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これまでに作った楽器は180種類以上! 「不思議な音」を追究し続けるkajiiの原点にあるもの

これまでに作った楽器は180種類以上! 「不思議な音」を追究し続けるkajiiの原点にあるもの

2本のスプーンが軽快なテンポでリズムを刻み始めると、続いて卓上に並んだ食器が涼しげな音色でメロディを歌い出す――いったいなんの話?と思うかもしれない。百聞は一見に如かず、まずはこちらの動画をご覧いただきたい。 運動会などでお馴染み、カバレフスキーの「道化師のギャロップ」 演奏しているのはkajii(カジー)。クマーマと創(そう)による二人組のユニットだ。kajiiは2014年結成、「音楽と楽器をもっと身近に」をモットーに、日用品や廃材から独自の楽器を作り出し、名古屋を拠点として全国各地で演奏活動を行っている。既製の楽器を使わず、ペットボトルやお菓子の空き箱など普通なら捨てられてしまうようなものから思いもかけない楽器を作り出すユニークな活動を、もしかしたらSNSや YouTubeで見かけたことがある人もいるかもしれない。 今年6月、活動12年目となるkajiiの初となる書籍『おうちでできる!kajiiのふしぎな手づくり楽器』が発売されるのを機に、お二人にこれまで歩みと創作楽器の魅力について語ってもらった。 家庭でもかんたんにできる手づくり楽器のノウハウがたくさん詰まった一冊 kajii結成の経緯とユニット名に込めた思い ――まずはお二人の出会いからkajii結成に至るまでのお話を聞かせてください。 クマーマ:ちょうど僕と創くんがそれぞれ東京でソロ活動をしているときに飲み会で一緒になったのが初対面です。たまたま二人とも同郷(愛知県)で、僕はシンガーソングライター、創くんはドラムのスタジオミュージシャンを目指して活動していた時期だったので、お互いの演奏サポートをするようになって音楽的な付き合いが始まりました。 創:最初はそのまま「創&クマーマ」でやっていたんですが、さすがにユニット名があった方がいいだろうと。そこで「日常生活の中から(家事)、工夫して楽器を作り(鍛冶)、新しい風を生む(風)」というトリプルミーニングを込めて「kajii(カジー)」という名前を考えました。短くて覚えやすいのと、当時は「検索したときにほかとかぶらないのがいいんじゃないか」というのもありましたね。 クマーマ:二人で活動を始めた頃、僕がホームパーティーにハマってたんですよ。料理を作って友達とみんなでワイワイやるのがすごく好きで。そのうち、「ホームパーティーを音楽に置き換えたら何になるんだろう?」と考えたときに「家の中にあるもので音楽をやったらホームパーティー感が出るんじゃないか」と思いついて、身のまわりにある良い音の出るものを探し始めたのが始まりですね。 創:本の「おわりに」にも少し書きましたが、ある日クマーマがスタジオにドレミファソの音が出るお茶わんを5つ持ってきたんです。「これはもっとたくさん揃えたらすごいんじゃないか?」と言ったらクマーマが本気になって。といってもこれ、ちゃんと音の合った食器を揃えるのはけっこう大変で、現在の2オクターブ半の音域になるまで2年くらいかかっています。当初は鍵盤のように横に並べて演奏していた時期もありましたが、最終的には現在の円形に配置するかたちに落ち着きました。 クマーマ:そうして最初に生まれたのがkajiiのメイン楽器、「食琴(しょっきん)」です。 記念すべき最初の動画は食琴による演奏でkajiiのオリジナル曲「ハツタイケン」 YouTube動画の反響 ――お二人が活動を始めた頃はちょうどYouTubeで動画を投稿することが一般の人にも広がり始めた時期でした。演奏動画を投稿し始めた頃の反響はどうでしたか。 創:今もkajiiの人気プログラムの一つになっている「トルコ行進曲」のYouTube動画は、結成してわりとすぐの頃に公開したものです。動画がきっかけで終了間際の「笑っていいとも!」や韓国のテレビ番組から出演依頼をいただきました。テレビ番組にはリサーチャーというスタッフがいて、常に珍しいパフォーマーを探しているんですよね。韓国の方は現地でもけっこう人気のあるバラエティ番組だったのですが、初めての海外演奏ということもあってかなりドキドキでした。 いわずと知れたモーツァルトの「トルコ行進曲」もkajiiの手にかかるとこうなる クマーマ:我々の渡航費も楽器の輸送費も全部先方が持ってくれたんですが、輸送費だけでたぶん20万円くらいしたんじゃないかな。 創:タライの真ん中に穴を開けてコタツのコードとデッキブラシを繋いだ弦楽器があるんですけど……「これ、どうやって運ぼう」って(笑)。僕らの楽器の場合、現地で調達するというわけにもいかないですからね。 クマーマ:食器が割れたりしたらどうしよう、とか。 創:今思えば微笑ましいんですけど、当時はまだ出張演奏に慣れていなかったのでてんやわんやでした。 コロナ禍を経て、生演奏の価値を再認識 ――その後も徐々に新聞やテレビなどで取り上げられる機会も増えていったkajiiですが、2020年から始まったコロナ禍はとりわけミュージシャンにとって厳しい時期でした。当時、どんな風に過ごしていましたか。 クマーマ:僕は子どもが三人いるんですが、最初はどんなウイルスかもわからないので全員保育園を休ませて僕が家で見ていました。逆に妻は看護師なので、それこそ当時はめちゃくちゃ忙しくて。僕が主夫業に徹して家事も育児もやっていました。 創:当然、演奏の仕事はなくなってしまったので、補助金を申請したり、クラウドファンディングをやったり、オンラインのコンテストに応募したり、リモートでワークショップをやったり……。とにかくやれることをなんでもやって、あがいていました。あと、楽器を作ってましたね。時間だけはたくさんあったので。たぶん一年で20種類くらい作っていたんじゃないかな。 コロナ禍で時間がたくさんあった頃に作った「ビー玉の楽器」 クマーマ:なんとか潰れなかった、という感じだよね。まあ、僕たち二人だけなので維持費がそんなにかかるわけではないというのもありますが。 創:コロナ禍ならではの出来事もありました。ステイホームが叫ばれていた頃、星野源さんが「うちで踊ろう」という演奏動画を投稿して、他の人にもコラボレーションを呼びかけたことがありましたよね。それを見ていて、僕もTwitter(現X)で「誰か『トルコ行進曲』に音をのせてくれないかな」ってつぶやいたんです。そしたら打首獄門同好会という有名なバンドの会長が演奏してくださったんです、メタルバージョンで(笑)。 クマーマ:それがすごいバズって。Twitter上で400万回近く再生されました。その後もいろんな人が「トルコ行進曲」に合わせて演奏してくれて、嬉しかったよね。...

