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「才能」よりも大切なこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「才能」よりも大切なこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 2025年の抱負 みなさん、こんにちは! いよいよ暮れも押し詰まってきましたね。みなさんにとって2024年はどんな一年だったでしょうか。 私にとって今年は「携わる仕事の種類が急激に増えた」一年でした。それにともなって交友関係にも大きな変化を感じています。音楽的にも人間的にも尊敬できる、才能ある方々とたくさん知り合い、お互いに世界各地を転々としながら連絡を取り合う……そんな新しい交流の仕方が多くなってきました。 新年も、欧州と日本を行き来する生活は続きそうです。特に、2025年11月1日には横浜みなとみらいホールから作曲委嘱をいただいたオルガンとオーケストラのための新作を、自分の指揮で初演します! オーケストラは今年5月に初共演した神奈川フィルハーモニー管弦楽団、オルガンは横浜みなとみらいホール・オルガニストで大学の同級生でもある近藤岳さん。横浜みなとみらいホールの素晴らしいオルガンで信頼する共演者の方々に自作を演奏していただけると思うと、今から身震いするほど楽しみです! 少し先になりますが、ぜひ来年の手帳に予定を入れておいてくださいね。 「才能」ってなんだろう? こうして一年中世界のあちこちで仕事をしていると、いろいろな才能と巡り会う機会があります。世界に名だたるトップ奏者や世間の耳目を集める早熟の天才もいれば、マスタークラスや音楽院の試験などでは開花する前の原石みたいな才能にも出会います。音楽の世界ではことさら若い才能が話題を集めがちですが、果たして「才能」ってなんなのでしょう? 「天才」といって私が思い出すのは、昨年ベルリン・フィルの首席トランペットに就任したダヴィッド・ゲリエ(David Gurrier, 1984~)君。彼は知人でもあるのですが、7歳でトランペットを始めて10代で数々の国際コンクールで優勝、一躍脚光を浴びるものの18歳でホルンに転向し、わずか数年後にフランス国立管弦楽団首席ホルン奏者に就任、リヨン国立高等音楽院ではホルン科教授も務めたあと再びトランペットに戻り、フランス国立放送管弦楽団の首席奏者を務め、その後ベルリン・フィルに入団……という超人的なキャリアの持ち主です。以前、彼のリサイタルに行ったことがありますが、一晩でいったい何種類楽器を持ち替えたかわからない(笑)。管楽器はほとんど全部吹けるんです。さらに最近は並行してヴァイオリンも始めたそうで、一年でチャイコフスキーの協奏曲が弾けるようになったとか(!)。一口に「天才」といっても彼の場合、10年後に何をしているか誰も予測できません。これはかなり特殊な例かもしれませんが、そんな「才能」もありますね。 神様が定めたエコシステム かくいう私自身も、わりと幼少の頃から周囲に「才能がある」とか「天才だ」と言われたり期待されたりすることが多かったので、「才能とは何か」ということを昔からよく考えていました。 私が思うに、人は誰しも何らかの才能を持って生まれてきているんです。ただ世の中には騒がれやすい才能とそうでない才能があるというだけで。生まれたときの時代や社会の有り様によって、そういう差はあるかもしれません。でも、そうやって持って生まれた何らかの才能を発揮して、社会に貢献することで人類は発展してきたのだと思います。 もともと才能とは個人差の大きいものですが、それが発露するまでの時間にも個人差があります。音楽の才能は特にそれが顕著かもしれません。いつの時代も「天才少女・天才少年」がもてはやされるのはある意味自然なことで、早熟な才能は人々に人間の可能性や未来への希望を感じさせてくれるんですよね。ただし草木と同じで、きちんと水をやって世話をしなければ才能は育っていきません。「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」という言葉があるように、どんな才能も不断の努力なしにはありえないのです。 私に言わせれば、才能とは「神様からの預かりもの」。持って生まれたその人だけの占有物ではないと思うのです。神様から預かっているものですから、その人は一生懸命それを磨いて、与えられた恩恵を社会に還元しなければなりません。そうすることによって社会はより良く豊かになり、人類は存続していく……。「才能」とは、そんな「神様が定めたエコシステム」に含まれているものではないかと思います。 没個性社会から「創造性を促す共同体」へ 本人の努力に加えて、社会もそれを温かく見守る必要があります。若い時だけちやほやするのではなく、その才能がその後どんな枝を拡げ、どんな花を咲かせ、どんな実を結ぶのか、最後まで見届けるべきでしょう。一つの才能が花開くためには、多くの人の援助が必要なこともあります。そうやって社会で才能を見守り育てていくことは、誰か一人の栄誉や利益のためではなく、社会全体の繁栄に繋がるのです。今の資本主義社会にはそうした視点が欠けているように思います。 日本は戦後、高度成長期を経て先進国の仲間入りをしました。しかしその急成長を生み出した大量生産・大量消費モデルというのは、没個性を促すシステムでもあるんですよね。日本は今でもその影響が続いていて、「創造性を促す共同体」という考え方が足りないのではないかという気がします。もっと、人とは違う感性を大切に育んでいく余裕が社会全体にほしいところです。 才能を磨くための「人間力」 「才能」について考えるときに私が合わせ鏡のように思い出すのが「人間力」です。才能を磨くためには、それ相応の「人間力」を得る必要があります。そして、それは「才能」や「天才」とは違って、努力によって誰でも高めることができるものです。人は才能「だけ」あってもだめで、成長するためには必ず他者を必要とします。他者の手助けを得ようとする時、この「人間力」がとても重要な要素になってくるのです。 「人間力」というと抽象的ですが、具体的にいうとコミュニケーション能力、共感力、忍耐力、自己管理力、好奇心、学習能力などがここに含まれるでしょうか。とりわけ私が大事だと思うのが学習能力で、これは何か失敗したときにとことん自分と向き合って、どこに原因があったのか、どうすれば回避できたのか、学び取って次の成長に繋げる能力のことです。 とはいうものの、私自身は子どもの頃からずっと優等生タイプで、失敗することをすごく恐れているところがありました。でも、今になってみると「若い頃にもっと挫折を経験しておけばよかった!」と痛感します。なぜなら、失敗の経験ほど自分自身を大きく成長させてくれるチャンスはないですから。 私の人生でこれまで一番の失敗といえば、離婚でしょう(笑)。それまでは、自分にそんなことが起こるなんて信じられない!というくらい、ありえないことだと思っていました。でも、まったく後悔していません。離婚してはじめて、「あ、自分の名前でやっていいんだ」と気づいたんです。結婚してからずっと封印していた作曲(連載第1回参照)も再開しました。フランス人作曲家の元夫は決して「後ろに下がってろ」というタイプではありませんでしたが、無意識に「夫を支えなければ」「自分が前に出てはいけない」と自制していたんですね。40代になってはじめて味わった大きな挫折でしたが、それがなければ今の私はありません。来年、「日本で自作の協奏曲を自分で指揮する」なんて、当時の自分が知ったらびっくりするでしょう(笑)。この経験から得たことは大きかったと今は思います。 「才能」よりも大切なこと 今や「人生100年」と言われる時代です。時には挫折して落ち込んだり、人と比べて「才能がない」と思い悩んだりすることもあるかもしれませんが、それは長い人生のほんの一部。5年後、10年後にどうなっているかなんてわかりません。それよりも挫折から学び、自分の感性を磨いていくことが、その人の人生を豊かで幸せなものにするではないでしょうか。そしてそれは、「才能」よりもずっと大切なことだと思うのです。(つづく) 前の記事 第7回へ 著者出演情報 ▼2024年12月20日(金) 19時00分開演...

