてくれた。三宅島の歴史のこと、観光スポットのこと、そしてご自身の来歴。 「僕も全島避難の際は内地(島しょ地域からみた本土のこと)に住んでいました。ここだけの話、本当はずっと内地に住んでいたかったんですけど、長男なので実家を継ぐために島に戻ってきたんです」    2000年の噴火前、三宅島の人口は約3,800人近くあったが、長期避難は人口を大きく減少させ(2005年には1995年比で約36%減)、高齢化率を加速させた(1995年の24%から2005年には37%へ上昇)。つまり避難指示が解除された後も、島外にとどまった人は少なくなかった。被災後に若者の就労の場を確保できなかったことから、特に若年層の島外流出が顕著だった。2025(令和7)年5月31日時点で、三宅島の人口は2,165人。「昔は新島よりも人口が多かったんですけどね」と、男性は海を見ながら寂しそうに語る。    三宅島での滞在体験は、私の心に深く重い印象を残した。そして、この島についてもっと知りたいという気持ちが芽生えた。調べていくうちに、毎年7月に島の神着(かみつき)という地区で行われている「牛頭(ごず)天王祭」のことを知った。    読売新聞オンラインの記事(「三宅島の災害生き延びた太鼓、次世代へ…『木遣太鼓』の伝統受け継ぐ」2021年7月16日掲載)によれば、祭りで神輿の先導役を務める「木遣太鼓」は、東京都の無形民俗文化財に指定され、島の人々によって大切に受け継がれてきたという。全島避難の際には、島民たちが協力して太鼓を島外に運び出し、避難先でも、住民が集う場で演奏されることがあったそうだ。    未曾有の災害を経ても守られ続けてきた「木遣太鼓」とは、いったいどのようなものなのか。それを確かめるため、実際に祭りに参加してみることにした。 破壊的な自然現象に「神」を見た古代の人々    三宅島へは、調布飛行場から飛行機で向かう空路のほか、東京・竹芝埠頭から出る船便も利用できる。伊豆諸島行きの大型客船は夜に出発し、一晩かけて航行したのち、早朝5時に三宅島へ到着する。今回の旅では船便を利用して三宅島へと向かった。 三宅島・御蔵島を経由して八丈島に向かう大型客船の橘丸    祭りは朝から行われるとは聞いていたが、さすがに時間が早すぎるので少し島内を散策してみることにした。特に今回、足を運んで確認してきたいとおきたいと思ったのは、島の南西部に位置する「阿古(あこ)地区」の被災状況だ。    三宅島が噴火の災害に見舞われたのは2000年だけではない。島の中央に位置する「雄山(おやま)」は、有史以来いくども噴火現象を繰り返してきた。20世紀以降では、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年の4回。またそれ以前にも、1085(応徳2)年から1835年(天保6年)にかけて、13回の噴火が記録として残されている(池田信道『三宅島の歴史と民俗』)。噴火の多さから、「御焼島(おんやけのしま)」という名称から転じて「三宅島」になったのではないかという説すらある。    1983(昭和58)年の噴火は、人的被害もなく、全島避難までは至らしめなかったが、火口から流れ出した溶岩流は阿古地区の400棟を超える住家、そして集落の小学校や中学校を埋没させ・焼き尽くした。現在、溶岩流の流れた場所には遊歩道(火山体験遊歩道)が設置されていて、噴火の恐ろしさを体感できるようになっている。前回、島を訪れた際、道路の脇に朽ち果てた建物を見かけ、それが溶岩で焼けたものだと例のタクシー運転者の男性に教えられ、気になっていたのだ。 火山体験遊歩道から見た光景 溶岩流で焼けた建造物 写真に残るかつての阿古地区の姿    緑に包まれた山の裾野に、黒く無機質な溶岩原が広がっている。その風景に、思わず息を飲む。あとどれほどの年月が経てば、この地に再び緑が戻り、人々が居住できるようになるのだろうか。地殻変動による破壊と再生の繰り返しで、いま私たちが住むこの美しい世界が形成されている。そういった道理は理解できても、いざ「破壊」そのものを目の当たりにしてしまうと、ただただ途方に暮れてしまう。    古くから、人々は圧倒的な自然現象に神の存在を感じてきた。三宅島をはじめとした伊豆諸島でも同様に、火山の噴火や島の生成といった自然の営みに神の力「神威(しんい)」が見出され、「三嶋信仰(みしましんこう)」と呼ばれる信仰が発展してきた。