
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。
祭りを求めて南の島へ
飛行機は高度を落とし、島の海岸線に沿うように進んでいく。眼下には、濃淡の異なる青が幾重にも重なった海が広がり、白波がサンゴ礁の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。機体の翼越しに、島の緑が次第に近づいてくる。陸地は彼方へと続いており、一見すると島という感じがしない。さすが「大島」というだけはあるなと、妙に感心する。
海の美しさに南国を感じる
鹿児島県本土の南方海上、距離としては約380kmの地点に位置する奄美大島(鹿児島県奄美市)。8つの有人島で構成される奄美群島の中でも最大の面積(712.39平方キロメートル)を誇り、東京23区の大きさを上回る。それだけの大きさであるが、航空写真で島全体を見渡すと平野部は少なく、緑の豊かさが際立つ。実に島の約80%が山地で占められるそうだ。
気候としては、高温多湿の「亜熱帯」。年間降水量は約3,000mmにものぼり、その豊かな雨量、温暖な気候によって亜熱帯多雨林、マングローブ林などの独特の植生が形成されている。また、そこに生息する多様な動植物が世界的にも高く評価されており、2021(令和3)年7月には、奄美大島をはじめ、徳之島、沖縄本島北部、西表島とともに、世界自然遺産に登録された。こうした豊かな自然を舞台にしたエコツアー、カヌー、ダイビングなどのアクティビティは、奄美大島観光の大きな柱のひとつとなっている。
マングローブの中をカヌーで探検するツアー 提供:奄美市
国内希少野生動植物種に指定されているアマミノクロウサギ 提供:奄美市
私が「奄美」について興味を持ったのは、数年前にSNSで流れてきた祭りの動画がきっかけだった。繁華街のような場所で一心不乱に輪踊りに興じる人々の映像。浴衣や法被を着て踊る姿は、盆踊り好きの私にとっては見慣れた光景だったが、その歌の旋律や歌詞は、まったく聞き慣れないものだった。
調べてみると、それは鹿児島県奄美市で行われている「奄美まつり」という市民まつりの一環で、「八月踊り」というイベントらしい。画面越しにも伝わる熱気に心が持っていかれる。奄美は、九州地方にすらほとんど足を踏み入れたことのない私にとって想像も及ばない未知のエリアだ。最果てのようなイメージがあったが、調べてみると羽田・成田空港から直通便も出ていて、フライト時間はわずか2時間半。意外に近いのだ。
沖縄には本土とは違った独自の文化が存在することはなんとなく認識していたが、ではその中間地点にある奄美にはどのような文化があり、そして芸能が根付いているのだろうか。好奇心に駆られた私は2025年の夏、奄美大島へと向かうことにした。
奄美大島の中核都市・名瀬の発展
空港からバスに乗り、1時間ほどかけて島の中心地・名瀬(なぜ)※へ向かう。名瀬は行政・産業・商業など、島の主要な機関や施設が集まる中心地で、市街地エリアは奄美まつりの開催地にもなっている。
※「なせ」と読むケースもある
バスから撮影した島北部の海岸
バスを降り周辺を散策してみると、思っていた以上の繁栄ぶりに驚く。アーケード商店街、飲み屋街、コンビニ、24時間営業のスーパーマーケット、極め付けにはイオンもある。要するに「島」と呼ぶには、あまりにも都会すぎるのだ。
名瀬市街地にあるアーケード商店街
飲み屋が並ぶ、歓楽街の屋仁川(やにがわ)通り
ミスドもある
奄美大島の郷土料理「鶏飯(けいはん)」。ごはんに鶏肉や錦糸卵、パパイヤなどを載せ、鶏ガラスープをかけて食べる
奄美大島は歴史的に、琉球国、薩摩藩、アメリカなど、さまざまな統治者のもとに置かれてきた。駒澤大学教授で人文地理学を専門とする須山聡によれば、名瀬の都市化は薩摩藩統治期に、「代官仮屋」が奄美大島北部の赤木名から名瀬(現在の矢之脇町)へ移転したことに端を発するという。代官仮屋とは、薩摩藩から派遣された役人が駐在する統治の拠点である。 以下では、須山の論考『奄美大島,名瀬の都市景観の特徴 ─ 景観レイヤーを用いた総合 ─』を手がかりに、奄美まつりの拠点となる名瀬がどのように発展してきたのか、その歩みを簡単に整理してみたい。
