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インドネシアにインスパイアされて【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

インドネシアにインスパイアされて【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新シーズンの始まり みなさん、こんにちは! 日本もやっと涼しくなったようですね。 ヨーロッパでも新しいシーズンが始まりました。私は2022年から音楽監督を務めているフランスのドーム交響楽団で、今シーズンから新たに芸術監督を兼任します。年々責任ある仕事が増え、よりいっそう気持ちが引き締まる思いです。この記事が公開される頃にはオペラ《ゼロ度の女(Woman at point zero)》のソウル公演を終えていったんヨーロッパに戻り、再び日本に来る頃でしょう。前回とは打って変わって、秋の装いとなった日本を訪れるのが楽しみです! インドネシアとの出会い 普段はヨーロッパと日本を行き来することが多い私ですが、10年ほど前、とあるきっかけでインドネシアとご縁ができました。今回はそのお話を。 2011年4月にパリで行った東日本大震災チャリティコンサート(連載第5回)のあと、世界各地からさまざまなチャリティのオファーをいただきました。とても一人で対処できる量ではなく、大半はお断りせざるを得なかったのですが、その中で1年間あきらめずに私にSNSでメッセージを送り続けてきた人がいました。それは、インドネシアの国立芸術大学でクラシック音楽を教えている先生でした。彼いわく、ジョグジャカルタにあるその大学ではクラシック音楽を学べる学科が新設されて日が浅く、まだ充分に環境が整っていない。そこで学生オーケストラを指導しに来てほしい、というのです。 当時の私はジャカルタとジョグジャカルタの違いもよくわかっておらず、相手が実在する人なのかどうかも半信半疑でした。しかし彼もかつて日本に留学して音楽を学んでいたことや共通の知人がいることがわかると親近感が湧き、少しずつ心が傾き始めました。何より向こうの押しの強さと情熱にほだされ、ついに行く決心をしたのでした。もし空港に着いて誰もいなかったら、気持ちを切り替えてバカンスにしよう! そんな勢いでジョグジャカルタに向けて旅立ったのです。 予想に反して(?)、空港に到着するとその先生が出迎えに来てくれていて、まずはひと安心。彼の運転する車で市内のホテルに向かいました。実は私にとって、これが初めての東南アジア。低い建物や手付かずの豊かな自然、街の中心部にも残る遺跡など、目にするものすべてが新鮮で、人々はみんな笑顔に溢れ幸せそうに見えます。 宿泊したホテルの外にはのどかな田んぼの風景が広がっていました。 ホテルと同じ敷地内にはガムランの練習場も。 私が訪れたインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校は、もともとあった舞台芸術学部に美術学部、記録メディア芸術学部が加わった3学部から成ります。なかでも大切にしているのはガムラン音楽やジャワ舞踊などの伝統音楽を教える舞台芸術学部。自国の伝統芸術を尊重し、伝承している大学なのです。他方、新設されたクラシック音楽学科はインドネシアではまだ新しい分野です。事前に聞いていた通り指導者が足りず、一人の先生が打楽器も管楽器も弦楽器も教えている、という状態でした。 芸術的センスの優れた国民性 この時の滞在予定は1週間。最終日には学生オケによるコンサートを開くことになっていたので、翌日からさっそくリハーサルです。時間通りに指定された会場に行くと……誰もいない! 一瞬場所を間違えたのかと思いましたがどうやらここで合っているよう。仕方ないので一人でポツンと座って待っていると、30分くらいしてようやく楽器を持った学生たちが集まり始め、全員揃ったのはなんと1時間後でした。メンバーが揃ったところでいざチューニングを始めようとすると、みんなキョトンとしています。どうもチューニングの仕方を知らないようです。こうして初日はチューニングを教えるところから始まったのでした。 コンサートのプログラムは、ロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲、グリーグの組曲《ペール・ギュント》、そしてメインにドヴォルザークの《交響曲第8番》を予定していました。肝心の演奏はというと、全曲通せるくらいの準備はしてあると聞いていたはずが、実際に振り始めると冒頭4小節からまったく先へ進めない……。