読みもの

そもそも「楽譜」とは何か? ~その2:歴史の変遷から辿る【演奏しない人のための楽譜入門#20】

そもそも「楽譜」とは何か? ~その2:歴史の変遷から辿る【演奏しない人のための楽譜入門#20】

この連載も遂に最終回。最後は、前回に引き続いて「楽譜」というものを改めて検討していきます。その1では「楽譜 music, music paper」という言葉を出発点にしましたが、今回は楽譜の成り立ちを歴史に沿ってみていきましょう。その過程のなかで、前回の記事で積み残した「五線譜の起源」と「オックスフォード大学において、五線譜が植民地主義的とみなされるようになったのは何故か?」(イギリスのテレグラフ紙に掲載された「オックスフォード大学の教授が“脱植民地化”を目指し、記譜法〔Musical notation〕に“植民地主義”の烙印を押す」というニュースから派生した話題です)という2つの事柄にも答えていきたいと思います。   言葉と音を結びつけ、音の高低を記録する   (出典元: Wikipedia)      楽譜の起源を遡っていくと「セイキロスの墓碑銘」のようなものに辿り着きます(これ以前にも断片的に残された旋律であれば現存していますが、「セイキロスの墓碑銘」は短くとも欠損がないため、代表例として挙げられることが多いのです)。時代については諸説ありますが、おおよそ1世紀前後の円柱型の石碑で、下に示したようなテキストが刻み込まれています。   (出典元:Wikipedia)   ギリシア語の詩の上に別の文字と記号が書かれていますが、これが今から2000年ほど昔の楽譜なのです。現代の五線譜に落とし込むと下の譜例のようになります。つまり、これら2つを対応させると、ギリシア文字の「C」がラ、「Z」がミ、「K」がド♯、「I」がレ……といったように音を示しており、その上に書かれた記号については、例えば「―」で音の長さが2倍に――つまり、基準の拍が8分音符だとしたら4分音符になり、「┘」で音の長さが3倍になることが分かります。ここでポイントとなるのは、高いミは「Z」、低いミは「┐」といったように、オクターヴ違いの音は異なる文字で表現されています。明らかに現在とは違いますよね。   (出典元:Wikipedia)    このように最初期はアルファベットと記号の組み合わせで旋律を記録していたのですが、9世紀以降に楽譜化(記譜)されたといわれるグレゴリオ聖歌の初期楽譜になると、歌詞の上に断片的な曲線が書かれるケースが使われたりしています。これは前の音から次の音へどのくらい音高が変わるのかが示されており、旋律の動きを記号化した楽譜をネウマ譜と呼ぶようになります。そしてアルファベットよりもネウマによる記譜が主流となっていくのです。   (出典元:Wikipedia)   11世紀以降になると、音の高さの基準となる譜線が用いられるようになる機会が少しずつ増えていき、直感的に音の高さが掴みやすくなります。この譜線を考案したのが、グイド・ダレッツォ(991/2頃~1033以降)という修道士でした。下の譜例は12世紀頃のネウマ譜なのですが、譜線の数が一定していないことが分かるかと思います。譜線の左側には「F」のような記号が書かれていますが、これがヘ音記号(F cref)の原型になったもの。つまり、この線の上に来る音符が「F(ファ)」であることを示しています。   (出典元:Wikipedia)    ...

そもそも「楽譜」とは何か? ~その1:言葉の意味から辿る【演奏しない人のための楽譜入門#19】

そもそも「楽譜」とは何か? ~その1:言葉の意味から辿る【演奏しない人のための楽譜入門#19】

   これまでの連載で当たり前のように取り扱ってきた「楽譜」について、改めてそれがどのようなもので、音楽とどう関わってきたものなのか? いま一度、今回の連載では考え直してみたいと思います。楽譜について考えるということは、ヨーロッパで発展してきた音楽について考えることと、ニアリーイコールといっても過言ではありません。何故なら、楽譜は英語に訳せば「music」もしくは「music paper」等となるからです。というわけで、まずは「音楽」とは何かという話に一旦立ち戻っていきましょう。   「音楽 music」という言葉の語源    西洋由来の「music」という概念が、日本で「音楽」と訳され、使われるようになっていくのはやはり明治以降とされています。「音を楽しむと書いて、音楽」といったような言説を様々なところで目にしますが、語源に従えばこの理解は正しいとはいえません。中国語では「音」は声、「楽」は楽器のことを指すため、歌と楽器の演奏をあわせて「音楽」という言葉が形作られているのです。「楽」という漢字は「楽しい」という意味で使われていません。  では、英語の「music」という単語はどのように生まれたのでしょうか? 「music」が初めて辞書に載るのは13世紀なのですが、これはフランス語の「musique(ムジーク)」が輸入されたものでした。このように順々にさかのぼっていくと、古代ローマで使われていたラテン語の「musica(ムジカ)」、そして最終的に古代ギリシア語「mousikē(ムシケー)」にまでたどり着きます。  ギリシア神話には、神々の長であるゼウスの娘で、文芸・音楽・舞踊・歴史・天文などを司る女神たち「ムーサ Musa」(※複数形だと「ムーサイ Musai」、英語に訳せば「ミューズ Muse」)がいて、彼女たちの「技 tékhnē」のことを「ムシケー mousikē」と呼びました。この「ムシケー」という言葉には、文芸なども含まれていましたが、前述した「musica(ムジカ)」のようにラテン語以降は他の芸術を含まずに「音楽」だけを表す言葉に細分化していったのです。     「楽譜」を英語でいうと?    現在、英語の「music」が指し示す範囲は、「音楽」そのものだけでなく…… 楽器や音声によって生じる楽音,一つ一つの楽曲 (a piece of music),それらを記録する楽譜や楽曲集,また音楽の鑑賞力や音感を指す.鳥や川など音楽的な美しい響き,快い調べなどもいう. 『英語語義語源辞典』(三省堂, 2004)より引用  ...

