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守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「ルーツ」となる祭りを求めて    郷土芸能を追いかけていると、さて自分のルーツとなる祭りとはなんだろう?という疑問に思い至ることがある。自分が生まれ育った土地に根ざした祭りは何だろうか?と考えると、私の地元千葉県には数えの7年目ごとに開催される、周辺市町村をも巻き込んだ大規模な神輿祭りがあるのだが、地域の氏子が中心となる祭りなので、祖父の代から移り住んできた身としては、町内の祭りとはいえ、いつも内側というよりは、外側から鑑賞しているような他人事感があって、無邪気に“ルーツ”とまで呼んでいいか躊躇する部分がある。    ところで厳密にいうと私は、育ちは千葉だが、生まれは岩手だ。母の出身地が三陸地方沿岸の下閉伊郡普代村(しもへいぐんふだいむら)というところで、下閉伊郡と北で接する久慈市内の病院で生まれた。普代村は朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道沿線の漁村であり、昆布や鮭、ウニなどの海産物を特産品としてうたっている。子どもの頃は、毎年夏になると家族で帰省して、兄弟で虫かごいっぱいトンボを捕まえたり、従姉妹とテレビゲームで遊んだり、近くの海岸へ浜遊びに行ったり、美しい思い出ばかりの場所だが、思春期を迎えてからは足が遠ざかってしまった(慶弔の機会に何度か訪れてはいる)。    しかし年齢を重ねるにつれて、なぜか自分が生まれた場所に対する郷愁の思いは募っていく。もしかしたら、そこに自分のルーツとなる祭りがあるのかもしれない。そういえば母から、普代村には「鵜鳥(うのとり)神楽」という郷土芸能があることを何度か聞いていた。「自分探しの旅」というわけでもないが、神楽を見に2024年2月、普代村を再び訪れた。 明治三陸大津波を機に「三陸」の地域名が浸透    2月4日の夕方、久慈駅に着く。神楽が行われるのは午前帯なので、前日に前乗りする形となった。駅を出ると、バスロータリーを挟んで「駅前デパート」と呼ばれる老朽化の目立つビルがまず視界に入ってくる。外壁には“潮騒のメモリーズ”と書かれた朝ドラ『あまちゃん』の看板が掲げられている。劇中、久慈駅は「北三陸駅」という名称で登場しており、ドラマの第一話、母に連れられてやってきた主人公の「アキ」が降り立った場所でもある。 久慈駅前にある1965(昭和40)年竣工の「駅前デパート」。『あまちゃん』の劇中にも登場した看板が掲げられている(写真は2019年撮影時のもの) 駅周辺のいたるところに『あまちゃん』の案内板やシャッターアートなどが設置されている(写真は2019年撮影時のもの)    駅前デパートだけではない。駅周辺を散策すると『あまちゃん』関連の看板やら、観光案内板やらがいろいろと目に付く。ドラマの放映は2013(平成25)年のことだが、いまだ根強く愛される作品のようで、10年以上たっても三陸沿岸地域の強力な地域振興、または震災復興のシンボルとして君臨している。    久慈駅前のロータリーにたたずんでいると、停車した車の横で手を振る女性がいた。その顔を認め、急いで近寄って「ご無沙汰しています」と挨拶する。運転席から出てきた男性にも「どうもお願いします」と会釈をした。このご夫妻とは2年前に、東京で毎年開催されている「ふるさと普代会の集い」(上京した普代村の出身者同士で親睦を深める郷友会)で知り合った。 2023年の「ふるさと普代会の集い」の様子。学校の校歌を合唱している一幕    夫のSさんが普代村の出身者で、若くして上京され「ふるさと普代会」の運営にも長く関わっていたが、最近になってご夫婦で普代村にUターンして新生活をスタート。普代と東京をつなぐ架け橋となっている。今回も「鵜鳥神楽を見たい」という私の要望に応えていただき、車での移動から、神楽が公演される地域との交渉まで(後にも説明するが、通常、鵜鳥神楽はイベントや神社の例大祭以外では、地域の人のみしか観覧ができない)、いろいろと旅のコーディネートをしていただいた。本当に感謝に堪えない。    「さあ、乗って」というお言葉に甘えて、乗車する。車は勢いよく走り出し、市街地を抜けると東日本大震災からの復興を目的に整備された真新しい自動車専用道路「野田久慈道路」(2021年開通)に乗り、普代への道を一気に駆け抜けた。 「サケはドル箱」サケ漁で栄えた普代村    普代村は人口2,000人ほどの、岩手県北部海岸に位置する漁業や観光業を主産業とした町である。祖父母も、ともに漁業に従事しており、私が物心つく前に亡くなった祖父は漁師であったし、数年前に亡くなった祖母も、家で畑をやりながら、浜でウニの身を殻から取り出す作業を行っていた姿が、私の記憶の中にも残っている。 生まれて間もない私を抱える祖父(写真右)    生ウニと並んで、普代を代表する海の特産品に挙げられるのが、サケとイクラだ。普代村との接点として個人的に印象深かったのが、毎年秋頃に送られてくる、木製のケースにたっぷりと詰められた冷凍イクラだ。実家にいた頃は、解凍したばかりのイクラをスプーンでざっくりとすくって、ほかほかのご飯に乗せてかき込むのが本当に楽しみだった。    吉村健司・青山潤によると、江戸時代、普代村を治める盛岡藩の財政にとって、漁業生産は重要な位置を占めており、なかでもサケは他領移出を許された七品目のうちの一つでもあった。種々の記録からも、当時からサケはすでに三陸の名産品として認知されていたことがうかがい知れるという。またその年に初めて獲られたサケは「初鮭」として珍重され、藩を通じて江戸に献上、献上者には褒美として米一駄(約120kg)が与えられたそうだ。 普代駅前に設置されていた、魚を持ち上げる猫たちの像(2019)    戦後、普代村では漁港整備の進捗とともに、水産養殖業も盛んとなった。サケ漁は昭和末期から平成初期にかけて最盛期を迎え、1984(昭和59)年発行の『普代村史』(普代村)に掲載された普代村漁協太田部市場扱いのサケの漁獲量データは以下の通りになっている。 51年 149.7トン/48,327匹 52年 297.3トン/794,23匹 53年 523.5トン/14,1626匹 54年 1754.3トン/513,540匹 55年 1091.2トン/338,343匹 ※前者は漁獲量、後者は漁獲数    「普代村の場合、サケは普代村水産業のドル箱ともいい得るようになった」という、ちょっと露骨過ぎる普代村史の説明もあながち間違いではなかったようで、景気の良い時期にはサケ御殿とも呼べるような豪邸が建ったとか、村内を外車が走り回っていたとか、海上に大漁を告げる「富来旗(ふらいき)」という大漁旗がいつもはためいていたと、太田部漁港の近くに住む伯母も証言している。    鵜鳥神楽を理解する上で、漁業や漁民という要素は切っても切り離すことはできない。そこで次に、鵜鳥神楽の概要について大まかに解説してみたい。...