三嶋信仰では、伊豆諸島の島々を生み出し、開拓した神として「三嶋大明神(みしまだいみょうじん、または三嶋神)」が崇敬されている。三嶋大明神は、日本神話に登場する事代主命(ことしろぬしのみこと)と同一視される神で、三宅島の阿古地区にある富賀山(とみがやま)の「富賀神社」には、この事代主命が三宅島に渡り、阿古の地に最初の拠点を築いて島を開いたという伝承が残されている。    現在の三宅島は、数万年にわたる火山活動の積み重ねによって形成されたとされている。火山と島の歴史は不可分であり、人と火山の関係もまた単純なものではない。ただ、これだけは言えるだろう。どうすることもできない自然の脅威にさらされながら、島の人々が神や、その神をもてなす神事や祭りに託してきた祈りや願いには、並々ならぬ思いが込められていたはずである。 海を目指す子どもたちの神輿    島内を巡回するバスに乗って、島の北側に位置する神着地区に向かう。バスを降りると、祭りの拠点となる御笏(おしゃく)神社には早朝8時ながら、すでに多くの人々が集まっていた。 神社に続々と詰め掛ける人々    「牛頭天王祭」は、伝承によると江戸時代末期、神着村の百姓、藤助、八三郎、又八の3名が伊勢参りの帰路に京都の八坂神社を詣で、祇園祭を見学。当時、神着では伝染病が流行っており、祇園祭が悪疫除けを目的としたことを知った3人が、帰島後、神着に牛頭天王社を勧請(地元の守り神として他の土地から神様を招いて祀ること)。これが牛頭天王祭のはじまりであるとされている。なお牛頭天王社はのちに、御笏神社に合祀(複数の神様を一つの神社にまとめてまつること)された。...

ショパン国際ピアノコンクール2021 ハイレベルな競演

ショパン国際ピアノコンクール2021 ハイレベルな競演

コロナ禍で、ポーランドへ行けるの? 行けてもホールで聴けるの? と、直前まで本当に不安でしたが、願いが叶いました!!  これまで1995年の第13回と2010年の第16回を現地で聴いていますが、1次予選を聴くのは今回が初めてです。予備予選のライブ配信からもレベルの高さはある程度予想していましたが、1次予選とは思えない演奏ばかりで、しかも様々な個性があり、コンクールというピリピリ感もなく、面白くてとても楽しめました。 コンクール会場であるワルシャワ・フィルハーモニー入り口 ホールで聴くコンテスタントたちの音楽   ホールで実際に耳にする演奏は、ライブ配信とはまったく違いました。空気の振動を感じる、風を感じる、身体が音に包まれる……文字にするとまるで嘘のようですが、演奏者によって音の包まれ方が違うのです。   例えば2位になった反田恭平さんの演奏は、圧倒的な音響でギュッと包まれるよう。彼にしか出せないであろう弱音でさえもギュッと来るのです。反田さんの演奏は1次予選から一貫して、聞こえてくる音も音楽も別次元の素晴らしいものでした。6年かけて体格も改造したとのこと、見事です。   セミファイナルまで進んだ角野隼斗さんの音は、優しく包まれてフワッとどこかに連れて行かれるような、そして何か物語を聴いているような感じがしました。髪型やお顔もまるでショパンのよう。『ピアノの森』のアニメで、演奏が始まるとピアノから客席にキラキラが飛んでいくような場面がたくさんありましたが、まさに会場ではそういうことが起こっていたのです。   出国直前に、ご縁あって隼斗さんのお母様、角野美智子先生とオンライン対談をしました。角野隼斗さんのお母様はヤマハから本も出されているピアノ指導者です。対談の場で「会場でお会いしましょう」と申したものの、実際の会場では人が多く、この中から探してお会いできるかどうか……。角野先生は2次予選からいらっしゃると伺っていたので、2次予選初日のモーニングセッション終了後にそろそろお見えになる頃?と考えながら階段を数段降りてふと隣を見ると、お隣もほぼ同時に見つめ合って、次の瞬間2人で「あら~っ!」。なんと角野先生だったのです。対談が結んでくださったご縁、ここでも奇跡的に出会えました。さっそく会場1階のロビーで一緒に記念撮影! 会場で隼斗さんのお母様、角野美智子先生と再会……いえ実は初対面! 演奏から窺える、今回のコンテスタントの版の選択と演奏への活かし方   ピアノを習っている方ならご存じの通り、ショパンの楽譜には様々な版があり、それらには細かい相違がたくさんあります。