36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。

つくば科学万博を最後に35年間演じられなかった

   2022年頃からだろうか。コロナ禍の休止を経て、ぽつぽつと復活を遂げる祭りが増えてきた。最初は規模を縮小して、段階的に従来通りの形に戻していくというケースをよく見かけた。2024年ともなると感染症に対する警戒心もだいぶ弱まり、「4年ぶり開催」「5年ぶり開催」というフレーズがニュース記事の見出しに踊った。「祭りは1年休止しただけでも再開は難しい」という話も聞いたことがあるので、そんな報道を見ると、よくぞ復活してくれたと感慨深い気持ちになる。

   ところで、コロナ禍中、4年5年なんて年数ではきかないくらいのスケールで復活を遂げた祭り・民俗芸能がある。それが茨城県つくば市田倉に伝わる「田倉の三匹獅子」だ。この獅子舞、つくば市無形民俗文化財にも指定されていながら、2021年に再開するまで36年間も披露される機会がなかった。最後に舞ったのは1985年の国際科学技術博覧会、通称・つくば科学万博。つくば科学万博は「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、1985(昭和60)年3月17日から同年9月16日までの期間に開催され、日本を含む48ヵ国と37の国際機関が参加。来場者数は延べ2,033万4,727人を記録する、壮大な国際博覧会となった。これだけの晴れの舞台で演じていながら、休止となってしまった理由はなんなのか、疑問が残る。

   そもそも、なぜこれほどの長い期間、休止することになったのか、そしてこのタイミングで復活することになった理由とは。次々と湧いてくる疑問を解決するために、田倉の三匹獅子を取材することにした。

三匹獅子とは、その名の通り三匹の獅子が登場する獅子舞

   ところで「獅子舞」という言葉は聞いたことはあるが、「三匹獅子」については初耳だという人も多いのではないだろうか。私自身、祭りの世界に足を踏み入れるまで獅子舞といえば、お正月のショッピングモールなどでよく見るタイプの獅子舞のイメージぐらいしかなかった。実際には獅子舞にはさまざまなバリエーションがあるようで、例えば、本連載の第四回で取り上げた新十津川獅子神楽は、複数の人間が胴体に入る「ムカデ獅子」に分類されるし、変わったところでは虎を模した「虎舞」というものもある(本連載第一回第二回参照)。

   三匹獅子舞は、その名の通り三匹がひと組となって演じられる獅子舞で、一匹の獅子を一人の人間が担当することから「一頭立て獅子舞」とも呼ばれる。関東地方を中心に東北にかけても分布しており、私の出身地でもある千葉でもいくつかの場所で伝承されているようだが、子どもの頃に遭遇することはなく、大人になってからその存在を知って「そんな獅子舞があるのか」と驚いた。

それでも祭りは続く 第6回01
埼玉県川越市の「石原のささら獅子舞」(2024)
それでも祭りは続く 第6回02
東京都町田市の「矢部八幡宮獅子舞」(2023)

   はじめて見たのは、福島県会津若松市で行われている「会津彼岸獅子」。まさにお彼岸の時期に披露される三匹獅子舞なのだが、きらびやかな衣装と躍動感あふれる獅子舞の動き、三匹のチームワークで織りなされるドラマティックな演目の数々に魅了され、以来、機会を見つけては、関東近郊の三匹獅子舞を見学しに行くようになった。

それでも祭りは続く 第6回03
福島県会津若松市の「会津彼岸獅子」(2017)

川沿いの神社で行われるアットホームな村祭り

   ネットでリサーチをしていると、田倉の獅子舞が茨城県つくば市上郷(かみごう)の「上郷フェスティバル」という地域イベントに出演するという情報を得た。上郷はつくば市の西部に位置し、北で田倉の集落と接している。イベント主催者や保存会の連絡先がわからず、事前に取材アポは取れなかったが、いつものように「まあ、行けばなんとかなるだろう」の精神で、現地に突撃することにした。

   北千住駅からつくばエクスプレスに乗り研究学園駅で下車。バスに乗り換え、会場最寄りの「金村別雷(かなむらわけいかづち)神社入口」バス停で降りる。会場となる神社までは、徒歩で15分ほど。のどかな農村の風景を眺めながらゆっくりと歩を進めた。