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 つくば科学万博を最後に35年間演じられなかった    2022年頃からだろうか。コロナ禍の休止を経て、ぽつぽつと復活を遂げる祭りが増えてきた。最初は規模を縮小して、段階的に従来通りの形に戻していくというケースをよく見かけた。2024年ともなると感染症に対する警戒心もだいぶ弱まり、「4年ぶり開催」「5年ぶり開催」というフレーズがニュース記事の見出しに踊った。「祭りは1年休止しただけでも再開は難しい」という話も聞いたことがあるので、そんな報道を見ると、よくぞ復活してくれたと感慨深い気持ちになる。    ところで、コロナ禍中、4年5年なんて年数ではきかないくらいのスケールで復活を遂げた祭り・民俗芸能がある。それが茨城県つくば市田倉に伝わる「田倉の三匹獅子」だ。この獅子舞、つくば市無形民俗文化財にも指定されていながら、2021年に再開するまで36年間も披露される機会がなかった。最後に舞ったのは1985年の国際科学技術博覧会、通称・つくば科学万博。つくば科学万博は「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、1985(昭和60)年3月17日から同年9月16日までの期間に開催され、日本を含む48ヵ国と37の国際機関が参加。来場者数は延べ2,033万4,727人を記録する、壮大な国際博覧会となった。これだけの晴れの舞台で演じていながら、休止となってしまった理由はなんなのか、疑問が残る。    そもそも、なぜこれほどの長い期間、休止することになったのか、そしてこのタイミングで復活することになった理由とは。次々と湧いてくる疑問を解決するために、田倉の三匹獅子を取材することにした。 三匹獅子とは、その名の通り三匹の獅子が登場する獅子舞    ところで「獅子舞」という言葉は聞いたことはあるが、「三匹獅子」については初耳だという人も多いのではないだろうか。私自身、祭りの世界に足を踏み入れるまで獅子舞といえば、お正月のショッピングモールなどでよく見るタイプの獅子舞のイメージぐらいしかなかった。実際には獅子舞にはさまざまなバリエーションがあるようで、例えば、本連載の第四回で取り上げた新十津川獅子神楽は、複数の人間が胴体に入る「ムカデ獅子」に分類されるし、変わったところでは虎を模した「虎舞」というものもある(本連載第一回、第二回参照)。    三匹獅子舞は、その名の通り三匹がひと組となって演じられる獅子舞で、一匹の獅子を一人の人間が担当することから「一頭立て獅子舞」とも呼ばれる。関東地方を中心に東北にかけても分布しており、私の出身地でもある千葉でもいくつかの場所で伝承されているようだが、子どもの頃に遭遇することはなく、大人になってからその存在を知って「そんな獅子舞があるのか」と驚いた。 埼玉県川越市の「石原のささら獅子舞」(2024) 東京都町田市の「矢部八幡宮獅子舞」(2023)    はじめて見たのは、福島県会津若松市で行われている「会津彼岸獅子」。まさにお彼岸の時期に披露される三匹獅子舞なのだが、きらびやかな衣装と躍動感あふれる獅子舞の動き、三匹のチームワークで織りなされるドラマティックな演目の数々に魅了され、以来、機会を見つけては、関東近郊の三匹獅子舞を見学しに行くようになった。 福島県会津若松市の「会津彼岸獅子」(2017) 川沿いの神社で行われるアットホームな村祭り    ネットでリサーチをしていると、田倉の獅子舞が茨城県つくば市上郷(かみごう)の「上郷フェスティバル」という地域イベントに出演するという情報を得た。上郷はつくば市の西部に位置し、北で田倉の集落と接している。イベント主催者や保存会の連絡先がわからず、事前に取材アポは取れなかったが、いつものように「まあ、行けばなんとかなるだろう」の精神で、現地に突撃することにした。    北千住駅からつくばエクスプレスに乗り研究学園駅で下車。バスに乗り換え、会場最寄りの「金村別雷(かなむらわけいかづち)神社入口」バス停で降りる。会場となる神社までは、徒歩で15分ほど。のどかな農村の風景を眺めながらゆっくりと歩を進めた。 当日、雨予報だったので、朝の段階ではやや曇り気味だった    金村別雷神社は利根川の支流である一級河川、小貝川のほとりに位置する神社である。地域の人には「雷神様」の名前で親しまれており、『豊里町小史』(つくば市は1987年に大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併して誕生した市)の解説によると、「御祭神の別来大神は天に昇って雷を支配し給う大猛雷神にあらせ」られ、「その荒魂は霹靂(へきれき)一声すさまじい威力を以て正邪を匡(ただ)し一切の悪事災難を消除する」とあるから、「雷様」という力強い名称に違わず、その霊験は相当なものであることがうかがい知れる。特に五穀豊穣を祈願する農業神として金村別雷神社は崇敬を集め、近郷近在の住民のみならず、関東一円にその信仰圏は広がったという。 