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楽譜を通して、歴史にその名を轟かす偉大な演奏家の解釈を学ぶ ~正しい楽譜が、唯一の正義なのか?~【演奏しない人のための楽譜入門#08】

楽譜を通して、歴史にその名を轟かす偉大な演奏家の解釈を学ぶ ~正しい楽譜が、唯一の正義なのか?~【演奏しない人のための楽譜入門#08】

これまでの連載のなかで、何度か「原典版」の話題を取り上げました。いま一度、残された資料を創作や受容の過程を含めて整理し、出版後におこなわれた修正・改訂も含めて、作曲家が意図した最終的な完成形を正しく反映した楽譜を出版しようというのが、原典版の目指すところです。演奏の際には原典版を使うべきだ!……という意見が現在では主流になりつつありますが、ある意味でその真逆をいくのが、いわゆる「解釈版」と呼ばれる楽譜。先月の記事で取り上げたコルトー版も代表的な例のひとつですが、それ以上に深く浸透したのがインターナショナル・ミュージック社による出版譜でした。   日本では単にインターナショナル版、あるいは略してインター版なんて呼ばれることもありますが、正式にはインターナショナル・ミュージック・カンパニー(略称 IMC)という1941年にアメリカで設立された出版社です。日本語に訳した時に混同されてしまいそうなインターナショナル・ミュージック・パブリケーションズという企業もありますが、こちらはイギリスで設立されたワーナー・ブラザース系の出版社なので全くの別系列になります。 インターナショナル・ミュージック・カンパニーを立ち上げたのはエイブラハム W.ヘンドラー Abraham W. Haendler (1894頃~1979)という人物で、経営だけでなく、マーラーの楽譜を出版する際にはドイツ語の楽語*1を英語に翻訳したりもしているようなのですが、いずれにせよ資料が少なく、詳細は不明。亡くなるまで、この出版社の経営を続けました。そして彼の死後は、フランク・マルクスという人物が会社を継ぎ、ボーン音楽出版社 Bourne Co. Music Publishers(「ホワイトクリスマス」などの名曲で有名なアーヴィング・バーリンらによって設立)の子会社となって現在に至ります。 *1……音楽用語のこと   ▲アーヴィング・バーリン(1888~1989)     ヘンドラーの経営方針は、作曲家の新作を手掛けるというよりも、既にある程度知られた楽曲のアメリカ国内版や、原曲とは異なる編成のアレンジを手掛けることにあったようです。様々な楽譜が出版されましたが、ボーン社の傘下となっている現在の公式サイトをみると、次のような売り文句が書かれています。   私たちの〔楽譜の〕編集者は、あらゆる音楽分野における世界で最も卓越した演奏家や、一流交響楽団の楽団員、教育者、教師と、それぞれの分野で著しく有名な顔ぶれを揃えています。彼らの貢献により、IMC版は音楽界にとってかけがえのない存在となっているのです。 どういうことかといえば、卓越した演奏家や、優秀な弟子を輩出する教育者が楽譜の編集者を務めることで、彼らの演奏や指導の秘密の一端を今からでも学ぶことが出来るのです。それこそがインターナショナル・ミュージック・カンパニーの楽譜が現在でも愛用されている理由なのです。 この出版社と最も深い関係にあった演奏家のひとりがジノ・フランチェスカッティ(1902~1991)――イタリア系のフランス人ヴァイオリニストでした。フランチェスカッティの父は、パガニーニの孫弟子にあたる人物であり、彼自身もその教えを継いだパガニーニ弾きとして知られています。パリ時代にはフランスの大ヴァイオリニストであるジャック・ティボーに師事したり、ラヴェルの弾くピアノとも共演したりと、若い頃から偉大な音楽家から薫陶を受けています。転機となったのは1939年、第二次世界大戦を避けてアメリカに移住したこと。同じ年にアメリカへと逃れてきた大指揮者ブルーノ・ワルターとも度々共演し、とりわけモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集の録音は、史上最高の名演のひとつとされています。 どういう経緯があったかは不明ですが、確認できる範囲で早い時期にフランチェスカッティが編集に携わったのは1954年のショーソン《詩曲》でした(※なお、シベリウス《ヴァイオリン協奏曲》の楽譜には1942年&1964年とクレジットされていますが、1942年の方にフランチェスカッティは関わっていない模様です)。その楽譜にはどのような特徴があるのでしょうか? ヴァイオリンなどの擦弦楽器(弓で弦を擦ることによって音を出す楽器)の楽譜は、スラー(音符から音符にかけられた曲線)のかけ方によって、弓をどこまで折り返さずに演奏するのか(これをボウイングもしくは運弓といいます)を指示しています。作曲者のショーソンはピアノを演奏しましたが、ヴァイオリン弾きではなかったからでしょうか。全体的な傾向としてスラーが長め。いわゆるフレージング・スラー(運弓ではなくフレーズ感を示したスラー)と呼ばれるような、弦楽器奏者がそもそもから考え直す必要があるようなスラーの付け方になっているのです。 それに対し、フランチェスカッティの編集が加わった楽譜(公式サイトに楽譜のサンプルがあるので、必要があれば参照してみてくださいね!)は、スラーが付け直されているだけでなく、どこで上げ弓、下げ弓にするのかという指示も適宜書かれていたり、使用する弦やフィンガリング(指使い)も細かく書き込まれています。これらは本来、演奏者が練習するなかで自ら判断し、書き込んでいく内容ですから、通常は弟子入りでもしない限り、見せてもらえません。いわば一流企業が企業秘密の一端を公開するようなものと考えれば、ヴァイオリニストにとってどれほどインパクトがある存在か、感じていただけるのではないでしょうか。   ▲詩曲 Op.25/フランチェスカッティ編 ショーソン,...