なぜ、完成した後も楽譜に手を入れ続けるのか? ~改訂癖のある作曲家たち【演奏しない人のための楽譜入門#18】

なぜ、完成した後も楽譜に手を入れ続けるのか? ~改訂癖のある作曲家たち【演奏しない人のための楽譜入門#18】

   クラシック音楽にある程度触れていらっしゃる方なら、曲名のあとにカッコ書きで(改定稿)(改訂版)(○○○○年版 or 稿)といったような表記をご覧になったことがあるはず。あるいは、(○○○○/○○年)といった感じでカッコ書きによって作曲年が付されている時、スラッシュのあとに表記されている数字は多くの場合、改訂された年を指しています。そこから改訂が施されている作品だということが分かるのです。こうした視点で色んな作品を眺め返してみると、完成した後に再度手を加えられた楽曲は案外と多いことに気付かされます。この「改訂 revision」という行為と、楽譜の関係について今回は深堀りしてみましょう。  なお、手書き譜や出版譜に修正を書き入れた楽譜については「稿」(英:version/独:Ausgabe)、第三者による浄書や校訂を経て出版された楽譜については「版」(英:edition/独:Fassung)と呼び分けています。 問題視されて議論になる改訂と、そうではない改訂……何が違うの?    「改訂」の問題が頻繁に取り沙汰される代表的な作曲家といえば、 アントン・ブルックナー(1824~96)でしょう。一方、同時代のウィーンで活躍していた ヨハネス・ブラームス(1833~97)は対照的に、ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 Op. 8(1853~54/89)などの一部の例外を除いて、改訂稿が話題になる機会は少ない作曲家といえます。両者最大の違いとなるのが、どの稿を演奏すべきかの判断が難しいという点です。   ▲アントン・ブルックナー(1824~96) (出典元:Wikipedia)    これまでの連載のなかでもたびたび説明してきたように、自筆譜に忠実であるだけでは不十分で、その後の経過も含めて作曲家自身の最終判断を追い求め、それを楽譜に落とし込む……というのが現代で重要視される「原典版」という“思想”でした。例えば前述した ブラームスのピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 Op. 8を演奏する場合、ブラームスの最終判断にあたるのが1897年の改訂稿であることは自明であるため、研究や比較目的でもない限り、初稿(……に基づく1854年のジムロック版〔=初版〕など)はほとんど演奏されません。ブラームスの場合、改訂されていても初稿が破棄されて現存していないことが多い……という事情も絡んでいます。  ところがブルックナーの場合、最終判断がどこにあったのか?……という点について、専門家のなかでも大きく意見が割れてしまうのです。(※正確さを徹底しようとすると話がややこしくなってしまうので、ここでは大雑把な説明に留めておくことにします。)  ブルックナーの交響曲は、作曲者の存命中や亡くなって間もない頃から第三者(主に指揮者)が楽譜に大きく手を加えて演奏したり、出版(後に「改竄版」と呼ばれることも……)したりすることが珍しくありませんでした。これらを正式な改訂とみなさないのは当然だと皆さま納得されるかと思いますが、なんとブルックナー自身が手を加えたものであろうとも、それは周囲にいた指揮者らに強いられてであって、作曲者自身の本意ではなかったのではないか?……という見解をもつ人々があらわれてくるのです。  そうした人々が中心となって1929年に国際ブルックナー協会が設立され、「原典版」が出版されはじめます。編集の主幹となったのはロベルト・ハース(1886~1960)で、彼が校訂した楽譜が「ハース版」と呼ばれているものです。ブルックナーの最終判断を求めて、原則1曲につき1つの版を出版するという方針をとっていました。そのため、ハースの主観的な判断によって、異なる時期の改訂要素が混在する版が生まれることもありました。  ナチスと関係が深かったハースは戦後に追放されてしまい、今度はレオポルト・ノヴァーク(1904~91)が編集主幹を務めるようになります。ハースによる主観的な編集方針に批判的だったノヴァークは客観性を徹底。複数の初稿・改訂稿が存在する交響曲の場合は、すべて出版する……という方針がとられました。とはいえ、多くの指揮者は(改竄版とみなされたものは除き)最終的な改訂を選ぶのが一般的ですから、これで稿・版の問題も万事解決……かと思いきや、そうもいきません。  朝比奈隆(1908~2001)やギュンター・ヴァント(1912~2002)を筆頭に、ブルックナーを得意とする大物指揮者にハース版の根強い支持者がいたり、ノヴァーク版における判断が最新研究では覆されたり(第7番 第2楽章のシンバルの有無について、その結果、ハース版と同じに!)と、とにかく話は一筋縄ではいきません。  ...