金村別雷神社の鳥居    神社に到着して境内に足を踏み入れると早朝にもかかわらず、出店の設営準備をする人でにぎわいを見せていた。参道を進んでいくと神社の拝殿に突き当たり、そのかたわらに設けられた小さなステージでは、いままさにサウンドチェックが行われているところだった。いかにも正しく「村祭り」という雰囲気で、どこか心がなごむ。 さまざまな催しが行われるステージ    「三匹獅子保存会」の銘入りの半纏を着た方が何名かいたので、一人の方に取材をしたい旨を伝えると、それならばと保存会の会長さんを連れてきてくれ、獅子舞の公演後にお話を聞かせていただけることになった。    フェスティバル開始の午前10時前になると拝殿の前に祭り関係者たちが集まり、イベントの成功を祈願する祈祷が行われた。その後、ステージで主催者らによる挨拶があり、いよいよ田倉三匹獅子の出番となった。 フェスティバル前の祈祷の様子 悪魔を退治にしにやってきた三匹の獅子舞    神社の参道を通って白い半纏をまとった人々が入場してくる。梵天(ぼんてん)や錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる祭具を持った人が先頭に立ち、そのあとに獅子や、笛、幟(のぼり)を手にした人らが続く。道行き(獅子が入場すること)の間、会場には透き通るように美しく、そして哀愁を帯びた笛の音が絶え間なく響く。いい笛だなと思って聴き入っていると、ちょうど司会の女性から「この曲は、“とおり”といいます」という解説が入った。 参道を通って入場してくる田倉三匹獅子保存会の面々    ステージに三匹の獅子が並ぶと、演奏が止む。再び司会者の解説が始まり、まず田倉の三匹獅子の由来について説明が行われた。いわく、江戸時代前期、田倉の畑を荒らす獅子が現れ、周辺地域の領主である大塚豊後守(おおつかぶんごのかみ)が家来とともに退治に出かけた。大塚豊後守は見事獅子たちを捕え、これからは人々のために生きよと教えさとし、それから五穀豊穣や雨乞い、無病息災の祈りを込めて、地域住民が獅子舞を踊り、舞うようになったという。    続けて、これから披露される演目に関する解説も行われた。「ステージの中央に立てられている梵天を悪魔と見立てフェスティバルを邪魔する悪魔を退治に、獅子たちがやってきた」というストーリーは、まるでヒーローショーのようで面白い。 悪魔に見立てた梵天の横に立つ獅子...

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために始まった獅子舞    伝統的な祭りには、ほぼ必ず「由緒」というものが存在する。どれくらいの歴史があるのか、何のために始められたのか、その内容が立派であればあるほど、祭りの権威性や正当性も高まってくる。それゆえに、なかには神話めいた由緒というのも存在するが、一方で、おそらくほぼ何の脚色もなく、事実ベースでその来歴を伝える祭り・民俗芸能もある。その一つが、北海道樺戸郡新十津川町に伝わる「新十津川獅子神楽」だ。新十津川町のホームページには、次のような解説文が記載されている。 明治41年、日露戦争後の人心退廃の風潮を憂う富山県出身者たちが青年たちに健全な娯楽を授けるとともに、併せて村祭りにも寄与しようと獅子神楽の普及を計画し、獅子神楽会を設立。以来、玉置神社(現新十津川神社)の例大祭などで舞いを奉納し、近隣市町に例のない伝統と特色ある郷土芸能として名声を博しました。 (新十津川町役場ホームページより) 新十津川町(北海道)    これ以上ないほどの明確な理由をもってスタートした民俗芸能であることがわかる。より詳しい来歴に関しては、新十津川町獅子神楽保存会が1982(昭和57)年に発行した『獅子神楽七十五年 記念誌』に書かれており、そこには獅子舞を新十津川の町に最初に持ち込んだメンバーの名前まで記載されている。    それだけに、「なぜ、祭りが必要とされたのか」、このテーマを検討する上で、新十津川獅子神楽は格好の題材とも言えそうだ。「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために、富山県から移植された獅子舞が、120年近く経ったいま、どうなっているのか。その現場を見に、新十津川町に行ってみることにした。 大水害を機に北海道に大量入植した奈良県十津川村住民たち    内地に住む人間からの視点になってしまうが、北海道は開拓民たちによって拓かれた土地であることは多くの人に知られているところだと思う。では、移住者たちは本土のどういった地域からやってきたのだろうか。地理的に、北海道から近い東北からの移民が多いことは容易に想像できるが、北海道開拓の歴史を伝える施設「野外博物館 北海道開拓の村」ホームページによると、1882(明治15)年~1935(昭和10)年の移住戸数に関しては、1位青森県、2位秋田県に次ぎ、新潟県が3位につけている。以下、富山、石川、岩手、山形、福島、福井が上位を占め、北陸からの出身者も多いことがわかる。    