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松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<後編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 わずか350名の町民で支えている火祭の困難    祭りの担い手不足という継承課題を支援するため、石川県は2025(令和7)年にボランティア制度「祭りお助け隊」を開始した。前編では県の担当者に取材し、その意義を確認するとともに、実際に支援先となった「向田(こうだ)の火祭」(石川県七尾市・能登島)に参加して、ボランティア活動の様子と祭りの現場をレポートした。 石川県能登島向田    では、祭り主催者には「祭りお助け隊」という取り組みがどう受け止められたのか。後編では、ボランティアの取りまとめ役を務めた火祭実行委員・高橋俊朗さんにインタビュー。祭りお助け隊を導入した経緯について話を伺った。 火祭り実行委員 高橋俊朗さん    まず現在、向田の火祭が抱える継承課題について聞いてみた。    「七尾市には四大祭りと呼ばれる代表的な祭りが四つあります。青柏祭(せいはくさい)、石崎奉燈祭(いっさきほうとうまつり)、お熊甲祭(おくまかぶとまつり)、そして向田の火祭です。向田の火祭は、ほかの三つが複数の町会の連合で行われるのに対し、向田という一つの町だけで執り行われるのが特徴です。あの規模の祭りを、人口350人ほどの町民だけで支えなければいけない、そこが祭りを執行するうえでの難しい点ですね」 デカヤマと呼ばれる巨大な曳山が有名な「青柏祭」    七尾市の公表している人口集計表を見ると、2014(平成26)年1月の能登島向田町の人口は515人、2024(令和6)年1月は398人と、10年で20%近くもの人口減少が起きていることがわかる。この状況で同じような規模の祭りを維持しようとすると、町民一人一人の負担も当然に大きくなってくる。    「例えば、柱松明に使う柴は、住民が総出で集めます。各世帯のノルマは7束です。自分で用意できない家は、近所や親戚に頼んで用意してもらいます。松明起こしなどの重労働も住民が力を合わせて行いますが、どうしても人手を出せない場合は、出不足金を納めれば免除される仕組みもあります。ただ、近年は一人暮らしの高齢者が増え、労働力も資金も負担が難しい世帯が目立ってきています」    また、課題は労働力だけにとどまらない。たとえば、オオナワづくりに欠かせない稲わらの確保も大きな問題だ。現在、火祭で使う稲わらを提供しているのは高橋さんの父である。良質な稲わらを得るため、コンバインではなく手押しのバインダーで刈り取り、さらに「稲架(はさ)掛け」と呼ばれる昔ながらの方法で天日干しを行い、その後に脱穀。こうした手間のかかる工程を経て、稲わらが準備されている。誰でも気軽に引き受けられる仕事ではないからこそ、持続的な稲わら確保の方法も検討していく必要があるだろう。 稲わらの調達を引き受ける高橋さんの父。しかも稲わらは無償での提供だという 「人がいないから祭りはできない」は成り立たない    こういった課題を抱える中で、向田の火祭は震災の起こった2024年、祭りを続けるか否か、大きな岐路に立たされた。高橋さんの話によると、向田は他の地域と比べると比較的地震による被害は少なかったそうだが、やはり「いまは祭りをやっている場合ではない」という声も出てくるようになる。しかし高橋さんの中では、すでにコロナ禍で2年の休止を経験していることもあり、このタイミングでまた休止をしてしまっては、今後の再開はいっそう難しくなるのではという危惧があった。    「地震が起きた2ヵ月後、議決権を持っている51名の住民が集まって、火祭をするか否かという決をとったんです。結果、やりたいという人が27名、やるべきでないという人が24名。まさに紙一重で祭りの実施が決まりました」    この時、開催の方向を決定づけたのは、若い世代の意思だ。    「高校卒業から40歳までの男性が集まった“向田壮年団”という組織があるのですが、彼らが実質的な祭りの実行部隊になるんですね。そんな壮年団の士気が高く、“祭りをやりたい”という声が大きかったんです。ちょうど子育て世代でもあるので、やはり自分の子どもに祭りを見せたいという思いも強くて。壮年団がまとまれば祭りはできるので、彼らをサポートする壮年部(壮年団を卒業した41歳以上の男性が所属する組織)も、そこまで言うのなら我々も手伝おうか、ということになったんです」 柱松明づくりに精を出す壮年団の姿    現在、47歳の高橋さんも壮年部の一員であり、また町会の役員を務めるほか、火祭に関する「祭礼委員」にも関わり、祭りや地域を盛り上げるための、さまざまな取り組みを推進している。    具体策の一つとして、2024年から「応援金(義援金)」の募集を始めた。これまでは、地区内で商売を営む人々に壮年団が寄付をお願いして資金を賄ってきた。だが、地震の影響で商売が立ちゆかなくなり、寄付の確保が難しくなった。そこで、祭りの公式サイトなどを通じて広く応援金を呼びかける方針に切り替えたのである。 祭りの公式サイトに掲載された応援金募集の呼びかけ    また「地域の結束を強め、地縁というリソースを最大限に活用する」という目的で、2025年初頭から電子回覧板サービス「結ネット」を導入した。地域の各種情報をアプリで共有できる機能があり、祭りなどの行事案内もここで発信している。    「電子回覧板のいいところは、紙の回覧板ですと基本的にその家の世帯主しか見ることがないんですけど、アプリで見られるようになれば、子どもたちも情報をチェックできるようになるんですよね。さらには、能登島から離れて住んでいる人たちにも、地域の情報が届くようになる。それで、火祭の日は地元に帰ろうかなとか、現地には行けないけど応援金は出そうかなとか思ってもらえるかもしれないですし、地域行事に関わるきっかけにもつながるんです」    導入には他の役員から反対もあったが、説得を重ねて進めた結果、現在は約100世帯中80世帯が電子回覧板を受け入れるまで、浸透しているという。    そして、今回の祭りお助け隊の取り組みも、やはり高橋さんが中心となって話を進めている。    「今年の4月くらいから、(県職員の)若林さん(連載第15回参照)から祭りお助け隊の話は聞いていて、役員会で“こういう話があるんですけど、どうしますか?”と提案してみたんです。最初は祭りのボランティアというものにみんなアレルギーがあるんじゃないか、これはうちらの祭りだという意見が出るかなと思ったんですが、意外とすんなり話が通って、じゃあ誰が(ボランティアの)面倒を見るんだとなった時に、やるんだったら僕しかいないだろうということで、引き受けました」    では実際に、祭りお助け隊を受け入れて、どういう感想を持ったのだろうか。...

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

松明が照らし出す祭りの未来「能登島向田の火祭」<前編>(石川県七尾市能登島向田町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 能登半島を襲った地震と豪雨    「能登い能登いとヨ みなゆきよ ハー照るよ能登は いいよいかいな 住みヨーエよいかな」(滋賀県伊香郡木之本町)    岐阜県を中心に、長野、滋賀、奈良などの地域に石川県の能登地方について歌い込んだ盆踊り歌が、「能登」「輪島」「笠おどり」など、さまざまな名称で伝わっている。有名なところでいえば、富山県南砺市五箇山地方に伝わる「麦屋節」も、この系統の民謡である。    共通するのは、力強くも、どこか哀愁漂うメロディ。いつしかこの歌を通じて、能登への憧れのような気持ちが、私の中で醸成されていった。    「能登へ能登へと 木草もなびく 能登は木草の 本元だ」(長野県下伊那郡阿南町)    いつか能登を訪れたい、そう思い続けてきた。だが、2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震で、その願いは途切れた。地震は最大震度7を観測し、住家被害は全壊8千棟以上を含む約8万4千棟、避難者は最大で約3万4千人にのぼった。そして、多くの尊い命も失われた。 輪島市堀町における道路被害の状況 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/CC-BY-NC-SA-4.0/    さらに地震の傷も癒えない9月には、能登半島北部を記録的な豪雨が襲い、河川氾濫、浸水被害、土砂災害などが発生。追い打ちをかける形で、被災地への被害をさらに拡大させた。 被災によって4分の3の祭りが実施を断念    地震発生から数カ月が経つと、被災や復興の状況を報じるニュースに混じって、能登の祭りに関する報道も現れはじめた。特に多くの人の関心ごととなったのは、能登半島の各地で7月から9月にかけ開催される「キリコ祭り」の行方だ。    石川県観光戦略課のウェブページ「能登のキリコ祭り」に掲載された観光スペシャルガイド・藤平朝雄氏の解説によれば、キリコ祭りは江戸期に起源をもつ能登一円の灯籠神事で、毎年7〜10月に約200の祭りが行われる。キリコ(切子灯籠)は地域によって「奉燈(ホートー)」「お明かし」とも呼ばれ、神輿の足元を照らす御神燈として担がれたり、押し曳きされたりする。巨大なものは高さ約15m、重さ2〜4tに達する。灯明を「奉る」こと、その日のために精進して「待つ」ことを核に、年に一度、住民と来訪者が一体となって高揚する、まさに能登を象徴する祭りであるという。    祭りの開催には、費用も人手も、そして気力も要る。なかには津波でキリコが流失した地域もある。復興がまだ道半ばの状況で祭りを実施することは決して容易ではない。それでも祭りを待ち望む人はいる。    2024年(令和6年)7月、未曾有の大災害を受けて石川県が策定した「石川県創造的復興プラン」では、能登における祭りの意義について、次のような説明がなされている。 能登には、人々が心を激しく燃やし、地域が一つになる祭りがあります。(中略)能登の祭りは地域のアイデンティティであるとともに、子どもからお年寄りまで幅広い世代が参加することで、地域の結束を高める役割を担っています。祭りが近づくにつれ、道具の 準備や作法の確認、食事の用意など、老若男女問わず皆が忙しくなります。全体の指揮を青年団が執り、そのリーダーは、大人たちから頼られ、子どもたちが憧れる存在です。能登を離れても、祭りの時には地元に帰るという方がとても多く、毎年、年末年始やお盆ではなく、祭りの日に合わせて同窓会が開かれるほどです。(中略)能登の祭りには、地域に関わる全ての人々を魅了し一体にする、激しく燃えるエネルギーがあります。 (石川県「石川県創造的復興プラン」より)    この「創造的復興プラン」では、祭りが“能登らしさ”を体現する重要な柱として大きく位置づけられている。その象徴性ゆえに、震災のあった年は、3カ月続く「キリコ祭り」シーズンの口火を切る能登町・宇出津の「あばれ祭」(例年7月第1金曜日・土曜日開催)が開催できるのか否か、多くの人がその行方を注視することになった。 2024年度開催のあばれ祭 出典:令和6年能登半島地震アーカイブ(提供者:石川県)/ CC-BY-NC-SA-4.0/    過去の報道を追っていくと、2024(令和6)年5月のNHKによる報道で、あばれ祭が例年通り7月に開催されることが決まったと報じられている。地震によって道路や祭りの拠点となる神社の鳥居が壊れるなどし、また安全管理や費用面での問題で開催が危ぶまれたが、祭りの協議会が議論した結果、町の復興につながるという理由から開催が決定したという。    開催に向けて、鳥居の再建や、復興祈願花火大会の開催を目的にしたクラウドファンディングも実施された。祭りのボランティアも集まった。そのように全国へ支援の輪が広がる中で、無事にあばれ祭は開催に至った。しかし、あばれ祭のような幸運な事例もあるが、やはり多くの地域は祭りの開催を断念。被災地では実に4分の3の祭りが開催を見送ることになったという。...