こんな状態でリハーサルに1時間も遅れてくるなんて、いったいどういうつもり? 1週間後には本番だというのに! これは相当心を入れ替えて取り組まないと間に合わないぞ、と感じた私は少し厳しい口調で全員に喝を入れました。「私はあなたたちを指揮するために遠路はるばるここへ来たのよ? 本当にやる気があるの!?」すると神妙な面持ちで聞いていた彼らはとたんに目の色を変え、ものすごい勢いで練習に取り組み始めたのです。 普段からコツコツ練習するというよりは、短期集中型なのがインドネシア人の気質なのでしょう。しかしオーケストラから感じる彼らの芸術的センスには非常に優れたものを感じました。もともと「歌を勉強するならインドネシア」と言われるくらい歌に定評のある国なのですが、それはオーケストラの演奏にも表れていて、どの楽器も天性の歌心が自然と湧き出てくるのです。そして驚いたのは打楽器。やはりガムランが発展した国だからでしょうか、リズム感が抜群に良い。あとはコントラバスもすごく上手でしたね。難しいパッセージも最初からしっかり弾けていました。 インドネシアでは誰もが即興で歌も歌うし、お茶を飲みながらギター片手に弾き語りもする。全員がアーティストなのです。生活に芸術が浸透していて、両者を分けていない。先進国ではピアノ専攻とかヴァイオリン専攻というように、ひとつの楽器に特化した訓練をしますが、インドネシアではほとんどの人が複数の楽器を演奏するし、それが当たり前なのです。でも、クラシック音楽だって昔は作曲する人が演奏もして、楽器を弾くこともあれば歌も歌うというのが普通でした。本来あった音楽の在り方のようなものを、私はインドネシアで垣間見たような気がしました。 キラキラした瞳で熱く語られて 練習を始めて3日目のことです。ホテルに帰ると10人ほどの学生たちが私を待ち構えていました。私に話したいことがある、と。急きょ、ホテルのレストランで話を聞くことになりました。すると彼らは、インドネシアの現状と自分たちの問題意識を語り始めたのです。「次世代のために、私たちの世代がインドネシアの音楽教育制度を変えていきたい。それにはあなたの力が必要です。どうか力を貸してください!」。ビー玉みたいにキラキラした瞳で熱く語る若者たちを前にしたら、とても「ノー」とは言えません。未来を語る学生たちの純粋な想いに共感し、私も彼らの力になりたいと思いました。 17世紀から前世紀に至るまでオランダの統治を受けてきたインドネシアは、戦後に独立を勝ち取ったばかりの若い国です。それも、日本の5倍近い国土に300を超える民族が住む、多民族・多言語国家。ガムランやジャワ舞踊などが尊重されているのも、そうした伝統芸能が統一国家としての一種の鎹(かすがい)のような役割を果たしているからなのでしょう。彼らは、そこへクラシック音楽を自分たちの新たな文化として採り入れようとしているわけです。そこには、ただ自分たちがやりたいからというのではなく、自分の国をどうしていきたいのか、ということが背後に強く意識されているのを感じました。 いつからか、私は学生たちから「ママ」と呼ばれるようになっていました。まるで子どものようにみんな私のことを慕ってくるんです。男子学生だけでなく、ヒジャブ(イスラム教徒の女性が髪や身体を覆う布)を付けた女子学生までもが私のあとをゾロゾロついて回りました。そして私が教えたことを貪欲に吸収して、彼らの演奏はぐんぐん良くなっていったのです。 リハーサルのあと、学生オーケストラのメンバーと。 大歓声とウェーブが巻き起こるコンサート 迎えた本番当日。これまでの経緯から、きちんとコンサートがオーガナイズされているのかどうかも不安でしたが蓋を開けてみてびっくり。近隣の大学や学校からチャーターバスで次々と若者が来場し、ホールはあっという間に超満員に。会場に入りきれない人たちのために、野外スクリーンを設置したほどでした。 司会による指揮者の紹介のあと、「マエストロ・カナコ・アベ!」というアナウンスと共に私がステージに出ていくと観客が立ち上がって「ウオ~!」という大歓声とウェーブが! まるでロックコンサートのような盛り上がり方(笑)。彼らにとって、クラシック音楽は最近知った新しい音楽のひとつという感覚なのです。演奏中も音楽に合わせて体を揺らし、心から楽しんで聴いている様子が伝わってきます。コンサートは、練習での仕上がりをはるかに超えた演奏で大いに盛り上がりました。もちろんまだ粗削りなところもありましたが、全員の「表現したい」という情熱がこもった、人の心を揺さぶる素晴らしいコンサートになったのです。 2013年、インドネシアで学生オケと行った初めてのコンサート。...