『Ado』エレクトーン楽譜集 発刊記念インタビュー第二弾 倉沢×高田×中野

『Ado』エレクトーン楽譜集 発刊記念インタビュー第二弾 倉沢×高田×中野

日本のみならず世界的に活躍する唯一無二の歌い手、Adoの人気曲を6曲収載したエレクトーン曲集が5月に発売された。スコアプロデューサーに富岡ヤスヤを迎え、窪田宏、鷹野雅史、倉沢大樹、高田和泉、中野正英という豪華アレンジャー陣が集結した本作のリリースを記念し、各人の並々ならぬこだわりを紐解く鼎談(ていだん)が『月刊エレクトーン』に連続掲載される。 その第二弾となる『2025年7月号』の「倉沢大樹×高田和泉×中野正英 スペシャル鼎談」より、本誌で掲載しきれなかった制作秘話を中心に、富岡ヤスヤも交えて曲集の魅力を語っていただいた。 ――“アレンジの聴かせどころ”や“こだわりポイント”があったら教えてください。高田さんは「踊」ですね。 高田はい。でも、普段自分が選曲してアレンジするなら「踊」は選ばなかったと思うんです。というのも、ヤスヤさんの「唱」もそうですけど、“同じ音程”を何度も続けて歌うメロディーが多くて、そのまま楽器で再現すると表情が乏しくて、単調に聞こえてしまうからなんですね。Adoさんのボーカルはとてもカッコよくて勢いがありますが、その魅力をインストでも表現するにはどうしたらいいかすごく悩みました。そこで、思い切ってベースにピッチベンド(音を滑らかに変化させる奏法)を使いながら、1オクターブ下げる動きを取り入れることで、同じ音が続くメロディーでもアレンジ全体に抑揚が生まれるように工夫したんです。特に意識したのは、聴く人の耳がベースラインに引き込まれるようなアレンジにすることです。結果的に、歌詞がなくても単調にならず、インストならではのカッコよさが出せたのではないかと思っています。ここが今回のアレンジのこだわりポイントですね。 ――倉沢さんの「クラクラ」は、どんなところがポイントでしょうか? 倉沢やっぱり“自分が弾いていて気持ちいい”が基本で、原曲はハードなドラムが聴こえてくるので、とにかく“自分をその気にさせてくれるようなリズムの打ち込み”に命をかけました。力が入りすぎて“スネアがちょっと大きいかな?”という心配もあったんですけど、ヤスヤさんから“この曲はガンガンいったほうが気持ちいいよ”と言われたので安心しました(笑)。なので、皆さんもガンガン弾いていただけたら嬉しいです。 ――中野さんの「私は最強」は、どんな風に工夫されたのでしょうか? 中野レジストで言えば、“華やかさや鮮やかさの変化をどうつけていくか”を気にしました。音色で言うとグロッケン、木管楽器、ハープなど原曲にはない音や“シンフォニックゴング”など、華やかな音色をどう散りばめたのか聴いてほしいですし、そういった楽器を見つけてもらえたら工夫が伝わると思うので。音符的な着眼点では、最初のサビで和音やオーケストレーションを変えてみたり、副旋律も作って足しています。 ――今回の曲集は、皆さんのプロならではの素晴らしい演奏が【参考演奏付レジスト】として販売されて大きな話題になっています。中野さんは月エレ本誌でお二人の演奏について語っていらっしゃいますが、倉沢さんと高田さんはお二人の演奏を聴いていかがでしたか? 倉沢まず、高田さんの「踊」は一曲で何曲も聴いたくらいの充実感で、ラストで「ブラボー!」と叫びたい気持ちになりました。高田さんの新たな一面を見せてもらいましたね! 一曲を通して生楽器とシンセサウンドが融合されていて、エレクトーンの機能をフルに使った印象。本誌インタビューでも言われてましたが、“音色”と“アカンパニメント”を探すのにとても苦労しただろうな〜と思いました。 中野くんの「私は最強」は全体的に爽やかなサウンドで、中野くんらしさが存分に楽しめるアレンジでした。特に高音ストリングス、グロッケン、チャイムなどのオーケストラサウンドが、今回のポイントだと思いましたね。そして、ハープのグリッサンドなど、さりげなく使われているアカンパニメントがとても自然な流れになっていて、まるで打ち込んでいる!?ようなクオリティ! さすがだと思いましたね。 高田私は、「うわぁぁぁ倉沢さーーーーん!!!!!!」「うおぉぉぉ中野くんーーーー!!!!!!」と聴きながら悶絶(笑)。二人とも原曲コピーが基本のアレンジなのに、ちゃんとそれぞれのカラーが色濃く出ていて、しかも原曲にも負けないくらい豪華に聞こえる…なんだこのマジック〜!と言うか、とにかくお二人の底力に圧倒されました。 富岡今回はいわゆる模範演奏じゃなくて、「プレイヤーのオムニバスアルバムを作る!」くらいの気合で本気の演奏をしてもらって、みんなとても苦労したようだけど、「エレクトーン2年目の小学生の生徒が、弾けないけど聴いて楽しんでいるようです」とか、すでにたくさんの嬉しい声をもらってるんだよね。だから、演奏はできたらまず“曲順”に聴いてもらえるとすごく嬉しい。1曲目の「阿修羅ちゃん(窪田アレンジ)」のワクワクから始まって、中野くんの「私は最強」の高揚感で終わる...そういう流れを考えた曲順なので。STAGEAのMDRには“リピート再生”機能があって、その中の“ALL”(写真参照)を選ぶとずーっとエンドレスに演奏をループ再生してくれるけど、 気持ちがアガる曲が多いから、“ながら聴き”しながら片付けとか洗い物とか苦手な作業をクリアするのもいいかもしれない(笑)。もちろん自分の好きな順に入れ替えて聴くのもランダムに聴くのもアリです! ――好きな順に聴きたい場合は、USB内にソングコピーして曲名のアタマに数字を付ければ、その順に再生してくれるわけですね。この“参考演奏”の制作では、思わぬ苦労があったと聞きました。 倉沢そうなんです、参考演奏のレコーディングでは“オーディオ・メーター”に本当に苦労しました(笑)。 富岡みんなそうだよね。普段、プレイヤーのコンサートではPA機器を使うことが多いので、それを前提に音を作ってしまって、STAGEAのスピーカーで音が割れないようにレベル調整するところで、みんな苦労したよね。 倉沢最後の最後までやっていたのは僕じゃないかな? 高田私も倉沢さんと同じで、最後に待っていたのはピーク超えを示す赤ランプの消火作業でした(笑)。 「踊」はダンスミュージックだし、弾きやすさを優先するとA.B.C.全活用かなと思って、何十周も探したけどピッタリなものがなくて。“ビートをもっと強化しては?”とヤスヤさんにいただいたアドバイスは、結局キックなどをバスバス打ち込むことでクリアできたんですけど、それによって赤ランプとの戦いがすごく複雑なものになってしまって(笑)。一番大変だったのはそこかな。 中野高田さんのアレンジは、ほかにも戦いの成果がすごく感じられて感動しましたね。僕もEDMはよく扱うジャンルなので、あの大変さは本当によくわかります。とにかく音色やエフェクトの種類が多いし、しかも今回はバンクを4つまで使えたので、やろうと思えばいくらでもできる反面、それだけ仕掛けや工夫もたくさん盛り込まなければいけない。リズムもアセンブリーで組んで、隠しエフェクトもたくさん引っ張ってこないといけないし、他のジャンルではあまり使わない手法も多いから。 富岡そういった隠れた苦労の成果を、レジストを覗いて見つけてほしいよね。ところで皆さんは、VA音源は使ったりしますか? 倉沢STAGEAでは、あまり使っていないです。 中野今回は使っていないですが、僕は普段はよく使います。それこそシンセサウンドのとき、どうしてもサンプリングされた音源よりもアナログシンセのほうがタッチに対する音質の変化に優れているので。ただ、カジュアル(ELC-02)にはないのでケースバイケースですが、“V-ウッディリード”や“V-ソーリード”は今でも一軍ですね。 高田私は曲によってですね。時々使う音は“V-エアフォン”です。すごく柔らかい音で、それだけはVA音源でしか出せないと思っているので好んで使います。タッチで個性が出せる音色が入っていて、単発で使うよりもエッセンスとして混ぜたり、それを加工してさらにワウをかけてみたり、遊びの音色のような感覚で。“V-エアフォン”は単発で使うこともありますね。 ――この機会に、メンバーに尋ねたいことはありますか? 高田ヤスヤさんに質問してもいいですか? 今回のメンバーって、(2025年)3月にあった三木楽器さんのコンサート『HIT...

【インタビュー】"推し活"きっかけで夢叶う『漫画 パガニーニ』─やまみちゆかが明かす制作の裏側

【インタビュー】"推し活"きっかけで夢叶う『漫画 パガニーニ』─やまみちゆかが明かす制作の裏側

  SNSで話題沸騰し、待望の書籍化が発表された『漫画 パガニーニ ~悪魔と呼ばれた超絶技巧ヴァイオリニスト~』(9月29日発売予定)。クラシック音楽の歴史に名を刻んだ伝説的ヴァイオリニスト・パガニーニの生涯を、情熱とユーモアで描き出したのは、ピアノ講師の傍ら、イラストレーター・漫画家として活躍中のやまみちさん。『漫画 パガニーニ』誕生秘話や制作の裏側について、たっぷり語っていただきました。 ギャップ萌えで始まった推し活 ──最初に、なぜパガニーニを漫画の題材にしようと思ったのですか?  一言で言うと“ギャップ萌え”です。SNSでクラシック作曲家の紹介漫画を描いていたときに「次はパガニーニを描いてみよう」と思って。そのときは「だらしない」「お金に汚い」「女癖も悪い」……みたいな印象でした(笑)。それで、浦久俊彦さんのパガニーニの伝記を読んでみたら「パガニーニは子どもをすごく大事に思っていた」というエピソードがあったんです。そんな子煩悩な姿に"ギャップ萌え"してしまって。 ──“ギャップ萌え”がきっかけだったんですね。  そうです(笑)。さらに調べていくうちに、音楽史に与えた影響も大きいこともわかりました。ショパンやリストなども「パガニーニ」をテーマにした曲を作曲するくらい、19世紀の音楽家たちはみんなパガニーニに憧れていたんです。なのに、現代では悪い印象だけが広まり、知名度も低い。このままだと永遠にパガニーニの真の姿が語られることがないかもしれないと思って、私がぜひとも日本で名誉回復をしたい!と思いました。 ▲SNSに載せていたクラシック作曲家の紹介漫画 読者の声援が支えた創作活動 ──2023年5月頃からパガニーニの漫画をSNS上で描かれていますが、最初から本にしようと考えていたのでしょうか。  いいえ。推し活の一環で、ただただ描いて、SNSにアップロードするという感じでした。なので、読んでくださった方の声援がないと続けられなかったんです。「楽しみにしています」とか「パガニーニに全然興味なかったけど、好きになりました」という声が励みになりました。あとは、単純にパガファンが増えていくのも嬉しかったですね(笑)。 ──世間では"同担拒否"という「推しが被るのは避けたい」派の方もいらっしゃいますが、やまみちさんは?  今のところ"同担歓迎"なんですけど、いつか"同担拒否"に変貌するかもしれない(笑)。でも今はやっぱり、パガニーニ推しが増えてほしいなと思っています。 ──パガニーニについてのリサーチはどのように進めましたか?  当時、日本語で書かれたパガニーニの書籍は3冊(うち1冊は絶版)だけだったので、海外から、ドイツ語やイタリア語の文献を取り寄せることにしました。海外の文献の探し方は、最初は浦久さんの本の参考文献からたどって、あとはSNSで知り合った海外の"パガ友"も、良い本を教えてくれました。 ──パガニーニ繋がりのお友達がいたとは(笑)。翻訳するのは大変だったのでは?  現代はありがたいことに翻訳ツールが発達しているので、基本的には自分で翻訳ソフトを使って、どうしても詳しく知りたいところは翻訳家の方に依頼しています。でも、そのおかげで、まだ勉強中ですがイタリア語もわかるようになってきました。 ──パガニーニへの熱量に圧倒されます。  パガニーニへの愛が溢れて、調べ始めると止まらなくなってしまうんです(笑)。 ▲海外文献の一例。本の厚さが解読の困難さを物語っている 書籍化で見えてきた新たな発見 ──今回の書籍化にあたり、修正されたところもありますか?  SNSにアップしていたときにはリサーチが足りなかった部分を細かく加筆したり、エピソードも少し足したりしています。パガニーニが生きていた時代は紙が高価だったから、封筒を使わず、手紙を折りたたんで蝋を直接つけていたらしいんです。そういった当時の文化も調べてみると本当に面白くて。 ──描きおろしとしてどんなコンテンツが追加されますか?  巻末には、描きおろしのコラムやおまけ漫画、パガニーニ年表、あとは各章に解説をたっぷり追加しました。私の“パガ愛”を詰め込んでしまったので、読者の方がついてきていただけるか、若干不安ですが(笑)。あとはこの漫画が描き上げるまでの過程をレポ漫画として入れる予定です。 細部へのこだわりと史実への忠実さ ──やまみちさんは、ヴァイオリンは弾かれるのでしょうか。...

