踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。

水になった村「徳山村」

   祭りは本来、地域社会の営みであり、その地域の人々だけで行われるのが一般的だ。しかし近年は担い手不足から、地域外の人が参加するケースも増えている。その1つの事例として、著者自身がここ数年「部外者」として参加している、とある地域の郷土芸能活動について紹介したい。その郷土芸能とは、岐阜県揖斐郡(いびぐん)の旧徳山村に伝わる盆踊り「徳山おどり」である。「旧」と付くのは、徳山村という自治体がダム建設によって消滅したためである。

   徳山村は岐阜県の最西部、揖斐川流域に位置する集落である。この地に伝わる盆踊り歌に「東にひかえる馬坂(峠)、西は江州(現在の滋賀県)国ざかい、北は越前(福井県と石川県の一部)に連なりて、冠山をば境とし」(括弧内は筆者)と歌われるように、福井県と滋賀県に接し、四方を山々に囲まれた谷間の地であった。

現在、徳山ダムがある岐阜県揖斐郡揖斐川町
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ダム湖に沈んだあとの徳山村全景
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徳ダムの造成でできた人工湖の「徳山湖」

   この地でのダム建設の構想は戦前からあり、水力発電所建設のための調査が断続的に行われていた。戦後の経済発展に伴い、人口の増加と、それに伴う都市用水や電力の確保が課題となり、日本各地で多くのダム建設が計画された。その一環として、1957年(昭和32年)、揖斐川は電源開発株式会社(1952年に制定された「電源開発促進法」に基づき設立された電力会社)の調査河川に指定された。

   集落のほとんどが水没するという大規模なダム計画であることが公に明らかになると、当初住民は絶対反対を表明した。しかしその後、補償交渉など紆余曲折があって、ダム計画の正式発表から30年後の1987(昭和62)年に徳山村が閉村、隣接する藤橋村に合併。さらに20年の歳月を経て、2008(平成20)年に、ようやく「徳山ダム」が完成した。

   50年という歳月は、あまりにも長い。「いずれ水に沈む村」と見なされた徳山には、ダム完成までの間に民俗学、考古学、生物学など、さまざまな分野の研究者がこの地を訪れ調査を行った。その結果、徳山村に関する本も数多く出版されている。もし徳山村が沈まなければ、これほどの記録が残されることも、この地域が広く世間に知られることもなかったかもしれない。そう考えると、これは皮肉な結果とも言える。

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筆者がこれまでに収集した徳山村関連の資料

   映像作品を通じて、在りし日の徳山村の姿を確認することもできる。代表的な作品は神山 征二郎監督による『ふるさと』(1983)だ。徳山村戸入地区出身の児童文学作家・平方浩介氏の作品『じいと山のコボたち』を原作とした映画で、徳山村を舞台とし、実際の撮影もダム湖に沈む前の徳山村で行われている。

   また、徳山村が廃村となったあと、それでも村に留まって自給自足の生活を送る年寄りたちを取材したドキュメンタリー映画・大西暢夫監督『水になった村』(2007)も、村の人々の地域への深い愛が感じられる素晴らしい作品である。

   世間一般的には、“カメラばあちゃん”こと、増山たづ子さんの存在を通じて、徳山村の存在を知った人も多いかもしれない。増山さんは徳山村戸入地区の出身で、この地で民宿を営んでいたが、ダムに沈む前の村の様子を記録しようと、コンパクトカメラで膨大な枚数の写真を撮影。残された写真は生前増山さんと交流のあった研究者・野部博子さんによって管理され、現在でも時折、写真展が開催されている。

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2021年に東京都美術館で開催された企画展のメインビジュアルにも、増山たづ子さんが撮影した徳山村の写真が採用された

移転先に受け継がれた徳山おどり

   さて、徳山村を離れた住人たちは、親戚などを頼りにまったくの別天地に移り住んだ者もいたが、約70%の人々は、ダム計画の事業主となる水資源開発機構の用意した徳山・文殊・表山・大溝・芝原(すべて本巣市・揖斐川町に存在)の団地に移り住んだ。ちなみに、ここでいう団地とは、一般的にイメージされるアパートやマンションのような集合住宅ではなく、戸建て住宅である。