人生の転機となったチャリティコンサート【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

人生の転機となったチャリティコンサート【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 充実の日本滞在 皆さん、こんにちは! 今年は久しぶりに日本で夏を過ごしました。 日本の暑さは、関西弁で言う「アカンやつ」です! 特に蒸し暑いのには参りました。私が住むオランダのハーグでは、例年より気温が低くて日中でも16度くらいでしたから、夜になると厚手の上着が必要なくらい。その差なんと20度! しかしお陰様で体調を崩すこともなく、滞在中は演奏会、ラジオ収録、指揮法講座、カンファレンス……と、ほとんど休むことなく音楽にどっぷり浸かった毎日でした。今回は自作(IWBC委嘱作品《ダンシングマニア》)の初演を自分で指揮するという機会にも恵まれ(実は、人生で初めて!)、新作を丁寧に演奏していただくことがいかに作品や作曲者にとって幸せなことか、改めて認識しました。やはり、どの作品も一つ一つ大切に取り組まなくては!と意を新たにした次第です。 NHK FMでは「ヨーロッパ夏の音楽祭」をテーマに、評論家の舩木篤也さんとモンペリエ音楽祭についてお話ししました。 8月に水戸で開催されたIWBCカンファレンスで、陸上自衛隊中央音楽隊を指揮しました。 モニターの前で釘付けになった「あの日」 さて、前回までは私がどのようにして指揮者の道に進んだかをお話してきました。外国で指揮者として身を立てるためにがむしゃらに勉強してきた私ですが、指揮科を卒業後は歌劇場の副指揮者というポストに着任。徐々に指揮者としての活動範囲を拡げ、もうすぐ40代に手が届くという頃、人生の転機となる出来事が起きました。2011年3月11日に発生した東日本大震災です。 私は、当時住んでいたパリで地震の発生を知りました。朝、いつものようにパソコンをつけると、SNSを通じて目に飛び込んできたのが「大地震発生」の投稿。慌ててネットでニュースを検索し、ようやく日本に何が起きたのかを知りました。それからは次々とアップされてくる動画に圧倒され、2日間パソコンの前から動けなくなってしまいました。 日本は終わってしまうのではないか。あまりの衝撃で、そんなことまで頭をよぎりました。被災し救助を待つ人たちの映像を目にして、ただただ胸を痛めながらモニターの前で動けずにいる自分が歯がゆくて仕方ありませんでした。私が医師や救助隊員なら、今、この時に人命を救うことができるのに……。でも自分にできることといえば音楽しかない。それがとても不甲斐なく思えました。 しかし2日目の夜、このままではいられない!と奮い立ちました。祖国がこんな大変な目に遭っているのだから、何か自分にできることをしたい。音楽家としてできることはないだろうか。その気持ちを周囲の音楽家仲間に話したところ、みんな同じ思いを抱いていることがわかりました。何人もの音楽家が、義援金を集めるためのチャリティコンサートを行うことを自発的に考えていたのです。 そこでパリ在住の日本人の音楽仲間を中心に、「東日本大震災チャリティコンサート実行委員会」を立ち上げました。メンバーの多くが学生だったこともあり、パリ生活が一番長い私が実行委員長を引き受けることに。数ヵ月にわたって行うチャリティコンサートの準備を急ピッチで進めることになったのです。 コンサート会場での義援金集め 一刻も早く義援金を送りたい。私たちの思いはただその一つでした。実行委員会が発足した時点で、すでにいくつかの室内楽コンサートが計画されていたので、まずはその開催準備に奔走しました。最終的に、3月と4月で計7回の室内楽コンサートを開催。その会場探し、参加者募集、プログラム作成、広報など、実行委員はみんな寝る間も惜しんで作業しました。 「何か手助けをしたい」と思っていたのは、フランスの人たちも同じでした。パリ国立高等音楽院の教授陣によるコンサートが開催され、パリにある楽器製作会社や教会、さまざまな文化施設も演奏会のために会場を提供してくださいました。