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 水になった村「徳山村」    祭りは本来、地域社会の営みであり、その地域の人々だけで行われるのが一般的だ。しかし近年は担い手不足から、地域外の人が参加するケースも増えている。その1つの事例として、著者自身がここ数年「部外者」として参加している、とある地域の郷土芸能活動について紹介したい。その郷土芸能とは、岐阜県揖斐郡(いびぐん)の旧徳山村に伝わる盆踊り「徳山おどり」である。「旧」と付くのは、徳山村という自治体がダム建設によって消滅したためである。    徳山村は岐阜県の最西部、揖斐川流域に位置する集落である。この地に伝わる盆踊り歌に「東にひかえる馬坂(峠)、西は江州(現在の滋賀県)国ざかい、北は越前(福井県と石川県の一部)に連なりて、冠山をば境とし」(括弧内は筆者)と歌われるように、福井県と滋賀県に接し、四方を山々に囲まれた谷間の地であった。 現在、徳山ダムがある岐阜県揖斐郡揖斐川町 ダム湖に沈んだあとの徳山村全景 徳ダムの造成でできた人工湖の「徳山湖」    この地でのダム建設の構想は戦前からあり、水力発電所建設のための調査が断続的に行われていた。戦後の経済発展に伴い、人口の増加と、それに伴う都市用水や電力の確保が課題となり、日本各地で多くのダム建設が計画された。その一環として、1957年(昭和32年)、揖斐川は電源開発株式会社(1952年に制定された「電源開発促進法」に基づき設立された電力会社)の調査河川に指定された。    集落のほとんどが水没するという大規模なダム計画であることが公に明らかになると、当初住民は絶対反対を表明した。しかしその後、補償交渉など紆余曲折があって、ダム計画の正式発表から30年後の1987(昭和62)年に徳山村が閉村、隣接する藤橋村に合併。さらに20年の歳月を経て、2008(平成20)年に、ようやく「徳山ダム」が完成した。    50年という歳月は、あまりにも長い。「いずれ水に沈む村」と見なされた徳山には、ダム完成までの間に民俗学、考古学、生物学など、さまざまな分野の研究者がこの地を訪れ調査を行った。その結果、徳山村に関する本も数多く出版されている。もし徳山村が沈まなければ、これほどの記録が残されることも、この地域が広く世間に知られることもなかったかもしれない。そう考えると、これは皮肉な結果とも言える。 筆者がこれまでに収集した徳山村関連の資料    映像作品を通じて、在りし日の徳山村の姿を確認することもできる。代表的な作品は神山 征二郎監督による『ふるさと』(1983)だ。徳山村戸入地区出身の児童文学作家・平方浩介氏の作品『じいと山のコボたち』を原作とした映画で、徳山村を舞台とし、実際の撮影もダム湖に沈む前の徳山村で行われている。    また、徳山村が廃村となったあと、それでも村に留まって自給自足の生活を送る年寄りたちを取材したドキュメンタリー映画・大西暢夫監督『水になった村』(2007)も、村の人々の地域への深い愛が感じられる素晴らしい作品である。    世間一般的には、“カメラばあちゃん”こと、増山たづ子さんの存在を通じて、徳山村の存在を知った人も多いかもしれない。増山さんは徳山村戸入地区の出身で、この地で民宿を営んでいたが、ダムに沈む前の村の様子を記録しようと、コンパクトカメラで膨大な枚数の写真を撮影。残された写真は生前増山さんと交流のあった研究者・野部博子さんによって管理され、現在でも時折、写真展が開催されている。 2021年に東京都美術館で開催された企画展のメインビジュアルにも、増山たづ子さんが撮影した徳山村の写真が採用された 移転先に受け継がれた徳山おどり    さて、徳山村を離れた住人たちは、親戚などを頼りにまったくの別天地に移り住んだ者もいたが、約70%の人々は、ダム計画の事業主となる水資源開発機構の用意した徳山・文殊・表山・大溝・芝原(すべて本巣市・揖斐川町に存在)の団地に移り住んだ。ちなみに、ここでいう団地とは、一般的にイメージされるアパートやマンションのような集合住宅ではなく、戸建て住宅である。    徳山村といっても、その中には八つの集落があり、それぞれに独自の文化があった。移転先に受け継がれた行事や風習もある。その代表例が、本郷地区で正月に行われていた「元服式」である。現在の成人式にあたるもので、各家庭の子弟が15歳を迎えると、厳粛な儀式を通じて一人前の大人になったことを祝った。 徳山村の集落位置図    徳山村に伝わる盆踊り・徳山おどりもまた、移転先で継承された。集落によって多少の演目の違いや、踊り方の違いはあるものの、徳山の踊りに共通して見られる特徴としては、太鼓や三味線といった鳴り物が入らないこと、音頭取りの生歌で踊ること、踊りの種類が多いこと(全部で11種類)、などの点が挙げられる。徳山の人々はお盆に限らず、何かにつけて一年中踊っていたというし、小学校では必ず「ほっそれ」という踊りを習わされる、また村が解散する際の「お別れ会」でも盆踊りが踊られたということで、村の人々にとって、徳山おどりは生活に密着した、なくてはならない娯楽だったに違いない。 現在伝わる徳山おどりの曲目    それだけに、移転先の各団地でも盆踊り大会が企画され、徳山おどりが踊られたというのも「しかるべし」という話なのであるが、故郷を思い出す懐かしいその行事も、年月が経つと次第に下火になっていったという。その理由はいろいろと考えられるだろうが、地元の人から聞いた話だと、近隣住民から盆踊りに対して「うるさい」というクレームが入ることもあったらしい。    廃れゆく状況に歯止めをかけようと、徳山おどりにもほかの郷土芸能と同じように「保存会」が結成された(徳山踊り保存会)。正確な設立時期は不明だが、現在の保存会会長の小西順二郎さん(通称・じゅんじい)に見せていただいた結成当時のものという役員名簿には「平成12年」「平成13年」という数字が記されており、おそらく2000年前後の結成と考えられる。25年前と聞けば一昔前のように思えるが、郷土芸能の保存会としては比較的新しい団体であると言える。 徳山踊り保存会 会長の小西順二郎さん。徳山村の山手地区の出身    また、この役員名簿には会の「事業計画」も綴じられていた。その中には、「現在11種類の踊りがあるが、先ず理事の方々が代表的な徳山おどりを選び、統一した踊りを習得すること(同じ踊りでも地区毎に多少の違いがある)」「各地区とも踊りよりも先ず音頭とりに一番困っていることと思いますが、理事さん方の一考をお願いしたい処です(中略)音頭とりの育成方法について是非一考を」などの文言がある。当時の住民たちが徳山おどりの保存のため、継承の方法を真剣に模索していた様子がうかがえる。 ニュース記事をきっかけに交流がスタート    私が徳山おどりのことを知ったのは、そこからぐっと時代が下って2018年3月のことになる。当時の私は、盆踊りにハマって全国各地の盆踊りを探訪するようになり、なかでも岐阜県郡上市の郡上おどりや白鳥おどりに特別な魅力を見出していた。そんな中、ネットでたまたま「「ふるさと」の記憶つなぐ――...