   徳山村といっても、その中には八つの集落があり、それぞれに独自の文化があった。移転先に受け継がれた行事や風習もある。その代表例が、本郷地区で正月に行われていた「元服式」である。現在の成人式にあたるもので、各家庭の子弟が15歳を迎えると、厳粛な儀式を通じて一人前の大人になったことを祝った。

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徳山村の集落位置図

   徳山村に伝わる盆踊り・徳山おどりもまた、移転先で継承された。集落によって多少の演目の違いや、踊り方の違いはあるものの、徳山の踊りに共通して見られる特徴としては、太鼓や三味線といった鳴り物が入らないこと、音頭取りの生歌で踊ること、踊りの種類が多いこと(全部で11種類)、などの点が挙げられる。徳山の人々はお盆に限らず、何かにつけて一年中踊っていたというし、小学校では必ず「ほっそれ」という踊りを習わされる、また村が解散する際の「お別れ会」でも盆踊りが踊られたということで、村の人々にとって、徳山おどりは生活に密着した、なくてはならない娯楽だったに違いない。

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現在伝わる徳山おどりの曲目

   それだけに、移転先の各団地でも盆踊り大会が企画され、徳山おどりが踊られたというのも「しかるべし」という話なのであるが、故郷を思い出す懐かしいその行事も、年月が経つと次第に下火になっていったという。その理由はいろいろと考えられるだろうが、地元の人から聞いた話だと、近隣住民から盆踊りに対して「うるさい」というクレームが入ることもあったらしい。

   廃れゆく状況に歯止めをかけようと、徳山おどりにもほかの郷土芸能と同じように「保存会」が結成された(徳山踊り保存会)。正確な設立時期は不明だが、現在の保存会会長の小西順二郎さん(通称・じゅんじい)に見せていただいた結成当時のものという役員名簿には「平成12年」「平成13年」という数字が記されており、おそらく2000年前後の結成と考えられる。25年前と聞けば一昔前のように思えるが、郷土芸能の保存会としては比較的新しい団体であると言える。

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徳山踊り保存会 会長の小西順二郎さん。徳山村の山手地区の出身

   また、この役員名簿には会の「事業計画」も綴じられていた。その中には、「現在11種類の踊りがあるが、先ず理事の方々が代表的な徳山おどりを選び、統一した踊りを習得すること(同じ踊りでも地区毎に多少の違いがある)」「各地区とも踊りよりも先ず音頭とりに一番困っていることと思いますが、理事さん方の一考をお願いしたい処です(中略)音頭とりの育成方法について是非一考を」などの文言がある。当時の住民たちが徳山おどりの保存のため、継承の方法を真剣に模索していた様子がうかがえる。

ニュース記事をきっかけに交流がスタート

   私が徳山おどりのことを知ったのは、そこからぐっと時代が下って2018年3月のことになる。当時の私は、盆踊りにハマって全国各地の盆踊りを探訪するようになり、なかでも岐阜県郡上市の郡上おどりや白鳥おどりに特別な魅力を見出していた。そんな中、ネットでたまたま「「ふるさと」の記憶つなぐ―― 日本一のダムに沈んだ村で」という記事を見かけた。徳山ダムが完成して10年、旧村民たちにインタビューをしてその心情を聞く、という趣旨の記事であった。

   当時、徳山という村も徳山ダムのこともまったく知らなかったが、記事の中で現会長の小西順二郎さんが、高齢化により踊りの会が縮小し、徳山おどりを知らない若者も増えている現状を訴えていることが目に留まった。手を差し伸べたいという気持ちではなく、純粋に「岐阜にそんな踊りがあるのなら体験してみたい」という好奇心が動いた。

   幸運なことに、同じ記事を見て興味を持った踊り仲間の一人が、たまたま記事を書いた記者と知り合いであった。そこで記者を通じて徳山おどり保存会の会長を紹介してもらい、2018年5月に本巣市と揖斐川町を訪問。毎月団地の集会場で開催されている練習会に参加するとともに、揖斐川町の徳山ダムも訪れ、徳山村の歴史に改めて触れることができた。