私もできるだけコンサート会場に足を運んで、籠や箱を持って客席を回り、義援金の協力をお願いしました。 こうしたチャリティコンサートの舞台裏で大きな力を貸してくださったのが、パリを拠点に活動するアーティストたちから成る「ジャポネード」というボランティア団体です。ジャポネード代表の故・齋藤しおりさん(残念ながらご病気のため2016年に44歳の若さで亡くなられてしまいました)の素晴らしいイニシアチブのもと、一連のチャリティコンサートで集まった義援金は適切に管理され、最終的に全額無事に被災地に送ることができました。大勢のボランティアスタッフを統括し、細やかにケアしてくださったのも彼らでした。数人で立ち上げたチャリティコンサートは、いつのまにか志を同じくする多くの方々によって支えられていたのです。 チャリティでも経費はこんなにかかる 一方で、ある程度のまとまった義援金を送るためには規模の大きなイベントも必要です。私たちは実行委員会が発足した当初から、オーケストラのコンサートを開くことを考えていました。しかし、どうやって? オーケストラのコンサート制作は、室内楽とは桁違いに人手もコストもかかります。そんな大規模なイベントをオーガナイズするノウハウは私たちにありませんでした。 ちょうどその頃、ユネスコに勤務する日本人職員の方たちともつながりができ、彼らもまた何かしたいと思っていることを知りました。そこで副委員長の松宮圭太さんの提案で、ユネスコ・パリ本部の国際会議場をコンサート会場として提供してもらえないか、打診してみることに。彼の作った企画書を携えて打ち合わせに行くと、私たちの熱意に共感してくださったユネスコ職員の方々のご厚意で、休日に会議場を使わせてもらえることになりました。ただし、会場費は無料ながら、休日に稼働する人件費が必要とのこと。チャリティコンサートでもこんなに経費が必要なのかと、私は初めて思い知りました。 しかしここでも松宮さんが力を発揮。以前、日本の音楽財団で働いていた経験から笹川日仏財団に連絡を取って相談したところ、なんと「必要な経費は援助するので、演奏会で集まった義援金は全額、被災地に送ってください」と快く申し出てくださったのです。ここから、オーケストラのコンサートに向けた準備が進み始めました。 すべてボランティアの手によって開催 会場が決まったら、次は演奏者です。SNSを通じてオーケストラへの参加を呼びかけたところ、1日で100人以上の音楽家たちが手を挙げてくれました。学生や駐在員などのアマチュアプレーヤーから、プロオケの首席奏者まで、大勢の方がこのコンサートのために参加表明をしてくれたのです。楽器奏者だけではありません。歌でも参加したいと、オペラハウスの歌手やソリストなどプロの声楽家を含む約40人が合唱団を結成してくれました。 しかし演奏者だけではコンサートは成り立ちません。広報、チケット販売、楽器運搬用トラックの手配からパート譜の準備、出演者用の軽食手配などに加え、通常のコンサートホールには備えられている演奏者用の椅子や譜面台の手配・運搬など、仕事は山積み。そうしたありとあらゆる準備を手伝ってくれた舞台裏のボランティアが約200人。ですからコンサートに関わった人たちは総勢400人くらいになっていたのではないでしょうか。 その人たちに効率良く役割を振り分ける作業や演奏者リストの作成、リハーサルの連絡、著作権の申請など、実行委員も仕事を分担して、それぞれが遠隔でできることをやり、全員が裏方に徹して、文字通り寝ずの3週間が続きました。 1350席のチケット販売を一手に引き受けてくれたのは、会場探しの際に力を貸してくれたユネスコの日本人職員の方でした。チケットは早々に完売となったのですが、たった一人でそれをさばいた彼女がどれほど大変だったか。想像に難くありません。 たくさんの人の思いのこもった音楽 いよいよ迎えた本番当日。「東日本大震災チャリティコンサート」のプログラムは次のように決まりました。 武満徹《弦楽のためのレクイエム》 ラヴェル《ピアノ協奏曲ト長調》(ソリストは荻原麻未さん)...