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 徹夜で踊る山里の盆踊り 「昔は朝まで踊り明かしたもんだよ」    全国に盆踊り行脚を重ねていると、地元の人からそんな話をよく聞かされる。その昔は、むしろ徹夜で踊るのが盆踊りのデフォルトであったらしい。しかし、いまでも徹夜おどりを実施している「伝統的」な盆踊りを、私は4例しか知らない。その一つが、長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)地区に伝わる「新野の盆踊り」だ。開催時期は毎年8月の14日〜16日で、現在でも毎晩夜9時から翌朝6〜7時頃まで踊られている。    新野は長野県の南端、標高1000〜1100メートルの山々に囲まれた高原の盆地に位置する山間の集落だ。そんな奥山の山村に、昔ながらの形を残しながら朝まで踊られる盆踊りがあると聞けば、誰だって興味を抱かずにはいられないだろう。 冬の新野高原 提供:金原渚    私が初めて新野の盆踊りを体験したのは、2015(平成27)年の夏である。当時は盆踊りにハマってまだ間もない時期で、知的好奇心に突き動かされるまま、全国の面白そうな盆踊りに積極的に足を運んでいた。新野の盆踊りに惹かれたのは、「徹夜で踊る」という点に興味を引かれたからだ。実際に訪れてみると、それは非常に衝撃的で、忘れがたい体験となった。一度きりでは、この祭りのすべてを理解できたとは到底思えず、「一体、あれは何だったのだろうか」と考え、翌年も再び足を運んだ。いまでは、年に一度でも参加しないと気がすまないほど好きな盆踊りとなっている。 筆者が初めて新野の盆踊りに参加した際の写真。一晩中雨に降られた    10年通う中で、個人的に最も大きな「事件」だったのは、コロナ禍によって2020年(令和2年)と2021年(令和3年)の盆踊りが中止になったことだ。台風が来ても決行され、終戦の年ですら踊られたという新野の盆踊りが、止まった。一ファンである私にとっても大きな出来事だったが、地元の人々にとっては、さらに深い喪失感をともなうものだったに違いない。    ネガティブな話題だけではない。2022(令和4)年にはユネスコ無形文化遺産に「風流踊」の一つとして登録された。さらに2023(令和5)年には、4年ぶりに制限なし(前年の2022年はマスク着用、手指消毒、踊り中の2mの距離確保、また一部行事内容の変更など、さまざまな制限を設けた上で盆踊りが開催された)で盆踊りが開催されることになった。この祭りはこれからどこへ向かうことになるのか。私にとっては10年目の節目となるいま、新野の盆踊りの現在地を確認してみたいと思った。 音頭取りと踊り子の掛け合いで生まれる一体感    まず「新野の盆踊り」とはどのような盆踊りなのだろうか。地元では「500年の歴史がある」と伝えられているが、その存在が全国的に認知されるようになったのは大正時代になってからのことである。決して交通の便がいいとは言えない信州の山奥の村で盆踊りが盛大に開催されている。そんな話を耳にした民俗学者の柳田國男が、1926(大正15)年、舞踊研究家の小寺融吉とともに新野を訪れ、盆踊りを見学した。早速その体験談を「信州随筆」として東京朝日新聞に発表。古くからの形式を残す価値ある盆踊りとして評価したことで、新野の盆踊りは全国に知れ渡ることになった。 宿場町の面影が残る町並みの中で新野の盆踊りが行われる 撮影:金田誠    「信州随筆」の中で柳田が着目した点で、現代まで受け継がれている新野の盆踊りの特徴を挙げていこう。まず一つは、扇を盛んに用いて踊ること。新野には7種類の歌と踊りが伝えられていて、そのうち、「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」では扇を手に持ち、優雅に操って踊る。扇を使った盆踊りは全国的に見られるが、南信州や東三河地方では特にポピュラーな形態である。 扇を用いることで、踊りにしなやかさと優雅さが生まれる 撮影:金田誠    また、太鼓や三味線といった鳴り物がなく、音頭取り(盆踊りで歌を出す役目の人)の生歌だけで踊る点も大きな特徴だ。伴奏がないため、音頭取りと踊り手が調子を合わせる必要があり、自然と歌の「コール&レスポンス」が生まれる。たとえば、音頭取りの歌の合間に踊り手が「ソレッ」と掛け声をかけたり、七七七五の歌を音頭取りが歌った後に、踊り手が下の句(七五)だけを繰り返して歌ったり、こうした相互のやりとりによって、盆踊りの場がともに作り上げられていく。 ヤグラの上の音頭取りの歌に、踊り子たちがまた歌で返す 死者と共に踊り、生を思う    また、柳田が「佛法以前からの亡霊祭却の古式」だといって評したのが、踊り最終日の16日の晩から17日の明け方に行われる「踊り神送り」の神事だ。これは盆に迎えた新盆の精霊を、踊りながら送るという儀式である。    こまかい作法や行事の次第については、柳田の時代と多少の相違はあるようだが、大まかな形は変わらない。新盆の家から持ち寄られた「切子灯籠」という美しく装飾された灯籠を手に人々が行列をなし、市神様や御太子様といった場所で祈りを捧げたのち、最後は村の境に位置する場所で切子灯籠を焼却するというのが一連の流れだ。 新盆の家の数だけ切子灯籠が作られ、最終日の16日にはヤグラから吊るされる 切子灯籠には緻密で美しい装飾がほどこされている。すべて手作り 17日早朝、空が白んでくると、ヤグラから切子灯籠が下される    踊り神送りの神事で最も盛り上がるのが、切子灯籠を手にした行列と踊り子たちの輪が衝突する場面だ。御太子様から戻ってきた行列は、「ナンマイダンボ」と唱えながら、踊り会場を経由して、瑞光院というお寺まで向かう。 切子灯籠を持った行列が踊り会場に戻ってくる    一方で踊りの会場で待ち受けている踊り子たちは、「切子灯籠の列が通り過ぎたら踊りを終えなければならない」という決まりがあるため、肩を組んで踊りの輪を強固にし、行列の進行を阻止しようとする。踊りの輪が崩れると、すぐに先回りして新しい輪をつくり、再び阻止。切子灯籠を運ぶ人たちにとっては「いつになったら終わるんだ」と難儀なことかもしれないが、この攻防戦こそが、新野の盆踊りの醍醐味のひとつだ。踊りはこの時だけの特別な「能登」という威勢のいい踊りに変わり、踊り子たちのテンションも最高潮となる。 踊り子たちが肩を組んで、行列の進行を阻もうとする 撮影:金田誠 踊りの輪が崩れても、すぐさま新しい踊りの輪ができる    時間をかけて、ようやく行列が瑞光院の広場に到着すると、踊り子たちは観念したように静かとなり、厳かな雰囲気を持ったまま最後の儀式を見守る。運ばれてきた切子灯籠を一カ所に積み上げる。続いて袴姿の「御嶽行者」が現れ、切子灯籠の前で呪文を唱える。...

