
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。
大地に恵みをもたらす太陽への感謝を込めた行事
全国各地の祭りや民俗行事を訪ね歩き、その豊かさに触れるたびに、ふと思う。自分の故郷にも、誰かに誇れる芸能がないものだろうかと。そんなことを考えているときに知ったのが、地元千葉県船橋市に伝わる「天道念仏(てんとうねんぶつ)」だ。
1980年代後半に船橋市内に分布する天道念仏の現況を調査した、船橋市教育委員会『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』(1990)によると、天道念仏とは太陽を「天道様(テントウサマ)」として崇める信仰に根ざした民俗行事であるという。大地に恵みをもたらす太陽への感謝と祈りを込めながら、念仏を唱えつつ踊る(跳躍する)のが特徴で、その伝承圏は、千葉県旧千葉群一帯のほか、茨城県の旧新治(にいはり)群・旧多賀郡、埼玉県東部一帯など、関東一円に及ぶ。そのほか、福島県、長野県の一部にも天道念仏は伝わっているという。いきなり「天道念仏」と言われてもピンとこないが、考えてみれば、最近ではあまり耳にしなくなった「お天道様に顔向けできない」というフレーズも、もとをたどれば同じ太陽信仰に行き着くのだろう。
天道念仏の行事が行われるのは主に旧暦2月中旬、現在の3〜4月頃。冬から春へと季節が移り変わるこの時期に、豊作や養蚕の順調、病害虫除け、そして死者の供養や地域の安寧を願って執り行われる。自然の目覚めに合わせて生命力の復活を祈るという、農村の人々の切実な思いが込められているそうだ。
海神の天道念仏がいつ始まったかは不明だが、かつての千葉県船橋市における天道念仏の様子を伝える絵図が、天保年間(1830〜1844年)に刊行された『江戸名所図会』という書籍に載っている。
『江戸名所図会』に掲載された「天道念佛踊之図」 出典:江戸名所図会 二十』国立国会図書館デジタルコレクション
説明書きには、土を盛った壇の上に竹の柱を四方に設け、中央に大日如来の像を祀るとある。周囲を、浄衣(じょうえ=神事や仏教の儀式で着用される装束)を着た人々が鐘や太鼓を打ち鳴らし、「弥陀の称号」を唱えながら踊る。昼夜を通して祭壇のまわりを回ったという記述もある。絵図に描かれた人々の表情は誰もが笑顔で、天道念仏がただの宗教行事を超えた、娯楽的な側面も強い行事であることも見て取れる。
また絵図では、四隅の竹柱に美しい装飾がほどこされていることが確認できる。この装飾は「ボンデン」と呼ばれ、天から神が降りてくる依り代であり、太陽や宇宙の象徴とも考えられているそうだ。
出羽三山信仰とのつながり
ところで千葉県の天道念仏は、山岳信仰である出羽三山(でわさんざん)との結びつきが深いとされている。出羽三山とは、山形県の中央に位置する羽黒山・月山・湯殿山の総称だ。この三山は修験道の山として古来より信仰され、多くの参拝者を集めてきた。
千葉県八千代市勝田台にある出羽三山碑。登拝した記念に、このような碑を地元に建立する風習がある
千葉県立中央博物館がまとめた「梵天にみる房総の出羽三山信仰」(「千葉の県立博物館デジタルミュージアム」で閲覧可:2026年6月10日現在)によると、千葉県は全国的に見ても出羽三山への信仰が特に盛んな地域であるという。「男は一生に一度は三山(サンヤマ)に行くもの」という意識が根付いており、登拝を果たした者は村で「行人(ぎょうにん)」と呼ばれて敬われた。そして「三山講」「奥州講」「八日講」といった講のメンバーとして、地域の安泰や豊作を祈る行事に参加した。
千葉県船橋市三山(みやま)の奥州講碑。かつてはこの地でも古式ゆかしい天道念仏が行われていたという
船橋市では、この三山講・奥州講のメンバーが天道念仏を担うグループとほぼ重なる例が多く見られる。また儀式の中では「三山拝詞(はいし)」「三山祝詞(のりと)」「湯殿山御法楽」など、出羽三山修験の影響を色濃く残す唱え言も使われる。文化人類学者の鈴木正崇は、『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』所収の論考の中で、『江戸名所図会』に描かれた天道念仏の様子、浄衣を着て宝冠をつけた人々が祭壇のまわりを回る姿は、祭壇を出羽三山に見立て、その登拝を再現・追体験するものに他ならないと指摘している。
