日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。
なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。
災いが起きた時こそ祭りが求められた
2020(令和2)年、新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の祭りの多くが開催中止を余儀なくされた。その後、いくつかの地域は感染対策を施したり、規模を縮小したりしながら祭りを再開し、2024(令和6)年現在、各地のお祭りはすっかり従来のにぎわいを取り戻しているようにも見える。一方で、コロナ禍を機に祭りそのものが廃止となってしまった地域や、持続可能な形を模索して内容を大幅に変更した地域もあると聞く。その影響の全容は明らかになっていないが、パンデミックがこれからも「祭り」という文化の存続に深い影を落としたことは確かなようだ。
ところで、各地の祭りの由来について調べてみると、「疫病退散」を目的としてスタートした祭りというものは案外に多い。有名なところでは京都の「祇園祭」などがそうだ。そんな祇園祭もコロナの影響で、2020(令和2)年、2021(令和3)年と山鉾巡行が中止となった。疫病退散を祈願して実施される祭りが、疫病で中止となる。現代的な感覚からすると致し方ない判断と言えるが、かつて人々が本気で祭りや神事の呪力を信じた時代は、やはり疫病だからこそ祭りを実施しようという機運はあったようだ。
千葉県習志野市の鷺沼地区で行われている八剱(やつるぎ)神社の祭礼「剣」という祭りを知ったのは、ほんの数年前のことだ。祭りの由緒はよくわかっていないようだが、およそ300〜400年の歴史があると地元では伝えられており、かつユニークなのは、中断されてもなお、村を襲う災いを鎮めるために復活したという歴史をこの祭りが持っていることだ。習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』には次のように書かれている。
何度か中断しかけたこともあったようだが、災害などをきっかけに、復活することがしばしあったようだ。(中略)鷺沼在住の男性(大正11年生)によれば、戦後も、祭りを中断したところ腸チフスがはやったので、再び行うようになったことがあった。 (習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』より)
同書に掲載されている別の男性(大正4年生)の証言によれば、剣祭りが特に盛んになったのは1919(大正8)年に多数の死者を出した大嵐と、その後に流行したコレラがきっかけであるという。コレラではないが、1919年は世界的にスペイン風邪が流行した時期と重なる。また「大嵐」に関しては、1917(大正6)年に、気圧952ヘクトパスカル、最大風速43メートルが関東に直撃、暴風と高潮で東京湾沿岸部の町々に大きな被害をもたらした「大正6年の大津波」という災害が記録されているので、これを指すのではないかと思われる。
実は鷺沼は船橋市にある私の地元からそう遠くない距離にある町で、そういう意味でも興味の引く祭りであった。どのような催しなのか、実際に見学しに行ってみることにした。
町中を、剣を手に駆け巡り「悪事災難」を祓う
「剣」祭りは、鷺沼にある八剱神社の祭礼である。かつては毎年3月1日の日付固定で実施されていたようだが、現在は3月の第一土曜日の開催となっている。それ以上の詳しい情報は告知されていないのでわからない。そんな心許ない状態で、2023年3月4日、私は八剱神社の最寄りとなるバス停に降り立った。時間は正午を回った頃。ともかく、八剱神社の周辺をやみくもに歩いていると、住宅地の細い路地で白い半纏をまとった一団と出会った。「これだ」と直感したが、周囲に見物人の類は一人もいない。そういう祭りではないのかもしれない。
住宅街の中で遭遇した剣祭りの一団
