日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。
東海北陸自動車道によってもたらされたる観光地間の競争激化
岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥町(しろとりちょう)。この町の商店街にまだ勢いがあり、白鳥おどりも最高潮に盛り上がっていた1970年代、一人の中学生が踊り子として会場を駆け回っていた。その子どもの名は、大坪正彦。後に、白鳥観光協会に入り、20年以上も祭りの裏方として白鳥おどりを支えることになる人物だ(2025年に引退)。ここからは、最盛期以降の白鳥おどりの変遷を現場から見守ってきた大坪さんの証言を補助線に、前編で触れた1980年代以降の白鳥おどりの変遷を追ってみたいと思う。
ちなみに個人的な話となってしまうが、大坪さんは、私が白鳥おどりに参加し始めた頃から親しくさせていただいている、いわば「恩人」のような人物でもある。東京でイベントを開催する際に、現地との調整役としていろいろと便宜を図ってくださったり、私が白鳥おどりについて知りたいことがあった時は貴重な資料を提供してくださったり、とにかく、ここでは書き尽くせないくらい、いろいろな面からお世話になったことは記しておきたい。

2019年に高田馬場で開催した白鳥おどりのイベント。ゲストに白鳥観光協会の大坪さんを招いた
まず、大坪さんが体験し、その目で見た白鳥おどりの最盛期とはどのようなものであったのだろうか。「当時(1970年代)は、踊りの輪がすごく大きかったですね」と大坪さんは回想する。「3つの商店会をまたいで開催していたくらいですから。駅前商店街の三叉路に屋台を置いて、北はごんぱちさんのところまで、東は濃飛タクシーさんのところぐらいまで行って。あまりにも輪が大きかったので、端っこと端っこで踊りがずれちゃっているんですよね(笑)。都会に出てた人たちが帰ってきて、本当にお盆の期間は町の人口がバーンと増える感じでした」

大坪正彦さん
大学進学後はしばらく地元を離れ、長らく白鳥おどりから遠ざかっていた大坪さん。ホテルやスキー、ゴルフなどレジャー系の職をいくつか経て、2001(平成13)年に白鳥観光協会に参加したが、そこでおよそ20年ぶりに目にした白鳥おどりの光景に衝撃を受けた。
「もう、自分が踊っていた頃と比べると、あんまりにも人が少なくて驚いたんです。屋台のまわりで踊っている人が、ほとんど保存会のメンバーという日もありましたからね(一般客が少ない)。やはり一番盛り上がっていた時期を知っているもんですから、自分の目が黒いうちに、これはなんとかしないと、と思いましたよね」
大坪さんが踊りの現場を離れているうちに、この町に何が起きたのか。まず観光業全般での話としては、町の主要な観光資源であったスキーが衰えた。
「スキーに関しては、越美南線に乗ってスキー客がやってくるという1回目のブームというのがまずあって、その時に村営の小さいスキー場みたいなのが町中にちょこちょこできたんですよね(1956年から、当時の国鉄によってスキー客のための臨時列車「奥美濃銀嶺号」が、シーズン中各週末に運行されていた)。その次にくらいに、観光バスやマイカーに乗ってスキー客がやって来る時代がきました。ちょうどその頃ぐらいですかね。白鳥町の北にある高鷲町の方に大きくて、設備も充実したスキー場がポンポンとできて、白鳥のスキーが衰退していったんです。リフトなんかも3〜4人乗れるようなゴンドラみたいなタイプなので混まないし、並ばず乗れる。一度便利さを体験しちゃうと、もう戻ってきませんよね。バブルの頃のスキーブーム? 確かにありましたけど、白鳥町への恩恵はそこまで大きくなかったんじゃないですか。テレビなんかで苗場のスキー場なんか見せられちゃうと、余計そっちに憧れちゃいますしね」

