HOW TO

【3分で読める!サクッと伝記#09】 ルロイ・アンダーソン

【3分で読める!サクッと伝記#09】 ルロイ・アンダーソン

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第9回目で取り上げる作曲家は「ルロイ・アンダーソン」です。     1.ハーバード大卒の秀才音楽家 ルロイ・アンダーソン (1908-75)は、マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。ハーバード大学で、楽理や作曲等を学び、1929年に学士号、翌年には修士号を取得。ニューイングランド音楽院にも通っており、そこではピアノ・コントラバスを学びました。   2.ユーモアと描写の天才 アンダーソンの作品は、その軽やかで親しみやすい曲調、大衆音楽やジャズの影響を受けたリズム、日常生活の音や情景を巧みに音楽で表現する描写力が特徴です。タイプライターやサンドペーパーなど、普通は楽器として使わないものを積極的に取り入れ、聴衆を驚かせ楽しませました。   3.異色のキャリア 音楽家の道を進むと決意するまで、1931~35年までハーバード大学で言語学の研究員となり、1935年にはゲルマン語とスカンジナビア諸語の研究により博士号を授与されています。その後、第二次世界大戦中は米軍に入隊し、スカンジナビア語担当の情報将校としてペンタゴンで働きました。   4.ボストン・ポップスとの出会い 「音楽にも詳しい言語学者」だったアンダーソンの転機は、ボストン・ポップス・オーケストラとの出会いです。ボストン交響楽団のマネージャーから学生歌の編曲を依頼され、提出した楽譜が、当時絶大な人気を誇った指揮者アーサー・フィードラーの目にとまり、才能を激賞されました。   5.代表作「そりすべり」 冬の情景を鮮やかに描き出した「そりすべり」は、代表作の1つです。馬のいななきやそりの鈴の音など、聴いているだけで目の前に情景が浮かんでくるような描写力は、アンダーソンの真骨頂。いまでもクリスマスの定番曲として世界中で愛されています。   6.タイプライターが楽器に? 代表作「タイプライター」では、本物のタイプライターを打つ音を楽器として使っています。タイプする音、改行する音、ベルの音など、オフィスでの日常的な音をリズミカルな音楽に仕立て上げました。これらは、聴き手に意外な驚きと楽しさを与えています。   7.サンドペーパーが奏でる音楽 「サンドペーパー・バレエ」では、サンドペーパー(紙やすり)をこすり合わせる音を楽器として取り入れました。ユニークな発想が光るこの曲は、彼のユーモアあふれる作曲スタイルをよく示しています。楽器として使えるものは、彼の創造力次第で無限大でした。   8.「トランペット吹きの休日」 この曲は、3人のトランペット奏者がそれぞれのパートを交互に演奏し、まるで会話をしているかのようにユーモラスに展開します。演奏会でも人気の高い一曲で、日本では運動会のBGMとしても知られています。   9.世界中で愛されるメロディ...

