ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。

数珠が回り、獅子が舞う、異色の民俗芸能

   タスキがけの男たちが代わるがわる滑車にかけられた長さ約9メートルという巨大な数珠(じゅず)に取りつき、力強く回し続けている。滑車から吐き出された数珠は天井に向かって勢いよく投げられ、蛇が波打つような曲線を描いた刹那、床の上で「ガシャガシャ」と大きな音を立てる。数珠は再び滑車に巻き取られていき、また力任せに引き寄せられる。それが何度も繰り返される。数珠回しの最中は、絶え間なく太鼓の音が響き、時折「南無阿弥陀仏……」と念仏の唱和も挟み込まれる。

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男たちが大きな数珠を引き寄せ、勢いよく回し続ける

   いま私が見学しているのは、神奈川県足柄上郡山北町に伝わる「世附(よづく)の百万遍念仏」という民俗芸能である。山北町向原の能安寺というお寺の道場を舞台に、毎年2月15日に近い土・日曜日に開催される。「百万遍念仏」というのは、全国各地に広まる「百万遍信仰」にもとづく行事で、その目的も、五穀豊穣、雨乞い、追善供養、虫送り、疫病退散など、地域によって多岐にわたる。

   『民間念仏信仰の研究』(仏教大学民間念仏研究会 編)によれば、一言に百万遍念仏といっても大きく二つのタイプに大別され、一つは一人の人間が7日間ないし10日間かけて文字通り百万遍、念仏を唱えるというもの。もう一つは大勢の人間が車座に座って、巨大な数珠を繰りながら、念仏をみんなで唱和するというもの。多勢による念仏の総和をもって「百万遍」とするという、その合理的な発想に感心させられる。世附の百万遍念仏は後者のタイプに属するが、滑車を使って一人で数珠を回すという点で、他とは一線を画している。

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百万遍念仏が行われる能安寺。お寺の背後には東名高速道路が走る

   数珠回しが終わると、今度は「獅子舞」や「遊び神楽」といった余興的な演目が始まる。獅子舞にはいくつかの曲があり、笛と太鼓の伴奏とともに「剣の舞」「幣の舞」「狂いの舞」「姫の舞」などの舞が演じられる。舞の最中は太鼓と笛の演奏、そして時折歌が入るが、耳をすませていると「来いと呼ばれて行かりょか佐渡に」と民謡『佐渡おけさ』の文句が入ったり、「牛の角蜂がさした蜂の金玉蚊なめた」などユニークな歌詞が聞こえてきて面白い。

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剣と鈴を持って舞う、剣の舞
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二人1組で獅子を演じる、狂いの舞

   「二上りの舞」「おかめの舞」「鳥さしの舞」はもっとユニークで、二上りの舞はひょっとこ面の恰幅のいい男性が滑稽な動きをしながら、お堂の中を所狭しと歩き回る。おかめの舞はまるっきり漫才で、舞とともにおかめ(女)とかんさん(男)の色っぽくて笑える問答が繰り広げられる。鳥さしの舞は、さまざまな芸能の題材となっている「曾我兄弟の仇討ち」をモチーフとした芝居仕立ての演目だが、鳥さし(鳥餅を用いて野鳥を捕まえる職業の人)役の男性の演技がとにかく色っぽく、驚いてしまった。そもそも太鼓や笛の演奏もきわめてレベルが高く、全員がかなりの修練を積んでこの行事に臨んでいることがうかがい知れる。

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ひょっとこがコミカルに立ち回る、二上りの舞
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リズムカルな歌やセリフに合わせて鳥さしが舞う

   神楽が一通り演じられると、最後に「カガリ」が行われる。「カガリ」は儀式的な演目だ。道場の真ん中に太鼓を置いて、バチを手にした人々がそれを囲む。太鼓を叩きながら「融通念仏」という念仏を全員で唱和する。融通念仏は数え歌のようで、一番から始まり、十番で終わる。十番の歌詞に達すると、天井からたくさん吊るされた紙飾りが落ちてきて、参加者全員でそれを奪い合う。一種のトランス状態に陥って、その日の行事は終わる。

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「カガリ」では太鼓を囲んで「融通念仏」を唱える

   しかし、百万遍念仏の本当のエンディングはこれではない。山北町のホームページには、次のように書かれている。

   戦前は百万遍念仏の翌日に獅子舞が幣束を持って、世附地域の全戸をお祓いをしながら周り、最後に幣束を永歳橋から流す「悪魔祓い」を行っていました。
現在は向原の能安寺で念仏が行われているため、悪魔祓いは念仏の翌週に世附地域出身者の家々をまわり、幣束は大口橋から流されます。

