Sheet Music
Storeで「輸入楽譜」と検索し、「価格の高い順」に並び替えてみると、上位にくるのは「全集楽譜」や「パート譜セット」など、物理的にページ数や冊数が多い楽譜が中心となります。ところが1曲の総譜(スコア)であるにもかかわらず、5~15万円ぐらいの価格帯が並ぶのが「ファクシミリ版」と呼ばれる楽譜です。ファクシミリといえばFAX(ファックス)の正式名称をイメージされる方が多いことと思いますが、facsimileは「複写」を意味する英単語で、楽譜の場合、作曲家自身が手書きした「自筆譜」の複製を指す言葉として使われることが多いのです。今回はこのファクシミリ版の存在意義について、迫ってみようと思います。
出版譜からこぼれ落ちてしまう情報
そもそも、これまで連載のなかで紹介してきたように専門家が仔細に研究を重ねて出版した原典版(作曲家の最終判断を反映させた楽譜)が存在しているのに何故、手書きの譜面に立ち戻る必要性があるのでしょうか? 例えば、下記の画像はベートーヴェンの月光ソナタ(ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調)の第1楽章の自筆譜から抜粋したものですが、右手と左手で楽譜の縦の線が揃っていなかったり、表記が省略されていたり、ぐちゃぐちゃと音符が消されていたり、手書きで五線が書き足されていたりと、お世辞にも読みやすい楽譜とはいえません。
そして自筆譜であろうと音の間違いが存在しています。下記はベートーヴェンの熱情ソナタ(ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調)の第3楽章の終結部なのですが、赤丸で囲んだ音符は「ラ♭」になっており、実際、ウラディーミル・ホロヴィッツはこの自筆譜の通りの音にした演奏を録音しています。ところが専門家は総じて、様々な根拠によりベートーヴェンの書き間違いと判断。出版されている楽譜では「ファ」に修正されているのです。
以上のような状況を鑑みると、自筆譜はベストな選択とは言い難いことがご理解いただけるでしょう。ところが、出版譜になる過程で実は削ぎ落とされてしまう情報もあるのです。有名な事例として挙げられるのが、シューベルト作曲の未完成交響曲(交響曲第7番 ロ短調)の第1楽章のラストです。ちなみに、下記の楽譜はあのブラームスが校訂編集した出版譜になります。
最後から5小節目にff(フォルティシモ/とても強く)と指示があり、音楽は決然と終わるかのように思われるのですが、最後から2小節目の和音までくると、全ての音符に「>」を横長にした記号がつけられています。これは「徐々に弱く」という意味のデクレッシェンドを表す記号であるため、この最後の和音はffの付された音よりも柔らかく演奏されることが多いのです。古今東西、有名な指揮者の数多くがそのように演奏した録音を残しています。
しかしながら、シューベルト自身が手書きした自筆譜と、先程の出版譜をじっくり見比べてみると、異なる可能性が浮かび上がります。デクレッシェンドが上に書いてあるか、下に書いてあるかという違いはスペースの都合に過ぎませんが、音符を中心に見た時に「>」を横長にした記号の位置が微妙に異なっているのです。自筆譜(下記図の左)は中央で、出版譜(下記図の右)は右寄りに付されているように見えないでしょうか? もし中央に付けられている記号だとしたら、これはデクレッシェンドではなくアクセント(通常は横長ではない「>」)の可能性が出てきます。
他のページも見比べてみると、より傾向がはっきりします。下記の譜例のなかで水色で囲んだ部分はデクレッシェンドだけでなく、クレッシェンド(横長の「<」)も含まれていますが、いずれも音符の中央に書かれているように見えません。一方、オレンジ色で囲んだ音符に付けられた「>」は音符の中央に位置しているように見えますよね?(先程のブラームスが校訂した出版譜でも、ここはアクセントとして印刷されています。)つまりシューベルトは、「デクレッシェンド(横長の「>」)」と「アクセント(ただの「>」)」を横長かどうかで書き分けているのではなく、音符の中央に位置しているかどうかで表しているようなのです。
なお、似たような問題はショパンでも発生しております。ノクターン(夜想曲)第8番変ニ長調(Op.27 No. 2)の第5小節目を4種類の楽譜で比較してみましょう。自筆譜では、ほぼデクレッシェンドのようにみえますが、初版譜ではどちらかというとアクセントに、ブライトコプフの旧版ではデクレッシェンドになっています。これだけなら、単に初版譜の誤り……と判断すれば良さそうなのですが、ショパンに直接ピアノを習ったカロル・ミクリ(1821~1897)が校訂した楽譜では、明らかにアクセントに修正されているのです。
では、以前の連載でも取り上げた最新の原典版ではどうなっているのでしょうか?