演奏や指導の時に、困った経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。   ショパン・コンクールでは、2005年の第15回から、エキエル版(ナショナル・エディション)が推奨楽譜とされました。そしてエントリーシートには、使用する版を記入させます。今回は曲ごとに使用する版の記入が求められていたようです。   コンテスタントたちがどの版を使用しているかについては、一般には公開されていませんが、私は科研の研究目的で特別に2005年、2010年、2015年について調査しました。以前は世界的にもパデレフスキ版が圧倒的に多く使用されていて、2005年まではコンテスタントもパデレフスキ版を使う人が多かったものの、2010年にはパデレフスキ版とエキエル版が同じ位になり、2015年には完全に逆転したことが調査の結果わかりました。   今回のコンテスタントたちがどの版を選択したかは、演奏からその版に特有の音が聞こえてくることで推測することができます。音を聞いていると、今回もやはりエキエル版が多くなってきていると感じます。推奨版と言われると、それを使った方が有利なのでは、と思うのが人間の心理ですね。   でも面白かったのは、作品10-3のエチュード(有名な「別れの曲」)です。1次予選の課題とは別に作品10-3を弾いた人が2人いました。我々がよく知っているこの曲の中間部第30-31小節と第34-35小節は、「長調-短調」「長調-短調」※の繰り返しです。一方、エキエル版では同じ箇所が「長調-長調」「短調-短調」となっています。この箇所に関しては、レッスンで生徒に「音が違う」と注意しようとしたら楽譜にそう書かれていたので驚いた、とおっしゃる先生も多いようです。   資料研究をすると、ショパンがエキエル版のような音を書いていたのは確かで、我々が良く知る音になった経緯はとても複雑です。ショパンが最初に書いた音、印刷のもととなった自筆譜の音、フランス初版の校正で現れた音、ドイツ初版に現れた音、ショパンが弟子の楽譜に書き込んだ音、というように、それぞれに少しずつ変化があり、我々が聴き慣れている音は、それらが混ぜ合わされた音ということになります(詳しい経緯については拙著『[増補新版]ショパンの楽譜、どの版を選べばいいの?』をご参照ください)。1870年代頃からそうなっていて、パデレフスキ版もこの音を採用しているわけですが、この箇所については校訂報告にコメントがあります。実はこの各版のコメントこそがそれぞれの版の命なのですが、ピアノを弾く人はあまり読まないので、エキエル版でメインの楽譜に現れた音に皆ビックリしたわけです。   しかし今回、エキエル版の音が多く聞こえてくる中で、この箇所に関しては、演奏した2人ともがパデレフスキ版の音で弾いていました。そのうち1人は第6位入賞のジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ JJ Jun Li Bui(カナダ、17歳)です。別の曲になりますが、第5位のレオノーラ・アルメリーニ Leonara Armellini(イタリア、29歳)が2次予選で弾いたバラード第4番も、エキエル版の音ではなかったです。   つまり、単にエキエル版がこの音だから、ショパンが書いたのはこの音だからという理由でその音を弾くのではなく、自分でその音、その響きを確かめて、納得して、自分のものにして弾くことが大切だと思います。音が変わることによって、そのフレーズの表現、時には曲全体の表現が変わることもあります。版による違いを見つけたら「これぞショパン!」と、様々な表現を楽しみながら、自分の表現にしていけると良いですね。 ※ユンファン・ヤン(1:56あたり) ※ジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ(2:32あたり) 選んだピアノを最大限生かした演奏   ステージ上には、スタインウェイ2台、ファツィオリ、ヤマハ、カワイ各1台、計5台のピアノが用意され、コンテスタントが試弾して選びます。自分が選んだピアノの特性をどう生かして、どう音を出して表現するか、特にファツィオリは演奏者による差が大きく出ていたように思います。1次予選の時からファツィオリを弾きこなしていたのが、ブルース・リウ...