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために始まった獅子舞    伝統的な祭りには、ほぼ必ず「由緒」というものが存在する。どれくらいの歴史があるのか、何のために始められたのか、その内容が立派であればあるほど、祭りの権威性や正当性も高まってくる。それゆえに、なかには神話めいた由緒というのも存在するが、一方で、おそらくほぼ何の脚色もなく、事実ベースでその来歴を伝える祭り・民俗芸能もある。その一つが、北海道樺戸郡新十津川町に伝わる「新十津川獅子神楽」だ。新十津川町のホームページには、次のような解説文が記載されている。 明治41年、日露戦争後の人心退廃の風潮を憂う富山県出身者たちが青年たちに健全な娯楽を授けるとともに、併せて村祭りにも寄与しようと獅子神楽の普及を計画し、獅子神楽会を設立。以来、玉置神社(現新十津川神社)の例大祭などで舞いを奉納し、近隣市町に例のない伝統と特色ある郷土芸能として名声を博しました。 (新十津川町役場ホームページより) 新十津川町(北海道)    これ以上ないほどの明確な理由をもってスタートした民俗芸能であることがわかる。より詳しい来歴に関しては、新十津川町獅子神楽保存会が1982(昭和57)年に発行した『獅子神楽七十五年 記念誌』に書かれており、そこには獅子舞を新十津川の町に最初に持ち込んだメンバーの名前まで記載されている。    それだけに、「なぜ、祭りが必要とされたのか」、このテーマを検討する上で、新十津川獅子神楽は格好の題材とも言えそうだ。「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために、富山県から移植された獅子舞が、120年近く経ったいま、どうなっているのか。その現場を見に、新十津川町に行ってみることにした。 大水害を機に北海道に大量入植した奈良県十津川村住民たち    内地に住む人間からの視点になってしまうが、北海道は開拓民たちによって拓かれた土地であることは多くの人に知られているところだと思う。では、移住者たちは本土のどういった地域からやってきたのだろうか。地理的に、北海道から近い東北からの移民が多いことは容易に想像できるが、北海道開拓の歴史を伝える施設「野外博物館 北海道開拓の村」ホームページによると、1882(明治15)年~1935(昭和10)年の移住戸数に関しては、1位青森県、2位秋田県に次ぎ、新潟県が3位につけている。以下、富山、石川、岩手、山形、福島、福井が上位を占め、北陸からの出身者も多いことがわかる。    北陸出身者の移住が多いことについては、さまざまな理由が考えられるだろうが、1963(昭和38)年に北海道史編集員を務めた篤志家の片山敬次は「地理的接近と、帆船時代に本道と内地間との交通が、夏季は濃霧、冬は風波の為太平洋岸の航路が開けず、松前との交通は殆んど日本海沿岸の諸港に限られ、従って北陸より商人漁夫等の出稼ぎが多く、自然本道との親しみが深い関係からであらう」と自著『北海道拓殖誌』の中で考察している。    では、新十津川町を開拓したのは誰であったのかというと、初期の開拓者は東北でも、北陸でもなく、その名の通り奈良県の十津川村出身者であった。 十津川村(奈良県)    十津川村というと、地理が好きな方なら名前を聞いたことがあるかもしれない。面積は672.38k㎡。「村」としては日本一の広さを誇る一方、紀伊山脈の只中にあることから、奥山の秘境といった様相を呈している。私も十年ほど前に十津川の盆踊りを体験しに現地を訪れたことがあるが、集落に至る道のりが崖っぷちの細道といった有様で、車が転げ落ちないかとヒヤヒヤしながら座席で硬直していた記憶がある。 山々に囲まれた奈良県十津川村武蔵地区。中央にあるのは盆踊りの櫓(2014)    外界から隔絶された土地ということもあり、十津川村の歩んできた歴史もまた独特である。壬申の乱の時代から朝廷に仕え、長らく「諸税勅免」(勅命によって税が免除されること)の地として優遇されてきた十津川村。豊臣秀吉時代、江戸幕府時代と、国の統治者が変わってもその特権は引き継がれた。また、古来より勤皇の意思が強いことから、明治維新前後には「十津川郷士(ごうし)」を輩出。後に郷士たちは、尊皇攘夷派浪士の一団である天誅組が幕府軍に壊滅させられた「天誅組の変」(1863年)にも関わった。    そんな「ご勅免の地」も、1873(明治6)年の地租改正によって「有租の地」となってから状況は一変。もとより山間部で平地が極めて少なく、農耕の成り立たない土地であった十津川村では、公共事業として杉檜の植栽事業を興そうとしたものの、その矢先となる1889(明治22)年8月に、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸という未曾有の大水害が発生。水田の50%、畑20%が流亡、山林被害も甚大な被害となり、生活の根幹も奪われたことから、600戸、2,489人が北海道に移住するに至り、1890(明治23)年には移住先となる「トック原野」(新十津川町役場ホームページによると、「トック」はアイヌ語で「凸起(物)・凸出(物)」の意)に、「新十津川村(1957年に新十津川町に改称)」が誕生した。 故郷との「死別」、開拓地に向かった人々の思い    新十津川獅子神楽が披露される「新十津川神社例大祭」は、毎年日付固定の9月4日に開催される。ネット上ではそれ以上の情報はないため、獅子神楽保存会の事務局となっている教育委員会事務局社会教育グループに電話で連絡を取り、ともかく9月4日の朝に新十津川神社に行けば、神輿の宮出しから祭りを見学できるという情報を得られた。いずれにせよ、東京から行くとなると現地への前乗りは必須らしい。 新千歳空港    3日の午後、成田国際空港から新千歳空港へ。そこから札幌駅を経由して、鈍行列車を乗り継ぎ、本日の目的地である滝川駅を目指す。滝川市は石狩川を挟んで新十津川町に隣接する都市。なぜ、新十津川町に直行しないのかというと、かつてあった札沼線の「新十津川駅」が2020(令和2)年に廃止となり(北海道医療大学~新十津川間)、札幌方面から鉄道で向かうルートが絶たれてしまったからだ。もしこの路線が生きていれば、よりスムーズに新十津川町に行けたはずで(もっとも末期には一日一発着のみで、最終列車が朝の9時台という状況だったようだが……)、いつかニュースで耳にした、北海道の鉄道路線が次々と廃止になっているという報道の現実を、今回の旅ではからずも実感することになった。 公園として整備されている新十津川駅跡地    新千歳空港の駅を発った時点ですでに夕刻となっていたので、滝川市に接近する頃には、車窓の向こうはすっかり闇となっていた。夜間、知らない土地を駆け抜ける鉄道旅というのは、なんとも心細い。寂しさから、ふと明治時代、陸の孤島と呼ばれる土地を出、汽車や船に揺られながら見果てぬ北海道を目指した十津川村の人々に心を寄せてみる。    資料を読むと、その様相はまず出立の状況からして壮絶だ。 いよいよ前夜、各自思い思いの出立祝いをなす。生別であり死別である。送別宴は歌う踊ると賑わう中にも、言いしれぬ異常の感に咽ぶは誰も同じ。自分は後にも家を残し、弟辰二郎も残って住むのでさまででもないが、家を失って移住する人々は感慨もいっそう深い。岡本の源七と辻の四平が佐古の家で、年寄りのことゆえこれが最後だから故郷への置土産にするとて踊ったのは、勇ましくもまた憐れであった。 (中略) いよいよ伯母子峠一、三四二メートル。住み慣れたふる里との別れである。生涯もう見ることはないかも知れぬ。後にきけばこの時の二百人の中に、誰か頂上で郷里に尻を向けて捲り、ピシャピシャ叩いてみせた夫人がいたとか。そうせずにはおれぬほど切ない別れだったのであろう。泣くよりも辛いおどけである。...