指揮者への道のりは、茨の道!?②【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者への道のりは、茨の道!?②【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 関西フィルと初共演 皆さん、こんにちは! 猛暑の毎日、いかがお過ごしですか? 今夏は私も日本で演奏会やカンファレンスに出演するため、こちらで暑~い夏を過ごしています。7月の演奏会は私の出身地でもある大阪で、関西フィルハーモニー管弦楽団を客演しました。 今回の演奏会場、大阪市中央公会堂の前で(2024年7月)。 ©Ryota Funahashi プログラムは私がもっとも愛する作曲家の一人、モーツァルトの《フリーメイソンのための葬送音楽》《交響曲第40番》とベートーヴェン《交響曲第7番》。いつも「これから指揮する作品ほどの傑作は人類史上ほかにない」と惚れ込んで取り組みますが、今回は名曲中の名曲。あふれんばかりの作品への愛を込めて演奏しました。関西フィルの熱演が、ご来場いただいた皆さんにもそれを届けてくださったものと思います。すばらしい作品は何度演奏しても新たに得るものがありますし、エネルギーをもらえます。それを本番で会場の皆さんと共有できることは何ものにも代えがたい、至福の時間です。 「新曲をていねいに初演する指揮者」になる 近年でこそ古典を振る機会も増えてきましたが、もし10年前の私が今回のプログラムを見たらびっくりすると思います。というのも、フランスにいた頃の私に対する一般的な認識は、「世界初演を数多く手掛ける現代音楽のスペシャリスト」だったからです。 前回の連載で音楽院の指揮科に入った頃のお話をしましたが、当時から「私は新曲をていねいに初演する指揮者になろう」と思っていました。なぜなら若い頃、仲間の作曲家が書いた新作がなおざりに初演されるのを目の当たりにして、強い憤りを覚えることが度々あったからです。 パリ国立高等音楽院指揮科のクラスメートたちと。前列左端が当時の主任教授、ジョルト・ナジ先生。 後列右から2人目が私。 たとえば演奏会で、ラフマニノフとかチャイコフスキーなどの有名な協奏曲と交響曲をメインにして、1曲目に短い現代曲が入るようなプログラム、よくありますよね。もちろんお客さんの多くは、人気のソリストやメインプログラムを楽しみにしていらっしゃるわけですが、そのときに、演奏するオケや指揮者までが現代曲を“前菜”みたいに扱ってはいけないと思うのです。 新作の世界初演というのは、言ってみれば今まさにこの世に生まれ出ようとしている赤ん坊のようなものです。できるかぎりベストな状態で演奏して、今後も再演されるように繋げていくことが、クリエイションに携わる芸術家として大事な務めであるはず。にもかかわらず、少なからぬ演奏団体が古典作品に比べて現代曲をいい加減に扱っているのを見て、「違うだろう」と思っていました。 自分は結婚を機に作曲を封印していましたが、書いた曲がはじめて音になる瞬間を作曲家がどんな気持ちで待ち焦がれているか、初演がうまくいかない時どれほど落胆するか、仲間や元夫の初演にたくさん立ち会ってきた私には痛いほどわかります。 だから時々、指揮をしている自分のことを「ずるいなぁ」とすら思うんです。演奏が成功すると、舞台の真ん中に立っている指揮者が盛大な拍手を一身に受けているように見えますが、本当に大変なのは作曲家だと知っているからです。もちろん指揮者には指揮者の苦労もありますが、「作曲家の苦労に比べたら、たいしたことないな」と思ってしまいます。世の中の一般的なイメージでは指揮者が偉大な統率者のように思われているのかもしれませんが、私に言わせれば指揮者は「人柱」(笑)。指揮台に立つ以上、万が一演奏に何か瑕疵があれば指揮者が全責任を負う、くらいの覚悟でやらないとだめだろう、と思うのです。 指揮者としての初仕事 私が指揮科に入ってはじめてギャラをもらった仕事も現代音楽でした。ある時、有名な企業の社長さんから「趣味で作曲した曲を、自分が元気なうちに演奏してほしい」と依頼されたのです。