北陸出身者の移住が多いことについては、さまざまな理由が考えられるだろうが、1963(昭和38)年に北海道史編集員を務めた篤志家の片山敬次は「地理的接近と、帆船時代に本道と内地間との交通が、夏季は濃霧、冬は風波の為太平洋岸の航路が開けず、松前との交通は殆んど日本海沿岸の諸港に限られ、従って北陸より商人漁夫等の出稼ぎが多く、自然本道との親しみが深い関係からであらう」と自著『北海道拓殖誌』の中で考察している。    では、新十津川町を開拓したのは誰であったのかというと、初期の開拓者は東北でも、北陸でもなく、その名の通り奈良県の十津川村出身者であった。 十津川村(奈良県)    十津川村というと、地理が好きな方なら名前を聞いたことがあるかもしれない。面積は672.38k㎡。「村」としては日本一の広さを誇る一方、紀伊山脈の只中にあることから、奥山の秘境といった様相を呈している。私も十年ほど前に十津川の盆踊りを体験しに現地を訪れたことがあるが、集落に至る道のりが崖っぷちの細道といった有様で、車が転げ落ちないかとヒヤヒヤしながら座席で硬直していた記憶がある。 山々に囲まれた奈良県十津川村武蔵地区。中央にあるのは盆踊りの櫓(2014)    外界から隔絶された土地ということもあり、十津川村の歩んできた歴史もまた独特である。壬申の乱の時代から朝廷に仕え、長らく「諸税勅免」(勅命によって税が免除されること)の地として優遇されてきた十津川村。豊臣秀吉時代、江戸幕府時代と、国の統治者が変わってもその特権は引き継がれた。また、古来より勤皇の意思が強いことから、明治維新前後には「十津川郷士(ごうし)」を輩出。後に郷士たちは、尊皇攘夷派浪士の一団である天誅組が幕府軍に壊滅させられた「天誅組の変」(1863年)にも関わった。    そんな「ご勅免の地」も、1873(明治6)年の地租改正によって「有租の地」となってから状況は一変。もとより山間部で平地が極めて少なく、農耕の成り立たない土地であった十津川村では、公共事業として杉檜の植栽事業を興そうとしたものの、その矢先となる1889(明治22)年8月に、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸という未曾有の大水害が発生。水田の50%、畑20%が流亡、山林被害も甚大な被害となり、生活の根幹も奪われたことから、600戸、2,489人が北海道に移住するに至り、1890(明治23)年には移住先となる「トック原野」(新十津川町役場ホームページによると、「トック」はアイヌ語で「凸起(物)・凸出(物)」の意)に、「新十津川村(1957年に新十津川町に改称)」が誕生した。 故郷との「死別」、開拓地に向かった人々の思い    新十津川獅子神楽が披露される「新十津川神社例大祭」は、毎年日付固定の9月4日に開催される。ネット上ではそれ以上の情報はないため、獅子神楽保存会の事務局となっている教育委員会事務局社会教育グループに電話で連絡を取り、ともかく9月4日の朝に新十津川神社に行けば、神輿の宮出しから祭りを見学できるという情報を得られた。いずれにせよ、東京から行くとなると現地への前乗りは必須らしい。 新千歳空港    3日の午後、成田国際空港から新千歳空港へ。そこから札幌駅を経由して、鈍行列車を乗り継ぎ、本日の目的地である滝川駅を目指す。滝川市は石狩川を挟んで新十津川町に隣接する都市。なぜ、新十津川町に直行しないのかというと、かつてあった札沼線の「新十津川駅」が2020(令和2)年に廃止となり(北海道医療大学~新十津川間)、札幌方面から鉄道で向かうルートが絶たれてしまったからだ。もしこの路線が生きていれば、よりスムーズに新十津川町に行けたはずで(もっとも末期には一日一発着のみで、最終列車が朝の9時台という状況だったようだが……)、いつかニュースで耳にした、北海道の鉄道路線が次々と廃止になっているという報道の現実を、今回の旅ではからずも実感することになった。 公園として整備されている新十津川駅跡地    新千歳空港の駅を発った時点ですでに夕刻となっていたので、滝川市に接近する頃には、車窓の向こうはすっかり闇となっていた。夜間、知らない土地を駆け抜ける鉄道旅というのは、なんとも心細い。寂しさから、ふと明治時代、陸の孤島と呼ばれる土地を出、汽車や船に揺られながら見果てぬ北海道を目指した十津川村の人々に心を寄せてみる。    資料を読むと、その様相はまず出立の状況からして壮絶だ。 いよいよ前夜、各自思い思いの出立祝いをなす。生別であり死別である。送別宴は歌う踊ると賑わう中にも、言いしれぬ異常の感に咽ぶは誰も同じ。自分は後にも家を残し、弟辰二郎も残って住むのでさまででもないが、家を失って移住する人々は感慨もいっそう深い。岡本の源七と辻の四平が佐古の家で、年寄りのことゆえこれが最後だから故郷への置土産にするとて踊ったのは、勇ましくもまた憐れであった。 (中略) いよいよ伯母子峠一、三四二メートル。住み慣れたふる里との別れである。生涯もう見ることはないかも知れぬ。後にきけばこの時の二百人の中に、誰か頂上で郷里に尻を向けて捲り、ピシャピシャ叩いてみせた夫人がいたとか。そうせずにはおれぬほど切ない別れだったのであろう。泣くよりも辛いおどけである。...