白鳥スキー場跡地(現・二日町延年の森公園)
2008(平成20)年に全線開通した東海北陸自動車道も、白鳥町の劣勢に拍車をかけたようである。東海北陸自動車道は、愛知県一宮市を起点に、岐阜県を経由して、富山県砺波(となみ)市に至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路である。1960年代に構想が立ち上がり、その沿線となる白鳥町でも大きな関心と期待が寄せられた。
「東海北陸自動車道などの開設によって、産業と観光の開発はいっそう脚光をあび、大きな伸張が展望される」
(1977年刊『白鳥町史 下巻』)
「白鳥町発展のカギを握るものは東海北陸自動車道の問題」(1984年刊『わが町白鳥 : 郷土誌』)
「東海北陸自動車道をはじめとする、道路の整備によって、白鳥町が劇的に変わる可能性がある」
(1991年刊『あすをひらく道 : 白鳥町合併35周年記念誌・町勢要覧1991』)
町の発展に寄与する道路として考えられたことから、完成に備え1966(昭和41)年から、町内のすべての道路の舗装と、川への架橋も進められてきた。
道路の整備は段階的に進められ、1997(平成9)年に郡上八幡IC-白鳥IC間が開通、1999(平成11)年には白鳥IC-高鷲IC間が開通となった。これによって地域に何がもたらされたのか。『岐阜県の冬季観光産業(スキー場)の実態調査報告』(2001)では、高鷲町を含む郡上郡北部に対しては「大型施設も加わり、中京圏・関西圏から長野方面に向かっていたスキーヤーも取り込み集客を増加させている」「さらに東海北陸自動車道の貫通がなれば、北陸圏をもマーケット 視野に入れようと計画している」と好ましい影響が報告されているのに対し、白鳥町を含む郡上郡南部には「白鳥IC開通までは、安定した集客を保ってきたが、高鷲ICの開設とともに集客を落としている。各スキー場共に高速道路のインターチェンジから遠いことがネックとなっている」というネガティブな評価が下されている。
数々の資料が、東海北陸自動車道が観光面で沿線エリア全体に何かしらの好影響を与えていることを示しているが、やはり道路の開設による観光地間の競争激化や、地域外への観光客流出といった負の影響も見逃すことはできない。
たとえば、合掌造り集落でおなじみの富山県の五箇山では、東海北陸自動車道全通後に、より規模の大きい白川郷の荻町集落に観光客が集中する傾向が強まり、また宿泊数も減少したことが報告されている(『東海北陸自動車道開通に伴う五箇山観光の変容』)。白鳥町においてもまた、期待ほどの観光誘致が図れていないようで、郡上市白鳥振興事務所『白鳥地域振興計画』(2021)には、2019(平成31)年の白鳥IC-飛騨清見ICの四車線化について触れつつ、「通過点となる恐れがあることから、目的地となるような観光イベント情報の提供が必要」と警戒感をつのらせた文章が記載されている。

