この連載も遂に最終回。最後は、前回に引き続いて「楽譜」というものを改めて検討していきます。その1では「楽譜 music, music
paper」という言葉を出発点にしましたが、今回は楽譜の成り立ちを歴史に沿ってみていきましょう。その過程のなかで、前回の記事で積み残した「五線譜の起源」と「オックスフォード大学において、五線譜が植民地主義的とみなされるようになったのは何故か?」(イギリスのテレグラフ紙に掲載された「オックスフォード大学の教授が“脱植民地化”を目指し、記譜法〔Musical
notation〕に“植民地主義”の烙印を押す」というニュースから派生した話題です)という2つの事柄にも答えていきたいと思います。
言葉と音を結びつけ、音の高低を記録する
(出典元: Wikipedia)
楽譜の起源を遡っていくと「セイキロスの墓碑銘」のようなものに辿り着きます(これ以前にも断片的に残された旋律であれば現存していますが、「セイキロスの墓碑銘」は短くとも欠損がないため、代表例として挙げられることが多いのです)。時代については諸説ありますが、おおよそ1世紀前後の円柱型の石碑で、下に示したようなテキストが刻み込まれています。
(出典元:Wikipedia)
ギリシア語の詩の上に別の文字と記号が書かれていますが、これが今から2000年ほど昔の楽譜なのです。現代の五線譜に落とし込むと下の譜例のようになります。つまり、これら2つを対応させると、ギリシア文字の「C」がラ、「Z」がミ、「K」がド♯、「I」がレ……といったように音を示しており、その上に書かれた記号については、例えば「―」で音の長さが2倍に――つまり、基準の拍が8分音符だとしたら4分音符になり、「┘」で音の長さが3倍になることが分かります。ここでポイントとなるのは、高いミは「Z」、低いミは「┐」といったように、オクターヴ違いの音は異なる文字で表現されています。明らかに現在とは違いますよね。
(出典元:Wikipedia)
このように最初期はアルファベットと記号の組み合わせで旋律を記録していたのですが、9世紀以降に楽譜化(記譜)されたといわれるグレゴリオ聖歌の初期楽譜になると、歌詞の上に断片的な曲線が書かれるケースが使われたりしています。これは前の音から次の音へどのくらい音高が変わるのかが示されており、旋律の動きを記号化した楽譜をネウマ譜と呼ぶようになります。そしてアルファベットよりもネウマによる記譜が主流となっていくのです。
(出典元:Wikipedia)
11世紀以降になると、音の高さの基準となる譜線が用いられるようになる機会が少しずつ増えていき、直感的に音の高さが掴みやすくなります。この譜線を考案したのが、グイド・ダレッツォ(991/2頃~1033以降)という修道士でした。下の譜例は12世紀頃のネウマ譜なのですが、譜線の数が一定していないことが分かるかと思います。譜線の左側には「F」のような記号が書かれていますが、これがヘ音記号(F cref)の原型になったもの。つまり、この線の上に来る音符が「F(ファ)」であることを示しています。
(出典元:Wikipedia)
楽譜をどう書くかという記譜法の問題からは少し離れますが、グイド・ダレッツォの業績は他にもありまして、《聖ヨハネ賛歌》という聖歌の各フレーズ冒頭を音取りの基準にしたことで、(「ドレミファソラシド」という階名の起源になった)「ウトレミファソラ」を生み出しました。また前述の「セイキロスの墓碑銘」で高いミは「Z」、低いミは「┐」で記譜されていたように、長らくオクターヴ違いの音は異なる文字で表現されていましたが、グイド・ダレッツォはオクターヴ(=周波数が2倍もしくは2分の1の関係にある)の関係にある音を、すべて同じ文字で表すという考え方を明示しています。
さて本題に戻りましょう。13世紀頃になるとネウマ譜は(ドイツを除いて)、四角型の音符が用いられるのが主流となっていきます。下の譜例は14世紀前半あたりのスペインのネウマ譜なのですが、一般の方がイメージする「おたまじゃくし」のような形に近づいてきました。譜線は5本になっていますが、当時は地域差があり、徐々に5本が主流となっていったようです。
(出典元:Wikipedia)
リズムをどう書き記すか?