「オペラを指揮する」ってどういうこと?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「オペラを指揮する」ってどういうこと?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 今年も残すところあとわずか みなさん、こんにちは! 早くも年の瀬が近づいてきました。年の瀬といえば、私は今年ちょっと変わった紅白歌合戦に出演します。豪華なオペラ歌手が大勢集う「オペラ歌手紅白対抗歌合戦」です! 私は歌うかわりに(笑)、紅組の指揮を務めます。公演の詳細は末尾にありますので、よろしければぜひ聴きにいらしてくださいね。 先月は母校の東京藝術大学附属高校(藝高)70周年記念コンサートがあり、2台ピアノのために書き下ろした新曲を初演していただきました。3楽章構成の短い舞曲ですが、それぞれの楽章は私が敬愛する音楽家をオマージュして、ラグタイム、ワルツ、プログレッシブ・メタル(!)のスタイルで作曲しました。飯野明日香さん、深見まどかさん、矢野雄太さん、黒岩航紀さんという才気あふれるピアニストのお陰で、お祝いの席にふさわしい華やかで楽しい演奏となり、とっても嬉しかったです! 動画はリハーサルの演奏ですが、それぞれの楽章がどの音楽家をオマージュしているか、わかるでしょうか?(答えは動画の概要欄にあります) オペラ制作には指揮者に必要な要素が詰まっている さて、2024年はグノーのオペラ《ファウスト》で始まった一年でしたが(連載第1回参照)、来年以降もオペラのプロジェクトが続きそうです。来年3月にはアムステルダムのオランダ国立オペラで新作の現代オペラを、9月には藤原歌劇団公演のヴェルディ《ラ・トラヴィアータ》を指揮します。後者は私の新国立劇場デビューでもあり、今からとても楽しみです! 合唱指揮者の両親の元に生まれ育った私にとって、「歌」は音楽の原点です。家庭内でもよく家族で歌っていましたし、実は小学生の頃に二期会ミュージカルで子役として出演したこともあるんですよ。そのくらい、昔から歌や演技は大好きだったんです。 指揮科を出たあとのキャリアのスタートも歌劇場でした。ちょうど音楽院を卒業する頃にたまたま公募があり、ご縁があって約一年半、モンペリエ国立歌劇場および管弦楽団の副指揮者を務めました。今思うと、キャリアのはじめにオペラ制作の現場をつぶさに観察することができたのは非常に幸運なことだったと思います。私は「オペラの公演を指揮できれば、何でも振れる」と常々思っているんですが、それはオペラ制作には指揮者に必要とされるあらゆる要素がすべて詰まっているからです。 モンペリエ旧歌劇場(オペラ・コメディ)で上演されたパリ・シャトレ座による《魔笛》 モンペリエ旧歌劇場(オペラ・コメディ)で上演された《ファルスタッフ》。 オペラを指揮するということ オペラのプロダクションというのは、数ヵ月間にわたって歌手や演奏家も含めて大勢の人と連携しながら進めていくので、さまざまなことに広く神経を行き渡らせる必要があります。そのなかで副指揮者というのは、いわば「なんでも屋」さん。本指揮者に代わって指揮をすることもありますが、もっとそれ以前のこまごまとした雑務が山のようにありました。 リハーサルで本指揮者から「ここ、ピアノじゃなくてピアニッシモにして」と指示が出れば、副指揮者が翌日までにすべてのパート譜を書き換えます。時には指揮者と出演者の間に立って、両者の意思疎通が的確かつ穏便に行われるよう、間を取り持つような役回りをすることも。モンペリエ国立歌劇場にいた頃は毎日深夜12時近くまで働いていて、ほとんど歌劇場に住んでいるようなものでした。そんな時間まで残っているのは私と歌劇場の守衛さんぐらいだったのですっかり仲良しになり、今でも彼とはフェイスブックで繋がっています(笑)。 そうやって現場を経験したことで、制作に関わるいろんな人の気持ちが理解できるようになりました。だから今、本指揮者としてオペラを振る時でも、舞台裏で誰がどんな働きをしているかとか、制作チームの時間配分によって裏方の人たちがどんな影響を受けるかとか、よくわかるんです。これは歌劇場の副指揮者時代に経験したことの賜物だと思っています。 モンペリエ新歌劇場(ベルリオーズ歌劇場)のオケピット。 恩師からのムチャ振り!? チューリヒ歌劇場では、恩師からの依頼で新作オペラの副指揮者を務めたことがあります。これがまたなかなか大変な現場でした。パリ音楽院時代に管弦楽法のクラスでお世話になったマルク=アンドレ・ダルバヴィ先生(連載第2回参照)の現代オペラ《ジェズアルド》の世界初演だったのですが、新作なので練習初日にオペラの総監督と出演者全員が出席するお披露目会のようなものを行ったんですね。まだオーケストラは使えませんからオケの部分を歌劇場専属のコレペティトゥール(オペラやバレエ作品の音楽をピアノで弾いて稽古を行う人)がピアノで弾いて、作曲者の指揮で最初から最後まで歌手に歌っていただき、だいたいどんな作品なのかを全員で共有するわけです。 そのお披露目会の10分前になって急にダルバヴィ先生が私のところへ来て、「僕、実は今までオペラは振ったことなくて……だから、カナコが振ってくれない?」。突然の展開に「ええっ!? そんな話聞いてない!」と思いましたが、ほかにやる人もいないので断れるわけもなく……。しょうがないので先生の代わりに指揮を振って、どうにか最初から最後まで通して演奏しました。 その一部始終を見ていたコレペティさんが「彼女ならコレペティもできるから私たちは必要ないわね」と思ったらしく、翌日から稽古が始まってもコレペティさんが来ない! 先生は先生で、「ちょっと書き直したいところがあるから」といって現場からいなくなってしまうし……。そんなわけで、いきなり最初から私一人でピアノを弾きながら頭で指揮を振り、歌手に間違った音を指摘したり指示を出したりする日々が2週間ほど続き、このときばかりはさすがにヘトヘトになりました。 2010年、マルク=アンドレ・ダルバヴィの新作オペラ《ジェズアルド》の舞台。 オペラの指揮者に求められること でも、昔の指揮者はみんなそうやって歌劇場で徒弟修業を積むところから始めていたんですよね。それこそ、カラヤンやフルトヴェングラーのような指揮者でもキャリアのはじめは歌劇場でした。どんな指揮者にも「こういう音楽を作りたい」という強い信念や音楽的能力は不可欠ですが、さらにオペラの場合、大勢の人が関わるプロジェクトをスムーズに動かす能力、つまり良いチームワークを築くことも手腕の一つに問われます。歌劇場はそれを実地で学べる貴重な場です。 特に歌手の方はデリケートですから、メンタルやフィジカルに不調があるとすぐ声に影響が出てしまいます。指揮者は常に、出演者一人一人の体調や現場の雰囲気に気を遣っていなければなりません。それから、ペースの作り方。スポーツでも短距離走とマラソンではペース配分がまったく違いますよね。オペラの場合も、1ヵ月あるいは2ヵ月の練習期間で毎日どのくらいリハーサルを行い、歌手のエネルギーをどのくらいセーブすればベストな状態で本番を迎えられるか、全体の見通しを立てる必要があります。と同時に、オペラ・プロダクションというのは生き物なので、あらかじめ決めた通りには絶対にいかない世界です。毎日が微調整の連続ですから、頻繁な変化に柔軟に対応する能力も求められます。 初演後にツアーを組みたいと考えている場合などは、そのプロダクションを演奏するのに一番効率の良い形に仕上げる、ということも考える必要があります。あまりお金がかかるような形だと外へ持って行くのが難しくなってしまうからです。ちょうど今準備中のオランダ国立オペラのプロダクションもそうなのですが、先のことを踏まえて「こういう書き方をするといいんじゃない?」と私から作曲家に提案することもあります。 2023年に現代オペラ《ゼロ度の女》で英国ロイヤル・オペラ・ハウスにデビューした際にはこんなことがありました。公演の途中で突然、照明が消えて真っ暗になってしまったのです。幸いオケの中に一人だけ、iPadで譜面を見ながら弾いていたチェロ奏者がいました。そのわずかな光を頼りに、しばらくの間ほかのメンバーも私の指揮に合わせて演奏を続けていましたが、暗譜にも限界があります。「これ以上続くなら、演奏を止めないといけないな……」と思ったギリギリのところでパッと照明がつきました。その瞬間、「ああ、やっぱりオペラ座には怪人がいるんだな」と思いましたね。 2023年、現代オペラ《ゼロ度の女》英国初演時の会場、ロイヤル・オペラ・ハウス。 これまでたくさんの国や歌劇場でオペラ公演に立ち会ってきましたが、場所が変わるとさまざまな条件も変わり、「何事もなく済んだ」ということは一度としてありません。同じプロダクションでも国によってお客さんの反応もさまざまですし、意外な発見があったりして毎回勉強になります。来年の公演の様子についても、また連載でご報告したいと思います。いったいどういう予想外の展開が起こるのか、今からドキドキですよ。みなさん、どうぞお楽しみに!(つづく) 前の記事 第6回へ...

