ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。
口コミで開かれた、指揮者の道
皆さん、こんにちは! 指揮者の阿部加奈子と申します。
オランダのハーグに居を移して今年で7年目。その前は約20年間、パリを拠点に主にヨーロッパで演奏活動を行ってきました。よく音楽家は「旅ガラス」などと形容されますが、2023年の私の活動範囲をGoogleアプリで調べてみたところ、1年間で10ヵ国95都市を訪れていたようです。近年は日本で演奏する機会も増えてきたので、どこかで私の名前を見かけてくださった方もいるでしょうか。昔に比べると女性の指揮者はずいぶん増えましたが、まだまだ少数派なので「今日の指揮者は女性なんだ」と記憶に留めてくださった方も多いかもしれません。
日本で仕立てた新しいスーツを着て、本番前のショット!
ちょうどこの記事が公開される頃には、神奈川県立音楽堂で神奈川フィルハーモニー管弦楽団を指揮します(5月18日)。終演後はウィーン芸術週間に出演するためその晩のフライトでヨーロッパにとんぼ返りですが、7月には関西フィルハーモニー管弦楽団との共演のため再び日本に来ます。公演の詳細は記事の末尾にありますので、お近くの方はぜひ聴きにいらしてください!
日本では今年1月(東京)と2月(名古屋)にも、藤原歌劇団本公演でグノー作曲のオペラ《ファウスト》を振りました。《ファウスト》はメインキャストやオーケストラに加えて合唱やバレエも入り、上演に3時間以上かかる大規模な舞台です。普段日本にいない私は12月中旬に帰国して、1ヶ月間ほぼ毎日リハーサルを行い本番に臨む、というハードなスケジュールでしたが、無事3回の公演を終え、たくさんのブラヴォーをいただくことができました。
2藤原歌劇団公演《ファウスト》のカーテンコール。(写真提供:公益財団法人日本オペラ振興会)
今回が私にとって日本で初めてのオペラ指揮となる「オペラ・デビュー」でしたが、個人的に《ファウスト》自体はとても馴染みのある作品です。なぜなら、20代の頃にフランスでオペラ作品ばかり歌う合唱団の専属ピアニストをしていたことがあって、その頃に《ファウスト》も全幕ピアノで弾き、さらにはときどき自分も歌ったりしていたことがあったので、全部頭に入っていたからです。
当時はまさか20年後に自分がこの作品を指揮することになるとは想像もしていませんでした。それどころか、「将来、指揮者になるぞ」とも思っていなかったかもしれません。普通、指揮者のキャリアといえばアシスタントをしながら研鑚と経験を積み、コンクールで入賞したり、あるいは有力者から推薦を受けたりしてエージェントと契約し、エージェントにプロモーションしてもらって徐々に仕事の幅を広げていく、というのが王道です。
ところが私の場合、指揮の仕事を得てきたのはほとんど「口コミ」のおかげです。20代の頃にやっていた合唱団の専属ピアニストの仕事が噂で広まり、その後あちこちからオペラ関連の仕事に呼ばれるようになりました。その一つがパリ管弦楽団合唱団です。そこで出会ったアーサー・オールダム(Arthur Oldham, 1926~2003)――親しみを込めて「アーサーおじいちゃん」と呼んでいます――という指揮者から、音楽についての貴重な教えをたくさん授けてもらいました。当時は伴奏ピアニストとして参加していましたが、いま思うとオペラのことも指揮のことも、この時に実地で大いに学ばせてもらったのだと思います。そうやって「口コミ」で仕事をいただくうちに、いつしか指揮台の上で仕事をするようになったのです。
20代で結婚し、「作曲」を封印する
私は20歳のときに当時通っていた東京芸大を休学してパリ国立高等音楽院に留学したのですが、それから20代はほぼずっと学生でした。留学から戻って芸大を卒業したあと再びフランスに渡り、さらに11年間かけてパリ国立高等音楽院で7つのクラス(和声・対位法・フーガ・管弦楽法・楽曲分析・伴奏・指揮)に在籍しました。最後の方は学生として在籍しながら先生として教えたり伴奏助手の仕事もしたりしていたので、音楽院はほとんど第二のホームのような感じです。そうやって昼間は学生をしながら、授業のない時間は伴奏ピアニストや作曲や編曲など、生活のためにありとあらゆる仕事を掛け持ちしていたので、それはそれはハードな毎日でした。
20代の頃の私。
どうして働きながらそんなに長く学生をやっていたかというと、それは当時結婚していた夫のためでもありました。結婚相手は留学時代に音楽院で知り合ったフランス人の作曲家です。実を言えば、芸大卒業後に再び渡仏したのも、彼と24歳で結婚したからでした。音楽院の学生になると、必要な楽譜や資料が借りられるなど、音楽家にとっては得がたいさまざまな恩恵があります。「加奈子は学生を続けてほしい」というのは、当時駆け出しの作曲家だった夫からの要望でした。私も芸高・芸大を通じてずっと専攻は作曲でしたが、結婚を機に作曲は封印しようと思いました。これからは「作曲家の奥さん」として、夫のサポート役に徹しようと考えたのです。
「君は実践のクラスに行くべきだ」
結婚後にパリ国立高等音楽院で最初に取ったのは「管弦楽法」と「楽曲分析」のクラスです。当時、両方のクラスの先生から同じことを言われました。「結婚したからといって自己研鑽や活動を制限しないでほしい。もったいない」。どういうわけか、2人とも私の能力をとても買ってくださっていました。
楽曲分析というのはいわゆる作曲理論を専門的に学ぶクラスで、指導教官はミカエル・レヴィナス先生です。「レヴィナス」という名前を聞いてピンとくる方もいるでしょうか。ミカエル先生は、フランスの有名な哲学者エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas, 1906~1995)の息子さんです。お父さんゆずりの非常に難解なフランス語を話されるのですが、当時まだフランス語を十分に習得していなかった私には何を話しているのかちんぷんかんぷん。当てられないように、いつも教室の隅の方で大人しくしていました。