《未完成》はシューベルトだけじゃない!未完作品の楽譜事情 ~ベートーヴェンの交響曲第10番を補筆する!?【演奏しない人のための楽譜入門#17】

《未完成》はシューベルトだけじゃない!未完作品の楽譜事情 ~ベートーヴェンの交響曲第10番を補筆する!?【演奏しない人のための楽譜入門#17】

   「ベートーヴェンの交響曲第10番」――といえば、19世紀の名指揮者ハンス・フォン・ビューローがブラームスの交響曲第1番をベートーヴェンになぞらえて賛辞を贈った言葉として知られています。ところが20世紀の後半になってから、ベートーヴェンが遺したスケッチをもとに《交響曲第10番 変ホ長調》を完成させてしまった猛者があらわれました。今回は、こうした作曲家が生前に完成することのなかった作品に関する楽譜をご紹介してまいりたいと思います。 ベートーヴェンの交響曲第10番は、本当にブラームスっぽい!?  ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第10番を完成させたのは、イギリス人のバリー・クーパー(1949~ )という人物です。バロック時代の英国で作曲された鍵盤楽器のための音楽を研究して博士号を取得した音楽学者でありながら、ベートーヴェン研究にも従事。彼自身が作曲家としての顔も持っていることから、このプロジェクトを遂行することにしたのでしょう。  もちろん、残されたスケッチをもとにして無闇矢鱈に作曲したわけではなく、信頼に値する人物として知られるヴァイオリニストのカール・ホルツ(晩年のベートーヴェンの秘書も務めた)が、ベートーヴェンがピアノで演奏する交響曲第10番を聴いたという具体的な証言などをもとに、スケッチを推定。書き残された指示をきちんと反映しながら、第1楽章だけが1988年に復元(?)され、まずはウィン・モリス指揮のロンドン交響楽団によって録音されました。    この音源は各種ストリーミングサービスで配信もされているのですが、実はオススメできません。というのも、序奏のアンダンテを2倍にしたテンポで、主部のアレグロは演奏すべきと考えたクーパーはそのように楽譜にメトロノーム記号を書き入れていたのですが、これは明らかに遅すぎるのです。クーパーの指示に従ったモリスが20分で演奏しているのに対して、後の録音では14~15分ほどで演奏されています。現在、楽譜はウニフェルザル社から新たな改訂を施したバージョンが2013年に出版されているのですが、クーパー自身の判断でアレグロのメトロノーム記号は、もう少し早いテンポに修正されました。  オススメしたい録音は、ダグラス・ボストック指揮のチェコ室内フィルハーモニー管弦楽団によるもので、かなりベートーヴェンらしい雰囲気を堪能することが出来ます。一方、比較対象として面白いのがクリストフ・ケーニヒ指揮のソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクによるもので、少し重量感が加わることで、まるでブラームスの交響曲第1番のようにも聴こえてくるのです。日常的にオーケストラで演奏されるレパートリーにはなり得ないと思いますが、妄想しながら聴くには充分楽しめる作品といえます。   シューベルトの未完成は、1曲じゃない!?    未完成作品で最も知られたものといえば、やはりシューベルト(1797~1828)の交響曲第7番 ロ短調――通称《未完成》でしょう。通常はシューベルト自身が完成させた第1~2楽章だけで演奏されていますが、本来書かれるべきであるはずの第3~4楽章も演奏できるようにしようと考えた例が、これまでにも数多く存在しています。  第3楽章については、シューベルトが残した30小節分の楽譜があるのでそれをもとに補筆(残りの部分をシューベルトのスタイルに沿って、想像で補填)し、全く作曲された形跡のない第4楽章については、《未完成》の翌年に書かれた劇音楽《キプロスの女王ロザムンデ》D 797のなかの1曲、同じロ短調の調性による〈間奏曲第1番〉を転用するというやり方が主流です。こうした楽譜は演奏者自身が手掛けることも多いため、未出版だったりもするのですが、第3楽章だけに関しては指揮者フローラン・オラールが補筆したバージョンがシコルスキ社から出版されています。  なおシューベルトは、他にも未完成作品が多いことで知られており、他にも補筆の試みがなされています。交響曲では、ニ長調のD 936 Aという作品も様々な人により補筆の試みがなされていますが、そのうちで最も変わっているのがイタリアの現代音楽の作曲家ルチアーノ・ベリオ(1925~2003)による補筆です。  何が特殊かといえば、元の部分と馴染むように修復するのではなく、陶器の金継ぎのように新しく書き加えた部分の異質さを味わうという、かなり独特なやり方をしているのです。ベリオはこの作品に《レンダリング》(日本語に訳せば「演出」「解釈」「翻訳」「完成予想図」という意味)と名付け、ウニフェルザル社から出版されました。この楽譜には、シューベルトのスケッチも併記されているので、ベリオが何を書き足したのかが一目瞭然で分かるようにもなっています(ちなみに、他にもベリオはプッチーニの歌劇《トゥーランドット》で独自の補筆版を作成しています)。   ▲ルチアーノ・ベリオ: レンダリング 第3巻(英語,独語)/Wimmer & Schmidinger編   ――未完成作品を補筆した「成功作」と「今後の期待作」  ...

楽譜から辿る演奏の痕跡 ~グールド、ショパン、ブラームスはどんな演奏をしたか?【演奏しない人のための楽譜入門#16】

楽譜から辿る演奏の痕跡 ~グールド、ショパン、ブラームスはどんな演奏をしたか?【演奏しない人のための楽譜入門#16】

      前回は、Sheet Music Storeで購入可能なグレン・グールド(1932~1982)に関する楽譜を中心に取り上げ、あまり知られていない作曲家としての側面をご紹介して参りました。 今回は、取り上げずに残してあった残り1冊(Glenn Gould's Goldberg Variations: A Transcription of the 1981 Recording)をスタート地点にして、「演奏」の痕跡を辿れる楽譜をご紹介していきましょう。 グレン・グールドの演奏を楽譜に書き起こす    まずは、前回取り上げられなかったグレン・グールド絡みの残り1冊から始めてまいりましょう。書名は“Glenn Gould's Goldberg Variations: A Transcription of the 1981 Recording”――日本語に訳せば『グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲:1981年録音のトランスクリプション』になります。J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、グールドの代表的なレパートリーのひとつで、キャリア初期の1955年録音と、晩年の1981年録音がよく知られています(その他、ライヴ盤も発売されています)。  「トランスクリプション transcription」という言葉は通常、クラシック音楽においては管弦楽曲や歌曲などをピアノに編曲した楽曲に用いられます。ただし、今回の楽譜に関していえば「編曲」ではなく「文字起こし」というニュアンスが近いといえるでしょう。というのもこの楽譜、見開きの左ページ(偶数頁)にはバッハが書いたオリジナルの楽譜が、右ページ(奇数頁)にはグールドがどのように演奏したのか、装飾やアルペジオ(分散和音)を記号ではなく、具体的な音符とリズムで記譜しています。この右ページを、グールドの録音を聴きながら「文字起こし」をするように、音符を書き起こしていった楽譜なのです。  更に、どのようなアーティキュレーション(スタッカートやテヌートなど)で弾いているのか?...