社長さんは70歳過ぎくらいでしたがずっと趣味で作曲を続けていて、若い頃にはクセナキス(Iannis Xenakis, 1922~2001)に師事したこともあるとお聞きしました。そして「金は出すから」といって、ポンと大金を渡されたんです。 アマチュア作曲家の作品とはいえ、真剣にやろうと思いました。すべて私に一任されていたので、演奏者を集め、ギャラの配分を決め、会場や練習室を押さえるための事務手続きや楽器搬入用のトラックの手配まで、全部一人でやりました。準備している間はなかなか大変な毎日で、ある晩目が覚めたら顎が外れていました(笑)。疲れがたまると顎が外れる、ということをその時はじめて知りました。 通常の演奏会と同じように、本番は社長さんの曲をメインにほかの曲も加えたプログラムを組み、リハーサルを行い、録音もプロのエンジニアを手配しました。そうして迎えた当日は思った以上にお客さんがたくさん入り、コンサートは大成功のうちに終えることができました。社長さんにも満足していただくことができて、私は指揮者としてはじめての仕事を無事完遂することができたのでした。 はじめてギャラをもらって企画したコンサートのリハーサル風景。 社長さんの曲に加えて、ヴァレーズの《オクタンドル》を演奏しました。 私の元夫、レジス・カンポ《ポップアート》のリハーサル風景。 現代音楽のアンサンブルを立ち上げる 「一緒に現代音楽のアンサンブルを作らないか」と誘われたのは、それからしばらくたったある日のことでした。声をかけてきたのは同じ音楽院の作曲科に在籍する学生のヤン君。先日の演奏会を聴きに来ていて、新しく立ち上げるアンサンブルの指揮者として私に白羽の矢を立てたのでした。 そして2005年、私を含めた5人で「ミュルチラテラル」という現代音楽アンサンブルを創設しました。グループ名の「Multilatérale」は「多角的な、多元的な」という意味です。誰か一人がリーダーになってほかの人がそれに従うのではなく、全員がそれぞれの方面から意見を出し合って民主的に決めていこう、というのがグループの方針でした。そのアンサンブルで、私やヤン君のような若い世代の作品と、もっと前の世代で古典になりつつある優れた作品を両方並べて、時代の潮流を掴むような趣旨の演奏会をたくさんやりました。 アンサンブル・ミュルチラテラル結成後第1回目となる演奏会のリハーサル風景。...

指揮者への道のりは、茨の道!?①【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者への道のりは、茨の道!?①【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 私の原点――両親は合唱指揮者 皆さん、こんにちは! 今年も暑い季節がやってきましたね。 夏といえば今年はパリ・オリンピックが開催されます。先月はじめにパリへ行ったときはまだ盛り上がっている様子が感じられませんでしたが、この記事が公開される頃には日本でも話題になっているでしょうか? 連載第2回目ではパリ国立高等音楽院「伴奏科」時代のお話をしました。 作曲科を出て、伴奏ピアニストの仕事をして……という私の経歴を見て、「いつ頃から指揮者になりたいと思ったのですか?」とお尋ねになる方も多いのですが、自分でもはっきりと「いつ頃から」というのは難しいかもしれません。 私の両親は合唱団で出会い、結婚しました。大阪では「合唱界の大助・花子」と呼ばれるおしどり夫婦で、私は物心つく頃から両親が合唱団を率いて合唱指揮や指導を行う姿を見て育ちました。週末になると『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ・ファミリーよろしく一家で歌うのがならわしで、一つ下の弟がアルト、三つ下の妹がソプラノ、私がメゾを受け持ち兄弟で三重唱をやったりして、音楽がごく自然に生活のなかにあるような環境でした。両親が合唱指揮をしていたので、子どもの頃は逆に「指揮者は3人もいらない、自分は別のことをしよう」と考えていたように思います。 両親が主宰する帝塚山少年少女合唱団で歌っていた頃(右から2番目)。 録音スタジオにて。