日本復帰後の発展から生まれた「奄美まつり」(鹿児島県奄美市)【それでも祭りは続く】
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 祭りを求めて南の島へ 飛行機は高度を落とし、島の海岸線に沿うように進んでいく。眼下には、濃淡の異なる青が幾重にも重なった海が広がり、白波がサンゴ礁の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。機体の翼越しに、島の緑が次第に近づいてくる。陸地は彼方へと続いており、一見すると島という感じがしない。さすが「大島」というだけはあるなと、妙に感心する。 海の美しさに南国を感じる 鹿児島県本土の南方海上、距離としては約380kmの地点に位置する奄美大島(鹿児島県奄美市)。8つの有人島で構成される奄美群島の中でも最大の面積(712.39平方キロメートル)を誇り、東京23区の大きさを上回る。それだけの大きさであるが、航空写真で島全体を見渡すと平野部は少なく、緑の豊かさが際立つ。実に島の約80%が山地で占められるそうだ。 気候としては、高温多湿の「亜熱帯」。年間降水量は約3,000mmにものぼり、その豊かな雨量、温暖な気候によって亜熱帯多雨林、マングローブ林などの独特の植生が形成されている。また、そこに生息する多様な動植物が世界的にも高く評価されており、2021(令和3)年7月には、奄美大島をはじめ、徳之島、沖縄本島北部、西表島とともに、世界自然遺産に登録された。こうした豊かな自然を舞台にしたエコツアー、カヌー、ダイビングなどのアクティビティは、奄美大島観光の大きな柱のひとつとなっている。 マングローブの中をカヌーで探検するツアー 提供:奄美市 国内希少野生動植物種に指定されているアマミノクロウサギ 提供:奄美市 私が「奄美」について興味を持ったのは、数年前にSNSで流れてきた祭りの動画がきっかけだった。繁華街のような場所で一心不乱に輪踊りに興じる人々の映像。浴衣や法被を着て踊る姿は、盆踊り好きの私にとっては見慣れた光景だったが、その歌の旋律や歌詞は、まったく聞き慣れないものだった。 調べてみると、それは鹿児島県奄美市で行われている「奄美まつり」という市民まつりの一環で、「八月踊り」というイベントらしい。画面越しにも伝わる熱気に心が持っていかれる。奄美は、九州地方にすらほとんど足を踏み入れたことのない私にとって想像も及ばない未知のエリアだ。最果てのようなイメージがあったが、調べてみると羽田・成田空港から直通便も出ていて、フライト時間はわずか2時間半。意外に近いのだ。 沖縄には本土とは違った独自の文化が存在することはなんとなく認識していたが、ではその中間地点にある奄美にはどのような文化があり、そして芸能が根付いているのだろうか。好奇心に駆られた私は2025年の夏、奄美大島へと向かうことにした。 奄美大島の中核都市・名瀬の発展 空港からバスに乗り、1時間ほどかけて島の中心地・名瀬(なぜ)※へ向かう。名瀬は行政・産業・商業など、島の主要な機関や施設が集まる中心地で、市街地エリアは奄美まつりの開催地にもなっている。 ※「なせ」と読むケースもある バスから撮影した島北部の海岸 バスを降り周辺を散策してみると、思っていた以上の繁栄ぶりに驚く。アーケード商店街、飲み屋街、コンビニ、24時間営業のスーパーマーケット、極め付けにはイオンもある。要するに「島」と呼ぶには、あまりにも都会すぎるのだ。 名瀬市街地にあるアーケード商店街 飲み屋が並ぶ、歓楽街の屋仁川(やにがわ)通り ミスドもある 奄美大島の郷土料理「鶏飯(けいはん)」。ごはんに鶏肉や錦糸卵、パパイヤなどを載せ、鶏ガラスープをかけて食べる 奄美大島は歴史的に、琉球国、薩摩藩、アメリカなど、さまざまな統治者のもとに置かれてきた。駒澤大学教授で人文地理学を専門とする須山聡によれば、名瀬の都市化は薩摩藩統治期に、「代官仮屋」が奄美大島北部の赤木名から名瀬(現在の矢之脇町)へ移転したことに端を発するという。代官仮屋とは、薩摩藩から派遣された役人が駐在する統治の拠点である。 以下では、須山の論考『奄美大島,名瀬の都市景観の特徴 ─ 景観レイヤーを用いた総合 ─』を手がかりに、奄美まつりの拠点となる名瀬がどのように発展してきたのか、その歩みを簡単に整理してみたい。 1871(明治4)年の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県となると、件の代官仮屋も1875(明治8)年に廃止となった。しかし、その跡地は以降も監獄・裁判所など政治関連施設の用地として利用され続けている。1906(明治39)年の火災をきっかけに、庁舎は名瀬市街地西部の金久町へ移された。その後、島の行政機能はおがみ山山麓に集約されることになるが、現在の名瀬市街地エリアが島の政治的中心地であるという位置づけは、薩摩藩統治時代から現在に至るまで変わっていない。 名瀬の経済的発展の歴史に着目すると、明治以降、本土から「寄留商人(きりゅうしょうにん)」と呼ばれる外来商人が名瀬に進出してきたことがその契機となっている。彼らが名瀬に店舗を構えて経済活動を主導したことで、それまで島の特産である黒糖による物々交換に近い状態から、貨幣経済が本格的に導入され、商業空間が形成されるに至った。 大正時代の名瀬町 提供:奄美市 CC...