楽譜から眺めるグレン・グールドの世界【演奏しない人のための楽譜入門#15】

楽譜から眺めるグレン・グールドの世界【演奏しない人のための楽譜入門#15】

 亡くなってから40年近く経つ2020年においても、ピアニストグレン・グールド(1932~1982)の人気は揺らぎそうもありません。 日本では批評家の浅田彰や、作曲家の坂本龍一といった著名人に偏愛されたことで、クラシック音楽のリスナー層を超えて愛好されるようになっていきました。かつては賛否が大きく分かれたバッハの録音も、長らくビギナーのファーストチョイスに挙がるような定番の名盤であり続けています。  わずか31歳でコンサートにおけるライブパフォーマンスに終止符を打ち、以後はレコードなどのメディアを通して演奏を発表してきたことは、グールドという音楽家を象徴する逸話として積極的に伝聞されてきました。ところが、それに比べるとグールドが作曲家・編曲家として手がけた作品は、熱心なクラシック音楽ファンやグールドマニア以外には知られていません。特にこの連載のテーマである「楽譜」を通してみると、グールドのあまり知られていない側面がみえてくるのです。  Sheet Music Storeで検索してみると、このサイトで購入可能なグレン・グールドに関する楽譜が数件ヒットしますので、これらを中心に書かれた順番でみていくことにしましょう。  ​​​​​ ピアノ・ソナタ    まずは1948~50年(16~18歳頃)にかけて作曲された《ピアノ・ソナタ Sonata for Piano》 です。緩徐楽章となる第2楽章までしか完成していないため、未完作品として扱う場合もありますが、2003年にショット社から出版されています。 (ちなみにエミール・ナウモフ Émile Naoumoffの演奏がCDになっていますので、気になる方は検索してみてください。)  解説によればパウル・ヒンデミットのスタイルで作曲された作品とされていますが、特に意識されているのは ヒンデミットのピアノ・ソナタ第3番だと思われます。 というのもグールドのピアノ・ソナタの第1楽章の半ば以降、執拗に繰り返される旋律は、ヒンデミットのピアノ・ソナタの第4楽章「フーガ」の主題が元ネタになっているであろうことが、楽譜から確認できます。実際、この頃にヒンデミットのこのソナタを演奏した記録も残っているので間違いないでしょう。  しかし、曲調はヒンデミットにそっくりと言えません。敢えていえば、グールドの意外な録音レパートリーとしてマニアには知られている プロコフィエフ のピアノ・ソナタ第7番《戦争ソナタ》に近い雰囲気にも思えるのですが、この曲を書いた時点でグールド青年はプロコフィエフのソナタを意識していたのでしょうか? 確かなところは分かりませんが、この頃のグールドの演奏曲目を調べると別の可能性が浮かび上がってきます。  グールドは1951年に、チェコ出身のカナダの作曲家オスカル・モラヴェッツ(1917~2007)の作曲した《幻想曲 ニ短調》(1947) を演奏しているのですが、この曲がどうやらプロコフィエフから強い影響を受けているようなのです。 こうしてピアノ・ソナタを作曲する際、モラヴェッツ作品を通して間接的にプロコフィエフの影響下にあったことが分かると、 後にプロコフィエフの《戦争ソナタ》を録音したことが、それほど突飛に思えなくなるのです。  ...