「おてんば」な女性の数奇な人生【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「おてんば」な女性の数奇な人生【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 今年3度目の日本 皆さん、こんにちは。 今年も暑い夏がやってきましたね。夏バテなどされていませんか? 私は7月から再び(正確には今年に入って3度目!)、日本に来ています。今年は例年に増して移動が多く、その合間を縫って作曲もしなければならないので、頭の中がいつも落ち着きません。たまには休息を取ろうと思って映画を観ても、「この演出は……」とか「脚本が……」などと指揮者目線でいろいろ考えてしまって、あまり休んだ気がしないんですよね(笑)。これも職業病でしょうか。 室内オペラ《おてんば》初演 日本に来る前はオランダで、私にとって3作目となる室内オペラ、《おてんば:大胆な女性たち (OTEMBA: DARING WOMEN)》の公演がありました。この作品はホラント音楽祭(オランダ芸術祭)の1プログラムとして上演されたものですが、タイトルからもおわかりの通り、実は日本にも縁のある内容で、17世紀に長崎県平戸でオランダ人と日本人の間に生まれたコルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode、1629~1691)という実在の女性が主役の一人として登場します。ちょうど今年がアムステルダム建立750周年にあたるため、芸術祭では周年を意識したプログラム作りがされていて、今回のオペラもその一環として制作されたのでした。 主役のコルネリア・ファン・ネイエンローデを演じるのは能声楽家の青木涼子さん。「能声楽家」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、能の声楽パートである「謡(うたい)」を現代音楽に融合し、新たな表現を切り開いている涼子さんは、今や世界中から熱いオファーの絶えないアーティストの一人です。能の世界も一昔前までは男性だけの世界でしたが、彼女は現在、世界各国の現代作曲家たちとのコラボレーションを通じて日本の「能」を世界に広める、いわば文化大使のような存在となっています。 そして作曲は望月京(みさと)さん。彼女は日本を代表する現代作曲家の一人で、女性の作曲家の草分けといってもよいでしょう。芸大を卒業後、パリで研鑽を積まれ、数々の作曲賞を受賞。現在では世界のあちこちで作品が演奏され、国際的に活躍されていらっしゃいます。私にとっては芸高時代からの先輩ですが、当時から彼女は「超」がつくほど頭が良くて有名でした。ピアノもものすごく上手ですし、文才にも恵まれていて新聞の書評委員も務めておられます。まさに「才女」という言葉がぴったりです。 能声楽家の青木涼子さん(中央)と作曲家の望月京さん(左)。 涼子さんといい京さんといい、今や日本の音楽界を背負って立つ優秀な2人の女性とご一緒できるなんて、私にとってはとても光栄なことです。ですが、最初にお話をいただいたときにいちばん驚いたのは、そのオペラの内容でした。 人類史上初めて訴訟を起こした女性 物語は、アムステルダム国立美術館に勤めるキラナという女性(ベルナデータ・アスタリ、Sop.)が登場するところから始まります。キラナはインドネシア人の絵画保存修復家で、美術館に所蔵されている一枚の絵画を修復しようとしているのですが、その絵に描かれているのが先に触れたコルネリアの一家です。 17世紀の画家ヤコプ・クーマンによって描かれたコルネリアとその夫ピーテル・クノルと二人の娘の家族肖像画。画面右端、薄暗い背景に2人の奴隷の姿が見える。(1665年) コルネリアは、東インド会社の一員で平戸の商館長を務めていたオランダ人の父親と日本人の母親との間に生まれました。彼女は不運にも1639年の鎖国令を機に両親と引き離され、バタヴィア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に送還されてしまいます。