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「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第8回:避けては通れない“音楽史”について】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第8回:避けては通れない“音楽史”について】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第8回は「避けては通れない“音楽史”について」です。    クラシック音楽をただ聴いて楽しむだけでなく、“少し”詳しくなろうとした時、絶対に避けられないのが「音楽史」である。何故なら、作曲家と作品の位置づけは前後の歴史的な関わりと紐付けられることによって、適切に語ることが出来ると考えられているからだ。言い換えれば、歴史的な文脈(コンテキスト)に位置づけられないものは、評価をしようがない……これが西洋文化の本質ともいえる。  素朴な感覚からすれば、作曲されてから数百年後も演奏されている作品を残した作曲家を偉大な存在とみなしていると思ってしまうかもしれないが、実際のところは影響を与えた範囲が大きいほど偉大な作曲家とみなされる傾向がある。だからこそ音楽史を知らずに、有名な作曲家たちについて語ることは出来ないのだ。 (※『フランス音楽史』『オペラ史』のように、範囲を限った音楽史もさまざま出版されているが、今回はクラシック音楽の通史だけを取り上げる。)     ――入門編    日本語で読めるクラシック音楽の歴史で、おそらく最も読まれているのは音楽之友社から出ている『はじめての音楽史 : 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』だ。初版は1996年だが、その後2009年に増補改訂版、2017年に決定版が出版されているので、今から手に取る場合は必ず2017年に出たものを選んでほしい。  特に決定版で新しく書き下ろされた「もうひとつの音楽史」というコラムでは、旧来の音楽史では削ぎ落とされてきた視点が追加されており、時代遅れの内容にならないような対処がなされている(この部分を深く学びたいなら、村田千尋 著『西洋音楽史再入門 : 4つの視点で読み解く音楽と社会』(春秋社,2016)をお薦めしたい)。  ただし「はじめての〜」と銘打たれている時点で仕方がないのだが、限られたページ数に紀元前から現代にいたる西洋と日本の音楽の歴史を詰め込んでいるため、記述が非常に教科書的で、正直面白いとは言い難い。また事前にある程度、作曲家や作品名を知らないと、読んでも情報が頭に残らない可能性は高そうだ。  読み物としての面白さを重視するなら、定評があるのは岡田暁生 著『西洋音楽史 : 「クラシック」の黄昏』(中央公論新社,2005)である。本書の魅力は、著者自身が何故そのような判断を下すに至ったかの経緯や前提がちゃんと共有されているため、(その見解に同意するかはさておき)読者を置いてけぼりにすることがないのだ。アカデミックな見地を、そうとはみせないで的確に解きほぐして解説していく手腕は極めて鮮やかだ。  もっと回りくどくなく、スパッとした語り口が良いのならば、片山杜秀 著『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』(文藝春秋,2018)がいい。本書最大の欠点はミスリードになってしまっているタイトルで、実態は9〜10世紀から20世紀初頭の第一次世界大戦頃までの音楽と文化を扱っている音楽史なのだ。先に挙げた岡田の『西洋音楽史』と同様、新書なので網羅性は低いが、音楽を歴史に紐付ける意義や面白さを感じてもらえる第一歩になる。そういった意味で、この手の書籍の存在は重要なのである。   ――上級編    上級編の代表格といえるのが、音楽之友社から出ているグラウト/パリスカ著『新西洋音楽史』だ(上巻・中巻は1998年、下巻は2001年出版)。原著は英語で書かれた西洋音楽史のなかで最も定評のあるもので、著者のドナルド・ジェイ・グラウト(1902〜87)とクロード・V.・パリスカ(1921〜2001)は共に、アメリカ音楽学会の会長を務めた音楽学者である。日本語訳は3巻合わせて1200ページほどのボリュームで、音楽大学の大学院受験にむけて音楽史全体をしっかりと学び直すことも可能だ。...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第7回:活字から演奏は学べるか?】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第7回:活字から演奏は学べるか?】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第7回は「活字から演奏は学べるか?」です。      指揮に関してもそうだし、教えることに関してもそうですね。