ラヴェルとドビュッシー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ラヴェルとドビュッシー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 日本でオール・フレンチプログラム! 皆さん、こんにちは。 5月は東京女子管弦楽団第6回定期演奏会と武満徹作曲賞本選会の指揮があったため、日本に来ていました。ハーグはまだ涼しかったのですが、日本は早くも夏を思わせるような暑さの日がありますね。 東京女子管弦楽団の公演はオッフェンバック《天国と地獄》、ラヴェル《ボレロ》、ベルリオーズ《幻想交響曲》という傑作ぞろいのオール・フレンチプログラム。意外にも日本ではフランスものを演奏する機会が少ない私にとって、大変意欲をかきたてられるプログラムでした。今回がはじめての共演となる東京女子管弦楽団の皆さんもすばらしく、3日間のリハーサルの間にどんどん音楽を進化させ、本番は熱演を披露してくださいました。 5月15日に行われた東京女子管弦楽団第6回定期公演の様子。(写真提供:東京女子管弦楽団、撮影:松尾淳一郎) アンコールで演奏したバレエ《くるみ割り人形》より「花のワルツ」 今年はラヴェルの記念年 今年はラヴェルの生誕150周年の記念年なんですよね。たくさんの名作を遺したラヴェルですが、なかでも特に《ボレロ》は数十秒に一度、世界のどこかで演奏されているというくらい、いまなお広く愛されています。私が近現代のフランス音楽を好きになったのも、小学生の頃に父が聴かせてくれた《亡き王女のためのパヴァーヌ》がきっかけでした。子どもの頃の私にとって、ラヴェルの音楽はまるで精巧に作られた機械仕掛けのようで、「いったいどうやったらこんな風に書けるんだろう?」と不思議に思っていたものです。分解して一つ一つの部品を眺めながら、「そうか、こういう風になってるのか」と調べたくなる気持ちにかられる、というような。ラヴェルのお父さんはエンジニアだったので、彼の理数系的な思考回路はお父さんから受け継いだものなのかもしれません。一方、ラヴェルのお母さんはスペインとの国境にほど近いバスク地方の出身で、ラヴェルも母親を通じてバスクの文化に強く影響を受けていたといいます。 ラヴェル(Maurice Ravel, 1875~1937) ちょうど昨年の3月、ラヴェルの生誕地であるバスク地方のシブールという港町でバスク交響楽団を指揮する機会がありました。実は私もラヴェルと同じ3月生まれで、演奏会の最後にはサプライズでバースデーソングの演奏をプレゼントしてもらった素敵な思い出があります。会場はシブールの小さな教会でしたが、ほかの地方では見られないような木造のすごく美しい建物でした。バスクの文化って、同じヨーロッパの中でも何かが根本的に違うんですよね。ラヴェルは生後3か月でパリに移ってしまったのでバスクで育ったというわけではないんですが、母親のことを大変慕っていたためバスク文化にも特別な愛着を持っていたようです。 2024年3月、シブールの教会で行われたバスク交響楽団の演奏会の模様 シブールの教会の正面図。装飾が美しかった。 バスクの人たちにとってもラヴェルは特別な存在です。バスク交響楽団が本拠地にしている音楽院は、彼の名を冠して「モーリス・ラヴェル音楽院」といいます。今年4月に私が音楽監督を務めているアンサンブル・オロチのトルコツアーがあったのですが、そこで演奏した《展覧会の絵》は、パリ音楽院時代からの友人で、バスク出身・現在ラヴェル音楽院の作曲科教授をしているジョエル・メラ(Joël Merah, 1969-)君が編曲した作品でした(ちなみに、彼は2003年の武満徹作曲賞第1位受賞者でもあります)。ムソルグスキーの《展覧会の絵》にロシア語の歌が入るのですが、時折ラヴェルのコンチェルトの一部が入ったり、ラヴェル風のオーケストレーションが施されたりしていて、やはりバスク出身の彼にとってラヴェルは特別な存在なのだとわかります。 今年4月、トルコのアンカラで行われたアンサンブル・オロチの演奏会。 実はドビュッシー派 私もパリ音楽院時代、楽曲分析の卒業試験でラヴェルの《ラ・ヴァルス》を取り上げたりしましたから(連載第1回参照)、ラヴェルは非常に大事な作曲家です。ですが、実をいうと昔から私はドビュッシー派なんです。ドビュッシーの書く音楽は、従来の西洋クラシック音楽の考え方と根本的に違っていて、自分にとって身近に思えるのはドビュッシーなのです。 ドビュッシー(Claude Debussy, 1862~1918) それに対してラヴェルの音楽は、響きは非常に複雑に聴こえるけれども、実はジャズの理論で説明することができます。普通の三和音の上に付加和音と呼ばれる音を積み重ねていって、一見不協和音のように聴こえるけれども、実際はきっちり西洋音楽の理論に基づいて作曲している。要するに機能和声なんですね。ラヴェルに比べるとドビュッシーの方が断然前衛的だと思います。 《牧神の午後への前奏曲》演奏中に起きた不思議な出来事 ドビュッシーについてはもうオタクというくらい詳しい私ですが、中学生の頃に忘れがたい不思議な経験をしたことがあります。当時、アバド指揮によるベルリン・フィルの大阪公演があり、父が奮発して私の分のチケットも買ってコンサートへ連れて行ってくれたことがありました。 公演の最初の曲が《牧神の午後への前奏曲》だったのですが、曲が始まると同時に、光のプリズムのような色が目の前に現れました。……と、ここまではいつものことだったのですが、その日はそれだけで終わりませんでした。どこからかふわーっと香りが漂ってきたかと思えば口の中にはいろいろな味が広がり、さらには指先に何かが触れるような感触まで感じられたのです。これまで経験したことのない出来事に、驚きのあまり圧倒されているうちに曲が終わると、やがて感覚も元に戻りました。 音楽を聴くと、ハッブル望遠鏡で撮影した宇宙のような色彩が見えるのはいつものことなのですが、味や匂いや感触まで感じられたのはそのときがはじめてでした。こういう現象を一般に「共感覚」と呼ぶことをあとで知ったのですが、本来ならば独立して知覚されるはずの感覚が、神経器官の複雑さゆえに一種の混線を引き起こすことがあるようです。けれども、五感すべてが混線するというのは私にとってこのときが最初で最後でした。 なぜ《牧神の午後への前奏曲》のときにこの現象が起きたのかはわかりません。しかし、中学生のときにこの曲を、見て・匂って・味わって・触って・聴いた経験は強烈で、私がドビュッシーに特別な思いを持っているのはこのときの経験と無縁ではないのかもしれません。(つづく)...

『Ado』エレクトーン楽譜集 発売記念インタビュー第一弾 窪田×富岡×鷹野

『Ado』エレクトーン楽譜集 発売記念インタビュー第一弾 窪田×富岡×鷹野

日本のみならず世界的に活躍する唯一無二の歌い手、Adoの人気曲を6曲収載したエレクトーン曲集が5月に発売される。スコア・プロデューサーに富岡ヤスヤを迎え、窪田宏、鷹野雅史、倉沢大樹、高田和泉、中野正英という豪華アレンジャー陣が集結した本作のリリースを記念し、各人の並々ならぬこだわりを紐解く鼎談(ていだん)が『月刊エレクトーン』に連続掲載される。 その第一弾となる『2025年6月号』の「窪田宏×富岡ヤスヤ×鷹野雅史 スペシャル鼎談」より、本誌で掲載しきれなかった制作秘話を中心に曲集の魅力を語っていただいた。 ――今回のAdoのエレクトーン曲集は、富岡ヤスヤ(yaSya)さんが“スコア・プロデュース”という立場で入られていますね。理由はやはりAdoの大ヒット曲「唱」と「踊」の作編曲者TeddyLoid[テディロイド]さんとの師弟のご縁からですか? 富岡TeddyLoid(当時はTEDDY)とは2005年に出会って、プロデュースしている〈うにとろプロジェクト〉のメンバーとしてツアーをしたり、2年ほど一緒にユニットでライブ活動もしていたんですが、その頃はエレクトーン教室の生徒だった彼と昨年、雑誌の取材で十数年ぶりに再会して。Adoの「唱」「踊」が動画再生2億回超えなど音楽プロデューサーとしてもDJとしても世界的に活躍するスゴいアーティストになっているのに、久しぶりに会ったら一気に時を超える感じで。 彼の曲はいつもチェックしていて、「踊」をアレンジして弾こうかなと思っていたこともあったんです。そこにAdoの曲集の企画が舞い込んできて、今までにない曲集を作ろうとスタートしました。 ――その再会の様子は、『月刊エレクトーン24年8月号』巻頭特集でも語られていましたね。それが〈運命の再会〉になったわけですね。“スコア・プロデューサー”は、具体的にはどんなことをされたのですか? 富岡一番大きいのは、“今までにない曲集を作ろう”と決めたことですね。TEDDYとの縁でこのAdoの曲集を企画できることになったので、だったらいままでの概念をぶち壊すくらいのスゴい曲集ができないかと考えて、それで出てきたのが「トッププレイヤー6名が1曲ずつアレンジする曲集」というアイデアです。そんなドリーム・チームの曲集なら自分も欲しいなと。 ――メンバーの人選や選曲は、悩まれたのではありませんか? 富岡自分はTEDDYの「唱」と決めていたし「踊」も絶対に入れたかったんですが、ほかにも魅力的な曲がたくさんあって選曲は正直悩みました。でも最終的には〈インストにアレンジした時に映える曲〉という観点で決めて、結果的にベストな選曲になった気がしています。 屏東香(ピントンシャン)というユニットでも活動している窪田宏先輩と鷹野雅史は最初から絶対に口説き落とそうと決めていたのですが、学生時代から付き合いの長いこの二人と違って、倉沢(大樹)くん、高田(和泉)さん、中野(正英)くんは、霊感?ひらめき?...というレベルかもしれません。プレイヤーとしては何度も一緒にステージで演奏しているんですが、それぞれの音楽性まで完璧に把握しているわけではないので、「きっと面白くアレンジしてくれるはず!」という期待と「この曲の引き出しはあったかな?」という不安が交差しながらのオファーで、ある意味“賭け”だったんですが、これが見事に大正解!で、宝くじを当てたような嬉しさがありましたね。出来上がってきたアレンジを聴くたびに「ヤッター~~!!」と思いました。 ――アレンジ内容についても、いろいろオーダーされたのですか? 富岡“ここをこうしてほしい”なんて話は全くなく、プレイヤーの皆さんに全部お任せしました。というのも、具体的に示してしまうとその方のアレンジではなくなってしまうので、方向性は一緒に相談しても、具体的なアイデアはあえて出さないようにしていました。 ――富岡さんからお二人へのオファーは、どんな感じで進めたのでしょうか? 富岡まずは窪田さんと鷹野に“仕事をお願いしたいんですけど...”ってZoom飲み会をしまして。とにかくこの二人を口説き落とせば、他の人はノーと言えないなと思って(笑)。 鷹野絶対にノーと言えない空気をうまいこと作るんだ、富岡は。 富岡それで次の人にオファーする時に、“あとはあなたがOKすると6人揃います”って1人ずつに話して(笑)。倉沢くん、高田さん、中野くんは、全員、同じ話を聞いてるはず(笑)。 鷹野そういうの上手すぎるよ。 富岡いやいや、もう詐欺かもしれない(笑)。 鷹野でも素晴らしいね。最終的には実現しちゃったもん。 富岡その6名が、まったくの偶然なんですけど、三木楽器が3月に開催したエレクトーンコンサート『HIT PARADE』のメンバーとも一致してたので、コンサートの打ち上げが決起集会みたいになりました。 窪田あの日は富岡がハイテンションだったよね。 鷹野でも富岡の覚悟が見えたよ。 富岡アレンジ面ですごく難しいお願いをしていいた中、みんなに頑張ってもらったから絶対に文句を言われる、もう自分が非難の的になろうと思っていたんですけど、そういうことを言う人は一人もいなくて。それがもう嬉しくて、これは絶対に良いものにして全員出演の公開講座をやらなきゃと思って。 ――「アレンジ面での難しいお願い」というのは、どういうことでしょうか? 富岡今回、みなさんには「アレンジテーマ」として「原曲のイメージ」と「アレンジャーの個性」の両立を狙いたいんですと伝えていました。「原曲を尊重しつつ、自分らしさも出す」、この絶妙なバランスのアレンジが意外と大変だったんです。実際に、中野くんは個性を出し過ぎて方向性を大きく変えてもらうことになったり。鷹野のように、逆に原曲に忠実にしすぎて、やり直してもらうことになった曲もありました。自分も、真正面から原曲と向き合って“エレクトーンでどう表現しよう!?”とものすごく焦って、そこからが本当に大変だったんですね。 鷹野最初、僕は原曲に忠実にアレンジすることを極端に解釈しちゃったから、オーケストラ色はあまり出せないなと思って。富岡から“もうちょっと鷹野らしさを出していいんだよ”と言われて、アレンジし直したんです。キーやテンポ、構成を変えなければ、メロディーが弦楽器だっていいじゃないかと。 富岡“これぞ鷹野だ!”ってものがきっとできると励ましたんですよ。でもよくよく考えてみたら、自分がスコア・プロデューサーという立場であることをみんなに伝えていなかったので、勝手に鷹野にアドバイスした状態になって、“何で偉そうに言うんだ”みたいな雰囲気に(笑)。 鷹野富岡がスコア・プロデューサーであることを知って、こちらも大人げなさが恥ずかしくなってきて(笑)。富岡に会ったときに、開口一番から謝られまくって困ってしまいました。...

