音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第7回は「活字から演奏は学べるか?」です。
指揮に関してもそうだし、教えることに関してもそうですね。こうあるべきだ、という型を用意していくんじゃなくて、何にも用意しないでいって、その場で相手を見て決めるというやり方です。相手がやっていることを見て、その場その場で対応していく。だから僕みたいな人間は教則本とか書けないですよね。相手が実際に目の前にいないと、言うことがないから
村上春樹 著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社,2011)
引用したのは、出典の書名からも分かるように指揮者・小澤征爾の言葉である。著者である作家・村上春樹が2011年に「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」を取材。その上でおこなわれた対談のなかでの発言だ。この直前には、スイスのアカデミーでの指導者のひとり、ジュリアード弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だったロバート・マン(1920〜2018)の教え方についてディスカッションされており、彼の指導法と自分は違う――という意味で先の発言がなされている。
そもそも「教則本」という言葉からどのような書籍をイメージするかには個人差があるのではないか? (クラシック以外の)ギターの教則本といえば独習向けを思い浮かべがちだが、ピアノの教則本となると、日本で長らく使われてきたバイエルも全音楽譜出版社から『標準バイエルピアノ教則本』というタイトルで出版されていたり、ピアノのレッスンで使われるエクササイズや初歩的な練習曲を指す言葉として用いられることも多い。
だが、今回取り扱いたいのは楽器の演奏法を学ぶ書籍ではなく、その先に位置しているどのように楽譜を読み解き、どのように演奏へ繋げたら良いのかを、書籍上の活字を通して学ぶことは出来るのかという問題だ。先ほど名前を挙げたロバート・マンの指導について、村上と小澤は「自分のメソッドを持った人」だという見解で一致しているが、そういうタイプの指導者であっても教則本的な著作にまとめるとなると、おそらくは『シモン・ゴールドベルク講義録』(幻戯書房,2010)のようなものになるであろう。
これは20世紀を代表する偉大な音楽家のひとり、シモン・ゴールドベルク(1909〜1993)が晩年に桐朋学園大学の学生を対象におこなったヴァイオリンの公開レッスンをまとめたもの。だが書籍本体よりも8枚も付属しているDVDが結局のところメインといえるので、今回のテーマには該当しない(それに同様のマスタークラスの録音や録画は、かなり古くから遺されているので決して珍しくない)。あくまでも紙の上の文字を通して演奏を高められそうな書籍をいくつかまとめてご紹介したい。
『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』
まず、ひとつめの候補として挙げたいのは、少し古いが『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』(春秋社,1998)である。著者の大村哲弥(1951〜2008)は学生時代に玉川大学とウィーン音楽大学で学び、ベルリンではユン・イサンとカン・スキに師事した作曲家。生前は尚美学園大学の教授を務めていた(弟子には吹奏楽の分野で活躍する坂井貴祐がいる)。
この『演奏法の基礎』は「メトリーク」「拍子とリズム」「和声」「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」「楽曲とリズム構成」「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」という全6章の段階を重ねていくことで、演奏に必要な楽曲分析をおこなえるように導くことを目指している。
楽譜上の音符が実際の音となった瞬間に生じてくる性質を学ぶ前半3つの章のあとに続く、第4章「聴覚反応と演奏法 認知心理学的考察」は本書のなかで最もチャレンジングな試みで、簡単にいえば、聴き手にどう聴こえるかという目線(耳線?)から、どのように演奏すべきかを考えるという内容なのだ。それは通常、レッスンや本番を重ねるなかで感覚的に身につけていくスキルともいえるが、本書では徹底的に言語化しようとしている。続く第5章「楽曲とリズム構成」と第6章「楽曲分析 演奏へ向けての総合分析」では、具体的な楽曲を細かく読み解きながら、そのなかで前章までで学んだ要素が複数絡み合っていく際にどう考えていくかもしっかりと示されていく。
語弊を恐れずに言えば、書かれている内容すべてを盲信する必要はない。だが、自らの演奏について自覚的に振り返る際や、教える際にどう言語化すべきかを悩んでいるのなら、沢山のヒントが見つかる1冊だ。
『楽譜を読むチカラ』
次の候補として挙げたいのは、ゲルハルト・マンテル著/久保田慶一 訳『楽譜を読むチカラ』(音楽之友社,2011)である。ゲルハルト・マンテル(1930〜2012)はフルニエ、トルトゥリエ、ナヴァラ、カザルスといった伝説的巨匠に師事したチェリストで、若い頃にはケルンWDR交響楽団で首席奏者として活躍。1973年からはフランクフルト芸術大学で本格的に教育活動に従事した。
ドイツ語による原著『Interpretation. Vom Text zum Klang.(直訳すれば『解釈(=演奏) テキストから音へ』)』の出版は2007年なので、2012年に亡くなったマンテルにとって教育者としての集大成にあたる著書だ。それ以前にもチェロの教則本などを複数出版しているが、本書は原著のサブタイトルからも分かるようにテキスト(=楽譜)から音に変換する際に、どのような事柄に注意をはらい、考えなければならないのかを17の項目(「演奏に必要なのは直感か頭脳か?」から「自分らしい演奏を求めて」まで)に分けて論じている。
マンテルの基本的な考えは「はじめに」で語られている「インスピレーションと分析は相互に補い合うのです。演奏と密接に結びつくことで、音楽をより高いレベルで経験できる道が見えてくるのです。そしてこの道を探し求めることによって、目的そのものが広がり、また新たな目的が得られるのです」に表れているだろう。