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初めて地元の方に徳山おどりを教えていただいた際の写真
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踊りを教わるとともに、徳山ダムの見学もした

   徳山おどりの魅力は、一言では語り尽くせない。まず驚かされるのは、盆踊りが廃れつつあるといえど、11曲もの踊りが今も欠けることなく保存されている点である。その内容も多彩で、富山・石川・福井・滋賀といった周辺地域からの文化の流入したことを感じさせる歌や踊りが残されている。さらに、CDやテープではなく、音頭取りの生歌で踊るという、昔ながらの盆踊りの形式が維持されていることにも感銘を受けた。

   何より心を打たれたのは、盆踊りを教えてほしいと突然東京から訪れた私たちを、徳山村の人々が快く受け入れてくれたことである。踊りや歌を教えていただいただけでなく、食べ物もご馳走になってしまった。もっと徳山おどりを知り、この魅力を広めたい。そう思うようになった私たちは、その後も足繁く岐阜に通い、元徳山村の住民との交流を深めていった。地元の人々もまた、昔話を語ってくれたり、貴重な盆踊りの資料を提供してくれたりと、私たちの思いに応えるように惜しみなく力を注いでくれた。

   「みんな踊りや歌をすぐ覚えてまうなあ。俺らよりうまいんやないか?」
   「徳山おどり東京支部やなあ」
   練習会などに通ううち、いつしか地元の人たちからそんな冗談も飛び出すようになり、半分シャレのような形で、東京から通うメンバーたちで「徳山おどり東京支部」と名乗るようになり、啓蒙活動をかねてFacebookで情報発信をするようになった。

10数年ぶりにヤグラを立てて盆踊り大会が開催

   「徳山おどり東京支部」の活動を始めてから、かれこれ7年が経とうとしているが、特に印象深い出来事がこれまでに三つある。

   一つ目は、東京で徳山おどりに関するイベントを開催したことだ。東京では、ましてや地元・岐阜県でもほとんど知られていない「徳山おどり」をPRするために、2019年に「踊らまい!徳山おどり ~人々の記憶に生きる 岐阜県・旧徳山村の盆踊り~」と題したイベントを実施した。お客さんを招いて、徳山おどりに関するプレゼンテーションをしたり、一緒に歌い踊ったりするという内容であったが、計画の段階で、急遽、徳山おどりの音頭取り3名が自分たちもイベントにゲストとして参加したいと自ら名乗り出て、期せずして徳山おどりを体験するだけでなく、実際に現地の人とも交流のできる充実した内容のイベントが実現することになった。

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徳山おどりの音頭取り3名が急遽東京にやってきて、イベントにゲスト出演することになった
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イベントで配布するためにZINEも作成した

   3人の遠征は東京観光も兼ねており、「どこか行きたい場所はあるか?」と事前に聞いてみたところ、音頭取りの一人である小西さんが、なぜかよく当たると評判の宝くじ売り場「西銀座チャンスセンター」を指定。宝くじを買ったあと、「それじゃあ、ここで踊らまいか」と突然言い出し、宝くじ売り場の目の前にある交番の横で、小さく輪を作って徳山おどりをゲリラ的に踊ったあの瞬間は、生涯忘れることはできない。

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西銀座チャンスセンターの前で、ゲリラ的に徳山おどりを敢行

   二つ目は、東京イベントと同じ年の夏に、移転先の徳山団地で10数年ぶりにヤグラを建てて盆踊り大会が開かれたことである。開催に至った背景には、東京支部の働きかけも大きく影響していたように思う。徳山村の人々に会うたびに我々は「盆踊り大会をやりましょう」としつこいくらいに訴えていたのだ。

   当日は、ヤグラの上に徳山村の音頭取りだけでなく東京支部のメンバーも立ち、何曲か歌わせてもらったことが印象深い。また、「腰が痛いから今日は踊らない」とベンチに座って盆踊りを見学していた年配の女性が、途中から輪に加わり、誰よりも優雅な踊りを披露してくれた姿には心を打たれた。盆踊りには、人を動かす不思議な力が備わっているのだと実感した。

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久々にヤグラを建てての盆踊り大会は二日間にわたり盛大に開催された