それでも祭りは続く 第6回04
当日、雨予報だったので、朝の段階ではやや曇り気味だった

   金村別雷神社は利根川の支流である一級河川、小貝川のほとりに位置する神社である。地域の人には「雷神様」の名前で親しまれており、『豊里町小史』(つくば市は1987年に大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併して誕生した市)の解説によると、「御祭神の別来大神は天に昇って雷を支配し給う大猛雷神にあらせ」られ、「その荒魂は霹靂(へきれき)一声すさまじい威力を以て正邪を匡(ただ)し一切の悪事災難を消除する」とあるから、「雷様」という力強い名称に違わず、その霊験は相当なものであることがうかがい知れる。特に五穀豊穣を祈願する農業神として金村別雷神社は崇敬を集め、近郷近在の住民のみならず、関東一円にその信仰圏は広がったという。

それでも祭りは続く 第6回05
金村別雷神社の鳥居

   神社に到着して境内に足を踏み入れると早朝にもかかわらず、出店の設営準備をする人でにぎわいを見せていた。参道を進んでいくと神社の拝殿に突き当たり、そのかたわらに設けられた小さなステージでは、いままさにサウンドチェックが行われているところだった。いかにも正しく「村祭り」という雰囲気で、どこか心がなごむ。

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さまざまな催しが行われるステージ

   「三匹獅子保存会」の銘入りの半纏を着た方が何名かいたので、一人の方に取材をしたい旨を伝えると、それならばと保存会の会長さんを連れてきてくれ、獅子舞の公演後にお話を聞かせていただけることになった。

   フェスティバル開始の午前10時前になると拝殿の前に祭り関係者たちが集まり、イベントの成功を祈願する祈祷が行われた。その後、ステージで主催者らによる挨拶があり、いよいよ田倉三匹獅子の出番となった。

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フェスティバル前の祈祷の様子

悪魔を退治にしにやってきた三匹の獅子舞

   神社の参道を通って白い半纏をまとった人々が入場してくる。梵天(ぼんてん)や錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる祭具を持った人が先頭に立ち、そのあとに獅子や、笛、幟(のぼり)を手にした人らが続く。道行き(獅子が入場すること)の間、会場には透き通るように美しく、そして哀愁を帯びた笛の音が絶え間なく響く。いい笛だなと思って聴き入っていると、ちょうど司会の女性から「この曲は、“とおり”といいます」という解説が入った。

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参道を通って入場してくる田倉三匹獅子保存会の面々

   ステージに三匹の獅子が並ぶと、演奏が止む。再び司会者の解説が始まり、まず田倉の三匹獅子の由来について説明が行われた。いわく、江戸時代前期、田倉の畑を荒らす獅子が現れ、周辺地域の領主である大塚豊後守(おおつかぶんごのかみ)が家来とともに退治に出かけた。大塚豊後守は見事獅子たちを捕え、これからは人々のために生きよと教えさとし、それから五穀豊穣や雨乞い、無病息災の祈りを込めて、地域住民が獅子舞を踊り、舞うようになったという。

   続けて、これから披露される演目に関する解説も行われた。「ステージの中央に立てられている梵天を悪魔と見立てフェスティバルを邪魔する悪魔を退治に、獅子たちがやってきた」というストーリーは、まるでヒーローショーのようで面白い。

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悪魔に見立てた梵天の横に立つ獅子

   『茨城の芸能史』(茨城文化団体連合)によると、踊りのクライマックスで獅子たちが悪魔(梵天)を探しあて退治するという田倉三匹獅子の基本構成は昔から変わっていないようだ。ただ、時代や状況に合わせて演出にアレンジを加えているようで、例えば、復活間もない頃の公演では、時節柄(2021年)新しい疫病(新型コロナウィルス)が村人を困らせているので、その悪魔を退治するために獅子の親子がやってきたというストーリーで演じていたそうだ。

   ところで田倉の三匹獅子を鑑賞していて、ほかの三匹獅子舞との違い感じた一番のポイントは、お囃子における打楽器の豪華さだ。自分がこれまで見てきた三匹獅子舞の多くは、打楽器といえば、獅子たちが舞いながらお腹に抱える小さな鼓(つづみ)を打ち鳴らすのみであった。

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獅子が太鼓を抱えて演奏するというのも、三匹獅子舞の特徴。写真は埼玉県秩父市の「椋神社の獅子舞」(2023)

   田倉の三匹獅子では、獅子たちの背後で大小さまざまな太鼓が打ち鳴らされ、盛大に獅子舞を盛り上げる。

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ドラム缶のように大きな太鼓と、シンバルのような楽器までお囃子に加わる
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締め太鼓だけで3つ用意されている