新たな担い手が受け継ぐ虫供養の伝統行事・高橋の虫送り(福島県会津美里町)【それでも祭りは続く】

新たな担い手が受け継ぐ虫供養の伝統行事・高橋の虫送り(福島県会津美里町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 田畑を荒らす虫を送り、五穀豊穣を祈願する行事    「虫送り」という行事をご存知だろうか。農薬や殺虫剤のない時代、田畑を荒らす害虫を集落から追い出し、五穀豊穣や無病息災を祈願する風習で、かつては全国各地で行われていた。開催される時期は主に春から夏にかけてで、形式は地域によって少しずつ異なるが、さまざまな資料を見ていくと、藁(わら)でできた人形や松明を手に持ち、笛や太鼓を鳴らしながら人々が行列となって田んぼの畦道などを練り歩くというのが基本形となるようだ。 江戸時代に著された『養蚕秘録』という本の挿絵として描かれた虫送りの様子 出典:『養蚕秘録 上』(国立国会図書館ウェブサイト)    また、地域によっては、歩きながら子どもたちが「虫送りの歌」を歌う。例えば、次のような歌だ。 こりゃ何の踊りじゃい/虫供養の踊りじゃい/村中の者が/観音様に願掛けて/田の虫を送るぞい/畑の虫も送るぞい(滋賀県高島郡マキノ町石庭) (滋賀県教育委員会『滋賀県の民謡』CDより) ナームショ/オクンドン/イネムショ/サキンナッテ/ヨロズノムショ/オクンドン(千葉県東金市) (東金市「東金市デジタル歴史館」より)    いずれも、わらべうたのような単純な旋律であり、歩きながら何度も唱えることに特化したような歌となっている。歌の印象からしてお遊戯的なものを想像するかもしれないが、先人たちは虫送りの効力を信じて、この行事に熱心に取り組んできた。例えば、明治期の農業技術者・古市与一郎(1828~1898)は、その著書『稲作改良法』で、害虫を天災とみなして「舊習」(きゅうしゅう:古くからの風習)である虫送りに頼る人間が多いあまり、人々が科学的な害虫駆除対策に一致団結して取り組めないことを嘆いている。    『稲作改良法』が出版されたのは明治28(1895)年。この時期、すでに学ある人の中では、虫送りが実用性の欠いた悪風であると捉えられていたという事実は興味深い。しかし庶民の間では少し様子が違ったようだ。1990年刊の新十津川町教育委員会 編『新十津川の昔話』によると、明治30(1897)年頃、北海道の新十津川村で、移民たちによって開墾された耕作地が夜盗虫という害虫の大量発生で全滅してしまう事件があった。新十津川住民たちはどうしたかというと、「虫送り」の実施を決定。松明を焚いて、石油缶をガンガン叩きながら、道の四辻にまじないの書かれた棒を立てて歩いたという。    少なくとも明治時代頃までは、庶民の間では虫送りの祈祷が、ただの願掛け以上の意味を持っていたことを示すエピソードだ。 千葉県袖ヶ浦市に伝わる虫送り「野田の虫送り」     多くの地域では虫送りの行事は廃れてしまっているが、いまも全国各地に伝統行事として残ってはいる。私も、関東近郊で3カ所ほど見学したことがあるが、特に印象に残っているのは、千葉県袖ケ浦市で毎年7月31日頃に実施されている「野田の虫送り」(袖ケ浦市指定無形民俗文化財)だ。虫送りがどのような行事かイメージしてもらうために、その様子を少し紹介したい。(2024年7月31日に見学)    虫送りは、地域の子どもたちが主体となるケースが多い。野田の虫送りもそうで、子どもたちがお札の入った神輿を担いで町内を練り歩く。この自然素材だけで作られた神輿が非常にユニークで、竹で作った骨組みにヒノキの枝葉を重ねて胴体とし(かつては杉の葉で作っていたと地元の方は語っておられた)、神輿のてっぺんには乾燥した竹の皮で作られた鳳凰が載せられる。鳳凰は稲穂をくわえており、さながら本物の神輿のようなビジュアルだ。しかし、葉っぱに覆われて見た目がふわふわしているので、どこかゆるキャラのようなかわいさがある。 神輿づくりは大人の仕事ということで、虫送りの当日や前日に制作される    神輿は地域の氏神である野田神社を出発し、集落の50軒ほどの家々を巡る。子どもたちが神輿を担ぐときの掛け声は「ワッショイ、ホーネン」だ。「虫を送るぞ」ではなく、豊作祈願の言葉を唱えているのが面白い。 神輿は軽トラで家の近くまで運ばれ、玄関までの数メートルは子どもたちが担いで歩く    神輿が家の前に着くと「ワー」という掛け声とともに、上下に激しく揉まれる。本来ならこの神輿を地面に落とすという工程が加わるのだが、神輿の損壊を危惧してかこの日は最後の1~2軒でのみでそれが行われた。地元の人に話によると、落とした時の音で虫を追い払うという意味があるらしい 神輿を上げ下げするタイミングを合わせるのが難しいようで、子どもたちも四苦八苦している    神輿を揉むと、家の人がおひねりとしていくらかお金を包んでくれる。このおひねりはあとで、子どもたち同士で分配するらしい。その分配方法も子どもたちにゆだねられているというので、やはり虫送りが子どもたち中心の行事であるということが実感させられる。 訪問した家の人からおひねりを受け取る子ども    野田の集落は田畑が広がる自然豊かな地域だが、耕作放棄されているのか、荒れた土地もチラホラと見かける。少し切ない気持ちで歩いていると、虫送りの行列が止まって、男性が畑の脇に注連(しめ)のついた細い竹を刺す。 虫送りについて調べると、田畑に札を立てるというのも、この行事の一つの典型らしい    すべての家を訪問し終わると、神輿は野田堰という場所まで運ばれる。何をするのか見守っていると、大人たちが神輿を持って石段を降りて行き、そのまま堰の中に神輿を放り投げてしまった。名残惜しむ間もなく「それじゃあお疲れ様でした」と、各自が車に乗って、そそくさとその場を去っていく。水面に裏返って浮かぶ神輿を、私はフェンス越しからしばらくぼんやりと眺めていた。 堰に投げ込まれた神輿 虫籠は、地域の個性が爆発する農村アート作品...