さて、ここまで順調に発展してきたように思える楽譜(≒記譜法)ですが、よくよく考えてみると、歌詞と単音がどう対応するか?という点に特化しているため、リズムを記録する手法が充分ではありません。例えば、2つの旋律が同じ歌詞を同じタイミングで歌うのなら、リズムの表記が曖昧でも合わせることが出来ますが、同じ歌詞でも言葉のタイミングがずれる曲は記録することが困難になります。いずれにせよこの時点では、複雑な音楽を記録することが出来なかったのです。
複数の声部による「多声音楽」を楽譜に落とし込もうという試みは、(かつてはフクバルト著とされていた)『音楽教程』(9世紀頃?)という理論書のなかでもされていますが、「定量記譜法」と呼ばれるリズムの記譜法が本格的に発展していくのは、13世紀後半からとなります。この変遷を細かく説明していくと煩雑になってしまうため、要点を絞ってしまいますが、特に重要なのが15世紀後半あたりから登場した「白符定量記譜法」です。黒塗りの音符だけでは、細分化していく音符の識別が難しくなっていくばかりでしたが、長く伸ばされる音には白抜きの音符をあてがうことで、パッとみただけで音符の種類が判別しやすくしたのです。この書き方は、現代の五線譜でも受け継がれていますね!
(出典元:Wikimedia)
上の譜例は、ジャック・バルビローという15世紀後半に、現在のベルギーあたりで活躍した作曲家による5声部で書かれたミサ曲の〈キリエ〉から、一番上の声部を一部抜粋したものです。5つの絵柄が、5つの声部それぞれの歌い出し位置に置かれています(音域の高い順にいくと、左上、右上、左下の上(青)、右下、左下の下(青))。これでも縦がずれることなく演奏ができるのは、正確なリズムを楽譜に記録可能になったからなのです。
なお、この頃は楽譜が貴重なものでしたから、ひとつの楽譜を全員で取り囲んで合唱をしていました。その様子が伝わってくる絵が残されています(この中で黒縁メガネをかけているのがヨハネス・オケゲム(1410頃~1497)という15世紀に活躍した作曲家で、彼が亡くなった後の16世紀前半に描かれたものだそうです)。
(出典元:Wikimedia)
楽器のための楽譜
ここまで見てきた通り、楽譜はまず「歌」――特にキリスト教の「宗教音楽」を記録するという目的と共に発展してきました。しかし、この流れだけでは現代のような五線譜は生まれません。前回の連載でも触れたように、日本語では奏法譜と訳されるタブラチュア譜(通称 タブ譜)の存在が重要となります。現代でタブ譜といえば、ギター属もしくはエレキベースの楽譜というイメージが強いかと思いますが、15~17世紀にかけては(ギターの親類にあたる)リュートやテオルボといった楽器等でタブラチュア譜が用いられていました。
(出典元:IMSLP)
地域や時代によって記譜の仕方が異なるのですが、現代のギターのタブ譜に近いのはイタリア式になります。上の譜例はイタリアの作曲家ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスベルガー(1580~1651)による6コースリュートの曲集(1611年出版)から抜粋したものですが、押さえるコースとポジションを数字の位置で示し、数字の上に音符でリズムを指示しています(※リュートは一部を除いて複弦のため、ギターのように第1~6弦ではなく第1~6コースと呼びます)。
一方、オルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器のためには、もっと様々な記譜法が試されていました。下の例は15世紀の『ファエンツァ手稿』からとられたものですが、視覚的にも分かるように「白符定量記譜法」をもとにして、上下2段に並べています。現代の大譜表に近づきましたが、譜線は6本になっています(もしかするとリュートのコース数が影響?)。その後、音域が広い楽曲の場合は7~8本に拡張されることはありましたが、5本に標準化するのはもう少し先の話になります。
(出典元:IMSLP)
それに対して、下の譜例は16世紀前半のオルガン曲なのですが、アルファベット表記による音名で4声部の音楽が記譜されています。同じ音のオクターヴ違いもアルファベットの上の線(-、=)などで書き分けられていますね。譜例は掲載できないのですが、他にもスペインでは前述したリュートのタブラチュア譜のように、線上に数字を置いていく書き方もありました。この場合、数字は音名(具体的には、ファ=1、ソ=2、ラ=3、……、ミ=7)を、線は声部の違いを表現しています。
(出典元:Wikimedia)