こうあるべきだ、という型を用意していくんじゃなくて、何にも用意しないでいって、その場で相手を見て決めるというやり方です。相手がやっていることを見て、その場その場で対応していく。だから僕みたいな人間は教則本とか書けないですよね。相手が実際に目の前にいないと、言うことがないから 村上春樹 著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社,2011)    引用したのは、出典の書名からも分かるように指揮者・小澤征爾の言葉である。著者である作家・村上春樹が2011年に「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」を取材。その上でおこなわれた対談のなかでの発言だ。この直前には、スイスのアカデミーでの指導者のひとり、ジュリアード弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だったロバート・マン(1920〜2018)の教え方についてディスカッションされており、彼の指導法と自分は違う――という意味で先の発言がなされている。  そもそも「教則本」という言葉からどのような書籍をイメージするかには個人差があるのではないか? (クラシック以外の)ギターの教則本といえば独習向けを思い浮かべがちだが、ピアノの教則本となると、日本で長らく使われてきたバイエルも全音楽譜出版社から『標準バイエルピアノ教則本』というタイトルで出版されていたり、ピアノのレッスンで使われるエクササイズや初歩的な練習曲を指す言葉として用いられることも多い。  だが、今回取り扱いたいのは楽器の演奏法を学ぶ書籍ではなく、その先に位置しているどのように楽譜を読み解き、どのように演奏へ繋げたら良いのかを、書籍上の活字を通して学ぶことは出来るのかという問題だ。先ほど名前を挙げたロバート・マンの指導について、村上と小澤は「自分のメソッドを持った人」だという見解で一致しているが、そういうタイプの指導者であっても教則本的な著作にまとめるとなると、おそらくは『シモン・ゴールドベルク講義録』(幻戯書房,2010)のようなものになるであろう。  これは20世紀を代表する偉大な音楽家のひとり、シモン・ゴールドベルク(1909〜1993)が晩年に桐朋学園大学の学生を対象におこなったヴァイオリンの公開レッスンをまとめたもの。だが書籍本体よりも8枚も付属しているDVDが結局のところメインといえるので、今回のテーマには該当しない(それに同様のマスタークラスの録音や録画は、かなり古くから遺されているので決して珍しくない)。あくまでも紙の上の文字を通して演奏を高められそうな書籍をいくつかまとめてご紹介したい。   『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』    まず、ひとつめの候補として挙げたいのは、少し古いが『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』(春秋社,1998)である。著者の大村哲弥(1951〜2008)は学生時代に玉川大学とウィーン音楽大学で学び、ベルリンではユン・イサンとカン・スキに師事した作曲家。生前は尚美学園大学の教授を務めていた(弟子には吹奏楽の分野で活躍する坂井貴祐がいる)。  この『演奏法の基礎』は「メトリーク」「拍子とリズム」「和声」「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」「楽曲とリズム構成」「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」という全6章の段階を重ねていくことで、演奏に必要な楽曲分析をおこなえるように導くことを目指している。  楽譜上の音符が実際の音となった瞬間に生じてくる性質を学ぶ前半3つの章のあとに続く、第4章「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」は本書のなかで最もチャレンジングな試みで、簡単にいえば、聴き手にどう聴こえるかという目線(耳線?)から、どのように演奏すべきかを考えるという内容なのだ。それは通常、レッスンや本番を重ねるなかで感覚的に身につけていくスキルともいえるが、本書では徹底的に言語化しようとしている。続く第5章「楽曲とリズム構成」と第6章「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」では、具体的な楽曲を細かく読み解きながら、そのなかで前章までで学んだ要素が複数絡み合っていく際にどう考えていくかもしっかりと示されていく。  語弊を恐れずに言えば、書かれている内容すべてを盲信する必要はない。だが、自らの演奏について自覚的に振り返る際や、教える際にどう言語化すべきかを悩んでいるのなら、沢山のヒントが見つかる1冊だ。   『楽譜を読むチカラ』...