第二回:虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。

阪神虎舞の拠点、神戸区長田区へ

   「東日本大震災の記憶の風化に抵抗する」――そのような思いから、岩手県から兵庫県に移植された民俗芸能、虎舞。その継承団体である「阪神虎舞」が拠点とするのが、兵庫県神戸市長田区だ。三陸沿岸の漁師たちから厚く信仰され、震災以降は復興のシンボルともなった虎舞は、この新天地にどのように根付いていくのだろうか。長田区に足を運び、担い手たちに話を聞くことにした。(前編記事はこちら

震災から復興した町に虎舞はやってきた

新長田駅の駅前

   新長田駅前には、東京郊外のニュータウンのような風景が広がっていた。駅前は綺麗に整備されていて、見渡すと高層ビルや商業施設が視界に入ってくる。朝早い時間であったとはいえ、人通りはそこまで多くなく、静かで住みやすそうな町だな、という印象を受けた。

新長田駅周辺エリアは「新長田」と呼ばれ、多くの商店街がひしめいている

   駅の南側に向かって歩みを進めていくと、高速道路を挟んでアーケード商店街の大きなサインが見えてくる。大正筋商店街。阪神虎舞が拠点とするNPO法人DANCE BOXの劇場は、この商店街の中にある。

大正筋商店街

   長田を語る上で「震災」というキーワードは避けて通れない。この町は1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受け、その後、神戸市が主導となって大規模な再開発が行われたという歴史を持つ。神戸市のなかでも、特に長田区では多くの火災が発生。市内全体での火災被害のうち、面積にして約64%、棟数にして約68%、被害額にして約51%を占めた。また、区内にあった住宅のうち、58%が全壊・半壊の被害を受けたという。多くの商店が肩を並べる新長田駅前の商業エリアも、火災で壊滅的な状態となった。

震災当時の大正筋商店街(出典:神戸市「阪神・淡路大震災 1.17の記憶」)

   長田区でも商業施設が集約していた新長田エリアでは震災後、行政の主導による大規模な再開発が進められた。長屋が軒を連ねる商店街は、まるで大型商業施設のような建物に再建され、一時は復興の象徴たる地区でもあった。しかし再建から年月が経ち、空き店舗の増加が目立つようになるなど、新たな問題も顕在化し、数年前からたびたびニュースで報道されるようになっている。

   

現在の大正筋商店街(2024年4月17日撮影)

   商店街に入って3~4分ほど歩くと、右手に「db」と描かれた赤い看板が現れる。正面の建物に入りエレベーターで4階へ上がると、カラフルなポスターがいくつも目に飛び込んできた。

DANCE BOXの入口

   「もともと、このテナントにはライブハウスが入っていたみたいですね」
NPO法人DANCE BOXの事務局長で、阪神虎舞の設立にも関わった文(あや)さんは、そのように話す。言われてみれば、ロビーにチケットを販売するカウンターのような構造物があり、いかにもそれらしい。

   DANCE BOXはコンテンポラリーダンスを起点として、アーティストの育成事業や国際交流事業、地域における教育や福祉、街の活性化などの事業に関わる組織だ。阪神虎舞を企画した橋本裕之さん(連載第1回参照)との縁は、2011(平成23)年、長田区の長田神社で鵜鳥神楽を公演した際に、DANCE BOXが神社との交渉や、神楽メンバーの宿泊地の手配など、現地コーディネートの一切を担当したことに始まる。その仲介役となったのは、橋本さんとともに阪神虎舞を立ち上げた中川 眞さんだった。数年が経ち、阪神虎舞の拠点探しをはじめた橋本さんは、関西のさまざまな団体にアプローチをした末に、以前イベント開催に協力をしてもらったDANCE BOXに問い合わせてみることにした。

   「DANCE BOXには劇場もあるし、多くのダンサーや俳優が出入りしていたので、ここに来れば、虎舞を踊ってくれる人もいるだろうと考えられたんでしょうね。もちろん私たちも鵜鳥神楽のことが強く印象に残っていましたし、民俗芸能とコンテンポラリーダンスが、そう遠いものではないという認識もありました。また虎舞という芸能を実際に見てみたいなという好奇心もありました」