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 火山の島に伝わる祭りと太鼓    2000(平成12)年。東京都の伊豆諸島南部に位置する三宅島で大規模な噴火が発生した。6月末の海底噴火からはじまり、7月には山頂陥没を伴う噴火が発生。噴火の規模は8月からさらに拡大し、8月18日には噴煙が高さ14,000mに到達。9月からは有害な火山ガス放出もはじまり、結果として約4,000人の島民が全島避難を余儀なくされた。避難指示が解除されたのは、2005年2月のこと。島民が再び島に戻るまでに、実に4年半もの歳月が流れていた。    噴火当時、私は中学3年生で、テレビで連日報道される噴火の経過をただ呆然と見守っていた。自然の力になすすべもなく故郷を追われる人々が味わったであろう無力感は、未熟な中学生の自分でも容易に想像することができる。地域の人はいつ帰島できるのか。何の約束もない永遠の別れがそこに横たわっているようで、深い絶望を感じた。    それから20年以上の歳月が経った2023年11月のこと、私はとある仕事の取材で、はじめて三宅島を訪れた。東京の調布飛行場から乗客定員19名の小型旅客機に乗り、わずか45分間のフライト。災害をテーマとした取材ではなかったため、正直に言えば、島に着くまで噴火のことは、ほとんど意識していなかった。しかし、撮影のために地元の方の運転するタクシーで島内を回るうちに、否応なく、あの未曾有の災害の爪痕を目の当たりにすることになった。 旅客機から見下ろす三宅島    溶岩によって焼かれた建物、泥流(火山灰や溶岩のかけらが水と混ざり合って谷を流れ下る現象)によって埋まった鳥居、島の施設に設置された小型脱硫装置(火山ガスに含まれる二酸化硫黄を除去するための機械)など、その島で見たさまざまな遺物や器具は、文字や数字よりも雄弁に2000年噴火の規模の大きさと、活火山とともにある生活のリアルを如実に物語っていた。動揺とともに、何かいたたまれないような気持ちに襲われた。    撮影をしている最中、運転手さんが三宅島に関するさまざまなことを教えてくれた。三宅島の歴史のこと、観光スポットのこと、そしてご自身の来歴。 「僕も全島避難の際は内地(島しょ地域からみた本土のこと)に住んでいました。ここだけの話、本当はずっと内地に住んでいたかったんですけど、長男なので実家を継ぐために島に戻ってきたんです」    2000年の噴火前、三宅島の人口は約3,800人近くあったが、長期避難は人口を大きく減少させ(2005年には1995年比で約36%減)、高齢化率を加速させた(1995年の24%から2005年には37%へ上昇)。つまり避難指示が解除された後も、島外にとどまった人は少なくなかった。被災後に若者の就労の場を確保できなかったことから、特に若年層の島外流出が顕著だった。2025(令和7)年5月31日時点で、三宅島の人口は2,165人。「昔は新島よりも人口が多かったんですけどね」と、男性は海を見ながら寂しそうに語る。    三宅島での滞在体験は、私の心に深く重い印象を残した。そして、この島についてもっと知りたいという気持ちが芽生えた。調べていくうちに、毎年7月に島の神着(かみつき)という地区で行われている「牛頭(ごず)天王祭」のことを知った。    読売新聞オンラインの記事(「三宅島の災害生き延びた太鼓、次世代へ…『木遣太鼓』の伝統受け継ぐ」2021年7月16日掲載)によれば、祭りで神輿の先導役を務める「木遣太鼓」は、東京都の無形民俗文化財に指定され、島の人々によって大切に受け継がれてきたという。全島避難の際には、島民たちが協力して太鼓を島外に運び出し、避難先でも、住民が集う場で演奏されることがあったそうだ。    未曾有の災害を経ても守られ続けてきた「木遣太鼓」とは、いったいどのようなものなのか。それを確かめるため、実際に祭りに参加してみることにした。 破壊的な自然現象に「神」を見た古代の人々    三宅島へは、調布飛行場から飛行機で向かう空路のほか、東京・竹芝埠頭から出る船便も利用できる。伊豆諸島行きの大型客船は夜に出発し、一晩かけて航行したのち、早朝5時に三宅島へ到着する。今回の旅では船便を利用して三宅島へと向かった。 三宅島・御蔵島を経由して八丈島に向かう大型客船の橘丸    祭りは朝から行われるとは聞いていたが、さすがに時間が早すぎるので少し島内を散策してみることにした。特に今回、足を運んで確認してきたいとおきたいと思ったのは、島の南西部に位置する「阿古(あこ)地区」の被災状況だ。    三宅島が噴火の災害に見舞われたのは2000年だけではない。島の中央に位置する「雄山(おやま)」は、有史以来いくども噴火現象を繰り返してきた。20世紀以降では、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年の4回。またそれ以前にも、1085(応徳2)年から1835年(天保6年)にかけて、13回の噴火が記録として残されている(池田信道『三宅島の歴史と民俗』)。噴火の多さから、「御焼島(おんやけのしま)」という名称から転じて「三宅島」になったのではないかという説すらある。    1983(昭和58)年の噴火は、人的被害もなく、全島避難までは至らしめなかったが、火口から流れ出した溶岩流は阿古地区の400棟を超える住家、そして集落の小学校や中学校を埋没させ・焼き尽くした。現在、溶岩流の流れた場所には遊歩道(火山体験遊歩道)が設置されていて、噴火の恐ろしさを体感できるようになっている。前回、島を訪れた際、道路の脇に朽ち果てた建物を見かけ、それが溶岩で焼けたものだと例のタクシー運転者の男性に教えられ、気になっていたのだ。 火山体験遊歩道から見た光景 溶岩流で焼けた建造物 写真に残るかつての阿古地区の姿    緑に包まれた山の裾野に、黒く無機質な溶岩原が広がっている。その風景に、思わず息を飲む。あとどれほどの年月が経てば、この地に再び緑が戻り、人々が居住できるようになるのだろうか。地殻変動による破壊と再生の繰り返しで、いま私たちが住むこの美しい世界が形成されている。そういった道理は理解できても、いざ「破壊」そのものを目の当たりにしてしまうと、ただただ途方に暮れてしまう。    古くから、人々は圧倒的な自然現象に神の存在を感じてきた。三宅島をはじめとした伊豆諸島でも同様に、火山の噴火や島の生成といった自然の営みに神の力「神威(しんい)」が見出され、「三嶋信仰(みしましんこう)」と呼ばれる信仰が発展してきた。三嶋信仰では、伊豆諸島の島々を生み出し、開拓した神として「三嶋大明神(みしまだいみょうじん、または三嶋神)」が崇敬されている。三嶋大明神は、日本神話に登場する事代主命(ことしろぬしのみこと)と同一視される神で、三宅島の阿古地区にある富賀山(とみがやま)の「富賀神社」には、この事代主命が三宅島に渡り、阿古の地に最初の拠点を築いて島を開いたという伝承が残されている。    現在の三宅島は、数万年にわたる火山活動の積み重ねによって形成されたとされている。火山と島の歴史は不可分であり、人と火山の関係もまた単純なものではない。ただ、これだけは言えるだろう。どうすることもできない自然の脅威にさらされながら、島の人々が神や、その神をもてなす神事や祭りに託してきた祈りや願いには、並々ならぬ思いが込められていたはずである。 海を目指す子どもたちの神輿    島内を巡回するバスに乗って、島の北側に位置する神着地区に向かう。バスを降りると、祭りの拠点となる御笏(おしゃく)神社には早朝8時ながら、すでに多くの人々が集まっていた。 神社に続々と詰め掛ける人々    「牛頭天王祭」は、伝承によると江戸時代末期、神着村の百姓、藤助、八三郎、又八の3名が伊勢参りの帰路に京都の八坂神社を詣で、祇園祭を見学。当時、神着では伝染病が流行っており、祇園祭が悪疫除けを目的としたことを知った3人が、帰島後、神着に牛頭天王社を勧請(地元の守り神として他の土地から神様を招いて祀ること)。これが牛頭天王祭のはじまりであるとされている。なお牛頭天王社はのちに、御笏神社に合祀(複数の神様を一つの神社にまとめてまつること)された。...

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 数珠が回り、獅子が舞う、異色の民俗芸能    タスキがけの男たちが代わるがわる滑車にかけられた長さ約9メートルという巨大な数珠(じゅず)に取りつき、力強く回し続けている。滑車から吐き出された数珠は天井に向かって勢いよく投げられ、蛇が波打つような曲線を描いた刹那、床の上で「ガシャガシャ」と大きな音を立てる。数珠は再び滑車に巻き取られていき、また力任せに引き寄せられる。それが何度も繰り返される。数珠回しの最中は、絶え間なく太鼓の音が響き、時折「南無阿弥陀仏……」と念仏の唱和も挟み込まれる。 男たちが大きな数珠を引き寄せ、勢いよく回し続ける    いま私が見学しているのは、神奈川県足柄上郡山北町に伝わる「世附(よづく)の百万遍念仏」という民俗芸能である。山北町向原の能安寺というお寺の道場を舞台に、毎年2月15日に近い土・日曜日に開催される。「百万遍念仏」というのは、全国各地に広まる「百万遍信仰」にもとづく行事で、その目的も、五穀豊穣、雨乞い、追善供養、虫送り、疫病退散など、地域によって多岐にわたる。    『民間念仏信仰の研究』(仏教大学民間念仏研究会 編)によれば、一言に百万遍念仏といっても大きく二つのタイプに大別され、一つは一人の人間が7日間ないし10日間かけて文字通り百万遍、念仏を唱えるというもの。もう一つは大勢の人間が車座に座って、巨大な数珠を繰りながら、念仏をみんなで唱和するというもの。多勢による念仏の総和をもって「百万遍」とするという、その合理的な発想に感心させられる。世附の百万遍念仏は後者のタイプに属するが、滑車を使って一人で数珠を回すという点で、他とは一線を画している。 百万遍念仏が行われる能安寺。お寺の背後には東名高速道路が走る    数珠回しが終わると、今度は「獅子舞」や「遊び神楽」といった余興的な演目が始まる。獅子舞にはいくつかの曲があり、笛と太鼓の伴奏とともに「剣の舞」「幣の舞」「狂いの舞」「姫の舞」などの舞が演じられる。舞の最中は太鼓と笛の演奏、そして時折歌が入るが、耳をすませていると「来いと呼ばれて行かりょか佐渡に」と民謡『佐渡おけさ』の文句が入ったり、「牛の角蜂がさした蜂の金玉蚊なめた」などユニークな歌詞が聞こえてきて面白い。 剣と鈴を持って舞う、剣の舞 二人1組で獅子を演じる、狂いの舞    「二上りの舞」「おかめの舞」「鳥さしの舞」はもっとユニークで、二上りの舞はひょっとこ面の恰幅のいい男性が滑稽な動きをしながら、お堂の中を所狭しと歩き回る。おかめの舞はまるっきり漫才で、舞とともにおかめ(女)とかんさん(男)の色っぽくて笑える問答が繰り広げられる。鳥さしの舞は、さまざまな芸能の題材となっている「曾我兄弟の仇討ち」をモチーフとした芝居仕立ての演目だが、鳥さし(鳥餅を用いて野鳥を捕まえる職業の人)役の男性の演技がとにかく色っぽく、驚いてしまった。そもそも太鼓や笛の演奏もきわめてレベルが高く、全員がかなりの修練を積んでこの行事に臨んでいることがうかがい知れる。 ひょっとこがコミカルに立ち回る、二上りの舞 リズムカルな歌やセリフに合わせて鳥さしが舞う    神楽が一通り演じられると、最後に「カガリ」が行われる。「カガリ」は儀式的な演目だ。道場の真ん中に太鼓を置いて、バチを手にした人々がそれを囲む。太鼓を叩きながら「融通念仏」という念仏を全員で唱和する。融通念仏は数え歌のようで、一番から始まり、十番で終わる。十番の歌詞に達すると、天井からたくさん吊るされた紙飾りが落ちてきて、参加者全員でそれを奪い合う。一種のトランス状態に陥って、その日の行事は終わる。 「カガリ」では太鼓を囲んで「融通念仏」を唱える    しかし、百万遍念仏の本当のエンディングはこれではない。山北町のホームページには、次のように書かれている。    戦前は百万遍念仏の翌日に獅子舞が幣束を持って、世附地域の全戸をお祓いをしながら周り、最後に幣束を永歳橋から流す「悪魔祓い」を行っていました。現在は向原の能安寺で念仏が行われているため、悪魔祓いは念仏の翌週に世附地域出身者の家々をまわり、幣束は大口橋から流されます。    この悪魔祓い(地元の人は「アクマッパライ」と呼ぶ)をもって、百万遍念仏は一区切りとなる。「現在は向原の能安寺〜で行われている」と書かれているのは、実はこの百万遍念仏が元々行われていた「世附」という集落はすでにこの世に存在しないからだ。1978(昭和53)年に竣工した山北町の山間部にある「三保(みほ)ダム」の建設によって、ダム湖(丹沢湖)に水没してしまったのだ。この「三保ダム」という名称は、かつてこの場所に存在した「三保」という地名に由来している。1909(明治42)年に、世附をはじめ、中川、玄倉(くろくら)の三村が合併して三保村が成立(1925年には神縄村の尾崎・田ノ入・ヲソノ地区も編入)。1955(昭和30)年のさらなる合併で三保村は廃止となり、山北町となった。    ダムの建設で、三保の住人たちの大半(223世帯)は山から降り、麓の地域に分散して移り住んだ。しかし、いまもなお百万遍念仏や悪魔祓いは、元世附住民の移転先で継承されている。水没から50年近く経ったいまも、出身地域に根ざした行事が行われているという事実には驚嘆せざるを得ない。彼らが祭りを続ける、その原動力とは一体なんなのだろうか。 川で結ばれた「ふるさと」と「新天地」    一週間後、悪魔祓いを見学するために、私は再び山北町に足を運んだ。場所は、住人たちの移転先の一つである「原耕地」地区だ。到着すると、笛や太鼓を持ってぞろぞろと歩く集団に遭遇する。獅子頭をかぶった者もいる。 JR「東山北」の駅から原耕地の集落を臨む 悪魔祓いをしながら集落を回る一団    一団は訪問先の家に着くと、まず案内役の人がインターホンを押して家人に到着を知らせる。続いて獅子頭を身につけた人が玄関の前に進み出て(家によっては家屋の中に入って)、幣束を手にしながら笛と太鼓に合わせて悪魔祓いの舞を行う。 軒先で舞う獅子 悪魔祓いの最中は、太鼓と笛の演奏が行われる    一連の流れが終わると足早にその場を離れ、次の家へと向かう。トータルで80戸近くの家を回るらしい。元世附住民の家は山北町のほか、中井町、開成町など、足柄上郡の各地域に点在する。なので悪魔祓いの当日は、車を利用しながら数チームに分かれて家々を訪問することになる。午前中には、丹沢湖の方にも行っていたそうだ。 百万遍念仏で際立った太鼓の腕を披露していた男性も、悪魔祓いに参加していた(写真右)...

