これまでの連載のなかで、何度か「原典版」の話題を取り上げました。いま一度、残された資料を創作や受容の過程を含めて整理し、出版後におこなわれた修正・改訂も含めて、作曲家が意図した最終的な完成形を正しく反映した楽譜を出版しようというのが、原典版の目指すところです。演奏の際には原典版を使うべきだ!……という意見が現在では主流になりつつありますが、ある意味でその真逆をいくのが、いわゆる「解釈版」と呼ばれる楽譜。先月の記事で取り上げたコルトー版も代表的な例のひとつですが、それ以上に深く浸透したのがインターナショナル・ミュージック社による出版譜でした。
日本では単にインターナショナル版、あるいは略してインター版なんて呼ばれることもありますが、正式にはインターナショナル・ミュージック・カンパニー(略称 IMC)という1941年にアメリカで設立された出版社です。日本語に訳した時に混同されてしまいそうなインターナショナル・ミュージック・パブリケーションズという企業もありますが、こちらはイギリスで設立されたワーナー・ブラザース系の出版社なので全くの別系列になります。
インターナショナル・ミュージック・カンパニーを立ち上げたのはエイブラハム W.ヘンドラー Abraham W. Haendler (1894頃~1979)という人物で、経営だけでなく、マーラーの楽譜を出版する際にはドイツ語の楽語*1を英語に翻訳したりもしているようなのですが、いずれにせよ資料が少なく、詳細は不明。亡くなるまで、この出版社の経営を続けました。そして彼の死後は、フランク・マルクスという人物が会社を継ぎ、ボーン音楽出版社 Bourne Co. Music Publishers(「ホワイトクリスマス」などの名曲で有名なアーヴィング・バーリンらによって設立)の子会社となって現在に至ります。
*1……音楽用語のこと
▲アーヴィング・バーリン(1888~1989)
ヘンドラーの経営方針は、作曲家の新作を手掛けるというよりも、既にある程度知られた楽曲のアメリカ国内版や、原曲とは異なる編成のアレンジを手掛けることにあったようです。様々な楽譜が出版されましたが、ボーン社の傘下となっている現在の公式サイトをみると、次のような売り文句が書かれています。
私たちの〔楽譜の〕編集者は、あらゆる音楽分野における世界で最も卓越した演奏家や、一流交響楽団の楽団員、教育者、教師と、それぞれの分野で著しく有名な顔ぶれを揃えています。彼らの貢献により、IMC版は音楽界にとってかけがえのない存在となっているのです。
どういうことかといえば、卓越した演奏家や、優秀な弟子を輩出する教育者が楽譜の編集者を務めることで、彼らの演奏や指導の秘密の一端を今からでも学ぶことが出来るのです。それこそがインターナショナル・ミュージック・カンパニーの楽譜が現在でも愛用されている理由なのです。
この出版社と最も深い関係にあった演奏家のひとりがジノ・フランチェスカッティ(1902~1991)――イタリア系のフランス人ヴァイオリニストでした。フランチェスカッティの父は、パガニーニの孫弟子にあたる人物であり、彼自身もその教えを継いだパガニーニ弾きとして知られています。パリ時代にはフランスの大ヴァイオリニストであるジャック・ティボーに師事したり、ラヴェルの弾くピアノとも共演したりと、若い頃から偉大な音楽家から薫陶を受けています。転機となったのは1939年、第二次世界大戦を避けてアメリカに移住したこと。同じ年にアメリカへと逃れてきた大指揮者ブルーノ・ワルターとも度々共演し、とりわけモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集の録音は、史上最高の名演のひとつとされています。
どういう経緯があったかは不明ですが、確認できる範囲で早い時期にフランチェスカッティが編集に携わったのは1954年のショーソン《詩曲》でした(※なお、シベリウス《ヴァイオリン協奏曲》の楽譜には1942年&1964年とクレジットされていますが、1942年の方にフランチェスカッティは関わっていない模様です)。その楽譜にはどのような特徴があるのでしょうか?