   悪魔を探していた三匹の獅子たちが、ついに梵天を探し当てると、いよいよ最大の見せ場となる「ぼんてんとり」がはじまる。これは、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)、子獅子(こじし)の三匹の獅子のうち、雄獅子が主役となる演目で、雄獅子は地面に設置された梵天を握り、それを引き抜こうと激しく奮闘する。司会者が「さあ悪魔は梵天に閉じ込められています。皆様の応援をよろしくお願いいたします」と会場をあおると、拍手がわきおこる。梵天が引き抜かれると、再度大きな拍手が起こり、獅子舞の演舞は終了となった。この日はフェスティバル用の短縮バージョンということで正味10分ほどの演舞時間だったが、フルバージョンとなると演舞時間はこの倍となるらしい。

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熱演する三匹の獅子たち

   獅子舞が終わったところで、あらためて田倉三匹獅子保存会の会長である大塚誠さんにお時間をいただき、復活の経緯について詳しくお話を聞いた。

「県民総参加」の号令で万博に参加したつくば市民たち

   冒頭の説明の繰り返しとなるが、田倉の三匹獅子は1985年のつくば科学万博に出演して以来、公で演じられることはなく、長らく「幻の獅子舞」という存在になっていた。

   大塚さんの説明によると、そもそも田倉の三匹獅子は毎年定期的に行われるようなものではなく、神社の遷宮や、橋の渡り初め(道路や橋が開通した際に行われる式典行事)、官公庁舎の竣工記念など、特別な行事があった時のみに演じられていた。「言い伝えによりますとね、ほかの集落から獅子舞の依頼があった際も、7回お願いに来ないと田倉から獅子舞を出すことはなかったそうですよ」と、大塚さんも胸を張る。それだけ格式の高い獅子舞だったようだ。

それでも祭りは続く 第6回14
田倉三匹獅子保存会会長の大塚誠さん

   ところが神社の遷宮など、そうそう毎年あるようなものでもない。先に紹介した『豊里町小史』(1974年刊)という本の中でも、獅子舞が公の場に出舞する機会はほぼなく、「田倉三匹獅子の名は知っていても、部落内でさえこれを見たものはまれであった」と説明されている。演じられる機会が少なくなるということは、それだけ下の世代に獅子舞を伝える機会も少なくなるということだ。実際、つくば科学万博開催の時点では、すでに獅子舞の継承は困難な状態であったという。

   では、なぜつくば科学万博に田倉の三匹獅子舞が出演することになったのか。実はつくば科学万博出演当時、大塚さんの父親が田倉三匹獅子保存会の会長を務めていた。そのため息子である大塚さんがその辺りの詳しい事情を知っていそうなものだが、残念ながら大塚さん自身は当時獅子舞に関わることも興味もなかったので、詳細な経緯はわからないと話す。

   「おそらく、これは推測になりますけど、茨城県で開催された万博ということで、茨城県の民俗芸能的なものは何かないかと白羽の矢が立ったのが、田倉の三匹獅子だったと思うんですよ」

   大塚さんの話を手がかりに、可能な限り、当時の出演状況を浮かび上がらせてみたい。

   そもそも、つくば科学万博は、計画が立案されはじめた当初から「21世紀を創造する科学技術に関する国際的な博覧会」として想定されており、「国際科学技術博覧会」という正式名称の通り、「科学」が中心となる万博だった。そのため万博のテーマも「人間・居住・環境と科学技術」であったし、会場地も科学技術に関する各種研究機関施設の集まった筑波研究学園都市が選ばれ、出展した各パビリオンも科学をテーマとした展示や催しを積極的に展開していた。

   一方で、日本の伝統工芸、伝統芸能、郷土芸能など「科学」のイメージとは対極にあるような伝統的コンテンツも、会期中、盛んに披露された。

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万博のメイン会場となった第一会場(提供:つくば市)

   では、田倉の三匹獅子が出演した場所はどこかというと、茨城県出展の「いばらきパビリオン」だ。いばらきパビリオンでは、5.000平方メートルの敷地の中に、数々の展示を行う「パビリオン」のほか、茨城県の郷土工芸や物産の展示・販売、また郷土料理が楽しめる「バザール広場」、そして毎日日替わりでさまざまな催事が行われる「おまつり広場」というステージ(750席)が設けられた。このおまつり広場で田倉の三匹獅子は披露された。