1871(明治4)年の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県となると、件の代官仮屋も1875(明治8)年に廃止となった。しかし、その跡地は以降も監獄・裁判所など政治関連施設の用地として利用され続けている。1906(明治39)年の火災をきっかけに、庁舎は名瀬市街地西部の金久町へ移された。その後、島の行政機能はおがみ山山麓に集約されることになるが、現在の名瀬市街地エリアが島の政治的中心地であるという位置づけは、薩摩藩統治時代から現在に至るまで変わっていない。
名瀬の経済的発展の歴史に着目すると、明治以降、本土から「寄留商人(きりゅうしょうにん)」と呼ばれる外来商人が名瀬に進出してきたことがその契機となっている。彼らが名瀬に店舗を構えて経済活動を主導したことで、それまで島の特産である黒糖による物々交換に近い状態から、貨幣経済が本格的に導入され、商業空間が形成されるに至った。
大正時代の名瀬町 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
戦後、奄美大島はアメリカ軍の施政下に置かれたが、この時期も、名瀬の小俣町に米軍政府庁舎が置かれるなど、名瀬は島の政治の拠点であり続けた。1953(昭和28)年、奄美大島が日本に復帰すると、その一年後に名瀬の港は島の流通拠点として重要港湾に指定。1956(昭和31)年には定期フェリーが初めて接岸可能となり、本土や他島を結ぶ海上交通の要衝としての地位を固めた。また、1954(昭和29)年には、「奄美群島復興特別措置法」に基づき、道路・港湾・上水道などのインフラ整備に巨額の資金が投入され、名瀬はその窓口として発展を遂げた。
奄美大島の名産として、黒糖と並んで知られるのが、大島紬(おおしまつむぎ)である。大島紬とは、奄美大島を本場の生産地とする絹織物のことである。奄美大島の紬織物産業は戦時中壊滅的な打撃を受け、アメリカ軍政下でも復興はままならなかったが、日本復帰以降、折からの本土での民芸ブームに支えられ、伝統工芸品である大島紬の需要も拡大。生産も増加し、1960年代後半から1970年代にかけて、大島紬の生産は空前の隆盛を迎えた。
紬業者は労働力を確保するため、名瀬の市街地に工場兼住宅の「紬アパート」を建設。これを機に、島内はもちろん奄美群島全域から名瀬へ人口が急増した。その結果、名瀬は奄美群島で唯一の人口集中地区となり、旺盛な消費需要を背景に、屋仁川通りに代表される飲食店街などサービス業も大きく発展した。
紬工場(1968年) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
中央通り。現在は「名瀬中央通りアーケード商店街(ティダモール中央通り)」の名前になっている(1961年) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
現在(2025年)のティダモール中央通り。上の写真にも写る「川三」(KAWAZOU)の名前が見える
『奄美大島人口ビジョン 2025』(奄美大島総合戦略推進本部)によると、旧名瀬市の人口は1980年台にピークを迎え、1980(昭和55)年には49,021人を記録しているが、その後は一貫して下降線をたどり最新のデータ(令和7年12月末日)では33,426人と、約半世紀近くで30%近くの人口減少となっている。なお、旧名瀬市は2006(平成18)年に、島内の大島郡笠利町、住用村と合併し、奄美市となっている。
江戸時代の地誌にも描かれた舟こぎ競争
再び旅のレポートに戻る。市街地周辺を一通り散策し、途中博物館にも立ち寄りながら、今日の宿を目指す。予約したのは海に面したシティホテル。ハイシーズンのはずなのにやけに宿泊料は安いが、設備的にも何も不足はない。到着後、部屋でしばらく休憩。夕刻が近づいた頃に起床し、またフラフラと祭り会場へと向かう。
ステージイベントの様子