   この悪魔祓い(地元の人は「アクマッパライ」と呼ぶ)をもって、百万遍念仏は一区切りとなる。「現在は向原の能安寺〜で行われている」と書かれているのは、実はこの百万遍念仏が元々行われていた「世附」という集落はすでにこの世に存在しないからだ。1978(昭和53)年に竣工した山北町の山間部にある「三保(みほ)ダム」の建設によって、ダム湖(丹沢湖)に水没してしまったのだ。この「三保ダム」という名称は、かつてこの場所に存在した「三保」という地名に由来している。1909(明治42)年に、世附をはじめ、中川、玄倉(くろくら)の三村が合併して三保村が成立(1925年には神縄村の尾崎・田ノ入・ヲソノ地区も編入)。1955(昭和30)年のさらなる合併で三保村は廃止となり、山北町となった。

   ダムの建設で、三保の住人たちの大半(223世帯)は山から降り、麓の地域に分散して移り住んだ。しかし、いまもなお百万遍念仏や悪魔祓いは、元世附住民の移転先で継承されている。水没から50年近く経ったいまも、出身地域に根ざした行事が行われているという事実には驚嘆せざるを得ない。彼らが祭りを続ける、その原動力とは一体なんなのだろうか。

川で結ばれた「ふるさと」と「新天地」

   一週間後、悪魔祓いを見学するために、私は再び山北町に足を運んだ。場所は、住人たちの移転先の一つである「原耕地」地区だ。到着すると、笛や太鼓を持ってぞろぞろと歩く集団に遭遇する。獅子頭をかぶった者もいる。

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JR「東山北」の駅から原耕地の集落を臨む
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悪魔祓いをしながら集落を回る一団

   一団は訪問先の家に着くと、まず案内役の人がインターホンを押して家人に到着を知らせる。続いて獅子頭を身につけた人が玄関の前に進み出て(家によっては家屋の中に入って)、幣束を手にしながら笛と太鼓に合わせて悪魔祓いの舞を行う。

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軒先で舞う獅子
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悪魔祓いの最中は、太鼓と笛の演奏が行われる

   一連の流れが終わると足早にその場を離れ、次の家へと向かう。トータルで80戸近くの家を回るらしい。元世附住民の家は山北町のほか、中井町、開成町など、足柄上郡の各地域に点在する。なので悪魔祓いの当日は、車を利用しながら数チームに分かれて家々を訪問することになる。午前中には、丹沢湖の方にも行っていたそうだ。

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百万遍念仏で際立った太鼓の腕を披露していた男性も、悪魔祓いに参加していた(写真右)

   すべての家を回り終えると、集落の辻(十字路)に集まって、百万遍念仏でも披露された二上りの舞が行われる。また、あのひょっとこの出番だ。側から見ているだけだと、なぜこのタイミングでひょっとこが?と、脈略のなさに少し狼狽する。

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十字路の真ん中で迫真の舞を披露するひょっとこ(二上りの舞)

   悪魔祓いは、お祓いに使った幣束を川に流すことでクライマックスを迎える。昔は世附の集落にある永歳橋から流したが、現在は原耕地から車で数分ほどの酒匂(さかわ)川に架かる新大口橋で儀式が行われる。ここでもなぜか二上り舞のひょっとこが登場し、滑稽な動きをしながら獅子を先導、橋の中間あたりにたどり着くと、獅子が欄干に身を乗り出して川に幣束を落とす。投げるというより、落とすという感覚に近い。

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ひょっとこは獅子舞の先導役も務める

   水面を漂う幣束を眺めながら、いまはなき世附という村のことに思いを馳せる。酒匂川に合流するいくつもの支流の中には、世附にも通ずる河内川がある。川の流れの中で、世附の人々はいまも故郷と接続している。この川を遡った先にはどんな風景が広がっているのか。百万遍念仏の源流を確認するために、丹沢湖にも足を運んでみたいと思った。

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酒匂川に投げられた幣束

木地師たちによって拓かれた集落

   「いまでも(ふるさとの)様子を見に行くことはあるよ。丹沢湖の一番尻に『浅瀬』っていう地区があって、そこにゲートがあるんだ。鍵がかかってるから普通の人は入れねえけど、山もち(山を所有している人)は森林組合に行って『山、見に行くから』って(鍵を)借りて、ゲートから入れるわけ。そこでバーベキューなんかしたりして」