少年少女合唱団時代には、CMソングの収録なども行いました(右から3番目)。 その一方で、両親の後ろ姿を見て、指揮者の音楽的な側面以上に「リーダーシップ」に強く惹かれるものを感じていました。合唱団にはいろんな人が来ます。ただ歌が好きな人、合唱に生きがいを求める人、孤独を癒しに来る人、子どもの心を豊かにしたい人……。両親の元で、たくさんの人が合唱を通じて交流する様子を小さい頃から間近で見ていたせいか、「人々を、良き方向へ導く人」という役割には漠然と憧れがありました。強いて言えば、それが指揮者になりたいと思った原点かもしれません。 フランスに移り、両親と離れてみてようやく「もしかしたら私は指揮に興味があるかもしれない」と感じ始めたのですが、その頃は異国の地で音楽家としてちゃんと仕事ができるようになることがまず先決でした。その時に、伴奏ピアニストというのはある意味、「日本人」「女性」であることが大きなアドバンテージになるんです。外国では、「日本人女性は穏やかで、人の話をよく聞いて、その場に合わせた対応ができる」と評判が良いからです。 それで私も伴奏の仕事をたくさんやってきたわけですが、ある時ふと「これを何十年も続けていって、私ははたして幸せだろうか?」と考えてしまいました。どうも自分はここではない、もっと別な場所で活動するような気がする……そんな胸騒ぎのようなものを当時はずっと抱えていました。でも、ここではない場所へ行くためにはもっと頑張らなくてはいけない。そのためには、30歳までに何をするべきか? 20代はずっとそういうふうに考えていました。 指揮者に必要な資質とは 伴奏ピアニストであれば歓迎される大和撫子も、指揮者となるとまったく逆です。オケだって「大丈夫? ちゃんとできるの??」と不安になるでしょう。だから「指揮者になりたい」と思った時点で、ただ優秀なだけではだめで、よほど人よりも抜きん出ないかぎり仕事は来ないぞ、という危機感がありました。 音楽院指揮科時代、サクソフォンアンサンブルの指揮者として中国ツアーに出かけた時。 中国ツアーでの一コマ。 では、指揮者にはどんな資質が必要なのでしょう。 これは私の考えですが、指揮者には「なれる人」と「なれない人」がいると思います。それは音楽的な能力以前に、その人が持っているエネルギーの質を観察するとわかります。エネルギーに満ちていて、人にポジティブな印象を与える人は指揮者に向いています。大勢の個性豊かな人たちを動かして一つの音楽を生み出すわけですから、当然といえば当然かもしれません。普通自動車を運転するのと同じパワーで大型トラックのハンドルは切れないですよね。 伴奏科を修了したあと、指揮科に入学して最初の年にこんなことがありました。 突然、「今年から年度末試験を行うことになりました」と通達されて、オーケストラのリハーサルをする試験が課されることになったんです。課題曲として与えられたのはバルトークの《管弦楽のための協奏曲》。5人の先生が審査をするなか、決められた時間内にリハーサルを行う試験です。当時、指揮科の1年生は私を含めて3人いたのですが、最後に試験を受けた男の子だけは、2年生に進めませんでした。 「君はこのまま勉強しても将来プロの指揮者にはなれない。だから2年生に上がる必要はない」といって退学になってしまったんです。彼は私よりも少し年下でしたが、少なくとも指揮科に入学した時は同期で一番指揮のテクニックがありました。私も彼の試験を聴いていましたが、決して落第するような演奏ではなかったです。 けれど以前、彼が指揮をするときに、オケのメンバーの一人が「あの男の子が振るの? ちょっと変えてもらえないかなぁ、あの子で始まるとやる気出ないんだよね」とこっそり伝えに来たことがありました。指揮台に上がる前からそんなふうに言われて気の毒に思いましたが、人相手の仕事ですからそういうこともあり得ます。 指揮の仕事は「コミュニケーション」が大半なので、最初に「いけ好かない奴だ」と思われてしまうともうそこで扉は8割くらい閉まってしまう。すると、どんなにすぐれた音楽性を持っていようと相手に伝えることが難しくなってしまいます。彼が落第した直接の理由はわかりませんが、彼には人を動かすエネルギーが不足していたのかもしれません。 