花火の開始を待つ人々。奥に見えるのがイオンプラザ大島店
奄美市制20周年というだけあって、花火は非常に豪華
奄美まつりは4日間にわたって開催され、2日目を迎える今夜は港近くの公園でステージイベントが、そして花火大会が開催される。言ってしまえば、どこの地域にもある何気ない夏祭りといった風情なのであるが、子どもも、若者も、家族づれも、お年寄りも、誰もが穏やかに一年に一度の楽しみを享受している光景というのが、私にとってはとても魅力的だ。花火大会も都会のように混雑がないので、落ち着きながらじっくりと楽しむことができる。こんなにゆっくりと花火を楽しめたのは、生まれて初めてのことかもしれない。
翌日は午前中から名瀬の佐大熊(さだいくま)地区で、「舟こぎ競争」。競技の模様はYouTubeでライブ配信もされているが、せっかくなので現地へと向かい、直接見学してみることにした。
舟こぎ競争の会場
舟こぎは奄美の伝統文化であり、奄美舟こぎ協会のサイトでは、「昔から島に暮らす人たちの最高の楽しみのひとつ」であると説明されている。その起源を示す史料は少ないようだが、江戸時代後期に薩摩藩士・名越左源太(なごや・さげんた)によってまとめられた奄美大島の地誌『南島雑話』(なんとうざつわ)には、人々が「ハレコギ」(舟こぎ)に興じる姿が描かれている。
『南島雑話』に描かれた舟こぎの様子 『南島雑話』貴重(農学部旧蔵)(鹿児島大学附属図書館所蔵),
https://dc.lib.kagoshima-u.ac.jp/item/0306250004
競技には「アイノコ」と呼ばれる、伝統的な舟が使われる。名嘉真宜勝・出村卓三 著『沖縄・奄美の生業 2』によると、アイノコとは、奄美で生まれた安定性重視の舟「イタツケ」と、沖縄で考案された波切りのよい舟「サバニ(ナハブネ)」の長所をあわせ持つ、文字通り「間の子(アイノコ)」として開発された舟のことである。1921(大正10)年に海老原万吉という船大工によって開発され漁師の間で急速に普及したが、時代の変化とともに漁で使われることもなくなった。現在は、たった一人の職人が舟こぎ競争用に製造するのみだという。
競技に使われる舟、アイノコ
「舟こぎ、どんなものぞ」と思っていたが、実際に観戦してみるととにかく熱い。基本的に大会は有志参加で、企業や職場単位、集落単位、同窓会など、さまざまなチームが参加しているが、とにかくみんな本気度が半端ないのだ。緊迫感あふれる競技の行方、それを盛り立てる迫真の実況アナウンス、声を張り上げて叫ぶチームメイトの応援、そして勝利した喜びの爆発。どこを切り取っても美しい場面の連続だ。
折り返し地点で接戦が繰り広げられる
試合前に円陣を組んでチーム全員で気合を入れる様子
トップでゴールしたチームが、喜びを爆発させる
海に抱かれた奄美には、その民謡にも海や船に関する歌詞がたくさん伝わっている。
〽︎芦花部(あしけぶ)一番/上殿地(ウントノチ)バーカナ/コバヤ一番/実久(さねく)のコバヤ
(奄美一番の美人は芦花部のバーカナ、舟競争で一番は実久)
〽︎夜走らす舟や/かくれ瀬と仇/加那(カナ)待ちゅる夜や/ドシと仇
(夜の舟は暗礁が仇であるように、恋人を待つ夜は友だちが邪魔である)
(いずれの歌詞・訳も惠原義盛 著『奄美生活誌』を参照し、筆者が再構成)
ただのスポーツではなく、奄美の先人たちが歩んできた歴史と地続きの文化である。そのように意識しながら観戦すると、不思議な感慨が心の内に湧き上がってくるのだ。
踊りの華が夜の街に咲く
舟こぎ競争の後は、いよいよ私にとってのメインイベントとなる「八月踊り」が始まる。八月踊りは、奄美群島に伝わる伝統的な輪踊りだ。行事内容や踊られる時期、タイミングは地域によって少しずつ異なるようだが、奄美大島出身の民俗学者・惠原義盛による『奄美生活誌』では、旧暦八月の三節と呼ばれる行事、アラセツ、シバサシ、ドンガのうち、主にアラセツの日を中心に、家々を巡りながら豊穣への感謝を祈って踊られるものと説明される。本土から来た人間としては「八月」という名称から盆踊りのようなものを連想してしまうが、その性格は異なるようだ。
商店街に参加グループの名前が書かれた提灯が並ぶ