武満徹は、いかにして「世界のタケミツ」になったのか? ~出版社との関わりから読み解く~【演奏しない人のための楽譜入門#07】

武満徹は、いかにして「世界のタケミツ」になったのか? ~出版社との関わりから読み解く~【演奏しない人のための楽譜入門#07】

クラシック・現代音楽の日本人作曲家のなかで、欧米においてその才能を認められただけでなく、現在もレパートリーとして広く定着しているのが来年2月に没後25年をむかえる武満 徹(1930~1996)です。音楽の教科書にも載っている代表作《ノヴェンバー・ステップス》をはじめ、その作品の多くが海外の出版社から販売・レンタルされている武満。彼の出世街道を、出版社との関わりという観点から眺め返してみましょう。   現在確認できる範囲で最初に出版された武満の楽曲は、1958年に作曲された弦楽八重奏曲《ソン・カリグラフィⅠ》です。この作品は、音楽評論家の吉田秀和を所長とする「20世紀音楽研究所」が主催する作曲コンクールで第1位とともに、フランス大使賞と音楽之友社出版賞を受賞しました。後者の副賞は、その名前からして明らかに音楽之友社(1941年創業)がこの作品の楽譜を出版するという内容だったと思われます(実際、武満とともにこのコンクールで賞を獲った松下真一の《8人の奏者のための室内コンポジシオン》は、1958年に音楽之友社から出版されています)。しかし《ソン・カリグラフィⅠ》は音楽之友社ではなく、フランスの出版社サラベールから楽譜が出されていました。おそらくは、もうひとつ副賞として獲得した「フランス大使賞」の繋がりだったのだと思われます。   ▲武満 徹(1930~1996)   1970年代のサラベール社   もともとサラベール社(Editions Salabert)は、19世紀後半にエドゥアール・サラベール(1838~1903)によって立ち上げられ、彼が体調を崩したあとは息子のフランシス(1884~1946)に引き継がれた出版社です。シリアスな音楽ではなく、昔風にいえば軽音楽(ライトミュージック)を中心に取り扱ったため、フランス版のティン・パン・アレイともいえるでしょう。オペレッタ(喜歌劇)やミュージカルで歌われるような楽曲の楽譜の販売により、経済的な成功をおさめています。 そうしたお金を元手にして、1920年代からサラベールは出版社の買収を開始。そのなかにはフローラン=シュミット(1870~1958)、ラヴェル(1875~1937)、ミヨー(1892~1974)といった作曲家の作品をいくつか出版していたA.Z.マトー社をはじめ、それまで自社では大きく取り扱ってこなかったシリアスなクラシック音楽の楽譜を取り扱う出版社が含まれていました。こうしてサラベールは、買収した出版社と契約をしていた存命中の作曲家の楽譜も出版しはじめるようになるのです。 この時期は、前述したミヨーを含む、いわゆるフランス六人組の作品に加え、フランスと縁の深いスペインの作曲家モンポウ(1893~1987)、そしてピアニストでパリ音楽院の教授であったアルフレッド・コルトー(1877~1962)が編集をおこなったロマン派のピアノ曲を主に出版していました。この「コルトー版」といえば、本連載でも以前に取り上げたショパンのエディションが有名ですが(※)、他にもシューマン、リスト、メンデルスゾーンなども手掛けており、基本的にその時代時代の新しい音楽を出版していたサラベール社にとっては、新たな金脈となったであろうことが想像されます。   >関連記事(楽譜入門#3)はコチラ   ▲アルフレッド・コルトー(1877~1962)   ところがフランス六人組以降、次に続くフランスの若い世代の作曲家とは蜜月関係を築くに至らず、例えばジョリヴェ(1905~1974)やメシアン(1908~1992)の楽譜は単発での出版に留まってしまうのです。そして創業者の息子フランシスが1946年に亡くなり、彼の妻ミカが経営を担うようになると、新たな方向へかじを切ります。というのもミカ・サラベールは後の1981年に作曲家を支援する財団を立ち上げたほど、現代音楽に深い理解を示した人物だったのです。1960年代後半からはクセナキス(1922~2001)、1980年代からはアペルギス(1945~ )やシェルシ(1905~1988)と、アカデミックな正統な路線から外れたフランス人以外の作曲家と契約を結んでいます。実は、この路線の先駆となったのが1958年から1990年にかけて断続的に出版された武満徹だったのです。 ただし1960年代に関しては、1962年に出世作《弦楽のためのレクイエム》(1957)を含む6つの作品が出版されただけで、他の作品は音楽之友社から3作品、ドイツのペータースから3作品(なお、ペータースは1950年代後半から黛敏郎の楽譜を出版していました)から出されています。ところが1970年代になると、ペータース(1作品)とオーストリアのウニヴェルザール(2作品)といったような一部の例外を除き、武満作品はサラベール社から出版されていきます。おそらくは1967年にニューヨーク・フィルからの委嘱作《ノヴェンバー・ステップス》が成功したあたりから、海外からの委嘱が増えていったこととも呼応しており、武満の国際化が進んだ証左といえるでしょう。   ▲弦楽のためのレクイエム(Editions Salabert)   ▲ノヴェンバー・ステップス(C. F. Peters Musikverlag)...