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 徹夜で踊る山里の盆踊り 「昔は朝まで踊り明かしたもんだよ」    全国に盆踊り行脚を重ねていると、地元の人からそんな話をよく聞かされる。その昔は、むしろ徹夜で踊るのが盆踊りのデフォルトであったらしい。しかし、いまでも徹夜おどりを実施している「伝統的」な盆踊りを、私は4例しか知らない。その一つが、長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)地区に伝わる「新野の盆踊り」だ。開催時期は毎年8月の14日〜16日で、現在でも毎晩夜9時から翌朝6〜7時頃まで踊られている。    新野は長野県の南端、標高1000〜1100メートルの山々に囲まれた高原の盆地に位置する山間の集落だ。そんな奥山の山村に、昔ながらの形を残しながら朝まで踊られる盆踊りがあると聞けば、誰だって興味を抱かずにはいられないだろう。 冬の新野高原 提供:金原渚    私が初めて新野の盆踊りを体験したのは、2015(平成27)年の夏である。当時は盆踊りにハマってまだ間もない時期で、知的好奇心に突き動かされるまま、全国の面白そうな盆踊りに積極的に足を運んでいた。新野の盆踊りに惹かれたのは、「徹夜で踊る」という点に興味を引かれたからだ。実際に訪れてみると、それは非常に衝撃的で、忘れがたい体験となった。一度きりでは、この祭りのすべてを理解できたとは到底思えず、「一体、あれは何だったのだろうか」と考え、翌年も再び足を運んだ。いまでは、年に一度でも参加しないと気がすまないほど好きな盆踊りとなっている。 筆者が初めて新野の盆踊りに参加した際の写真。一晩中雨に降られた    10年通う中で、個人的に最も大きな「事件」だったのは、コロナ禍によって2020年(令和2年)と2021年(令和3年)の盆踊りが中止になったことだ。台風が来ても決行され、終戦の年ですら踊られたという新野の盆踊りが、止まった。一ファンである私にとっても大きな出来事だったが、地元の人々にとっては、さらに深い喪失感をともなうものだったに違いない。    ネガティブな話題だけではない。2022(令和4)年にはユネスコ無形文化遺産に「風流踊」の一つとして登録された。さらに2023(令和5)年には、4年ぶりに制限なし(前年の2022年はマスク着用、手指消毒、踊り中の2mの距離確保、また一部行事内容の変更など、さまざまな制限を設けた上で盆踊りが開催された)で盆踊りが開催されることになった。この祭りはこれからどこへ向かうことになるのか。私にとっては10年目の節目となるいま、新野の盆踊りの現在地を確認してみたいと思った。 音頭取りと踊り子の掛け合いで生まれる一体感    まず「新野の盆踊り」とはどのような盆踊りなのだろうか。地元では「500年の歴史がある」と伝えられているが、その存在が全国的に認知されるようになったのは大正時代になってからのことである。決して交通の便がいいとは言えない信州の山奥の村で盆踊りが盛大に開催されている。そんな話を耳にした民俗学者の柳田國男が、1926(大正15)年、舞踊研究家の小寺融吉とともに新野を訪れ、盆踊りを見学した。早速その体験談を「信州随筆」として東京朝日新聞に発表。古くからの形式を残す価値ある盆踊りとして評価したことで、新野の盆踊りは全国に知れ渡ることになった。 宿場町の面影が残る町並みの中で新野の盆踊りが行われる 撮影:金田誠    「信州随筆」の中で柳田が着目した点で、現代まで受け継がれている新野の盆踊りの特徴を挙げていこう。まず一つは、扇を盛んに用いて踊ること。新野には7種類の歌と踊りが伝えられていて、そのうち、「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」では扇を手に持ち、優雅に操って踊る。扇を使った盆踊りは全国的に見られるが、南信州や東三河地方では特にポピュラーな形態である。 扇を用いることで、踊りにしなやかさと優雅さが生まれる 撮影:金田誠    また、太鼓や三味線といった鳴り物がなく、音頭取り(盆踊りで歌を出す役目の人)の生歌だけで踊る点も大きな特徴だ。伴奏がないため、音頭取りと踊り手が調子を合わせる必要があり、自然と歌の「コール&レスポンス」が生まれる。たとえば、音頭取りの歌の合間に踊り手が「ソレッ」と掛け声をかけたり、七七七五の歌を音頭取りが歌った後に、踊り手が下の句(七五)だけを繰り返して歌ったり、こうした相互のやりとりによって、盆踊りの場がともに作り上げられていく。 ヤグラの上の音頭取りの歌に、踊り子たちがまた歌で返す 死者と共に踊り、生を思う    また、柳田が「佛法以前からの亡霊祭却の古式」だといって評したのが、踊り最終日の16日の晩から17日の明け方に行われる「踊り神送り」の神事だ。これは盆に迎えた新盆の精霊を、踊りながら送るという儀式である。    こまかい作法や行事の次第については、柳田の時代と多少の相違はあるようだが、大まかな形は変わらない。新盆の家から持ち寄られた「切子灯籠」という美しく装飾された灯籠を手に人々が行列をなし、市神様や御太子様といった場所で祈りを捧げたのち、最後は村の境に位置する場所で切子灯籠を焼却するというのが一連の流れだ。 新盆の家の数だけ切子灯籠が作られ、最終日の16日にはヤグラから吊るされる 切子灯籠には緻密で美しい装飾がほどこされている。すべて手作り 17日早朝、空が白んでくると、ヤグラから切子灯籠が下される    踊り神送りの神事で最も盛り上がるのが、切子灯籠を手にした行列と踊り子たちの輪が衝突する場面だ。御太子様から戻ってきた行列は、「ナンマイダンボ」と唱えながら、踊り会場を経由して、瑞光院というお寺まで向かう。 切子灯籠を持った行列が踊り会場に戻ってくる    一方で踊りの会場で待ち受けている踊り子たちは、「切子灯籠の列が通り過ぎたら踊りを終えなければならない」という決まりがあるため、肩を組んで踊りの輪を強固にし、行列の進行を阻止しようとする。踊りの輪が崩れると、すぐに先回りして新しい輪をつくり、再び阻止。切子灯籠を運ぶ人たちにとっては「いつになったら終わるんだ」と難儀なことかもしれないが、この攻防戦こそが、新野の盆踊りの醍醐味のひとつだ。踊りはこの時だけの特別な「能登」という威勢のいい踊りに変わり、踊り子たちのテンションも最高潮となる。 踊り子たちが肩を組んで、行列の進行を阻もうとする 撮影:金田誠 踊りの輪が崩れても、すぐさま新しい踊りの輪ができる    時間をかけて、ようやく行列が瑞光院の広場に到着すると、踊り子たちは観念したように静かとなり、厳かな雰囲気を持ったまま最後の儀式を見守る。運ばれてきた切子灯籠を一カ所に積み上げる。続いて袴姿の「御嶽行者」が現れ、切子灯籠の前で呪文を唱える。...