こちらは著作権の関係で実際の譜面をご覧いただくことは出来ないのですが、結論だけいえばアクセントかデクレッシェンドかを明確に書き分けず、自筆譜に忠実な長さと位置を出版譜で再現しようとしているのです。言い換えれば、従来は自筆譜をチェックしなければ分からなかったような情報をなるべく、印刷譜にも残そうと試みていることがお分かりいただけますよね。
もうひとつ、自筆譜ならではの意味を考えさせてくれるのが作曲家 黛敏郎(題名のない音楽会の初代司会者)と指揮者 岩城宏之のエピソードです。黛の代表作である涅槃交響曲は、1958年4月2日に岩城の指揮によって初演されました。以来、岩城は黛の手書きの楽譜(のコピー?)をもとに演奏を重ねていましたが、1969年にペータース社から出版されたため、黛はその楽譜を改めて岩城に贈ったのですが、とにかく演奏がしづらかったそう。もちろん使い慣れているかどうかということもあったのでしょう。でも岩城自身によれば、それ以上に手書きから音楽そのもののイメージが喚起されることが大事だったようです。手書きだからこそ読み取れる楽譜の「行間」があったのでしょう。
なぜ、ファクシミリ版は高いのか?
自筆譜が重要なことには異論がなくとも、何故、高額なファクシミリ版が必要とされるのでしょうか? ひとつめの理由はファクシミリ(複製)ではなく、本物の自筆譜を見に行けばいいのでは?……と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、そう簡単に貴重な自筆譜は見せてもらえないからです(身も蓋もありませんが)。例えば、2003年にベートーヴェンの「第九」が日本円にして4億円以上、2016年にはマーラーの「復活」が6億円以上の価格で落札されたりしていますから、当然、誰でも自由に閲覧可能な資料として公開されたりはしないのです。
ふたつめの理由としては、先ほどまで例示してきた自筆譜の画像をよく見ていただくと分かるように、インターネット上で無料で公開されている自筆譜のデータ(多くはPDF)は、画像が荒く、細かい判断には適さないということがあります。それに対し、ファクシミリ版(ただし布装されるような高額なものに限ります)は、自筆譜を原寸大で、紙の質感なども観察できるほどの高精細な印刷にすることで、「複製 facsimile」を作っているのです。規格外の要素も多く、当然大量生産には向きませんし(他の楽譜ほど大量に売れることもありません!)、1曲ごとの値段は上がってしまうのです。
つまり、楽譜のファクシミリ版とは、絵画における高級な複製にあたるものだともいえるでしょう。絵画のように額装して飾ることにはむいていませんが、絵画が単なるインテリアではなく一種のステータスとなるように、ファクシミリ版も所持することで得られる満足感があるのです(ちなみに筆者は、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」のファクシミリ版を所有しています)。極端なことをいえば、作曲家に関連するグッツ(一次資料などを除けば)の最高峰ともいえるかもしれません。むしろ、研究目的だけでなく、そういう理由で気軽に購入しても良いのになあ……と、思う次第です。
(本記事は、2020年6月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学
ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter):https://x.com/TakayukiKomuro
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