失われた海の記憶を求めて。元半農半漁の町に伝わる剣祭り(千葉県習志野市)【それでも祭りは続く】
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 災いが起きた時こそ祭りが求められた 2020(令和2)年、新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の祭りの多くが開催中止を余儀なくされた。その後、いくつかの地域は感染対策を施したり、規模を縮小したりしながら祭りを再開し、2024(令和6)年現在、各地のお祭りはすっかり従来のにぎわいを取り戻しているようにも見える。一方で、コロナ禍を機に祭りそのものが廃止となってしまった地域や、持続可能な形を模索して内容を大幅に変更した地域もあると聞く。その影響の全容は明らかになっていないが、パンデミックがこれからも「祭り」という文化の存続に深い影を落としたことは確かなようだ。 ところで、各地の祭りの由来について調べてみると、「疫病退散」を目的としてスタートした祭りというものは案外に多い。有名なところでは京都の「祇園祭」などがそうだ。そんな祇園祭もコロナの影響で、2020(令和2)年、2021(令和3)年と山鉾巡行が中止となった。疫病退散を祈願して実施される祭りが、疫病で中止となる。現代的な感覚からすると致し方ない判断と言えるが、かつて人々が本気で祭りや神事の呪力を信じた時代は、やはり疫病だからこそ祭りを実施しようという機運はあったようだ。 千葉県習志野市の鷺沼地区で行われている八剱(やつるぎ)神社の祭礼「剣」という祭りを知ったのは、ほんの数年前のことだ。祭りの由緒はよくわかっていないようだが、およそ300〜400年の歴史があると地元では伝えられており、かつユニークなのは、中断されてもなお、村を襲う災いを鎮めるために復活したという歴史をこの祭りが持っていることだ。習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』には次のように書かれている。 何度か中断しかけたこともあったようだが、災害などをきっかけに、復活することがしばしあったようだ。(中略)鷺沼在住の男性(大正11年生)によれば、戦後も、祭りを中断したところ腸チフスがはやったので、再び行うようになったことがあった。 (習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』より) 同書に掲載されている別の男性(大正4年生)の証言によれば、剣祭りが特に盛んになったのは1919(大正8)年に多数の死者を出した大嵐と、その後に流行したコレラがきっかけであるという。コレラではないが、1919年は世界的にスペイン風邪が流行した時期と重なる。また「大嵐」に関しては、1917(大正6)年に、気圧952ヘクトパスカル、最大風速43メートルが関東に直撃、暴風と高潮で東京湾沿岸部の町々に大きな被害をもたらした「大正6年の大津波」という災害が記録されているので、これを指すのではないかと思われる。 実は鷺沼は船橋市にある私の地元からそう遠くない距離にある町で、そういう意味でも興味の引く祭りであった。どのような催しなのか、実際に見学しに行ってみることにした。 町中を、剣を手に駆け巡り「悪事災難」を祓う 「剣」祭りは、鷺沼にある八剱神社の祭礼である。かつては毎年3月1日の日付固定で実施されていたようだが、現在は3月の第一土曜日の開催となっている。それ以上の詳しい情報は告知されていないのでわからない。そんな心許ない状態で、2023年3月4日、私は八剱神社の最寄りとなるバス停に降り立った。時間は正午を回った頃。ともかく、八剱神社の周辺をやみくもに歩いていると、住宅地の細い路地で白い半纏をまとった一団と出会った。「これだ」と直感したが、周囲に見物人の類は一人もいない。そういう祭りではないのかもしれない。 住宅街の中で遭遇した剣祭りの一団 ともあれ「本当にやっていた!」という喜びが勝り、勢いに任せて一人の男性に「見学してもいいですか」と聞いてみた。すると、「大丈夫ですよ」と色良い返事をいただけたので、お言葉に甘えて、カメラを手についていくことにした。 聞くと男性の名前は相原和幸さんといい、剣祭りを運営する氏子総代メンバーの一人であるという。ブログで祭りの情報を発信するなど、氏子総代の中でもスポークスマンのような立ち回りをされているようで、そのせいか私のような得体の知れない訪問者にも気をかけてくれて、剣祭りの概要や歴史を教えてくれる。 相原さんのお話を聞きながらしばらく同行していると、だんだんと剣祭りの大まかな内容が見えてくる。まず、「剣」という鉾(ほこ)のようなものを手にした「剣士」8名と、太鼓の台車を曳く人間、「御神酒」「御神米」の受けわたしを担当するメンバーがチームとなって動く。剣士は通常地域の中学生が務めるが、この年はコロナ禍の余波もあり子どもたちは呼ばず、剣祭りを主催する氏子総代、そしてヘルプで来ていた市の職員によって剣士は構成されていた。剣士の中でもリーダー格となる1名は「親剣」と呼ばれ、これも本来はOBの高校生などが担当して他のメンバーを率いることになっている。 白装束をまとって剣を携える剣士たち(左) 太鼓は寄せ太鼓の役目を果たし、住民たちに剣士たちの到着を告げる。家に到着して呼び鈴を鳴らすと、家の者がおひねりを手に出てくる。剣士は住民の頭上に剣をかざし、「悪事災難のがれるように」とまじないを唱える。続けて、後ろから来た人間が「御神酒、御神米」と言いながら、小袋に入ったお米と、紙パックのお酒をわたす。かつては一升瓶から直接お椀にお酒を注いでいたようだが、コロナ対策でこの方法に切り替えたらしい。御神酒、御神米を受け取った住民はおひねりをわたす。これでお祓いは終了である。 剣士たちの来訪を心待ちにする住民の姿 訪問する家は1日250戸近くにのぼり、数が多いのでメンバーが二手に分かれて行動することもある。不幸にあった家を避けるために、事前に訪問していいか各戸にアンケートをとっているそうだが、当日でも「うちに寄って欲しい」と声をかければ訪問してくれるそうだ。 おひねりを受け取るとともに、「御神酒」「御神米」をわたす 勝手知ったる土地でもあるためか、剣士たちの足取りは迷うことを知らず、ものすごいスピードで町の中を駆け巡っていく。とにかく剣士は「走り抜ける」ことが大事らしい。とはいえ1日がかりの大仕事なので、一気呵成にすべての家を訪問するわけではない。下宿、上宿、本郷、大堀込(オオボッコメ)という4つの地区に分けて、順番に巡っていき、一つの地区が終わるごとに休息をとる。かつては地域の有力者が「宿」として剣士たちを迎え入れ、満腹でその後歩けなくなるくらいご馳走をしたそうだが、運営体制の変化や、これもまたコロナ禍の影響によって、現在は一丁目にある根神社の社務所に休憩所を集約して、そこで飲み食いをするようにしている。 祭りの休憩所として利用されている根神社の社務所 また剣祭りの最中、村の境となる4つの箇所で「辻切り」も行われる。ちなみにこの儀式、2023年の訪問時には目にすることができず、2024年に剣祭りを再訪した際に、はじめて見ることができた。辻切りは「道切り」とも呼ばれ、村の中に災厄や疫病が入ってこないよう、集落の入り口となる場所(辻)を封印する風習のことである。辻に到着すると事前に立てていたお札の前で、神主が祝詞を奏上する。八剱神社には常駐の神主がいないため、隣町の谷津にある丹生(にう)神社の神主がこの任を担当する。祝詞が終わると、剣士たちが「えい」と言って剣を突き出し、辻切りを完了させる。自動車が高速で通り抜けていく音を背中で聞きながら、時代が1世紀ほど後退したような古式ゆかしい行事を見守るのは、なんともシュールな心持ちだ。...