   文さんは、橋本さんからの打診を快くOKした。以上が、虎舞という芸能がDANCE BOXという組織を媒介にして新長田を拠点とするようになった経緯である。興味深いのは、実はDANCE BOXもまた、虎舞のように新しい活動拠点を求めて外部からやってきた歴史を持っていることだ。

NPO法人DANCE BOX 事務局長 文さん

   「DANCE BOXが創設されたのは1996(平成8)年のことです。大阪の千日前という、道頓堀の近くにある民間の劇場で生まれました。そこから大阪の浪速区に移動して、フェスティバルゲートという娯楽施設に劇場を作ったんですけれども、施設そのものがなくなるということで、1年半ぐらい新大阪に仮住まいしたあと、神戸市の人に誘われて、2009(平成21)年に新長田に移ってきたんです」

   新長田は、大阪の都心部のようにどこからでもアクセスしやすい土地ではなかったため、ただ待っているだけではお客さんは来ない。何をするにも「新長田で劇場をやる意味」を切り離して考えることはできなかったし、町の人と協働しながら取り組んできた、と文さんは回想する。例えば、NPO法人DANCE BOX が2015(平成27)年より2年に1回のペースで行っている「下町芸術祭」は、新長田の町にアーティストやクリエイターを呼んで、喫茶店や福祉施設、ゲストハウスなど、さまざまな場所を舞台に展示やイベントを行うというプログラムだ。

下町芸術祭の様子(2017) 提供:DANCE BOX

   これも劇場から外に出て、町の人と交流し、ネットワークを築いてきたからこそ実現できた取り組みといえるだろう。

多様なルーツの人々や文化を受け入れてきた歴史

   それでは、文さんたちが向き合ってきた長田区、そして新長田という地域はどのような背景を持つ場所なのだろうか。大きな震災を経験した町であることには先ほど触れたが、実は多様なルーツにつながる人々が隣り合って暮らしてきたという歴史も持っている。新長田区駅前の整備された町並みを見ただけではそれとは気づきにくいが、商店街の奥へと足を踏み入れていくと、中国や韓国、東南アジア系の飲食店が数多く目につくようになる。

   1868(慶応3)年の兵庫開港以降、神戸市は今日に至るまで国際都市として繁栄を築いてきた。欧米にはじまり、清国、インド、東南アジア、ラテンアメリカと、時代を経るにつれ、多種多様な地域からの人々が神戸の地にやってきた。

アジアンダイニングが立ち並ぶ商店街「丸五市場」

   長田の町と特に関係が深い移住者は朝鮮出身の人だ。1910(明治43)年の韓国併合以降、多くの朝鮮人労働者が、強制的に、または母国の飢餓や戦乱を逃れて神戸にやってきた。第一次世界大戦後、ゴム産業が活況を呈し、ゴム工業地帯だった長田には朝鮮人職工が数多く流入をしてきた。戦後はケミカルシューズ産業が隆盛を誇り、最盛期には関連会社が800社を超え、従業員の6~7割が朝鮮半島出身労働者といわれた。

「くつのまち」長田の地域シンボルとして、2000(平成12)年に開設されたショッピングセンター「シューズプラザ」

   また外国人だけでなく、戦後は、職を求め米国軍政下の奄美諸島から神戸にやってきた人も多かったという。

大正筋商店街を歩いていたら見つけた奄美諸島のアンテナショップ「結いの島」。奄美の観光振興の拠点として4~5年前に開設されたものの、2024(令和6)年4月24日に惜しくも閉店
新長田の駅前には奄美出身者の郷友会が所有する会館がある

   労働者として神戸の産業発展を支えた移住者たちだが、彼らに対する差別の歴史があったことも忘れてはならない。例えば、戦後神戸に移住したある人物の生涯をその息子が綴った『あるシマンチュウの肖像: 奄美から神戸へ、そして阪神大震災』という本では、シマンチュウ(奄美諸島出身の人)が神戸に多く渡航していた頃、飲食店の戸口に「琉球、朝鮮の方はおそれいりますが入店をお断りします」と書かれた貼り紙が出されたことが、証言として記録されている。