失われた海の記憶を求めて。元半農半漁の町に伝わる剣祭り(千葉県習志野市)【それでも祭りは続く】

失われた海の記憶を求めて。元半農半漁の町に伝わる剣祭り(千葉県習志野市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 災いが起きた時こそ祭りが求められた    2020(令和2)年、新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の祭りの多くが開催中止を余儀なくされた。その後、いくつかの地域は感染対策を施したり、規模を縮小したりしながら祭りを再開し、2024(令和6)年現在、各地のお祭りはすっかり従来のにぎわいを取り戻しているようにも見える。一方で、コロナ禍を機に祭りそのものが廃止となってしまった地域や、持続可能な形を模索して内容を大幅に変更した地域もあると聞く。その影響の全容は明らかになっていないが、パンデミックがこれからも「祭り」という文化の存続に深い影を落としたことは確かなようだ。    ところで、各地の祭りの由来について調べてみると、「疫病退散」を目的としてスタートした祭りというものは案外に多い。有名なところでは京都の「祇園祭」などがそうだ。そんな祇園祭もコロナの影響で、2020(令和2)年、2021(令和3)年と山鉾巡行が中止となった。疫病退散を祈願して実施される祭りが、疫病で中止となる。現代的な感覚からすると致し方ない判断と言えるが、かつて人々が本気で祭りや神事の呪力を信じた時代は、やはり疫病だからこそ祭りを実施しようという機運はあったようだ。    千葉県習志野市の鷺沼地区で行われている八剱(やつるぎ)神社の祭礼「剣」という祭りを知ったのは、ほんの数年前のことだ。祭りの由緒はよくわかっていないようだが、およそ300〜400年の歴史があると地元では伝えられており、かつユニークなのは、中断されてもなお、村を襲う災いを鎮めるために復活したという歴史をこの祭りが持っていることだ。習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』には次のように書かれている。 何度か中断しかけたこともあったようだが、災害などをきっかけに、復活することがしばしあったようだ。(中略)鷺沼在住の男性(大正11年生)によれば、戦後も、祭りを中断したところ腸チフスがはやったので、再び行うようになったことがあった。 (習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』より)    同書に掲載されている別の男性(大正4年生)の証言によれば、剣祭りが特に盛んになったのは1919(大正8)年に多数の死者を出した大嵐と、その後に流行したコレラがきっかけであるという。コレラではないが、1919年は世界的にスペイン風邪が流行した時期と重なる。また「大嵐」に関しては、1917(大正6)年に、気圧952ヘクトパスカル、最大風速43メートルが関東に直撃、暴風と高潮で東京湾沿岸部の町々に大きな被害をもたらした「大正6年の大津波」という災害が記録されているので、これを指すのではないかと思われる。    実は鷺沼は船橋市にある私の地元からそう遠くない距離にある町で、そういう意味でも興味の引く祭りであった。どのような催しなのか、実際に見学しに行ってみることにした。 町中を、剣を手に駆け巡り「悪事災難」を祓う    「剣」祭りは、鷺沼にある八剱神社の祭礼である。かつては毎年3月1日の日付固定で実施されていたようだが、現在は3月の第一土曜日の開催となっている。それ以上の詳しい情報は告知されていないのでわからない。そんな心許ない状態で、2023年3月4日、私は八剱神社の最寄りとなるバス停に降り立った。時間は正午を回った頃。ともかく、八剱神社の周辺をやみくもに歩いていると、住宅地の細い路地で白い半纏をまとった一団と出会った。「これだ」と直感したが、周囲に見物人の類は一人もいない。そういう祭りではないのかもしれない。 住宅街の中で遭遇した剣祭りの一団    ともあれ「本当にやっていた!」という喜びが勝り、勢いに任せて一人の男性に「見学してもいいですか」と聞いてみた。すると、「大丈夫ですよ」と色良い返事をいただけたので、お言葉に甘えて、カメラを手についていくことにした。    聞くと男性の名前は相原和幸さんといい、剣祭りを運営する氏子総代メンバーの一人であるという。ブログで祭りの情報を発信するなど、氏子総代の中でもスポークスマンのような立ち回りをされているようで、そのせいか私のような得体の知れない訪問者にも気をかけてくれて、剣祭りの概要や歴史を教えてくれる。    相原さんのお話を聞きながらしばらく同行していると、だんだんと剣祭りの大まかな内容が見えてくる。まず、「剣」という鉾(ほこ)のようなものを手にした「剣士」8名と、太鼓の台車を曳く人間、「御神酒」「御神米」の受けわたしを担当するメンバーがチームとなって動く。剣士は通常地域の中学生が務めるが、この年はコロナ禍の余波もあり子どもたちは呼ばず、剣祭りを主催する氏子総代、そしてヘルプで来ていた市の職員によって剣士は構成されていた。剣士の中でもリーダー格となる1名は「親剣」と呼ばれ、これも本来はOBの高校生などが担当して他のメンバーを率いることになっている。 白装束をまとって剣を携える剣士たち(左)    太鼓は寄せ太鼓の役目を果たし、住民たちに剣士たちの到着を告げる。家に到着して呼び鈴を鳴らすと、家の者がおひねりを手に出てくる。剣士は住民の頭上に剣をかざし、「悪事災難のがれるように」とまじないを唱える。続けて、後ろから来た人間が「御神酒、御神米」と言いながら、小袋に入ったお米と、紙パックのお酒をわたす。かつては一升瓶から直接お椀にお酒を注いでいたようだが、コロナ対策でこの方法に切り替えたらしい。御神酒、御神米を受け取った住民はおひねりをわたす。これでお祓いは終了である。 剣士たちの来訪を心待ちにする住民の姿    訪問する家は1日250戸近くにのぼり、数が多いのでメンバーが二手に分かれて行動することもある。