国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

国生みの島に響く盆の唄「沼島音頭」(兵庫県南あわじ市沼島)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。

国生み神話の島「沼島」

   瀬戸内海東部に位置する、兵庫県の淡路島。その南端から5kmほど離れた場所に、勾玉型の小さな島が存在する。「国生み神話」で知られる沼島(ぬしま)である。

   「国生み神話」は、日本神話でイザナギとイザナミが日本列島を創造したとされる物語だ。高天原の神々に命じられた二柱は、天の浮橋から「天の沼矛」で海を“コヲロコヲロ”とかき混ぜ、その雫から最初の島「おのごろ島」(「おのころ島」とも表記)が生まれた。この島がどこかには諸説あるが、有力候補の一つが沼島である。実際、沼島の観光パンフレットにも「国生み神話の島」や「神々が創った最初の島」といったコピーが並び、神話ゆかりの地として広くPRされている。

   日本神話に紐づく歴史ロマンを求めて当地を訪れる人は数多くいるのだろうが、私の今回の旅の目的はあくまで沼島の郷土芸能。この島に伝わる「沼島音頭」という独特の盆踊りについて話を聞くため兵庫県にやってきた。

数年越しに実現した沼島音頭の取材

   前日は、淡路島の中腹に位置する洲本に宿泊。翌朝、日の出る前に起床してバスに乗車、沼島行きの船が出る土生港に着いたのは朝8時のことだった。船のチケットを買って乗船場に向かうと、係留された一隻の船が朝日に照らされてまばゆく光っていた。

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淡路島と沼島を連絡する船

   沼島と淡路島本島を結ぶ定期便。実はこの船に乗るのは、初めてではない。2017(平成29)年の夏にもまた、沼島に魅力的な盆踊りがあるとの噂を聞きつけて、この場所にやって来た。

   沼島の盆踊りは確かにすばらしかった。島は南区、中区、北区、東区、泊区の5つの地区に分かれ、お盆の期間(13日〜16日、以前は17日まで行われていた)、それぞれの地域で日をずらして盆踊りが開催される。私は参加したのは南区の盆踊り。家屋がひしめく住区の中にぽっかりと広場があって、中央にはヤグラ(沼島では「音頭座」(おんどざ)と呼ばれる)が立っている。そこで番傘を手にした「音頭出し(おんどだし)」と呼ばれる歌い手が代わる代わる立ち、自慢の歌声を響かせる。

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2017年、筆者が参加した南区での盆踊り
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音頭出しは「兵庫口説」という盆踊り歌に合わせて歌う
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踊りは回転動作が多く難しい。音頭座の下には太鼓打ちがいる
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踊ったり、椅子に座って語らったり、盆踊りではゆるやかな時間が流れる

   音頭に合わせて、人々が2時間も3時間もぶっ通しで踊り続ける(昔は朝方まで踊っていたらしい)。その光景に圧倒されると同時に、音頭そのもののすばらしさと、音頭座を囲む島民たちのあたたかな雰囲気に魅了された。帰宅してからも興奮は冷めやらず、「またいつか再訪したい」「沼島の盆踊りについて地元の人に話を聞いてみたい」と願うようになった。

   その後、一度だけ島の人にアプローチをしてみたことがあった。しかし、思い立った時期がちょうどコロナ禍に突入したタイミングだっため、取材は実現に至らなかった。それでも「沼島音頭の魅力を伝えたい」という思いは変わらず、数年越しに、現地での体験をもとにしたレポート記事をブログに執筆した。それが2020(令和2)年のことだ。コロナ禍はしばらくおさまらず、沼島を再訪するという計画は自然と立ち消えてしまった。しかし、沼島音頭のことは忘れられず、いつも頭の片隅にあった。年に数回、思い出したかのようにYouTubeで動画を見返しては、「やっぱりいいなあ」と、その魅力をあらためて再確認していた。