ニュース記事で知ったコロナ禍以降休止の事実
かつて船橋市内では多くの天道念仏が行われていたが、今やほぼすべての行事が途絶えてしまったという。2024年3月23日付の船橋よみうりは「消えゆく地域の伝統芸能」と題し、その消息を伝えている。記事によると、市が把握している範囲では、近年まで中野木(なかのき)と海神(かいじん)の二地区に残っていたものの、中野木ではすでに休止が続き、海神でもコロナ禍をきっかけとして2020年以降、休止状態となっているそうだ。
また、メンバーの高齢化、それに伴う担い手不足などの要因で開催の目処が立っていないこと、そのような苦しい状況にも関わらず、何らかの形で再開をしたいと考えていることなど、主催者たちの切実な思いも記事には綴られていた。
海神の天道念仏の消息を伝える新聞記事
実は偶然、私もこの記事が出る数日前に、海神の天道念仏を見ようと現地を訪れていた。開催当日、会場とされる「海神念仏堂」というお堂に向かうと、祭りの気配はおろか、人の気配もない。日付を間違えたか、あるいは行事が中止となってしまったのか、しばらく待つも一向に祭りが始まる様子もないので、あきらめて帰ったのだが、その数ヵ後に件の記事をインターネットで見て、ことの詳細を知ったのだった。
初めて訪れた海神念仏堂はひっそりと静まりかえっていた(2024)
もし行事が再開するのなら、ぜひ見てみたいし、「再開を果たしたい」と考えている地域の人たちの思いも聞いてみたい。そう考えた私は、2026年3月、船橋市の教育委員会を通じて天道念仏の主催者にコンタクトを取り、念仏堂でお話を聞かせていただくことになった。
ヤマトタケルが訪れた半農半漁の村
個人的な話になるが、海神という地名を明確に認識したのは私が中学生の頃だ。当時所属していた軟式テニス部の市大会で「海神中学校」と背中に書かれたユニフォームを見かけ、字面からして「なんだかすごく厳しい地名だな」と思ったことを覚えている。
実際のところ、「海神」という地名が示す通り、この地域と海の結びつきは深い。いまは江戸時代から続く度重なる東京湾岸の埋立事業によって海の気配をまったく感じることはないが、かつて、国道14号の向こうには遠浅の海が広がり、海神は漁業や塩田が営まれる半農半漁の村だった。
念仏堂の最寄駅である、京成線海神駅
また、こうした海との関わりは、信仰の面にも色濃く反映されている。象徴的なのが、海神に二社ある鎮守(その土地を守る神様、または神社のこと)の存在だ。現在「海神」と呼ばれる地域は、かつて「海神」と「西海神」の二つの集落に分かれており、それぞれに鎮守が置かれた。
まず、海神側の鎮守が「入日(いりひ)神社」で、天照大神と日本武尊を祭神とする。伝説によれば、東征の折にこの地へ上陸した日本武尊(やまとたける)が海上安全を祈って「海神(わたつみ)」を祀ったことが、地名「海神」の由来とされている。伝説の域を出ないものの、埋立てが行われる以前は境内の目前まで海が迫っていたのではないかと想像される。
海神の鎮守である入日神社
西海神側の鎮守は「龍神社」で、沙羯羅(さから)竜王と彦火火出見(ひこほほでみ)尊を祭神とする。古くから漁師や船乗りたちの守護神として篤く信仰されてきた社だ。
西海神の鎮守である、龍神社
境内の「龍神池」に設置された、愛くるしい龍の像
農耕に適さない土地が育んだ人々の信仰心
「僕らが子どもの頃、10歳くらいまではまだ海で泳いでいたからね。漁師が養殖をしているところまで行って、アサリ、ハマグリ、カキ、アナゴ、そんなものを木のタライがいっぱいになるくらい採ったよ」
そう話すのは、今回取材に対応いただいた金子正文さん(75)だ。金子さんは地元・海神で生まれ育ち、信用金庫に長年勤めた後、65歳で定年退職。海神念仏堂の管理と天道念仏の運営を担う世話人メンバーとしては60歳から活動を始め、2019(令和元)年4月より世話人代表を務めている。
世話人代表の金子正文さん
「ナップサックを紐で体に結いて、それで沖まで行く。そこに採れた貝を突っ込むんだ。溺れないように、流木を抱えてね。採れたものは浜で焼いてみんなで食った。おやつ感覚だったね。あとは、知人の家の畑から小さいスイカをもらってきて、割って食ったり。自分ちの畑でもスイカを育ててるけど、こっちの方がうまいからって(笑)。そんな時代だったね」
