ショパン国際ピアノコンクール2025レポート<前編>【森岡 葉のピアニスト取材雑記帳】
10月2日から約3週間にわたってワルシャワで開催された第19回ショパン国際ピアノコンクールの取材に行ってきました。ピアニストを目指す若者たちのあこがれの舞台で繰り広げられた熱演の模様をレポートします。 ワルシャワ到着~オープニング・ガラ・コンサート ショパンコンクールの取材は、2005年以来5回目。全日程を取材するのは2015年から続けて3回目となります。コロナ禍で開催が1年延期された前回の第18回コンクールでは、鮮烈な個性で躍動感あふれるショパンを聴かせたカナダのブルース・リウが優勝に輝き、我らが日本の“サムライ”こと反田恭平さんが第2位、第17回でもファイナルに進出した小林愛実さんが第4位など、日本人の活躍も目立ち、大きな話題を呼びました。 日本中がショパンコンクールブームに沸いた前回のコンクールから4年、今回はどんなスターが生まれるのか、熱い視線が注がれるなか、10月2日、第19回コンクールが開幕しました。 10月2日の朝ワルシャワに到着した私は、いつも宿泊するフィルハーモニーホールの近くのアパートにチェック・イン。近くのスーパーで水や食糧を買い込み、野菜スープを作ってパンやハム、ソーセージ、チーズと共に食べてホッと一息つきました。ポーランドの野菜、パン、ハム、ソーセージ、チーズなどの乳製品、とっても美味しいのです。3週間の取材中、外食もしましたが、基本は自炊。野菜スープやラタトゥイユを仕込んで、あとは買ったものという感じですが、健康的な食生活を心がけました。コンクールが始まると、モーニング・セッションは朝10時から午後3時近くまで、イヴニング・セッションは午後5時から夜10時近くまでというスケジュールなので、ゆっくり食事を摂る暇がないのです。歩いて5分のアパートの部屋に戻って、くつろいで好きなものを食べるのが一番。とりあえず初日の買い出しと仕込みが終わり、シャワーを浴びて昼寝をして、夜20時からのオープニング・ガラ・コンサートに備えました。 オープニング・ガラ・コンサートは、アンドレ・ボレイコ指揮、ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団が、ショパンの《ポロネーズOp.40-1「軍隊」》のオーケストラ版を奏でて幕を開けました。ポーランドの民族の誇りを感じさせる勇壮な演奏で、これから始まるショパンコンクールへの期待が高まったところで、前回の優勝者ブルース・リウが登場してサン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》を演奏。鮮やかなテクニックでエキゾティックな作品の魅力をみずみずしく描き出しました。審査委員長のギャリック・オールソンと審査員のユリアンナ・アヴデーエワによるプーランク《2台のピアノのための協奏曲》のエキサイティングな演奏で会場の熱気はさらに高まり、審査員のダン・タイ・ソンが加わって、新旧の優勝者4人によるJ.S.バッハ《4台のチェンバロのための協奏曲》。典雅な響きを現代のピアノから引き出し、4人の個性が溶け合う素敵なアンサンブルで、祝祭のムードに包まれたコンサートを華やかに締めくくりました。 スタンディング・オベーションで新旧4人の優勝者の演奏を称える聴衆 オープニング・ガラ・コンサート翌日のコンクール情報誌「Kurier」の表紙 オープニング・ガラ・コンサートの会場で、日本人コンテスタントの東海林茉奈さん(中央)、京増修史さん(右)と 第1次予選(10月3日~7日) 10月3日から5日間にわたって開催された第1次予選には84名のコンテスタントが出場し、9月29日のオープニング式典で行われた抽選で、姓の頭文字が「T」のコンテスタントからアルファベット順に演奏することになりました。演奏順についてのルールは今回から変わり、ラウンドごとに6文字後ろにずらして第2次予選は「Z」から始まり、4ラウンドでアルファベットが一巡するとのことでした。 今回は課題曲も従来と少し変わりました。