日が暮れる頃になると、あちこちの商店街に大振りの提灯がいくつも並び始める。その提灯には「集落」「郷友会(ごうゆうかい)」「町内会」「青年団」などの名前が書かれている。市内、あるいは島内のさまざまな地域が踊りに参加していることがわかる。ちなみに郷友会というのは、いわゆる「県人会」や「村人会」のような同郷人組織のことだ。奄美では「東京奄美会」や「関西奄美会」のように本土で結成された組織もあれば、奄美大島の各集落から名瀬に出てきた人によって結成された郷友会も存在する。
鹿児島大学元教授・田島康弘の調査によると、名瀬に郷友会が発足したタイミングは戦後まもない時期に集中する。戦後の経済的苦境の中で、職を求めて名瀬にやってきた人々が精神的な心の寄り処を求め、同郷者同士で寄り集まったのが発端だという。
「県人会」「村人会」というと、故郷を遠く離れた土地で結成されるもの、というイメージが強い。例えば東北地方から東京へ、日本からブラジルやハワイへ、といったように。物理的な距離があるからこそ、同郷のつながりが支えになるはずだ。そういった先入観のせいか、同じ島の中で同郷集団が組織されるというのは珍しい感じがする。逆にいえば、奄美大島では集落ごとの結びつきや同族意識がそれだけ強かったともいえる。また、出稼ぎに来る人がいたという事実は、名瀬が島内でもとりわけ経済的に発展していたことの表れでもあるだろう。
提灯を囲んで踊りの輪が作られる
20時になると、30近くの団体がそれぞれ輪をつくり、いっせいに踊り始める。数メートルおきに踊りの輪が立ち上がり、歌や振り付けもそれぞれ異なるため、会場はかなり混沌とした様相を呈している。耳をそばだてると、奄美の言葉があちこちから聞こえてくる。本土育ちの自分にはまったく聞きなれない方言で、意味はうまく掴めない。けれど、そのぶん「声」は、意味を介さず、まっすぐ「音」として頭に入ってくる。意味がわかれば楽しさはさらに増すだろう。だが今は、この「わからなさ」そのものが心地いい。
チヂンという太鼓を叩き、声を張り上げて歌う
指笛も八月踊りには欠かせない要素
基本的に歌はすべて生歌で、楽器は手持ちの太鼓のみ。しかも歌い手は一人ではなく、複数人で同じ歌詞を合唱しながら踊る。この斉唱スタイルが、ものすごい熱気と迫力を生み出す。こういった形式は、本土の盆踊りではなかなか見られない。また、男女の掛け合いで歌が進行していくというのも本土では珍しい形態、これまた聴いていて楽しい。人の声、太鼓の音、指笛の甲高い音、それらが渾然一体となって、その場にいる者たちを酔わせる。
何よりいいと思ったのは、この踊りを、踊っている人たち本人が心の底から楽しんでいる様子が伺えることだ。踊りの輪の中心にはテーブルがあって、地元の人たちが準備したのであろう飲み物や食べ物が置かれている。踊って、歌って、飲み食いして、英気を取り戻したらまた踊って、歌って……。周囲には目もくれず、自分たちの地元の踊りを精一杯楽しんでいる姿が、むしろすがすがしく感じる。
踊りに興じる人々
奄美に伝わる民謡のことを一般的に「シマ歌」と言う。奄美の集落に滞在し、奄美の人々が抱く「シマの歌」のイメージを研究した音楽人類学の中原ゆかりは、「シマの歌の概念は(中略)特に八月踊り歌に強い」と指摘。そして、この奄美の八月踊り歌は、各集落(シマ)に住む人々の「自分はシマの人間である」という自己意識の形成に深く関わっていると説明する。
シマに生まれ育った人々は、知らず知らずのうちにシマの伝承歌謡を覚え、身体化し、やがてはシマの伝承歌謡を彼らの言葉でいえば「ナツカシイ」と感じるようになる。そしてシマの伝承歌謡に対する感情を通じて、シマを他ならぬ我が故郷として特別な感情を抱くようになる。(中略)彼らが無意識に口を継いで出る歌はシマの歌として身体に刻み込まれ、シマの歌をナツカシイと感じて感激する。彼ら自身の意思では、彼らのシマ歌に対する感情をコントロールすることができない。それだけに、自分のもつシマの歌に対する感受性を自覚することにより、シマの人である自分を発見し、確信することができる。シマとは、シマの歌の概念を心に抱き、シマの歌と自分との関係を自覚することによって心に形成されるイメージなのである。