   おまつり広場の設置意図は、『国際科学技術博覧会茨城県公式記録』(茨城県国際博協力室)に記載された、いばらきパビリオン「出展のねらい」「出展の構成」から読み取ることができる。要約すると、そもそも茨城県が万博にパビリオンを出展した狙いは、「県民がふるさと茨城をふりかえり、豊かな地域社会を考える」「訪れる内外の人々に、新しい科学技術とともに発展する未来の姿を紹介し、イメージアップを図る」「訪れる観客をあたたかく迎え、ふれあいを通して交流を深める」の3つにまとめられ、おまつり広場はその3番目に関連して、「県民の参加による郷土芸能・まつり等を通して、観客をあたたかく迎える」場として設けられた。

   また、いばらきパビリオンには「県民総参加のシンボル」というテーマも掲げられ、催事構成の基本条件にも「市町村の参加は原則として1日以上とすること」という項目が加えられた。その象徴となるプログラムが「市町村の日」だ。その名の通り、茨城県下すべての市町村が参加した催しで、例えば「谷田部町の日」「鹿島町の日」「桜川村の日」とったように、各市町村に日程が割り振られ、それぞれの日で町の特色となる複数の出し物が披露された。その内容は必ずしも「郷土芸能・まつり」に限ることなく、特産物の紹介であったり、地元小学校や婦人会の合唱であったり、演劇、漫才、創作ダンスなど、バラエティ豊かな構成となった。

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当時配布されていた「市町村の日」のパンフレット(提供:亀ヶ谷行雄)

   また「市町村の日」出演に際しては、催事を盛り上げようと各自治体で相当な努力がなされたようで、1日の仕事終わりには公民館や小学校の運動場に集まって練習が連日行われた。本番間近のリハーサルも各自治体で2〜3回は行われ、休みを返上して参加したという記録も残っている。大塚さんの記憶では、田倉もまた集落をあげて三匹獅子舞に取り組んだという。

   「科学万博のビデオを見ると、笛が14〜15人もいるんですよ。おそらく茨城県なんかの要請もあって、(地元の)中学生が駆り出されたんじゃないかなあ(笑)」

   『国際科学技術博覧会茨城県公式記録』によれば、田倉の三匹獅子は1985年8月1日「豊里町の日」のトップバッターとして登場している。豊里町(現・つくば市)の代表として田倉の三匹獅子が選定された理由については公式資料でも明らかになっていないが、「市町村の日」の催し内容が決まっていった大まかな経緯は次のように伝わっている。

「市町村は広報誌を通じて、全住民に科学万博への参加を呼びかけた。一方、企業や各種団体(老人会、婦人会、子ども会など)に直接呼びかけて参加を促した。
催事の企画は、郷土史家や学校の先生、有識者など地域、催事に明るいあらゆる人たちに協力をお願いし、さまざまな助言を得て、市町村のPRを効果的に行い、いばらきパビリオンを盛り上げる構成と演出がまとめられた」
(茨城県国際博協力室 発行『国際科学技術博覧会茨城県公式記録』より)

田倉の三匹獅子以外にもあった、万博を最後に中断した郷土芸能

   「市町村の参加は原則として1日以上」という強制参加にも近いルールは、地域によってはハードな要求となったかもしれないが、県下の民俗芸能にとっては良い面もあった。どういうことかというと、「市町村の日」を機に、新たな催事が創作されたり、埋もれた催事が復活したり、低迷していた催事が復興したりと、民俗芸能活性化の動きにつながったからだ。

   例えば、茨城県神栖市田畑の「田畑の獅子舞」(「ささら舞」とも)は長い間中止されたままであったが、1981(昭和56)年に田畑獅子舞保存会が発足し、4年後のつくば科学万博で初披露。2024(令和6)年現在も、地域の神栖市立軽野小学校の伝統学習行事に取り入れられるなど、獅子舞の継承活動が続けられているようだ。

   また、新しく創作された催事に関しては、突出しているのが谷田部町(現・つくば市)だ。谷田部町では、つくば科学万博を契機に、万博音頭、万博山車、万博太鼓、谷田部音頭と多数の催事が創作され、現在、万博山車はつくば市の一大夏祭りである「つくば祭り」にも参加している。

   このようにつくば科学万博を契機に郷土芸能が生まれたり、復活したりした市町村の数は、新しい催事を制作(16地域)、埋もれた催事を復活(9地域)、低迷していた催事を復興(13地域)と記録されており、全92市町村(当時)のうち約4割近くにのぼる計算となる。