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第6回:「自意識の煮こごり」として自伝を読む】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第6回:「自意識の煮こごり」として自伝を読む】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第6回は、「自意識の煮こごり」として自伝を読むです。   悲観主義者(ペシミスト) オネゲルの自意識   ベルナール・ガヴォティ様 あなたは、あなたが監修しておられる《わが職業》という名の叢書のために、音楽の作曲家に関係した本を一冊書きおろせとおっしゃる。わたしはなにも、あなたの提案のうらをかんぐって、どこか皮肉な感じがするなどという気はありません。《わたしは作曲家である》と宣言するわけですね。それにしても、だれかが《余は詩人である》と確言したら、それをきいている者が微笑するくらいのことは考えていただきたいものです。交番で身元を尋問されているとき、こんな宣言をしたら、その罰としておきまりのげんこを見まわれるのがおちでしょう。(吉田秀和 訳)  フランス語による原著が1951年、日本語訳が出版されたのが1953年(1970年に改訳)なので文章自体には古色蒼然な印象を受けるかもしれない。だが、今もテレビのニュースで「自称ミュージシャンの○○」といった報道がなされたりすることがあるのだから、語られている内容は現代にも通ずる感覚だ。  引用したのは作曲家アルテュール・オネゲル(1892〜1955)が自らについて語った《わたしは作曲家である Je suis Compositeur》の書き出し部分である。「どこか皮肉な感じがするなどという気はありません」とはいうものの、誰がどう読んでも皮肉だろう。  そもそも《わが職業》という叢書(=シリーズ)には他にも、あの高級ブランドDiorの創設者クリスチャン・ディオール(1905〜1957)による《わたしはクチュリエ(服飾デザイナー)である Je suis couturier》などがラインナップされていたというので、《わたしは〜である》というタイトルはシリーズ共通のもの。本来は余計なニュアンスを削ぎ落とした即物的なタイトルであるように思うのだが、オネゲルの書き出しを読んでしまうと――彼自身が付けた題ではないのにもかかわらず!――こじれた自意識そのものに思えてくるのが面白い。  今回取り上げたいのは、音楽家たちが自分自身について語った文章から視える「自意識」だ。オネゲルの場合は、“作曲家”という肩書に対するイメージが、自分と世間一般で大きく乖離していることを自虐的に、そして悲観的に表明したのが先ほどの文章だったといえる。次にご紹介したいのは、かのジョン・ケージ(1912〜1992)が異なる次期に自らの人生を振り返ったことで視えてくる自意識だ。   35歳と77歳、ふたりのケージ    ケージといえば、舞台上で演奏家がまったく音を出さない《4分33秒》(1952年)がとりわけ有名であるように、それまでの既成概念を打ち壊していった作曲家として知られている。1989年には京都賞(思想・芸術部門〔受賞当時は精神科学・表現芸術部門〕)を受賞しているのだが、「業績ダイジェスト」として次の一文が掲載されている。   「偶然性の音楽」をもって、伝統的な西洋音楽に非西欧的音楽思想や音楽表現による大きな衝撃を与えるとともに、その音楽表現を現代音楽の主要な様式の一つに定着せしめ、終始、現代作曲界の最尖鋭部分の牽引力として自己変革の先頭に立ち、音楽家のみならず、舞踏家、詩人、画家、彫刻家、写真家など広い分野の芸術家に大きな影響を与えた現代アメリカを代表する作曲家である。  一言書き添えればケージの代名詞のようになっている「偶然性の音楽」は、中国の八卦(はっけ)に示唆を受けたもので、具体的にはコイン投げによって楽譜に記す音を確定させていった手法が有名だ。あるいは日本の「禅」を海外に広めた鈴木大拙から影響を受けていることも繰り返し語られてきた。だが、そもそもケージは何故、非西欧を志向するようになっていったのだろうか? 実は、その答えらしきものが2つの「自伝」を読み比べることで透けてみえてくる。  ただ「自伝」とはいっても2つとも出版を主目的としたものではなく、講演のために準備されたものである(現在ではオフィシャルな校正を経た英文が公開されている)。ひとつめは1948年2月28日にヴァッサー大学で行われたカンファレンスでの『作曲家の告白...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第5回:没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第5回:没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第5回は没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇についてです。    「没後のアストル・ピアソラをめぐる愛憎劇」というタイトルから、遺産をめぐる骨肉の争いを想像した方もいるかもしれない。だが今回語りたいのはそうではなく、ピアソラをめぐって“音楽ジャンル”が衝突しているという話である……。   タンゴ業界から見たピアソラ   このままでは、たぶんピアソラはクラシックやジャズの人たちとのアクセサリーとして適当に扱われたあげく、忘れられてゆく  穏当とは言い難い、こんな主張をしているのは小松亮太氏だ。日本を代表するバンドネオン奏者であり、彼がいなければ現在の日本で、バンドネオンやタンゴはもっと縁遠いものになっていたことは間違いない。現役世代における最大の功労者といって良い存在だ。そんな彼が2021年4月に『タンゴの真実』(旬報社、2021)という著書を出版。そのなかには前述の主張のほかにも、   クレーメルが完成させたのは、醤油の存在を否定しながら作った和食のようなピアソラ・アルバムたちである。クラシックの演奏家にとってピアソラを弾くことは、タンゴを弾くことではなく、まずはピアソラという人を通してポピュラー音楽を弾く悦びなのだろう。だからピアソラのタンゴ的な部分にまで意識が届かないケースが多い  ……といったクラシック音楽の演奏家に対する歯に衣着せぬ批判が並んでいる。ただ、こうした類の主張は以前からあったものだ。例えば、小松氏も敬愛する“世界一”のピアソラ研究家・斉藤充正氏は『アストル・ピアソラ闘うタンゴ』(青土社,1998)において「タンゴの歴史」を語るなかで、   それにしても、決して皆が皆ということではないが、クラシックの演奏家たちはどうしてこんなにリズム感が悪いのだろう。聴くに堪えない録音ばかりなのは一体何故なのだ。これらの録音を収めたCDの解説には大抵、いつどこどこのコンクールで何位に入り、といった奏者の経歴が恭しく書かれているが、読んでいても空しくなるばかりだ。  ……と本音を隠さない。斉藤氏の疑問に――あくまで、この記事の読者のために――クラシック音楽サイドから答えるとすれば、優秀な演奏家ほど、ピアソラの感情豊かな旋律をロマン派的に解釈して緩急=アゴーギクをつけて演奏しがちだからだ。「(コンクールで賞を獲るほど)優秀なのに……」ではなく「優秀だからこそ!」なのである。  (※念のため補足しておくならば、例えばロマン派でもショパンは弟子に対して左手のビートを保ったまま、右手の旋律を揺らして歌うように教えていたというが、現在このような解釈は古楽に興味をもっている演奏家でもない限りは一般的でないように思う。)  小松氏は『タンゴの真実』の第13章「ピアソラを愛しすぎる人たちへ」という皮肉のこもったタイトルの章のなかで具体例を挙げながら、クラシックの演奏家たちのピアソラ解釈の何が問題なのかを具体的に解説しており、その批判も的を射ているのは間違いない。ただ、先に引用した「このままでは、たぶんピアソラはクラシックやジャズの人たちとのアクセサリーとして適当に扱われたあげく、忘れられてゆく」という指摘は言い過ぎどころか、クラシック音楽というものを理解していないが故の発言であるように思われてならない。クラシック音楽というのは誤読されてナンボの音楽なのだから。   誤読という名の多様な解釈に堪えうること    一例を挙げよう。譜例をあげたのはベートーヴェンの「第九」第4楽章のラストで、一旦テンポが落ちる部分だ。この頃にはメトロノームが発明されており、ベートーヴェンも所持していたため、具体的に[四分音符=60]――つまり[1拍=1秒]と指示されているのだが、長らくこの部分はフルトヴェングラーの録音を筆頭に八分音符(=四分音符の半分の音価)を1拍として――結果的におよそ2倍に引き伸ばされて演奏されてきた。  そのように演奏されてきた理由は、ベートーヴェンの指示したテンポが速すぎるとして彼のメトロノームが壊れていたと主張されたり、数字よりも文字で指示された(イタリア語で「荘厳な」という意味の)「Maestoso」のニュアンスを優先されたり等と、複合的に絡み合っている。日本ではまだまだ古楽と呼ばれることも多いHIP(歴史的知識にもとづく演奏)というアプローチが普及したことで、楽譜の指示に近い演奏も増えてきたが、何より重要なのは前述した明らかな「誤読」が誤読であることを超えて、長らく――何なら現在でも「伝統」として生き続けているということだ。  むしろ誤読されても尚、新たな魅力を放ち続けることが出来る音楽こそが「クラシック音楽」として残り、再演が重ねられていくのである。タンゴを愛する人々からは、タンゴを理解せずに演奏されるピアソラは魅力的ではないと反論が来るかもしれない。だが、クレーメルの「誤読」によってピアソラの生前以上に世界へ広まったという事実はタンゴ界隈も認めるところであり(嫉妬さえ感じられる……)、それこそが実にクラシック音楽らしいピアソラ受容なのである(クレーメルのピアソラは、ポストモダン的にポピュラー音楽を取り入れたシュニトケ的なアプローチという観点から読み解くべきだと思うが、それはまた別の機会に譲りたい)。  