【3分で読める!サクッと伝記#08】 ルチアーノ・ベリオ

【3分で読める!サクッと伝記#08】 ルチアーノ・ベリオ

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第8回目で取り上げる作曲家は「ルチアーノ・ベリオ」です。     1.音楽家の家系に生まれる ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)はイタリアの作曲家。オネリアの音楽家の家系に生まれ、祖父と父(ともに作曲家・オルガニスト)から幼い頃に音楽教育の手ほどきを受けました。   2.ピアニストの道を断念 ベリオは若いころピアニストを志していましたが、第二次世界大戦中に徴兵され、銃の暴発により右手を負傷。この出来事をきっかけにピアニストの道を断念し、作曲の道へと大きく舵を切ることとなりました。   3.イタリア電子音楽の先駆者 1952年、渡航先のアメリカで電子音楽に触発され、《テーマ ジョイス賛》などの電子音楽史に残る画期的な作品を発表。1955年には、ミラノのイタリア国立放送局(RAI)に電子音楽のスタジオを設立に携わり、初代所長も務めました。   4.新たな表現 1950年、声楽家のキャシー・バーベリアンと結婚。彼女の協力も得て、言葉や声による新たな表現を開拓しました。《作品番号第獣番》(1951)、《室内楽》(1953)、《フォークソングズ》(1964)など声のための傑作も生み出しています。   5.代表作「シンフォニア」 1960年代に発表した《シンフォニア》は、マーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章をベースにしたコラージュ技法が用いられ、大きな注目を浴びました。この作品で彼の国際的な評価は確固たるものになりました。   6.「セクエンツァ」シリーズ 《セクエンツィア》シリーズも代表作の1つです。14曲からなる連作で、1958年から2002年までベリオの半生を通じて作曲されました。(女声を含む)種々の楽器において意図的に超絶技巧を追求しており、ベリオらしさが詰まった作品です。   7.「注釈技法」を提唱 ベリオは、作曲を「過去の作品に対する注釈」と捉え、自作や他者の作品に彼自らの解釈を加えて新たな作品を生み出す「注釈技法 Commentary Technic」を提唱しました。これは創造性の概念を問い直すものでした。   8.伝統と前衛の融合 ベリオは、80年代後半から編曲や補作の仕事によっても世に知られていきます。それまでにもいくつかの作品を手掛けていましたが、シューベルトの未完成交響曲を補筆した「レンダリング」の成功など、過去の作品を現代に蘇らせる編曲が高く評価されました。...

【3分で読める!サクッと伝記#07】 フリッツ・クライスラー

【3分で読める!サクッと伝記#07】 フリッツ・クライスラー

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第7回目で取り上げる作曲家は「フリッツ・クライスラー」です。     1.20世紀を代表する作曲家 フリッツ・クライスラー(1875-1962)は、オーストリア・ウィーン生まれの作曲家です。父は町の開業医でしたが、音楽愛好家でアマチュアの弦楽器奏者でもありました。クライスラーは20世紀を代表するバイオリニストであり、優れた作曲家としても知られています。   2.神童としての輝かしい出発 クライスラーは幼い頃から才能を発揮し、わずか7歳でウィーン音楽院に入学、10歳にして首席で卒業しました。その後、名門パリ音楽院へ留学し、こちらも12歳で首席で卒業しています。13歳の頃には、ウィーン・フィルと共演。その類まれな演奏技術と表現力で「神童」として注目を集めました。   3.揺れた青春時代 クライスラーは1895年、オーストリア帝国陸軍に入隊しました。一時はバイオリンを捨て、軍人になろうと決心したこともありましたが、再び音楽の世界へと復帰します。その後、演奏活動を再開し、少しずつ作曲活動も始めていきました。   4.偽作 クライスラーは、自身が作曲した作品を、主にバロック期の作曲家(特にヴィヴァルディやバッハなど)の作品として発表する「偽作」を数多く行いました。これらは長年発覚せず、後に彼自身が真実を明かした際に大きな話題となりました。   5.豊かな感情表現 「愛の喜び」「愛の悲しみ」は、クライスラーのバイオリニストとしての表現力と、メロディメーカーとしての才能が存分に発揮された代表作です。彼の音楽は、単なる技巧だけでなく、感情の豊かさで現在の聴衆をも魅了しています。   6.敏腕マネージャーの存在 クライスラーはアメリカ人女性ハリエット・リースと結婚しました。彼女は彼の才能を最大限に引き出すべく、音楽に関すること以外はさせず、音楽家として大成する大きな支えとなった敏腕マネージャーでもありました。彼の歌曲の多くは、この妻への深い愛情から書かれたと言われています。   7.アメリカで築いた名声 クライスラーは20世紀初頭からアメリカを拠点に活動し、名門カーネギーホールなどで演奏を重ね、聴衆から熱狂的な絶賛を受けました。その豊かな表現力と超絶技巧でアメリカ音楽界に大きな足跡を残し、以降、世界的な名バイオリニストとしても活躍しました。   8.楽器への深い愛情と名器との出会い クライスラーはバイオリニストとして、ストラディバリウスやグァルネリといった伝説的な名器を愛用し、その響きを最大限に引き出しました。楽器を単なる道具ではなく、共に音楽を創るパートナーとして深く愛し、その演奏は名器の魂をも宿しているかのようでした。   9.慈善活動と晩年 クライスラーは富や名声を必要以上に求めず、慈善活動も積極的に行っていました。貧しい後輩バイオリニストに名器を贈与するなど、その人間性も高く評価されています。晩年には交通事故で重傷を負うなど苦難もありましたが、86歳で亡くなるまで音楽に貢献し続けました。...