このように鍵盤楽器のためには様々な記譜法が試みられましたが、17世紀以降――つまり時代が「ルネサンス」から「バロック」へと移り変わると、前述したような「白符定量記譜法」を複数段積み上げる方法が他の編成にも用いられるようになります。その最たるものが、モノディとオペラです。ルネサンスまでは複数の旋律が絡み合うポリフォニー(多声音楽)的なスタイルが主流でしたが、バロックからは徐々に主旋律を通奏低音が支えるというホモフォニー(和声音楽)的なスタイルが主流になっていきました。そうした音楽が、鍵盤楽器で試されていた「白符定量記譜法」の積み重ねで記譜されたのです。しかも、当時の鍵盤楽器の譜面と異なり、譜線も5本になっています。
(出典元:IMSLP)
上の譜例は、バロック初期を代表する有名な曲集《新音楽》(1602年出版)のなかから、カッチーニの〈アマリリ麗し〉です。歌詞がついている上の声部を歌手が歌い、下の低音はリュートなどの楽器が和音を加えながら演奏します。一方、下の譜例は全体が現存する最古のオペラであるモンテヴェルディの《オルフェオ》(1609年出版)の冒頭部分です。5つの段が重ねられていることが見て分かります。
(出典元:IMSLP)
音符など、記号の見た目は現代と異なってはいても、五線譜の基本的なシステムはこれでほぼ出来上がった……かのようにも思えるのですが、実はまだこの頃、鍵盤楽器の楽譜は譜線の数が5本に標準化されていなかったとのです。下の譜例はイギリスの作曲家バードが17世紀初頭に出版した楽譜になのですが、譜線は6本のままです。
(出典元:IMSLP)
同じイギリスでも、17世紀後半に出版されたパーセルの楽譜では五線譜になっているのですが、この移り変わりを証言している興味深い資料に、ジョン・ウォルシュという音楽出版を営む人物が出版した『The Harpsichord Master』というチェンバロ奏者のための教本・曲集があります。第1巻(1897)と第2巻(1700)では譜線が6本なのですが、第3巻(1702)になると「現在は五線譜が一般的」という旨の説明と共に、五線譜での記譜に変更されているのです。
五線譜は、植民地主義的なのか?
こうして18世紀以降、西洋音楽の文脈に位置するあらゆる音楽が五線譜というシステムのなかに落とし込まれるようになっていきました。20世紀――特に後半になると前衛音楽・実験音楽という文脈で、五線譜という枷を打ち破ろうという試みが多数なされましたが、あくまでも芸術という枠内での話であって、影響力は限定的だったと思います。
何故なら多くのポピュラー音楽でも五線譜が用いられたため、アメリカやイギリスなどの英語圏発で世界的な人気を得たジャズやロックのような音楽を演奏できるようにする過程で五線譜やタブ譜に触れることも多く、クラシック音楽以上の圧倒的な拡散力でもってポピュラー音楽を通しても西洋由来の楽譜が広まっていったのです。
にもかかわらず、オックスフォード大学がカリキュラムから西洋的な記譜法を外すべきか検討しているというニュースが、イギリスのテレグラフ紙に掲載された「オックスフォード大学の教授が“脱植民地化”を目指し、記譜法〔Musical
notation〕に“植民地主義”の烙印を押す」という記事を通して話題になりました。何故、それほどまでに問題視されるのか、理解に苦しむという声もありますが、あらゆる音楽を五線譜で記録するというのは、喩えるならば、全ての言語を英語(もしくは西洋の言語)に翻訳して記録できると考えることに近いように思います。
元の言語にあったニュアンスを他の言語に完璧に翻訳することなど不可能なのは、きっと想像しやすいかと思います。言語は、育まれた文化圏特有の考え方や捉え方と不可分のものであり、単純な意味の集積ではないからです。音楽もまた似ています。例えば、世界各地の伝統音楽において多くの場合、演奏者の身体性が重視されます。演奏者自身がその音楽をどう捉え、どう演奏しているのか?……という視点無しにその音楽は成り立たないはずなのですが、外部から観察して五線譜で記録しようとする場合、最終的に鳴り響いた音だけに意識が向きがちなのです。こうした五線譜の暴力性は、民族音楽学において昔から指摘されてきたことです。
しかしながら英語という言語が覇権的な影響力を持つようになったお陰で、世界中がコミュニケーションを取りやすくなったのもまた事実。利便性に対しては、常に副作用を伴うことを忘れてはなりません。五線譜もまた、何が出来て、何が出来ないのか?
その「限界性」と、時に生じる「暴力性」と向き合いながら、利用していく必要があるです。
(本記事は、2021年5月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学
ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter):https://x.com/TakayukiKomuro
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