   そう話すのは、世附百万遍念仏保存会 会長の池谷一郎さん(75)さんだ。世附の出身者であり、25歳の時、両親や兄弟とともにふるさとを離れ、現在住む足柄上郡中井町に移り住んできた。それから50年もの歳月が経過したが、いまでもふるさとへ至る道はくっきりと脳裏に思い浮かべることができる。

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お話を聞いた池谷一郎さん。1950年生まれ

   「永歳橋を渡ると、右に行く道と左に行く道があるの。右は中川方面に行く道、左は浅瀬の方に行く道。まあ、言えば山中湖へ抜ける道ね。この道に、世附川に沿って落合、法の口、荒井沢、奥世附(本村)という部落が並んでいて、この4部落を通称・世附といってたの」

   池谷さんの出身地は荒井沢地区。別名・中ノ庭ともいい、池谷さんはその呼称を好んで使う。「湖に沈んでも、自分の住んでいた場所の位置はわかるものですか?」、そう尋ねると「わかるよ」と即答。

   「落合トンネルを抜けると洞門があって、その下が中ノ庭ってところだよ。ある程度、目標物を決めてあるから、行けばうちはこの下にあったんだなと(わかる)」

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「荒井沢(中ノ庭)」の名は、ダム湖の周遊道路の橋の名前として残されている
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世附の集落構成図を見て、ご実家のあった場所を教えてくれる池谷さん。
「タバコヤ」といって、実際にタバコなど専売公社から卸した商品を販売していた

   後日、私も実際に丹沢湖を訪れてみたが、湖を囲む周遊道路から広大なダム湖の水面を眺めても、その下にかつて集落が存在したんだということは、知識としては頭の中にあっても、感覚的にはなかなか理解が及ばない。丹沢湖は三保ダム建設のために作られた人造湖で、湖水面積は2.18平方キロメートル(東京ドーム、約46個分)、周囲を丹沢山地の山々に囲まれ、静かで雄大な雰囲気が辺りには漂っている。

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ダムの上から見た丹沢湖

   では、現在はダム湖の底に沈んでしまった世附とは、どのような集落だったのだろうか。神奈川新聞社編の『丹沢湖』によると、この地からは縄文土器が出土しており、世附は非常に古い歴史をもつ土地だったと考えられているという。

   明確な村落が形成されたのは奈良時代以降のことで、「木地師(きじし)」と呼ばれる特殊な技能集団がこの地に定着し、これが村の始まりとなったらしい。木地師とは、木材を加工してお椀や盆などの日用品を作り、販売して生計を立てる職人のことである。質のいい木材に恵まれた世附は、彼らにとって暮らしやすい、まさに理想的な場所だったのだろう。ちなみに世附には「キジヤ」「ゲタヤ」「マゲヤ」といった、木地師を思わせる屋号も存在する。

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三保の昔の暮らしぶりを伝える「三保の家(旧渡辺家住宅)」。世附にあった民家を、ダムに沈まず残された尾崎地区に移転した

   世附は山あいの狭隘(きょうあい)地で、耕作できる面積が限られていたため、農業といっても稲作は盛んではなく、山の斜面を利用した焼畑農業が主流だった。地元ではこれを「カリハタ」と呼んでいた。また、豊かな森林資源を背景に、戦後しばらくの間は「炭焼き」と「林業」が地域の主要な生産活動となっていた。

   炭焼きに関しては、かつて三保の男衆はほとんどが山に入って炭を焼いたとまで言われるほど重要な産業で、1948(昭和23)年の調査では足柄上郡の他の町村の中でも群を抜いて多い76,987俵(約1,155トン=1俵15kgの計算)の木炭を産出した(同年の神奈川県下の産出量の約17%)。林業は戦時中に最盛期を迎え、輸送船の船舶材にケヤキ・カシ・ブナなどが大量に伐採された。

それでも祭りは続く 第12回21
「三保の家」と同じ敷地にある「丹沢湖記念館」では、在りし日の世附を写した写真を見ることができる

   「浅瀬の奥に大又沢・水の木沢って地区があって、そこに木材を運ぶ、いわゆる森林鉄道(世附森林鉄道)があったの。だから、(その頃は)富山県とかから、うんと入植者が来てよ、大又には小学校の分校もあったよ」