第1次予選は、(1)これまで2曲だったエチュードが技巧的難度の高い5曲のエチュードから1曲、(2)指定されたノクターンまたはゆるやかなテンポのエチュードから1曲、(3)バラード、舟歌、幻想曲から1曲、(4)3つの指定されたワルツから1曲を選択することとなり、ワルツという舞曲の要素が加わったことで、より多様な側面からコンテスタントの能力が評価されることになりました。 今回の公式ピアノは、スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリ、ベヒシュタインの5メーカー。コンテスタントは、開幕前にひとり15分ずつセレクションの時間が与えられ、ホールのステージで試弾して自身のパートナーとなるピアノを選びました。ここでもルールに変更があり、これまでは先生や家族などに客席で聴いてもらって考えることができたのですが、今回はひとりで決めなければならず、コンテスタントの多くが、最後まで迷ったと語っていました。フィルハーモニーホールは、ステージと客席で音の聴こえ方が大きく違い、ホールの中でも座る場所によって音響が変わります。最初に選んだピアノはファイナルまで変更が認められないので(これも、前回までは認められました)、皆さん悩んだことと思います。 10月3日午前10時、いよいよコンクールが始まりました。姓のアルファベットの頭文字が「T」からなので、牛田智大さんが3番目に登場し、13名の日本人コンテスタントのトップバッターとなりました。爽やかな表情で舞台に現れた牛田さんは、抒情あふれるノクターン、チャーミングなワルツ、晩年のショパンの心情に迫る《舟歌》など、完成度の高い演奏を披露し、会場から大きな拍手を浴びました。 84名のコンテスタントの第1次予選の演奏を聴いて、とにかく全体のレベルが高く、ここから約半分の40名を選ぶのは大変だなと思いましたが、10月7日の夜11時、予定時刻ぴったりに予選通過者が発表されました。日本人は、桑原志織さん、中川優芽花さん、進藤実優さん、牛田智大さん、山縣美季さんの5名が通過。今回の13名の日本人コンテスタントは、それぞれ多彩な個性と優れた音楽性でショパンへの誠実なアプローチを聴かせてくれたので、結果発表の瞬間は辛い気持ちになりましたが、どのコンテスタントにとっても、この経験は必ず今後のピアニスト人生の糧になることでしょう。 今年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでファイナリストとなった桑原志織さんは、昨年末のルールの変更により予備予選免除で参加資格を得て、悩んだ末に参加を決めたとのことですが、ブゾーニ、ルービンシュタインなど数々の国際コンクールに入賞した実力を発揮し、見事な演奏を繰り広げました。コンクール直前の9月19日には、ブラームス《ピアノ協奏曲第2番》を演奏。ショパンコンクールの準備は大丈夫かしら? とちょっと心配しながら、どんなショパンを聴かせてくれるのか楽しみにしていたのですが、期待以上の素晴らしい演奏でワルシャワの聴衆の心を掴みました。 10代の頃からピアニストとして活躍し、多くのファンがいる牛田智大さん、2021年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝した中川優芽花さん、日本音楽コンクール第1位ほか国内外のコンクールで優秀な成績を収めている山縣美季さん、前回のコンクールでセミファイナルまで進んだ進藤実優さん、いずれも独自の世界を持つ優れたピアニストが第2次予選に駒を進めました。 日本人以外では、前々回(2015年)、当時17歳で第4位となったエリック・ルーさん、前回のファイナリストのイ・ヒョクさんと弟のイ・ヒョさん、やはり前回のファイナリストのラオ・ハオさん、ジュネーブ、ルービンシュタインなど参加したコンクールすべてで優勝しているケヴィン・チェンさんなど、注目のコンテスタントたちも順当に通過しました。 第2次予選(10月9日~12日) 第2次予選は、10月9日から12日まで4日間にわたって行われました。このラウンドの課題曲も、従来と変わりました。最も大きな変更点は、《24の前奏曲》を全員が弾かなければならないこと。