戦後間もなく、高度経済成長期が訪れる前の話だ。当時は、とにかくこの辺りの人々の暮らしは貧しかったと、金子さんはしきりに繰り返す。
「うちも、俺が13歳になるくらいまでは茅葺きの家だったよ。井戸も便所も風呂も全部外にあって不便でね。かまどだけは家の中にあったけど、それも海から粘土を採ってきて作った粗末なものだった。小学生の頃から、そのかまどで飯を炊いていた。あの頃はどこの家も食うや食わずの時代でね。三世代同居はあたりまえで、四世代同居の家もあった。子どもも大勢いて田んぼや畑、海に出て働く子も多かったね」
古い写真を見ながら、昔話に花が咲く金子さん
貧しさの要因には、この地域の地理的条件も深く関わっているようだ。船橋市『船橋市史 前篇』(1959)によると、海神はもともと純粋な漁村として始まった。しかし、危険な海の生活よりも安全な陸の生活を求める動きが広まるにつれ、生活の拠点は徐々に内陸へと移り、漁業と並行して農業も営まれるようになっていった。とはいえ、海神の土地は地味の悪い荒砂地であり、周辺と比べて収穫量も乏しかった。そのため、昔から海神の人々が豊かな暮らしを送ることは難しかったと推察されている。
江戸時代以降、開発によって耕地を増やす試みが続けられたが、良質な土地はほとんど残っておらず、いずれも質の低い田畑ばかりだった。また、水田に適した土地がもともと少ないため、水田を大幅に増やすことも叶わなかった。さらに海に面した耕地であるため、台風による高波や風雨による被害も絶えず(金子さんも小学生の頃、台風が来ると海に注ぐ水路の門を締めに行った記憶があるという)また農業には欠かせない肥料などの供給源である山林・原野も周囲には乏しいなど、悪条件は幾重にも重なった。
こういった状況にも関わらず、耕地の面積に比べて村内の戸数は多かった。そのため住民たちは、生計を立てるためにさまざまな工夫を凝らして稼ぎを得ようと尽力したようだ。たとえばやせた土地に苦労しながらスイカ・白瓜・ナス・大角豆(ささげ)・サツマイモなどを育て、江戸へ売り出すこともあれば、農閑期には茅を刈って縄をない、街道で馬を使った荷運びに従事したり、魚介類や塩の行商に出たりと、あらゆる手段が試みられた。明治生まれの金子さんの祖母も半農半漁、魚介類の商売で身をたてていたという。
「うちのばあさん、五十で連れ合い(金子さんの祖父)を亡くして、親父と妹(金子さんの叔母)を一人で食わさなきゃいけなくなった。それでアサリやハマグリを掘っちゃ剥いて、それをいまの海神駅の向こう側が軍人屋敷(西海神の海神山とよばれる高台に軍人の邸宅が多数あったようだ)だったんだけど、そこに行って一升枡あたり5円だか10円(参考までに、週刊朝日 編『値段の明治・大正・昭和風俗史』によると、金子さんの祖父が生まれた1920年の巡査の初任給が45円だったそう)だかで売って稼いで、子どもたちを学校に出したんだよ。働き者のばあさんだったね」
このような厳しい暮らしは、自然と人々の神仏に対する信仰心を深めていったことだろう。耕作に欠かせない日照りを願い、天候の順調を祈る気持ちは切実なものがあった。そうした土壌があればこそ、太陽の恵みに感謝し豊作を祈願する「天道念仏」のような行事が、この地に根付いていったのだと考えられる。
堂内に祀られている市指定文化財の木造阿弥陀如来像
撮影年不詳の海神の天道念仏の様子を写した古写真。祭壇の背後には念仏堂、墓地の一角が見える 提供:船橋市文化課
扇を持ち、手ぬぐいを被って踊る人々 提供:船橋市文化課
戦時中の中断を経て、数十年ぶりに復活した天道念仏
千葉街道(現在の国道14号線)沿いの小さな漁村に過ぎなかった海神も、1919(大正8)年に京成電鉄・海神駅が開業してからは一変する。駅を中心に宅地開発が急速に進み、耕地は潰され山林は切り拓かれ、住宅地の拡大とともに人口も急増した。街道筋には多くの商店が軒を連ね、周辺でも屈指の賑わいを見せる繁華街へと成長したという。
現在の国道14号
戦後になると、町の様相はさらに大きく変わった。金子さんが子どもの頃には国道14号線の向こう一面に田んぼが広がっていたそうだが、高度経済成長期にかけて開発の波は急速に押し寄せ、海沿いの土地は次々と住宅地や工業用地へと転用されていった。こうして貧しい漁村としての面影は、いつしか失われていったのである。