ベートーヴェンの「第九」――コロナ禍と、初版の出版【演奏しない人のための楽譜入門#14】

ベートーヴェンの「第九」――コロナ禍と、初版の出版【演奏しない人のための楽譜入門#14】

 かつて2018年に、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』に出演し、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱付き》――通称「第九」の解説をさせていただいたタイミングで、筆者はあることを調べました。一体、日本国内では12月に何回、「第九」が演奏され、何人ぐらいが合唱団の一員として歌っているのでしょうか。  クラシック音楽のコンサート情報が最も集約されているフリーペーパー『ぶらあぼ』(2018年12月号)に掲載された公演を数えてみると、およそ180回の演奏が確認できます(載っていない公演もあるだろうと考えれば、約200回!?)。  そして「1万人の第九」「5000人の第九」といった極端な例を含み、公演の8割はアマチュア合唱団が出演しているため、1公演100人以上が歌っていると考えられます(古楽系の演奏でプロの合唱団であれば、30名ほどの演奏も何とかあり得るが……)。つまり、延べ人数3万人ほどは12月に第九を歌っている概算となるわけです。こんな国は、ドイツ語圏を含めても、日本の他に存在しません。 コロナ禍の「第九」    世界中のどの国よりも「第九」を愛する日本人は、合唱による飛沫が問題視される昨今でも、万全の対策を講じて12月に「第九」を演奏しようと、各所で準備が進められています。毎年、第九の特別演奏会を企画している(オーケストラ連盟に所属するプロの)オーケストラに加え、世界的な評価も高い古楽器オーケストラであるバッハ・コレギウム・ジャパンも12月27日に急遽「第九」の公演を行うことにするなど、コロナ禍でも「12月に第九」という風習は続いてゆきそうです。  その先駆けとなったのが横浜のみなとみらいホールで、10月5日にはフランツ・リスト編曲のピアノ独奏版を若林顕が取り上げ、合唱も独唱陣もいない「第九」を演奏。そして11月10日には、渡辺祐介の指揮で古楽器によるオルケストル・アヴァン=ギャルドと合唱団クール・ド・オルケストル・アヴァン=ギャルドが「第九」を演奏しました。合唱はプロの声楽家が集まった28名(ソプラノ8名、アルト8名、テノール6名、バス6名)による少数精鋭で、一人ひとりをアクリルボードで区切って飛沫対策。これで演奏が実現できたのもプロだからであり、大人数を前提としたアマチュア合唱団による演奏が今年に限っては大幅に減ってしまうのは致し方ないでしょう。  ちなみに、これまでアマチュア合唱団が「第九」を歌う上で重要なアイテムとなってきたのが、第4楽章だけを抜粋したピアノ・リダクションの楽譜です。特に国内の出版社から出された、初心者が演奏する上で役立つ情報を盛り込んだ楽譜が各社から出版されており、合唱団指定の楽譜を購入して、プロの指導をもとに譜読みと練習を重ねていきます。  実は、こうした第4楽章だけを抜粋した国内版のほとんどは、ブライトコプフ&ヘルテル社が出版した楽譜(1864年/1930年/1964年)をもとにして、作られています。それは何故なのでしょうか? 第九の誕生と楽譜出版の経緯を、振り返ってみたいと思います。   「第九」の作曲    そもそも「第九」が書かれるきっかけを作ったのは、ロンドンのフィルハーモニック協会だと言われています。現代ではオーケストラの名称として使われている「フィルハーモニック」「フィルハーモニー」という言葉の原義は「フィル(愛する)+ハーモニー(調和=音楽)」で、「音楽愛好家」という意味になります。フィルハーモニック協会は音楽愛好家(※プロも含む)の集まりで、演奏会を企画したり、新作を委嘱したりと、当地の音楽文化を振興するための団体なのです。  1813年2月に設立されたロンドンのフィルハーモニック協会は、1815年5月にフェルディナント・リースをディレクターに任命します。リースは、ベートーヴェンと同じボン出身の作曲家・ピアニストで、ベートーヴェンの愛弟子として知られる人物でした。彼はフィルハーモニック協会の事業として、イギリス国外から優れた音楽家の招聘を企画します。そのうちのひとりがベートーヴェンだったのです。  1817年6月にリースは、ベートーヴェンに手紙をしたためます。依頼は「次の冬のコンサートシーズンにロンドンに滞在して欲しいこと」「フィルハーモニック協会のために交響曲を2つ作曲して欲しいこと」「その交響曲はフィルハーモニック協会の所有物となること」「報酬は300ギニーで、契約すれば100ギニーを前払いすること」という内容でした。  当時の1ギニーは、現在の通貨価値でいえば8000円強にあたるそうなので、およそ250万円で交響曲2曲とロンドン滞在という依頼になります(とはいえ、少なくとも「第九」のような巨大な作品は想定されていなかったと思われます)。この依頼に対し、ベートーヴェンは旅費として別途100ギニーを乗せるように要求。聴覚障害を抱えるため、旅には同伴者が必要という理由付けでした。  しかし、結局はベートーヴェン自身の身辺事情や体調を理由に延期。ベートーヴェンは「ロンドンに行けるかどうかは体調次第。交響曲を1曲書くだけなら、いくら払えるか?」という主旨の手紙をリースに送り、「50ポンド支払うが、18ヶ月間は協会の専有物(=出版してはならない)とすること。提出期限は来年3月」という協会の会議を経た上での返答が1822年11月に届きます。当時の50ポンドは現在の紙幣価値で「40万円」ほどだといいますので、前回の金額よりも大幅に下がっていますが、ベートーヴェン自身はこの条件を飲みます。  しかし提示された期限には間に合わず、代わりに《献堂式序曲》Op. 124をロンドンへ送って、18ヶ月の専有権を与えることで場つなぎ。締切から11ヶ月後の1824年2月になって、やっと完成にこぎ着けました。筆写譜を作成し、ロンドンに楽譜を送り出したのは同年4月だったにもかかわらず、理由は不明ですが届いたのは12月だった模様です。こうしてベートーヴェンはフィルハーモニック協会から50ポンドを支払われました。   ▲ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年) (出典:Wikipedia)   「第九」で稼ぐ    たかだか40万円ほどで「第九」を売り渡したことに疑問を感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろんベートーヴェン自身も、これだけで終わらすつもりは毛頭ありません。当時のベートーヴェンは兄弟や秘書の協力も得ながら、出版の権利をなるべく高く売るべく、複数の出版社と交渉を重ねています。そのため、それまで契約のなかった出版社との関係も生まれたりしています。最終的に「第九」の初版を出したショット社もそのひとつです。  ベートーヴェンが生まれた1770年、同じ年に創業したショット社は、1791年に《リギーニのアリエッタ〈愛よ来たれ〉による24の変奏曲》WoO65というベートーヴェンの初期作品を出版しているのですが、関係はそれっきり。ベートーヴェンがショット社と交渉するようになるのは、1819~23年にかけて作曲された《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》Op. 123以降のことです。  この段階では7~8社目の交渉相手に過ぎませんでしたが、なんとショット社は《ミサ・ソレムニス》、《交響曲第9番》、《弦楽四重奏曲第12番》などと、同時期に書かれた作品をまるごと請け負うことになります。ベートーヴェンが提示した額はそれぞれ、《ミサ・ソレムニス》が1000グルデン(現在の紙幣価値で約90万円)、《交響曲第9番》が600グルデン(約53万円)、《弦楽四重奏曲第12番》が50ドゥカーテン(約20万円)となっていますが、前述したように「第九」にはロンドンのフィルハーモニック協会が18ヶ月間の専有していたため、出版はそれまで待たなければなりませんでした。そういったややこしい条件も飲んでくれたのがショット社だったわけです。「第九」完成の翌月、1824年3月には話がまとまっていました。...