五箇山の合掌造り集落
実際のところ、東海北陸自動車道が白鳥おどりの振興に繋がらなかったかというと、そうとも言いきれない。郡上市の発表している平成期の白鳥おどりの来客数を見ると、1995(平成7)年から1996(平成8)年にかけて一旦数は減少しているが(85,000→80,000人)、白鳥ICが設置された1997(平成9)年からは上昇に転じ、2004(平成16年)には平成期のピークとなる131,000人を記録。しかし、その後は下降線をたどり、10年後の2014(平成26)年には55,500人と、来客数はほぼ半減している。大坪さんは、次のように話す。
「白鳥おどりも、一時は郡上おどりに近いくらいの勢いを持った時代があったんですけど。おそらくですが、白鳥に関しては、多分時代の流れの中で来客数が増えていただけで、気づいたら、あれ?って(壊滅的な)状態になってしまっていたということだと思います。郡上おどりは比較的来客数をキープできているようなので、それ以上の努力をずっと続けてきたんでしょうね」
コンビニエンスストアの台頭と、大型店舗の規制緩和
白鳥おどりは、商店街の支援によって発展してきた。しかし、その商店街の衰退が原因で、「白鳥おどり」の運営が現在、危機に瀕していることは、前編の記事で述べたとおりだ。では、祭りを支えてきた商店街の衰退はどのように始まったのか。以降の内容は、満薗 勇『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』(2015年)、新 雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』(2012年)をもとに、一般論として全国の商店街衰退の経緯をまとめたものである。
先に触れたが、1970年代まで商店街は、「大規模小売店舗法」などの規制法によって手厚く保護されていた。そこで小売りの大手資本は規制にかからない小型店の展開を画策するようになる。それが「コンビニエンスストア」だ。24時間営業の利便性を武器に定価販売を基本としたコンビニは明確に、商店街における中小小売店の競合であったが、黎明期となる80年代はむしろ大手資本は、既存の中小小売店を取り組み、フランチャイズ化することで出店費用を抑えながら、その数を増やしていった。それは中小小売店の側からしても店の近代化をはかる契機ともなったという意味で悪くない話だったが、酒もタバコも米も、なんでも扱う万屋としてのコンビニに業態移行することは、専門店が寄り集まって形成される「商店街」の存在意義を自ら揺るがすことにも繋がった。
また、それまで商店街を守っていた規制が、1980年代から緩和に傾いていったことも、商店街には痛手だった。契機となったのは、オイルショック後、日米貿易摩擦による、アメリカからの反発だ。日本を敵対視する論調が高まった結果、1985(昭和60)年には、先進国5カ国の間でまとめられた「プラザ合意」が発表される。これはドル高の是正と、アメリカの貿易赤字の削減を目的とした施策だった。
日本バッシングとして、特に批判の的となったのは「日本の特異な流通構造」だった。日本は生産優位社会であり、国民が積極的に消費を行う環境にない、という点が問題視されたのだ。1989(平成元)年から1990(平成2)年にかけての日米構造問題協議では、市場構造の改善策として、流通規制緩和が議論された。その後、大規模小売店舗法の改正・廃止と緩和が進み、郊外に大型ショッピングセンターが続々と進出、地方の商店街衰退を加速させる要因となった。
また商店街の店は、親から子どもへと家族内で経営委譲されるという特性があり、祭りと同じような継承問題、つまり子どもが店を継がず廃業というケースも起こりやすく、そのことも衰退に拍車をかけたようだ。
内と外を繋ぐハブとなりコアなファンを育てる
大坪さんが観光協会に入った当初、白鳥おどりに関する業務は、いまよりもずっと仕事量が少なかったという。
「手間がかからなかったんですよね。というのも、当時は白鳥おどりに関わる運営はほとんど発展会の方々がやられていましたからね。いまはもうなくなってしまいましたけど、『浴衣コンクール』とか、『親子おどりコンクール』とか、面白い企画を発展会がいろいろと企画して、盛り立てていたんです。でも、僕が観光協会に入ってしばらくすると、発展会の力もだんだんと弱くなっていって、観光協会の僕らもいろいろとサポートする必要が生まれました。いまではもちろん、祭りの準備段階からも観光協会がしっかりと関わりますし、踊りの最中もトラブル対応とかでずっと現場に張り付いています。徹夜おどりの日も、ずっと起きて現場にいます」