終戦間もない頃の海神澪(澪=みお。海へと通じる水路のこと)。
陸地にはまだ田んぼが残る。係留された船は、海苔や貝の採取に使われた一人乗りの「ベカ舟」だろうか。1949(昭和24)年
提供:船橋市郷土資料館 撮影:長谷川勇
現在の船橋市西浦周辺の埋立地(海神町南の南端に隣接)。昭和30年代に工事が完了した 提供:船橋市郷土資料館
戦争中に一時中断したという海神の天道念仏。戦後、時代の波に乗って町が輝かしい発展を遂げ、生活様式も著しい変化を遂げていく中で、農民たちの祈りが込められたこの素朴な行事が顧みられる余地はなかったのかもしれない。しかし、そのまま地域の人々の記憶の彼方に埋没することなく、天道念仏は昭和50年代に復活を遂げることとなった。その経緯について金子さんも詳しくは把握していないようだが、復活の要因を次のように推測する。
「要は(人々に)余力が出てきたということだと思うんだよね。食うや食わずの自給自足の時代が長く続いたけど、俺らの親父の代からなんとか食えるようになってきた。生活も改善されて、ようやく『ご先祖さまたちが受け継いできた伝統をもう一度復活させよう』と考える余裕が出てきた。そういうことだと思うよ」
平成26年時の天道念仏の様子 提供:船橋市文化課
扇を手に踊る女性たち(平成18年) 提供:船橋市文化課
大日如来の像が祀られた祭壇(平成18年) 提供:船橋市文化課
その後、金子さんの父親の世代が中心となって動き、1981(昭和56)年に天道念仏は正式に復活を果たす。
復活して間もない昭和57年の記念写真。後列右から2番目が金子さんの父。国鉄の職員をしていたという
在りし日の天道念仏の様子を伝える貴重な動画
しかし長い休止期間を経て時代も変わり、人々の生活は様変わりしていた。農業や漁業への依存が薄れ、豊作を祈願して神仏に願いを託す必要も乏しくなっていた。そのせいか、新生天道念仏ではおのずと古くからの儀式は簡略化され、以前に増してより娯楽的な色合いが強まっているのではないかと、『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』は報告している。
総じて祭壇は、万鑑飾、百花繚乱のもようであるが、風が吹いてくると花や飾りが一斉にゆれ、しかもボンデンの先のビニールパイプ部分が風車のように花を廻すのは、まことに現在的なアイディアである。しばらく途絶えていた儀礼的行事が、以前のやり方にさしてこだわらず、初春の日曜日に設定された楽しい年中行事として復活したことによってのみ、なしえたことともいえるであろう。そのせいか、参加者の顔ぶれも他処とは異なり、ずいぶん若い人たちが多かった。
(船橋市船橋市教育委員会『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』より)
なおこの所見は、市内の他所の天道念仏と比較した上でのものであり、復活前の行事の内容と直接比べた結果ではないという点には留意が必要である。
地域の墓守たちが支える伝統行事
先に述べたように、海神の天道念仏は2019年を最後に休止状態となっている。直接のきっかけはコロナ禍だが、その後も復活が難しい状況が続いている。
「コロナ禍になったので、中止にしてしばらく様子を見ることにしたんだよ。状況が落ち着いてきて、もういいべって再開しようと思ったら……体が動かないんだ」
かつて天道念仏を中心で支える世話人は6名いたが、現在は代表の金子さんを含めてその人数はわずか3名。そして全員が70歳以上の高齢者である(世話人以外に行事に関わるメンバーが十数名いるようだが、いずれも高齢者とのこと)。行事の準備や後片付けには、竹の切り出しや、祭壇の組み立て、装飾づくり、食事の準備など、体力を要する作業も多い。たった数年の休止期間が、行事を再開するだけの気力や体力を奪ってしまったのだろう。
つまり(言うまでもないが)今後の天道念仏の復活には、新規メンバーの加入が欠かせない。金子さんも日頃から声をかけているそうだが、しかし、なかなか良い返事はもらえないという。背景にはいくつかの事情がある。そもそも天道念仏は、働き盛りを過ぎた年配者の行事という色合いが強く、定年を機にメンバーに加わるというのが通常の流れだった。かつては60歳定年が一般的で、戦後のベビーブームで人口も多かったため、なり手には事欠かなかった。しかし今は「再雇用」や「セカンドキャリア」が浸透し、60を過ぎても働き続ける人が増えた。地域の行事に時間を割ける人を確保すること自体が、難しくなってきているのだ。