著作権とレンタル楽譜 ~海賊版はどのように駆逐されてきたか?~【演奏しない人のための楽譜入門#13】

著作権とレンタル楽譜 ~海賊版はどのように駆逐されてきたか?~【演奏しない人のための楽譜入門#13】

  音楽に限らず、深刻な社会問題となっている違法アップロード。著作者が本来得られるはずだった収入が奪われることで、新しい作品を生み出すための資金が減り、結果として文化全体が弱体化……。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これは紛れもなく実際に起きていることなのです。現代は多くの場合、WEB上で権利侵害が発生していますが、同様の問題は古くから海賊版というかたちで著作権者にとっての悩みの種でした。有名な作曲家たちは、どのようにこの問題と向き合ってきたのか? 著作権法の成立やレンタル楽譜という出版形態の話を交えつつ、ご紹介してまいりましょう。 旋律を盗まれるな!    これまでの連載で楽譜出版について様々な角度から紹介してきましたが、現代でこそ若い世代を中心に、作曲家自身がコンピューターで浄書(清書)するケースも珍しくなくなりましたし、これからもっと増えていくことでしょう。しかし改めて言うまでもなく、作曲家の自筆譜は千年以上にわたって手書きが基本。なんなら、プロの写譜屋にパート譜の作成を依頼すれば、美しくて見やすい譜面を今も手書きで製作してくれます。  このような作曲家が書いた総譜(スコア)から、作曲家自身ないしは第三者がパート譜を作成するという流れ作業は、今から数百年前のバッハやモーツァルトの時代であろうと変わりません。ところが当時は、この写譜をおこなう職人が――まるで経理が金銭を横領するかのように!――こっそり自分用に楽譜を書き写して無断で転売したり、海賊版の出版に繋げてしまう悪人がいたというのです。  実際、ハイドンが自分の作品を出版していたアルタリア社に対して、一部の職人がそうした悪事を働いているとクレームをつけていたり、レオポルド・モーツァルトは息子 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに、主要な旋律のパート譜だけは自分の目の届く範囲で写譜をさせるように助言を残しているほど。作曲家たちにとっては珍しい話ではなく、日々の防犯意識の一部であったろうことが想像されます。  また出版された楽譜をもとにして、何食わぬ顔で海賊版を製作されてしまう場合もありました。当時の流通状況も影響し、出版地とは異なる都市で海賊版が出回るケースが多かったので、 ベートーヴェンは、大きな音楽出版社がある主要都市で並行して出版の準備を進めたりしました。「悪貨は良貨を駆逐する」の逆で、正しい楽譜を流通させることで、海賊版の稼ぎを潰しにかかったわけです。   あなたが使っている楽譜は正しく入手したものですか?   著作権/上演権という概念の誕生    ですが、こうして作曲家の自衛で対応できる範囲も限られています。そこでコピーライト(Copyright)――直訳すれば「複製の権利」である著作権が法律で定められるようになっていくのです。現代の著作権法の先駆となったのは、イギリスで1709年(現在の西暦では1710年)に発行された「アン法」で、出版物を複製する権利を14年(後に28年)間にわたって保護するというもの(ただし、この法律が守られるようになっていくには、相当な時間を要しています)。  1814年になると「著作権者の存命中」もしくは「出版から28年間」を比べた時に、より長い期間を保護するようになりました。そして1886年のベルヌ条約以降になると、作者の死後50年間(以上)という国々が広まっていくこととなります。  そして演劇や音楽のように舞台上でパフォーマンスされる分野については、印刷物以外でも権利が守られるべきだという考えが登場。先駆となったのは1791年にフランスの法律で定められたパフォーミング・ライツ(Performing rights)――直訳すると上演権・演奏権――です。こうしてオペラや演劇のような舞台作品は、保護期間にある限り、作者の許諾なく上演できない(≒無断上演を裁判で訴えられたら負ける)という風に変化していくのです。  この延長線上で、今度は(「天国と地獄」で知られる作曲家)オッフェンバックのオペレッタ作品で台本作家をつとめたエルネスト・ブルジェが裁判をおこし、自分が関わった作品が舞台で上演されるたびに、金銭を受け取る権利を1851年に勝ち取ります。これがきかっけとなって設立されたのが、世界最古の音楽著作権管理団体SACEM(Société des Auteurs, Compositeurs et Editeurs de Musique)でした。日本における日本音楽著作権協会(JASRAC)の先駆となった団体といえるでしょう。こうして、作品が演奏されるたびに著作権者が収入を得られる仕組みが整えられていったのです。   レンタル楽譜の存在意義...

ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」【演奏しない人のための楽譜入門#12】

ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」【演奏しない人のための楽譜入門#12】

 今回のタイトルを見て、頭に「?」が浮かんだ方もいらっしゃるかもしれません。「ジャズといえば即興!」というイメージをお持ちでしたら、それ自体は決して間違っていないですし、小編成のジャズではメロ譜(リード・シート)と呼ばれるメロディとコードネームだけが書かれた楽譜をもとに即興演奏をしていくのが基本です。一方、ビッグバンドや現代のラージアンサンブルであれば各奏者はパート譜をみながら演奏し、その合間にソロ(アドリブ)がフューチャーされることになるのですが、今回のテーマに設定したのは、あくまで「クラシック音楽」なので、それらとも異なります。一体なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、ジャズとクラシックは遠いようでいて意外と近しい……そんなお話をしたいと思います。   どこからがジャズ? どこからがクラシック?    ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」――というと、まるで自己矛盾した文章のように思えてもしまいますが、今回の場合は「クラシック音楽の音楽家に演奏されることを想定した作品」と定義しておきましょう。あるいは、ジャズの即興演奏する能力がなくとも、楽譜の通りに演奏することが可能な音楽と言い換えることが出来るかもしれません。  ジャズのサウンドを持っていて、なおかつアドリブがない音楽といえば、まず筆頭に挙げられるのは、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)の《ラプソディ・イン・ブルー》(1924)でしょうか。ジャズ・ピアニストが演奏する場合は適宜、即興が加わることが多いですが、基本的には楽譜通りに演奏される楽曲です。ところが、ガーシュウィンは、あくまでも当時流行の最先端にあったジャズのサウンドを取り入れたミュージカルの作曲家、後に転じてクラシック音楽の作曲家になったとはいえるかもしれませんが、ジャズ・ミュージシャンとして活動した音楽家ではありませんでした。  むしろ、よりジャズに近いところにいたのは《ラプソディ・イン・ブルー》のオーケストレーション(当時のガーシュウィンにはオーケストラの楽譜を書くスキルがなかったため、その代わり)を担ったファーディ・グローフェ(1892~1972)だったともいえますが、現在の視点からみればジャズとクラシックの中間にいた人……というぐらいの認識が適切であるようにも思います。  ガーシュウィンやグローフェが手掛けたオーケストラ作品はシンフォニック・ジャズと呼ばれていますが、こうしたジャズのサウンドをもった(先に定義した通りの意味での)「クラシック音楽」というのは長らく、クラシック側がジャズの語法を取り入れたものであったので、“ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」”という今回のテーマには合致しない作品ばかりなのです。(この連載の第10回「ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る」に登場したクラウス・オガーマン(1930~2016)も、これまたグローフェに近い事例といえます。)   ▲ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937) (出典:Wikimedia)   ▲ファーディ・グローフェ(1892~1972) (出典:Wikimedia)   「ECM New Series」という発表の場    プロのアレンジャーではないジャズ・ミュージシャンが「クラシック音楽」を手掛けた初期の事例のなかで、比較的知られているのはフリージャズの旗手オーネット・コールマン(1930~2015)が作曲した《Forms & Sounds》(1965年録音)という木管五重奏曲……なのですが、調べた限り、楽譜は市販もレンタルもされていない模様。再演するためには採譜するしかなさそうです(楽譜の情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください!)。オーネットに近いスタンスの「クラシック音楽」としては、ジョン・ゾーン(1953~ )も挙げられるでしょう。Hips Road Editionという自身の出版社のWEBサイトで確認すると、1972年から現在まで、コンスタントに「クラシック音楽」が書かれ続けていることが確認できます。  こうしたフリージャズと現代音楽(≒第二次世界大戦後のクラシック音楽)の接近は、1957年頃からガンサー・シュラーが主導した「第三の流れ(サード・ストリーム)」という文脈と深く関係しているのですが、その説明についてはnoteにて拙稿の「ジャズとクラシックの100年【第3回】 1960-70年代:[前編]ジャズでもクラシックでもない音楽」に譲ります。今回の本題からは逸れてしまうので、ご興味ある方だけお読みください。  そこそこ前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。前述した「第三の流れ」とも異なる文脈で、(アレンジャーを本業としない)ジャズ・ミュージシャンが「クラシック音楽」を発表しはじめるのは、1970年代以降のこと。発表の場となったのはECMレコード(1969~ )で、先駆をきったのがジャズ・ピアニストのキース・ジャレット(1945~...