新しいレパートリーを広め“現代”の作曲家を支援する出版社ブージー&ホークス【演奏しない人のための楽譜入門#06】

新しいレパートリーを広め“現代”の作曲家を支援する出版社ブージー&ホークス【演奏しない人のための楽譜入門#06】

前回の連載で世界最大の楽譜出版社について取り上げましたが、クラシック音楽に特化した出版社のなかで最大の規模を誇るのがブージー&ホークス。1760年代に起源をさかのぼりますが、現在の社名になったのは1930年のことです。そこから100年も経たないうちに、現在のポジションを築くに至った経緯に今回は迫ってみましょう。キーワードになるのは「現代の作曲家」です。   ブージーとホークス、2つの出版社が合併するまで   起源は1760年代にジョン・ブージーがロンドンで立ち上げた貸本屋にあります。1792年にジョンの孫であるトーマスがビジネスを拡大。廉価版の楽譜を充実させることで事業が成長し、19世紀になりビクトリア朝時代に入ると当時人気を博していたロッシーニなどのイタリアオペラの楽譜をイギリスで出版して成功を収めます。ところが1854年に諸外国と英国間における著作権に関して条約が結ばれ、それにより外国の人気楽曲が出版出来なくなってしまうのです。 この窮地を救ったのが、まずは1851年から新規参入していた管楽器の製造。そして1876年から始まった「ブージー・バラッド・コンサーツ」(ロンドン・バラッド・コンサーツと題された場合も……)が大きな役割を果たしました。これは当時流行していたプロムナード・コンサート(いわゆる名曲コンサートのようなビギナーでも楽しみやすい演奏会)の亜種ともいえるものです。 ウェールズ、スコットランド、北アイルランドを含むイギリスの作曲家が書いた親しみやすい歌――例えば民謡、賛美歌、アーサー・サリヴァン(1842~1900)が作曲したオペレッタの人気曲など――の楽譜を売るために、そうした楽曲を有名歌手が歌うコンサートシリーズを開催しました。この目論見は大成功を収め、1933年まで続いていきます。また、エドワード・エルガー(1857~1934)やフレデリック・ディーリアス(1862~1934)やレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)といった20世紀初頭のイギリスで人気を博した作曲家とも契約を結び、バラッド・コンサーツの演目に加えたりしつつ、また彼らのオーケストラ作品なども出版するようになりました。 一方、軍楽隊を引退した優秀なトランペット奏者ウィリアム・ホークスが1865年に設立したホークス社は、軍楽隊の楽譜や楽器などを主に取り扱う会社として始まりました。吹奏楽や管弦楽のスコアの出版を手掛けているという意味ではブージー社と長らく競合関係にありましたが、1930年に両社は合併することになります。きっかけとなったのは、当時両社の責任者だったレスリー・ブージーとラルフ・ホークスが、演奏権利協会(Performing Right Society/現:PRS for Music ※イギリスにおけるJASRAC的な存在)の理事会メンバーとして出会ったことでした。こうして現在知られるブージー&ホークスという社名が生まれます。   社の方針はどのように生まれたのか?   時代が前後してしまいますが、ブージー社は合併前の1892年にニューヨークオフィスを構えていました。こうした国際路線が1930年の合併後、一気に進むことになったのは時代背景も絡んでいます。1938年にナチス・ドイツによってオーストリアが併合されたため、ウィーンの出版社ウニヴェルザール(英語読みだとユニヴァーサル)で働いていた優秀なユダヤ人編集者がロンドンに逃れ、ブージー&ホークスに務めることになったのです。そしてウニヴェルザールで取り扱っていたグスタフ・マーラー(1860~1911)、ベーラ・バルトーク(1881~1945)、ゾルターン・コダーイ(1882~1967)といった作曲家の代理店となったり、新しく契約を結んだりしました。1943年にはリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)とも契約をし、主に晩年の作品を出版しています。   ▲リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)   そして1947年には指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951)が立ち上げたロシア出版社(Éditions Russes de Musique)などのカタログが加わることになり、セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)の有名な傑作を手掛けるようになります。