いわゆるクラシック音楽の場合でも、前述したHIPアプローチによるJ.S.バッハなどのバロック音楽じゃないと受け入れがたい、という人もいれば、古楽器は苦手と公言するリスナーも一定数存在している。どちらかを間違っていると断罪しないのが、クラシック音楽の特性であり、このジャンルの豊かさを生み出しているのだ。  ここでもうひとつ例を挙げよう。ピアソラを世界に広めたもうひとりの功労者であるヨーヨー・マに対しては、小松氏をはじめとするタンゴ界隈は寛容なことが多い(後述する『音楽の友』2022年11月号に寄稿された柴田奈穂氏の文章に登場する、スアレス・パスのリアクションにもご注目いただきたい)。その最大の理由は生前のピアソラと共演していたタンゴのミュージシャンと共演しているからだ。しかし私が疑問に思えてならないのは、ヨーヨー・マの演奏するピアソラの代名詞となった「リベルタンゴ」の演奏は、ピアソラが80年代にライヴで残した録音と比べるとあまりに退屈ではないかということだ。テンポが遅く、パーカッシヴ(打楽器的)な要素も弱いので熱狂度が物足りないのだ。  もちろん、ここまで語ってきたように、ヨーヨー・マのピアソラも否定するつもりはない。リベルタンゴが代表曲であるという、これまた「誤解」を含めてピアソラを世界へ広められたのは、それ相応の魅力があったからだろう。だが、仮にこれがタンゴとしては良いのだとしても、ピアソラに求めるものが“熱量”だとしたらヨーヨー・マの「リベルタンゴ」はつまらないという感想になってしまうのは仕方ない。何が言いたいのかといえば、タンゴ側だけの価値観でピアソラの良し悪しは判断できないし、するべきではないということだ。それぞれのジャンルやリスナーごとにピアソラのどの部分に魅力を感じるのかが違う……という至極当たり前の理由であることは言うまでもない。  そして小松氏も著書ではあのような発言をしているが、YouTubeにアップロードされている彼が編曲・演奏したブルックナーの交響曲第8番を聴いてみると、果たしてクレーメルのことを責められるのかと思えてならない。小松氏が偏愛する「ブルックナー」とクレーメルの「ピアソラ」は相似関係にあるかのようにみえてくる。  ...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第4回:『クラシック名曲「酷評」事典』の酷評は、真っ当な音楽批評である!? 】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第4回:『クラシック名曲「酷評」事典』の酷評は、真っ当な音楽批評である!? 】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第4回は、音楽批評についてです。   100年前の『アンサイクロペディア』……としての『悪魔の辞典』    いきなりだが『アンサイクロペディア』というWEBサイトをご存知だろうか? 2005年から運営されているウィキペディアのパロディサイトである。例えば「音楽」という記事を検索して、最初の見出し“概要”を読んでみると「音楽は、人間が開発した依存性のある薬物の中で最も広く蔓延し、極めて強い作用を持つ危険ドラッグの一つである」という書き出しになっており、該当の事物を風刺するような視点やブラックユーモアでもって記述されている。ウィキペディア同様、特定の著者がいるわけではなく、誰でも編集が可能な「フリー八百科事典(※八百科は、嘘八百に掛かっている)」だ。   ▲アンブローズ・ビアスの肖像 (出典:Wikimedia)    こうした辞書・事典パロディの古典とされているのがアメリカのジャーナリスト、アンブローズ・ビアスによる『悪魔の辞典 The Devil's Dictionary』(1911)である。日本では筒井康隆ほか、様々な人々によって訳されているので、読んだことはなくても存在は知っているという方が一定数いるに違いない。例えば岩波書店から出版された邦訳で「ピアノ」という項目を引いてみると「性こりもなくやってくる訪問客を取って押えるのに使う客間用の道具。これを操作するには、この機械の鍵盤を下へ押し下げると同時に、聞いている奴の気を滅入らせさえすれば、それでよい。(西川正身 訳)」と書かれている。  うーむ、なんだか分かるようで分からない、意味を掴みきれない文章だ。英語の原文にあたってみると前半は「A parlor utensil for subduing the impenitent visitor.」となっている。先ほど引用した邦訳ではsubduingを“取って押える”と訳しているのだが、「(ピアノで)取って押える」という表現はどうにもピンとこない。どちらかといえばSubduingを「制圧する」というニュアンスに捉え、「ピアノ〔の演奏〕は不都合な来客さえ黙らせることができる」という主旨の文章と理解すべきではないか。  一方、原文の後半をみてみると「It is operated by...