15世紀の中頃のドイツにおいて、その後の歴史を一変させてしまう、まさに世紀の大発明が誕生しました。それがヨハネス・グーテンベルク(1398–1468)による活版印刷の実用化です。それまで存在していた版画の延長線上にある技術を改良・刷新することで、印刷を工業化。これにより書物が格段に手に入りやすいものとなったのです。最初のベストセラーとなったのは「聖書」……という話は、世界史の授業で習った記憶があるかもしれませんね。本日ご紹介するのは、ここから派生した楽譜印刷の歴史のはじまりのお話です。
楽譜の印刷技術が歴史にもたらしたもの
金属製の「活字」を並べることで版をつくる活版印刷
活版印刷が実用化される前から、教会で歌われるためのシンプルな聖歌の印刷がなされることもありましたが、こちらは木版画での印刷。彫刻刀で1枚ずつ彫るわけですからプロであっても音符ひとつひとつのサイズや長さは異なってきてしまいますし、木製ですから強度が足りず、綺麗に刷れる枚数もあまり多くありませんでした。そんな状況が変わったのは16世紀の初頭。イタリア人のオッターヴィオ・ペトルッチが活版印刷を用いて楽譜の印刷に成功したのです。更には徐々に複雑かつ美しい楽譜(例えば3色刷り等)も印刷できるようになっていきました。
こうした楽譜印刷の技術が確立されるまで、楽譜の複製(コピー)は手で書き写すのが主流。(オリジナルの自筆譜を含めて)火災や紛失などですべての資料が失われてしまうことも珍しくありませんでした。楽譜に印刷されるようになるとコピーの絶対数も増えますし、あちこちに売れることで作品が散逸する危険性が大きく減ったのです。
そのうえ、手で書き写しているだけだと(伝言ゲームのようなものですから)書き写すたびにミスが発生することが多かったため、後世の音楽学者を悩ます「異稿」が発生することが多かったのも問題でした。楽譜を出版する場合は印刷前に作曲家本人が確認をしているため、そうしたことも手で書き写していた頃よりは減らせたのです。
どうでしょう、楽譜の印刷技術が確実に歴史を変えていったこと、ご理解いただけましたでしょうか。そのうえでご紹介するのは、近代的な楽譜出版のはじまりとなった(現存する最古の楽譜出版社でもある) ブライトコプフ&ヘルテル(ドイツ語なので「&」は「ウント」と読みましょう!)についてです。
ブライトコプフが起こした楽譜出版の改革
14歳になる年に印刷業界で見習いをはじめたベルンハルト・クリストフ・ブライトコプフ(1695–1777)は、1719年に結婚。妻の父ヨハン・カスパー・ミュラーの印刷・出版業を継ぐことで、後にブライトコプフ&ヘルテル社として世界的に知られるようになる事業をはじめます。1736年頃からは、かのJ.S.バッハとも関わりを持ちますが、バッハから依頼を受けたのは、歌詞や演奏会プログラムなど。楽譜の印刷で本格的に名を上げていくのはベルンハルトの息子、ヨハン・ゴットロープ・イマヌエル・ブライトコプフ(1719–1794)が1745年にこの会社を継いだあとになります。
1枚目・父ベルンハルト/2枚目・息子ヨハン
ヨハンは金属製の「モザイク活字 Mosaic Types」を(その名の通り、モザイク状に)並べる手法によって、美しくて音符の読みやすい楽譜印刷の手法を他社よりも高いクオリティで実現。これにより、テレマン、C.P.E.バッハ(あの大バッハの次男)、レオポルド・モーツァルト(神童モーツァルトの父)、ハイドンといった歴史上に名を刻む偉大な作曲家たちの楽譜を次々と出版していきます。当時、印刷所には100名以上のスタッフがいたといいますから、どれほど事業規模が大きくなっていたか、お分かりいただけるかと思いますし、この時代の著名な作曲家のほとんどがブライトコプフ社から楽譜を出版したいと強く願うほど、憧れられる存在になっていました。
ヘルテルによる更なる挑戦と飛躍
一大楽譜出版社へと育て上げてあげたヨハンは1794年に亡くなりますが、彼の息子たちは最終的には家業を継ぎませんでした。そのためゴットフリート・クリストフ・ヘルテル(1763–1827)が1796年に会社を買収。経営を担うようになり、遂に社名が、現在知られている通りのブライトコプフ&ヘルテルになったのです。