【3分で読める!サクッと伝記#06】 エリック・サティ

【3分で読める!サクッと伝記#06】 エリック・サティ

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第6回目で取り上げる作曲家は「エリック・サティ」です。     1.ノルマンディ地方の港町生まれ エリック・サティ(1866-1925)は、20世紀のフランスの作曲家。1866年ノルマンディー地方の港町オンフルールで生まれ、1870年にはサティの父が海運業を辞め、一家でパリに移住。後に「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られこととなる。   2.パリ音楽院 サティは幼少期から音楽の才能を見せ、1879年 13歳でパリ音楽院に入学。しかし保守的なアカデミズムとは反りが合わず、才能がないと評価されたこともあり、反アカデミズム・反ロマン主義を貫いて退学した。   3.ピアノ曲「4つのオジーブ」 1886年には軍隊志願し、砲兵隊に入隊したが気管支炎にかかり除隊。その後はモンマルトルに移りカフェでピアノを弾いて生計をたてていた。この間、サティは読書に没頭し、アンデルセン童話を愛読し、ゴシック建築を研究してピアノ曲「4つのオジーブ(尖弓形)」を作曲した。   4.3つのジムノペディ サティは19世紀のロマンティシズムに訣別し、1888年には調号と小節線を廃止したピアノ曲「3つのジムノペディ」を作曲。ドビュッシーやラヴェルに大きな影響を与えた。   5.作曲法を学び直す サティは1905年から3年間、作曲法を学び直すためにスコラ・カントルムでダンディに師事。その頃からピアノ曲「犬のためのぶよぶよした本当の前奏曲」「乾からびた胎児」「スポーツと気晴らし」などを作曲。1916年にはジャン・コクトーの台本で、ピカソの装置と衣装によるバレエ音楽「パラード」を作曲した。   6.バレエ音楽「パラード」 バレエ音楽「パラード」のオーケストラにはサイレン・飛行機の爆音・タイプライター・ピストル・ダイナモの音などが入っており、これは前人未踏であった。また、ピカソがデザインした衣装も奇抜なものであった。第一次世界大戦中の1917年パリ・シャトレ座における初演では大センセーションを巻き起こした。   7.フランス6人組 50代のサティは、彼とコクトーを賛美する "6人組" のミヨー、オネゲル、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールら若き作曲家にも大きな示唆を与えた。6人組は常に新しい音楽を提案するグループで。全音階(ドレミファソラシド)に最後の可能性を求めた音楽家集団でもあった。   8.気まぐれな性格とユーモラスな言動 サティはしばしば奇妙な行動を取り、周囲を驚かせた。生涯で同じ服を何着も持っていたり、毎日同じ時間に食事をとったりと、独自のルーティンがあった。また言葉には機知とユーモアが溢れており、「私は音楽家である。私の音楽は、私のように単純だ」という言葉からもそれが伺える。...