   池谷さんはそのように証言する。しかし、炭焼きに関しても林業に関しても、戦後需要が減ったことで産業としては次第に衰退していった。日本が高度経済成長期に入ると、マイカー時代の到来や、産業構造の変化によって、田畑や山の仕事に依存せず、発電所、農協、役所などで働く人や、山を降りて松田や小田原や横浜方面まで通勤する「勤め人」が増えていった。「うちの親父も東電(落合発電所)に勤めていたから、子どもの頃は、裕福ではなかったけど、そんな食うに困ったってことはねえよ」と池谷さんは回想する。

それでも祭りは続く 第12回22
かつて発電所で使用されていたランナー(羽根車)

勝ち取った「日本一の補償金」

   このように戦後、三保の暮らしが様変わりしていく中で、昭和30年代にはダム建設の話も浮上した。ダムが計画された理由は3つ、急速な人口増加に対応するための新たな水源開発(利水)、酒匂川の洪水対策(治水)、そして発電である。この計画は1961(昭和36)年の神奈川新聞によるすっぱ抜き報道によって、一般の人々にも知れわたることになった。

   当初、住民たちはダムのことをそこまで深刻に受け止めていなかったようだ。しかし、1965(昭和40)年に県からボーリング調査の依頼があったことで、地元の意見をとりまとめるための「三保ダム対策協議会」が発足。あいにく、この組織はすぐに解散してしまうが、1969(昭和44)にあらためて「三保地区ダム対策協議会」が発足される。補償の条件交渉が県と進められた。

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丹沢湖の象徴と言ってもいい、橋長235mの永歳橋。
同名の橋が、ダム湖ができる前にもかけられていて、地元では「おちゃえばし(落合橋)」の名でも親しまれた

   「俺の親父の代の人たちが交渉してね、全国的にもいい金額でまとまったと聞いてますよ」と池谷さん。実際、水没者や水没地権者たちが手にした額は当時“日本一の補償金”と言われるほど、好条件であったようだ。また交渉自体も比較的スムーズに行われたという。全国のダム建設では、住民と事業主体の間で激しい対立が起こることが多いのだが、なぜ三保は例外となったのか。さまざまな資料を読み解くと、こう推察される。まず三保ではすでに多くの住民が地元での生活基盤を失い、勤め人として暮らしていた。そして県がこれまでに相模ダム(1947年)、城山ダム(1965年)といった事業実績を持っていたことから、住民は水没対策に対する見通しが立てやすかった。こうした土地に縛られない生活スタイルの浸透や、事業主体へ寄せる信頼が、強固な反対運動に至らなかった理由なのではないだろうか。

それでも祭りは続く 第12回24
完成から約45年が経過した三保ダム

   もちろん移転するにあたって、ふるさとを離れる寂しさ、先祖から受け継いだ土地を手放す情けなさ、新天地での生活への不安など、さまざまな思いが住民たちの中に渦巻いたことは想像に難くない。その地で長い年月を過ごしてきた年寄りほど愛着は深かっただろうが、山から生活が離れつつあった若い世代はもう少し柔軟な姿勢だったかもしれない。池谷さんも中学までは地元の学校に通ったが、高校は足柄上郡開成町の吉田島農林高等学校(2010年に神奈川県立吉田島総合高等学校に改編)に進学。卒業後は松田町の農協に勤めたため、移転する前から町場には親しみがあった。そのため世附に対しても、どうしても離れがたいという感情は薄かったそうだ。

百万遍念仏は地元民の心のよりどころ

   いざ移転をすると腹を括っても、世附住民たちにとって気がかりだったのは「百万遍念仏」の行く末だ。地元では600年の歴史があるとされている、伝統の行事である。そうやすやすと切り捨てることはできなかった。

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世附から移住した人々の移転地、足柄上郡中井町の住宅地に建つ道祖神。もともとは世附にあったもので、人々の移転に伴い、この地に移された

   先に出典として紹介した『丹沢湖』は、1972年(昭和47年)から1977年(昭和52年)にかけて、神奈川新聞に連載された記事をまとめた書籍である。百万遍念仏についても何度か触れられているが、その時々の出来事をリアルタイムで切り取り、記録するという新聞媒体の特性上、記事からは掲載当時の空気感や人々の感情が生々しく伝わってくる。以下は、1972年(昭和47年)に掲載された記事の一部である。