バタヴィアの孤児院で育った彼女は、やがてオランダ人のピーテル・クノル(彼もまた東インド会社に勤める裕福な商人です)と結婚し、たくさんの子宝に恵まれました(とはいえ、成人したのはたった一人でした)。 青木涼子さん演じるコルネリアが登場する場面。(©Daan van Eijndhoven) しかし、クノルを病気で亡くしたあと、再び彼女に受難が訪れます。彼女の再婚相手、ビッターに財産を奪われそうになり、コルネリアは裁判で争うことになるのです。当時、オランダの法律は、夫が妻の財産に対し全面的に支配権を持つことを認めていました。コルネリアはそのような不利な立場にありながら、自分の財産を守るべく人生をかけて闘ったのでした。聞いたところによると、彼女は「人類史上初めて訴訟を起こした女性」とされているそうです。 タイトルの「おてんば」は、もともとオランダ語に由来する言葉ですが、「飼いならすことができない」という意味があるんですね。このオペラは、女性の人権が著しく侵害されていた時代にあって、それに抗って生きた女性の生き様を描いた作品なのです。 オランダ、インドネシア、日本 お話を舞台に戻しましょう。絵画修復家のキラナは、この絵の右端に描かれた2人の奴隷の部分を修復しようと試みます。実は、2人の奴隷のうちオレンジを手にした男性はスラパティといって、のちに逃亡奴隷を率いて東インド会社に反乱を起こした人物とされています。つまり、インドネシア人のキラナにとっては歴史上の英雄なのです。絵画では暗くてよく見えませんが、キラナと同じ美術館に勤めるAI技術師の男性(ミヒャエル・ウィルメリング 、Bar.)がスキャナーを当てると舞台背後のスクリーンに絵の細部が大きく映し出され、そこにスラパティの姿を認めることができます。 バリトンのミヒャエル・ウィルメリング演じるAI技術者が、スキャナーを使って絵画の細部を背後のスクリーンに映し出します。(©Daan van Eijndhoven)...

【ヤマハのおうたえほん】出産や進級祝いにぴったり!豪華なサウンドとかわいいイラストの大人気絵本

【ヤマハのおうたえほん】出産や進級祝いにぴったり!豪華なサウンドとかわいいイラストの大人気絵本

たくさんの方に愛されているヤマハの音の出る絵本シリーズに、「おうた」バージョンが追加! 音の出る絵本はたくさんあって、どれを選ぶか迷いますよね……。 この商品は、次のような方におすすめ。 ✓子どもが夢中になれるおもちゃを探している ✓音楽や言葉に関することをそろそろ身につけさせたい ✓リトミック教室や音楽教室に通わせたいけど余裕がない ✓おもちゃで遊ぶついでに楽しく英語も学ばせたい 担当編集が、「ヤマハのおうたえほん」「えいごでたのしむ!ヤマハのおうたえほん」の魅力を深掘りしてお届けします! |担当編集が伝えたい!絵本の魅力と活用方法 ー ヤマハ商品だからこその品質の高さ。豊かな音楽体験ができる! ー レアなあの曲を収載。保育現場でもよく歌われている! ー もちろん全曲再生機能付き。モードがたくさんで自由度が高い! |このこだわりを聞いてほしい!音源開発者のおすすめポイント大公開 |脳神経科学者もたいこばん!歌をうたうことが「発達」に良い理由 |関連絵本をご紹介 |商品概要 |まとめ 1|担当編集が伝えたい!絵本の魅力と活用方法 ヤマハ商品だからこその品質の高さ。豊かな音楽体験ができる! 1.ハモリパートがあることで豪華な音に! ヤマハのおうたえほんで遊んでみた方々が口をそろえて言うのは、「ハモリパートがあって、とにかく音が豪華に聞こえる!」ということ。豊かな音楽体験ができます。 2.歌いやすいアレンジとキー設定 小さいお子さんでも歌いやすいアレンジにこだわりました。 また、幅広い年齢のお子さんが楽しく歌えるように、高すぎないキー、速すぎないテンポを意識しました。 3.こだわりぬいた音のバランス 伴奏、ハモリ、メロディをどんなバランスにするとより心地よいかを何度も実験! ずーっと流していても耳が痛くなりにくいです。 レアなあの曲を収載。保育現場でもよく歌われている!...