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第3回:指揮者が語る、指揮者について語る音楽書】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第3回:指揮者が語る、指揮者について語る音楽書】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第3回は『小澤征爾さんと、音楽について話をする』『マエストロ・バッティストーニのぼくたちのクラシック音楽』といった「指揮者が語る、指揮者について語る」音楽書を紹介いたします。   「実際に音を出しているのはオーケストラなのに、指揮者でそんなに変わるの?」 これまでの人生であまりクラシック音楽に触れてこなかった人にとっては、当然の疑問のようだ。人生の折々で似たような質問を投げかけられた。ちなみに今の私は「スポーツチームの監督のような存在。いくら能力の高い選手が揃っていても、監督の采配が悪いと実力を発揮できないでしょ? その逆も然り」と答えることにしている。本番の采配だけでなく、ビルダーとしての能力が求められる点も指揮者と監督は似ている。  指揮者によって演奏解釈がどれほど異なるかは、同じ楽曲を違う指揮者で――それもロマンティックなフルトヴェングラーと古楽のアーノンクールのように、対極に位置する指揮者を――聴き比べることで、誰の耳にも明らかになるだろう。 フルトヴェングラー     アーノンクール    だが「何故そのように違う解釈に辿り着いたのか?」という疑問に(クラシック音楽オタク的な聴取体験をもとにした帰納的回答ではなく)答えるためには、その指揮者の思想や思考過程を追う必要があるので案外と厄介だ。弟子に教え継がれている口伝の情報も大事だが、一般の音楽ファンが気軽に触れられるのは指揮者が残した著作になるだろう。     指揮者が語る    指揮者本人が指揮について語った本を大きく分類すると、おそらく3つに分けられるのではないか。  1つめは、バトンテクニック(指揮の振り方)を具体的に解説したもの。最も有名なのは、小澤征爾をはじめ国内外で活躍する指揮者を数多く育てた齋藤秀雄の『指揮法教程』(音楽之友社,初版1956年)だ。日本では今もこれを教科書として指揮のレッスンをしている先生が多いのだが、実際に指揮を習うのでなければ特に読む必要はないだろう(指導してくれる先生がいないと理解しづらいという問題もある)。  2つめは、自らの思想を抽象的に語ったもの。フルトヴェングラーの『音楽を語る』(河出書房新社)や、チェリビダッケの『増補新版 チェリビダッケ 音楽の現象学』(アルファベータブックス)あたりが代表例だろう。結論からいえば、ファーストチョイスに一番向かない本で、その指揮者のことを理解した上でないと読み解いていくのは困難なのだ。そういう意味で、例えばフルトヴェングラーについて理解を深めたいなら、まずは第三者が書いた伝記を参照すべきだ。  3つめは、自らの経験をシェアしていくもの。自伝やエッセイのなかで語られる音楽論も多くはこれに分類される。最も豊富に残されたこのタイプのなかで、私が一番衝撃を受けたのはサー・エードリアン・ボールト(1889〜1983)の『指揮を語る』(誠文堂新光社)になるだろうか。日本語訳が出版されたのは1970年と古い本ではあるのだが、指揮姿が映像の遺されていない作曲家のエルガーや伝説の指揮者ニキシュについて語っている内容などが非常に興味深い。19世紀末に生まれたボールトの世代と、それから10〜20年後に20世紀になってから生まれた指揮者では、指揮法の考え方にかなり断絶があるのではないか等、考えさせられることが多かったため、今も印象に残っているのだが、いかんせん絶版になってから久しいので図書館でお探しいただくしかない……。  その他に、学者のようなスタンスで研究成果をもとに演奏法を論じた、アーノンクールの『古楽とは何か――言語としての音楽』(音楽之友社)、『音楽は対話である モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』(アカデミア・ミュージック)のような例もあるが、これは指揮者による著作というよりも、(指揮者以外も含めた)古楽の演奏家の文脈にあるものと捉えた方がよいだろう。      ここまでお読みいただければ分かるように、3つめにご紹介した「自らの経験をシェア」するタイプの指揮者の著作が、多くの人にとっては最も読みやすいはず。現在も手に入れやすい本のなかでお薦めしたいのはまず、小澤征爾×村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫)だ。音楽書としては異例の大ヒット――それは音楽書ではなく村上春樹本として売れたからなのだろうが――になり、現在は文庫版(追加の文章が掲載されているので、文庫版および電子版を推奨!)で手軽に購入できる。...