(中原ゆかり『奄美の「シマの歌」』より)
奄美の人々にとって、八月踊りの場で歌い踊ることは、郷土への想いを回復する機会ともなっているのだろう。その想いの発露が、いま私が見ているこの光景なのだ。
祭りの終わりが近づくと、おもむろに三味線が踊りの場に持ち出される。最後の曲は『六調』。三味線と太鼓を阿波踊りのような二拍子の早間のテンポで鳴らしながら、全員で乱舞する。まさにフィナーレにふさわしい楽曲だ。22時になると、いっせいに各団体が踊りを終了する。
フィナーレの『六調』。三味線をかき鳴らし歌う
完全燃焼。まさに、その言葉がふさわしいほどの脱力状態。いいものを見たという感慨。頭の中に六調のメロディーを感じながらホテルへの帰り道を急いだ。
日本復帰を契機に芽吹いた奄美まつり
ここからは奄美まつりの歴史について確認してみたい。半世紀以上も続く歴史ある祭りのため、定かではない部分も多いようだが、大まかな経緯については、宗教学者・宇野正人の研究(宗教社会学研究会 編『現代宗教への視角』所収「都市の祭への視覚 名瀬市〔奄美まつり〕をとおして」)からうかがうことができる。
宇野によれば、奄美まつりの起源は1954(昭和29)年の「復帰一年記念事業」と、1956(昭和31)年の「名瀬港の接岸祭」にあるという。「復帰一年記念事業」の「復帰」とは無論、奄美の日本復帰を指すことは言うまでもない。
日本復帰の経緯については、奄美市が公開している「奄美群島日本復帰70周年特設サイト」に詳しい。
1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終結。翌1946(昭和21)年、米軍政府が西諸島全域に軍政布告を公布し、奄美群島は米軍の統治下に置かれる。本土との自由な往来は断たれ、物資不足と経済的困窮が続いた。そうした厳しい状況のなか、1951(昭和26)年の対日講和交渉を契機に、日本復帰運動が本格化する。島内外で署名活動や陳情活動が広がり、1953(昭和28)年、奄美群島は日本復帰を果たした。こういった歴史背景のなかで開催された復帰一年記念事業なのである。
名瀬小学校での奄美群島の日本復帰を求める学童大会(1952年) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
具体的な事業の詳細は不明であるが、『奄美復帰史 3版』(南海日日新聞社)掲載の年表を確認すると、この際、島の各市町村で何かしらの式典が行われたことがうかがい知れる。
大島支庁開庁(1953年12月) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
名瀬港の接岸祭は、1956年に名瀬港大型岸壁が完成した出来事を指す。奄美海上保安部・古仁屋海上保安署のまとめた『奄美群島の海上保安業務七十年のあゆみ』(海上保安庁)によると、それまで名瀬港では乗下船や貨物の積降に艀(はしけ)と呼ばれる小舟が利用されていたが、長さ80メートルの岸壁が完成したことで、船が直接接岸できるようになった。関西汽船の沖縄航路「黒潮丸」が試験接岸に成功すると、5千人もの観衆から大きな歓声と拍手があがったという。
黒潮丸初接岸(1953年8月) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
この二つの行事の形式は、1959(昭和34)年に「海の記念日(現在の「海の日」?)」を祝って始まった「港まつり」(1959〜1963)へと引き継がれていく。港まつりは、当時の名瀬市と商工会議所が企画したもので、名瀬市の繁栄を左右すると目された「港」を冠し、市の発展祈願に加えて、産業と観光の振興を目的としていた。実際の内容は、「海運功労者・従業者の表彰式」や「船団パレード」といった、いかにも“港の祭り”らしい行事が中心だ。一方で、現在の奄美まつりにも受け継がれる「舟こぎ競争」「八月踊り」「花火大会」「相撲大会」なども、この頃から始まっている。