ヴァイオリンなどの擦弦楽器(弓で弦を擦ることによって音を出す楽器)の楽譜は、スラー(音符から音符にかけられた曲線)のかけ方によって、弓をどこまで折り返さずに演奏するのか(これをボウイングもしくは運弓といいます)を指示しています。作曲者のショーソンはピアノを演奏しましたが、ヴァイオリン弾きではなかったからでしょうか。全体的な傾向としてスラーが長め。いわゆるフレージング・スラー(運弓ではなくフレーズ感を示したスラー)と呼ばれるような、弦楽器奏者がそもそもから考え直す必要があるようなスラーの付け方になっているのです。
それに対し、フランチェスカッティの編集が加わった楽譜(公式サイトに楽譜のサンプルがあるので、必要があれば参照してみてくださいね!)は、スラーが付け直されているだけでなく、どこで上げ弓、下げ弓にするのかという指示も適宜書かれていたり、使用する弦やフィンガリング(指使い)も細かく書き込まれています。これらは本来、演奏者が練習するなかで自ら判断し、書き込んでいく内容ですから、通常は弟子入りでもしない限り、見せてもらえません。いわば一流企業が企業秘密の一端を公開するようなものと考えれば、ヴァイオリニストにとってどれほどインパクトがある存在か、感じていただけるのではないでしょうか。
▲詩曲 Op.25/フランチェスカッティ編 ショーソン, Ernest
しかし、問題がないわけではありません。そもそも原典版のような綿密な制作過程がとられていないため、楽譜に間違いが多く(これはコルトー版にも言えることです)、更には編集者の書いた細やかな指示はパート譜にだけ書かれ、ピアノ伴奏譜に反映されていなかったり、指示の書かれた位置がパート譜とピアノ譜で微秒にずれていたり……。そして何よりも考えなければならないのは、作曲家が書いていない音が書き足されている場合も珍しくないのです。(具体例のひとつを、東京交響楽団の第1ヴァイオリン奏者土屋杏子さんが自身のブログで、具体的に楽譜を比較しながら解説しているものがあります。気になる方はご参照ください。https://ameblo.jp/kyoko-violin/entry-12571466007.html )
もちろん、音の変更を作曲家への冒涜だとみなす向きもありますが、その作品をより魅力的に聴かせるために音を加えたのだとしたら、簡単に否定できるでしょうか? 確かに作曲家はまず、自分の意図した通りに演奏されることを望んでいますけども、作曲者自身でさえ、作品の可能性をすべて理解できているわけではないのです。例えば、毒舌で知られるブラームスに、こんなエピソードが残されています。
ブラームスがライプツィヒで、彼の交響曲の練習に立ち会ったときのこと、何度もぶつぶつこう独り言を言っていた。「うーん、信じられんねえ、これがほんとにわしの曲とは。」そして演奏が終わると、彼はよろこびで顔をかがやかせながらニキシュのもとに駆け寄り、こう叫んだ。「あなたのやり方はわたしの考えとはまったく違う。でもあなたのやり方が正しい、そうでなくちゃならんのだよ!」
ルーベルト・シェトレ 著/喜多尾道冬 訳『指揮台の神々――世紀の大指揮者列伝』(音楽之友社, 2003)より引用
▲アルトゥール・ニキシュ
ニキシュというのは、カラヤンとフルトヴェングラーの前にベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者を務めた伝説的な音楽家なのですが、楽譜通りに演奏することだけが演奏家のあるべき姿ではなく、あくまでも目指すべきはより良い音楽を披露すること。このブラームスのエピソードからは、当たり前であるはずのことを思い起こさせてくれます。だからといって原典版が悪いわけではありません。大事なのは、楽譜通りに演奏するということだけに慢心しないこと。そのためにも過去の大演奏家の録音や、彼らが遺した解釈版を参照する意義があるのです。
(本記事は、2020年5月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter):https://x.com/TakayukiKomuro
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