   そうやって数年が経過した2024(令和6)年9月のこと。沼島にある中学校、兵庫県南あわじ市立沼島中学校の主幹教諭を名乗る人物からメールが届いた。その内容というのも、沼島中学校のSDGsに関する取り組みを、「未来のシマ共創アワード」という賞に応募したいので、その際、沼島音頭(沼島で開催される盆踊りの名称)に関する情報源として、私が沼島音頭について書いた個人ブログ記事のURLを提出資料に記載してもいいかというご相談であった。

   沼島音頭と中学校がどのように関係しているのか? その疑問はメールの文面をさらに読み進めると解き明かされる。

   沼島は現在人口370名にまで減少しました。沼島中学校の生徒数も減少し、小規模特別認定校(筆者注:詳細は後述)として沼島以外の生徒も通うことができるようになりました。そのため、中学校で初めて沼島音頭と出会い、取り組む生徒がほとんどになりました。国生みの島で、100年後も音頭を知っている人を少しでも多くするために、沼島伝統文化保存会の皆さんが熱心に教えてくださり、敬老会や学習発表会で毎年披露しています。その方々の功績を広めたいです。

   沼島が島外の中学生を受け入れ、さらにその子たちに沼島音頭を教えているということに驚く。まさかそのような取り組みが行われていたとは。メールの差出人である河野真也さんは、2024年度に赴任してきた沼島一年目の先生だという。相談事項に関してはもちろん承諾するとともに、せっかくの機会ということで、こちらからも取材の依頼を打診すると「もちろんです」と快く引き受けてもらえた。

「沼島千軒」と呼ばれた島の現在

   島外出身の中学生は、多くが島に住むことなく、淡路島本島からスクールバスや船で学校に通っているという。そのため、沼島行きの船内もスポーツバッグを背負った若者たちであふれていて、着岸直後の港も、人口357人(令和7年3月末現在)の島とは思えないほど活気にあふれている。ちなみに、乗船時間はわずか10分。あっという間だ。

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船を降り、足早に学校へ向かう中学生たち

   港にはたくさんの船が停泊しているが、人気はほとんどない。漁はもっと朝早い時間に行われているのだろうか。あの賑やかしい中学生の一団が去ると、島は嘘のように静まり返る。

   かつて沼島は「沼島千軒」と言われるほどに活気に満ちた島であった。その理由は、第一に地の利にある。小さな島ながら、その位置が紀州・鳴門・上方の海路の要衝にあり、上り下りの船が必ずこの島へ寄港するというほど、往来が盛んであった。また島の周辺や、紀伊水道(紀伊半島と四国に挟まれた海域)一帯は漁場としても恵まれており、タイ、ハモ、ハマチなど、さまざまな魚を豊富に獲得することができた。勢いづいた沼島の漁師は近海に飽き足らず「よそいき」と称して、熊野、阿波、日向、五島、対州(対馬のこと)まで進出したという。

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港に停泊する漁船

   文化・文政の時代(1803〜1830年)ともなると、近接する京都や大阪などの町が商業都市として繁栄を極め、沼島で獲れる高級魚が大量に消費されるようになる。その結果、島では多くの海産物商や廻船業者が生まれた。現・株式会社ニッスイの前身となる水産会社の「山神組」を輩出したのもこの沼島である。

   現在、沼島の漁業は多くの課題に直面している。漁師の高齢化や減少、魚を育む地球環境の変化、燃料の高騰……。「兵庫県離島振興計画(令和5年度~14年度)」に掲載されている国勢調査のデータを参照すると、2010(平成22)年と2020(令和2)年の比較では、沼島の第1次産業従事者数は145人から98人へ減少している。

   静寂と安らぎに満ちた空気に抱かれる現在の沼島。島を散策してもすれ違う人は少ないが、それでも島の居住区に所狭しと密集する家屋を見ていると、「沼島千軒」と呼ばれたかつての沼島の繁栄ぶりをうかがうことができるのだ。