【3分で読める!サクッと伝記#05】 芥川也寸志

【3分で読める!サクッと伝記#05】 芥川也寸志

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第5回目で取り上げる作曲家は「芥川也寸志」です。     1.文豪・芥川龍之介の三男として誕生 芥川也寸志 (1925-1989)は、文豪・芥川龍之介の三男として東京に生まれる。和暦では大正14年~平成元年まで、昭和を丸ごと生き切った日本を代表する作曲家。也寸志がまだ2歳になったばかりで父・龍之介が亡くなったため、父の記憶はほとんどない。   2.幼少期から音楽に魅せられる 音楽との出会いは父のレコードコレクションで、特にストラヴィンスキーの音楽に大きな衝撃を受けた。幼稚園に通うころには、ストラヴィンスキー『火の鳥』の子守唄を高らかに歌うようになり、その後2人の兄たちと「アマゾン河の探検」と称して芝居ごっこをする際のBGMも『火の鳥』だった。   3.ピアノもバイオリンも自己流 幼少期から玩具的な卓上ピアノを自己流で叩いていた也寸志は、兄・多加志の受験もあり、なかなか先生について習うことができなかった。ピアノもバイオリンも自己流で、本格的なピアノを買ってもらったのは音楽学校に進学すると決めてからだった。   4.東京音楽学校へ 也寸志16歳で音楽の道を決意してから勉強に励み、1943年・18歳の年に晴れて東京音楽学校予科の門をくぐった。しかし、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け衝撃の事実を知らされる。校長から示された入学成績一覧を見ると.... 一番ビリでの入学だった。   5.初期の3大音楽 也寸志初期の3大音楽といえば《交響三章》《交響管弦楽のための音楽》《弦楽のための三楽章》があげられる。《交響管弦楽のための音楽》は、新しい時代への希望や、音楽の喜びを力強く訴える傑作で、NHK創立25年記念管弦楽曲コンクールで團伊玖磨の《交響曲イ調》と並んで特賞を受賞した。   6.3人の会 1953年、当時20代にしてスター作曲家だった3人(也寸志、團伊玖磨、黛敏郎)が「3人で共同して作品発表会をやればプログラムも面白くなり、経費も3分の1ですむ」と<3人の会>を結成。「割り勘」なので、互いに干渉せず自由な創作を行い、その活動は世間に大きな衝撃を与えた。   7.映画音楽 也寸志の映画音楽デビュー作は、自らがラジオドラマの音楽を担当した「えり子とともに」。その後生涯で100本を越える映画音楽を作曲した。当時はラッシュから録音まで長くて数日、短いと2~3日という強行スケジュールが当たり前だった。   8.JASRACの立て直し 也寸志は1981年(昭56)日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事に就任し、経営の立て直しに取り組んだ。その後JASRACは、放送曲との使用料既定の改定など多くの課題の乗り越え、作家の権利を守り、音楽文化を促進するための役割を担うものとなった。  ...

【3分で読める!サクッと伝記#04】 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

【3分で読める!サクッと伝記#04】 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第4回目で取り上げる作曲家は「ドミートリイ・ショスタコーヴィチ」です。     1.あらゆるジャンルを作曲 ショスタコーヴィッチ (1906-1975) はロシアの作曲家。交響曲・弦楽四重奏曲の作曲家として知られていますが、映画音楽を含め、宗教音楽を除いたあらゆるジャンルに多大な作品を残しています。   2.ピアノの名手 ショスタコーヴィチは9歳の頃 母親からピアノの手ほどきを受けました。17歳でサンクトペテルブルク音楽院ピアノ科を修了し、第1回ショパンコンクールではファイナリストに名を連ねました。体調を崩し優勝こそ逃しましたが、名誉賞を受賞しました。   3.ピアノ曲 ピアノの演奏にすぐれていたショスタコーヴィチは、ピアノ曲も作曲しました。「24の前奏曲 Op.34」「24の前奏曲とフーガ Op.87」などは、現在も演奏される機会の多い作品です。   4.卒業作品で認知 音楽院のピアノ科修了から2年後には作曲科を修了。その際に卒業作品として「交響曲 第1番 Op.12」が作曲されました。この作品が西欧各地で演奏され、一躍有名になりました。   5.時代の圧力 ソビエトの社会主義政権下では頽廃的な音楽や前衛音楽が禁じられていました。娼婦を題材にしたオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」は厳しく批判を受け、続く「交響曲 第4番」は要請に応じていないものとして取り下げられるなど、政府の検閲に苦しみました。   6.窮地を救った代表作 圧政で窮地に陥っても作曲を続け、トルストイの "苦難の行路" における人間性の回復を題材にした「交響曲...