ともあれ「本当にやっていた!」という喜びが勝り、勢いに任せて一人の男性に「見学してもいいですか」と聞いてみた。すると、「大丈夫ですよ」と色良い返事をいただけたので、お言葉に甘えて、カメラを手についていくことにした。
聞くと男性の名前は相原和幸さんといい、剣祭りを運営する氏子総代メンバーの一人であるという。ブログで祭りの情報を発信するなど、氏子総代の中でもスポークスマンのような立ち回りをされているようで、そのせいか私のような得体の知れない訪問者にも気をかけてくれて、剣祭りの概要や歴史を教えてくれる。
相原さんのお話を聞きながらしばらく同行していると、だんだんと剣祭りの大まかな内容が見えてくる。まず、「剣」という鉾(ほこ)のようなものを手にした「剣士」8名と、太鼓の台車を曳く人間、「御神酒」「御神米」の受けわたしを担当するメンバーがチームとなって動く。剣士は通常地域の中学生が務めるが、この年はコロナ禍の余波もあり子どもたちは呼ばず、剣祭りを主催する氏子総代、そしてヘルプで来ていた市の職員によって剣士は構成されていた。剣士の中でもリーダー格となる1名は「親剣」と呼ばれ、これも本来はOBの高校生などが担当して他のメンバーを率いることになっている。
白装束をまとって剣を携える剣士たち(左)
太鼓は寄せ太鼓の役目を果たし、住民たちに剣士たちの到着を告げる。家に到着して呼び鈴を鳴らすと、家の者がおひねりを手に出てくる。剣士は住民の頭上に剣をかざし、「悪事災難のがれるように」とまじないを唱える。続けて、後ろから来た人間が「御神酒、御神米」と言いながら、小袋に入ったお米と、紙パックのお酒をわたす。かつては一升瓶から直接お椀にお酒を注いでいたようだが、コロナ対策でこの方法に切り替えたらしい。御神酒、御神米を受け取った住民はおひねりをわたす。これでお祓いは終了である。
剣士たちの来訪を心待ちにする住民の姿
訪問する家は1日250戸近くにのぼり、数が多いのでメンバーが二手に分かれて行動することもある。不幸にあった家を避けるために、事前に訪問していいか各戸にアンケートをとっているそうだが、当日でも「うちに寄って欲しい」と声をかければ訪問してくれるそうだ。
おひねりを受け取るとともに、「御神酒」「御神米」をわたす
勝手知ったる土地でもあるためか、剣士たちの足取りは迷うことを知らず、ものすごいスピードで町の中を駆け巡っていく。とにかく剣士は「走り抜ける」ことが大事らしい。とはいえ1日がかりの大仕事なので、一気呵成にすべての家を訪問するわけではない。下宿、上宿、本郷、大堀込(オオボッコメ)という4つの地区に分けて、順番に巡っていき、一つの地区が終わるごとに休息をとる。かつては地域の有力者が「宿」として剣士たちを迎え入れ、満腹でその後歩けなくなるくらいご馳走をしたそうだが、運営体制の変化や、これもまたコロナ禍の影響によって、現在は一丁目にある根神社の社務所に休憩所を集約して、そこで飲み食いをするようにしている。
祭りの休憩所として利用されている根神社の社務所
また剣祭りの最中、村の境となる4つの箇所で「辻切り」も行われる。ちなみにこの儀式、2023年の訪問時には目にすることができず、2024年に剣祭りを再訪した際に、はじめて見ることができた。辻切りは「道切り」とも呼ばれ、村の中に災厄や疫病が入ってこないよう、集落の入り口となる場所(辻)を封印する風習のことである。辻に到着すると事前に立てていたお札の前で、神主が祝詞を奏上する。八剱神社には常駐の神主がいないため、隣町の谷津にある丹生(にう)神社の神主がこの任を担当する。祝詞が終わると、剣士たちが「えい」と言って剣を突き出し、辻切りを完了させる。自動車が高速で通り抜けていく音を背中で聞きながら、時代が1世紀ほど後退したような古式ゆかしい行事を見守るのは、なんともシュールな心持ちだ。
2024年に訪問した際の辻切りの様子。写真の場所は、幕張IC近くの「幕張境」という村境
60年以上担がれていない神輿