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離島特有の細い路地と、密集した住宅
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かつて島内には銭湯も3軒ほど営業していたという(2017年撮影)
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沼島にある自凝(おのころ)神社には、イザナギ・イザナミの石像が祀られている

20名いる生徒のうち島出身者は2名

   沼島中学校に到着すると、河野先生が笑顔で迎えてくれた。数日前にビデオ通話でお話しさせていただいた時と変わらず、気さくで快活な雰囲気の方だ。保存会の方が来るまで、あらためて沼島中学校の現状について教えてもらう。

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沼島中学校 主幹教諭 河野真也さん

   「中学校全体で生徒数はいま20名ですね」と河野さん。「そのうち、島出身の子は2年生の双子ちゃん、女の子2名だけ。つまり生徒のうち18名が島外の子なんです」。沼島中学校では近年、児童数の減少が課題となっていた。兵庫県ホームページが公開するデータによると、2014(平成26)年時点で10名、2020(令和2)年には4名まで落ち込んでいる。

   「沼島には昔から高校がなく、中学を卒業してからは全員が島外に通うことになります。早めに島外へ出ることで友だちを増やしてほしい、多くの生徒たちと学校生活を送るなかで、より豊かな社会性を身につけてほしい……島外の中学校に進学する子どもたちが増えている背景には、そんな親御さんたちの思いがあるのだと思います」

   沼島中学校が存続の危機に直面していた中、思いがけない追い風が吹いた。淡路島本島にある南淡(なんだん)中学校から、複数の生徒が沼島中学校へ転校してくることになったのだ。しかもその生徒たちは、南淡中学校の元柔道部員たちだった。なぜ彼らが沼島に転校することになったのか、その経緯について、河野先生が詳しく教えてくれた。

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沼島中学校は隣接する小学校と小中一貫校となっている

   そもそも南淡中学校は、全国大会の常連として知られる柔道強豪校だ。その指導の中心を担ってきたのが、国際大会でメダルを獲得した実績を持つ奈木宏昌主幹教諭である。奈木主幹教諭は2013(平成25)年度から南淡中学校で長年教えていた。しかし勤務年数に上限があることから、いずれは異動をしなければならない。いよいよその時期を迎えた際、赴任先に選ばれたのが沼島中学校だった。沼島中学校は、2020(令和2)年度から「小規模特別認定校」となっている。これは過疎化や少子化で児童生徒数が少なくなった学校を活性化させるために設けられた制度だ。認定されると学区外からでも通学できるようになる。継続して奈木主幹教諭から柔道を教わりたいという生徒のため、沼島中学校では柔道部を新設。部員たちは特認制度を使って転校し、引き続き奈木主幹教諭の指導を受けることになった。これが2022(令和4)年のことだ。

   現在、18名いる島外出身者のうち柔道部員は16名を占めている。彼らは、どのような気持ちで地元の人から盆踊りを教わっているのだろうか。

沼島音頭の復興のため立ち上がった若者たち

   河野さんと30分ほど会話をしていると、沼島伝統文化保存会(以下、保存会)のメンバーがやってきた。この日、取材に対応いただけたのは、会長の磯﨑 剛さんをはじめ、中元 幸明さん、神邊 誠さん、淺山 豊さんの4名。沼島汽船株式会社に勤める淺山さんのほかは、全員漁師だ。また、このほかにも3名のメンバーが保存会に所属しているという。

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左から淺山 豊さん、神邊 誠さん、中元 幸明さん、磯﨑 剛さん

   さて4人の話を聞いて意外だったのは、この保存会が2009(平成21)年に結成された、比較的若い組織であったということだ。立ち上げを画策したのは磯﨑さん。北区出身の磯﨑さんは子どもの頃から盆踊りが好きで、中学3年生の時に「音頭出し」の初舞台を飾った。沼島では若い衆(20代中頃までの青年)になると、必ず一つは音頭を出さなければいけないという仕来りがある。そのタイミングを待たずしてのデビューだったので、周囲からは「中学生で音頭、出せるんか」と驚かれたそうだ。