この中にはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ストラヴィンスキーのバレエ《ペトルーシュカ》《春の祭典》、プロコフィエフの交響曲第1番《古典》、ラヴェル編曲のムソルグスキー《展覧会の絵》といった今もオーケストラの中核レパートリーとなっている人気楽曲が含まれているのですから、いかに大きな出来事だったのかお分かりいただけるでしょう。   ▲イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)   こうして、20世紀に活躍する作曲家たちが出版リストの核を担うようになり、ブージー&ホークスという出版社の方向性が決まっていくのです。他にも1935年、当時まだ22歳の若手だった自国イギリスのベンジャミン・ブリテン(1913~1976)を青田買い。そして戦時中には、アーロン・コープランド(1900~1990)がアメリカ人として初の契約に至ります。第二次世界大戦後になると、ここにレナード・バーンスタイン(1918~1990)、エリオット・カーター(1908~2012)、スティーヴ・ライヒ(1936~ )、ジョン・アダムズ(1947~ )といったアメリカを代表する作曲家が加わるのです。...

世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

山葉寅楠(1851~1916)によって創業された日本楽器製造株式会社が、ヤマハ株式会社に社名変更したのは創業100周年を迎えた1987年のこと。130年以上の歴史のなかで、誰もが認める大企業となり、世界的に見てもこれほど手広く楽器制作を手掛け、評価を勝ち得ている会社はヤマハをおいて他にありません。 ヤマハが世界最大の楽器メーカーであることは日本で多くの方々に知られているかと思いますが、「世界最大の楽譜出版社は?」と聴かれると、意外に音楽愛好家の方でも答えられない方が多いのでは?……その答えは、アメリカの ハル・レナード社となります。   Sheet Music StoreやAmazonなどで「Hal Leonard」とアルファベット表記で検索してみると、その理由の一端がご理解いただけるでしょう。数千~数万の検索結果が表示され、多岐にわたるジャンルの広さは他の追随を許しません。 まず目に入ってくるのはディズニー。実はハル・レナード社はディズニーの楽譜を北米で独占的に出版しています。日本でも英語の歌詞がメロディに振られたディズニーの楽譜を買おうとすると、ヤマハが発売している楽譜でも、実はハル・レナードから権利を取得して発売していたりするのです。 その他にはジャズ、ロック、ミュージカルあたりがハル・レナードの中心となる分野となりますが、スコア(総譜)のような、その楽曲を構成する全てのパートが網羅された楽譜は少なめ。主となるのは、趣味として人気の楽曲をピアノやギターで弾きたい!……というような人に向けた、取り組みやすい楽譜です。更に音数を減らした、ごくごく初心者でも挑める「Easy」や「Five-Finger」と銘打たれたバージョンなども出版されています。 「Five-Finger」というのは、両手の10指を指定した箇所の鍵盤の上に置くと、そこから移動することなく1曲演奏が出来るという簡素なバージョンのこと。演奏というと、楽譜が読めて、楽器が弾けて……と、とかくハードルが高いものだと思われがちですが、ハル・レナード社の楽譜は徹底して、初心者に寄り添おうとしています。 それもそのはず、ハル・レナード社は自社を「世界最大の音楽教育出版社」と呼んでいるのですから。楽譜以外にも「Guide」「Method(メソード)」と銘打たれた教則本もたくさん出版していますし、気軽に本格的な音楽演奏体験が出来るCDの伴奏音源付き楽譜も数多く出されています。また、ジャズをやろうとするなら必携の『The Real Book』(ジャズ・スタンダードのメロディ譜集)は本来、1970年代に非正規の楽譜として流通したものですが、きちんと著作権の問題をクリアした正規版が現在、ハル・レナード社から出版されているのです。   ▲『The Real book』   いかにして、ハル・レナード社は世界最大の楽譜出版社となったのか? どういう経緯で、ハル・レナード社が現在の地位を築くことになったのか、設立からの歴史を辿ってみましょう。   ▲ハロルド・“ハル”・エドストローム Harold "Hal" Edstrom(1914~1996)とエヴァレット・“レナード”・エドストローム Everett "Leonard" Edstrom(1915~2000)  ...