剣士たちについて行って集落のあちこちを歩く。下総台地の段丘崖に差し掛かる鷺沼の町は地形の起伏が案外激しい。多少しんどくもあるが、しかし知らない町をぐいぐいと歩くのは発見も多く意外にも楽しいものだ。道中、国道14号線、埋め立ての前は海岸線の近くを走っていた、いわゆる千葉街道の交差点に至ると、「鷺沼温泉 駐車場」という看板が目に入った。
鷺沼温泉の敷地はすでに更地となっている
ある剣士の人が、「もう閉業しているけどね」と教えてくれる。「昔は祭りの前にこの銭湯で入って身を清めたんだよ。祭りの日は特別に夜遅くまで営業してくれたので、終わったあともここで汗を流したな」
何気ない話だが、身を清める場所が銭湯というのが面白い。
しばらく歩いた後に、休憩ということで根神社の社務所に戻った。なんとなく手持ち無沙汰にしていると、相原さんが「いいものを見せましょうか」といって、社務所の裏手の倉庫まで案内してくれた。なんだろうとついていくと、目を見張った。そこには仰ぎ見るほどの巨大な神輿が鎮座していたのだ。
根神社の神輿小屋に保管された巨大な神輿
言葉を失っていると、相原さんが「根神社の秋の例大祭で担がれていたお神輿です。すごく立派でしょう。周辺地域の神輿の中でも、トップクラスの大きさだそうですよ」と誇らしげに教えてくれる。倉庫の扉には、茅葺屋根の民家を背景に男たちが勇壮に神輿を揉んでいる写真が飾られている。隣には海の中で揉んでいる写真もある。
神輿小屋の扉には神輿に関する説明書きと写真が貼られていた
いまでは海の気配などまったくない鷺沼だが、やはり埋め立ての前は、鷺沼がまごうことなき漁村であったことを、この写真と神輿が証明している。肌が粟立つような感動を覚えた。
四方を海や川で囲まれた千葉県は、神輿もまた海(ハマ)を目指す。千葉県立中央博物館 編『おはまおり : 海へ向かう神々の祭』によると、海の中で神輿を揉む海上渡御(とぎょ)は全国各地に見られるが、特に関東から福島県にかけての太平洋沿岸に大規模な海上渡御、いわゆる「おはまおり」「おはまで」「しおふみ」と呼ばれる習俗が集中しているという。
同書によると、民俗学の世界では一般におはまおりは、「神が禊(みそぎ)をして穢(けが)れを祓(はら)い、弱体化した霊力を再生させる祭り」と解釈されてきた。また、おはまおりは豊穣祈願を目的とする祭礼でもあるが、房総地域では、ハマの行事だからといって大漁祈願のみを目的にするのではなく、実際には相互依存の関係にあるオカ(陸地)とハマ(海)の民が共同で祭りを行うことで融和をはかり、大漁とともに陸地で行われる農業の豊作をも祈願するのだという。
実際、鷺沼でもかつては畑作、稲作が盛んに行われてきたというし、現在でも住宅地を縫うように、いくつかの畑地が残されている。また、地元の人に話によると、現在神輿の保管がされている根神社は、かつては漢字の表記が違ったようで(十二支の「子」を冠した「子(ね)神社」ではないかと推察される)、農業が盛んだからか、いつの頃か「根」神社という表記に変えられたのだという。嘘か誠か真偽は不明だが、半農半漁の村にふさわしいエピソードであると思う。
根神社の社務所に飾られた「おはまおり」の写真
鷺沼のおはまおりは、かつて秋の例大祭で行われた。鷺沼の神輿がいかに素晴らしいものであったか、当時を知る人の証言が、1973(昭和48)年刊行の郷土史『うつりかわる鷺沼 習志野市鷺沼地区の歴史と自然』に残されている。その中でも、三橋静江さんの証言を、少し長くなるが引用してみたい。
それはお正月にも増して楽しいものでした。大体が農家でしたので、家族みんなが参加できました。子どもたちのために、町の氏子総代(筆者注:現在の氏子総代によると「地元の名士」が正しいとのこと)が学校へ早びけのお願いに行って、帰してもらいました。
男の子も女の子もおしろいをつけて、しろたび、はちまき、はんてんで町中を山車を引いてまわりました。疲れてくるとおみこしの見物です。
昔の人は力がありました。今みたいに下にみこしを落としません。上へ持ち上げ、片手でおさえ、片手でみこしのすそをうちならすようすは、今でも胸がどきどきします。おなかがすくとおにぎりの接待が出、家へ帰るひまもありません。