   ダイバーシティーや多様性社会という言葉で一括りにできない暗い歴史がこの町には横たわっている。それでも多様な背景を持つ人々の受け皿となってきたという事実は変わらない。多文化・外国ルーツの人々と共生していくための取り組みは、外国人の側、日本人の側、双方からいまなお続けられている。

大正筋商店街の中にある「神戸国際コミュニティセンター」

   虎舞が長田という土地にやってきたのは偶然のことだろうか。もちろん、震災の記憶を持つ土地という共通点はある。しかし後付けの発想にはなるが、多様な文化を受け入れる下地があったからこそ、東北の民俗芸能をこの場所に移植することができたという側面もあるのではないかと、長田の歴史を知るにつれ、そう考えずにはいられないのだ。

コンテンポラリーダンサーが挑む民俗芸能

   DANCE BOXはまた、新長田に外から新しい血を呼び込むハブにもなった。その最たる取り組みが、2012年より毎年実施している「国内ダンス留学@神戸」だ。国内ダンス留学@神戸とは、ダンサーや振付家として活動する若手アーティストたちを対象に、7月の終わりから3月まで8ヵ月間、集中的に研修するというプログラム。全国から参加者を募り、期間中は「留学」の名の通り、新長田周辺に滞在してもらうことになる。文さんは「国内ダンス留学@神戸」の狙いを次のように話す。

   「コンテンポラリーダンスって、師匠がいて、弟子がいるといったお稽古文化とは違って、アーティストが自分一人でダンスをなりわいにやっていくという世界。だから、定期的に教わる機会というのがないんですよ。私たちの中でも、単発のワークショップを開催しているだけでは、実力のあるアーティストを育成できないね、という話になって、8ヵ月間、集中して表現に向き合うことができる研修プログラムを作ったんです」

国内ダンス留学5期のクリエーション風景(photo by Junpei Iwamoto) 提供:DANCE BOX

   見知らぬ町に8ヵ月間滞在するというだけで、それなりの覚悟が求められそうだが、アーティストからしたら自己の表現を磨く絶好の機会ともいえるかもしれない。では、町の人たちの目にはアーティストのことはどう映っているのだろうか。

   「どんどん高齢化が進むこの町に若い人たちが来てくれる、それも一定時間でもこの町に住んでくれるというのは、町の人たちにはすごく喜ばしいことなんです。なかには、8ヵ月の研修が終わった後も、新長田に残ってくれる、なんならそこで家族を作ってくれる人たちがいる、みたいな」

   実は阪神虎舞の創設メンバーである山本和真さんも、国内ダンス留学@神戸の二期生として新長田に移り住んできた人間の一人だ。現在も新長田に留まり、仕事をしながら振付家としての活動を続けている。阪神虎舞結成の契機となったワークショップ「Challenge 虎舞!」には、普段からDANCE BOXに出入りしていた関係者も多く参加した。山本さんもその一人だ。自身の参加動機を次のように説明する。

阪神虎舞メンバー 山本和真さん

   「コンテンポラリーダンスをずっとやるなかで、虎舞のように型のあるものに触れてこなかったので、そういうものを習ってみたいなと思ったのがひとつ。また、当時漁師のアルバイトをしていて、虎舞は航海安全の芸能だと聞いたので、自分にも接点がありそうだなと思い参加してみることにしました」

   ワークショップの参加者は、誰もが虎舞を見るのは初めてだったが、みんながその凄まじさに圧倒されたという。文さんは「もう見たらなんかイチコロというか、かっこよすぎたって感じでした」と当時を回想する。山本さんも、同じ気持ちだった。

   「(劇場に)4人の男たちが入ってきて、『説明するより見てくれたほうが早いから』って、いきなり踊り出すんですね。その踊りがめちゃくちゃかっこよくて。やっぱりその出会いが強烈でしたね」

