山葉寅楠(1851~1916)によって創業された日本楽器製造株式会社が、ヤマハ株式会社に社名変更したのは創業100周年を迎えた1987年のこと。130年以上の歴史のなかで、誰もが認める大企業となり、世界的に見てもこれほど手広く楽器制作を手掛け、評価を勝ち得ている会社はヤマハをおいて他にありません。
ヤマハが世界最大の楽器メーカーであることは日本で多くの方々に知られているかと思いますが、「世界最大の楽譜出版社は?」と聴かれると、意外に音楽愛好家の方でも答えられない方が多いのでは?……その答えは、アメリカの ハル・レナード社となります。
Sheet Music StoreやAmazonなどで「Hal Leonard」とアルファベット表記で検索してみると、その理由の一端がご理解いただけるでしょう。数千~数万の検索結果が表示され、多岐にわたるジャンルの広さは他の追随を許しません。
まず目に入ってくるのはディズニー。実はハル・レナード社はディズニーの楽譜を北米で独占的に出版しています。日本でも英語の歌詞がメロディに振られたディズニーの楽譜を買おうとすると、ヤマハが発売している楽譜でも、実はハル・レナードから権利を取得して発売していたりするのです。
その他にはジャズ、ロック、ミュージカルあたりがハル・レナードの中心となる分野となりますが、スコア(総譜)のような、その楽曲を構成する全てのパートが網羅された楽譜は少なめ。主となるのは、趣味として人気の楽曲をピアノやギターで弾きたい!……というような人に向けた、取り組みやすい楽譜です。更に音数を減らした、ごくごく初心者でも挑める「Easy」や「Five-Finger」と銘打たれたバージョンなども出版されています。
「Five-Finger」というのは、両手の10指を指定した箇所の鍵盤の上に置くと、そこから移動することなく1曲演奏が出来るという簡素なバージョンのこと。演奏というと、楽譜が読めて、楽器が弾けて……と、とかくハードルが高いものだと思われがちですが、ハル・レナード社の楽譜は徹底して、初心者に寄り添おうとしています。
それもそのはず、ハル・レナード社は自社を「世界最大の音楽教育出版社」と呼んでいるのですから。楽譜以外にも「Guide」「Method(メソード)」と銘打たれた教則本もたくさん出版していますし、気軽に本格的な音楽演奏体験が出来るCDの伴奏音源付き楽譜も数多く出されています。また、ジャズをやろうとするなら必携の『The Real Book』(ジャズ・スタンダードのメロディ譜集)は本来、1970年代に非正規の楽譜として流通したものですが、きちんと著作権の問題をクリアした正規版が現在、ハル・レナード社から出版されているのです。
▲『The Real book』
いかにして、ハル・レナード社は世界最大の楽譜出版社となったのか?
どういう経緯で、ハル・レナード社が現在の地位を築くことになったのか、設立からの歴史を辿ってみましょう。
▲ハロルド・“ハル”・エドストローム Harold "Hal" Edstrom(1914~1996)とエヴァレット・“レナード”・エドストローム Everett "Leonard" Edstrom(1915~2000)
設立の前身となったのは、1930年代後半にハロルド・“ハル”・エドストローム Harold "Hal" Edstrom(1914~1996)とエヴァレット・“レナード”・エドストローム Everett "Leonard" Edstrom(1915~2000)という兄弟が中心となって活動していたダンス・バンド。保守的な父に気を使って、エドストロームという姓を前面に出すことを避けたふたりは、名前の一部を組み合わせた「ハル・レナード」という名をバンドに付けたのです。そしてダンス・バンドの解散後、この名前は弟エヴァレットが1947年に立ち上げた出版社に引き継がれることになります。
この頃、兄のハロルドの方は高校のスクール・バンド(日本でいうところの吹奏楽部)で指導をしていたのですが、当時のスクール・バンドはクラシック寄りの音楽を演奏するのが当然でした。しかし、ハロルドはダンス・バンドの経験を活かして、高校生が演奏したいと思えるような当時人気の高いヒット曲をバンドのために編曲。これが人気と評判を呼ぶことになり、他のバンドの指導者からも編曲依頼が来るようになります。こうした編曲を、原曲の出版社に正式な許諾を得た上で出版するようになったのが、エヴァレットが立ち上げたハル・レナード社だったのです。
その後、1950年代には吹奏楽だけでなく、合唱、オルガン、ギター、ピアノと領域を広げながらも、一貫して「初心者向け」に「人気の高い楽曲」の楽譜を出版するという方針は揺らぐことがありませんでした。1960年代半ばになると、吹奏楽や合唱の楽譜を売り込むため、そのアレンジを実際の音で確認できる音源を各地の指導者にダイレクトメールで送るようになります。現在、吹奏楽の分野ではYouTube上にこうした参考音源が公開されるのが一般的になっていますが、ハル・レナード社はその先駆だったのです。
1970年代になると「ラーニング・アンリミテッド」と名付けられたシリーズがお目見えします。これは教則本に模範演奏のカセットテープを付けたもので、独習であろうと努力次第である程度まで上達可能となる画期的な発案でした。このアイデアを成功に導いた人物であるキース・マードックは、ゼネラル・マネージャーに昇進し、1985年にはマードック率いるチームが、ハル・レナード社を創業者一族から買収。彼がハル・レナード社の会長兼CEOを担うことで、当初は1600万ドルほどだった業績は2億5000万ドル以上にまで爆発的に拡大しています(2019年からはラリー・モートンがCEOを継いでいますが、会長は引き続きマードックが務めています)。
この爆発的発展の要因となったのがM&Aでした。1980年代以降、数々の出版社や音楽企業を買収、もしくは提携を結ぶことで、取り扱う楽譜の領域を拡大。例えば、近年でいうと、オンライン上でデジタルも含めた楽譜販売をしている老舗Sheet Music Plusを2017年に買収しています。他には、設立当初あまり縁のなかったクラシックや現代音楽の楽譜も、現在では北米の流通を中心に、かなりの量を取り扱うようになっているのです。
このようにして、世界最大の楽譜出版社となったハル・レナード社ですが、当然のように今も新しい挑戦をし続けています。やはり24時間いつでもアクセス出来るオンライン上のサービスが充実しており、1曲単位でデジタル楽譜を購入したり、サブスクリプションの契約で何曲でも楽譜を見ることができる「SheetMusicDirect」、ギターのレッスンビデオを見たり、3万以上のギター譜を見ることができる「GuitarInstructor.com」、ブラウザ上で美しい楽譜を浄書し、それをWEB上で販売することもできる「Noteflight」など、誰もがより気軽に楽器を演奏したり、楽譜を書いたりできるような環境を提供してくれています。
創業者が変わっても追求され続けている、創業者エドストローム兄弟の原点――「好きな曲を演奏してみたい!」という初心者の素朴な思いを叶えようとする姿勢――は、楽譜の出版社にとって究極のマーケティング戦略といえるのではないでしょうか。いつの時代も楽器に憧れるきっかけの多くはこうした思いであり、この憧れが叶うことなく潰えてしまうからこそ、楽器を買ってもすぐに辞めてしまうのですから……。
(本記事は、2020年2月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter): https://x.com/TakayukiKomuro
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