新たな担い手が受け継ぐ虫供養の伝統行事・高橋の虫送り(福島県会津美里町)【それでも祭りは続く】

新たな担い手が受け継ぐ虫供養の伝統行事・高橋の虫送り(福島県会津美里町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 田畑を荒らす虫を送り、五穀豊穣を祈願する行事    「虫送り」という行事をご存知だろうか。農薬や殺虫剤のない時代、田畑を荒らす害虫を集落から追い出し、五穀豊穣や無病息災を祈願する風習で、かつては全国各地で行われていた。開催される時期は主に春から夏にかけてで、形式は地域によって少しずつ異なるが、さまざまな資料を見ていくと、藁(わら)でできた人形や松明を手に持ち、笛や太鼓を鳴らしながら人々が行列となって田んぼの畦道などを練り歩くというのが基本形となるようだ。 江戸時代に著された『養蚕秘録』という本の挿絵として描かれた虫送りの様子 出典:『養蚕秘録 上』(国立国会図書館ウェブサイト)    また、地域によっては、歩きながら子どもたちが「虫送りの歌」を歌う。例えば、次のような歌だ。 こりゃ何の踊りじゃい/虫供養の踊りじゃい/村中の者が/観音様に願掛けて/田の虫を送るぞい/畑の虫も送るぞい(滋賀県高島郡マキノ町石庭) (滋賀県教育委員会『滋賀県の民謡』CDより) ナームショ/オクンドン/イネムショ/サキンナッテ/ヨロズノムショ/オクンドン(千葉県東金市) (東金市「東金市デジタル歴史館」より)    いずれも、わらべうたのような単純な旋律であり、歩きながら何度も唱えることに特化したような歌となっている。歌の印象からしてお遊戯的なものを想像するかもしれないが、先人たちは虫送りの効力を信じて、この行事に熱心に取り組んできた。例えば、明治期の農業技術者・古市与一郎(1828~1898)は、その著書『稲作改良法』で、害虫を天災とみなして「舊習」(きゅうしゅう:古くからの風習)である虫送りに頼る人間が多いあまり、人々が科学的な害虫駆除対策に一致団結して取り組めないことを嘆いている。    『稲作改良法』が出版されたのは明治28(1895)年。この時期、すでに学ある人の中では、虫送りが実用性の欠いた悪風であると捉えられていたという事実は興味深い。しかし庶民の間では少し様子が違ったようだ。1990年刊の新十津川町教育委員会 編『新十津川の昔話』によると、明治30(1897)年頃、北海道の新十津川村で、移民たちによって開墾された耕作地が夜盗虫という害虫の大量発生で全滅してしまう事件があった。新十津川住民たちはどうしたかというと、「虫送り」の実施を決定。松明を焚いて、石油缶をガンガン叩きながら、道の四辻にまじないの書かれた棒を立てて歩いたという。    少なくとも明治時代頃までは、庶民の間では虫送りの祈祷が、ただの願掛け以上の意味を持っていたことを示すエピソードだ。 千葉県袖ヶ浦市に伝わる虫送り「野田の虫送り」     多くの地域では虫送りの行事は廃れてしまっているが、いまも全国各地に伝統行事として残ってはいる。私も、関東近郊で3カ所ほど見学したことがあるが、特に印象に残っているのは、千葉県袖ケ浦市で毎年7月31日頃に実施されている「野田の虫送り」(袖ケ浦市指定無形民俗文化財)だ。虫送りがどのような行事かイメージしてもらうために、その様子を少し紹介したい。(2024年7月31日に見学)    虫送りは、地域の子どもたちが主体となるケースが多い。野田の虫送りもそうで、子どもたちがお札の入った神輿を担いで町内を練り歩く。この自然素材だけで作られた神輿が非常にユニークで、竹で作った骨組みにヒノキの枝葉を重ねて胴体とし(かつては杉の葉で作っていたと地元の方は語っておられた)、神輿のてっぺんには乾燥した竹の皮で作られた鳳凰が載せられる。鳳凰は稲穂をくわえており、さながら本物の神輿のようなビジュアルだ。しかし、葉っぱに覆われて見た目がふわふわしているので、どこかゆるキャラのようなかわいさがある。 神輿づくりは大人の仕事ということで、虫送りの当日や前日に制作される    神輿は地域の氏神である野田神社を出発し、集落の50軒ほどの家々を巡る。子どもたちが神輿を担ぐときの掛け声は「ワッショイ、ホーネン」だ。「虫を送るぞ」ではなく、豊作祈願の言葉を唱えているのが面白い。 神輿は軽トラで家の近くまで運ばれ、玄関までの数メートルは子どもたちが担いで歩く    神輿が家の前に着くと「ワー」という掛け声とともに、上下に激しく揉まれる。本来ならこの神輿を地面に落とすという工程が加わるのだが、神輿の損壊を危惧してかこの日は最後の1~2軒でのみでそれが行われた。地元の人に話によると、落とした時の音で虫を追い払うという意味があるらしい 神輿を上げ下げするタイミングを合わせるのが難しいようで、子どもたちも四苦八苦している    神輿を揉むと、家の人がおひねりとしていくらかお金を包んでくれる。このおひねりはあとで、子どもたち同士で分配するらしい。その分配方法も子どもたちにゆだねられているというので、やはり虫送りが子どもたち中心の行事であるということが実感させられる。 訪問した家の人からおひねりを受け取る子ども    野田の集落は田畑が広がる自然豊かな地域だが、耕作放棄されているのか、荒れた土地もチラホラと見かける。少し切ない気持ちで歩いていると、虫送りの行列が止まって、男性が畑の脇に注連(しめ)のついた細い竹を刺す。 虫送りについて調べると、田畑に札を立てるというのも、この行事の一つの典型らしい    すべての家を訪問し終わると、神輿は野田堰という場所まで運ばれる。何をするのか見守っていると、大人たちが神輿を持って石段を降りて行き、そのまま堰の中に神輿を放り投げてしまった。名残惜しむ間もなく「それじゃあお疲れ様でした」と、各自が車に乗って、そそくさとその場を去っていく。水面に裏返って浮かぶ神輿を、私はフェンス越しからしばらくぼんやりと眺めていた。 堰に投げ込まれた神輿 虫籠は、地域の個性が爆発する農村アート作品...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第8回:避けては通れない“音楽史”について】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第8回:避けては通れない“音楽史”について】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第8回は「避けては通れない“音楽史”について」です。    クラシック音楽をただ聴いて楽しむだけでなく、“少し”詳しくなろうとした時、絶対に避けられないのが「音楽史」である。何故なら、作曲家と作品の位置づけは前後の歴史的な関わりと紐付けられることによって、適切に語ることが出来ると考えられているからだ。言い換えれば、歴史的な文脈(コンテキスト)に位置づけられないものは、評価をしようがない……これが西洋文化の本質ともいえる。  素朴な感覚からすれば、作曲されてから数百年後も演奏されている作品を残した作曲家を偉大な存在とみなしていると思ってしまうかもしれないが、実際のところは影響を与えた範囲が大きいほど偉大な作曲家とみなされる傾向がある。だからこそ音楽史を知らずに、有名な作曲家たちについて語ることは出来ないのだ。 (※『フランス音楽史』『オペラ史』のように、範囲を限った音楽史もさまざま出版されているが、今回はクラシック音楽の通史だけを取り上げる。)     ――入門編    日本語で読めるクラシック音楽の歴史で、おそらく最も読まれているのは音楽之友社から出ている『はじめての音楽史 : 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』だ。初版は1996年だが、その後2009年に増補改訂版、2017年に決定版が出版されているので、今から手に取る場合は必ず2017年に出たものを選んでほしい。  特に決定版で新しく書き下ろされた「もうひとつの音楽史」というコラムでは、旧来の音楽史では削ぎ落とされてきた視点が追加されており、時代遅れの内容にならないような対処がなされている(この部分を深く学びたいなら、村田千尋 著『西洋音楽史再入門 : 4つの視点で読み解く音楽と社会』(春秋社,2016)をお薦めしたい)。  ただし「はじめての〜」と銘打たれている時点で仕方がないのだが、限られたページ数に紀元前から現代にいたる西洋と日本の音楽の歴史を詰め込んでいるため、記述が非常に教科書的で、正直面白いとは言い難い。また事前にある程度、作曲家や作品名を知らないと、読んでも情報が頭に残らない可能性は高そうだ。  読み物としての面白さを重視するなら、定評があるのは岡田暁生 著『西洋音楽史 : 「クラシック」の黄昏』(中央公論新社,2005)である。本書の魅力は、著者自身が何故そのような判断を下すに至ったかの経緯や前提がちゃんと共有されているため、(その見解に同意するかはさておき)読者を置いてけぼりにすることがないのだ。アカデミックな見地を、そうとはみせないで的確に解きほぐして解説していく手腕は極めて鮮やかだ。  