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沼島伝統文化保存会 会長の磯﨑 剛さん(北区出身)

   沼島が昔から盆踊りの盛んな地域であったことは、島原龍蔵、泊りのサイやん、坂上国蔵、魚谷源蔵、山崎徳五郎、青山寅夫など、数々の“音頭名人”の名前が記録として残っていることからも容易に想像がつく。娯楽の少なかった時代、人前で歌うことは純粋な喜びであり、自慢の音頭を称賛されることも、大きな満足につながっていたのだろう。そうした環境の中で、人々が腕を競い合っていた様子は想像に難くない。

   磯﨑さんが幼い頃には、“名人”と呼ばれる人たちが、まだかろうじて健在だったという。しかし、成長し青年期を迎える頃には、音頭のかたちが崩れ始めていた。「昔は、めちゃくちゃ上手な人もおったんやけど、ある年齢層より下になると、音頭にそんなに熱心じゃなかったし、練習もせんかった。(だから音頭の)レベルも下がりつつあった」と、磯﨑さんは当時の状況を振り返る。

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手ぬぐいを首にかけた女性たちが優雅に踊る(撮影年不詳) 提供:沼島地区公民館
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1975(昭和50)年8月、沼島八幡神社の下で行われた盆踊りの様子 提供:沼島地区公民館

   かつて音頭の習得は、基本的に我流だった。人が歌うのを見て、聞いて、見よう見まねで覚えた。向上心のある者は、腕の立つ音頭名人に教わることもあったようだが、あくまで学びの中心は個々人の努力に委ねられていた。しかし、時代が進み娯楽が多様化するにつれ、島の若者たちの音頭に対する熱意は薄れていった。それが技術の低下を招く。また、昔から口伝で伝わってきた盆踊り歌の歌詞が、だんだんと乱れてきていることにも、磯﨑さんは若い頃から危惧を抱いていた。

   沼島で歌われる盆踊り歌には、昔話や浄瑠璃、講談、浪曲などを題材にした多彩な歌詞が伝わっている。他地域から伝来・定着したものが多い一方、「沼島八景」のような島独自の創作もある。「人気のある歌は歌詞が残っとんねんけど、そうじゃない歌はもう昔からの聞き伝えやし、覚える人も少ないさかい、(歌詞が)ハチャメチャやって」と磯﨑さんは語る。

   2000年代以降になると、音頭出しの担い手不足が顕在化してきた。人口が減り、盆踊りのにぎわいも昔に比べると減じてきた。「次の世代に伝えなあかん」と危機感を覚えた磯﨑さんは、音頭を練習したいという若手たちに声をかけ、保存会を立ち上げた。40歳前の若者たちが伝統文化を守ろうと立ち上がったことに私は純粋な驚きを覚える。というのも、その年代の人々は一般的に、地元の郷土芸能に対する関心が低いという勝手なイメージがあったからだ。しかし、「いや、ここ(沼島)におったらそんなことないねん」と中元さんは笑う。

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中元 幸明さん(南区出身)

   かつては約3,000人いた沼島の人口も、現在ではおよそ360人(令和2年度国勢調査の数値)にまで減少している。確かに過疎化は進んでいる。しかし、島には今も多くの伝統的な風俗や祭りが受け継がれ、生活の中に溶け込んでいる、そう中元さんは話す。隣に座っていた神邊さんもその言葉に同調し、「音頭の練習は小学生くらいの頃からしているので、そんなのは当たり前のことやと思ってます」と、まるで何気ないことのように言ってのける。

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神邊 誠さん(南区出身)