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第2回:音楽家の伝記 】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第2回:音楽家の伝記 】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第2回は『作曲家◎人と作品シリーズ』『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 小泉文夫』といった音楽家の伝記について読む際の注意点やその他お薦めの作品を紹介いたします。    通常の本棚に加え、窓枠にあわせてオーダーメイドしてはめ込こんだ本棚に、デスクの上には書籍を横に積み上げるように作られたブックタワー。サイドテーブルの上には現在仕事で使う本や献本されたばかりの書籍が積まれたまま……。我が家を圧迫する音楽書の一部である。実際に数えたわけではないが、占める割合で最も多いのは、伝記・評伝のたぐいであると思われる。理由は単純。私が仕事として、コンサートやアルバムのプログラムノートを執筆しているから。曲目解説の文章を書く上で、その曲の「楽譜」と作曲者の「伝記」は必須の資料なのである。     伝記とは何か?    「楽譜」の違いやその選び方については以前の連載で様々な角度から光をあてたので、そちらをあたっていただくことにしよう。今回、話題にしたいのは「伝記」の方だ。多くの方が伝記と聞いて真っ先に思い出すのは、子どもの頃に読んだ偉人伝だろうか? 小説なのか漫画なのか、とられている表現形態がなんであれ、昔ながらの子ども向けの偉人伝は基本的に、その人物のポジティブな面を中心に描いてゆく。このスタンスは大河ドラマが近い。たとえば織田信長や豊臣秀吉が主人公であれば当然、明智光秀は基本的に悪役にならざるを得ないが、長谷川博己演じる光秀を主人公とした2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、本能寺で謀反を起こされる信長側に非があることが強調されていた。  だが大河ドラマや歴史小説ならともかく、伝記とは本来そのようなものであってはならない。誤解なきように言っておくべきだろう。子ども時代に多くの人が読んだであろう偉人伝は、伝記という体をとった歴史小説・歴史漫画だったのだ(昨今は、そうではないものもあると伝え聞くが、ここでは深追いしない)。本来、伝記というものは記述される各々の情報が、どれほど確度が高い内容なのか、読み手に分かるように記さねばならないからだ。物語・読み物としての面白さは伝記にとっても大事だが、最優先すべきことではない。そこが小説や漫画と異なる。  そんなこと当たり前でしょ? そう思われるかもしれない。だが、本人が記した自伝・自叙伝、親族・関係者の証言となった途端、無批判に信じだす人々のなんと多いことか。読み物として面白くするため、記憶違い、都合の悪い事実の隠蔽、捏造、等々……。理由はなんであれ、自伝や証言は一次資料のひとつに過ぎない。批判的な目線で信頼性の検証がなされた上で、複数の資料を組み合わせながら当該人物の人生が文章で再構成されてゆく。これが伝記のあるべき姿であろう。   ▲『フォルケルによる伝記の表紙 (出典:Wikipedia)   作曲家の伝記とその注意点    クラシック音楽の世界で「伝記」といえば、まず筆頭にあがるのは作曲家を対象にしたものだ。作曲家の伝記が書かれる機会が増えてゆくのは18世紀後半のこと。いくつか例を挙げると、1760年にはジョン・メインウェアリング(1735-1807)が1759年に亡くなったヘンデルの伝記を匿名で出版。ヘンデルの伝記は1785年にもチャールズ・バーニー(1726-1814)よって出版されている。  こうした昔の伝記でとりわけ有名なのが、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)に関するものであろう。亡くなった4年後には、ヨハン・セバスティアンの次男C.P.E.バッハらによる『故人略伝』(1754)という文章が、死後52年を経た1802年にはより本格的な伝記であるヨハン・ニコラウス・フォルケル (1749-1818)が出版した『ヨハン・セバスティアン・バッハの生涯、芸術、および芸術作品について。心の音楽芸術の愛国的賛美者のために Ueber Johann Sebastian...

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第1回:『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』】

「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第1回:『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』】