【3分で読める!サクッと伝記#03】 ヨハン・シュトラウス2世

【3分で読める!サクッと伝記#03】 ヨハン・シュトラウス2世

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第3回目で取り上げる作曲家は「ヨハン・シュトラウス2世」です。     1.ウィーン文化の象徴 ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)は、生まれ故郷であるオーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者。生涯のほとんどをウィンナ・ワルツ、ポルカなどの作曲に捧げました。   2.音楽一家の出身 父親は「ワルツの父」と呼ばれたヨハン・シュトラウス1世、弟はヨーゼフ・シュトラウスという音楽一家。幼少期から音楽に囲まれて育ち、6歳で最初のワルツ「最初の思想」を作曲しました。   3.一度は音楽を捨てる 音楽家という不安定な職業につくことを父1世から反対され、一度は音楽を諦め商業を学びました。しかし音楽への情熱が再燃し、作曲活動を再開。父1世を上回る勢いを持ち、18歳という若さで音楽界に華々しくデビューしました。   4.舞踏会の音楽 シュトラウス2世の代表作『美しく青きドナウ』は、1867年に発表されウィーンを象徴する曲として世界的に愛されています。他にも『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』などよく知られたワルツを数多く生み出し、別名「ワルツ王」とよばれました。   5.シュトラウス2世のワルツ シュトラウスⅡ世のワルツは、豊かなオーケストレーションに加えて、反復・音の重なり・リズムに様々な手法が凝らされています。これにより、ただのダンス音楽としてだけではなく「鑑賞」にむけた芸術性の高さを兼ね備えていることが特徴です。   6.オペレッタの成功 シュトラウス2世は、オペレッタにも多大な貢献をし、名作『こうもり』『ウィーン気質』などが大ヒットしました。これらは今でも世界中で愛され、数多く演奏されています。   7.同世代からの評価 ヨハン・シュトラウス2世は、同時代に活躍した音楽家たちから高く評価されていました。なかでも注目すべきは、【ブラームスとワーグナー】【ブラームスとブルックナー】のように、当時音楽界を二分するほど対立していた作曲家が、どちらも同じく彼を絶賛していたことです。   8.華やかな結婚遍歴 シュトラウス2世は、3度の結婚を経験しています。1度目は11歳年上の「ヘンリエッテ」と、2度目は27歳下の歌手「アンゲリカ」と、3度目は35歳年下の「アデーレ」と結婚。彼にとって最後の結婚が1番幸せだったと言われています。   9.晩年と遺産 晩年は健康を害しながらも、作曲を続けました。シュトラウス2世の音楽はウィーンの伝統を現代にまで伝え、今なお多くの人々に愛されています。ウィーンの市立公園内に建てられた黄金の記念像は、その証とも言えるでしょう。...

【3分で読める!サクッと伝記#02】 ジョルジュ・ビゼー

【3分で読める!サクッと伝記#02】 ジョルジュ・ビゼー

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第2回目で取り上げる作曲家は「ジョルジュ・ビゼー」です。     1.誕生と家庭背景 ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)は、フランスの作曲家。父はもとは理髪師でしたが、音楽好きで音楽家に転身し、声楽教師や作曲をしていました。母は音楽一家の生まれで、優秀なピアニスト。ビゼーも幼少期から音楽の才能を見せていました。   2.パリ音楽院での学び ビゼーは10歳を前に、一流の音楽家が通う名門「パリ音楽院」に入学しました。在学9年間の間に、ピアノ・オルガン・作曲を中心に音楽を学びました。ピアノやオルガンの演奏では賞を受賞するなど高い評価を受け、音楽院では優れた成績を収めました。   3.初期のオペラ作品 ビゼー最初のオペラは「ポロネーズ」(1855年)で、若き日に作曲しました。若いころは作曲家としてなかなか評価を受けることがなく、音楽業界での成功は遅れましたが、オペラを中心に活躍し徐々に名声を高めていきました。   4.代表作「カルメン」 1875年に初演されたビゼーの代表作 オペラ「カルメン」は、スペインを舞台にした情熱的な物語です。 初演当初はあまり評価されませんでしたが、現在では世界中で愛される名作です。   5.オペラ形式の革命 オペラ「カルメン」は革新的な音楽で自由奔放なヒロインを描いており、オペラの形式に大きな革命をもたらしました。しかし当時は従来の伝統的な形式を期待する観客が多かったため、それが初演の低い評価の要因となりました。   6.多才な作曲家 ビゼーはオペラを中心に活躍しましたが、交響曲、ピアノ曲などでもすぐれた作品を残しています。異国の雰囲気が感じられる、民族的な要素を取り入れた作風が特徴的です。   7.組曲「アルルの女」 「アルルの女」は、オペラ「カルメン」にならぶ代表作です。同名の短編小説『アルルの女』を上演するための付随音楽として作曲されました。一般的には、この付随音楽から編曲された2つの組曲が広く知られています。   8.早すぎた死 ビゼーは36歳という若さで病に倒れ、この世を去りました。それは代表作「カルメン」の初演から3か月後のことでした。そして初演の評価が低かった「カルメン」がその後大成功をおさめたのは、亡くなってから4か月後のウィーン公演でした。   9.作品の再評価...