古い民謡の再現や録音にも取り組む

   保存会のメンバーは、乱れた音頭の節や歌詞を整えるため、島内で資料を探し、お年寄りに聞き取り調査を始めた。すると、「公民館に音頭のテープがある」「おばあさんの音頭本を使ってほしい」など、住民から次々と資料提供の申し出が寄せられた。これらは活動がなければ埋もれていたであろう貴重な資料で、坂上国蔵、魚谷源蔵、山崎徳五郎といった名人の録音テープも見つかった。

   さらに、技術の継承にとどまらず、祝いの場で歌われる「正月節(ションガイ節)」や、子どもの行事「亥の子祭り」で歌う「亥の子節(石ツキ唄)」といった古謡の再現にも取り組んだ。録音のなかった正月節は、歌える高齢者に歌ってもらい、音源として残した。

   沼島中学校では1989(平成元)年から、地元文化を調べて発表する「沼島を知る学習」という特色のある教育活動を実施している。2012(平成24)年からは保存会も協力し、沼島音頭の歌と踊り、太鼓を指導。その成果は毎年、学習発表会で地域住民に披露されている。2020(令和2)年には学校が特認校となり、島外から来た生徒にも指導を開始。2022(令和4)年には南淡中学校の柔道部員が多数転校してきて、教え子の多くが島外出身という状況になった。

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保存会の指導による沼島音頭の練習風景 提供:沼島中学校
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地元の敬老会で沼島音頭を披露する中学生たち 提供:沼島中学校

   「男の子ばかりやったから、元気で力強い踊りを意識した」と磯﨑さん。「昔は、女性はしなやかに、男性は無骨で自由に踊ってた、そんなイメージ。指導で意識したのは、照れずに思い切ってやらせること。中途半端では覚えられへんから、本気で教える。子どもらも打てば響くさかい、本気には本気で応えてくれる」。淺山さんも「島外から来た子どもたちにとっては、見たことも聞いたこともない音頭。それなのに真剣に向き合ってくれている」と、感心した様子で話す。

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淺山 豊さん(南区出身)

祭りがつないだ地元民と中学生のつながり

   さて、沼島音頭を教わる子どもたちはどのような気持ちだったのか。沼島中学校3年で、柔道部員の本田京ノ丞さんと寺田瑞希さんに話を聞いた。(なお以下に登場する生徒たちの学年はすべて取材当時、2025年2月のものである)

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寺田瑞希さん(左)と本田京ノ丞さん(右)、寺田さんは都合によりオンラインでの参加となった

   「(沼島には)もう迷いなく覚悟を持ってきました」と話すのは、京都出身の本田さん。3年前、柔道を習いたいという一心で、郷里から遠く離れた沼島中学校に入学した二人。覚悟はあったとはいえ、慣れない環境で戸惑うことも多かったろう。ましてや、盆踊りを習うことになるとは。「初めてのことで、もう何もわからなかった」と本田さんは回想する。「磯崎さんたちに、踊る上で意識する点を教えてもらって、ちょっとずつ覚えたみたいな感じですね」

   姫路出身の寺田さんは、「そもそも地元でも盆踊りを体験したことがなかった」と話す。「音頭とかも聞いたことがなかったので、どういう感じで(盆踊りを)やるのかわからなかったんですけど、保存会の方がゆっくり丁寧に教えてくださったので、すぐに覚えることができました」

   音頭出しと太鼓打ちの役は3年生が務める。担当は立候補や推薦で決まるが、本田さんは声が良いと周囲に言われたこともあり音頭出しへの挑戦を決意。「めちゃくちゃ難しかったです。普通に歌詞を読むだけやったらできるんですけど、独特のイントネーションがあって、それを覚えるのがとても苦労しました」。寺田さんは、上級生が太鼓を叩く姿がかっこよく見えたことから、自分もやってみたいと太鼓打ちに志願。沼島音頭の太鼓は少し複雑で、音頭の内容を理解していないと叩くことができない。難易度は高いものの、保存会の丁寧な指導のおかげで、なんとか覚えることができたという。