最後の日の夕方ごろになると、みこしが海へはいります。まわりについているお飾りに、夕日が当たるときらきら輝き、なんともいえませんでした。
(安原修次 編『うつりかわる鷺沼』より)
根神社に残された神輿の古写真。神輿の前におしろいで化粧して、花笠をかぶった女性(女装した男性?)が並んでいる
本の中では、三橋さん以外にも、多くの方が鷺沼の神輿について言及し、神輿を担ぐ若者たちがいかに勇壮であったか、夕日に映える神輿がいかに美しかったかを熱を込めて語っている。そんな鷺沼の神輿であるが、1962(昭和37)年を最後に担がれていないのだという。秋の例大祭は神事としていまも毎年実施されているようだが、氏子総代や少数の関係者で行われる小規模なもので、かつてのような神輿や山車が出るような盛大な祭りではないようだ。
ではなぜ、神輿は担がれなくなったのか。1967年に海が埋め立てられたことと関係するのだろうか。実際、海の埋め立てによって、海上渡御ができなくなってしまったという事例は存在する(例えば、千葉県中央区の寒川神社の御浜下りは、昭和30年代後半に出洲海岸が埋め立てられたことにより、「御浜下り」が中断し、1999年に場所を変えて復活した)。そこまで考えたところで休憩時間が終わり、剣士たちは剣を手に、再び町へと繰り出した。
辺りが暗くなっても、すべての家を訪問するまで祭りは続く
その後も何度かの休憩を挟みながら、結局すべての家を周りきる頃には辺りがすっかりと暗くなっていた。昔は祭りの開始時間がもっと遅く、さらに深い時間まで祭りをしていたという。社務所に戻ると、そのままいきがかりで直会(なおらい)もご一緒させていただくことになった。ここぞとばかりに、昔の話なんかをいろいろと聞いてみる。
社務所で開かれた直会
例えば、とある男性からはこういう話があった。現在の剣祭りはお祓いを家の門口で行うことがほとんどだが、昔はどの家も廊下や部屋の中にムシロを敷いて、剣士たちを土足であがらせたというのだ。玄関から入った剣士たちは家の中を駆け抜けて、裏口から出ていく。これによって家全体が清められるというのだ。現在は時世の変化や、家の構造の変化によって、剣士を入れる家は一軒だけになってしまった。いまの年寄りが子ども時分には剣士たちに混じって一緒に家にあがろうと試みることもあった。バレたら大人に怒れられるのだが、それはスリリングで面白かったという。
「あとで子どもたち同士でね、今日は何軒の家に入ったって自慢し合うんですよ。それが楽しかった。あと大人たちについていくと、剣士のおじさんから塩むすびとかもらえるチャンスあって、それも楽しみだったね。夜は通りが暗くなるでしょ。そうすると子どもが“明かり取り”をすることがあった。剣士のために提灯を持って道を照らしてやるんですよ」
また、話題は先ほど見させていただい神輿の件にも話はおよんだ。なぜ、鷺沼で神輿が担がれなくなってしまったのか?
「俺たちの先輩がよくなかったんだよ」と、一人の男性は表情をくもらせる。先に紹介した『うつりかわる鷺沼』には、神輿に関して次のような証言が掲載されている。
海にみこしを出すのを連合町会長さんが警察で許可してくれると言ったので出したが、警察に持っていかれちゃった。警察では、一晩おいて返されたが。
(安原修次 編『うつりかわる鷺沼』より)
ちょっと拍子抜けしてしまうような話なのだが、神輿を渡御する際、道路使用許可の手続きに不備があったために、警察沙汰になってしまったようなのである。しかも、大事な神輿を没収されてしまうという失態も犯してしまう。いずれにしても埋め立てによっておはまおりがなくなってしまうのは時間の問題だったろうが、神輿の渡御自体がなくなってしまったのは、この事件が大きな要因となっているらしい。相原さんの話によると、鷺沼にはこの神輿のほかにも、小型の子ども神輿もあるそうなのだが、それも昭和50年代あたりを最後に担がれていないという。
教え子たちと行った、最後の潮干狩り