   三つ目の思い出深い出来事は、2023年に徳山村八カ村の中でも唯一水没をまぬがれた門入(かどにゅう)地区に足を踏み入れたことだ。

   徳山村の集落は、東谷と西谷、二股に分かれた谷筋に沿って形成されている。そのうち、西谷の最奥部に位置するのが「門入」地区であった。水没をまぬがれたと言っても、村を離れる他地区住民の歩調に合わせて、門入住民もまた、ダム建設の進行とともに村を離れている。しかし土地は残っているため、徳山関係者であれば、ダム湖を船で渡るか、あるいは、かつて徳山から滋賀に至る主要な交通路であった「ホハレ峠」を越えることで、門入に到達することができる。

   徳山村に長く関われば関わるほど、水に沈む前の徳山に行ってみたかったという憧れはつのっていく。この時は、これまでに何度もホハレ峠を超えて門入を訪れているという元徳山村住人の方の案内で、門入入りを果たすことができた。

   普段、まったく運動もしないし、山登りもしない私にとって、感覚としてはほぼ垂直に切り立った崖を降りていく「峠越え」は、本当に生死を分かつ命懸けの冒険であった。それゆえに、何時間ものトレッキングの末に、ようやく門入地区に至る橋を超えた際は、本当に天国に辿り着いたかのような幸福感につつまれた。

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途中、橋のない川をわたる場面も
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徳山村で唯一水没しなかった門入地区。写真に写るのは案内をしてくれた徳山村出身のNさん

   村には、雪のない時期だけ畑を耕しながら自給自足の生活を営む住民がいる。ご挨拶がてら、「せっかくなので、ちょっと踊りでもやりましょうか」と誰ともなく言い出すと、東京支部の仲間が即興で出した歌に合わせて、住民の女性も踊り出す。徳山おどりは40年ぶりで、最後に踊ったのは娘時代だというが、歌を聞けば自然と動きを思い出すらしい。

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かつてこの地域の鎮守社があった村の高台には、住民の名簿が刻まれた碑が建っている

   門入を訪れたことで、徳山という土地をより深く知ることができ、感慨もひとしおであったし、さらに、ここでもあらためて「踊り」の持つ力の大きさを実感することができた。

新しい取り組みと、個人的な課題

   最初に徳山おどりを教わってから、かれこれ7年近くが経っているが、いまだに8月の盆踊り大会と、10月の「ふるさと会」(徳山村の元住人が年に一度、徳山ダムに集って旧交を温める会)は、毎年欠かさず参加する恒例行事となっている。

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2024年の盆踊り大会
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2024年のふるさと会。みんなで徳山おどりを踊る一幕
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船に乗ってダム湖を周遊するのが、ふるさと会の恒例プログラムだ

   徳山おどり普及に関する新しい取り組みとしては、昨年から徳山おどり東京支部のメンバーを中心に「馬坂ナイト」という盆踊り体験イベントを2023年より本巣市で開催している。徳山村はかつて「馬坂峠」という峠を挟んで根尾という村落に接していた。距離が近いため昔から人的・文化的交流が盛んで、両地域の盆踊りにも多くの共通点がある。しかし根尾の盆踊りも、徳山と同じく高齢化による継承の問題を抱えている。そこで、徳山と根尾の盆踊りを同時に体験できる場として、両村を結ぶ峠の名を冠したイベントを企画した。東京の踊り仲間や岐阜在住の盆踊り愛好家、研究者など、多彩な人々が集まり、毎年盛況を博している。

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岐阜県本巣市の多目的施設「かがやきドーム」で開催された、2025年の「馬坂ナイト」

   個人的な取り組みとしては、コロナ禍に一度中断してしまった、徳山おどりの調査を今後進めていけたらと思っている。先にも紹介した通り、徳山村に伝わる踊りや歌は周辺地域の多大な影響を受けている。特に興味深いのは「江州音頭」という滋賀県由来の曲で、現在でも盆踊り大会のオーラスに踊られる人気の踊りであるのだが、現在滋賀や大阪で踊られている江州音頭と異なり、徳山村の江州音頭はより素朴であり、発祥地でも踊られなくなった昔ながらの古態を残しているのではないか、という説もある。