しかしさすがに何回かすると、先生も「変なのが混じっているな」と気づきます。ある日、授業中に「ちょっと」と呼ばれて教室のピアノの前に座らされました。「これを弾いて」と渡されたのはハイドンの交響曲のスコア。スコア(総譜)というのはオーケストラの全パートが縦にずらっと並べて書かれた楽譜です。演奏会で指揮者が見ている楽譜ですね。それを読みながらピアノで再現することを「スコアリーディング」というのですが、ミカエル先生は普段存在感を消している私が何者なのか不審に思ったのでしょう、スコアリーディングをしてみよ、というわけです。
私は初見演奏(楽譜を見てすぐに演奏すること)もスコアリーディングも得意でした。ほかの学生たちがピアノの周りを取り囲んで事の次第を見守るなか、言われた箇所を私が一通り演奏すると、ミカエル先生が言いました。「君、ドビュッシーの交響詩《海》は知ってるね? 第3章の第1テーマを弾いてみて」。今度はスコア無しです。退学させられては困るので、必死で記憶を頼りに演奏すると、ミカエル先生が「オーッ!」と驚きます。すると最後にかばんからハイドンの弦楽四重奏曲のCDを取り出してこう言いました。「いまから第1楽章を2回聴かせる。それをピアノで再現してごらん」。
まるでサーカスみたいに学生たちの好奇の視線にさらされて嫌でしたが、しょうがないから一生懸命聴いて、弾きました。するとミカエル先生はこう言いました。「君は入るクラスを間違えた。実践のクラスに行くべきだ」。実践、つまり伴奏科、作曲科、指揮科を受けなさい、というのです。
卒業試験で審査員からアンコール
とはいえ、楽曲分析のクラスに入ってしまった以上、卒業しなければなりません。卒業するには論文を書いて発表する必要があります。私は卒業論文のテーマにラヴェルの管弦楽曲《ラ・ヴァルス》を選んだのですが……。
試験の前日になって自分の書いたものをミカエル先生に見せたところ、青くなって「これは論文というよりただのデッサンじゃないか」と言われてしまいました。当時はまだ、フランス語で研究論文が書けるほどの語学力がなかったのです。私がすっかりしょげていると、ミカエル先生が言いました。「僕は君に優秀な成績で卒業してほしいんだ。どうだい、僕と協定を結ばないか?」。
ミカエル先生の提案はこういうものでした。私が書いた「デッサン」は、明日までに先生が論文にふさわしい文章に整える。そして、「明日の発表はまず演奏から始めなさい。いますぐ家に帰って、《ラ・ヴァルス》のスコアを最初から最後まで全部ピアノで弾けるようにしておいで」。
その日は徹夜です。当時、私はラヴェル自身による《ラ・ヴァルス》のピアノ編曲版があることを知りませんでした。オーケストラのスコアと首っぴきで、翌日も学校へ行くギリギリの時間まで必死で練習して、試験会場に駆け込みました。自分の発表の番になると、「まずは、演奏からご披露致します」といっておもむろにピアノの前に座り、一夜漬けでスコアリーディングした《ラ・ヴァルス》を弾きました。すると審査員席がワーッ!と盛り上がってしまって、「もう1回弾いて」と声がかかります。アンコールにこたえてもう一度弾くと、ちょうどいい時間稼ぎに。あとはミカエル先生が整えてくださった論文を、そのままだと不自然なので、時折自分のコメントを挟んだりしながら発表しました。
楽曲分析のクラスでお世話になったレヴィナス先生と。
こうして最終的に、私は楽曲分析科を非常に優秀な成績で卒業することができたのでした。私の資質を見抜き、うまく導いてくださったミカエル先生には感謝しかありません。(つづく)
著者出演情報
▼2024年5月18日(土)15時00分開演
- 音楽堂シリーズ第29回
- 出演:神奈川フィルハーモニー管弦楽団、阿部加奈子(指揮)
- 会場:神奈川県立音楽堂
- URL:https://www.kanaphil.or.jp/concert/2955/
[プログラム]
武満徹:弦楽のためのレクイエム
ラッヘンマン:塵
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄」
▼2024年7月31日(水) 19時00分開演
- 大阪市中央公会堂特別演奏会 《古典の真髄》
- 出演:関西フィルハーモニー管弦楽団、阿部加奈子(指揮)
- 会場:大阪市中央公会堂
- URL:https://kansaiphil.jp/concert/
[プログラム]
モーツァルト:フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477
モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92
※2024年5月17日現在の情報です
プロフィール
阿部加奈子
指揮者/作曲家/ピアニスト。
オランダ在住。東京藝術大学音楽学部作曲科を経て、パリ国立高等音楽院にて作曲に関連する6つの課程とともに日本人として初めて同音楽院指揮科で学び、フォンティス総合芸術大学大学院指揮科(オランダ)にて修士号を取得。パリ国立高等音楽院在学中より、ヨーロッパを活動の拠点に、指揮者、ピアニスト、作曲家として多方面で活躍する。2025年11月に横浜みなとみらいホールの委嘱による作曲家・阿部加奈子の新作を、阿部自身の指揮にて神奈川フィルハーモニー管弦楽団が初演する予定である。
公式ホームページ:https://www.kanakoabe.com/(英語、フランス語、日本語)
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