伴奏ピアニストはつらいよ【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】
ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 6月はオランダ名物「ハーリング」の季節 皆さん、こんにちは! 日本は梅雨の季節ですね。私が住んでいるオランダでは、6月になると新ニシンの解禁を祝って「ハーリング」と呼ばれるニシンの塩漬けを食べる行事があります。街のそこかしこにハーリングや魚の燻製、フライなどを売っているスタンドがあり、この時期はとくに大勢のオランダ人で賑わいます。ここハーグでは、頭と小骨を取って塩漬けにしたニシンのしっぽを手でつまんで顔の高さまで持ち上げ、そのまま一口で食べるのが流儀。脂ののった初物のニシンはとても美味しいですよ! といっても、私自身この時期仕事でオランダにいないことも多く、実際に食べたのはまだ数えるほどしかないのですが……。 ハーグのハーリング(塩漬けニシン)。刻んだ玉ねぎとピクルスを添えていただきます。 ハーリングを売っているスタンド。 さて、連載第1回目では、パリ国立高等音楽院「楽曲分析科」の卒業試験の時の思い出話をご紹介しました。今回は、その続きから。 モンスターぞろいのパリ国立高等音楽院「伴奏科」 無事楽曲分析科を卒業したあと、伴奏科のクラスに入りました。「伴奏」と聞くと、ソリストを支える脇役のように思うかもしれませんが、正直なところ、パリ国立高等音楽院の伴奏科は指揮科よりもむずかしいと思います。近いところでは、ニコラ・アンゲリッシュ(Nicholas Angelich, 1970~2023)とか、永野英樹(1968~)さんとか、セドリック・ティベルギアン(Cédric Tiberghien, 1975~)などがいました。要するに、「伴奏科」といっても伴奏だけを専門にしている人はほとんどいなくて、国際ピアノコンクールで優勝してソリストとしても活躍しているような人がゴロゴロいるのです。 だから入学試験もエグいですよ。一次試験はピアノの実技なんですが、私が受けた時の課題曲は、シェーンベルクの初期に書かれた無調のピアノ曲、ショパンの前奏曲変ロ短調(最初から最後までひたすら速いパッセージで駆け抜ける)、そしてなぜかシューベルトの《楽興の時》の3番。これらをすべて暗譜で。しかも、課題曲は試験の2週間前に発表されるんです。 試験はさらに続きます。初見(その場で楽譜を渡され数分間黙読したあとに演奏する)で伴奏する試験もありましたし、さまざまな音部記号(よく見るト音記号やヘ音記号以外にアルト記号やソプラノ記号などがあります)で書かれたコラール(讃美歌の合唱曲)を初見で弾きなさい、というのもありました。また、リスト編曲によるベルリオーズの《幻想交響曲》ピアノ独奏版というのがあるんですが、その終楽章の楽譜を見せられて「何の曲か答えよ」という試験。私は知っていたからよかったんですが、答えられないとそこで不合格。もちろんこれも初見で演奏しなければなりません。こんな感じで1週間くらいかけて試験を行います。 つまり、このクラスに入ってくる人たちはどんな複雑な曲もすらすら読めて初見に強い、モンスター級の能力の持ち主ばかりなのです。そのため伴奏科は一種の職業あっせん所のようになっていました。「本番直前にソリストが急病になり代役を探している」というような緊急要請がフランス各地からこの伴奏科宛てに入ってくるのです。伴奏科の先生の手元には学生の特質や得意ジャンルを把握したリストのようなものがあって、プログラムや共演者との相性を見ながら「じゃあ、誰々がよいでしょう」といって適任者を派遣します。 伴奏ピアニスト時代。トランペットは現在ミュンヘン・フィルの首席奏者アレクサンドル・バティ。 伴奏科に入学後は、私もこの「職業あっせん所」にたびたび仕事を紹介してもらいました。一度、地方の音楽院に伴奏を頼まれて行ったのですが、着いてみたらピアニストは私一人。そしていろんな楽器を持った音楽院の生徒がずらーっと100人くらい並んでいる。この生徒たちの伴奏をしなさい、というのです。もちろん初見で! 40人くらいまではなんとか頑張って正気を保っていたのですが、80人を超えたあたりからだんだん目が見えなくなってきて、最後はあまりにも疲れ果てて泣き出してしまいました。するとようやく周りの先生たちも「これだけの人数を一人で伴奏させるのはおかしい」「こんなことは人道的に間違ってる」と言い出して(気づくのが遅すぎる!)、その日は音楽院のそばにホテルをとってもらい一泊してから帰った、なんてこともありました。 20代の頃。本番前のひととき。 恩師のもとで培った音楽の基礎能力 当時は「指揮者になりたい」とか「ピアニストになりたい」という以前に、とにかく「音楽家としてのスキルを蓄えたい」と思っていました。だから仕事は来るものを拒まず、あらゆるものをやりました。時にはポップスの編曲やピアノの出張レッスンなどもやりましたが、一番多くやったのが伴奏の仕事で、多い時にはバレエやオペラの伴奏ピアノに加えて何十人分もの伴奏を掛け持ちしていて、頭の中に何十曲もの音楽が入っていました。本番直前でギブアップしてしまったピアニストの代演を急に頼まれ、難解な現代曲のピアノパートを弾く、などということもありました。 フランスの古城で開催されたリサイタルで歌手の伴奏をした時。寒かった… この頃はいつも必死でした。結婚を機に、言葉もままならないうちにフランスに移住することになったので、「自分は外国人なんだ」という意識がとても強かったのです。フランスのように自国の文化に誇りを持つ国で外国人の自分が音楽家として仕事をしていくには、とにかくスキルがなくちゃいけない。だから「20代は修行時代」と位置付けて、何があっても歯をくいしばって頑張ろうと思っていました。 当時住んでいたパリの自宅で。 外国で修業時代を生き抜くことができたのは、芸高・芸大時代に恩師たちから授かった基礎教育の賜物だと思います。なかでも、私が中学生の頃から大学までお世話になった永冨正之(1932~2020)先生は日本におけるソルフェージュ教育の大家で、フランスの先進的なソルフェージュ教材をレッスンに積極的に取り入れていらっしゃいました。クレ読み(ト音記号やヘ音記号以外のさまざまな音部記号で楽譜を読むこと)や複雑なリズム視唱(楽譜を読んでリズムを叩く)など、当時は「なんでこんな勉強をするのだろう?」と思うような難しい教材をたくさんやらされましたが、永冨先生のもとで培ったソルフェージュ能力(楽譜を読み、演奏するための基礎的な能力)は修行時代に大いに役立ちました。特に、複雑なピッチやリズムが頻出する現代音楽の演奏の時にはとても重宝され、おかげでのちに多くの現代曲の初演指揮を手掛けることにも繋がりました。 2014年、日本での指揮者デビューに駆けつけてくださった永富正之先生。 指揮との出会い 実はパリ音楽院で最初に取った「管弦楽法」のクラスにいた頃、生涯はじめての指揮を経験しているんです。管弦楽法の指導教官だったマルク=アンドレ・ダルバヴィ(Marc-André Dalbavie, 1961~)先生から、編曲の仕事をいただいた時のことです。それはパリ管弦楽団が子ども向けに行うコンサートのために楽曲をオーケストラに編曲する仕事だったのですが、ある時練習を見に行ったら現場の人から突然、「本番は指揮者なしで演奏するんだけど、さすがに最初から指揮なしじゃ難しいから、編曲者であるあなたが振ってくれない?」と。...