剣祭りは、私にとって忘れられない体験となった。これだけユニークな祭りでありながら、市の文化財などに登録されているわけでもなく、粛々と続けられてきたのがまたすごい。剣祭りについて書かれた史料は少なく、本当の由来もいまいちハッキリとしていない。ただ、いまの氏子総代たちの中では、戦中、祭りの担い手である男性がいなくなったため祭りを中止したところ災いが起こったという話が伝わっている。だから、祭りを止めてはいけないのだと。そこで気になるのが、コロナ禍においても剣祭りは続けられたのか?という疑問だ。
相原さんの話によると、やはり中止されることなく実施されたという。ただし無用な接触を避けて、2020(令和2)年はメインとなる厄払いは簡略化され、神事のみ行われた。しかし2年目以降には「やっぱり、剣祭りは家を回らないと」という意見が氏子総代の中で出てきて、コロナ対策をしながらも家回りが再開された。「(剣祭りをしないと、住民の)みんなが不安になるかもしれないと言いながらも、結局は自分たちが不安だったんだよね」と、相原さんは回想する。この「不安」というフレーズには、何層にも重なる感情のレイヤーがあるように、私には感じられた。
そして、もう一つ私の心を捉えたのは、神輿が海の中で揉まれる様子を写したあの古い写真だ。剣祭りの時も何度も通りがかった国道14号の向こうにかつては海があって、鷺沼の人々は海とともに生きてきた、そう考えるだけで何とも言えない感情に襲われる。失われた海の面影をもう少し追い求めてみたいと思った時、一人の男性が頭に浮かんだ。
鷺沼周辺地図。赤い線は国道14号線。左が1944~1954年頃、右が1998~2005年頃。埋め立て前、鷺沼の人にとって海は身近な存在だった
(「今昔マップ on the web」より)
先ほどから何度か紹介している郷土史『うつりかわる鷺沼 習志野市鷺沼地区の歴史と自然』の奥付に、編者である男性の連絡先が掲載されていたのだ。思い切って電話をしてみると男性本人が電話口に出た。この郷土史には、埋め立て前の鷺沼の生活を知る人々の貴重な証言が数多く掲載されている。どんな人がこの本を編纂したのか、興味があったのだ。「会って話を聞きたい」という旨を伝えると快くOKをいただけた。
『うつりかわる鷺沼』と、花の写真集の最新刊『天竜・浜名の野花』を手にする安原さん
男性の名前は安原修次さん、千葉県船橋市在住の御年88歳。映画『二十四の瞳』を見て教師の道を志ざし、千葉大学教育学部で教員免許を取得。48歳で退職するまで印旛、船橋、習志野の小学校で教員を務めた。教員を辞めてからは、かねてから興味のあった野生の花を撮影するカメラマンに転身。高度経済成長期の開発の中で消えていく野花を記録するために全国各地を奔走。最近は足を悪くして活動は中断されているようだが、現在までに30冊以上の花の写真集を残している。
「私が教員時代から徹底してやってきたのは、“記録”をするということなんですよ。そういう意味では花の撮影をすることも、郷土史を作ることも、自分の中では全部つながっているんですよね」と、安原さんは説明する。
1971(昭和46)年に鷺沼小学校に赴任してきた安原さんは、最初は地域の歴史を勉強するつもりで、録音機を持ってお年寄りたちに聞き取り調査をはじめた。生徒の父兄からも昔話を募るようになると、当初の計画よりも多くの記録が集まることになり、これをもっと多くの人に見てもらいたいと謄写刷の本にまとめることにした。
鷺沼の郷土史のみならず、千葉県市原市の郷土史や、地元群馬県中之条町で戦中に発生した「沢渡大火」についてまとめた本なども出版されている
安原さんは、2017(平成29)年に再販した新装版の後書きで、次のように書いている。
埋め立て前の鷺沼は、漁業関係で生計を立てている人が多かった。そして今よりずっと豊かな生活(経済的にはもちろん、精神的にも)をしていたことがわかった。子ども達は海で潮干狩、魚とりなど、自然にどっぷりつかって生活していた。(中略)今では、おとなでも海の記憶から遠のいてしまった。
(安原 修次 編『うつりかわる鷺沼』より)