  音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第1回は、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』(中央公論新社刊)です。    研究者ほどではないと思うが、音楽ライターという仕事柄、音楽に関する書籍に囲まれて日常を過ごしている。以前ならば頻繁に利用する書籍以外は当時勤務していた大学の附属図書館で借りていたのだが、コロナ禍になってからは図書館が長期にわたって閉まってしまうことも多く、全て自宅で完結するように資料を買い集めるように方向転換したからだ。昔は大型の書店に足繁く通っていたが、現在はAmazonを中心に、もっぱらインターネット通販頼りとなってしまった。それまで使ったことのなかったメルカリで絶版となった書籍を探すことも増えている。  蔵書が急激に増えて部屋を圧迫していったため、何の気なしに計算してみると2021年の1年間、Amazonだけで(音楽書以外も含めて)45万円ほど書籍を購入していた。他のWEBサイトで購入した本もあるし、他にもCDやDVD、Blu-rayなども多数購入しているので、働いて稼いだお金で(長期的な目線で)仕事に必要な資料を買い集めているような状況となっている。更には仕事の一環で献本も多数いただくため、積ん読は増える一方だ。  そんな有様なので一冊を通読する場合は流し読み、精読する場合は書物仕事に必要な部分だけを取り出して……という形の読書が普段は多くなってしまうのだが、久しぶりにメモしながら(約18000字)、一冊丸々をじっくりと楽しみながら読んだ本がある。それが今年3月に、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司 著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』だ。  発売は2021年1月。その直後に購入して流し読みはしていたのだが、今年4月16日に日本最大級の読書会コミュニティ「猫町倶楽部」で本書を課題本として扱うので、しっかりと時間をかけて読み直したのである。猫町倶楽部については次回以降の連載で触れることとなると思うので、ここではこの『現代音楽史』という本がいかに待望されたものであったかを語ってみたい。     音楽史で「現代音楽」はどのように扱われてきたか?   『現代音楽史』のあとがきは、次のように始まる。    現代音楽史を書こうとした動機はいくつかある。  まず類書がほとんどないこと。日本語で書かれた書物で二十一世紀までを含めて通観できるもの、それもある程度コンパクトなものが必要だと考えていた。実際、いまだに柴田南雄『現代音楽史』(1967初版)を参照する人もいると聞くので(確かに名著ではあるが)、いくらなんでも情報や音楽史観をアップデートしなくてはならない。  今一度、当たり前の事実を強調しておいた方がよいだろう。これは“2021年”に出版された書籍のあとがきである。類書の筆頭格に挙げられた書籍が半世紀以上前のものであることに改めて驚くしかない(ちなみに1967年といえば武満徹の代表作にして、音楽の教科書にも掲載された、いわば日本を代表する現代音楽作品《ノヴェンバー・ステップス》が作曲・初演された年である!)。  もちろん1967年以降に、類書が一切発売されなかったわけではない。そもそも現代音楽に特化せずとも、「西洋音楽史」と題された書籍のなかでも20世紀まで取り扱われることが一般的だ。日本で最も多くの音楽学者から支持されている音楽史であろうグラウト/パリスカ著『新 西洋音楽史』(音楽之友社, 1998〜2001/訳者まえがきに2007年追記あり)は、1996年に出版された原著“A History of Western Music”の改訂第5版を翻訳したもの。上・中・下巻あるうちの下巻の後半で20世紀音楽に頁を割いているのだが、ヨーロッパの作曲家を取り扱った項目ではW. ルトスワフスキ(1913〜94)の交響曲第3番(1983)で、アメリカの作曲家を取り扱った項目ではD. デル・トレディチ(1937〜 )の《ファイナル・アリス》(1975)で締めくくられている。つまり、1980年前後までしか歴史が綴られていないのだ。  この「1980年」という年代は、西洋音楽の歴史を記述しようとする時、ひとつの壁となっているように思われる。2020年8月に出版された金澤正剛『ヨーロッパ音楽の歴史』(音楽之友社)のあとがきでは「若干の例外はあるものの、ほぼ一九八〇年代までを書いたところで筆をとどめた。それ以後の出来事はいまだ「歴史」として判断できかねると感じたからである」と記されている。日本音楽学会の会長などを歴任した金澤氏が、何故このような判断をしたかといえば、この数十年のあいだに「現代音楽」についての認識がかなり変わってしまったからだとしている。多くの人々によって共有されるような認識が得られるまでは、歴史として記述されるべきではないという判断なのだろう。...