彼は、当時最新のリトグラフ(石版画)の技術を取り入れようとしたり、音楽批評を掲載する新聞を発行したり、メンデルスゾーン、リスト、クララ・シューマン、ワーグナーといった著名な作曲家も弾くようなピアノの生産を手掛けたりするなど、これまでの常識にとらわれず、事業を拡大。その全てが上手くいったわけではありませんが、ヘルテルの挑戦があったからこそ、ブライトコプフ&ヘルテル社はパイオニアとしての地位を保つことが出来たのでしょう。その最たるものが「批判校訂版 critical editions」です。資料を検討し直し、改めて作曲家の意図が正しく反映された出版譜を世に出そうという姿勢は、現代における「原典版 urtext」の先駆となりました。
また、この時期はベートーヴェンとの交流も重要です。ベートーヴェンが音楽史に革命を巻き起こしていた時期の多くの作品を最初に出版したのが、ブライトコプフ&ヘルテル社でした。交響曲第5番《運命》、第6番《田園》、そしてピアノ協奏曲第5番《皇帝》など、出版の権利を作曲家から高額で買うことで、彼の創作を支援しました。加えて、出版に際してやり取りされた数多くの手紙が保存されていたので、ベートーヴェンが作品に込めた思いを、後世の私たちも知ることが出来たりするのです。
ベートーヴェンは、ブライトコプフ&ヘルテル社から自作のピアノ曲を網羅的に出版することを望みましたが、あちこちの出版社に権利を売りさばいていたために実現しませんでした。こうした「作品全集 Oeuvres complètes」が実現するのは、ゴットフリート・クリストフ・ヘルテルの死後になります。
彼の亡き後に会社を引き継いだ甥っ子と2人の息子(レイモンド、ヘルマン)の時代。J.S.バッハ没後100年にあわせて1850年にバッハ協会が設立され、「バッハ全集」(※現在でいうところの旧全集)の刊行プロジェクトがスタート。このなかでブライトコプフ&ヘルテル社が浄書と出版を担うようになります。驚くなかれ、(補巻を除けば)全46巻の出版が完了したのは1899年のこと。50年にもわたる長大なプロジェクトを一貫して手がけることが出来たのは、老舗ならではといえるでしょう。
1枚目・タウヌスシュタイン支部/2枚目・ライプツィヒ社屋
こうした「作品全集」の出版は、その後ほかの作曲家、ほかの出版社でも続いていくことになりますが、世界で初めて手掛けたのがブライトコプフ&ヘルテル社でした。バッハの全集と並行して、1862年から1865年にかけては先代と縁の深かったベートーヴェンの全集も出版していますから、会社の基礎体力の高さにも驚きますし、単に商売として目先の利益にこだわることなく、音楽文化のために献身し続けたことには頭の下がる思いです。
そして現代へ
ゴットフリート・クリストフ・ヘルテルの息子であったレイモンドとヘルマンは共に、事業を引き継ぐ跡取りがいなかったので、甥のヴィルヘルム・フォルクマンと、オスカー・フォン・ハーゼが経営を担いました。彼らもまた先代までの事業を継承しつつ、パイオニア精神を忘れることはありませんでした。美しい楽譜の製作を探求するため、最新の浄書・印刷技術の開発をおこない、作曲家自身が納得するような内容で楽譜を出版し続けること……どんな時代も常に作曲家に寄り添おうというスタンスだからこそ、名だたる作曲家のお歴々にも信頼され、いつの時代もリーディングカンパニーとしての地位を失うことがなかったのでしょう。
もちろん、ブライトコプフ&ヘルテル社は今も現役です。現代を生きる作曲家の作品を出版し続けると共に(日本人では久保摩耶子、望月京の楽譜を出版しています)、批判校訂を経た原典版の出版も続けており、その特徴は学術的でありつつも、実用的であること。他社の原典版ではオリジナルにこだわり過ぎるあまり、演奏の際に混乱をきたす場合もあるのですが、ブライトコプフ&ヘルテル社の新しい原典版は、整合性もとられている安心設計。作曲家だけではなく、演奏家からも愛される所以でしょう。
もうひとつ皆さまに知っておいていただきたいのは、こうした新しい楽譜が出版されても、古い楽譜もまた使われ続けるということです。例えば「第九」を筆頭とするベートーヴェンの交響曲を演奏する現場では、(19世紀後半に出版された、いわゆる)ブライトコプフ旧版がまだまだ使われることも多いのです。それは多くのオーケストラが所蔵し、長きにわたって用いてきた重要な存在であり、伝統的な様式での演奏をしようとする指揮者にとっては今も現役の楽譜であるからなのです。その作品が演奏され続ける限り、旧版・新版問わず、楽譜は生き続けています。
(本記事は、2019年10月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter): https://x.com/TakayukiKomuro
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