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

現在の出版譜は、コンピュータ上で「Finale(フィナーレ)」に代表されるような浄書ソフトを用いて作られるのが一般的ですが、それ以前は当然、手作業で作られていました。例えば、1948年にギュンター・ヘンレ(1899-1979)が創業した Henle Verlag(ヘンレ社)では、1990年代後半までエングレービング(金属版画の彫刻凹版技法)で印刷譜を製作していたといいます。この職人技を後世へと語り継ぐため、ベテラン職人のハンス・キューナー氏による貴重なデモンストレーション映像(2007年収録)が、ヘンレ社 のYouTube公式チャンネルで公開されていますのでその映像をご紹介するとともに、かつてどのように楽譜が作られていたのか、みていきましょう! 題材となるのはフランツ・リストが作曲したピアノ曲《愛の夢第1番》です。   【①00:46~】まずは「五線 staff lines」を削っていきます。もちろん事前に、上下にどのくらいの間隔で線を引くべきかを決めた上で削っていますよ。 【②01:03~】「拍(音符)beats」を置く位置の下書きをしていきます。テロップに出ている「marking off」は、日本語で「けがき」と訳され、その後の作業の基準となる線を引くことを指し、ピンセットのような器具をクルクルと回しながら距離を測っていきます。 【③01:20~】先程下書きした音符の位置に合わせて、縦のガイドラインを引いています。後に登場しますがこのぐらいの浅く引く線は、印刷に反映されません。 【④01:30~】鉛筆で音符を下書きしていきます。もちろん版画ですので、最終的なプリント結果とは左右が入れ替わった形で書き入れています。   ※この譜例はライターによって制作されたものです。   【⑤01:48~】「ブレース brace」と呼ばれ、大譜表をまとめる記号“{”を書き入れます。本来の意味での「活字 type」(活版印刷で枠に並べる文字)がスタンプのようになっていて、ハンマーを用いて彫っていきます。 【⑥02:06~】同様に、ト音記号などの「音部記号 clef」、その右側に調性を決定する「調号 key」、更にその右側に○分の○という形で「拍子記号 time signature」も彫っていきます。 【⑦02:22~】「符頭 noteheads」――いわゆるオタマジャクシの頭の部分を、鉛筆の下書きに合わせて彫っていきます。そして作業風景を引いた映像で映す場面では、これほど沢山の活字スタンプを使いこなしていたことがうかがえますし、彫っている映像を確認できる場面では③で弾いた縦のガイドラインに合わせながら作業していることが確認できますね。 【⑧02:46~】金属板にかかったテンションを、裏側からハンマーで叩くことで緩和しています。⑦のように彫っていくと、段々と金属板がゆがんでしまうのですね!最終的に美しい楽譜を仕上げるためには、こうした細かい配慮も必要なのです。 【⑨02:56~】今度は「休符 rests」を彫っていきます。なお、映っているのは8分休符になります。 【⑩03:09~】もう一度「五線...