先に紹介した『演奏法の基礎』は著者の大村が作曲家であったため、徹底して作品を軸にしていたのに対し、マンテルの『楽譜を読むチカラ』は演奏者側の視点にたってどのような幅で裁量があると考えればいいのか? 作曲家や作品の様式を尊重しつつも、どうやって自分らしい演奏をすればいいのか? そのプロセスを丁寧に言語化してくれている1冊だ。
『楽譜から音楽へ バロック音楽の演奏法』
続いての候補――というか他の書籍と共にお読みいただきたいのが、バルトルド・クイケン著/越懸澤麻衣 訳『楽譜から音楽へ バロック音楽の演奏法』(道和書院,2018)である。古楽(器)やピリオド奏法などと呼ばれることも多いHIP(Historically Informed Performance 過去に関する知見を活かした演奏)について解説した書籍は日本語でも少なくない数が出版されているけども、今からまず1冊となれば本書を推したい。
著者のバルトルド・クイケン(1949〜 )はフラウト・トラヴェルソ奏者の第一人者。長兄ヴィーラント(ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ奏者)、次兄シギスヴァルト(ヴァイオリン奏者、指揮者)と共にHIPを世界に広めた功労者のひとりだ。そんなバルトルドが2013年に著した『The Notation Is Not the Music: Reflections on Early Music Practice and Performance(直訳すれば『楽譜は音楽ではない:古楽の実践と演奏についての考察』)』は、その原題にもほのめかされているように演奏する際に楽譜からの情報だけでは不十分であることを第1〜3章で教えてくれる。
その上でメインコンテンツとなるのが18の項目に分かれた第4章「楽譜とその解読、演奏」で、楽譜と向き合うだけでは不十分なポイントを簡潔に解説してくれている。本書ですべてが学べるわけではないが、日本語訳でも読みやすさが大事にされている、HIPの入り口としてこれ以上のものはないといえる。古楽器を演奏するわけでなくとも、楽譜の読みに幅がうまれるので是非とも多くの演奏家に読んでいただきたい1冊だ。
『音楽家を成長させる「教える技術」~相互に高め合う演奏と教育のアプローチ~』
さて最後に、少し違う角度からの候補として紹介したいのが、ローリー・スコット、コーネリア・ワトキンス共著/久保田慶一 訳『音楽家を成長させる「教える技術」~相互に高め合う演奏と教育のアプローチ~』(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス,2022)である。タイトルから分かるように、指導者としてのスキルを伸ばすことを主目的とした書籍だ。
そもそも先に紹介した『演奏法の基礎 レッスンに役立つ楽譜の読み方』も『楽譜を読むチカラ』も、著者が教育者・指導者としての試行錯誤を繰り返してきた経験をもとに書かれていた。演奏家は自身が学んできたことを必ずしも言語化できるわけではないが、自らが教える立場になった際にどうしたら伝わるのかを考えるようになり、自分自身がどのように演奏していたのかをようやく自覚することも珍しくない。古くから言われてきた「教えることは学ぶこと」とは、このようなプロセスを指しているのだろう。
なので『音楽家を成長させる「教える技術」』は新たな楽譜の読み解き方や演奏解釈の方法を学べるというよりも、自分自身がこれまで学んできたことの言語化をサポートしてくれる。自分は何が得意・不得意なのか? 自分がどんな教育を受けてきたのか?……を振り返ることで、今後進むべき道も見えやすくなるはずである。特に訳者が同じである『楽譜を読むチカラ』との相性が良さそうだ。
今回は「作曲家」「演奏家(モダン楽器)」「演奏家(古楽器)」「指導者」という異なる視点で書かれた、活字(紙の上の文字)を通して演奏を高められそうな書籍を4冊取り上げた。内容は異なっていても、これらから学べることは、よくある楽器のレッスンで身につけづらい事柄が多いように思われる。大事なのは楽譜を読み解く多様な視点を獲得できるように、学び続けることなのだ。
(本記事は、2023年2月に執筆した記事を再掲載しています。)
Text:小室敬幸
<今回の紹介書籍>
『楽譜を読むチカラ』
(音楽之友社刊)
ゲルハルト・マンテル著 久保田慶一訳
初版刊行日:2011年11月
判型:A5判
定価:2,600円+税
ISBN:978-4-27610-151-7
https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=101510
『楽譜から音楽へ バロック音楽の演奏法』
(道和書院刊)
バルトルド・クイケン著 越懸澤麻衣訳
初版刊行日:2018年1月31日
判型:四六判
定価:2,300円+税
ISBN:978-4-8105-3001-8
https://www.douwashoin.com/楽譜から音楽へ/
『音楽家を成長させる「教える技術」~相互に高め合う演奏と教育のアプローチ』
(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス刊)
コーネリア・ワトキンス/ローリー・スコット著 久保田慶一訳
初版刊行日:2022年1月26日
判型:B5判
定価:2,700円+税
ISBN:978-4-6369-7234-4
https://www.ymm.co.jp/p/detail.php?code=GTB01097234
プロフィール
小室 敬幸
音楽ライター/大学教員/ラジオDJ
東京音楽大学と大学院で作曲と音楽学を学ぶ(研究テーマはマイルス・デイヴィス)。現在は音楽ライターとして曲目解説(都響、N響、新日本フィル等)や、アーティストのインタビュー記事(レコード芸術、intoxicate等)を執筆する他、和洋女子大学で非常勤講師、東京音楽大学 ACT Projectのアドバイザー、インターネットラジオOTTAVAでラジオDJ(月曜18時から4時間生放送)、カルチャースクールの講師などを務めている。
X(旧Twitter):https://x.com/TakayukiKomuro
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