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 国生み神話の島「沼島」    瀬戸内海東部に位置する、兵庫県の淡路島。その南端から5kmほど離れた場所に、勾玉型の小さな島が存在する。「国生み神話」で知られる沼島(ぬしま)である。    「国生み神話」は、日本神話でイザナギとイザナミが日本列島を創造したとされる物語だ。高天原の神々に命じられた二柱は、天の浮橋から「天の沼矛」で海を“コヲロコヲロ”とかき混ぜ、その雫から最初の島「おのごろ島」(「おのころ島」とも表記)が生まれた。この島がどこかには諸説あるが、有力候補の一つが沼島である。実際、沼島の観光パンフレットにも「国生み神話の島」や「神々が創った最初の島」といったコピーが並び、神話ゆかりの地として広くPRされている。    日本神話に紐づく歴史ロマンを求めて当地を訪れる人は数多くいるのだろうが、私の今回の旅の目的はあくまで沼島の郷土芸能。この島に伝わる「沼島音頭」という独特の盆踊りについて話を聞くため兵庫県にやってきた。 数年越しに実現した沼島音頭の取材    前日は、淡路島の中腹に位置する洲本に宿泊。翌朝、日の出る前に起床してバスに乗車、沼島行きの船が出る土生港に着いたのは朝8時のことだった。船のチケットを買って乗船場に向かうと、係留された一隻の船が朝日に照らされてまばゆく光っていた。 淡路島と沼島を連絡する船    沼島と淡路島本島を結ぶ定期便。実はこの船に乗るのは、初めてではない。2017(平成29)年の夏にもまた、沼島に魅力的な盆踊りがあるとの噂を聞きつけて、この場所にやって来た。    沼島の盆踊りは確かにすばらしかった。島は南区、中区、北区、東区、泊区の5つの地区に分かれ、お盆の期間(13日〜16日、以前は17日まで行われていた)、それぞれの地域で日をずらして盆踊りが開催される。私は参加したのは南区の盆踊り。家屋がひしめく住区の中にぽっかりと広場があって、中央にはヤグラ(沼島では「音頭座」(おんどざ)と呼ばれる)が立っている。そこで番傘を手にした「音頭出し(おんどだし)」と呼ばれる歌い手が代わる代わる立ち、自慢の歌声を響かせる。 2017年、筆者が参加した南区での盆踊り 音頭出しは「兵庫口説」という盆踊り歌に合わせて歌う 踊りは回転動作が多く難しい。音頭座の下には太鼓打ちがいる 踊ったり、椅子に座って語らったり、盆踊りではゆるやかな時間が流れる    音頭に合わせて、人々が2時間も3時間もぶっ通しで踊り続ける(昔は朝方まで踊っていたらしい)。その光景に圧倒されると同時に、音頭そのもののすばらしさと、音頭座を囲む島民たちのあたたかな雰囲気に魅了された。帰宅してからも興奮は冷めやらず、「またいつか再訪したい」「沼島の盆踊りについて地元の人に話を聞いてみたい」と願うようになった。    その後、一度だけ島の人にアプローチをしてみたことがあった。しかし、思い立った時期がちょうどコロナ禍に突入したタイミングだっため、取材は実現に至らなかった。それでも「沼島音頭の魅力を伝えたい」という思いは変わらず、数年越しに、現地での体験をもとにしたレポート記事をブログに執筆した。それが2020(令和2)年のことだ。コロナ禍はしばらくおさまらず、沼島を再訪するという計画は自然と立ち消えてしまった。しかし、沼島音頭のことは忘れられず、いつも頭の片隅にあった。年に数回、思い出したかのようにYouTubeで動画を見返しては、「やっぱりいいなあ」と、その魅力をあらためて再確認していた。    そうやって数年が経過した2024(令和6)年9月のこと。沼島にある中学校、兵庫県南あわじ市立沼島中学校の主幹教諭を名乗る人物からメールが届いた。その内容というのも、沼島中学校のSDGsに関する取り組みを、「未来のシマ共創アワード」という賞に応募したいので、その際、沼島音頭(沼島で開催される盆踊りの名称)に関する情報源として、私が沼島音頭について書いた個人ブログ記事のURLを提出資料に記載してもいいかというご相談であった。    沼島音頭と中学校がどのように関係しているのか? その疑問はメールの文面をさらに読み進めると解き明かされる。    沼島は現在人口370名にまで減少しました。沼島中学校の生徒数も減少し、小規模特別認定校(筆者注:詳細は後述)として沼島以外の生徒も通うことができるようになりました。そのため、中学校で初めて沼島音頭と出会い、取り組む生徒がほとんどになりました。国生みの島で、100年後も音頭を知っている人を少しでも多くするために、沼島伝統文化保存会の皆さんが熱心に教えてくださり、敬老会や学習発表会で毎年披露しています。その方々の功績を広めたいです。    沼島が島外の中学生を受け入れ、さらにその子たちに沼島音頭を教えているということに驚く。まさかそのような取り組みが行われていたとは。メールの差出人である河野真也さんは、2024年度に赴任してきた沼島一年目の先生だという。相談事項に関してはもちろん承諾するとともに、せっかくの機会ということで、こちらからも取材の依頼を打診すると「もちろんです」と快く引き受けてもらえた。 「沼島千軒」と呼ばれた島の現在    島外出身の中学生は、多くが島に住むことなく、淡路島本島からスクールバスや船で学校に通っているという。そのため、沼島行きの船内もスポーツバッグを背負った若者たちであふれていて、着岸直後の港も、人口357人(令和7年3月末現在)の島とは思えないほど活気にあふれている。ちなみに、乗船時間はわずか10分。あっという間だ。 船を降り、足早に学校へ向かう中学生たち    港にはたくさんの船が停泊しているが、人気はほとんどない。漁はもっと朝早い時間に行われているのだろうか。あの賑やかしい中学生の一団が去ると、島は嘘のように静まり返る。    かつて沼島は「沼島千軒」と言われるほどに活気に満ちた島であった。その理由は、第一に地の利にある。小さな島ながら、その位置が紀州・鳴門・上方の海路の要衝にあり、上り下りの船が必ずこの島へ寄港するというほど、往来が盛んであった。また島の周辺や、紀伊水道(紀伊半島と四国に挟まれた海域)一帯は漁場としても恵まれており、タイ、ハモ、ハマチなど、さまざまな魚を豊富に獲得することができた。勢いづいた沼島の漁師は近海に飽き足らず「よそいき」と称して、熊野、阿波、日向、五島、対州(対馬のこと)まで進出したという。 港に停泊する漁船    文化・文政の時代(1803〜1830年)ともなると、近接する京都や大阪などの町が商業都市として繁栄を極め、沼島で獲れる高級魚が大量に消費されるようになる。その結果、島では多くの海産物商や廻船業者が生まれた。現・株式会社ニッスイの前身となる水産会社の「山神組」を輩出したのもこの沼島である。    現在、沼島の漁業は多くの課題に直面している。漁師の高齢化や減少、魚を育む地球環境の変化、燃料の高騰……。「兵庫県離島振興計画(令和5年度~14年度)」に掲載されている国勢調査のデータを参照すると、2010(平成22)年と2020(令和2)年の比較では、沼島の第1次産業従事者数は145人から98人へ減少している。...