「鷺沼は、昔は漁村だったんですよ。ただ、俺が鷺沼小学校に勤めた頃には、もう埋め立ても始まって、漁村の面影は残っていなかったですね。でも、まだ少しだけ“村”の感じはあったかな。例えば、あの頃はまだ茅葺の家が残っていてね。50戸くらいはあったかな。教え子の家にも茅葺があって、家の人に事情を説明して一軒間取りを調べさせてもらいました。暗渠化されてしまいましたが、村の中にメダカが泳ぐような小川も流れていましたね」
『うつりかわる鷺沼』で、とりわけ多くのページが割かれているのが「海」に関する証言だ。例えば、昔は鷺沼の海では地引網をすれば肥やしになるほどイワシが採れたという話、海の中にできた干潟でハゼ採りをしたという話、春休みや夏休みになると、友だちとバケツやざるを持って海に行き、持ち帰れないくらいたくさんのハマグリやアサリを採ったという話。
あさり漁をする漁婦(提供:習志野市教育委員会)
鷺沼の海は豊かで、海に行けばたくさんの海産物が採れたという。なかでもカイソ(貝類の総称)はよく採れた。鷺沼の海岸は遠浅の海で、沖合に行くほどいいものが採れたので、大潮の時は、だいぶ沖まで出かけたという。また、家庭で消費できない分は行商などをして、すぐ現金に変えることができた。剣祭りに関わる氏子総代の一人は「ここら辺の人は、いまだにお店でアサリを買うなんて馬鹿馬鹿しいと思っているの。それだけアサリがたくさん採れたんだから」と語る。
鷺沼海岸(提供:習志野市教育委員会)
また、海苔つくりも盛んに行われた。鷺沼の海苔養殖の歴史はそこまで古いものではなく、戦前に千葉県木更津市から技術が伝えられたらしい。海苔づくりは百姓仕事がひと段落する9月の彼岸頃から始まるため、時期的にもちょうどいい生業だった。しかし、冬の早朝に「べか舟」という小型の船に乗って海の上で海苔をとる作業は大変だったようで、手足の感覚がなくなるほどだったと、安原さんの本にも苦労話が残されている。
海苔養殖の様子(提供:習志野市教育委員会)
海と切り離せなかった鷺沼の生活も、埋め立てによって一変してしまう。埋め立ては数段階に分けて実施されたが、海とのつながりが完全に絶たれてしまう第二次埋め立て(1977年)が実施される際に、安原さんは教え子たちを連れて海へと行ったという。
「本の表紙になっている写真ね、これ教え子と潮干狩りをしているところなんですよ。袖ケ浦の第一団地、その脇の方はまだ埋め立てがやっと始まったときで、鷺沼小学校の最後の潮干狩りだということで生徒たちを連れて行ったんです」
『うつりかわる鷺沼』再版版の表紙には鷺沼小学校の最後の潮干狩りの写真が掲載されている
安原さんに引率されて潮干狩りに行った当時の子どもたちは、いまどこで何をしているのだろうか。あの日の潮干狩りのことは覚えているだろうか、そして鷺沼の海のことはいまでも記憶に残っているのだろうか。もし機会があるようなら、話を聞いてみたいとも思った。
意地でも誰かが祭りを続けていく
鷺沼から海のある生活は失われ、海で揉まれる勇壮な神輿の祭りも失われた。しかし、剣祭りは時代に合わせて変化を重ねながらも、粘り強く継続されてきた。最後に、後日あらためた相原さんにお時間をいただき、剣祭りの継承への取り組みについてお話を聞いてみた。
「10年くらい前までは、3月1日固定で祭礼を行っていたんですけど、たとえ祭りが平日になっても、学校がすごく協力的で、私が子どもの頃もそうだったんですけど、お前ら剣祭りだったら早く帰れって先生が言ってくれるんですよね。鷺沼で生まれた子どもなら、この祭りは絶対に参加した方がいいって、両親や祖父母からずっと言われて育ってきているから、そんなものだとみんな素直に受け止めている。それでも段々と、平日開催だと子どもが集まりづらくなってきたので、3月の第一土曜日に切り替えたんです。ただ、3月1日という日程はずっと堅持してきたものなので、変えるにあたっては、歴代の氏子総代に相談しましたよ。曰く、日付は変わっても神事の内容は変わらないので、特段問題ないだろうということでした」
お話を伺った氏子総代の一人、相原和幸さん
多くの子どもたちが祭りに参加できるよう日程を変えたほか、近年では小学校の地域学習のプログラムにも剣祭りが取り入れられているという。
