
【3分で読める!サクッと伝記#05】 芥川也寸志
クラシック音楽の名作を生み出した作曲家たちを、3分程度で読み切れる短い伝記としてご紹介します。しかし、どの人物もその人生を3分で語り尽くすことはできません。今回は代表的な9つの視点に絞ってご紹介しますが、より深く知ることで演奏にも大きな違いが生まれる瞬間があるでしょう。もしこの記事に物足りなさを感じたり、さらなる背景が知りたいと感じた場合、それは「学びの扉が開いた瞬間」とも言えます。ぜひご自身でさらに深く追求してみてください。 本シリーズでは、選曲や演奏に役立つ小さな手掛かりとなるように、そしてご自身の深い学びのきっかけとなるようご紹介していきます。第5回目で取り上げる作曲家は「芥川也寸志」です。 1.文豪・芥川龍之介の三男として誕生 芥川也寸志 (1925-1989)は、文豪・芥川龍之介の三男として東京に生まれる。和暦では大正14年~平成元年まで、昭和を丸ごと生き切った日本を代表する作曲家。也寸志がまだ2歳になったばかりで父・龍之介が亡くなったため、父の記憶はほとんどない。 2.幼少期から音楽に魅せられる 音楽との出会いは父のレコードコレクションで、特にストラヴィンスキーの音楽に大きな衝撃を受けた。幼稚園に通うころには、ストラヴィンスキー『火の鳥』の子守唄を高らかに歌うようになり、その後2人の兄たちと「アマゾン河の探検」と称して芝居ごっこをする際のBGMも『火の鳥』だった。 3.ピアノもバイオリンも自己流 幼少期から玩具的な卓上ピアノを自己流で叩いていた也寸志は、兄・多加志の受験もあり、なかなか先生について習うことができなかった。ピアノもバイオリンも自己流で、本格的なピアノを買ってもらったのは音楽学校に進学すると決めてからだった。 4.東京音楽学校へ 也寸志16歳で音楽の道を決意してから勉強に励み、1943年・18歳の年に晴れて東京音楽学校予科の門をくぐった。しかし、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け衝撃の事実を知らされる。校長から示された入学成績一覧を見ると.... 一番ビリでの入学だった。 5.初期の3大音楽 也寸志初期の3大音楽といえば《交響三章》《交響管弦楽のための音楽》《弦楽のための三楽章》があげられる。《交響管弦楽のための音楽》は、新しい時代への希望や、音楽の喜びを力強く訴える傑作で、NHK創立25年記念管弦楽曲コンクールで團伊玖磨の《交響曲イ調》と並んで特賞を受賞した。 6.3人の会 1953年、当時20代にしてスター作曲家だった3人(也寸志、團伊玖磨、黛敏郎)が「3人で共同して作品発表会をやればプログラムも面白くなり、経費も3分の1ですむ」と<3人の会>を結成。「割り勘」なので、互いに干渉せず自由な創作を行い、その活動は世間に大きな衝撃を与えた。 7.映画音楽 也寸志の映画音楽デビュー作は、自らがラジオドラマの音楽を担当した「えり子とともに」。その後生涯で100本を越える映画音楽を作曲した。当時はラッシュから録音まで長くて数日、短いと2~3日という強行スケジュールが当たり前だった。 8.JASRACの立て直し 也寸志は1981年(昭56)日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事に就任し、経営の立て直しに取り組んだ。その後JASRACは、放送曲との使用料既定の改定など多くの課題の乗り越え、作家の権利を守り、音楽文化を促進するための役割を担うものとなった。 ...