ヘンレ社75周年記念 ピアノとヘンレ原典版の魅力にふれるトーク&コンサート

ヘンレ社75周年記念 ピアノとヘンレ原典版の魅力にふれるトーク&コンサート

ブルーの表紙でお馴染みのヘンレ社の楽譜の魅力を、ピアニスト・梅田智也氏の演奏とともに楽しむイベントが2025年4月まで全国のヤマハ直営店で開催されました。本稿では、そのスタートを飾ったヤマハミュージック福岡でのイベントの模様をご紹介。 ――ビデオメッセージで開幕 2024年11月12日(火)、ヤマハミュージック福岡にて『ヘンレ社75周年記念 ピアノとヘンレ原典版の魅力にふれるトーク&コンサート』が開催された。本イベントは、ドイツ・ミュンヘンにある楽譜出版社G. Henle Verlag(ヘンレ社)の歴史と魅力を、ピアニスト・梅田智也氏の演奏とともに楽しめる90分の無料プログラム。初回にも関わらず、キャンセル待ちが出るほどの盛況ぶりで、関心の高さが伺えた。オープニングでは、このイベントのために特別に制作されたヘンレ社からのビデオメッセージを上映。日本の愛用者に向けた感謝の言葉と、現在のヘンレ社の取り組みが紹介された。 ヘンレ社社長のノルベルト・ゲルチュ氏、営業部長のズィグルン・ヤンツェン氏からのメッセージ ――世代を超えて受け継がれる楽譜 ビデオメッセージが終わると、ピアニストの梅田氏が登場。以前からヘンレ社の楽譜を愛用していると、自身の楽譜を2冊披露。ひとつは小学生のときに初めて購入したベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ全集 第1巻』。もうひとつは、師匠から譲り受けたという年代物のハンセン校訂版だ。長年にわたって使い込まれており、「付箋を貼ったり、演奏した日や場所を書き込んだりして、自分だけの楽譜をつくるのが楽しみ」と、自身の楽譜の活用法も紹介した。 使い込まれた自身のベートーヴェンの楽譜を紹介 ――ペライア版の魅力 最初に演奏した作品は、ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ全集 第1巻』に収められている「ピアノ・ソナタ 第14番《月光》」。梅田氏はこの楽曲の演奏において、ハンセン校訂版と、アメリカのピアニスト、マレイ・ペライア校訂による《月光》の単曲ピースを併用しているという。ペライア版の魅力について、「自分では考えつかない指使いが書かれているので、異なる視点を得ることができて役立っている」とピアニストならではの解説。演奏が始まると、ヤマハのグランドピアノ「C3X espressivo」の豊かな音色が会場を包み、幻想的な響きで聴衆を魅了した。 ヤマハグランドピアノ「C3X espressivo」の豊かな音色が会場を包み込む ――版による違いを弾き比べ 続いてショパン「ノクターン第20番 嬰ハ短調 遺作」を取り上げ、演奏前には版の違いを解説するための弾き比べを披露。スラーのかけ方や表現の微妙な違いを示した後、続けてショパン「華麗なる大円舞曲」を演奏した。さらに、リスト「コンソレーション」やラフマニノフの《鐘》といった多彩な楽曲が奏でられ、ロマン派から近代作品まで幅広いプログラムを展開。「ヘンレといえば、ドイツ古典派というイメージをもつ方もいらっしゃるかもしれませんが、近年はラフマニノフやリストの楽譜もあるので、ぜひそちらにも注目してほしい」と語った。  最後は、ヴィルトゥオーソピアニストとしても名高いブゾーニ編曲の大曲、バッハ=ブゾーニの「シャコンヌ」を演奏。迫力と繊細さが共存する圧巻の演奏に、客席から割れんばかりの拍手が送られた。 そのほかにもヘンレ社の用紙や製本のこだわりも紹介 ――ここでしか見られない貴重な楽譜も ヘンレ社の楽譜はピアノ作品だけでなく、弦楽器や管楽器、オーケストラのスコアなど、緻密な研究に基づく原典版が多彩なジャンルで展開されている。今回のイベントでは特設ブースが設けられ、その豊富なラインナップを間近で楽しむことができた。 また、ヘンレ社を象徴するブルーの表紙の楽譜に加え、全集版の布装楽譜、携帯しやすい中型スタディ・スコア譜、さらに普段は目にする機会の少ない大判のファクシミリ版も展示。来場者は貴重な楽譜を手に取りながら、その細部にわたるこだわりや魅力を堪能していた。 お馴染みのブルーの表紙のものからファクシミリ版まで揃った展示ブース  この記念イベントは、2024年11月から2025年4月まで全8回の公演をもって大盛況のうちに終了。ヘンレ社の魅力的な楽譜は、本サイトおよび全国のヤマハ店舗・特約店にてお求めいただけます。   ヘンレ社について  第二次世界大戦後の1948年、資産家でピアニストのギュンター・ヘンレ氏により設立。作曲家の原曲に基づいた正確な楽譜、原典版を出版することを大きな目的として発足され、主に古典派やロマン派のピアノ曲や室内楽曲を出版。近年はフランスやロシアの近代作品にも力を入れている。楽譜の内容と実用版としての品質はいずれも評価が高く、特にピアノ曲の原典版においては世界的にも高い地位にある。常に最新の情報を求めて研究を続けており、近年はバッハやベートーヴェンの原典版も順次改訂作業を行う。   プログラム (使用関連楽譜)◆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番...

指揮者はどんな勉強をしているの?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者はどんな勉強をしているの?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新作オペラ、無事終演! みなさん、こんにちは! 先月、前回の連載でも少しお話した新作オペラ《ウンム》の公演(会場:オランダ国立歌劇場)が無事終わりました! 3日間の公演はすべて完売、とても盛り上がって最後はお客さんも一緒に大合唱! オペラハウスとは思えない熱狂ぶりでした。 新作オペラ《ウンム》の作曲家、ブシュラ・エル・トゥルクのインタビュー動画(英語)。オランダ国立歌劇場の公式チャンネルより。 《ウンム》終演後に、キャスト、スタッフ、歌劇場総監など、勢揃いで記念撮影。 成功裏に終わってホッとしましたが、実をいうと最初は結構心配していました。今回演奏したアムステルダム・アンダルシア・オーケストラは、メンバーのほとんどがアラブ音楽のエキスパートで、楽譜の読めない人が少なからずいます。いわゆる西洋クラシック音楽のオーケストラと違って、普段「指揮を見ながら演奏する」という経験もないし、微分音(半音よりも狭い音程)もたくさん出てくる。私にとってはいつもと違う、新しい指揮法を編み出さなくてはならないような状況でした。 さらに、最初のリハーサル後に気づいたのですが、半分以上のメンバーは英語が通じません。モロッコ、チュニジア、アルジェリアなど北アフリカ出身の演奏者が多いのです。ですからリハーサルも、フランス語で説明したあとに同じことをもう一度英語で言い直しながら進めなくてはなりませんでした。 そんな幾多の困難がありましたが、オーケストラのメンバーもすごくがんばってくれて、「指揮を見ながら演奏する」という新しい経験をむしろ楽しんでいたようです。最後は「指揮を見るっていいね、なんか安心する」なんて言っていました(笑)。 偶然、公演最終日が私の誕生日だったんですが、サプライズでメンバーたちがバースデーソングを演奏してくれて、思わず胸がいっぱいに。今回のオペラプロジェクトを通じて、多様なバックグラウンドを持つ才能豊かなメンバーたちと創作のプロセスを共有できたことは、私にとってかけがえのない経験となりました。 オランダ国立歌劇場で迎えた誕生日。サプライズでみんなからの寄せ書きと花束をプレゼントされ、思わず涙ぐんでしまいました。 指揮者はどんな勉強をするのか 「指揮者の人は、本番で演奏する曲をどうやって勉強するのですか?」と、ときどき聞かれます。演奏者にくらべて、指揮者の勉強方法というのは想像しにくいかもしれませんね。 リハーサルが始まるまで、指揮者はひたすらスコアの勉強です。私の場合、スコアを受け取ったらまず全体をパラパラ読んで、曲の構造を把握します。音楽作品というのは、言ってみれば「バーチャルな彫刻」のようなものです。最初に全体像がきちんと頭に入っていないと、細部のバランスが取れません。作品がどういう構造になっているのかを把握するために、音楽のまとまりごとにスコアの上で赤と青の鉛筆で区切っていきます。これは、新作初演のときも古典作品のときも同じです。ちなみにこちらはオペラ《ウンム》で使用したスコア。最後の最後まで何度も変更が加わって、もはや解読が困難な状態に(笑)。 本番直前の《ウンム》のスコア。(画像は加工しています) 赤青鉛筆を使っているのは、たとえば強弱を書くときにフォルテは赤、ピアノは青、という風に書き分けるためです。そのほかにも、大きな区切りでは赤を、さらに細かい区切りでは青を使ったりしています。奏者にキューを出さなければならない大事な箇所なども、赤で印をつけます。これは別にそういうルールというわけではなくて、私のやり方ということですけどね。 パリ音楽院指揮科卒業試験の課題曲だった新作のスコア。もう少し若い頃は、赤と青のほかにも色鉛筆をたくさん使っていました。(画像は加工しています) 普段愛用している赤青鉛筆と書き込み用のペン。 全体像が頭に入ったら、スコアの上の段から順に、パートごとに上から一段ずつ楽譜を横に読んでいきます。これは、私が指揮科の学生だったときに参加したマスタークラスの教授から教わった方法です。頭の中で楽器の音を鳴らしながら一段ずつ読んでいくと、その奏者の気持ちになることができるんです。「ここのフルートは20小節も休みがあるから、次に入るところでキューを出してあげないといけないな」「ホルンはここでこんなに長いパッセージを吹いていて息がつらいんだな」ということに気づける。そうして、最初に把握した全体像に細部を肉付けしていきます。次のパートを読むときは前に読んだパートが頭のどこかに残っているので、なんとなく思い出しながら読んでいくと、最後の一段を読み終える頃には全体の響きのイメージが思い浮かべられるようになります。 スコアを勉強中! 写真:©Ryota Funahashi 頭の中のバーチャル・オーケストラを鳴らす ここまで、音を出さずにひたすらスコアを読みます。ピアノを弾きながらスコアリーディングすることもほとんどありません。頭の中のバーチャルなオーケストラを鳴らしているからです。 オペラプロダクションの場合、通常最初の稽古はオケの代わりにピアノ伴奏をつけて行うのですが、今回の《ウンム》の場合、ピアノの音と実際のオーケストラの音があまりにも違うのでかえって歌手が混乱してしまう、ということがありました。なにしろ使われている楽器がカマンチェ(中東地域の弦楽器)やドゥドゥク(アルメニアの木管楽器)といった民族楽器で、微分音だらけのアラブ音楽を演奏するわけですから、当然といえば当然です。 もちろん、古典作品でもリハーサルではじめて音を出してみたら頭の中でイメージしていた音と違った、ということはあります。この楽器とこの楽器が同時にこのくらいの音量で鳴ると、片方が聞こえなくなってしまうとか。そういうことは実際に経験して学んでいくしかありません。 その意味でいうと、私がパリ音楽院のオーケストレーション科時代に学んだことはとても大きかったですね。オーケストレーション科の授業では、メンデルスゾーンやシューマンなど重要な作曲家の代表作を取り上げて、作品で使われているオーケストレーションの特徴や効果を通常の授業で学ぶのですが、年に2回、作曲家のスタイルを模して自分でオーケストレーションした曲を実際にオーケストラに演奏してもらう機会があります。学生はそこでパート譜の書き方なんかも徹底的に学ぶわけです。読みづらい譜面だったりすると「こんな汚い楽譜、読めるか!」といって演奏してもらえなかったりしますからね。 そうやって偉大な作曲家のオーケストレーションを学びながら、同時に自分が頭の中でイメージした響きが実際のオーケストラとどう違っているかということも経験として蓄積されていくわけです。この頃に学んだことは、その後指揮者としてやっていく上でも大いに役立っています。 オーケストレーション科の恩師、マルク=アンドレ・ダルバヴィ先生と。 イマジネーションの力 スコアに書かれた記号を読み取って頭の中に響きをイメージする、そういう訓練をソルフェージュといいますが、これって決してソルフェージュだけの問題ではなくて、イマジネーション能力なんだと思います。イマジネーションというのは、ある意味忍耐が必要なことでもあります。楽譜に書かれた一つの旋律をじっとにらんで、「これをクラリネットで演奏するとどうなるだろう? あるいはチェロなら?」とじっくり時間をかけてイメージすることが重要なんです。 いまはなんでもすばやく情報を処理することが求められるので、なかなかそういう時間をもつ余裕がないですよね。でも、これって本当は音楽をやる上でとても大事なことだと思います。...