不幸にあった家を避けるために、事前に訪問していいか各戸にアンケートをとっているそうだが、当日でも「うちに寄って欲しい」と声をかければ訪問してくれるそうだ。 おひねりを受け取るとともに、「御神酒」「御神米」をわたす    勝手知ったる土地でもあるためか、剣士たちの足取りは迷うことを知らず、ものすごいスピードで町の中を駆け巡っていく。とにかく剣士は「走り抜ける」ことが大事らしい。とはいえ1日がかりの大仕事なので、一気呵成にすべての家を訪問するわけではない。下宿、上宿、本郷、大堀込(オオボッコメ)という4つの地区に分けて、順番に巡っていき、一つの地区が終わるごとに休息をとる。かつては地域の有力者が「宿」として剣士たちを迎え入れ、満腹でその後歩けなくなるくらいご馳走をしたそうだが、運営体制の変化や、これもまたコロナ禍の影響によって、現在は一丁目にある根神社の社務所に休憩所を集約して、そこで飲み食いをするようにしている。 祭りの休憩所として利用されている根神社の社務所    また剣祭りの最中、村の境となる4つの箇所で「辻切り」も行われる。ちなみにこの儀式、2023年の訪問時には目にすることができず、2024年に剣祭りを再訪した際に、はじめて見ることができた。辻切りは「道切り」とも呼ばれ、村の中に災厄や疫病が入ってこないよう、集落の入り口となる場所(辻)を封印する風習のことである。辻に到着すると事前に立てていたお札の前で、神主が祝詞を奏上する。八剱神社には常駐の神主がいないため、隣町の谷津にある丹生(にう)神社の神主がこの任を担当する。祝詞が終わると、剣士たちが「えい」と言って剣を突き出し、辻切りを完了させる。自動車が高速で通り抜けていく音を背中で聞きながら、時代が1世紀ほど後退したような古式ゆかしい行事を見守るのは、なんともシュールな心持ちだ。...

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 阪神虎舞の拠点、神戸区長田区へ    「東日本大震災の記憶の風化に抵抗する」――そのような思いから、岩手県から兵庫県に移植された民俗芸能、虎舞。その継承団体である「阪神虎舞」が拠点とするのが、兵庫県神戸市長田区だ。三陸沿岸の漁師たちから厚く信仰され、震災以降は復興のシンボルともなった虎舞は、この新天地にどのように根付いていくのだろうか。長田区に足を運び、担い手たちに話を聞くことにした。(前編記事はこちら) 震災から復興した町に虎舞はやってきた 新長田駅の駅前    新長田駅前には、東京郊外のニュータウンのような風景が広がっていた。駅前は綺麗に整備されていて、見渡すと高層ビルや商業施設が視界に入ってくる。朝早い時間であったとはいえ、人通りはそこまで多くなく、静かで住みやすそうな町だな、という印象を受けた。 新長田駅周辺エリアは「新長田」と呼ばれ、多くの商店街がひしめいている    駅の南側に向かって歩みを進めていくと、高速道路を挟んでアーケード商店街の大きなサインが見えてくる。大正筋商店街。阪神虎舞が拠点とするNPO法人DANCE BOXの劇場は、この商店街の中にある。 大正筋商店街    長田を語る上で「震災」というキーワードは避けて通れない。この町は1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受け、その後、神戸市が主導となって大規模な再開発が行われたという歴史を持つ。神戸市のなかでも、特に長田区では多くの火災が発生。市内全体での火災被害のうち、面積にして約64%、棟数にして約68%、被害額にして約51%を占めた。また、区内にあった住宅のうち、58%が全壊・半壊の被害を受けたという。多くの商店が肩を並べる新長田駅前の商業エリアも、火災で壊滅的な状態となった。 震災当時の大正筋商店街(出典:神戸市「阪神・淡路大震災 1.17の記憶」)    長田区でも商業施設が集約していた新長田エリアでは震災後、行政の主導による大規模な再開発が進められた。長屋が軒を連ねる商店街は、まるで大型商業施設のような建物に再建され、一時は復興の象徴たる地区でもあった。しかし再建から年月が経ち、空き店舗の増加が目立つようになるなど、新たな問題も顕在化し、数年前からたびたびニュースで報道されるようになっている。     現在の大正筋商店街(2024年4月17日撮影)    商店街に入って3~4分ほど歩くと、右手に「db」と描かれた赤い看板が現れる。正面の建物に入りエレベーターで4階へ上がると、カラフルなポスターがいくつも目に飛び込んできた。 DANCE BOXの入口    「もともと、このテナントにはライブハウスが入っていたみたいですね」 NPO法人DANCE BOXの事務局長で、阪神虎舞の設立にも関わった文(あや)さんは、そのように話す。言われてみれば、ロビーにチケットを販売するカウンターのような構造物があり、いかにもそれらしい。    DANCE BOXはコンテンポラリーダンスを起点として、アーティストの育成事業や国際交流事業、地域における教育や福祉、街の活性化などの事業に関わる組織だ。阪神虎舞を企画した橋本裕之さん(連載第1回参照)との縁は、2011(平成23)年、長田区の長田神社で鵜鳥神楽を公演した際に、DANCE BOXが神社との交渉や、神楽メンバーの宿泊地の手配など、現地コーディネートの一切を担当したことに始まる。その仲介役となったのは、橋本さんとともに阪神虎舞を立ち上げた中川 眞さんだった。数年が経ち、阪神虎舞の拠点探しをはじめた橋本さんは、関西のさまざまな団体にアプローチをした末に、以前イベント開催に協力をしてもらったDANCE BOXに問い合わせてみることにした。    「DANCE BOXには劇場もあるし、多くのダンサーや俳優が出入りしていたので、ここに来れば、虎舞を踊ってくれる人もいるだろうと考えられたんでしょうね。もちろん私たちも鵜鳥神楽のことが強く印象に残っていましたし、民俗芸能とコンテンポラリーダンスが、そう遠いものではないという認識もありました。また虎舞という芸能を実際に見てみたいなという好奇心もありました」...