もっと回りくどくなく、スパッとした語り口が良いのならば、片山杜秀 著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』(文藝春秋,2018)がいい。本書最大の欠点はミスリードになってしまっているタイトルで、実態は9〜10世紀から20世紀初頭の第一次世界大戦頃までの音楽と文化を扱っている音楽史なのだ。先に挙げた岡田の『西洋音楽史』と同様、新書なので網羅性は低いが、音楽を歴史に紐付ける意義や面白さを感じてもらえる第一歩になる。そういった意味で、この手の書籍の存在は重要なのである。   ――上級編    上級編の代表格といえるのが、音楽之友社から出ているグラウト/パリスカ著『新西洋音楽史』だ(上巻・中巻は1998年、下巻は2001年出版)。原著は英語で書かれた西洋音楽史のなかで最も定評のあるもので、著者のドナルド・ジェイ・グラウト(1902〜87)とクロード・V.・パリスカ(1921〜2001)は共に、アメリカ音楽学会の会長を務めた音楽学者である。日本語訳は3巻合わせて1200ページほどのボリュームで、音楽大学の大学院受験にむけて音楽史全体をしっかりと学び直すことも可能だ。...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第7回:活字から演奏は学べるか?】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第7回:活字から演奏は学べるか?】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第7回は「活字から演奏は学べるか?」です。      指揮に関してもそうだし、教えることに関してもそうですね。こうあるべきだ、という型を用意していくんじゃなくて、何にも用意しないでいって、その場で相手を見て決めるというやり方です。相手がやっていることを見て、その場その場で対応していく。だから僕みたいな人間は教則本とか書けないですよね。相手が実際に目の前にいないと、言うことがないから 村上春樹 著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社,2011)    引用したのは、出典の書名からも分かるように指揮者・小澤征爾の言葉である。著者である作家・村上春樹が2011年に「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」を取材。その上でおこなわれた対談のなかでの発言だ。この直前には、スイスのアカデミーでの指導者のひとり、ジュリアード弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だったロバート・マン(1920〜2018)の教え方についてディスカッションされており、彼の指導法と自分は違う――という意味で先の発言がなされている。  そもそも「教則本」という言葉からどのような書籍をイメージするかには個人差があるのではないか? (クラシック以外の)ギターの教則本といえば独習向けを思い浮かべがちだが、ピアノの教則本となると、日本で長らく使われてきたバイエルも全音楽譜出版社から『標準バイエルピアノ教則本』というタイトルで出版されていたり、ピアノのレッスンで使われるエクササイズや初歩的な練習曲を指す言葉として用いられることも多い。  だが、今回取り扱いたいのは楽器の演奏法を学ぶ書籍ではなく、その先に位置しているどのように楽譜を読み解き、どのように演奏へ繋げたら良いのかを、書籍上の活字を通して学ぶことは出来るのかという問題だ。先ほど名前を挙げたロバート・マンの指導について、村上と小澤は「自分のメソッドを持った人」だという見解で一致しているが、そういうタイプの指導者であっても教則本的な著作にまとめるとなると、おそらくは『シモン・ゴールドベルク講義録』(幻戯書房,2010)のようなものになるであろう。  これは20世紀を代表する偉大な音楽家のひとり、シモン・ゴールドベルク(1909〜1993)が晩年に桐朋学園大学の学生を対象におこなったヴァイオリンの公開レッスンをまとめたもの。だが書籍本体よりも8枚も付属しているDVDが結局のところメインといえるので、今回のテーマには該当しない(それに同様のマスタークラスの録音や録画は、かなり古くから遺されているので決して珍しくない)。あくまでも紙の上の文字を通して演奏を高められそうな書籍をいくつかまとめてご紹介したい。   『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』    まず、ひとつめの候補として挙げたいのは、少し古いが『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』(春秋社,1998)である。著者の大村哲弥(1951〜2008)は学生時代に玉川大学とウィーン音楽大学で学び、ベルリンではユン・イサンとカン・スキに師事した作曲家。生前は尚美学園大学の教授を務めていた(弟子には吹奏楽の分野で活躍する坂井貴祐がいる)。  この『演奏法の基礎』は「メトリーク」「拍子とリズム」「和声」「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」「楽曲とリズム構成」「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」という全6章の段階を重ねていくことで、演奏に必要な楽曲分析をおこなえるように導くことを目指している。  楽譜上の音符が実際の音となった瞬間に生じてくる性質を学ぶ前半3つの章のあとに続く、第4章「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」は本書のなかで最もチャレンジングな試みで、簡単にいえば、聴き手にどう聴こえるかという目線(耳線?)から、どのように演奏すべきかを考えるという内容なのだ。それは通常、レッスンや本番を重ねるなかで感覚的に身につけていくスキルともいえるが、本書では徹底的に言語化しようとしている。続く第5章「楽曲とリズム構成」と第6章「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」では、具体的な楽曲を細かく読み解きながら、そのなかで前章までで学んだ要素が複数絡み合っていく際にどう考えていくかもしっかりと示されていく。  語弊を恐れずに言えば、書かれている内容すべてを盲信する必要はない。だが、自らの演奏について自覚的に振り返る際や、教える際にどう言語化すべきかを悩んでいるのなら、沢山のヒントが見つかる1冊だ。   『楽譜を読むチカラ』...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第6回:「自意識の煮こごり」として自伝を読む】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第6回:「自意識の煮こごり」として自伝を読む】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第6回は、「自意識の煮こごり」として自伝を読むです。   悲観主義者(ペシミスト) オネゲルの自意識   ベルナール・ガヴォティ様 あなたは、あなたが監修しておられる《わが職業》という名の叢書のために、音楽の作曲家に関係した本を一冊書きおろせとおっしゃる。わたしはなにも、あなたの提案のうらをかんぐって、どこか皮肉な感じがするなどという気はありません。《わたしは作曲家である》と宣言するわけですね。それにしても、だれかが《余は詩人である》と確言したら、それをきいている者が微笑するくらいのことは考えていただきたいものです。交番で身元を尋問されているとき、こんな宣言をしたら、その罰としておきまりのげんこを見まわれるのがおちでしょう。(吉田秀和 訳)  フランス語による原著が1951年、日本語訳が出版されたのが1953年(1970年に改訳)なので文章自体には古色蒼然な印象を受けるかもしれない。だが、今もテレビのニュースで「自称ミュージシャンの○○」といった報道がなされたりすることがあるのだから、語られている内容は現代にも通ずる感覚だ。  引用したのは作曲家アルテュール・オネゲル(1892〜1955)が自らについて語った《わたしは作曲家である Je suis Compositeur》の書き出し部分である。「どこか皮肉な感じがするなどという気はありません」とはいうものの、誰がどう読んでも皮肉だろう。  そもそも《わが職業》という叢書(=シリーズ)には他にも、あの高級ブランドDiorの創設者クリスチャン・ディオール(1905〜1957)による《わたしはクチュリエ(服飾デザイナー)である Je suis couturier》などがラインナップされていたというので、《わたしは〜である》というタイトルはシリーズ共通のもの。本来は余計なニュアンスを削ぎ落とした即物的なタイトルであるように思うのだが、オネゲルの書き出しを読んでしまうと――彼自身が付けた題ではないのにもかかわらず!――こじれた自意識そのものに思えてくるのが面白い。  