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 東海北陸自動車道によってもたらされたる観光地間の競争激化    岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥町(しろとりちょう)。この町の商店街にまだ勢いがあり、白鳥おどりも最高潮に盛り上がっていた1970年代、一人の中学生が踊り子として会場を駆け回っていた。その子どもの名は、大坪正彦。後に、白鳥観光協会に入り、20年以上も祭りの裏方として白鳥おどりを支えることになる人物だ(2025年に引退)。ここからは、最盛期以降の白鳥おどりの変遷を現場から見守ってきた大坪さんの証言を補助線に、前編で触れた1980年代以降の白鳥おどりの変遷を追ってみたいと思う。    ちなみに個人的な話となってしまうが、大坪さんは、私が白鳥おどりに参加し始めた頃から親しくさせていただいている、いわば「恩人」のような人物でもある。東京でイベントを開催する際に、現地との調整役としていろいろと便宜を図ってくださったり、私が白鳥おどりについて知りたいことがあった時は貴重な資料を提供してくださったり、とにかく、ここでは書き尽くせないくらい、いろいろな面からお世話になったことは記しておきたい。 2019年に高田馬場で開催した白鳥おどりのイベント。ゲストに白鳥観光協会の大坪さんを招いた    まず、大坪さんが体験し、その目で見た白鳥おどりの最盛期とはどのようなものであったのだろうか。「当時(1970年代)は、踊りの輪がすごく大きかったですね」と大坪さんは回想する。「3つの商店会をまたいで開催していたくらいですから。駅前商店街の三叉路に屋台を置いて、北はごんぱちさんのところまで、東は濃飛タクシーさんのところぐらいまで行って。あまりにも輪が大きかったので、端っこと端っこで踊りがずれちゃっているんですよね(笑)。都会に出てた人たちが帰ってきて、本当にお盆の期間は町の人口がバーンと増える感じでした」 大坪正彦さん    大学進学後はしばらく地元を離れ、長らく白鳥おどりから遠ざかっていた大坪さん。ホテルやスキー、ゴルフなどレジャー系の職をいくつか経て、2001(平成13)年に白鳥観光協会に参加したが、そこでおよそ20年ぶりに目にした白鳥おどりの光景に衝撃を受けた。    「もう、自分が踊っていた頃と比べると、あんまりにも人が少なくて驚いたんです。屋台のまわりで踊っている人が、ほとんど保存会のメンバーという日もありましたからね(一般客が少ない)。やはり一番盛り上がっていた時期を知っているもんですから、自分の目が黒いうちに、これはなんとかしないと、と思いましたよね」    大坪さんが踊りの現場を離れているうちに、この町に何が起きたのか。まず観光業全般での話としては、町の主要な観光資源であったスキーが衰えた。    「スキーに関しては、越美南線に乗ってスキー客がやってくるという1回目のブームというのがまずあって、その時に村営の小さいスキー場みたいなのが町中にちょこちょこできたんですよね(1956年から、当時の国鉄によってスキー客のための臨時列車「奥美濃銀嶺号」が、シーズン中各週末に運行されていた)。その次にくらいに、観光バスやマイカーに乗ってスキー客がやって来る時代がきました。ちょうどその頃ぐらいですかね。白鳥町の北にある高鷲町の方に大きくて、設備も充実したスキー場がポンポンとできて、白鳥のスキーが衰退していったんです。リフトなんかも3〜4人乗れるようなゴンドラみたいなタイプなので混まないし、並ばず乗れる。一度便利さを体験しちゃうと、もう戻ってきませんよね。バブルの頃のスキーブーム?   確かにありましたけど、白鳥町への恩恵はそこまで大きくなかったんじゃないですか。テレビなんかで苗場のスキー場なんか見せられちゃうと、余計そっちに憧れちゃいますしね」 白鳥スキー場跡地(現・二日町延年の森公園)    2008(平成20)年に全線開通した東海北陸自動車道も、白鳥町の劣勢に拍車をかけたようである。東海北陸自動車道は、愛知県一宮市を起点に、岐阜県を経由して、富山県砺波(となみ)市に至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路である。1960年代に構想が立ち上がり、その沿線となる白鳥町でも大きな関心と期待が寄せられた。    「東海北陸自動車道などの開設によって、産業と観光の開発はいっそう脚光をあび、大きな伸張が展望される」(1977年刊『白鳥町史 下巻』) 「白鳥町発展のカギを握るものは東海北陸自動車道の問題」(1984年刊『わが町白鳥 : 郷土誌』) 「東海北陸自動車道をはじめとする、道路の整備によって、白鳥町が劇的に変わる可能性がある」(1991年刊『あすをひらく道 : 白鳥町合併35周年記念誌・町勢要覧1991』)    町の発展に寄与する道路として考えられたことから、完成に備え1966(昭和41)年から、町内のすべての道路の舗装と、川への架橋も進められてきた。    道路の整備は段階的に進められ、1997(平成9)年に郡上八幡IC-白鳥IC間が開通、1999(平成11)年には白鳥IC-高鷲IC間が開通となった。これによって地域に何がもたらされたのか。『岐阜県の冬季観光産業(スキー場)の実態調査報告』(2001)では、高鷲町を含む郡上郡北部に対しては「大型施設も加わり、中京圏・関西圏から長野方面に向かっていたスキーヤーも取り込み集客を増加させている」「さらに東海北陸自動車道の貫通がなれば、北陸圏をもマーケット 視野に入れようと計画している」と好ましい影響が報告されているのに対し、白鳥町を含む郡上郡南部には「白鳥IC開通までは、安定した集客を保ってきたが、高鷲ICの開設とともに集客を落としている。各スキー場共に高速道路のインターチェンジから遠いことがネックとなっている」というネガティブな評価が下されている。    数々の資料が、東海北陸自動車道が観光面で沿線エリア全体に何かしらの好影響を与えていることを示しているが、やはり道路の開設による観光地間の競争激化や、地域外への観光客流出といった負の影響も見逃すことはできない。    たとえば、合掌造り集落でおなじみの富山県の五箇山では、東海北陸自動車道全通後に、より規模の大きい白川郷の荻町集落に観光客が集中する傾向が強まり、また宿泊数も減少したことが報告されている(『東海北陸自動車道開通に伴う五箇山観光の変容』)。白鳥町においてもまた、期待ほどの観光誘致が図れていないようで、郡上市白鳥振興事務所『白鳥地域振興計画』(2021)には、2019(平成31)年の白鳥IC-飛騨清見ICの四車線化について触れつつ、「通過点となる恐れがあることから、目的地となるような観光イベント情報の提供が必要」と警戒感をつのらせた文章が記載されている。 五箇山の合掌造り集落    実際のところ、東海北陸自動車道が白鳥おどりの振興に繋がらなかったかというと、そうとも言いきれない。郡上市の発表している平成期の白鳥おどりの来客数を見ると、1995(平成7)年から1996(平成8)年にかけて一旦数は減少しているが(85,000→80,000人)、白鳥ICが設置された1997(平成9)年からは上昇に転じ、2004(平成16年)には平成期のピークとなる131,000人を記録。しかし、その後は下降線をたどり、10年後の2014(平成26)年には55,500人と、来客数はほぼ半減している。大坪さんは、次のように話す。    「白鳥おどりも、一時は郡上おどりに近いくらいの勢いを持った時代があったんですけど。おそらくですが、白鳥に関しては、多分時代の流れの中で来客数が増えていただけで、気づいたら、あれ?って(壊滅的な)状態になってしまっていたということだと思います。郡上おどりは比較的来客数をキープできているようなので、それ以上の努力をずっと続けてきたんでしょうね」...