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 国生み神話の島「沼島」    瀬戸内海東部に位置する、兵庫県の淡路島。その南端から5kmほど離れた場所に、勾玉型の小さな島が存在する。「国生み神話」で知られる沼島(ぬしま)である。    「国生み神話」は、日本神話でイザナギとイザナミが日本列島を創造したとされる物語だ。高天原の神々に命じられた二柱は、天の浮橋から「天の沼矛」で海を“コヲロコヲロ”とかき混ぜ、その雫から最初の島「おのごろ島」(「おのころ島」とも表記)が生まれた。この島がどこかには諸説あるが、有力候補の一つが沼島である。実際、沼島の観光パンフレットにも「国生み神話の島」や「神々が創った最初の島」といったコピーが並び、神話ゆかりの地として広くPRされている。    日本神話に紐づく歴史ロマンを求めて当地を訪れる人は数多くいるのだろうが、私の今回の旅の目的はあくまで沼島の郷土芸能。この島に伝わる「沼島音頭」という独特の盆踊りについて話を聞くため兵庫県にやってきた。 数年越しに実現した沼島音頭の取材    前日は、淡路島の中腹に位置する洲本に宿泊。翌朝、日の出る前に起床してバスに乗車、沼島行きの船が出る土生港に着いたのは朝8時のことだった。船のチケットを買って乗船場に向かうと、係留された一隻の船が朝日に照らされてまばゆく光っていた。 淡路島と沼島を連絡する船    沼島と淡路島本島を結ぶ定期便。実はこの船に乗るのは、初めてではない。2017(平成29)年の夏にもまた、沼島に魅力的な盆踊りがあるとの噂を聞きつけて、この場所にやって来た。    沼島の盆踊りは確かにすばらしかった。島は南区、中区、北区、東区、泊区の5つの地区に分かれ、お盆の期間(13日〜16日、以前は17日まで行われていた)、それぞれの地域で日をずらして盆踊りが開催される。私は参加したのは南区の盆踊り。家屋がひしめく住区の中にぽっかりと広場があって、中央にはヤグラ(沼島では「音頭座」(おんどざ)と呼ばれる)が立っている。そこで番傘を手にした「音頭出し(おんどだし)」と呼ばれる歌い手が代わる代わる立ち、自慢の歌声を響かせる。 2017年、筆者が参加した南区での盆踊り 音頭出しは「兵庫口説」という盆踊り歌に合わせて歌う 踊りは回転動作が多く難しい。音頭座の下には太鼓打ちがいる 踊ったり、椅子に座って語らったり、盆踊りではゆるやかな時間が流れる    音頭に合わせて、人々が2時間も3時間もぶっ通しで踊り続ける(昔は朝方まで踊っていたらしい)。その光景に圧倒されると同時に、音頭そのもののすばらしさと、音頭座を囲む島民たちのあたたかな雰囲気に魅了された。帰宅してからも興奮は冷めやらず、「またいつか再訪したい」「沼島の盆踊りについて地元の人に話を聞いてみたい」と願うようになった。    その後、一度だけ島の人にアプローチをしてみたことがあった。しかし、思い立った時期がちょうどコロナ禍に突入したタイミングだっため、取材は実現に至らなかった。それでも「沼島音頭の魅力を伝えたい」という思いは変わらず、数年越しに、現地での体験をもとにしたレポート記事をブログに執筆した。それが2020(令和2)年のことだ。コロナ禍はしばらくおさまらず、沼島を再訪するという計画は自然と立ち消えてしまった。しかし、沼島音頭のことは忘れられず、いつも頭の片隅にあった。年に数回、思い出したかのようにYouTubeで動画を見返しては、「やっぱりいいなあ」と、その魅力をあらためて再確認していた。    そうやって数年が経過した2024(令和6)年9月のこと。沼島にある中学校、兵庫県南あわじ市立沼島中学校の主幹教諭を名乗る人物からメールが届いた。その内容というのも、沼島中学校のSDGsに関する取り組みを、「未来のシマ共創アワード」という賞に応募したいので、その際、沼島音頭(沼島で開催される盆踊りの名称)に関する情報源として、私が沼島音頭について書いた個人ブログ記事のURLを提出資料に記載してもいいかというご相談であった。    沼島音頭と中学校がどのように関係しているのか? その疑問はメールの文面をさらに読み進めると解き明かされる。    沼島は現在人口370名にまで減少しました。沼島中学校の生徒数も減少し、小規模特別認定校(筆者注:詳細は後述)として沼島以外の生徒も通うことができるようになりました。そのため、中学校で初めて沼島音頭と出会い、取り組む生徒がほとんどになりました。国生みの島で、100年後も音頭を知っている人を少しでも多くするために、沼島伝統文化保存会の皆さんが熱心に教えてくださり、敬老会や学習発表会で毎年披露しています。その方々の功績を広めたいです。    沼島が島外の中学生を受け入れ、さらにその子たちに沼島音頭を教えているということに驚く。まさかそのような取り組みが行われていたとは。メールの差出人である河野真也さんは、2024年度に赴任してきた沼島一年目の先生だという。相談事項に関してはもちろん承諾するとともに、せっかくの機会ということで、こちらからも取材の依頼を打診すると「もちろんです」と快く引き受けてもらえた。 「沼島千軒」と呼ばれた島の現在    島外出身の中学生は、多くが島に住むことなく、淡路島本島からスクールバスや船で学校に通っているという。そのため、沼島行きの船内もスポーツバッグを背負った若者たちであふれていて、着岸直後の港も、人口357人(令和7年3月末現在)の島とは思えないほど活気にあふれている。ちなみに、乗船時間はわずか10分。あっという間だ。 船を降り、足早に学校へ向かう中学生たち    港にはたくさんの船が停泊しているが、人気はほとんどない。漁はもっと朝早い時間に行われているのだろうか。あの賑やかしい中学生の一団が去ると、島は嘘のように静まり返る。    かつて沼島は「沼島千軒」と言われるほどに活気に満ちた島であった。その理由は、第一に地の利にある。小さな島ながら、その位置が紀州・鳴門・上方の海路の要衝にあり、上り下りの船が必ずこの島へ寄港するというほど、往来が盛んであった。また島の周辺や、紀伊水道(紀伊半島と四国に挟まれた海域)一帯は漁場としても恵まれており、タイ、ハモ、ハマチなど、さまざまな魚を豊富に獲得することができた。勢いづいた沼島の漁師は近海に飽き足らず「よそいき」と称して、熊野、阿波、日向、五島、対州(対馬のこと)まで進出したという。 港に停泊する漁船    文化・文政の時代(1803〜1830年)ともなると、近接する京都や大阪などの町が商業都市として繁栄を極め、沼島で獲れる高級魚が大量に消費されるようになる。その結果、島では多くの海産物商や廻船業者が生まれた。現・株式会社ニッスイの前身となる水産会社の「山神組」を輩出したのもこの沼島である。    現在、沼島の漁業は多くの課題に直面している。漁師の高齢化や減少、魚を育む地球環境の変化、燃料の高騰……。「兵庫県離島振興計画(令和5年度~14年度)」に掲載されている国勢調査のデータを参照すると、2010(平成22)年と2020(令和2)年の比較では、沼島の第1次産業従事者数は145人から98人へ減少している。...

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈後編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 東海北陸自動車道によってもたらされたる観光地間の競争激化    岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥町(しろとりちょう)。この町の商店街にまだ勢いがあり、白鳥おどりも最高潮に盛り上がっていた1970年代、一人の中学生が踊り子として会場を駆け回っていた。その子どもの名は、大坪正彦。後に、白鳥観光協会に入り、20年以上も祭りの裏方として白鳥おどりを支えることになる人物だ(2025年に引退)。ここからは、最盛期以降の白鳥おどりの変遷を現場から見守ってきた大坪さんの証言を補助線に、前編で触れた1980年代以降の白鳥おどりの変遷を追ってみたいと思う。    ちなみに個人的な話となってしまうが、大坪さんは、私が白鳥おどりに参加し始めた頃から親しくさせていただいている、いわば「恩人」のような人物でもある。東京でイベントを開催する際に、現地との調整役としていろいろと便宜を図ってくださったり、私が白鳥おどりについて知りたいことがあった時は貴重な資料を提供してくださったり、とにかく、ここでは書き尽くせないくらい、いろいろな面からお世話になったことは記しておきたい。 2019年に高田馬場で開催した白鳥おどりのイベント。ゲストに白鳥観光協会の大坪さんを招いた    まず、大坪さんが体験し、その目で見た白鳥おどりの最盛期とはどのようなものであったのだろうか。「当時(1970年代)は、踊りの輪がすごく大きかったですね」と大坪さんは回想する。「3つの商店会をまたいで開催していたくらいですから。駅前商店街の三叉路に屋台を置いて、北はごんぱちさんのところまで、東は濃飛タクシーさんのところぐらいまで行って。あまりにも輪が大きかったので、端っこと端っこで踊りがずれちゃっているんですよね(笑)。都会に出てた人たちが帰ってきて、本当にお盆の期間は町の人口がバーンと増える感じでした」 大坪正彦さん    大学進学後はしばらく地元を離れ、長らく白鳥おどりから遠ざかっていた大坪さん。ホテルやスキー、ゴルフなどレジャー系の職をいくつか経て、2001(平成13)年に白鳥観光協会に参加したが、そこでおよそ20年ぶりに目にした白鳥おどりの光景に衝撃を受けた。    「もう、自分が踊っていた頃と比べると、あんまりにも人が少なくて驚いたんです。屋台のまわりで踊っている人が、ほとんど保存会のメンバーという日もありましたからね(一般客が少ない)。やはり一番盛り上がっていた時期を知っているもんですから、自分の目が黒いうちに、これはなんとかしないと、と思いましたよね」    大坪さんが踊りの現場を離れているうちに、この町に何が起きたのか。まず観光業全般での話としては、町の主要な観光資源であったスキーが衰えた。    