また新陳交代が起きにくい理由として、「世話人」が担う、次のような特殊な役割についても鑑みなくてはならない。海神念仏堂には、およそ160区画の墓地が隣接している。この地に代々根を張って暮らしてきた「旧家」の人々の墓地だ。
海神念仏堂の墓地全景
かつてこの旧家は「講」を組み(『船橋の天道念仏 第3次船橋市民俗芸能調査報告』では「同志講」と表現している)、村の行事全般を取り仕切っていた。海岸の荷揚げ場や磯浜の管理、年に一度の水路の泥さらいといった共同作業も、同志講が担っていた。念仏堂と墓地の管理に関しては、旧家の中でも特に三年に一度の選挙で選ばれる「世話人」たちが担ってきた。金子さんらも一年を通じて、墓地の清掃や、管理費の徴収、お彼岸やお盆など年中行事への対応などの業務にあたっている。いわばこの地における世話人とは、「墓守」のような存在と言える。
取材に訪れたのは、ちょうどお彼岸の多忙な時期。堂内の机には、びっしりと項目が書かれたタスクリストが置かれていた
墓地の管理者という性質上、この地で世話人になるということは、単純に芸能保存会に加入するような話とは訳が違ってくる。ある意味では、郷土芸能よりも背負うものは大きいかもしれない。
「俺も、定年前から(世話人にならないかと)声はかけられてたんだよ。江戸時代から先祖が代々務めてきたことだから、やらないわけにはいかねぇと思ってた。でも、お袋が(世話人の役は)大変だから60歳からでいいんじゃないと言うんだ。それで、60で始めたんだけどね。今年で世話人をして15年になるけど、これからも地元のために、ご先祖さまのために、体が動き続ける限り、毎日でも墓守を続けていく覚悟でいるよ」
金子さんは、そのように話す。「先祖のために」という気概があってこそ、この任を引き受けることができたのだろう。
海神の天道念仏は復活することができるのか
今回、取材にあたって、取材対象者の金子さんとつなげていただくなど、船橋市文化課の方々に多大な協力をいただいた。地域の文化財を管轄する立場から、文化課から次のようなコメントもいただいている。
「船橋市において、地域の皆様によって受け継がれてきた伝統や文化財はとても価値のあるもの、船橋の宝物だと考えています。今後も、関係者や地域の皆様と市が一体となって、地域の貴重な伝統や文化を未来へつないでいけるように努めてまいります」
また部外者とはいえ、地元出身者の自分としても、どんな形であっても行事を復活して継続してほしい、できることがあれば協力をしたいという気持ちもある。一方で、念仏堂や墓地の今後のあり方を考えながらも、天道念仏をより開かれた地域の行事として再定義していかない限りは、なかなか再開は難しいようにも感じる。
しかし、それがまったく不可能なことだとも思えないのは、現に海神の天道念仏が1981(昭和56)年に復活した際にも、当時の人々の意識の変化に合わせて、よりオリエンテーション色の強い行事へと装いを変えたという気配が見て取れるからだ。「変わる」ということに対する実績はあるのである。
堂内に保管されていた年季の入った太鼓やバチ、鉦(かね)。金子さんに許可をいただいて触らせていただくと、実際に見たわけでもないのに、在りし日の祭りの様子が脳裏に立ち上がってくるような興奮を覚えた。この太鼓を叩いたら、どんなに気持ちのいい音が鳴るだろうか。まだまだ現役で使用できる道具である。
天道念仏で使用した太鼓を触らせていただく
踊りの際に打ち鳴らす鉦と撞木(しゅもく)
取材後、複雑な思いを抱きながら帰路につくも、あきらめきれない自分もいる。いつかまた、海神念仏堂の前に色鮮やかな祭壇が再び建てられる日が来ることを願わずにはいられない。(了)
Text:小野和哉
プロフィール
小野和哉
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono
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