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 数珠が回り、獅子が舞う、異色の民俗芸能    タスキがけの男たちが代わるがわる滑車にかけられた長さ約9メートルという巨大な数珠(じゅず)に取りつき、力強く回し続けている。滑車から吐き出された数珠は天井に向かって勢いよく投げられ、蛇が波打つような曲線を描いた刹那、床の上で「ガシャガシャ」と大きな音を立てる。数珠は再び滑車に巻き取られていき、また力任せに引き寄せられる。それが何度も繰り返される。数珠回しの最中は、絶え間なく太鼓の音が響き、時折「南無阿弥陀仏……」と念仏の唱和も挟み込まれる。 男たちが大きな数珠を引き寄せ、勢いよく回し続ける    いま私が見学しているのは、神奈川県足柄上郡山北町に伝わる「世附(よづく)の百万遍念仏」という民俗芸能である。山北町向原の能安寺というお寺の道場を舞台に、毎年2月15日に近い土・日曜日に開催される。「百万遍念仏」というのは、全国各地に広まる「百万遍信仰」にもとづく行事で、その目的も、五穀豊穣、雨乞い、追善供養、虫送り、疫病退散など、地域によって多岐にわたる。    『民間念仏信仰の研究』(仏教大学民間念仏研究会 編)によれば、一言に百万遍念仏といっても大きく二つのタイプに大別され、一つは一人の人間が7日間ないし10日間かけて文字通り百万遍、念仏を唱えるというもの。もう一つは大勢の人間が車座に座って、巨大な数珠を繰りながら、念仏をみんなで唱和するというもの。多勢による念仏の総和をもって「百万遍」とするという、その合理的な発想に感心させられる。世附の百万遍念仏は後者のタイプに属するが、滑車を使って一人で数珠を回すという点で、他とは一線を画している。 百万遍念仏が行われる能安寺。お寺の背後には東名高速道路が走る    数珠回しが終わると、今度は「獅子舞」や「遊び神楽」といった余興的な演目が始まる。獅子舞にはいくつかの曲があり、笛と太鼓の伴奏とともに「剣の舞」「幣の舞」「狂いの舞」「姫の舞」などの舞が演じられる。舞の最中は太鼓と笛の演奏、そして時折歌が入るが、耳をすませていると「来いと呼ばれて行かりょか佐渡に」と民謡『佐渡おけさ』の文句が入ったり、「牛の角蜂がさした蜂の金玉蚊なめた」などユニークな歌詞が聞こえてきて面白い。 剣と鈴を持って舞う、剣の舞 二人1組で獅子を演じる、狂いの舞    「二上りの舞」「おかめの舞」「鳥さしの舞」はもっとユニークで、二上りの舞はひょっとこ面の恰幅のいい男性が滑稽な動きをしながら、お堂の中を所狭しと歩き回る。おかめの舞はまるっきり漫才で、舞とともにおかめ(女)とかんさん(男)の色っぽくて笑える問答が繰り広げられる。鳥さしの舞は、さまざまな芸能の題材となっている「曾我兄弟の仇討ち」をモチーフとした芝居仕立ての演目だが、鳥さし(鳥餅を用いて野鳥を捕まえる職業の人)役の男性の演技がとにかく色っぽく、驚いてしまった。そもそも太鼓や笛の演奏もきわめてレベルが高く、全員がかなりの修練を積んでこの行事に臨んでいることがうかがい知れる。 ひょっとこがコミカルに立ち回る、二上りの舞 リズムカルな歌やセリフに合わせて鳥さしが舞う    神楽が一通り演じられると、最後に「カガリ」が行われる。