はじめてのおもちゃピアノに最適!累計10万部の耳が育つ知育玩具「ヤマハのピアノえほん」

はじめてのおもちゃピアノに最適!累計10万部の耳が育つ知育玩具「ヤマハのピアノえほん」

用途たくさん:子どもへの知育玩具用に、出産祝いや誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント用に最適! メリットたくさん:親御さんの手助けなしにお子さんだけで遊べる! 耳を育てる本格的な音、0歳~6歳まで長期間楽しめる! 遊び方たくさん:全曲再生でひとりで遊べる、鍵盤が光って楽しく遊べる、モードがたくさんで飽きずに遊べる! 子どもが動画サイトばかり見ていて心配……何か指を動かして遊べる安全なおもちゃはないかな……。 そんな方にオススメのおもちゃ絵本をご紹介します。 楽しいだけでなく、はじめての音楽体験にもなり、耳も鍛えられて、ピアノの基礎まで学ぶことができるお得な商品。ピアノは習い事ランキングでもつねに上位。本格的にピアノを習う前に、ピアノレッスンの導入としても活用してください! |選ばれる5つの理由 ① かわいい絵と楽譜で見ていて楽しい! ② 充実の機能と多彩な音色ではじめての音楽体験に最適! ③ 子どもがひとりで遊べる! ④ 飽きずに6年間遊べる! ⑤ 親子のコミュニケーションが増える! |実際に使った方の声 |開発者の声 ー 企画はどこから生まれた? ー どんな点で苦労した? ー どんな方に楽しんでもらいたい? |商品概要 1|選ばれる5つの理由 ① かわいい絵と楽譜で見ていて楽しい! カバーイラストは『しましまぐるぐる』の「いっしょにあそぼ」シリーズ(Gakken)で大人気の絵本作家かしわらあきおさん。絵本の部分はかしわらさんほか14人の人気イラストレーターによるかわいい絵が子どもたちを楽しませてくれます。絵とともにメロディ譜と歌詞も載っているので、親御さんが一緒に見て弾くこともできますし、ピアノを習い始めのお子さんが見ながら弾いたり、親子やきょうだいで一緒に歌ったりするのもおすすめです!...

エレクトーン曲集『WORKS3』発売記念 安藤ヨシヒロに聞く!名曲たちの制作秘話と、“今”。

エレクトーン曲集『WORKS3』発売記念 安藤ヨシヒロに聞く!名曲たちの制作秘話と、“今”。

  エレクトーンプレイヤーとして多くの⼈々を魅了し、現在は作曲家、キーボーディスト、そしてプロデューサーとしても活躍を続ける安藤ヨシヒロ。彼のオリジナル作品を集めたエレクトーン曲集である『WORKS』シリーズに、2025年2⽉18⽇、待望の第3作⽬『WORKS3 〜from "SORA""mindscape<<5"』(『WORKS3』)が加わった。 名曲が世に放たれてから⼗数年たった今、楽曲の制作秘話や作品への思い、安藤ヨシヒロ⾃⾝の”今”について語ってもらった。 ――『WORKS2』から約5年ぶりとなる新刊『WORKS3』が発売となりました。楽譜集『SORA』から収載された3曲(「サクラ」「天上の光」「祈り」)は新たに02シリーズ対応のレジストを制作されたそうですが、改めてご⾃分の楽曲と向き合ってみていかがでしたか?  曲は⼗数年前に作ったものなのですが、今回収載するにあたって、新鮮な気持ちで取り組めました。どうしたら02できれいに⾳が鳴るだろうか試⾏錯誤しながら制作しましたね。⾳⾊を変えたことで曲の雰囲気に違和感が⽣まれたり、「前の⽅がよかった!」となったりしないよう、進化させたいという気持ちで作りました。 15年前も、01でどんな⾵に⾳を鳴らすかを⼀⽣懸命考えながら編曲したのを思い出しました(笑)。 楽譜集『SORA』 ――『SORA』は安藤さんの初メジャーアルバムですが、それまでとは違う挑戦があったのでしょうか。  『SORA』は全体を通してストリングスとピアノ中⼼のサウンドにすると決めて作ったアルバムでした。そんな⾵にコンセプトを決めてアルバムを制作するのははじめてだったんです。それ以前に作ったアルバム『mindscape』シリーズは、好きに作った曲をキュッとまとめる形だったため、『SORA』の制作⼿法は慣れないものでした。弦楽器をフルで収録したのもはじめてで、ああでもないこうでもないとたくさん悩みながら楽譜を書きましたね。エレクトーンはほかの楽器と異なり、演奏しているとさまざまな楽器の⾳⾊に触れます。そうするとひとつの楽器だけじゃなくて、いろいろな⾊のパレットが⾃分の中に⾃然と増えていきます。『mindscape』ではそのパレットから好きな⾊を選んで曲を作って……ということをしてきました。でも『SORA』はコンセプトを決めたことで、⾳⾊的な制約があったのです。その点も、それまでと⼤きく違うところでした。 ――そのようにコンセプトを決めて制作されたのはなぜだったのでしょうか?  いろいろな⾳⾊を使えると、カラフルにはなるのですが、演奏している⼈が⾒えづらくなってしまいます。エレクトーンを知らない⼈が聴いたら、「安藤ヨシヒロ」が何をしているのか、どんな⼈物なのかが⾒えない。だから鍵盤楽器はピアノと決めて、それを「僕」が演奏、プラス弦楽器の⼈がいる。つまり、「⼈がちゃんと⾒える」ように意識しました。制約があったからこそ実現できたと思っています。その制約の中でも「⾃分らしさ」を出したかったので、プロデューサーをはじめいろんな⽅と相談しました。 ――『SORA』の制作には多くの⽅が関わっていたのですね。  最初のアルバムは全部ひとりで作っていました。⾃宅のシンセやエレクトーンで作曲して、それをスタジオに持って⾏ってひとりで編集作業をして。でもエレクトーンプレイヤーとして活動していく中でたくさんのミュージシャンに出会って、楽曲制作に少しずつ参加していただけるようになりました。『mindscape<<5』はもっとも多くの⽅に携わってもらった、僕の活動の中での集⼤成のようなアルバムです。⾃分たちでできることは全部やって、参加して頂いたミュージシャンの⽅たちと全員で作り上げました。スタジオでは⾃分たちでマイクスタンドを⽴てたりして、練習して、レコーディングして……楽しかったですね。今でも作れてよかったなと思う作品です。 楽譜集『mindscape<<5』 ――その『mindscape<<5』から、はじめて「FLY HIGH」が収載されますね。  はい。「FLY HIGH」には「Symphonic ver.」もありますが、元々はこのバージョンが先に出来上がっていたのです。今回収載したノリがいいバージョンは後からできたのですが、バージョン名をなんとつけたらいいかわからなくて(笑)。結局、「バージョン名はつけなくていいよなぁ」ということで今の形になりました。 ――逆だったのですね……! ポップなものを作ってからその後にオケバージョンを制作 するのが⼀般的な⽅法だと思っていました。  そうなんです。先に、とは⾔っても同時期に作っていたもので、「FLY HIGH(Symphonicver.)」はジュニアエレクトーンフェスティバルのテーマ曲として、ノリがいい「FLY HIGH」はエレクトーンステージのテーマ曲として作りました。「FLY HIGH」は直訳すると「⾼く⾶ぶ」ですが、「⼤志を抱く」という意味も持つ、とても前向きな⾔葉です。出演者の後押しをしてくれて元気になれるような、⼒のある曲にしたいと思って作曲しました。  実はどちらの曲もループできるようになっているんです。どんどん転調して、最後まで⾏ったら冒頭と同じ調になって戻る、ループできる構造になっています。そういう⾵に、曲の⾏き先を考えながら作っていました。 ――本当ですね!...