今回取り上げたいのは、音楽家たちが自分自身について語った文章から視える「自意識」だ。オネゲルの場合は、“作曲家”という肩書に対するイメージが、自分と世間一般で大きく乖離していることを自虐的に、そして悲観的に表明したのが先ほどの文章だったといえる。次にご紹介したいのは、かのジョン・ケージ(1912〜1992)が異なる次期に自らの人生を振り返ったことで視えてくる自意識だ。   35歳と77歳、ふたりのケージ    ケージといえば、舞台上で演奏家がまったく音を出さない《4分33秒》(1952年)がとりわけ有名であるように、それまでの既成概念を打ち壊していった作曲家として知られている。1989年には京都賞(思想・芸術部門〔受賞当時は精神科学・表現芸術部門〕)を受賞しているのだが、「業績ダイジェスト」として次の一文が掲載されている。   「偶然性の音楽」をもって、伝統的な西洋音楽に非西欧的音楽思想や音楽表現による大きな衝撃を与えるとともに、その音楽表現を現代音楽の主要な様式の一つに定着せしめ、終始、現代作曲界の最尖鋭部分の牽引力として自己変革の先頭に立ち、音楽家のみならず、舞踏家、詩人、画家、彫刻家、写真家など広い分野の芸術家に大きな影響を与えた現代アメリカを代表する作曲家である。  一言書き添えればケージの代名詞のようになっている「偶然性の音楽」は、中国の八卦(はっけ)に示唆を受けたもので、具体的にはコイン投げによって楽譜に記す音を確定させていった手法が有名だ。あるいは日本の「禅」を海外に広めた鈴木大拙から影響を受けていることも繰り返し語られてきた。だが、そもそもケージは何故、非西欧を志向するようになっていったのだろうか? 実は、その答えらしきものが2つの「自伝」を読み比べることで透けてみえてくる。  ただ「自伝」とはいっても2つとも出版を主目的としたものではなく、講演のために準備されたものである(現在ではオフィシャルな校正を経た英文が公開されている)。ひとつめは1948年2月28日にヴァッサー大学で行われたカンファレンスでの『作曲家の告白...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第5回:没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第5回:没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第5回は没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇についてです。    「没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇」というタイトルから、遺産をめぐる骨肉の争いを想像した方もいるかもしれない。だが今回語りたいのはそうではなく、ピアソラをめぐって“音楽ジャンル”が衝突しているという話である……。   タンゴ業界から見たピアソラ   このままでは、たぶんピアソラはクラシックやジャズの人たちとのアクセサリーとして適当に扱われたあげく、忘れられてゆく  穏当とは言い難い、こんな主張をしているのは小松亮太氏だ。日本を代表するバンドネオン奏者であり、彼がいなければ現在の日本で、バンドネオンやタンゴはもっと縁遠いものになっていたことは間違いない。現役世代における最大の功労者といって良い存在だ。そんな彼が2021年4月に『タンゴの真実』(旬報社、2021)という著書を出版。そのなかには前述の主張のほかにも、   クレーメルが完成させたのは、醤油の存在を否定しながら作った和食のようなピアソラ・アルバムたちである。クラシックの演奏家にとってピアソラを弾くことは、タンゴを弾くことではなく、まずはピアソラという人を通してポピュラー音楽を弾く悦びなのだろう。だからピアソラのタンゴ的な部分にまで意識が届かないケースが多い  ……といったクラシック音楽の演奏家に対する歯に衣着せぬ批判が並んでいる。ただ、こうした類の主張は以前からあったものだ。例えば、小松氏も敬愛する“世界一”のピアソラ研究家・斉藤充正氏は『アストル・ピアソラ闘うタンゴ』(青土社,1998)において「タンゴの歴史」を語るなかで、   それにしても、決して皆が皆ということではないが、クラシックの演奏家たちはどうしてこんなにリズム感が悪いのだろう。聴くに堪えない録音ばかりなのは一体何故なのだ。これらの録音を収めたCDの解説には大抵、いつどこどこのコンクールで何位に入り、といった奏者の経歴が恭しく書かれているが、読んでいても空しくなるばかりだ。  ……と本音を隠さない。斉藤氏の疑問に――あくまで、この記事の読者のために――クラシック音楽サイドから答えるとすれば、優秀な演奏家ほど、ピアソラの感情豊かな旋律をロマン派的に解釈して緩急=アゴーギクをつけて演奏しがちだからだ。「(コンクールで賞を獲るほど)優秀なのに……」ではなく「優秀だからこそ!」なのである。  (※念のため補足しておくならば、例えばロマン派でもショパンは弟子に対して左手のビートを保ったまま、右手の旋律を揺らして歌うように教えていたというが、現在このような解釈は古楽に興味をもっている演奏家でもない限りは一般的でないように思う。)  小松氏は『タンゴの真実』の第13章「ピアソラを愛しすぎる人たちへ」という皮肉のこもったタイトルの章のなかで具体例を挙げながら、クラシックの演奏家たちのピアソラ解釈の何が問題なのかを具体的に解説しており、その批判も的を射ているのは間違いない。ただ、先に引用した「このままでは、たぶんピアソラはクラシックやジャズの人たちとのアクセサリーとして適当に扱われたあげく、忘れられてゆく」という指摘は言い過ぎどころか、クラシック音楽というものを理解していないが故の発言であるように思われてならない。クラシック音楽というのは誤読されてナンボの音楽なのだから。   誤読という名の多様な解釈に堪えうること    一例を挙げよう。譜例をあげたのはベートーヴェンの「第九」第4楽章のラストで、一旦テンポが落ちる部分だ。この頃にはメトロノームが発明されており、ベートーヴェンも所持していたため、具体的に[四分音符=60]――つまり[1拍=1秒]と指示されているのだが、長らくこの部分はフルトヴェングラーの録音を筆頭に八分音符(=四分音符の半分の音価)を1拍として――結果的におよそ2倍に引き伸ばされて演奏されてきた。  そのように演奏されてきた理由は、ベートーヴェンの指示したテンポが速すぎるとして彼のメトロノームが壊れていたと主張されたり、数字よりも文字で指示された(イタリア語で「荘厳な」という意味の)「Maestoso」のニュアンスを優先されたり等と、複合的に絡み合っている。日本ではまだまだ古楽と呼ばれることも多いHIP(歴史的知識にもとづく演奏)というアプローチが普及したことで、楽譜の指示に近い演奏も増えてきたが、何より重要なのは前述した明らかな「誤読」が誤読であることを超えて、長らく――何なら現在でも「伝統」として生き続けているということだ。  むしろ誤読されても尚、新たな魅力を放ち続けることが出来る音楽こそが「クラシック音楽」として残り、再演が重ねられていくのである。タンゴを愛する人々からは、タンゴを理解せずに演奏されるピアソラは魅力的ではないと反論が来るかもしれない。だが、クレーメルの「誤読」によってピアソラの生前以上に世界へ広まったという事実はタンゴ界隈も認めるところであり(嫉妬さえ感じられる……)、それこそが実にクラシック音楽らしいピアソラ受容なのである(クレーメルのピアソラは、ポストモダン的にポピュラー音楽を取り入れたシュニトケ的なアプローチという観点から読み解くべきだと思うが、それはまた別の機会に譲りたい)。  いわゆるクラシック音楽の場合でも、前述したHIPアプローチによるJ.S.バッハなどのバロック音楽じゃないと受け入れがたい、という人もいれば、古楽器は苦手と公言するリスナーも一定数存在している。どちらかを間違っていると断罪しないのが、クラシック音楽の特性であり、このジャンルの豊かさを生み出しているのだ。  ここでもうひとつ例を挙げよう。ピアソラを世界に広めたもうひとりの功労者であるヨーヨー・マに対しては、小松氏をはじめとするタンゴ界隈は寛容なことが多い(後述する『音楽の友』2022年11月号に寄稿された柴田奈穂氏の文章に登場する、スアレス・パスのリアクションにもご注目いただきたい)。その最大の理由は生前のピアソラと共演していたタンゴのミュージシャンと共演しているからだ。しかし私が疑問に思えてならないのは、ヨーヨー・マの演奏するピアソラの代名詞となった「リベルタンゴ」の演奏は、ピアソラが80年代にライヴで残した録音と比べるとあまりに退屈ではないかということだ。テンポが遅く、パーカッシヴ(打楽器的)な要素も弱いので熱狂度が物足りないのだ。  もちろん、ここまで語ってきたように、ヨーヨー・マのピアソラも否定するつもりはない。リベルタンゴが代表曲であるという、これまた「誤解」を含めてピアソラを世界へ広められたのは、それ相応の魅力があったからだろう。だが、仮にこれがタンゴとしては良いのだとしても、ピアソラに求めるものが“熱量”だとしたらヨーヨー・マの「リベルタンゴ」はつまらないという感想になってしまうのは仕方ない。