港まつりは1964(昭和39)年10月に「奄美まつり」へと改称され、奄美市の高千穂神社が秋の例大祭として行う「浜下(はまお)り行事」と合同することで、さらに規模を拡大していく。リニューアル後に新設された主な行事は、「パレード」「民謡大会」「夜店」「(商店街での)大売り出し」「観光物産展・即売会」などだ。なかでも象徴的なのが、紬組合の協賛による「ミス紬コンテスト」がプログラムに加わったことだろう(現在は開催されていない)。
奄美まつりハブ隊(1967年) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
奄美まつり六調大会(1967年) 提供:奄美市 CC BY-NC-SA
産業開発を一つの柱としていた港まつりがこのタイミングで拡大を図った背景には、高度経済成長期の好景気があるだろう。加えて、この時期に隆盛を極めた大島紬の生産が、祭りの規模拡大を大きく後押ししたであろうことは想像に難くない。紬組合の協賛という事実は、その状況を如実に物語っている。
このように地域の産業パワーによって支えられていた奄美まつりも、1970年台に景気が衰退すると、商工サイドの参加意識も低下。1974(昭和49)年には花火大会が中止、1977(昭和52)年には商店街のパレード参加辞退、それにともなう観光物産展・即売会の中止という危機的事態に見舞われる。この祭りは果たして誰のものなのかという議論が巻き起こる中で、この時期から従来の市や商工会議所に加えて、自治会や、地域の連合青年団など、市民サイドのメンバーを加えた企画委員会を設置するなど、市民のための「市民まつり」を強調する、あらたな局面へと舵を切っていくことになった。
開催の課題は、暑さ、資金、人
そのような危機に直面しながらも、奄美まつりは市民に支えられて現在まで受け継がれ、2025年には第62回を迎えるまでに至った。コロナ禍では一時中止も余儀なくされたが、有志団体による花火の打ち上げを皮切りに、島内5市町村が連携した一斉花火、地区ごとの分散・同日同時開催へと形を変えながら継続。試行錯誤を重ねた末、2024(令和6)年には従来規模での開催にまでこぎ着けている。>
では、この先も奄美まつりはこの先も安泰に続いていくのだろうか。
現在、奄美まつりが抱える課題と、その対策について、奄美まつりの事務局と運営実務を担う、奄美市商工観光情報部紬観光課の向井 啓(むかい けい)さん、金城雅明(かねしろ まさあき)さんにお話を聞いた。お二人によると、課題は大きく「夏場の暑さ対策」「資金」「運営の担い手不足」の3点に集約されるという。
まず、暑さ対策。金城さんによると、近年は特に舟こぎ競争の会場で、暑さによって救急車が出動する事態が常態化していたという。
参加チーム観覧席でもタープテントを用意して日除けを行っている
「そこで今回(2025年)、レース構成の見直しにより、競技の終了時刻の前倒しを図りました。これにより救急搬送が減少し、運営スタッフの負担も軽減されましたが、レースの数が減ったことで競技に負けて早々に脱落するチームも増えてしまい、参加者からは『もっと漕ぎたかった』という声も聞かれました。ここのバランスを取るのが、今回難しかったですね」
ちなみに、祭り自体を別の時期にずらすという案も検討されたようだが、「夏祭り」としての定着度や、島内の他の祭りとの時期被りも考慮して、今回は時間短縮での対応が優先されることになったそうだ。
暑すぎて祭り期間中、何度もアイスのお世話になった
続いて資金面の課題だ。奄美まつりの財源は主に協賛団体からの寄付金となるが、物価高の影響で支出が増大する一方で、寄付額は横ばいの状況が続いているという。対策として、今後は会場での募金箱の設置など、個人を対象とした寄付スキームの構築も検討しているそうだ。また2025年には、ふるさと納税制度の仕組みを利用した「ガバメントクラウドファンディング(GCF)」によって花火大会の資金を募った。奄美市市制施行20周年を記念して、花火をより盛大なものにしたいという狙いであったが、奄美まつりとしては初めてのGCF実施であったものの、結果としては目標額を上回る資金調達に成功した。