「カガリ」は儀式的な演目だ。道場の真ん中に太鼓を置いて、バチを手にした人々がそれを囲む。太鼓を叩きながら「融通念仏」という念仏を全員で唱和する。融通念仏は数え歌のようで、一番から始まり、十番で終わる。十番の歌詞に達すると、天井からたくさん吊るされた紙飾りが落ちてきて、参加者全員でそれを奪い合う。一種のトランス状態に陥って、その日の行事は終わる。 「カガリ」では太鼓を囲んで「融通念仏」を唱える    しかし、百万遍念仏の本当のエンディングはこれではない。山北町のホームページには、次のように書かれている。    戦前は百万遍念仏の翌日に獅子舞が幣束を持って、世附地域の全戸をお祓いをしながら周り、最後に幣束を永歳橋から流す「悪魔祓い」を行っていました。現在は向原の能安寺で念仏が行われているため、悪魔祓いは念仏の翌週に世附地域出身者の家々をまわり、幣束は大口橋から流されます。    この悪魔祓い(地元の人は「アクマッパライ」と呼ぶ)をもって、百万遍念仏は一区切りとなる。「現在は向原の能安寺〜で行われている」と書かれているのは、実はこの百万遍念仏が元々行われていた「世附」という集落はすでにこの世に存在しないからだ。1978(昭和53)年に竣工した山北町の山間部にある「三保(みほ)ダム」の建設によって、ダム湖(丹沢湖)に水没してしまったのだ。この「三保ダム」という名称は、かつてこの場所に存在した「三保」という地名に由来している。1909(明治42)年に、世附をはじめ、中川、玄倉(くろくら)の三村が合併して三保村が成立(1925年には神縄村の尾崎・田ノ入・ヲソノ地区も編入)。1955(昭和30)年のさらなる合併で三保村は廃止となり、山北町となった。    ダムの建設で、三保の住人たちの大半(223世帯)は山から降り、麓の地域に分散して移り住んだ。しかし、いまもなお百万遍念仏や悪魔祓いは、元世附住民の移転先で継承されている。水没から50年近く経ったいまも、出身地域に根ざした行事が行われているという事実には驚嘆せざるを得ない。彼らが祭りを続ける、その原動力とは一体なんなのだろうか。 川で結ばれた「ふるさと」と「新天地」    一週間後、悪魔祓いを見学するために、私は再び山北町に足を運んだ。場所は、住人たちの移転先の一つである「原耕地」地区だ。到着すると、笛や太鼓を持ってぞろぞろと歩く集団に遭遇する。獅子頭をかぶった者もいる。 JR「東山北」の駅から原耕地の集落を臨む 悪魔祓いをしながら集落を回る一団    一団は訪問先の家に着くと、まず案内役の人がインターホンを押して家人に到着を知らせる。続いて獅子頭を身につけた人が玄関の前に進み出て(家によっては家屋の中に入って)、幣束を手にしながら笛と太鼓に合わせて悪魔祓いの舞を行う。 軒先で舞う獅子 悪魔祓いの最中は、太鼓と笛の演奏が行われる    一連の流れが終わると足早にその場を離れ、次の家へと向かう。トータルで80戸近くの家を回るらしい。元世附住民の家は山北町のほか、中井町、開成町など、足柄上郡の各地域に点在する。なので悪魔祓いの当日は、車を利用しながら数チームに分かれて家々を訪問することになる。午前中には、丹沢湖の方にも行っていたそうだ。 百万遍念仏で際立った太鼓の腕を披露していた男性も、悪魔祓いに参加していた(写真右)...