   最後に「沼島音頭を習ってよかったことは?」と聞くと、二人はそろって「沼島の歴史や文化に触れられたことが貴重な経験だった」と語った。沼島中学校では、音頭の習得に加え、島出身でない生徒も毎年5月の春祭りに参加し、だんじりを曳いている。そうした活動を通じて、地域の人々との交流も深まっているという。ある時には、道を歩いていたところ「音頭出ししてた子やな」と声をかけられ、そのまま数十分、島民たちとの井戸端会議に参加するということもあったそうだ。

   柔道とは別の理由で沼島に転校してきた子もいる。1年生の石川遊沙(あさ)さんは、兵庫県西宮市の出身。小学6年生の頃に「離島留学」制度を利用して沼島にやってきた。離島留学とは、都市部などに住む子どもたちが一定期間、離島に滞在しながら現地の学校に通う制度や取り組みのことだ。石川さんは、もともと地元の学校に通っていたが、人混みや都会の雰囲気が苦手で、静かな環境を求めて転校を決意。数ある選択肢から沼島を選んだのは、地元である西宮と行き来しやすい環境であったこと、そして「太鼓」の芸能があったからだ。

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石川さんはイラストを描くのが得意で、学校関連のイベントポスターの作成も手がけている

   「沼島の前には、鹿児島の小学校に離島留学をしていたんですけど、そこの学校で初めて太鼓に触れて、すごく楽しいなと思ったんです」と石川さん。沼島には、沼島音頭のほかに、小学生が取り組む「沼島子供太鼓」という郷土芸能がある。その存在が決め手となった。最初は島のコミュニティに受け入れてもらえるか不安だったと石川さんは話すが、それもすぐに杞憂と終わる。

   「積極的に話しかけたり、あいさつをしてみたりすると、みなさんがあいさつを返してくれて、そのやりとりが本当にうれしかったんです。私の地元は都会なので、『あいさつすると不審者に思われるからやめなさい』と言われていたんですが、ここではみなさんが気軽に話しかけてくれます。たまに『魚とれたから持っていって』とくれることもあるんですよ。自転車のカゴからはみ出すくらい大きな魚を(笑)」

   以来、石川さんは地域イベントや祭りに積極的に参加。春祭りでは、神社で披露される「巫女の舞」に巫女として出演している。きっかけは地元の人に誘われたこと。「最初は正直迷った」と話す石川さん。しかし実際に見に行ってみると考えは変わった。「衣装や舞いがカッコよくて、これはやるしかないと思いました」

   石川さんが沼島の盆踊りを初めて体験したのは、小学6年生のときだった。踊りが難しく、当時はなかなか覚えられなかった。しかし中学校に進学し、先輩たちが学習発表会で踊る姿を見て、「あんな難しい踊りを練習して踊っているのはすごい」と感じた。その後、「沼島を知る学習」を通じて島の歴史や文化に親しむうちに、沼島音頭にも意欲的に取り組むようになったという。

   しかし、島外から来た自分が、地域の伝統文化に深く関わることに、抵抗や迷いはなかったのだろうか。そう尋ねると、彼女は率直にこう答えてくれた。「巫女を務めることになったとき、地元の方から『結婚するまでは巫女を続けてほしい、それでもいい?』と聞かれました。ずっと沼島とつながっていけるということなので、私は正直すごくうれしかったです。ただ、母は『私はちょっと重たく感じた』と言っていて……。確かにそういう考え方もあると思います。でも、私は“部外者”のような立場なのに、こうして地域の文化に関われるのはすごいことだと思うんです。それができるのに、やらないのはもったいないと思いました」

   中学を卒業して沼島を離れても、沼島にはずっと関わっていきたいと話す石川さん。彼女の話からは、郷土芸能が地域にアクセスする重要なハブとなっていることをうかがい知ることができる。