「鷺沼小学校の子は、4年生で習志野市の伝統的なお祭りとして剣祭りのことを必ず習うんですよ。あとは校外学習みたいな感じで、先生が根神社に子どもたちを引率してきて、神社の歴史や剣祭りの歴史を習うということをやっています。だから新しく鷺沼に引っ越してきた家族の中でも、親は剣祭りのことを知らないのに、子どもが知っているということがあるんですよね(笑)」
剣士たちは毎年、参加者を一般から募っている。氏子総代のブログで呼びかけているほか、2024(令和6)年度は近隣の中学校で校内放送を通じて剣士募集を行った。相原さんら氏子総代のみなさんの啓蒙活動の甲斐があってか、私が二回目に見学に訪れた2024年の剣祭りでは地元の元気一杯の中学生が集まって、大いに祭りを盛り上げてくれた。
カメラに向かって歓声をあげて駆け寄ってくる剣士たち(2024)
お祓いをする剣士。若い人たちが奮闘する姿に、地元の人たちも元気付けられているようだ(2024)
「今回は本当にこの10年ぐらい私が見ている中で一番元気よかったです。例年、子どもたちは借りてきた猫のような感じで遠慮しがちに剣士をやるのが普通なんですけど、たまたま仲のいい友だちが集まったということで、団結力もあって、地域の人からの評判も良かったですね」
もちろん、明るい話題だけではない。剣祭りの運営を担う氏子総代メンバーの高齢化など、継承のための課題はさまざまにある。地域のための祭りとして未来に剣祭りを受け継いでいくためにはどうしていけばいいのか、氏子総代の中でもさまざまな議論があるようだが、相原さんの言葉はあくまで前向きだ。
「多分、この祭りをなくそうなんてことは誰も言わないと思います。意地でもみんなやると思いますよ。じゃないと今まで残っていないですよ。何百年と続く歴史ある伝統行事、やっぱり残さなくちゃいけないってみんな思ってきて今に至っているんだから。担い手が変わっても、絶対に代わりにやる誰かが出てくるんです」
開発はいまだ続いている
鷺沼の海が埋め立てられてから、60年近くがたとうとしている。その後、どのような歴史をたどったかというと、習志野の埋立地には大規模な集合住宅が造成され(1967年入居開始)、新しくできた袖ケ浦地区には約15,000人の新住民が移り住むことになった。『習志野市史 別編 民俗』によると、当初団地の新住民と鷺沼などに住む旧住民の間には緊張関係があったそうだが、PTA活動の共同や、節分など地区の行事を通じて、自然と融和が図られていったそうだ。
そして2024(令和6)年現在。鷺沼の景色はまた大きく姿を変えようとしている。今度はハマではなくオカの話だ。すっかり住宅地の様相を呈している鷺沼の町だが、実は鷺沼3丁目、4丁目、5丁目には、いまだ広大な農地が残されている(2024年時点)。実はこの地域、まもなく区画整理事業によって開発され、将来的には計画人口約6,800人の新都市が誕生することになっている。
鷺沼東部に残る広大な農地(2021)
相原さんの見立てでは、同じ鷺沼地区からの移転も多くいるだろうという。しかし東京近郊という好立地を考えれば、地区外からの移入者もそれなりの数になるのではないかと思われる。新住民が移り住んできた時、剣祭りはどのように受け入れられることになるだろうか。未来のことはわからないが、相原さんの言う通り、容易になくなることはないだろうという安心感はある。剣祭りは、鷺沼を厄災から守る守護の祭りとして、住民たちに復活を望まれてきた祭りなのだから。(了)
Text:小野和哉
プロフィール
小野和哉
東京在住のライター/編集者。千葉県船橋市出身。2012年に佃島の盆踊りに参加して衝撃を受け、盆踊りにハマる。盆踊りをはじめ、祭り、郷土芸能、民謡、民俗学、地域などに興味があります。共著に『今日も盆踊り』(タバブックス)。
連絡先:kazuono85@gmail.com
X:hhttps://x.com/koi_dou
https://note.com/kazuono
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