映画音楽と楽譜の“微妙”な関係~ジョン・ウィリアムズとウィーン・フィルの共演を記念して~【演奏しない人のための楽譜入門#11】

映画音楽と楽譜の“微妙”な関係~ジョン・ウィリアムズとウィーン・フィルの共演を記念して~【演奏しない人のための楽譜入門#11】

 2020年1月18日は、記念すべき日となった。世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に『スターウォーズ』などの音楽で知られるジョン・ウィリアムズが立ったのだ。そもそもウィーン・フィルが初めてジョン・ウィリアムズの曲を演奏したのは、2010年とごく最近。音楽の都で映画音楽が軽んじられてきた原因を、「楽譜」というキーワードで探っていきましょう。   サイレント映画時代の映画音楽    現存する最古の映画音楽として知られているのは、フランスの作曲家カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)が作曲した『ギーズ公の暗殺 L'assassinat du duc de Guise』(1908)という作品です。当時はまだサイレントの時代でしたから、映画に音楽をつけるには上映にあわせて生演奏をするしかありませんでした。ピアノやシアターオルガン(打楽器付きのオルガン)で即興的に演奏されることもありましたが、サン=サーンスは劇付随音楽の延長で『ギーズ公の暗殺』の音楽を作曲したのです。   ▲『ギーズ公の暗殺』 ピアノのパート譜 (出典: International Music Score Library Project)    劇付随音楽というのは演劇の上演に合わせて書かれた音楽のことで、クラシック音楽以外の分野では一般的に劇伴(げきばん)と呼ばれます。ベートーヴェンの『エグモント』、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』、ビゼーの『アルルの女』、グリーグの『ペール・ギュント』など、数々の管弦楽曲が劇付随音楽として書かれたのです。  ただし、サン=サーンスの作曲した『ギーズ公の暗殺』は、管弦楽曲ではなく室内楽(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハルモニウム、ピアノによる七重奏)。おそらくは、『ギーズ公の暗殺』自体が15分程度と短いこと、映画は演劇よりも繰り返し上映されることから、再演しやすい小さな編成で作曲されたのだと推測されます。  その後、アルテュール・オネゲル(1892~1955)がアベル・ガンス監督の長編映画『ナポレオン』(1927)(※オリジナルの上演時間は6時間半!)のためにオーケストラで音楽をつけていますが、現在演奏可能なのは映画から独立して編曲された組曲版のみ。しかも音楽をどの場面のどのタイミングで演奏するかを指示したキュー・シートは現存していない模様で、上映当時の再現は難しいのです。   トーキー時代初期の映画音楽    音声と映像が同期される「トーキー」の技術――特にサウンドトラック方式――が実用化されると、音楽はより映画に欠かせないものとなっていきます。クラシックの作曲家としては、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)がセルゲイ・エイゼンシュテイン監督と組んだ『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)、ウィリアム・ウォルトン(1902~1983)がローレンス・オリヴィエ監督と組んだ『ヘンリィ五世』(1944) など高度なコラボレーションの事例として挙げられるでしょう。  例えば、下記の設計図は『アレクサンドル・ネフスキー』の戦闘場面の音楽と、シーンの対応を図示したものなのですが、どの瞬間にどの音符が鳴るべきなのかが分かりやすく示されています。音楽が開始するタイミングだけでなく、音楽が流れている間は常に映像と完璧に結合させられていることがご理解いただけるはず。  ...

ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る【演奏しない人のための楽譜入門#10】

ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る【演奏しない人のための楽譜入門#10】

これまで出版社を中心に様々な輸入楽譜の話題をお送りしてきましたが、今回のテーマは自費出版(自社出版)。作曲家はどんなときに自費出版をしてきたのか?また、21世紀現在の作曲家たちにとっての自費出版とは?そして、自社出版の抱える問題について……と、このテーマを多角的に掘り下げてみたいと思います。   自費出版をしてまで得たかったもの   楽譜出版が本格化していくのは、イタリアのペトルッチ(1466~1539)による「活版印刷の多重刷り」以後のこと……と言われておりますが、それ以前にも以後にも手書きの「筆写譜」や「木版画」による楽譜などが流通していました。しかし、国や時代によっては出版までのハードルに大きな差があったようです。例えば、かのヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)が1000曲以上手掛けた作品のうち、生前に出版されたのは僅か20曲ほどに過ぎません。   ▲《6つのパルティータ BWV 825–830》/ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)   その数少ない例に含まれる《6つのパルティータ BWV 825–830》が、実はバッハ自身の自費出版によって世に出されたのです。1726~30年にかけて1曲ずつ出版したのち、1731年に6曲まとめて再版されているのですが、その際の表紙をみてみましょう。赤丸で囲んだ部分に「In Verlegung des Autoris(著者による出版)」と書かれていますね。 生前のバッハは、作曲家としての評価以上にオルガン・チェンバロ奏者として名を馳せたことで知られていますが、この曲以前に出版された2つの作品はカンタータ(管弦楽付きの声楽・合唱曲)でした。1723年からライプツィヒ聖トーマス教会のカントルという要職に就いていたバッハは、日々の激務のあいだを縫って、職務内では実現が難しい自らの鍵盤楽器奏者としての実力、そして勿論、作曲家としての実力を知らしめられる作品を自腹で世に問おうとしたのでしょう。(ちなみにバッハが本作のモデルにしたことで知られるクーナウの《新クラヴィーア練習曲集》も自費で出版された作品です。) 音楽家としての知名度と評価を目的とした自費出版としては、シューベルト(1797~1828)の《魔王》(1815)も似た事例といえるかもしれません。今でこそ音楽史に燦然と輝く傑作として知られているこの曲も、当時の感覚では作曲者は無名の18歳。もととなった詩を書いた巨匠ゲーテ(1749~1832)や出版社に楽譜を送っても、相手にされることはありませんでした。 作曲から6年ほど経った頃、シューベルトの音楽を理解し応援してくれる人が増えてきます。そうなると何故、楽譜が全然出版されていないのか?……という違和感を、シューベルト本人になりかわって思い至る友人があらわれ、改めて出版社を経営するハスリンガーとディアベリに楽譜が持ち込まれます(後者は、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》の主題を書いたあのディアベリです!)。 しかし、どちらの出版社も「作曲者の知名度が低い」「ピアノ伴奏が難しすぎる」……ゆえに「売れない!」と判断。シューベルト側が「印税はいらない」と大幅の譲歩をみせても、首は縦にふられません。そこで自費出版ということになるのですが、家計に余裕のないシューベルトはそのお金が出せず、彼を応援する4名が肩代わりすることで、遂にディアベリ社から出版されることになったのです。   ▲《魔王》(1815)/シューベルト(1797~1828)   この楽譜が即日で100部売れると、その費用をもとに次の曲、また売れると次の曲……と自費出版を繰り返していくと、ディアベリ社も態度を変えます。通常の出版契約を結べたことで、シューベルトの様々な作品が世に出ていくきっかけとなっていきました。   左から ▲『ヴァイオリン奏法論 Art of Playing...

高額だけど買ってしまう!? ファクシミリ版の世界【演奏しない人のための楽譜入門#09】

高額だけど買ってしまう!? ファクシミリ版の世界【演奏しない人のための楽譜入門#09】

Sheet Music Storeで「輸入楽譜」と検索し、「価格の高い順」に並び替えてみると、上位にくるのは「全集楽譜」や「パート譜セット」など、物理的にページ数や冊数が多い楽譜が中心となります。ところが1曲の総譜(スコア)であるにもかかわらず、5~15万円ぐらいの価格帯が並ぶのが「ファクシミリ版」と呼ばれる楽譜です。ファクシミリといえばFAX(ファックス)の正式名称をイメージされる方が多いことと思いますが、facsimileは「複写」を意味する英単語で、楽譜の場合、作曲家自身が手書きした「自筆譜」の複製を指す言葉として使われることが多いのです。今回はこのファクシミリ版の存在意義について、迫ってみようと思います。   出版譜からこぼれ落ちてしまう情報   そもそも、これまで連載のなかで紹介してきたように専門家が仔細に研究を重ねて出版した原典版(作曲家の最終判断を反映させた楽譜)が存在しているのに何故、手書きの譜面に立ち戻る必要性があるのでしょうか? 例えば、下記の画像はベートーヴェンの月光ソナタ(ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調)の第1楽章の自筆譜から抜粋したものですが、右手と左手で楽譜の縦の線が揃っていなかったり、表記が省略されていたり、ぐちゃぐちゃと音符が消されていたり、手書きで五線が書き足されていたりと、お世辞にも読みやすい楽譜とはいえません。     そして自筆譜であろうと音の間違いが存在しています。下記はベートーヴェンの熱情ソナタ(ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調)の第3楽章の終結部なのですが、赤丸で囲んだ音符は「ラ♭」になっており、実際、ウラディーミル・ホロヴィッツはこの自筆譜の通りの音にした演奏を録音しています。ところが専門家は総じて、様々な根拠によりベートーヴェンの書き間違いと判断。出版されている楽譜では「ファ」に修正されているのです。     以上のような状況を鑑みると、自筆譜はベストな選択とは言い難いことがご理解いただけるでしょう。ところが、出版譜になる過程で実は削ぎ落とされてしまう情報もあるのです。有名な事例として挙げられるのが、シューベルト作曲の未完成交響曲(交響曲第7番 ロ短調)の第1楽章のラストです。ちなみに、下記の楽譜はあのブラームスが校訂編集した出版譜になります。     最後から5小節目にff(フォルティシモ/とても強く)と指示があり、音楽は決然と終わるかのように思われるのですが、最後から2小節目の和音までくると、全ての音符に「>」を横長にした記号がつけられています。これは「徐々に弱く」という意味のデクレッシェンドを表す記号であるため、この最後の和音はffの付された音よりも柔らかく演奏されることが多いのです。古今東西、有名な指揮者の数多くがそのように演奏した録音を残しています。     しかしながら、シューベルト自身が手書きした自筆譜と、先程の出版譜をじっくり見比べてみると、異なる可能性が浮かび上がります。デクレッシェンドが上に書いてあるか、下に書いてあるかという違いはスペースの都合に過ぎませんが、音符を中心に見た時に「>」を横長にした記号の位置が微妙に異なっているのです。自筆譜(下記図の左)は中央で、出版譜(下記図の右)は右寄りに付されているように見えないでしょうか? もし中央に付けられている記号だとしたら、これはデクレッシェンドではなくアクセント(通常は横長ではない「>」)の可能性が出てきます。     他のページも見比べてみると、より傾向がはっきりします。下記の譜例のなかで水色で囲んだ部分はデクレッシェンドだけでなく、クレッシェンド(横長の「<」)も含まれていますが、いずれも音符の中央に書かれているように見えません。一方、オレンジ色で囲んだ音符に付けられた「>」は音符の中央に位置しているように見えますよね?(先程のブラームスが校訂した出版譜でも、ここはアクセントとして印刷されています。)つまりシューベルトは、「デクレッシェンド(横長の「>」)」と「アクセント(ただの「>」)」を横長かどうかで書き分けているのではなく、音符の中央に位置しているかどうかで表しているようなのです。     なお、似たような問題はショパンでも発生しております。ノクターン(夜想曲)第8番変ニ長調(Op.27...