「スキーに関しては、越美南線に乗ってスキー客がやってくるという1回目のブームというのがまずあって、その時に村営の小さいスキー場みたいなのが町中にちょこちょこできたんですよね(1956年から、当時の国鉄によってスキー客のための臨時列車「奥美濃銀嶺号」が、シーズン中各週末に運行されていた)。その次にくらいに、観光バスやマイカーに乗ってスキー客がやって来る時代がきました。ちょうどその頃ぐらいですかね。白鳥町の北にある高鷲町の方に大きくて、設備も充実したスキー場がポンポンとできて、白鳥のスキーが衰退していったんです。リフトなんかも3〜4人乗れるようなゴンドラみたいなタイプなので混まないし、並ばず乗れる。一度便利さを体験しちゃうと、もう戻ってきませんよね。バブルの頃のスキーブーム?   確かにありましたけど、白鳥町への恩恵はそこまで大きくなかったんじゃないですか。テレビなんかで苗場のスキー場なんか見せられちゃうと、余計そっちに憧れちゃいますしね」 白鳥スキー場跡地(現・二日町延年の森公園)    2008(平成20)年に全線開通した東海北陸自動車道も、白鳥町の劣勢に拍車をかけたようである。東海北陸自動車道は、愛知県一宮市を起点に、岐阜県を経由して、富山県砺波(となみ)市に至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路である。1960年代に構想が立ち上がり、その沿線となる白鳥町でも大きな関心と期待が寄せられた。    「東海北陸自動車道などの開設によって、産業と観光の開発はいっそう脚光をあび、大きな伸張が展望される」(1977年刊『白鳥町史 下巻』) 「白鳥町発展のカギを握るものは東海北陸自動車道の問題」(1984年刊『わが町白鳥 : 郷土誌』) 「東海北陸自動車道をはじめとする、道路の整備によって、白鳥町が劇的に変わる可能性がある」(1991年刊『あすをひらく道 : 白鳥町合併35周年記念誌・町勢要覧1991』)    町の発展に寄与する道路として考えられたことから、完成に備え1966(昭和41)年から、町内のすべての道路の舗装と、川への架橋も進められてきた。    道路の整備は段階的に進められ、1997(平成9)年に郡上八幡IC-白鳥IC間が開通、1999(平成11)年には白鳥IC-高鷲IC間が開通となった。これによって地域に何がもたらされたのか。『岐阜県の冬季観光産業(スキー場)の実態調査報告』(2001)では、高鷲町を含む郡上郡北部に対しては「大型施設も加わり、中京圏・関西圏から長野方面に向かっていたスキーヤーも取り込み集客を増加させている」「さらに東海北陸自動車道の貫通がなれば、北陸圏をもマーケット 視野に入れようと計画している」と好ましい影響が報告されているのに対し、白鳥町を含む郡上郡南部には「白鳥IC開通までは、安定した集客を保ってきたが、高鷲ICの開設とともに集客を落としている。各スキー場共に高速道路のインターチェンジから遠いことがネックとなっている」というネガティブな評価が下されている。    数々の資料が、東海北陸自動車道が観光面で沿線エリア全体に何かしらの好影響を与えていることを示しているが、やはり道路の開設による観光地間の競争激化や、地域外への観光客流出といった負の影響も見逃すことはできない。    たとえば、合掌造り集落でおなじみの富山県の五箇山では、東海北陸自動車道全通後に、より規模の大きい白川郷の荻町集落に観光客が集中する傾向が強まり、また宿泊数も減少したことが報告されている(『東海北陸自動車道開通に伴う五箇山観光の変容』)。白鳥町においてもまた、期待ほどの観光誘致が図れていないようで、郡上市白鳥振興事務所『白鳥地域振興計画』(2021)には、2019(平成31)年の白鳥IC-飛騨清見ICの四車線化について触れつつ、「通過点となる恐れがあることから、目的地となるような観光イベント情報の提供が必要」と警戒感をつのらせた文章が記載されている。 五箇山の合掌造り集落    実際のところ、東海北陸自動車道が白鳥おどりの振興に繋がらなかったかというと、そうとも言いきれない。郡上市の発表している平成期の白鳥おどりの来客数を見ると、1995(平成7)年から1996(平成8)年にかけて一旦数は減少しているが(85,000→80,000人)、白鳥ICが設置された1997(平成9)年からは上昇に転じ、2004(平成16年)には平成期のピークとなる131,000人を記録。しかし、その後は下降線をたどり、10年後の2014(平成26)年には55,500人と、来客数はほぼ半減している。大坪さんは、次のように話す。    「白鳥おどりも、一時は郡上おどりに近いくらいの勢いを持った時代があったんですけど。おそらくですが、白鳥に関しては、多分時代の流れの中で来客数が増えていただけで、気づいたら、あれ?って(壊滅的な)状態になってしまっていたということだと思います。郡上おどりは比較的来客数をキープできているようなので、それ以上の努力をずっと続けてきたんでしょうね」...

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 朝4時まで徹夜で踊る盆踊り    2010年代のはじめ頃、盆踊りにハマった。それから全国各地の盆踊りに足を運ぶようになり、いつしか盆踊りに限らず、祭りや民俗行事全般に興味を持つようになった。そういう意味で、盆踊りこそが自分の祭り人生の原点と言えるのかもしれない。思い入れの深い盆踊りを尋ねられれば、いくつか思い浮かぶものがある。なかでも岐阜県郡上市白鳥(しろとり)町の盆踊り「白鳥おどり」は、私にとって特別な存在だ。7月から9月にかけて約20夜にわたり開催され、特にお盆の13〜15日は朝4時まで徹夜で踊り通すという、ぶっ飛んだ盆踊りである。 白鳥おどりの踊り屋台 写真:渡辺 葉 ハイテンションで踊る若者たち 写真:渡辺 葉 小さな子どもたちも踊りに熱狂 写真:渡辺 葉    私が初めて白鳥おどりを体験したのは2014年のことだ。現地に到着したのは深夜0時。大雨の中、エネルギッシュに踊る人々の姿を見た時の衝撃は忘れられない。以来、毎年参加するようになり、あまりにのめり込んで、関連するレコードや資料を収集したり、東京で白鳥おどりに関する体験イベントを開催したり、現地の関係者に取材をして記事を作ったりもした。挙げ句の果てには踊るに飽き足らず、白鳥おどりのお囃子を練習する会まで仲間たちと作ってしまった。 筆者が初めて白鳥おどりに参加した時の写真。深夜0時、土砂降りの雨の中、大勢の人が明け方まで踊っていた(2014)    そんな、私の偏愛する白鳥おどりも継承問題とは無縁ではない。特に近年、大きな問題となっているのが、祭りを支えてきた商店街の衰退だ。町の中心地となる越美南線「美濃白鳥駅」周辺には多くの商店が軒を並べる。この商店主たちが長らく白鳥おどりの運営を担ってきたが、お店の廃業、それに伴う発展会(商店街の組織、白鳥町の商店街は複数の発展会で構成されている)の解散、店主たちの高齢化によって、商店街が運営から離脱しつつあるという。 昼間でも静かな美濃白鳥駅前の商店街    長年白鳥おどりを見つめてきた地元の方々は、その最盛期を昭和50〜60年頃だと証言する。踊りの輪が何重にも形成され、町を人が埋め尽くした。もちろん商店にもずっと活気があった。いまも勢いのある祭りではあるが、昭和末期の最盛期と思しき写真を見ると、明らかに近年の踊り子の数は当時と比べ減少している。それはなぜか。 1985(昭和60)年の徹夜おどりの様子 出典:白鳥踊り保存会五十年史    歴史をたどっていくと、白鳥おどり隆盛の背景には、戦後の好景気によって力を増した町の商店街の存在があったことが見えてくる。そこでこの記事では、白鳥町の商店街繁栄の歴史を補助線としながら、白鳥おどりがいかに誕生し、発展していったのか、その経緯を明らかにしてみたいと思う。 白山信仰の拠点として発展してきた白鳥町    岐阜県中部、福井県の県境に接する白鳥町は、古くから白山信仰の拠点として栄えてきた。白山信仰とは、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2,702mの白山を崇拝の対象とする山岳信仰である。奈良時代に泰澄(たいちょう)という僧が白山に登り、山頂に奥宮を祀ったことで、白山信仰は修験道として体系化され、山伏たちの布教によって全国に広まった。    白山信仰が普及すると、「白山まいり」をする人々の道が整備されていく。白山に至る道は石川、福井、岐阜と三方から開かれていき、奥美濃から白山方面への道筋に位置する白鳥周辺も「美濃馬場(ばんば)」(馬場とは信者が修行する場所)としてにぎわいを見せることになった。 白山信仰の美濃方面における聖地の一つ、白山中居神社(白鳥町石徹白)。かつて信者たちはこの神社にお参りしてから、白山へと向かった    そんな白鳥も、明治から大正初期までは長良川の支流・上保川(かみのほがわ)沿いに点在する集落の一つに過ぎなかったという。しかし、越前街道・飛騨街道が交差する交通の要所でもあったことも起因し、次第に商業の中心地として発展を遂げていくことになった。    木材・繭・生糸・家畜などの農林産物を始め、食料その他の消費財の集散・通過の地点として周辺地域に広範な販路を持ち、周辺農家を中心とする消費需要の伸長と、交通機関の発達に伴って、次第に商取引の規模も大きくなってきた。 (白鳥町教育委員会 編『白鳥町史 下巻』より)    1909(明治42)年には白鳥に「商業組合」(『白鳥町史』では「商業会」)が結成され、現代に連なる近代的な商店街の原型がこの時期に出来上がったと見える。 明治中頃の本町通り 出典:写真に残った白鳥 我がふるさと    1928(昭和3)年、町制施行により上保町から白鳥町に改称。1933(昭和8)年には、町内に国鉄越美南線の「美濃白鳥駅」が開業した。駅前通りが新設された頃から店舗数が増加。1935(昭和10)年頃には、白鳥町の商家戸数は168戸(全戸数の16.8%)、商店人口は802名(18.0%)となった。この時代、白鳥町内には芸者を抱えた料理店まであったようで「夕方になると首を真白くした女衆が、白鳥稲荷神社へお詣りをしてにぎわった」という古老の証言が『白鳥町商工会二十年のあゆみ...