   現在県が計画しているダムが出来ると、世附は部落全部が水没する。このため住民も各所に散りぢりとなり、百万遍念仏をこれ以上継承するのはムリとされている。地元民の心のよりどころだけに、なんとか保存をという動きはあるが、保存会の石田耕平会長も「この念仏は人手がかかり、保存はむずかしい。なんとかしたいとは思うのだが……」とその表情は寂しげさだ。
(神奈川新聞社 編『丹沢湖』より)

   本書では、「世附でやらない百万遍念仏なんて意味がない」という住民の声も紹介されている。百万遍念仏は、1974年(昭和49年)を最後に中断されていたが、補償金額の単価も決まり、あとはダムの完成を待つだけとなった1976年(昭和51年)には、復活を望む声が高まり始めた。世附にあった能安寺を移転先で再建することになり、完成の暁には記念として百万遍念仏を行おうという話も持ち上がっていたという。池谷さんによれば、復活の大きな後押しとなったのは、1978年(昭和53年)に「世附の百万遍念仏」が神奈川県の指定無形民俗文化財に選ばれたことだった。

   「(無形民俗文化財に指定されたということで)じゃあ、住民のより所として復活すんべえということで、2月15日に近い土日に開催するようになったわけ」

   結局、2年の短い中断期間を経て、世附の百万遍念仏は住民のたちの新天地で復活を遂げることになった。日本の民族音楽や民俗芸能に深い関心を寄せていた作曲家の柴田南雄は、エッセイ集『聴く歓び』(1983年刊)の中で、百万遍念仏復興当時の様子を記している。そこに書かれた「近在の何か所かに移住した旧世附の人々が夜ごと新しい能安寺に集まって猛練習をつづけ、目出たく再起が成った」という文章からは、復興にかける地元の人々の思いや本気の姿勢が伝わってくる。また、無形民俗文化財指定を機に、しばらく途絶えていた「剣の舞」も復興された。「聞いた話では太平洋戦争中はやらなかったみたいだけど、百万遍念仏が中止になったのは、それとダムで移転した時だけじゃないかな」と池谷さんは語る。

それでも祭りは続く 第12回26
丹沢湖畔に建つ「世附百万遍念佛発祥の地」の記念碑。悪魔祓いの日は、この場所にも立ち寄るという

   近年では、コロナ禍の2021年〜2023年にも中止を余儀なくされた。「わずか3年」と思うかもしれないが、この期間に「いい機会だから」と廃絶を決めた祭りも全国には数多くある。そう考えると世附の百万遍念仏のような伝統行事にとっては重い3年間といえる。しかし、池谷さんらには百万遍念仏を終わらせる発想は微塵もなかった。

   「コロナ禍の時は、保存会のメンバーで集まって、長老からいろいろなことを教わる勉強会をしたんだ。例えば“すげ縄”の作り方。百万遍念仏の時、道場の天井にきれいな飾り物が取り付けてあったでしょう。あの飾り物を付けるために、張りめぐらせているのがすげ縄。“すげ草”という草を編んで作るんだけど、この辺りには生えてないから、毎年1月にくらいに、三保の山奥に取りに行くの。取ったらしばらく干して、乾燥したらそれで縄をなう。今年は180メーターほどすげ縄をなったよ」

それでも祭りは続く 第12回27
すげ草からできた「すげ縄」

   そのほか、すげ縄から垂らす紙飾り(弊)や、悪魔祓いの際に訪問先の住民に渡す「ヒトガタ」と呼ばれる魔除けの幣束など、祭りで使用されるさまざまな小道具の作り方についても、コロナ期間を利用して長老と呼ばれる年長者たちから教わる機会を設けた。祭りや伝統行事の継承というと、太鼓の叩き方、笛の吹き方、神楽や獅子舞の舞い方など、芸能的な技術ばかりに目がいきがちだが、会場の飾り付けや、小道具の準備など、地味ながらも欠かせない作業が多く存在する。それらを担ってきた高齢の住民が徐々に減る中で、こうした「裏方の技術」もまた、次の世代に引き継がなければいけない要素なのだろうと、池谷さんの話を聞いていて思う。