何が言いたいのかといえば、タンゴ側だけの価値観でピアソラの良し悪しは判断できないし、するべきではないということだ。それぞれのジャンルやリスナーごとにピアソラのどの部分に魅力を感じるのかが違う……という至極当たり前の理由であることは言うまでもない。  そして小松氏も著書ではあのような発言をしているが、YouTubeにアップロードされている彼が編曲・演奏したブルックナーの交響曲第8番を聴いてみると、果たしてクレーメルのことを責められるのかと思えてならない。小松氏が偏愛する「ブルックナー」とクレーメルの「ピアソラ」は相似関係にあるかのようにみえてくる。  ...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第4回:『クラシック名曲「酷評」事典』の酷評は、真っ当な音楽批評である!? 】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第4回:『クラシック名曲「酷評」事典』の酷評は、真っ当な音楽批評である!? 】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第4回は、音楽批評についてです。   100年前の『アンサイクロペディア』……としての『悪魔の辞典』    いきなりだが『アンサイクロペディア』というWEBサイトをご存知だろうか? 2005年から運営されているウィキペディアのパロディサイトである。例えば「音楽」という記事を検索して、最初の見出し“概要”を読んでみると「音楽は、人間が開発した依存性のある薬物の中で最も広く蔓延し、極めて強い作用を持つ危険ドラッグの一つである」という書き出しになっており、該当の事物を風刺するような視点やブラックユーモアでもって記述されている。ウィキペディア同様、特定の著者がいるわけではなく、誰でも編集が可能な「フリー八百科事典(※八百科は、嘘八百に掛かっている)」だ。   ▲アンブローズ・ビアスの肖像 (出典:Wikimedia)    こうした辞書・事典パロディの古典とされているのがアメリカのジャーナリスト、アンブローズ・ビアスによる『悪魔の辞典 The Devil's Dictionary』(1911)である。日本では筒井康隆ほか、様々な人々によって訳されているので、読んだことはなくても存在は知っているという方が一定数いるに違いない。例えば岩波書店から出版された邦訳で「ピアノ」という項目を引いてみると「性こりもなくやってくる訪問客を取って押えるのに使う客間用の道具。これを操作するには、この機械の鍵盤を下へ押し下げると同時に、聞いている奴の気を滅入らせさえすれば、それでよい。(西川正身 訳)」と書かれている。  うーむ、なんだか分かるようで分からない、意味を掴みきれない文章だ。英語の原文にあたってみると前半は「A parlor utensil for subduing the impenitent visitor.」となっている。先ほど引用した邦訳ではsubduingを“取って押える”と訳しているのだが、「(ピアノで)取って押える」という表現はどうにもピンとこない。どちらかといえばSubduingを「制圧する」というニュアンスに捉え、「ピアノ〔の演奏〕は不都合な来客さえ黙らせることができる」という主旨の文章と理解すべきではないか。  一方、原文の後半をみてみると「It is operated by...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第3回:指揮者が語る、指揮者について語る音楽書】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第3回:指揮者が語る、指揮者について語る音楽書】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第3回は『小澤征爾さんと、音楽について話をする』『マエストロ・バッティストーニのぼくたちのクラシック音楽』といった「指揮者が語る、指揮者について語る」音楽書を紹介いたします。   「実際に音を出しているのはオーケストラなのに、指揮者でそんなに変わるの?」 これまでの人生であまりクラシック音楽に触れてこなかった人にとっては、当然の疑問のようだ。人生の折々で似たような質問を投げかけられた。ちなみに今の私は「スポーツチームの監督のような存在。いくら能力の高い選手が揃っていても、監督の采配が悪いと実力を発揮できないでしょ? その逆も然り」と答えることにしている。本番の采配だけでなく、ビルダーとしての能力が求められる点も指揮者と監督は似ている。  指揮者によって演奏解釈がどれほど異なるかは、同じ楽曲を違う指揮者で――それもロマンティックなフルトヴェングラーと古楽のアーノンクールのように、対極に位置する指揮者を――聴き比べることで、誰の耳にも明らかになるだろう。 フルトヴェングラー     アーノンクール    だが「何故そのように違う解釈に辿り着いたのか?」という疑問に(クラシック音楽オタク的な聴取体験をもとにした帰納的回答ではなく)答えるためには、その指揮者の思想や思考過程を追う必要があるので案外と厄介だ。弟子に教え継がれている口伝の情報も大事だが、一般の音楽ファンが気軽に触れられるのは指揮者が残した著作になるだろう。     指揮者が語る    指揮者本人が指揮について語った本を大きく分類すると、おそらく3つに分けられるのではないか。  1つめは、バトンテクニック(指揮の振り方)を具体的に解説したもの。最も有名なのは、小澤征爾をはじめ国内外で活躍する指揮者を数多く育てた齋藤秀雄の『指揮法教程』(音楽之友社,初版1956年)だ。日本では今もこれを教科書として指揮のレッスンをしている先生が多いのだが、実際に指揮を習うのでなければ特に読む必要はないだろう(指導してくれる先生がいないと理解しづらいという問題もある)。  2つめは、自らの思想を抽象的に語ったもの。フルトヴェングラーの『音楽を語る』(河出書房新社)や、チェリビダッケの『増補新版 チェリビダッケ 音楽の現象学』(アルファベータブックス)あたりが代表例だろう。結論からいえば、ファーストチョイスに一番向かない本で、その指揮者のことを理解した上でないと読み解いていくのは困難なのだ。そういう意味で、例えばフルトヴェングラーについて理解を深めたいなら、まずは第三者が書いた伝記を参照すべきだ。  3つめは、自らの経験をシェアしていくもの。自伝やエッセイのなかで語られる音楽論も多くはこれに分類される。最も豊富に残されたこのタイプのなかで、私が一番衝撃を受けたのはサー・エードリアン・ボールト(1889〜1983)の『指揮を語る』(誠文堂新光社)になるだろうか。日本語訳が出版されたのは1970年と古い本ではあるのだが、指揮姿が映像の遺されていない作曲家のエルガーや伝説の指揮者ニキシュについて語っている内容などが非常に興味深い。19世紀末に生まれたボールトの世代と、それから10〜20年後に20世紀になってから生まれた指揮者では、指揮法の考え方にかなり断絶があるのではないか等、考えさせられることが多かったため、今も印象に残っているのだが、いかんせん絶版になってから久しいので図書館でお探しいただくしかない……。  その他に、学者のようなスタンスで研究成果をもとに演奏法を論じた、アーノンクールの『古楽とは何か――言語としての音楽』(音楽之友社)、『音楽は対話である モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』(アカデミア・ミュージック)のような例もあるが、これは指揮者による著作というよりも、(指揮者以外も含めた)古楽の演奏家の文脈にあるものと捉えた方がよいだろう。      ここまでお読みいただければ分かるように、3つめにご紹介した「自らの経験をシェア」するタイプの指揮者の著作が、多くの人にとっては最も読みやすいはず。現在も手に入れやすい本のなかでお薦めしたいのはまず、小澤征爾×村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫)だ。音楽書としては異例の大ヒット――それは音楽書ではなく村上春樹本として売れたからなのだろうが――になり、現在は文庫版(追加の文章が掲載されているので、文庫版および電子版を推奨!)で手軽に購入できる。...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第2回:音楽家の伝記 】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第2回:音楽家の伝記 】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第2回は『作曲家◎人と作品シリーズ』『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 小泉文夫』といった音楽家の伝記について読む際の注意点やその他お薦めの作品を紹介いたします。    