ワークショップの様子(2018) 提供:橋本裕之

   ワークショップは関西で活動する虎舞団体を設立することを前提に行われたので、そのままワークショップの参加者を中心に阪神虎舞が結成されることになった。虎の頭は自分たちでは用意できないので大槌城山虎舞の方々に制作を依頼して、到着するまでは太鼓のバチなどを虎頭に見立てて練習。ワークショップから5ヵ月後の2018(平成30)年、DANCE BOXの劇場で開催された大槌城山虎舞の公演で、前座として初舞台を飾った。

   以後、神社の行事や、商業施設での催し、地域イベントなど、さまざまな場に出演機会を得て、精力的に活動を続けている。また、「震災の記憶の風化に抗う」というコンセプトにもとづき、東日本大震災のあった3月11日には長田港で慰霊の祈りを込めた虎舞の演舞を実施している。

長田区の長田港で行われた慰霊の虎舞(2024) 提供:阪神虎舞

   ところで、いわゆる「伝統的」と表現される、昔から受け継がれてきた型のある踊りを習得することは、コンテンポラリーダンサーにとって難しい作業ではなかったのだろうか。山本さんは「型だけ見ると、自分でもできそうだなと思うんですよ」と言いながらも、次のように続ける。

   「でも、(大槌城山虎舞の人たちが)虎頭をかぶるとなんでこうも見え方が変わるだろうと、そこはすごく不思議でしたね。息遣いであったりとか、動きの緩急のつけ方だったりとか、姿勢をとりながらも“虎”になるためにどうするべきか、自分の体のことを理解しながら、習得していくことはすごく難しかったです」

阪神虎舞の様子

   結成から5年が経ち、メンバーそれぞれが自分のやり方をつかんできていると、山本さんは自信をのぞかせる。また結成当時から構想としてあった、阪神虎舞のオリジナル演目を作り出すという宿題も、5年目にしてようやく「雌虎(めとら)」という女性だけで演じる演目として結実した。実は廣田神社の春祭で神前奉納した、あの静かな踊りが雌虎だったのである。虎舞の舞手は、基本的に男性が務めることになっており、雌虎はまさに女性メンバーの多い阪神虎舞ならではの演目といえる。

   最後に、今後の課題について山本さんに聞くと、「お囃子ですね」と答えた。本来、大槌城山虎舞では笛と太鼓と手平鉦(てびらがね)を使ったお囃子が演奏される。楽器の中でも、特には笛に関しては高い技術力が要されるため、いまだ阪神虎舞では、自前の演奏による演舞は実現できていない。

   「いまは、大槌城山虎舞さんのところで録音してもらった音源を使っている状態なので。それでも(お客さんからは)満足してもらえているというのはあるんですけど、お囃子も自分たちでできるようにしたいですし、ステップアップしていきながら、ゆくゆくは阪神虎舞としての“虎舞”を完成させたいなと思いますね」

虎は一日にして千里行って、千里帰る

   最後に、阪神虎舞世話人の橋本裕之さんが提唱する「民俗芸能の動態保存」という考えを紹介してこの記事を終わりにしたい。動態保存の意味を「デジタル大辞泉」で引くと、“実用されなくなった機械類を、操作や運用が可能な状態で保存しておくこと”とある。本来は、鉄道や航空機などの機械類に適用される概念だが、これが民俗芸能にも適用できるのではないかというのだ。

   「実はこれは、少彦名(すくなひこな)神社(大阪府大阪市)の宮司さんからいただいたアイデアなんですけど、今後東北で何かがあって虎舞という芸能が絶えてしまうということがあった時、関西の方で虎舞を動態保存しておけば、いつか返すことができるだろう、阪神虎舞にはそういう役割もあるのではないかと言われたんですよね。そういう発想は私の中になかったんですけど、言われてなるほどなと思いました」

   「虎は一日にして千里行って、千里帰る」。
東日本大震災をきっかけに、震災体験という点で共通項を持つ兵庫県神戸市の下町にやってきた虎舞。その虎舞も、いつかまた東北の地へと帰っていくこともあるのかもしれない。もしそういうことがあるのだとしたら、そのきっかけは震災などではなく、幸いなるものであってほしいと願う。人々を祝福し、幸いをもたらすのが、本来の虎舞の役割であるはずなのだから。(了)


Text:小野和哉

プロフィール

小野和哉

小野和哉

東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono

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