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「ルーツ」となる祭りを求めて    郷土芸能を追いかけていると、さて自分のルーツとなる祭りとはなんだろう?という疑問に思い至ることがある。自分が生まれ育った土地に根ざした祭りは何だろうか?と考えると、私の地元千葉県には数えの7年目ごとに開催される、周辺市町村をも巻き込んだ大規模な神輿祭りがあるのだが、地域の氏子が中心となる祭りなので、祖父の代から移り住んできた身としては、町内の祭りとはいえ、いつも内側というよりは、外側から鑑賞しているような他人事感があって、無邪気に“ルーツ”とまで呼んでいいか躊躇する部分がある。    ところで厳密にいうと私は、育ちは千葉だが、生まれは岩手だ。母の出身地が三陸地方沿岸の下閉伊郡普代村(しもへいぐんふだいむら)というところで、下閉伊郡と北で接する久慈市内の病院で生まれた。普代村は朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道沿線の漁村であり、昆布や鮭、ウニなどの海産物を特産品としてうたっている。子どもの頃は、毎年夏になると家族で帰省して、兄弟で虫かごいっぱいトンボを捕まえたり、従姉妹とテレビゲームで遊んだり、近くの海岸へ浜遊びに行ったり、美しい思い出ばかりの場所だが、思春期を迎えてからは足が遠ざかってしまった(慶弔の機会に何度か訪れてはいる)。    しかし年齢を重ねるにつれて、なぜか自分が生まれた場所に対する郷愁の思いは募っていく。もしかしたら、そこに自分のルーツとなる祭りがあるのかもしれない。そういえば母から、普代村には「鵜鳥(うのとり)神楽」という郷土芸能があることを何度か聞いていた。「自分探しの旅」というわけでもないが、神楽を見に2024年2月、普代村を再び訪れた。 明治三陸大津波を機に「三陸」の地域名が浸透    2月4日の夕方、久慈駅に着く。神楽が行われるのは午前帯なので、前日に前乗りする形となった。駅を出ると、バスロータリーを挟んで「駅前デパート」と呼ばれる老朽化の目立つビルがまず視界に入ってくる。外壁には“潮騒のメモリーズ”と書かれた朝ドラ『あまちゃん』の看板が掲げられている。劇中、久慈駅は「北三陸駅」という名称で登場しており、ドラマの第一話、母に連れられてやってきた主人公の「アキ」が降り立った場所でもある。 久慈駅前にある1965(昭和40)年竣工の「駅前デパート」。『あまちゃん』の劇中にも登場した看板が掲げられている(写真は2019年撮影時のもの) 駅周辺のいたるところに『あまちゃん』の案内板やシャッターアートなどが設置されている(写真は2019年撮影時のもの)    駅前デパートだけではない。駅周辺を散策すると『あまちゃん』関連の看板やら、観光案内板やらがいろいろと目に付く。ドラマの放映は2013(平成25)年のことだが、いまだ根強く愛される作品のようで、10年以上たっても三陸沿岸地域の強力な地域振興、または震災復興のシンボルとして君臨している。    久慈駅前のロータリーにたたずんでいると、停車した車の横で手を振る女性がいた。その顔を認め、急いで近寄って「ご無沙汰しています」と挨拶する。運転席から出てきた男性にも「どうもお願いします」と会釈をした。このご夫妻とは2年前に、東京で毎年開催されている「ふるさと普代会の集い」(上京した普代村の出身者同士で親睦を深める郷友会)で知り合った。 2023年の「ふるさと普代会の集い」の様子。学校の校歌を合唱している一幕    夫のSさんが普代村の出身者で、若くして上京され「ふるさと普代会」の運営にも長く関わっていたが、最近になってご夫婦で普代村にUターンして新生活をスタート。普代と東京をつなぐ架け橋となっている。今回も「鵜鳥神楽を見たい」という私の要望に応えていただき、車での移動から、神楽が公演される地域との交渉まで(後にも説明するが、通常、鵜鳥神楽はイベントや神社の例大祭以外では、地域の人のみしか観覧ができない)、いろいろと旅のコーディネートをしていただいた。本当に感謝に堪えない。    「さあ、乗って」というお言葉に甘えて、乗車する。車は勢いよく走り出し、市街地を抜けると東日本大震災からの復興を目的に整備された真新しい自動車専用道路「野田久慈道路」(2021年開通)に乗り、普代への道を一気に駆け抜けた。 「サケはドル箱」サケ漁で栄えた普代村    普代村は人口2,000人ほどの、岩手県北部海岸に位置する漁業や観光業を主産業とした町である。祖父母も、ともに漁業に従事しており、私が物心つく前に亡くなった祖父は漁師であったし、数年前に亡くなった祖母も、家で畑をやりながら、浜でウニの身を殻から取り出す作業を行っていた姿が、私の記憶の中にも残っている。 生まれて間もない私を抱える祖父(写真右)    生ウニと並んで、普代を代表する海の特産品に挙げられるのが、サケとイクラだ。普代村との接点として個人的に印象深かったのが、毎年秋頃に送られてくる、木製のケースにたっぷりと詰められた冷凍イクラだ。実家にいた頃は、解凍したばかりのイクラをスプーンでざっくりとすくって、ほかほかのご飯に乗せてかき込むのが本当に楽しみだった。    吉村健司・青山潤によると、江戸時代、普代村を治める盛岡藩の財政にとって、漁業生産は重要な位置を占めており、なかでもサケは他領移出を許された七品目のうちの一つでもあった。種々の記録からも、当時からサケはすでに三陸の名産品として認知されていたことがうかがい知れるという。またその年に初めて獲られたサケは「初鮭」として珍重され、藩を通じて江戸に献上、献上者には褒美として米一駄(約120kg)が与えられたそうだ。 普代駅前に設置されていた、魚を持ち上げる猫たちの像(2019)    戦後、普代村では漁港整備の進捗とともに、水産養殖業も盛んとなった。サケ漁は昭和末期から平成初期にかけて最盛期を迎え、1984(昭和59)年発行の『普代村史』(普代村)に掲載された普代村漁協太田部市場扱いのサケの漁獲量データは以下の通りになっている。 51年 149.7トン/48,327匹 52年 297.3トン/794,23匹 53年 523.5トン/14,1626匹 54年 1754.3トン/513,540匹 55年 1091.2トン/338,343匹 ※前者は漁獲量、後者は漁獲数    「普代村の場合、サケは普代村水産業のドル箱ともいい得るようになった」という、ちょっと露骨過ぎる普代村史の説明もあながち間違いではなかったようで、景気の良い時期にはサケ御殿とも呼べるような豪邸が建ったとか、村内を外車が走り回っていたとか、海上に大漁を告げる「富来旗(ふらいき)」という大漁旗がいつもはためいていたと、太田部漁港の近くに住む伯母も証言している。    鵜鳥神楽を理解する上で、漁業や漁民という要素は切っても切り離すことはできない。そこで次に、鵜鳥神楽の概要について大まかに解説してみたい。...

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 つくば科学万博を最後に35年間演じられなかった    2022年頃からだろうか。コロナ禍の休止を経て、ぽつぽつと復活を遂げる祭りが増えてきた。最初は規模を縮小して、段階的に従来通りの形に戻していくというケースをよく見かけた。2024年ともなると感染症に対する警戒心もだいぶ弱まり、「4年ぶり開催」「5年ぶり開催」というフレーズがニュース記事の見出しに踊った。「祭りは1年休止しただけでも再開は難しい」という話も聞いたことがあるので、そんな報道を見ると、よくぞ復活してくれたと感慨深い気持ちになる。    ところで、コロナ禍中、4年5年なんて年数ではきかないくらいのスケールで復活を遂げた祭り・民俗芸能がある。それが茨城県つくば市田倉に伝わる「田倉の三匹獅子」だ。この獅子舞、つくば市無形民俗文化財にも指定されていながら、2021年に再開するまで36年間も披露される機会がなかった。最後に舞ったのは1985年の国際科学技術博覧会、通称・つくば科学万博。つくば科学万博は「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、1985(昭和60)年3月17日から同年9月16日までの期間に開催され、日本を含む48ヵ国と37の国際機関が参加。来場者数は延べ2,033万4,727人を記録する、壮大な国際博覧会となった。これだけの晴れの舞台で演じていながら、休止となってしまった理由はなんなのか、疑問が残る。    そもそも、なぜこれほどの長い期間、休止することになったのか、そしてこのタイミングで復活することになった理由とは。次々と湧いてくる疑問を解決するために、田倉の三匹獅子を取材することにした。 三匹獅子とは、その名の通り三匹の獅子が登場する獅子舞    ところで「獅子舞」という言葉は聞いたことはあるが、「三匹獅子」については初耳だという人も多いのではないだろうか。私自身、祭りの世界に足を踏み入れるまで獅子舞といえば、お正月のショッピングモールなどでよく見るタイプの獅子舞のイメージぐらいしかなかった。実際には獅子舞にはさまざまなバリエーションがあるようで、例えば、本連載の第四回で取り上げた新十津川獅子神楽は、複数の人間が胴体に入る「ムカデ獅子」に分類されるし、変わったところでは虎を模した「虎舞」というものもある(本連載第一回、第二回参照)。    三匹獅子舞は、その名の通り三匹がひと組となって演じられる獅子舞で、一匹の獅子を一人の人間が担当することから「一頭立て獅子舞」とも呼ばれる。関東地方を中心に東北にかけても分布しており、私の出身地でもある千葉でもいくつかの場所で伝承されているようだが、子どもの頃に遭遇することはなく、大人になってからその存在を知って「そんな獅子舞があるのか」と驚いた。 埼玉県川越市の「石原のささら獅子舞」(2024) 東京都町田市の「矢部八幡宮獅子舞」(2023)    はじめて見たのは、福島県会津若松市で行われている「会津彼岸獅子」。まさにお彼岸の時期に披露される三匹獅子舞なのだが、きらびやかな衣装と躍動感あふれる獅子舞の動き、三匹のチームワークで織りなされるドラマティックな演目の数々に魅了され、以来、機会を見つけては、関東近郊の三匹獅子舞を見学しに行くようになった。 福島県会津若松市の「会津彼岸獅子」(2017) 川沿いの神社で行われるアットホームな村祭り    ネットでリサーチをしていると、田倉の獅子舞が茨城県つくば市上郷(かみごう)の「上郷フェスティバル」という地域イベントに出演するという情報を得た。上郷はつくば市の西部に位置し、北で田倉の集落と接している。イベント主催者や保存会の連絡先がわからず、事前に取材アポは取れなかったが、いつものように「まあ、行けばなんとかなるだろう」の精神で、現地に突撃することにした。    北千住駅からつくばエクスプレスに乗り研究学園駅で下車。バスに乗り換え、会場最寄りの「金村別雷(かなむらわけいかづち)神社入口」バス停で降りる。会場となる神社までは、徒歩で15分ほど。のどかな農村の風景を眺めながらゆっくりと歩を進めた。 当日、雨予報だったので、朝の段階ではやや曇り気味だった    金村別雷神社は利根川の支流である一級河川、小貝川のほとりに位置する神社である。地域の人には「雷神様」の名前で親しまれており、『豊里町小史』(つくば市は1987年に大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併して誕生した市)の解説によると、「御祭神の別来大神は天に昇って雷を支配し給う大猛雷神にあらせ」られ、「その荒魂は霹靂(へきれき)一声すさまじい威力を以て正邪を匡(ただ)し一切の悪事災難を消除する」とあるから、「雷様」という力強い名称に違わず、その霊験は相当なものであることがうかがい知れる。特に五穀豊穣を祈願する農業神として金村別雷神社は崇敬を集め、近郷近在の住民のみならず、関東一円にその信仰圏は広がったという。 金村別雷神社の鳥居    神社に到着して境内に足を踏み入れると早朝にもかかわらず、出店の設営準備をする人でにぎわいを見せていた。参道を進んでいくと神社の拝殿に突き当たり、そのかたわらに設けられた小さなステージでは、いままさにサウンドチェックが行われているところだった。いかにも正しく「村祭り」という雰囲気で、どこか心がなごむ。 さまざまな催しが行われるステージ    「三匹獅子保存会」の銘入りの半纏を着た方が何名かいたので、一人の方に取材をしたい旨を伝えると、それならばと保存会の会長さんを連れてきてくれ、獅子舞の公演後にお話を聞かせていただけることになった。    フェスティバル開始の午前10時前になると拝殿の前に祭り関係者たちが集まり、イベントの成功を祈願する祈祷が行われた。その後、ステージで主催者らによる挨拶があり、いよいよ田倉三匹獅子の出番となった。 フェスティバル前の祈祷の様子 悪魔を退治にしにやってきた三匹の獅子舞    神社の参道を通って白い半纏をまとった人々が入場してくる。梵天(ぼんてん)や錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる祭具を持った人が先頭に立ち、そのあとに獅子や、笛、幟(のぼり)を手にした人らが続く。道行き(獅子が入場すること)の間、会場には透き通るように美しく、そして哀愁を帯びた笛の音が絶え間なく響く。いい笛だなと思って聴き入っていると、ちょうど司会の女性から「この曲は、“とおり”といいます」という解説が入った。 参道を通って入場してくる田倉三匹獅子保存会の面々    ステージに三匹の獅子が並ぶと、演奏が止む。再び司会者の解説が始まり、まず田倉の三匹獅子の由来について説明が行われた。いわく、江戸時代前期、田倉の畑を荒らす獅子が現れ、周辺地域の領主である大塚豊後守(おおつかぶんごのかみ)が家来とともに退治に出かけた。大塚豊後守は見事獅子たちを捕え、これからは人々のために生きよと教えさとし、それから五穀豊穣や雨乞い、無病息災の祈りを込めて、地域住民が獅子舞を踊り、舞うようになったという。    続けて、これから披露される演目に関する解説も行われた。「ステージの中央に立てられている梵天を悪魔と見立てフェスティバルを邪魔する悪魔を退治に、獅子たちがやってきた」というストーリーは、まるでヒーローショーのようで面白い。 悪魔に見立てた梵天の横に立つ獅子...