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本連載の第2回「なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?」では、“正しい楽譜”を出版するというのは案外と難しいことなのだ……という話をいたしました。作曲家の意図を正しく再現しようとした「原典版 Urtext」が、現代ではファーストチョイスとして推奨されていますが、「原典版」以外の楽譜は手に取る必要がないのでしょうか? 今回は有名作曲家のなかでも特に、多種多様な楽譜が出版されているショパンに焦点を合わせ、“本当に正しい楽譜の選び方”を考えてみたいと思います。   ショパンの肖像画   そもそもショパン(1810~49)の楽譜が抱える最大の問題点は、作曲者の生前に楽譜が出版される際、同時期にフランス、ドイツ、イギリスの3国で別々の会社が出版をおこなったため、3つの版のあいだに細かい違いが生まれやすかったのです。同時並行的に作られているため、3つの版のなかでどれをより“正しい楽譜”であるとするか判断すること自体も難しくなっています。 その上、ショパンは弟子のレッスンのなかで日常的に、楽譜に音の変更を加えることがしばしばありました。もし、それを“改訂”とみなすならば、原典版に反映させなければなりません(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米屋治郎/中島弘二訳『弟子から見たショパン そのピアノ教育法と演奏美学』に、様々な事例が書かれている)。 ショパンの死後に出版された作品については、同門の友人で雑用係を務めたユリアン・フォンタナ(1810~69)が勝手に音を変えてしまっている(!)という問題もあります。ショパンが如何に原典版を出そうとする出版社泣かせの存在であるかがお分かりいただけるでしょう。   フォンタナの肖像写真。彼自身は59歳の時に自殺している。   ショパンの代表作となるような有名曲の場合、優に20種類を超える楽譜がこれまでに出版されてきました。その多くは現在、絶版(そもそも19世紀や20世紀前半に出版された楽譜のなかには、既に出版社がなくなってしまったものも!)となっていますが、音楽大学の図書館や、現在ではIMSLPというクラシック音楽の楽譜に特化した「青空文庫」のようなWEBサイトにおいて、目にすることが出来ます。 とはいえ最新の研究成果を反映した、より“正しい楽譜”としての「原典版」が売られているわけですから、ショパンを研究して論文を書いたり、それこそ原典版を製作するのでもない限り、こうした古い楽譜に目を通したりする意味は無いのでしょうか? 全ての楽譜が「原典版」的なるものを目指して作られているのだとすれば、答えは「YES」といえるかもしれませんが、そうではありません。敢えて、意図的に作曲者の書いた通りに楽譜を作らないという選択肢もあるのです。その際たるものが、いわゆる「解釈版」になります。   解釈版は悪くない!   著名な演奏家(ショパン作品の場合はピアニスト)が、その作品をどのように演奏すべきか、その方針を書き込み、時には音の変更を加えているのが解釈版と呼ばれる楽譜。ショパンの例でいえば、名ピアニストのアルフレッド・コルトー(1877~1962)が校訂した版がその筆頭にあげられます。   ショパンが作曲した《バラード第2番》のコルトー版の楽譜冒頭。紙面の半分以上が説明に費やされている。   このコルトー版のユニークなところは、楽譜に編集を加えただけでなく文章による詳細な解説や、練習方法の提案があったりするところ。ピアニストというよりも教師としてのコルトーの側面が反映された楽譜だともいえます。とりわけ優れていると称賛されることが多いのは、指番号。それぞれの音をどの指で弾くと、より音楽的な演奏が出来るのか考え抜かれた指使いは、そのまま踏襲しないとしても、参考にする価値のある内容です。 他にもブラームス、リスト、ドビュッシーなどが校訂に携わったショパンの楽譜でも、コルトー版ほどではありませんが編集が加えられています。偉大なピアニストの録音を聴くことで、自らの演奏の参考にするというのは、よくなされることですが、録音を残していない偉大な演奏家や作曲家であっても、楽譜を通すことで彼らのショパン演奏の痕跡を探すことが出来るのです。 こうして過去の演奏スタイルを、解釈版によって探るという手法は、なんと最新の原典版の楽譜で取り入れられていることもあるのです。近年、ベーレンライター社から出版されたクライヴ・ブラウンとニール・ペレ・ダ・コスタの校訂によるブラームスの室内楽作品(ヴァイオリン・ソナタなど)の楽譜では、20世紀初頭に出版された解釈版を比べていくことで、ブラームスが意図した演奏スタイルを探ろうとしています(演奏法だけを解説したものも出版されています)。 原典版主義が広まってからというもの、不要なものとして邪魔者扱いされることもあった解釈版ですが、使い方や距離感さえ間違えなければ現在でも有効活用できる存在なのです。ただし、1種類の解釈版を盲信することはオススメできません。あくまで原典版と併用しつつ、いくつかの解釈版を参考にしてみる……ぐらいに、しておきましょう!   最新の原典版を比較する!...

なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?【演奏しない人のための楽譜入門#02 】

なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?【演奏しない人のための楽譜入門#02 】

あなたのご家族に、音楽をされている方がいるとしましょう。「〇〇が作曲した△△という曲の楽譜を買ってきて!」と、おつかいを頼まれて、ヤマハ銀座店のような大きな楽器店に足を運んでみると、きっと驚くはずです。多様な出版社から同じ楽曲の楽譜が出版されており、値段も内容も様々なのですから。きっと何も分からなければ、日本の出版社から発売している(輸入の経費がかかっていないために)比較的安価な楽譜を選んでしまいそうなところですが……。今回は何故、同じ楽曲の楽譜がたくさん出版されているのかという理由を、ドイツの音楽出版社 ベーレンライターを軸にして探っていきましょう!  楽譜が出版されるまで   最初におさえておくべき点は「楽譜」と一口にいっても、その形態は様々なのだということです。   J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 第1楽章の「自筆譜」   まず作曲者自身による手書きの譜面のことを「自筆譜 autograph」などと呼びます。自筆譜を「manuscript」と表記することも頻繁にありますが、これはより正確には「手稿譜」のことで、自筆譜だけでなく、手書きで別の人物が書き写した楽譜のことも含む場合があり、「holograph manuscript」と書くと自筆の手稿譜という意味になります。   J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番 第1曲〈前奏曲〉の「筆写譜」 バッハ自身の自筆譜が残されていないため、 このアンナ・マクダレーナ・バッハ(妻)の筆写譜が最重要な資料となる。   そして現在であれば、この自筆譜をコピー機にかけたり、スキャナーで取り込んだりしたり出来るわけですが、そうした技術が出来なかった時代はまず、手で書き写すのが基本でした。そうした譜面のことを「筆写譜 copy」と呼びます。「筆写師 copyist」を務めたのは、家族だったり、弟子だったり、筆写を仕事にしている職人であったりしました。   J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番 第1曲〈前奏曲〉の「初版譜」 バッハの死後、かなり経ってからパリで出版された楽譜。 このあとすぐにドイツなどでも出版されているようだ。   印刷による出版をしようという段階になると、作曲家の自筆譜(場合によっては丁寧に清書された筆写譜)をもとに「ゲラ刷り」が作られ、作曲者本人が存命中かつ出版に携わっている場合は直接、校正作業をおこないました。そうした過程を経て、最初に出版されたバージョンが「初版...