実際のクラファンのページ
金城さんは「正直、始める前は、ここまで寄付いただけるとは思っていなくて驚きました」と、予想外の結果であったことを明かす。「本当にありがたかったですし、目標金額の見込みが低すぎたかもしれないという反省もあり、その点は今後に生かせればと思っています」
最後に、運営の担い手不足という課題。現在、祭りの実務は紬観光課の職員およそ10名が中心となって担っており、その負荷をいかに軽減するかが大きなテーマになっている。かつては、市の職員が休日返上で対応したり、祭りの運営に動員されたりすることも珍しくなかった。だが働き方に対する意識が変わりつつある今、時代に即した、無理のない持続的な運営体制を考えていく必要があるだろう。
「このままでは、いずれ運営体制に限界が訪れるはずです」と向井さんは危機感をにじませる。「今後は民間の力をお借りしたり、ボランティアを募ったりといった対策を検討する必要があると考えています」
奄美まつりが集落の人々のモチベーションに
ここまで、いち観光客である筆者の視点、そして主催者である奄美市の視点という、二つの角度から奄美まつりを見てきた。
では、実際にこの地に暮らす市民にとって、奄美まつりはどのような意味を持つのだろうか。もちろん感じ方は人それぞれで、祭りに一度も足を運んだことがない人もいるだろう。その前提を踏まえた上で、今回は、奄美大島での暮らしを通して奄美まつりに特別な意味を見出したという、ある移住者の方に話を聞いてみた。
奄美大島の北部、名瀬の市街地からは車で1時間ほどの距離にある奄美市笠利(かさり)町の平(たいら)に住む蘇(いける)ひかりさん。蘇さんは愛知県名古屋市の出身だが、旅行で来た奄美大島に惚れ込み移住を決意。地元で出会った人々の協力のもと住居や仕事を見つけ、32歳で島に移り住んできた。1年後には地元出身の男性と結婚もしている。
写真上段右から二人目が蘇さん 提供:蘇ひかり
「平の集落は奄美大島には珍しく海に面していないのが特徴です」と、蘇さんは説明する。「高台に位置しているので津波の心配もなく、安心して暮らせる場所だよ、とおじいちゃんたちもよく口にしています。戸数は80戸くらいで、住んでいる人のほとんどが60歳を超えています。子どもを持つ家庭は片手で足りるくらいで、活気があるかないかで言えば……ないですかね。ただ行事は、町単位のものから、集落単位のものまで、年間を通じてたくさんあって、何かにつけてみなさん歌ったり踊ったりしてますね」
移住当初から地域活動に積極的に関わりたいと考えた蘇さんは、自ら地域の婦人会への加入を申し出た。そこから婦人会の一員として「浜下(はまお)れ」などの行事の際にお弁当の手配やお茶出しといった「台所の仕事」を担うようになり、そこから徐々に集落のコミュニティへと溶け込んでいった。
集落の行事で八月踊り 提供:蘇ひかり
現在、蘇さんは集落の人たちとともに、八月踊りの活性化に取り組んでいる。きっかけは2024年。名瀬からUターンしてきた平出身の男性が、突然、集落内で奄美まつりへの参加を提案したことだった。平では、旧暦3月の浜下れ、旧暦8月の「三八月(みはちがつ)」、秋の「種下ろし」など、節目ごとに踊りが行われる(奄美大島では、他の集落でも同様の行事が行われるが、地域によって呼称や開催時期が微妙に異なる)。なかでも種下ろしは規模が大きい地域行事だ。その年の当番となる10戸ほどの家を丸一日かけて巡り、それぞれの庭先で歌と踊りを披露する。かつては踊り終えた後に餅を受け取っていたが、現在は集落の運営費を賄うための寄付金集めの機会にもなっているという。
集落内を移動し、家々を巡りながら踊る 提供:蘇ひかり
つまり種下ろしは、集落にとって単なる娯楽以上の意味を持つ大切な行事だ。しかし近年、踊り手はいても、歌は相応の技術が求められるため熟練者への依存が強く、後継が育っていない状況が続いていた。そこで危機感を抱いた男性が、奄美まつりへの参加をきっかけに歌や踊りの技術を高め、八月踊りの底上げにつなげようと考えたのである。