通常の本棚に加え、窓枠にあわせてオーダーメイドしてはめ込こんだ本棚に、デスクの上には書籍を横に積み上げるように作られたブックタワー。サイドテーブルの上には現在仕事で使う本や献本されたばかりの書籍が積まれたまま……。我が家を圧迫する音楽書の一部である。実際に数えたわけではないが、占める割合で最も多いのは、伝記・評伝のたぐいであると思われる。理由は単純。私が仕事として、コンサートやアルバムのプログラムノートを執筆しているから。曲目解説の文章を書く上で、その曲の「楽譜」と作曲者の「伝記」は必須の資料なのである。     伝記とは何か?    「楽譜」の違いやその選び方については以前の連載で様々な角度から光をあてたので、そちらをあたっていただくことにしよう。今回、話題にしたいのは「伝記」の方だ。多くの方が伝記と聞いて真っ先に思い出すのは、子どもの頃に読んだ偉人伝だろうか? 小説なのか漫画なのか、とられている表現形態がなんであれ、昔ながらの子ども向けの偉人伝は基本的に、その人物のポジティブな面を中心に描いてゆく。このスタンスは大河ドラマが近い。たとえば織田信長や豊臣秀吉が主人公であれば当然、明智光秀は基本的に悪役にならざるを得ないが、長谷川博己演じる光秀を主人公とした2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本能寺で謀反を起こされる信長側に非があることが強調されていた。  だが大河ドラマや歴史小説ならともかく、伝記とは本来そのようなものであってはならない。誤解なきように言っておくべきだろう。子ども時代に多くの人が読んだであろう偉人伝は、伝記という体をとった歴史小説・歴史漫画だったのだ(昨今は、そうではないものもあると伝え聞くが、ここでは深追いしない)。本来、伝記というものは記述される各々の情報が、どれほど確度が高い内容なのか、読み手に分かるように記さねばならないからだ。物語・読み物としての面白さは伝記にとっても大事だが、最優先すべきことではない。そこが小説や漫画と異なる。  そんなこと当たり前でしょ? そう思われるかもしれない。だが、本人が記した自伝・自叙伝、親族・関係者の証言となった途端、無批判に信じだす人々のなんと多いことか。読み物として面白くするため、記憶違い、都合の悪い事実の隠蔽、捏造、等々……。理由はなんであれ、自伝や証言は一次資料のひとつに過ぎない。批判的な目線で信頼性の検証がなされた上で、複数の資料を組み合わせながら当該人物の人生が文章で再構成されてゆく。これが伝記のあるべき姿であろう。   ▲『フォルケルによる伝記の表紙 (出典:Wikipedia)   作曲家の伝記とその注意点    クラシック音楽の世界で「伝記」といえば、まず筆頭にあがるのは作曲家を対象にしたものだ。作曲家の伝記が書かれる機会が増えてゆくのは18世紀後半のこと。いくつか例を挙げると、1760年にはジョン・メインウェアリング(1735-1807)が1759年に亡くなったヘンデルの伝記を匿名で出版。ヘンデルの伝記は1785年にもチャールズ・バーニー(1726-1814)よって出版されている。  こうした昔の伝記でとりわけ有名なのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)に関するものであろう。亡くなった4年後には、ヨハン・セバスティアンの次男C.P.E.バッハらによる『故人略伝』(1754)という文章が、死後52年を経た1802年にはより本格的な伝記であるヨハン・ニコラウス・フォルケル (1749-1818)が出版した『ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯、芸術、および芸術作品について。心の音楽芸術の愛国的賛美者のために Ueber Johann Sebastian...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第1回:『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第1回:『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第1回は、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』(中央公論新社刊)です。    研究者ほどではないと思うが、音楽ライターという仕事柄、音楽に関する書籍に囲まれて日常を過ごしている。以前ならば頻繁に利用する書籍以外は当時勤務していた大学の附属図書館で借りていたのだが、コロナ禍になってからは図書館が長期にわたって閉まってしまうことも多く、全て自宅で完結するように資料を買い集めるように方向転換したからだ。昔は大型の書店に足繁く通っていたが、現在はAmazonを中心に、もっぱらインターネット通販頼りとなってしまった。それまで使ったことのなかったメルカリで絶版となった書籍を探すことも増えている。  蔵書が急激に増えて部屋を圧迫していったため、何の気なしに計算してみると2021年の1年間、Amazonだけで(音楽書以外も含めて)45万円ほど書籍を購入していた。他のWEBサイトで購入した本もあるし、他にもCDやDVD、Blu-rayなども多数購入しているので、働いて稼いだお金で(長期的な目線で)仕事に必要な資料を買い集めているような状況となっている。更には仕事の一環で献本も多数いただくため、積ん読は増える一方だ。  そんな有様なので一冊を通読する場合は流し読み、精読する場合は書物仕事に必要な部分だけを取り出して……という形の読書が普段は多くなってしまうのだが、久しぶりにメモしながら(約18000字)、一冊丸々をじっくりと楽しみながら読んだ本がある。それが今年3月に、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司 著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』だ。  発売は2021年1月。その直後に購入して流し読みはしていたのだが、今年4月16日に日本最大級の読書会コミュニティ「猫町倶楽部」で本書を課題本として扱うので、しっかりと時間をかけて読み直したのである。猫町倶楽部については次回以降の連載で触れることとなると思うので、ここではこの『現代音楽史』という本がいかに待望されたものであったかを語ってみたい。     音楽史で「現代音楽」はどのように扱われてきたか?   『現代音楽史』のあとがきは、次のように始まる。    現代音楽史を書こうとした動機はいくつかある。  まず類書がほとんどないこと。日本語で書かれた書物で二十一世紀までを含めて通観できるもの、それもある程度コンパクトなものが必要だと考えていた。実際、いまだに柴田南雄『現代音楽史』(1967初版)を参照する人もいると聞くので(確かに名著ではあるが)、いくらなんでも情報や音楽史観をアップデートしなくてはならない。  今一度、当たり前の事実を強調しておいた方がよいだろう。これは“2021年”に出版された書籍のあとがきである。類書の筆頭格に挙げられた書籍が半世紀以上前のものであることに改めて驚くしかない(ちなみに1967年といえば武満徹の代表作にして、音楽の教科書にも掲載された、いわば日本を代表する現代音楽作品《ノヴェンバー・ステップス》が作曲・初演された年である!)。  もちろん1967年以降に、類書が一切発売されなかったわけではない。そもそも現代音楽に特化せずとも、「西洋音楽史」と題された書籍のなかでも20世紀まで取り扱われることが一般的だ。日本で最も多くの音楽学者から支持されている音楽史であろうグラウト/パリスカ著『新 西洋音楽史』(音楽之友社, 1998〜2001/訳者まえがきに2007年追記あり)は、1996年に出版された原著“A History of Western Music”の改訂第5版を翻訳したもの。上・中・下巻あるうちの下巻の後半で20世紀音楽に頁を割いているのだが、ヨーロッパの作曲家を取り扱った項目ではW. ルトスワフスキ(1913〜94)の交響曲第3番(1983)で、アメリカの作曲家を取り扱った項目ではD. デル・トレディチ(1937〜 )の《ファイナル・アリス》(1975)で締めくくられている。つまり、1980年前後までしか歴史が綴られていないのだ。  この「1980年」という年代は、西洋音楽の歴史を記述しようとする時、ひとつの壁となっているように思われる。2020年8月に出版された金澤正剛『ヨーロッパ音楽の歴史』(音楽之友社)のあとがきでは「若干の例外はあるものの、ほぼ一九八〇年代までを書いたところで筆をとどめた。それ以後の出来事はいまだ「歴史」として判断できかねると感じたからである」と記されている。日本音楽学会の会長などを歴任した金澤氏が、何故このような判断をしたかといえば、この数十年のあいだに「現代音楽」についての認識がかなり変わってしまったからだとしている。多くの人々によって共有されるような認識が得られるまでは、歴史として記述されるべきではないという判断なのだろう。...