それでも祭りは続く 第12回28
池谷さんらが「ヒトガタ」と呼んでいるミニサイズの幣束

先祖代々続いてきたことを次の代に渡したい

   ダム建設後、地域住民のより所として復活した世附の百万遍念仏であるが、歳月が過ぎて関係者も代替わりをしていくことで、実際には世附に住んだことのない世代も多く行事に関わるようになってきている。移転先の学校で知り合った友だちを勧誘することで、世附にルーツのない若者が百万遍念仏に関わるようになった、そういったケースも当たり前となってきている。つまり、世附の百万遍念仏は時代の変化を着実に受け入れている。それは行事を続けていくための必然的な流れでもあるだろう。

   昔は、親が神楽をやっていたら、その家の長男が神楽を引き継ぐ、といったような家父長的なルールもあったようだが、30年ほど前に池谷さんが百万遍念仏に関わるようになった頃ぐらいから、そういった風潮もなくなってきた。以前は女性が関わることができなかったという横笛にも、今年(2025年)は二人の女性が参加した。さらに興味深い事例としては、山北町共和地区の民俗芸能「山北のお峰入り」(「風流踊」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている)にも参加している移住者が百万遍念仏にも興味を持ち、「太鼓を習いたい」ということで今年から参加しているというのだ。

   「(世附にルーツのある家の人たちだけじゃ)もう人数が決まっちゃってて続かないからさ。だから保存会に入りたいという人がいたら基本的には断らない。どうぞどうぞって言って、笛を覚えてもらったり、神楽の演技を覚えてもらったりしてますよ」

   コロナ禍での中断は挟んだが、池谷さん曰く、保存会の「わけえし(若い衆)」によって構成されている「神楽部」の部長が、熱心に指導や勧誘活動を行っているため、百万遍念仏の行事自体は大いに盛り上がっているという。一方で、いまが順調だからといって慢心してはいけない、次につなげるための取り組みも考えなければいけないとも、池谷さんは語気を強める。

それでも祭りは続く 第12回29
お囃子で活躍する若手たち

   「そこに頼りすぎちゃダメだから。次の人のことを考えないとつながっていかない。だからいま考えているのは、地元の子どもたち、幼稚園か小学一年生くらいの子を百万遍念仏に招待しようと思っているんだよ。来ていきなり神楽をやったり、笛をやったりしてもらおうとは考えてない。数珠を回してみてえなとかさ、そんな感じで来て、知ってもらうだけでいいの。それで例えば50人来たとして、その中の二人だけでも興味を持ってもらえば全然いい」

   愚問になるかもしれないが、最後に「やはり百万遍念仏は今後も続けていくべきだと思いますか?」と尋ねた。池谷さんは「それは思っているよ」とうなずく。

   「やっぱり600年というね、先祖が続けてきたお祭りを、途中でやめちゃいけないって、それだけ俺は。先祖代々つないできたものを、俺も次の代に渡さなくちゃいけない。重荷じゃないかって? でもさ、(保存会のメンバーは)みんな優しいし、手伝いっこするから、“手伝いっこ”って三保言葉なんだけど、要するに助け合ってやってるからさ、心配はしてねえよ」

それでも祭りは続く 第12回30
百万遍念仏にて、修験者の格好で幣束を振る池谷さん

   再び『丹沢湖』を参照すると、本の中では世附を含む、三保に住む人々の団結力の高さについてしばしば言及されている。世附川流域は昔から人間の流出入が少なく、戦乱の世の中とも無縁で、昔からの住人が肩を寄せ合いながら平穏な暮らしを守り続けてきた、そのような経緯から住民同士の結束も固く、それゆえにダムの補償交渉もスムーズに進み、ダムが完成する数年前、1972(昭和47)年に山北町を襲った集中豪雨による大災害、通称「山北災害」の際も、住民同士で食糧を分け合って、物資補給のメドがたたない中でも窮状をしのぐことができたという。

   こうした、ひと昔前の農山村地域ならではの強い連帯感が、移住後も不思議と受け継がれていること。それこそが、世附の百万遍念仏がいまも活気を保ちながら続いている理由なのだろう。これからさらに代替わりが進み、関係者の中に世附を知る人がまったくいなくなってしまったらどうなる? ふとそんな疑問も浮かぶが、きっと大丈夫だ。百万遍念仏が続いていく限り、世附の人々の心意気は後世に受け継がれていくに違いない。(了)

それでも祭りは続く 第12回31
「世附百万遍念佛発祥の地」の横に並ぶ「望郷之碑」

Text:小野和哉

プロフィール

小野和哉

小野和哉

東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono

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