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために始まった獅子舞    伝統的な祭りには、ほぼ必ず「由緒」というものが存在する。どれくらいの歴史があるのか、何のために始められたのか、その内容が立派であればあるほど、祭りの権威性や正当性も高まってくる。それゆえに、なかには神話めいた由緒というのも存在するが、一方で、おそらくほぼ何の脚色もなく、事実ベースでその来歴を伝える祭り・民俗芸能もある。その一つが、北海道樺戸郡新十津川町に伝わる「新十津川獅子神楽」だ。新十津川町のホームページには、次のような解説文が記載されている。 明治41年、日露戦争後の人心退廃の風潮を憂う富山県出身者たちが青年たちに健全な娯楽を授けるとともに、併せて村祭りにも寄与しようと獅子神楽の普及を計画し、獅子神楽会を設立。以来、玉置神社(現新十津川神社)の例大祭などで舞いを奉納し、近隣市町に例のない伝統と特色ある郷土芸能として名声を博しました。 (新十津川町役場ホームページより) 新十津川町(北海道)    これ以上ないほどの明確な理由をもってスタートした民俗芸能であることがわかる。より詳しい来歴に関しては、新十津川町獅子神楽保存会が1982(昭和57)年に発行した『獅子神楽七十五年 記念誌』に書かれており、そこには獅子舞を新十津川の町に最初に持ち込んだメンバーの名前まで記載されている。    それだけに、「なぜ、祭りが必要とされたのか」、このテーマを検討する上で、新十津川獅子神楽は格好の題材とも言えそうだ。「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために、富山県から移植された獅子舞が、120年近く経ったいま、どうなっているのか。その現場を見に、新十津川町に行ってみることにした。 大水害を機に北海道に大量入植した奈良県十津川村住民たち    内地に住む人間からの視点になってしまうが、北海道は開拓民たちによって拓かれた土地であることは多くの人に知られているところだと思う。では、移住者たちは本土のどういった地域からやってきたのだろうか。地理的に、北海道から近い東北からの移民が多いことは容易に想像できるが、北海道開拓の歴史を伝える施設「野外博物館 北海道開拓の村」ホームページによると、1882(明治15)年~1935(昭和10)年の移住戸数に関しては、1位青森県、2位秋田県に次ぎ、新潟県が3位につけている。以下、富山、石川、岩手、山形、福島、福井が上位を占め、北陸からの出身者も多いことがわかる。    北陸出身者の移住が多いことについては、さまざまな理由が考えられるだろうが、1963(昭和38)年に北海道史編集員を務めた篤志家の片山敬次は「地理的接近と、帆船時代に本道と内地間との交通が、夏季は濃霧、冬は風波の為太平洋岸の航路が開けず、松前との交通は殆んど日本海沿岸の諸港に限られ、従って北陸より商人漁夫等の出稼ぎが多く、自然本道との親しみが深い関係からであらう」と自著『北海道拓殖誌』の中で考察している。    では、新十津川町を開拓したのは誰であったのかというと、初期の開拓者は東北でも、北陸でもなく、その名の通り奈良県の十津川村出身者であった。 十津川村(奈良県)    十津川村というと、地理が好きな方なら名前を聞いたことがあるかもしれない。面積は672.38k㎡。「村」としては日本一の広さを誇る一方、紀伊山脈の只中にあることから、奥山の秘境といった様相を呈している。私も十年ほど前に十津川の盆踊りを体験しに現地を訪れたことがあるが、集落に至る道のりが崖っぷちの細道といった有様で、車が転げ落ちないかとヒヤヒヤしながら座席で硬直していた記憶がある。 山々に囲まれた奈良県十津川村武蔵地区。中央にあるのは盆踊りの櫓(2014)    外界から隔絶された土地ということもあり、十津川村の歩んできた歴史もまた独特である。壬申の乱の時代から朝廷に仕え、長らく「諸税勅免」(勅命によって税が免除されること)の地として優遇されてきた十津川村。豊臣秀吉時代、江戸幕府時代と、国の統治者が変わってもその特権は引き継がれた。また、古来より勤皇の意思が強いことから、明治維新前後には「十津川郷士(ごうし)」を輩出。後に郷士たちは、尊皇攘夷派浪士の一団である天誅組が幕府軍に壊滅させられた「天誅組の変」(1863年)にも関わった。    そんな「ご勅免の地」も、1873(明治6)年の地租改正によって「有租の地」となってから状況は一変。もとより山間部で平地が極めて少なく、農耕の成り立たない土地であった十津川村では、公共事業として杉檜の植栽事業を興そうとしたものの、その矢先となる1889(明治22)年8月に、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸という未曾有の大水害が発生。水田の50%、畑20%が流亡、山林被害も甚大な被害となり、生活の根幹も奪われたことから、600戸、2,489人が北海道に移住するに至り、1890(明治23)年には移住先となる「トック原野」(新十津川町役場ホームページによると、「トック」はアイヌ語で「凸起(物)・凸出(物)」の意)に、「新十津川村(1957年に新十津川町に改称)」が誕生した。 故郷との「死別」、開拓地に向かった人々の思い    新十津川獅子神楽が披露される「新十津川神社例大祭」は、毎年日付固定の9月4日に開催される。ネット上ではそれ以上の情報はないため、獅子神楽保存会の事務局となっている教育委員会事務局社会教育グループに電話で連絡を取り、ともかく9月4日の朝に新十津川神社に行けば、神輿の宮出しから祭りを見学できるという情報を得られた。いずれにせよ、東京から行くとなると現地への前乗りは必須らしい。 新千歳空港    3日の午後、成田国際空港から新千歳空港へ。そこから札幌駅を経由して、鈍行列車を乗り継ぎ、本日の目的地である滝川駅を目指す。滝川市は石狩川を挟んで新十津川町に隣接する都市。なぜ、新十津川町に直行しないのかというと、かつてあった札沼線の「新十津川駅」が2020(令和2)年に廃止となり(北海道医療大学~新十津川間)、札幌方面から鉄道で向かうルートが絶たれてしまったからだ。もしこの路線が生きていれば、よりスムーズに新十津川町に行けたはずで(もっとも末期には一日一発着のみで、最終列車が朝の9時台という状況だったようだが……)、いつかニュースで耳にした、北海道の鉄道路線が次々と廃止になっているという報道の現実を、今回の旅ではからずも実感することになった。 公園として整備されている新十津川駅跡地    新千歳空港の駅を発った時点ですでに夕刻となっていたので、滝川市に接近する頃には、車窓の向こうはすっかり闇となっていた。夜間、知らない土地を駆け抜ける鉄道旅というのは、なんとも心細い。寂しさから、ふと明治時代、陸の孤島と呼ばれる土地を出、汽車や船に揺られながら見果てぬ北海道を目指した十津川村の人々に心を寄せてみる。    資料を読むと、その様相はまず出立の状況からして壮絶だ。 いよいよ前夜、各自思い思いの出立祝いをなす。生別であり死別である。送別宴は歌う踊ると賑わう中にも、言いしれぬ異常の感に咽ぶは誰も同じ。自分は後にも家を残し、弟辰二郎も残って住むのでさまででもないが、家を失って移住する人々は感慨もいっそう深い。岡本の源七と辻の四平が佐古の家で、年寄りのことゆえこれが最後だから故郷への置土産にするとて踊ったのは、勇ましくもまた憐れであった。 (中略) いよいよ伯母子峠一、三四二メートル。住み慣れたふる里との別れである。生涯もう見ることはないかも知れぬ。後にきけばこの時の二百人の中に、誰か頂上で郷里に尻を向けて捲り、ピシャピシャ叩いてみせた夫人がいたとか。そうせずにはおれぬほど切ない別れだったのであろう。泣くよりも辛いおどけである。...