
生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 徹夜で踊る山里の盆踊り 「昔は朝まで踊り明かしたもんだよ」 全国に盆踊り行脚を重ねていると、地元の人からそんな話をよく聞かされる。その昔は、むしろ徹夜で踊るのが盆踊りのデフォルトであったらしい。しかし、いまでも徹夜おどりを実施している「伝統的」な盆踊りを、私は4例しか知らない。その一つが、長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)地区に伝わる「新野の盆踊り」だ。開催時期は毎年8月の14日〜16日で、現在でも毎晩夜9時から翌朝6〜7時頃まで踊られている。 新野は長野県の南端、標高1000〜1100メートルの山々に囲まれた高原の盆地に位置する山間の集落だ。そんな奥山の山村に、昔ながらの形を残しながら朝まで踊られる盆踊りがあると聞けば、誰だって興味を抱かずにはいられないだろう。 冬の新野高原 提供:金原渚 私が初めて新野の盆踊りを体験したのは、2015(平成27)年の夏である。当時は盆踊りにハマってまだ間もない時期で、知的好奇心に突き動かされるまま、全国の面白そうな盆踊りに積極的に足を運んでいた。新野の盆踊りに惹かれたのは、「徹夜で踊る」という点に興味を引かれたからだ。実際に訪れてみると、それは非常に衝撃的で、忘れがたい体験となった。一度きりでは、この祭りのすべてを理解できたとは到底思えず、「一体、あれは何だったのだろうか」と考え、翌年も再び足を運んだ。いまでは、年に一度でも参加しないと気がすまないほど好きな盆踊りとなっている。 筆者が初めて新野の盆踊りに参加した際の写真。一晩中雨に降られた 10年通う中で、個人的に最も大きな「事件」だったのは、コロナ禍によって2020年(令和2年)と2021年(令和3年)の盆踊りが中止になったことだ。台風が来ても決行され、終戦の年ですら踊られたという新野の盆踊りが、止まった。一ファンである私にとっても大きな出来事だったが、地元の人々にとっては、さらに深い喪失感をともなうものだったに違いない。 ネガティブな話題だけではない。2022(令和4)年にはユネスコ無形文化遺産に「風流踊」の一つとして登録された。さらに2023(令和5)年には、4年ぶりに制限なし(前年の2022年はマスク着用、手指消毒、踊り中の2mの距離確保、また一部行事内容の変更など、さまざまな制限を設けた上で盆踊りが開催された)で盆踊りが開催されることになった。この祭りはこれからどこへ向かうことになるのか。私にとっては10年目の節目となるいま、新野の盆踊りの現在地を確認してみたいと思った。 音頭取りと踊り子の掛け合いで生まれる一体感 まず「新野の盆踊り」とはどのような盆踊りなのだろうか。地元では「500年の歴史がある」と伝えられているが、その存在が全国的に認知されるようになったのは大正時代になってからのことである。決して交通の便がいいとは言えない信州の山奥の村で盆踊りが盛大に開催されている。そんな話を耳にした民俗学者の柳田國男が、1926(大正15)年、舞踊研究家の小寺融吉とともに新野を訪れ、盆踊りを見学した。早速その体験談を「信州随筆」として東京朝日新聞に発表。古くからの形式を残す価値ある盆踊りとして評価したことで、新野の盆踊りは全国に知れ渡ることになった。 宿場町の面影が残る町並みの中で新野の盆踊りが行われる 撮影:金田誠 「信州随筆」の中で柳田が着目した点で、現代まで受け継がれている新野の盆踊りの特徴を挙げていこう。まず一つは、扇を盛んに用いて踊ること。新野には7種類の歌と踊りが伝えられていて、そのうち、「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」では扇を手に持ち、優雅に操って踊る。扇を使った盆踊りは全国的に見られるが、南信州や東三河地方では特にポピュラーな形態である。 扇を用いることで、踊りにしなやかさと優雅さが生まれる 撮影:金田誠 また、太鼓や三味線といった鳴り物がなく、音頭取り(盆踊りで歌を出す役目の人)の生歌だけで踊る点も大きな特徴だ。伴奏がないため、音頭取りと踊り手が調子を合わせる必要があり、自然と歌の「コール&レスポンス」が生まれる。たとえば、音頭取りの歌の合間に踊り手が「ソレッ」と掛け声をかけたり、七七七五の歌を音頭取りが歌った後に、踊り手が下の句(七五)だけを繰り返して歌ったり、こうした相互のやりとりによって、盆踊りの場がともに作り上げられていく。 ヤグラの上の音頭取りの歌に、踊り子たちがまた歌で返す 死者と共に踊り、生を思う また、柳田が「佛法以前からの亡霊祭却の古式」だといって評したのが、踊り最終日の16日の晩から17日の明け方に行われる「踊り神送り」の神事だ。これは盆に迎えた新盆の精霊を、踊りながら送るという儀式である。 こまかい作法や行事の次第については、柳田の時代と多少の相違はあるようだが、大まかな形は変わらない。新盆の家から持ち寄られた「切子灯籠」という美しく装飾された灯籠を手に人々が行列をなし、市神様や御太子様といった場所で祈りを捧げたのち、最後は村の境に位置する場所で切子灯籠を焼却するというのが一連の流れだ。 新盆の家の数だけ切子灯籠が作られ、最終日の16日にはヤグラから吊るされる 切子灯籠には緻密で美しい装飾がほどこされている。すべて手作り 17日早朝、空が白んでくると、ヤグラから切子灯籠が下される 踊り神送りの神事で最も盛り上がるのが、切子灯籠を手にした行列と踊り子たちの輪が衝突する場面だ。御太子様から戻ってきた行列は、「ナンマイダンボ」と唱えながら、踊り会場を経由して、瑞光院というお寺まで向かう。 切子灯籠を持った行列が踊り会場に戻ってくる 一方で踊りの会場で待ち受けている踊り子たちは、「切子灯籠の列が通り過ぎたら踊りを終えなければならない」という決まりがあるため、肩を組んで踊りの輪を強固にし、行列の進行を阻止しようとする。踊りの輪が崩れると、すぐに先回りして新しい輪をつくり、再び阻止。切子灯籠を運ぶ人たちにとっては「いつになったら終わるんだ」と難儀なことかもしれないが、この攻防戦こそが、新野の盆踊りの醍醐味のひとつだ。踊りはこの時だけの特別な「能登」という威勢のいい踊りに変わり、踊り子たちのテンションも最高潮となる。 踊り子たちが肩を組んで、行列の進行を阻もうとする 撮影:金田誠 踊りの輪が崩れても、すぐさま新しい踊りの輪ができる 時間をかけて、ようやく行列が瑞光院の広場に到着すると、踊り子たちは観念したように静かとなり、厳かな雰囲気を持ったまま最後の儀式を見守る。運ばれてきた切子灯籠を一カ所に積み上げる。続いて袴姿の「御嶽行者」が現れ、切子灯籠の前で呪文を唱える。...