現存する最古の音楽出版社ブライトコプフ&ヘルテルは、なぜリーディングカンパニーであり続けられたのか?【演奏しない人のための楽譜入門#01 】

現存する最古の音楽出版社ブライトコプフ&ヘルテルは、なぜリーディングカンパニーであり続けられたのか?【演奏しない人のための楽譜入門#01 】

15世紀の中頃のドイツにおいて、その後の歴史を一変させてしまう、まさに世紀の大発明が誕生しました。それがヨハネス・グーテンベルク(1398–1468)による活版印刷の実用化です。それまで存在していた版画の延長線上にある技術を改良・刷新することで、印刷を工業化。これにより書物が格段に手に入りやすいものとなったのです。最初のベストセラーとなったのは「聖書」……という話は、世界史の授業で習った記憶があるかもしれませんね。本日ご紹介するのは、ここから派生した楽譜印刷の歴史のはじまりのお話です。   楽譜の印刷技術が歴史にもたらしたもの 金属製の「活字」を並べることで版をつくる活版印刷   活版印刷が実用化される前から、教会で歌われるためのシンプルな聖歌の印刷がなされることもありましたが、こちらは木版画での印刷。彫刻刀で1枚ずつ彫るわけですからプロであっても音符ひとつひとつのサイズや長さは異なってきてしまいますし、木製ですから強度が足りず、綺麗に刷れる枚数もあまり多くありませんでした。そんな状況が変わったのは16世紀の初頭。イタリア人のオッターヴィオ・ペトルッチが活版印刷を用いて楽譜の印刷に成功したのです。更には徐々に複雑かつ美しい楽譜(例えば3色刷り等)も印刷できるようになっていきました。   こうした楽譜印刷の技術が確立されるまで、楽譜の複製(コピー)は手で書き写すのが主流。(オリジナルの自筆譜を含めて)火災や紛失などですべての資料が失われてしまうことも珍しくありませんでした。楽譜に印刷されるようになるとコピーの絶対数も増えますし、あちこちに売れることで作品が散逸する危険性が大きく減ったのです。 そのうえ、手で書き写しているだけだと(伝言ゲームのようなものですから)書き写すたびにミスが発生することが多かったため、後世の音楽学者を悩ます「異稿」が発生することが多かったのも問題でした。楽譜を出版する場合は印刷前に作曲家本人が確認をしているため、そうしたことも手で書き写していた頃よりは減らせたのです。 どうでしょう、楽譜の印刷技術が確実に歴史を変えていったこと、ご理解いただけましたでしょうか。そのうえでご紹介するのは、近代的な楽譜出版のはじまりとなった(現存する最古の楽譜出版社でもある) ブライトコプフ&ヘルテル(ドイツ語なので「&」は「ウント」と読みましょう!)についてです。   ブライトコプフが起こした楽譜出版の改革   14歳になる年に印刷業界で見習いをはじめたベルンハルト・クリストフ・ブライトコプフ(1695–1777)は、1719年に結婚。妻の父ヨハン・カスパー・ミュラーの印刷・出版業を継ぐことで、後にブライトコプフ&ヘルテル社として世界的に知られるようになる事業をはじめます。1736年頃からは、かのJ.S.バッハとも関わりを持ちますが、バッハから依頼を受けたのは、歌詞や演奏会プログラムなど。楽譜の印刷で本格的に名を上げていくのはベルンハルトの息子、ヨハン・ゴットロープ・イマヌエル・ブライトコプフ(1719–1794)が1745年にこの会社を継いだあとになります。   1枚目・父ベルンハルト/2枚目・息子ヨハン   ヨハンは金属製の「モザイク活字 Mosaic Types」を(その名の通り、モザイク状に)並べる手法によって、美しくて音符の読みやすい楽譜印刷の手法を他社よりも高いクオリティで実現。これにより、テレマン、C.P.E.バッハ(あの大バッハの次男)、レオポルド・モーツァルト(神童モーツァルトの父)、ハイドンといった歴史上に名を刻む偉大な作曲家たちの楽譜を次々と出版していきます。当時、印刷所には100名以上のスタッフがいたといいますから、どれほど事業規模が大きくなっていたか、お分かりいただけるかと思いますし、この時代の著名な作曲家のほとんどがブライトコプフ社から楽譜を出版したいと強く願うほど、憧れられる存在になっていました。   ヘルテルによる更なる挑戦と飛躍   一大楽譜出版社へと育て上げてあげたヨハンは1794年に亡くなりますが、彼の息子たちは最終的には家業を継ぎませんでした。そのためゴットフリート・クリストフ・ヘルテル(1763–1827)が1796年に会社を買収。経営を担うようになり、遂に社名が、現在知られている通りのブライトコプフ&ヘルテルになったのです。 彼は、当時最新のリトグラフ(石版画)の技術を取り入れようとしたり、音楽批評を掲載する新聞を発行したり、メンデルスゾーン、リスト、クララ・シューマン、ワーグナーといった著名な作曲家も弾くようなピアノの生産を手掛けたりするなど、これまでの常識にとらわれず、事業を拡大。その全てが上手くいったわけではありませんが、ヘルテルの挑戦があったからこそ、ブライトコプフ&ヘルテル社はパイオニアとしての地位を保つことが出来たのでしょう。その最たるものが「批判校訂版 critical editions」です。資料を検討し直し、改めて作曲家の意図が正しく反映された出版譜を世に出そうという姿勢は、現代における「原典版 urtext」の先駆となりました。 また、この時期はベートーヴェンとの交流も重要です。ベートーヴェンが音楽史に革命を巻き起こしていた時期の多くの作品を最初に出版したのが、ブライトコプフ&ヘルテル社でした。交響曲第5番《運命》、第6番《田園》、そしてピアノ協奏曲第5番《皇帝》など、出版の権利を作曲家から高額で買うことで、彼の創作を支援しました。加えて、出版に際してやり取りされた数多くの手紙が保存されていたので、ベートーヴェンが作品に込めた思いを、後世の私たちも知ることが出来たりするのです。...