   一方で、島で生まれ育った子どもたちからは、どのような景色が見えているか。東区出身の中学2年生の双子姉妹にお話を伺った。

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中学校の部活(文化部)で楽器の演奏をしている二人。沼島の春祭りではだんじりの太鼓も叩いている

   中学進学の際、同級生が島外の学校を選択する中で、沼島中学校への進学を決めた二人。その理由を彼女たちは「家から近かったし、沼島中学校だからできることもたくさんあった」と説明する。沼島中学校では、少人数を利点として活かした、生徒一人ひとりの「やりたいこと」を尊重した学びの機会が用意されている。実際、二人の入学時には、美術や音楽に取り組みたいという希望に応じて「文化部」というクラブが新設された。

   最初、島外から柔道部の子たちがやってきた際は、「急に来るという話になってびっくりした」と話す二人。しかし、「本当だったら沼島の人しか知らない踊りだけど、他の県からも来た人にも知ってもらえてうれしい」と素直な喜びも口にする。「発表会などで沼島音頭を披露する時、これまでは沼島の子どもたちだけでやっていたので、踊る人が少なかったんです。でも、今は参加する人数も増えて、みんなが元気よく声を出してくれるようになったので、地域の人たちにも元気が届くと思います」

   二人が暮らす地域(東区)には、現在、彼女たちより年下の子どもが一人しかいない。伝統継承の観点からは難しい局面に立たされているが、それでも「沼島音頭はこれからも続いてほしい」と二人は口を揃える。そのためにできることは? 少し考えたのち、「島外の人たちにもその魅力をもっとアピールしていくことが大事だと思う」と答えてくれた。

「関わりしろ」としての祭りの意義

   島外からやって来た中学生たちは、いずれ島を去っていく。保存会の方々は、そんな子どもたちに何を託そうとしているのか。最後の質問に、磯﨑さんがこう答えてくれた。

   「せっかくやったら、3年間で(沼島音頭を)覚えてもろて、大人になって沼島中学校に通ったなということを思い出して、また沼島に遊びに来て欲しい。沼島の文化を知っていれば、だんじりや盆踊りなんかの祭りの輪にも入りやすくなるはずやから、祭りにも参加してもろて、ほんで自分の子どもにも沼島の存在を伝えてほしい」

それでも祭りは続く 第10回25
今後は、沼島固有のわらべ歌の調査にも取り組みたいと話す保存会の面々

   「祭り」が内部の人と、外部の人をつなぐ回路となり、「関わりしろ」になる。考えてみれば、地域の人と交流したいと思った時に、祭りほど適した場はない。なんでもない日に道端でいきなり住民に声をかけるよりも、ちょっと祭りの日に紛れ込んで、一緒に酒でも酌み交わした方が、よほど自然に輪の中に入っていける。そういえば初めて沼島を訪問した際も、夜通し踊っていたら「あなたどこから来たの?」と声をかけられ、祭りのあと、集会場のような場所に招待してもらった。あの時、ご馳走になったカップラーメンの味は忘れられない。祭りに通っていると、そのような出来事には何度も遭遇する。

   磯﨑さんの話によると、沼島では毎年1月15日に、島で最も高い場所にある神社で「山ノ神さん」という神事が行われるという。かつて灯台がなかった時代、この場所では火が焚かれ、沖を航行する漁船の道しるべとなった。そのため、神社の一帯は「火立(ほたて)山」とも呼ばれているという。

   沼島で生まれ育ち、後に島を離れた人。沼島に関わり、またいつか訪れたいと思っている人。そういった人々にとって、祭りはまさにその「火立山」のような存在だ。帰りたいと思ったとき、祭りがあれば戻る理由ができる。だからこそ、祭りという“火”を絶やさず灯し続けることが大切なのだと思う。(了)


Text:小野和哉

プロフィール

小野和哉

小野和哉

東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono

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