【3分で読める!サクッと伝記#01】 ジョゼフ・モーリス・ラヴェル

【3分で読める!サクッと伝記#01】 ジョゼフ・モーリス・ラヴェル

クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第1回目で取り上げる作曲家は「ジョゼフ・モーリス・ラヴェル」です。     1.管弦楽の魔術師 ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(1875年~1937年)は、フランスの作曲家。近現代のクラシック音楽における重要な人物の一人です。繊細で精緻な表現と、「管弦楽の魔術師」とも呼ばれた巧みなオーケストレーションで知られています。   2.「ボレロ」への注目 ラヴェルの最も有名な作品の一つ「ボレロ」は、単調で反復的なリズムが特徴的な曲で、彼のオーケストレーションの技術が光ります。この曲は世界中で数多くの演奏が行われ、彼の音楽がいかに広く受け入れられているかを示しています。   3.印象主義音楽の影響 ラヴェルはクロード・ドビュッシーと並ぶ「印象主義」の代表的な音楽家です。しかしながら彼は単に模倣することなく、よりよい音楽表現を求めて、音色や和声、リズムの巧妙な使い方が特徴的で、それは全世界の作曲家に大きな影響を与えることになります。   4.ジャズの影響を受けた作曲 ラヴェルは、20世紀初頭、アメリカで発展・流行したジャズにも強い影響を受けました。彼の作品『ラ・ヴァルス』や『ピアノ協奏曲ト長調』などには、ジャズのリズムやハーモニーが見られ、その先進的な音楽観が表れています。   5.フランス音楽界の「繊細な職人」 ラヴェルは常に自らの音楽を精緻に作り込んだことで知られています。彼は、音楽の細部に至るまで完璧を求め、作曲に非常に多くの時間を費やしたとされています。たとえば、彼の「ピアノ協奏曲」や「ダフニスとクロエ」などは、緻密な編曲と深い音楽的洞察が反映されています。   6.音楽と文学の融合 ラヴェルの作品には、しばしば文学や絵画からの影響が見られます。特に、詩的な感覚を伴った音楽が多く、彼の「マ・メール・ロワ」や「鏡」などは、絵画や詩のような表現力を持つ作品です。   7.ピアニストとしても活動 ラヴェル自身も優れたピアニストであり、特にソロ演奏においてその技術が注目されました。彼のピアノ曲は、作曲家としての卓越した音楽性を具現化したものとして、多くのピアニストに演奏されています。   8.晩年の健康問題と苦悩 ラヴェルは晩年、神経系の疾患に悩まされ、その影響で作曲活動が制限されることがありました。特に、記憶障害や運動機能の低下が見られ、これが彼の音楽にどのように影響したかについては多くの研究がなされています。   9.後世への影響と遺産 ラヴェルの音楽は、20世紀の音楽に多大な影響を与え、後世の作曲家たちに強いインスピレーションを与え続けています。彼の精緻なオーケストレーションと革新的なアプローチは、現在も多くの演奏家や作曲家にとって模範となっています。...