白鳥おどり発祥祭の準備を進める様子(2016)。写真中央に大坪さんもいる
時代の変化によって観光協会に求められる役割が自然と変わっていったという話だが、大坪さんが白鳥おどりの活性化のために主体的に取り組んでいることもあった。それが外部から踊りに来ている愛好者の積極的な取り込みだ。そのきっかけは、次の出来事だった。
「私が観光協会に入った頃は、踊り客を増やすために、スタンプラリーといって、会場に来た人にスタンプを押して、スタンプが溜まったら豪華な景品、たとえばディズニーランドのチケットなどを抽選でプレゼントするという企画をしていたんです。僕はスタンプを押す係だったんですけど、踊りが始まる8時からスタンプ押しますよとアナウンスすると、7時半には長蛇の列ができているんです。でも、みんな押してもらったら、踊らないで帰っちゃうんですよ(笑)。スタンプ目当てに来る人は多くは地元の人たちだったんですけど、上にこの状況を報告したら、次の年からスタンプラリーなくなっちゃいました」
確かに地元の人たちの立場になって考えれば、家の近所で連日開催しているお祭りに、高いモチベーションを維持したまま参加し続けるのも難しいかもしれない。いずれにせよ、大坪さんはこのことをきっかけに外部にも目を向けるようになった。具体的には、外から踊りに来てくれた人との繋がりを大事にして、そういう人たちの窓口役を果たすことを始めた。
「そのために踊りの会場にも毎晩お邪魔して、できるだけ多くの人の顔と名前を覚えるように努めました。また会場に芳名帳を用意して、名前を書いてくれた方に毎年パンフレットを送るという取り組みも始めました」
実は私と大坪さんの繋がりも、大坪さんからの積極的な働きかけが発端だった。白鳥おどりに魅了された私が2016年に「あなたがこの夏、絶対に「白鳥おどり」に行くべき5つの理由」という記事をブログサービスのnoteにアップ。あとから聞いた話によると、その記事が一部白鳥おどり関係者の中で話題となり、人づてに大坪さんの耳にも入ったらしい。
「駅前の野々村時計のご主人から、すごい白鳥のことを褒めてくれる人がいるよと聞いて、観光協会で読んでいたら、本当に読み終わったくらいのタイミングで、ガラガラっと小野さんが入ってきたんですよ(笑)」
白鳥観光協会の事務所は、観光案内所を兼ねており、私もその時は、おそらく何か情報を求めて観光協会を訪れたのではないかと思う。ともかく、それ以降、踊りの会場で会うと何かと大坪さんは私に話しかけてくれ、関係性が深まっていった。もちろん、私だけでなく大坪さんは多くの踊り子たちと接点を築き、白鳥おどりファンの間では「観光協会の大坪さん」といえば知らない人はいないくらいの存在となっていた。
実はこの記事を書くにあたって大いに参考にさせていただいている『白鳥踊り保存会五十年史』も大坪さんから提供いただいたものだ。大坪さんがいなければ、私はここまで、このお祭りに深く関わることはなかったと思う。全盛期よりも、白鳥おどりへの来客数は大きく減ってしまったかもしれないが、大坪さんの活動の甲斐もあって、私のようなコアなファンがこの20年間で数多く育っていったのではないだろうか。
町の中から生まれる小さなアクション
商店街が縮小し、発展会が解散する中で、最近では自治会や町の有志が白鳥おどりの運営に関わるようになっていると、大坪さんは言う。
「原酒造のある商店街もお店がなくなっちゃって、あそこは自治会が一緒にやってくれていますし、上本町の商店街もやはりお店がないので完全に有志の方で運営していますね。栄町も今年から有志の運営となります」
運営主体が商店街ではなくなっても、白鳥おどりの火を絶やさないよう、町の人たちが立ち上がっている。いち白鳥おどりのファンとしてありがたいことだし、何か少しでも力になれればと思う。とにもかくにも、白鳥おどりのあり方は今後、確実に変わっていくだろう。もちろん希望はある。
幸いにして、白鳥おどりのお囃子を務める白鳥踊り保存会は、人数は減りつつも、徐々にメンバーの若返りも図られており、運営体制の問題に比べると、まだ危機的な状況ではないと大坪さんは言う。来客数も、コロナ禍での2年間の休止を挟んだことでグッと落ち込んだが、2022年の再開以降、右肩上がりに参加者数を増やしている。また興味深い動きとしては、近年ではお寺を使って白鳥を盛り上げようと檀家さんたちが町中でイベントを開催したり、白鳥町出身のクリエイティブな若者たちが町を活性化するためのチームを立ち上げたりと、商店街を起点とした動きとはまた別文脈のムーブメントも生まれ始めている。

町の活性化と、若者にもっとお寺に来てもらおうという目的で檀家さんたちによって企画されたイベント「来通寺テラス」

白鳥出身の若者たちが町の活性化を目的に立ち上げたクリエイティブチーム「SHIRO」。
2024年9月には渋谷のMIYASHITA PARKのイベントにも出店した
白鳥おどりは、今後どうなっていくのがいいのか。単なる踊り子の一人である私が大それた提案をすることはできない。しかし、いま紹介したような町の中から生まれる草の根的なアクションを大切にしながら、大坪さんが実践したように外側のファンをうまく巻き込んでいく、この両輪をバランスよく回していくことが、白鳥おどりの次なる展開を推進していくのに繋がるのではないだろうかと勝手ながら思っている。
偶然のタイミングだったが、この原稿を書いている最中、「白鳥踊」が郡上市の重要無形民俗文化財に指定されたというニュースが飛び込んできた。風はおそらくいい方向に動いているはずだ。希望をもって、この記事を終わらせたい。(了)
Text:小野和哉
プロフィール

小野和哉
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono
この記事を読んだ人におすすめの商品