ベートーヴェンの「第九」――コロナ禍と、初版の出版【演奏しない人のための楽譜入門#14】


 かつて2018年に、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』に出演し、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱付き》――通称「第九」の解説をさせていただいたタイミングで、筆者はあることを調べました。一体、日本国内では12月に何回、「第九」が演奏され、何人ぐらいが合唱団の一員として歌っているのでしょうか。

 クラシック音楽のコンサート情報が最も集約されているフリーペーパー『ぶらあぼ』(2018年12月号)に掲載された公演を数えてみると、およそ180回の演奏が確認できます(載っていない公演もあるだろうと考えれば、約200回!?)。

 そして「1万人の第九」「5000人の第九」といった極端な例を含み、公演の8割はアマチュア合唱団が出演しているため、1公演100人以上が歌っていると考えられます(古楽系の演奏でプロの合唱団であれば、30名ほどの演奏も何とかあり得るが……)。つまり、延べ人数3万人ほどは12月に第九を歌っている概算となるわけです。こんな国は、ドイツ語圏を含めても、日本の他に存在しません。



コロナ禍の「第九」

 

 世界中のどの国よりも「第九」を愛する日本人は、合唱による飛沫が問題視される昨今でも、万全の対策を講じて12月に「第九」を演奏しようと、各所で準備が進められています。毎年、第九の特別演奏会を企画している(オーケストラ連盟に所属するプロの)オーケストラに加え、世界的な評価も高い古楽器オーケストラであるバッハ・コレギウム・ジャパンも12月27日に急遽「第九」の公演を行うことにするなど、コロナ禍でも「12月に第九」という風習は続いてゆきそうです。

 その先駆けとなったのが横浜のみなとみらいホールで、10月5日にはフランツ・リスト編曲のピアノ独奏版を若林顕が取り上げ、合唱も独唱陣もいない「第九」を演奏。そして11月10日には、渡辺祐介の指揮で古楽器によるオルケストル・アヴァン=ギャルドと合唱団クール・ド・オルケストル・アヴァン=ギャルドが「第九」を演奏しました。合唱はプロの声楽家が集まった28名(ソプラノ8名、アルト8名、テノール6名、バス6名)による少数精鋭で、一人ひとりをアクリルボードで区切って飛沫対策。これで演奏が実現できたのもプロだからであり、大人数を前提としたアマチュア合唱団による演奏が今年に限っては大幅に減ってしまうのは致し方ないでしょう。

 ちなみに、これまでアマチュア合唱団が「第九」を歌う上で重要なアイテムとなってきたのが、第4楽章だけを抜粋したピアノ・リダクションの楽譜です。特に国内の出版社から出された、初心者が演奏する上で役立つ情報を盛り込んだ楽譜が各社から出版されており、合唱団指定の楽譜を購入して、プロの指導をもとに譜読みと練習を重ねていきます。
 実は、こうした第4楽章だけを抜粋した国内版のほとんどは、ブライトコプフ&ヘルテル社が出版した楽譜(1864年/1930年/1964年)をもとにして、作られています。それは何故なのでしょうか? 第九の誕生と楽譜出版の経緯を、振り返ってみたいと思います。

 

「第九」の作曲

 

 そもそも「第九」が書かれるきっかけを作ったのは、ロンドンのフィルハーモニック協会だと言われています。現代ではオーケストラの名称として使われている「フィルハーモニック」「フィルハーモニー」という言葉の原義は「フィル(愛する)+ハーモニー(調和=音楽)」で、「音楽愛好家」という意味になります。フィルハーモニック協会は音楽愛好家(※プロも含む)の集まりで、演奏会を企画したり、新作を委嘱したりと、当地の音楽文化を振興するための団体なのです。

 1813年2月に設立されたロンドンのフィルハーモニック協会は、1815年5月にフェルディナント・リースをディレクターに任命します。リースは、ベートーヴェンと同じボン出身の作曲家・ピアニストで、ベートーヴェンの愛弟子として知られる人物でした。彼はフィルハーモニック協会の事業として、イギリス国外から優れた音楽家の招聘を企画します。そのうちのひとりがベートーヴェンだったのです。

 1817年6月にリースは、ベートーヴェンに手紙をしたためます。依頼は「次の冬のコンサートシーズンにロンドンに滞在して欲しいこと」「フィルハーモニック協会のために交響曲を2つ作曲して欲しいこと」「その交響曲はフィルハーモニック協会の所有物となること」「報酬は300ギニーで、契約すれば100ギニーを前払いすること」という内容でした。

 当時の1ギニーは、現在の通貨価値でいえば8000円強にあたるそうなので、およそ250万円で交響曲2曲とロンドン滞在という依頼になります(とはいえ、少なくとも「第九」のような巨大な作品は想定されていなかったと思われます)。この依頼に対し、ベートーヴェンは旅費として別途100ギニーを乗せるように要求。聴覚障害を抱えるため、旅には同伴者が必要という理由付けでした。

 しかし、結局はベートーヴェン自身の身辺事情や体調を理由に延期。ベートーヴェンは「ロンドンに行けるかどうかは体調次第。交響曲を1曲書くだけなら、いくら払えるか?」という主旨の手紙をリースに送り、「50ポンド支払うが、18ヶ月間は協会の専有物(=出版してはならない)とすること。提出期限は来年3月」という協会の会議を経た上での返答が1822年11月に届きます。当時の50ポンドは現在の紙幣価値で「40万円」ほどだといいますので、前回の金額よりも大幅に下がっていますが、ベートーヴェン自身はこの条件を飲みます。