   徳山村に江州音頭がどのように伝わったのかについては諸説ある。繭ぼっか(生産した繭を背負って山を越え、売りに行く仕事)がホハレ峠を越えて伝えたという説や、富山の薬売りが持ち込んだという証言もある。私が調べた範囲では、徳山から滋賀県長浜市木之本町金居原の「土倉(つちくら)鉱山」へ出稼ぎに行ったMさんが、現地で教わり徳山へ持ち帰ったという事実が、Mさんのご子息への聞き取り調査から判明している。興味深いことに、Mさんが歌った江州音頭の音源が確認できる限り2つ残っているが、そのメロディはに現在、徳山おどり保存会に伝わっている江州音頭と大きく異なり、単なる個人差や地域差では説明できないほど際立った違いがある。同じ徳山の中でなぜ異なるタイプの江州音頭が伝わっているのかは、私の中でいまだ大きな謎だ。

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徳山村に江州音頭を伝えたMさんの働いていた土倉鉱山跡地

   こういった謎の解明が、徳山おどりの継承に役立つとも言えないのだが、個人的な興味関心として、これからも細々と調査を続けられたらと思っている。

郷土芸能とどのように向き合うべきか

   徳山おどりに関わる中で、以前は「この伝統を守らなければ」「自分が担い手として背負わなければ」という気負いが強かった。しかし、今はそれもだいぶ薄れてきたように思う。確かに徳山おどりには大きな継承の課題がある。音頭取りは現在3人しかおらず、全員がいなくなれば誰が次を担うのかという問題がある。踊り手も高齢化が進み、徳山にルーツを持っていても住んだことのない世代は関心が薄いため、将来的に「徳山おどり」そのものが忘れ去られてしまう可能性も否定できない。阿波踊りや郡上おどりのように観光資源として確立しているわけではないため、外部から気軽に触れられる芸能でもない。

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音頭取りの北村光春さん(左)と、横田教さん(右)

   こういった大きな課題がある中で、自分が「徳山おどり」のためにできることはなんだろうか。7年間、考え抜いた末に、次のような考えにたどり着いた。
   「やれる範囲で、やれることをやるしかない」
   自分には、おそらく一つの郷土芸能の存続に責任を持つ覚悟はない。まずは、そのことを自覚したい。その上で、私はこの「徳山おどり」という文化が大好きだし、徳山おどりに関わる人々も大好きである、この気持ちは真実なのだ。いままでに、この記事では書ききれないくらいの出来事があり、出会いがあった。その歴史と時間の集積が、私にとっての「徳山おどり」なのである。「徳山おどりについて、知りたい」そんな個人的なエゴから、この物語は始まっている。

   2025年8月13日、文殊団地集会所で毎年恒例の「徳山盆踊り」大会が開催された。昨年のように広場にヤグラを立てての盆踊りではなかったが、踊りの前に郷土料理の「地獄うどん」をすすったり、徳山の皆さんと取り止めもない会話を楽しんだり、素晴らしい時間となった。

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踊りの前に全員「地獄うどん」で腹ごなし
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地獄うどんは、徳山の郷土料理のひとつ。
大きな鍋で乾麺のうどんをグラグラと茹で、鯖の水煮を入れた器に盛りつけ、醤油をかけて食べる。すぐ作れて、しかも美味しい
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お腹がいっぱいになれば、休憩を挟みながら飽きるまで盆踊りに没頭する

   盆踊りの休憩時間。集会所の片隅で、おしゃべりをする人々を眺めていた会長の小西さんが、独り言のように「ええ、盆やなあ」とつぶやく。その一言を聞いただけで、私はすべてが肯定されたような気がした。この一言が聞けてよかったと心の底から思う。

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2025年の盆踊り大会で元気に音頭を取る小西さん

   「私事」としての郷土芸能への向き合い方について、いま一通り説明してみたが、これが正解なのかどうなのかもわからない。正解も不正解もないのだろうが、個人的にこれからも探求していきたいテーマではある。(了)


Text:小野和哉

プロフィール

小野和哉

小野和哉

東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono

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