   田倉の三匹獅子は、まさに低迷した芸能が復興した事例となるのだろうが、田畑の獅子舞のように継続することはなく、復活まで36年もの歳月が必要とされた。実はつくば科学万博を通じて、このような数奇な運命をたどった民俗芸能は田倉の三匹獅子だけではない。五霞町川妻の「川妻ひょっとこおどり」は、つくば科学万博の「五霞村の日」に出演後、継承者不足から長らく休止状態に。しかし、2024(令和6)年、氏子らによって川妻一色神社例大祭で復活。本番に向けては、つくば科学万博の映像を見て練習を重ねたと、毛新聞社、下野新聞社、茨城新聞社の共同運営する生活情報サイト『とりぷれ』の記事(2024/4/12掲載)には書かれている。

地域振興の文化資源として再興された獅子舞

   つくば科学万博に田倉の三匹獅子が出演した背景がおぼろげながら見えてきたが、それではなぜ36年の中断を経て再び復活することになったのだろうか。現・保存会長である大塚さんの証言や、インターネット上で公になっている情報を整理すると、次のようなストーリーとなる。

   つくば市では2017年頃より、行政の支援を受けながら市内の8つの市街地(北条・小田・大曽根・吉沼・上郷・栄・谷田部・高見原)における住民主体の地域づくりが行われている。田倉も含まれる「上郷」地区では、2019年8月に地域住民が主体となった上郷市街地活性化協議会が立ち上がり、地域振興の取り組みが始まった。

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上郷市街地活性化協議会は、今回取材した「上郷フェスティバル」の主催でもある

   地域活性化のため、上郷を特色づける地域資源はないかという模索が進む中で、獅子舞復活につながる3つの動きが偶然重なった。まず、子どもの頃に舞を教わった最後の世代であるM氏が獅子舞の復活を思い立ち、お囃子の音源がないかと市へ問い合わせをした。同じ頃に、上郷市街地活性化協議会からも獅子舞を復活させたいという話が市にあり、つくば市ではお囃子の音源がどこかに残っていないか、手がかりを探していた。

   そんな矢先、現保存会長の大塚さんが自宅で納屋を整理していると、偶然に木箱に収められた田倉三匹獅子の獅子頭が見つかった。大塚さんは父親が三匹獅子保存会の会長をしていた関係から、家で獅子頭を預かっていることは把握していたが、どこにしまわれているかまではわかっていなかったという。また別のタイミングでは、つくば科学万博に出演した際のビデオテープも家から発見された。

   これらを寄贈したいと大塚さんが市に連絡したところ、ちょうど獅子舞復活の機運が高まっていたタイミングであったため、「じゃあ復活させましょう」と話がトントン拍子で運び、道具の準備や、獅子舞の練習が急ピッチで進められた。そして2021年3月28日、田倉八幡神社で36年ぶりの復活を遂げた。

「田倉三匹獅子」の復活を伝える動画。つくば市公式チャンネルより

   獅子舞の復元に際しては、まず技術面では、唯一の手がかりであるつくば科学万博のビデオテープが教材となった。舞はつくば科学万博の映像を参考にしながらも、当時ステージで実際に舞った経験者もいたので、その方の知見も借りながら再現することができた。お囃子に関しては、地域の和太鼓パフォーマンス集団である「常陸乃国上郷 中央囃子会」の協力が得られ、笛のメロディーを、ビデオ映像を参考に再現するとともに、よりエンタメ性を高めるために、本来の三匹獅子にはなかった締め太鼓や大太鼓の導入も図った。

それでも祭りは続く 第6回18
復活にあたり笛の再現に大きく貢献した、中央囃子会“親方”の倉持正仁さん

   また獅子舞の用具に関しては、実はつくば科学万博の際にほとんどの用具を新調していたので、それを使うことができたと大塚さんは話す。

   「(万博開催)当時、県の方からも、かなり補助金はいただいたと思うんですよ。だからほとんどの道具は揃っているんですけど、ただ一番費用のかかる獅子頭と獅子の持つ太鼓、これだけは昔のままでした。安いものばかり新調して、肝心なものは作らなかったみたいで(笑)」

   初お披露目の舞台となった田倉八幡神社では、古い獅子頭と太鼓をそのまま使用したが、実用には耐えられないほど劣化が進んでいたので、結局、つくば市の支援を受け、新しい獅子頭と太鼓を作ることにした。普通に作ると獅子頭ひとつでも100万円はかかるものだったが、県内の職人に依頼することでコストを抑えながら制作することができた。しかし獅子頭を新調するということは、その後も継続的に三匹獅子を続けていくという意思の表明でもある。覚悟はいりましたか?と大塚さんに聞くと、「そうですね」と即答した。