 しかし提示された期限には間に合わず、代わりに《献堂式序曲》Op. 124をロンドンへ送って、18ヶ月の専有権を与えることで場つなぎ。締切から11ヶ月後の1824年2月になって、やっと完成にこぎ着けました。筆写譜を作成し、ロンドンに楽譜を送り出したのは同年4月だったにもかかわらず、理由は不明ですが届いたのは12月だった模様です。こうしてベートーヴェンはフィルハーモニック協会から50ポンドを支払われました。

 

演奏しない人のための楽譜入門(1)

▲ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年)
(出典:Wikipedia)

 

「第九」で稼ぐ

 

 たかだか40万円ほどで「第九」を売り渡したことに疑問を感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろんベートーヴェン自身も、これだけで終わらすつもりは毛頭ありません。当時のベートーヴェンは兄弟や秘書の協力も得ながら、出版の権利をなるべく高く売るべく、複数の出版社と交渉を重ねています。そのため、それまで契約のなかった出版社との関係も生まれたりしています。最終的に「第九」の初版を出したショット社もそのひとつです。

 ベートーヴェンが生まれた1770年、同じ年に創業したショット社は、1791年に《リギーニのアリエッタ〈愛よ来たれ〉による24の変奏曲》WoO65というベートーヴェンの初期作品を出版しているのですが、関係はそれっきり。ベートーヴェンがショット社と交渉するようになるのは、1819~23年にかけて作曲された《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》Op. 123以降のことです。

 この段階では7~8社目の交渉相手に過ぎませんでしたが、なんとショット社は《ミサ・ソレムニス》、《交響曲第9番》、《弦楽四重奏曲第12番》などと、同時期に書かれた作品をまるごと請け負うことになります。ベートーヴェンが提示した額はそれぞれ、《ミサ・ソレムニス》が1000グルデン(現在の紙幣価値で約90万円)、《交響曲第9番》が600グルデン(約53万円)、《弦楽四重奏曲第12番》が50ドゥカーテン(約20万円)となっていますが、前述したように「第九」にはロンドンのフィルハーモニック協会が18ヶ月間の専有していたため、出版はそれまで待たなければなりませんでした。そういったややこしい条件も飲んでくれたのがショット社だったわけです。「第九」完成の翌月、1824年3月には話がまとまっていました。

 とはいえ、ショット社側も体制が盤石ではなかったため、まずは《弦楽四重奏曲第12番》から順番に手掛けていくことになったのですが、出版にたどり着いたのは1826年3月のこと。「第九」の初版は1826年8月、《ミサ・ソレムニス》に至っては1827年4月のことになります。この間、ベートーヴェンはトラブルメーカーともいえる秘書シンドラーの助力もあって1824年5月7日、ロンドンより先にウィーンで「第九」の世界初演をおこないました。演奏会自体は成功といって良いものでしたが、ベートーヴェンが目論んでいたほど収益が上がらず、怒りを隠せなかったといいます。

 初演後の1825年1月に版下となる筆写譜をショット社に送り、やっと初版譜の作成が本格化するのですが、ベートーヴェンは校正作業を理論家・作曲家として知られるゴットフリート・ウェーバーに丸投げを目論むも、断られてしまいます。仕方なく作曲家自身によって校正作業がおこなわれたのですが、これが非常に中途半端なものとなってしまい、他の演奏譜との整合性がとれていなかったりと問題が山積みに。そのまま初版されてしまったために、非常にミスの多い楽譜となってしまったのです。こうした間違いを他の資料にあたりながら、丁寧に修正したのが前述したブライトコプフ&ヘルテル版(1864年/1930年/1964年)でした。
 

演奏しない人のための楽譜入門(2)

▲ゴットフリート・ウェーバー(1779-1839年)
(出典:Wikipedia)

 

 このブライトコプフ&ヘルテル版は、敢えてベートーヴェンが最初に書いた自筆譜に立ち戻ることをしていません。何故なら初演や初版をおこなう過程で、作曲家自身による修正が反映されているため、自筆譜に戻る必要はないと判断されたのです。ところが、実際には初演後の修正も自筆譜には反映されていることが分かってきたため、それらを反映したジョナサン・デル・マー校訂によるベーレンライター版(1996年)が登場。大きな衝撃をもたらし、「第九」の新しい解釈を生み出す上では必須の楽譜となっていったのです。

 

演奏しない人のための楽譜入門(3)

▲交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付き」/原典版/デル・マー編(ベーレンライター出版社)

 

 しかし、それでもなお、昔ながらの演奏スタイルを守り続ける指揮者はブライトコプフ&ヘルテル版や、それに準じる楽譜を現在でも使っています。それがアマチュア合唱団も使う第4楽章だけを抜粋した楽譜が、ブライトコプフ&ヘルテル版をもとにしている理由といえるでしょう。WEBで検索してみると、こうした楽譜の版の違いを細かく説明したサイトがいくつも出てくるはず。気になる方は是非探してみて、実際に聴き比べてみてくださいね。



(本記事は、2020年11月に執筆した記事を再掲載しています。)

 

Text:小室敬幸

プロフィール

小室敬幸

小室 敬幸

音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter):https://x.com/TakayukiKomuro

 

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