「とはいえ、提案が出たのは奄美まつりまであと2ヵ月というタイミングでした。練習するにも時間が足りないし、名瀬に行くためのバスを借りるだけで十数万円かかります。集落の中で話し合いがもたれ、最終的にはアンケートを取ることになりました。わずかに賛成が上回ったので参加が決まったのですが、ギリギリまで『お金はどうするんだ』『恥をかくぞ』と、その男性は矢面に立っていろいろ言われていましたね。それでも、男性とその奥さん、私と夫の2世帯が中心となって練習会を盛り立て、踊りだけでなく、歌もお年寄りに教わり、奄美まつりに向けて必死に取り組んだんです」
歌の習得に関しては、地元の方言が大きなネックになったという。
「奄美のシマ言葉は本当に難しくて、練習会でも『あなたは言葉がわからないから無理だよ』と言われてしまったのですが、逆にその言葉がバネになって頑張れた気がします(笑)」
最終的に、奄美まつりには平集落の40名が参加。踊りや歌の手練れたちが島中から集まる会場の雰囲気に圧倒されたものの、結果的には大成功をおさめる。
奄美まつりの様子 提供:蘇ひかり
「反対してる人も多かったのに、みんな当日はめちゃくちゃ楽しそうで安心しました。奄美まつりに参加すると、集落出身の名瀬在住者や、他の集落の知り合いなどからご祝儀をいただけるんですけど、寄付金も結構集まったので、来年参加するための予算の目処もそこでついて。また、平の人たちから『あんたたちこんなに歌えるの?』と褒めてもらって(笑)、すごくうれしかったですね」
またはじめに声を上げた男性も、本番を終えてその苦労が報われることになった。
「最初は反対していた80歳を超えたおじいさんが、祭りが終わった後、みんなの前で男性に『ごめん、できないとか言って悪かった』って謝られたんです。その方は、普段あまり多くを語らない寡黙な人だったのですが、お祭りをきっかけにめちゃくちゃ優しくなって……」
この成功体験を経て、平では次年度の奄美まつり参加がすみやかに決まり、さらに直前参加となってしまった反省を踏まえ、現在では月二回の踊り練習会が定例化しているという。
八月踊りの練習会 提供:蘇ひかり
最後に、蘇さんにとっての奄美まつりの意義について聞いてみた。
「私の中では、奄美まつりを通じて地域のみなさんとの距離がグッと縮まった感じがあります。何をするにも温かく見守ってもらえるようになった感じですね。また地域の方々にとっても、奄美まつりがいいきっかけになっているというか、他の集落の人たちと接することで刺激にもなりますし、奄美まつりは楽しいから、また参加するために頑張ろうというモチベーションの向上にもつながっている感じがします」
記憶の中にある祭り
伝統文化の継承というと、つい無形文化財に指定されるような、いわゆる「民俗的価値」の高い祭りや行事に目が向きがちだ。けれど、「市民まつり」のように、地域の人にとって親しみやすく、気軽に参加できる祭りの存在も見逃せない。私自身、20代までに参加した祭りの記憶をたどると、思い出されるのは町内の子ども会の催しや、近所の自衛隊駐屯地で開かれていた花火大会といったような、どこの街にでもあるような普通の祭りばかりだ。
奄美訪問の初日。私は海沿いの会場で花火の開始を待ちながら、露店で買い物をしたり、ステージイベントを眺めたりと、それぞれの時間を過ごす島の人たちの姿を見ていた。年を重ねて、変に感傷的になったのかもしれない。祭りそのものよりも、祭りを楽しむ人々の表情を見ているほうが、やけに心に沁みる。
自分の知らない遠くの島に、このように人々を笑顔にする祝祭の空間がある。その事実が妙にうれしく、胸を躍らせる。あの子どもたちは、今日という日をどんなふうに記憶するのだろう。大人になってふと思い出すことはあるのだろうか。そんな想像を巡らせながら、いつまでもこのような祭りがなくならないでほしいと、切に願った。(了)
祭り会場に向かう子どもたち
Text:小野和哉
プロフィール
小野和哉
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
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