それでも祭りは続く 第6回19
会場に掲示されていたパネルにも、獅子頭を新調したことが紹介されている

   「作ったけど、今度いつ使うかわかりませんでは……(話にならないですから)。逆に、新しく作ったからこそ、それがモチベーションにつながり、皆さんに獅子舞を見てもらおうとがんばれているという側面もあります」

   もともと、地域の重要な行事にしか参加しなかった田倉の三匹獅子だが、復活後は今回の上郷フェスティバルのような地域イベントから、金村別雷神社の節分行事、毎年7月に行われる上郷地区の祇園祭など、活動範囲を広げている。

   「毎年7月に開催されている上郷の祇園祭では、神輿を先導する露払いの役として出演させていただきました。田倉の三匹獅子は本来、神事なわけですから、そういった(伝統的なお祭りの場への出演)機会も大事にしていきたいと思います」

   出演意欲の旺盛な大塚さんだが、日程によってメンバーの都合が合わずに参加できないということもあるので、今後はさらなる会員の拡充が必要だと語る。

   「なにごとも、ヒト・モノ・カネって言うじゃないですか。モノは揃った、カネはまあ獅子舞にはそんなにかからない、せいぜい会場までの交通費くらいですよね。なので、いま大事なのはヒトなんですよ。例えばいま獅子舞を舞える人は3〜4人はいますけど、誰か休んでも埋め合わせができるように、これを倍の数にはしたいんです。あと笛をきちんと吹ける人を5人くらいにはしたい。笛って一人で吹くよりも、二本の方がかっこいいじゃないですか。さらに二本が三本になると、音に厚みが出てくる。だから笛を増やしたいんです」

それでも祭りは続く 第6回20
現在、保存会には18名のメンバーが在籍している

   獅子舞に適宜アレンジを加えながらも、変えてはいけないものはありますか?と聞くと、「やはり笛でしょうね」と大塚さんは答える。

   「なぜかというと、たぶん舞い方や太鼓の叩き方を変えても印象ってそこまで変わらないと思うんですけど、笛のメロディーを変えてしまうと、獅子舞のイメージが大きく変わってしまうと思うんですよね。だから笛だけは変えたくない。私も笛を吹けるように、いま練習をしているところなんです」

   「36年ぶりの復活」というドラマティックな復活劇につい注目したくなるが、物語はそこでは終わらない。田倉の三匹獅子は行政や地域コミュニティのサポートを受けながら、保存会の人々が意欲的に獅子舞に取り組むことで、36年のブランクをものともせず、少しずつ発展を続けている。

記憶と記録と意欲があれば復活できる

   過去、日本で開催された万博として最も著名といえるのが、1970(昭和45)年開催の日本万国博覧会(通称:大阪万博)ではないだろうか。郷土芸能を披露する場という観点で見れば、70年の大阪万博も「日本のまつり」という、6週間にわたって日本全国59の祭り・郷土芸能が出演する、まさに日本の祭りの一大ショーケースのような催しがあったが(同様の催しはつくば科学万博でも行われた)、いち都道府県の各市町村からくまなく郷土芸能を取り上げ披露したという点で、画期的だったのではないだろうか。その結果、復活を促したり、埋もれていた文化を掘り起こすきっかけになったりと、地域の郷土芸能にさまざまな影響を与えたことは、先に述べた通りだ。

   いずれにしても、田倉の三匹獅子の例を見れば、地域の文化資源として再評価をされたとき、祭りや郷土芸能は復活しうる、たとえ36年のブランクがあっても、記憶と記録と意欲があれば、再現可能であることがわかった。しかし始めることより、続けることはなお困難だろう。幸いにも、田倉三匹獅子保存会のリーダーは情熱と上昇志向、変化を厭わない勇気、そして続けていく覚悟を持ち合わせている。

   取材の後、せっかくここまで来たのだからと、小貝川沿いを北上して三匹獅子の故郷である田倉集落へと立ち寄った。のどかな農村の雰囲気を残す町並み。広大な畑の向こうには、「西の富士、東の筑波」とも称される筑波山の勇姿が見えた。信心深くない人間でも思わず手を合わせたくなるオーラに圧倒される。帰りのバスを待ちながら、田倉の三匹獅子の発展を心の中で小さく祈った。(了)

それでも祭りは続く 第6回21
右手に見えるのが筑波山。三匹獅子の故郷である田倉集落から見える風景

Text:小野和哉

プロフィール

小野和哉

小野和哉

東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono

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