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 東北から関西に移植された民俗芸能    東日本大震災を機に、東北から遠く兵庫県神戸市にわたった民俗芸能があると聞いて興味を持った。その名は2018(平成30)年に結成された「阪神虎舞」。岩手県三陸沿岸地方に伝わる民俗芸能「虎舞」を、コンテンポラリーダンサーら有志が地元団体の指導のもと習得し、神戸市の新長田地区を拠点にさまざまな場で披露しているというのである。なぜ岩手の芸能が神戸市で? なぜダンサーが担い手に? いくつかのクエスチョンが頭に浮かぶ。その理由を知りたいと思い、神戸市へと向かった。 海の彼方から「虎」がやってきた    東京から夜行バスに乗り、およそ10時間。神戸三宮駅に到着した頃には、すっかりと夜が明け、駅前では通勤通学の人々がせわしなく往来する、東京と変わらない風景が広がっていた。神戸には十数年近く前に来たことがあるような記憶もあるが、個人的にはなじみの薄い場所だ。目当ての電車がわからず、5分ほど改札の前で右往左往したのち、ようやくそれらしい電車を見つけて乗りこんだ。    ここで、虎舞について少し予習をしておきたい。獅子舞は聞いたことがあるが、虎舞は「?」という人も多いのではないだろうか。虎舞の伝承地の一つである岩手県山田町の郷土誌『山田町史 上巻』では、次のように説明されている。 ”虎舞は風流獅子踊り系の一種といわれ虎頭から下がる布胴に二人の人が入って激しく踊る。(中略)大太鼓、小太鼓、笛、てん平金<ママ>の囃子に、若者連中の掛け声が入り威勢のいい踊りがくり広げられる。” (山田町教育委員会 編『山田町史 上巻』) 三陸沿岸地域における虎舞の発祥とも言われる、岩手県山田町の大沢虎舞(2015) 提供:橋本裕之    実は虎舞は全国各地に分布しており、1992年に刊行された佐藤敏彦  編著『全国虎舞考』によると、北は青森から、南は鹿児島まで継承団体が存在するという(刊行当時)。多少の例外はあるが、多くは太平洋沿岸地域に分布しているというのが大きな特徴で、虎舞が海に関係する芸能であろうということが想像できる。    また、三陸沿岸地域に伝わる虎舞には二系統が存在すると言われている。Webサイトの「いわての文化情報大辞典」(岩手県文化スポーツ部文化振興課 文化芸術担当)によると、岩手県県南部(釜石市以南)や宮城県など、旧仙台藩域に分布する虎舞は獅子舞が変化したものであると考えられており、悪魔祓いや火伏せを意図している場合が多いという。確かに、私が以前鑑賞したことのある岩手県大船渡市末崎町の門中組虎舞は、虎というよりは「獅子」の顔つきをしていた。 獅子舞から虎舞に変化したものとされる、岩手県大船渡市末崎町の門中組虎舞(2017)    ちなみに今回、取材する阪神虎舞は、岩手県大槌町の大槌城山虎舞から指導を受けている団体で、釜石市以北、旧盛岡藩域に伝わる系統の虎舞となる。 大槌城山虎舞。毎年9月に開催される「大槌まつり」や、「三陸大槌町郷土芸能 かがり火の舞」といったイベントで披露される 提供:大槌町観光交流協会    このように二系統の虎舞が三陸沿岸地域に伝わるわけだが、ルーツは違っても、海への信仰という点で両者は共通している。例えば、門中組虎舞の獅子頭には、虎舞と海を結びつける伝承がある。『大船渡市史 第4巻 (民俗編)』によれば、鎌倉時代、末崎町の泊里浜に、神輿・祭器・仏体などを載せた船が漂着した。村人たちははじめこれをいぶかしんだが、村に祭ることにした。数々の宝物の中には獅子頭もあった。これをもって獅子舞を奉納すれば、「悪魔退散・五穀豊饒・大漁」の霊験あらたかなるものありということで、「虎舞い」として今日まで受け継がれるようになったという。    また三陸沿岸地域の虎舞には、漁師が無事に帰ることを祈願する「航海安全」の信仰を持つものが多い。これは「虎は一日にして千里行って、千里帰る」という故事にちなんでいる。    いずれにしても、虎舞と海とは切っても切れない縁であるということがおわかりいただけるだろう。国文学者の佐藤 彰は論考「「虎舞」系譜考――静岡県南伊豆町小稲の事例をめぐって」の中で、万葉集の長歌の一節「居り居りて 物にい行くとは 韓国(からくに)の 虎といふ神を...