全曲弾いても、6曲ずつ4つに分けた1組を弾いても構いませんが、とにかく全員が弾かなければなりません。前回まで《24の前奏曲》は、第3次予選で2曲のソナタとの選択で選ぶコンテスタントがいましたが、あまり多くは弾かれていませんでした。バッハの《平均律》に着想を得て、ショパンが自由な筆致で書いた24の宝石のような小曲から成るこの作品は、ピアノ音楽の最高傑作と言ってもいいかもしれません。しかし、多彩な小曲のキャラクターを瞬時に描き分けるのは、ソナタやバラードを弾くのとは違う難しさがあります。このほかに第2次予選で課されたのはポロネーズで、40分~50分の演奏時間内であればそのほかの曲を自由に選択して演奏できます。前回よりも全体の演奏時間が10分長くなったのは、《24の前奏曲》を全曲弾くと約35分かかるためです。この10分長くなった第2次予選は、実際に客席で聴いてかなり長いと感じました。ショパンコンクールを聴くのは体力勝負、審査委員長のギャリック・オールソン氏もコンテスタントの演奏の合間に立ち上がって腰を伸ばしていらっしゃいました。 演奏の合間に腰を伸ばす審査委員長(中央) しかし、《24の前奏曲》が課され、演奏時間が長くなったため、第2次予選はかなり聴きごたえのあるものとなりました。前奏曲を全曲弾いたのは40名中10名で、30名は6曲を弾いて残った時間を自由に使い、あまり弾かれる機会のない《ピアノソナタ第1番》や、前回の優勝者のブルース・リウが弾いた《「お手をどうぞ」の主題による変奏曲》(ラ・チ・ダレム変奏曲)などを組み入れたユニークなプログラムを聴かせてくれたのです。《ピアノソナタ第1番》がショパンコンクールのステージで演奏されたのは、おそらくコンクール史上初めてではないかと思いますが、今回は3人のコンテスタントが演奏しました。しかも同じ日に! また、ケヴィン・チェンさんは作品10のエチュード全曲を鮮烈なテクニックで演奏し、会場を圧倒しました。 数々の名演が繰り広げられた第2次予選ですが、第3次予選に進めるのは半分の20名。最後のコンテスタントの演奏が終わった数時間後に結果が発表されました。第1次予選も第2次予選も、予定時刻通りの発表でしたが、これは採点と集計のルールが変わり、数字の計算だけだったからのようです。 ここで、今回の審査の採点方式について、少し説明しておきたいと思います。これまでのコンクールでは、各審査員がYes/Noと25点満点の点数を提出していましたが、今回は点数のみの審査となりました。自身の生徒は「S」として審査できないのは従来通りです。各ラウンド、コンテスタントの演奏が終わった時点で点数をつけ、第1次予選はラウンド終了後、第2次、第3次予選は午前と夜のセッション終了後(そのラウンドのすべての演奏を聴いてから調整することはできない)に提出します。また、第2次予選以降のラウンドは、前のラウンドの点数を規定の割合で反映させ、その総合点で順位を決めます。たとえば第2次予選は、1次を30パーセント、2次を70パーセントの割合で総合点を出したそうです。さらに、この採点方式が複雑なのは、審査員の採点が、平均点から大幅にかけ離れている場合(1次は±2点以上、2次、3次は±3点以上)、補正されるとのこと。わかりにくいルールで、審査員も、この採点方式に戸惑った方が多かったようです。海老彰子氏は、「結果的に審査員の評価が平均化される傾向にあり、ユニークな個性を持つコンテスタントが評価されにくかったかもしれません。審査員が何を重視して評価するかはそれぞれ異なり、点数だけでは表せないと思います。個人的には、Yes/Noと点数で審査した従来のやり方の方がよかったと思います」と語っていました。 今回の採点のルールについて詳しく知りたい方は、こちら(英語のサイト)をご覧ください。 さて、第2次予選を通過した日本人コンテスタントは、桑原志織さん、進藤実優さん、牛田智大さんの3名。中川優芽花さん、山縣美季さんは、《24の前奏曲》全曲を、それぞれのアプローチで繊細に表現し、聴衆の反応もよかったので、とても残念です。 そのほか、第3次予選に進めなかったコンテスタントで印象に残った人について書きたいと思います。 台湾のチャン・カイミン(Kai-Min...