パリ国立高等音楽院の指揮科は、授業で毎月オーケストラを使うのですごくお金がかかります。そしてそのお金を出しているのはフランス政府です。だから指揮科に在籍していると、自分の卒業演奏会の告知がフランス大手紙『ル・モンド』に掲載されたりするんですね。つまり、認められた学生は政府から手厚く援護を受ける一方、そうでなければさっさと退学させられてしまう。音楽院の指揮科は、半分学校のようで半分プロのような、そんな雰囲気がありました。 「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」  音楽院の指揮科では、卒業生たちから成るオーケストラを相手に毎月1週間ほどリハーサルを行います。それまでのクラスとは違って、実地に投げ込んで鍛えるスタイルです。オケのメンバーは卒業生ですから、私のこともよく知っている人がいるわけです。だからちょっとミスしたり、もたもたしたりしているとすぐヤジが飛んでくる。こちらの言葉尻を捕えて軽口を叩かれたることもしょっちゅう。最初の頃はそういうことにいちいち傷ついていました。「お前がやってること、全然わかんねーよ!」「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」と言われて目に涙をためながら振ったこともありました。 しかも私が指揮を始めた頃は、今よりずっと女性に厳しかった。「女が指揮台に立ったらオーケストラの奴らが見るのはボインのところだけだよ!」なんて平気で言う人がいた時代です。オケのメンバーも、男の人だけでなく、女の人からも「女性指揮者なんてありえない!」と反発があるくらい拒否反応が大きかったんです。指揮台の上でちょっと女性っぽいしぐさをしようものなら、「それがいけないんだよ!」と言われたり。今考えたらおかしな話なんですけどね。 指揮科演奏会のリハーサル風景(2005年頃)。 この時の演目はプロコフィエフの組曲《ロミオとジュリエット》。 私も最初は自信がなかったし、自信がなければないほどよけい頑なになってしまって、自分を強く見せようとしていました。妙に肩肘張って、「こうするんだ!」と自分の考えを相手に押し付けようとして、逆に「何あいつ」と思われてしまったこともありました。長いこと、指揮台にのぼることはすごく特別なことのような感じがして、いつも緊張していました。慣れてきたのは本当にここ数年です。...

伴奏ピアニストはつらいよ【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

伴奏ピアニストはつらいよ【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 6月はオランダ名物「ハーリング」の季節 皆さん、こんにちは! 日本は梅雨の季節ですね。私が住んでいるオランダでは、6月になると新ニシンの解禁を祝って「ハーリング」と呼ばれるニシンの塩漬けを食べる行事があります。街のそこかしこにハーリングや魚の燻製、フライなどを売っているスタンドがあり、この時期はとくに大勢のオランダ人で賑わいます。ここハーグでは、頭と小骨を取って塩漬けにしたニシンのしっぽを手でつまんで顔の高さまで持ち上げ、そのまま一口で食べるのが流儀。脂ののった初物のニシンはとても美味しいですよ! といっても、私自身この時期仕事でオランダにいないことも多く、実際に食べたのはまだ数えるほどしかないのですが……。 ハーグのハーリング(塩漬けニシン)。刻んだ玉ねぎとピクルスを添えていただきます。 ハーリングを売っているスタンド。 さて、連載第1回目では、パリ国立高等音楽院「楽曲分析科」の卒業試験の時の思い出話をご紹介しました。今回は、その続きから。 モンスターぞろいのパリ国立高等音楽院「伴奏科」 無事楽曲分析科を卒業したあと、伴奏科のクラスに入りました。「伴奏」と聞くと、ソリストを支える脇役のように思うかもしれませんが、正直なところ、パリ国立高等音楽院の伴奏科は指揮科よりもむずかしいと思います。近いところでは、ニコラ・アンゲリッシュ(Nicholas Angelich, 1970~2023)とか、永野英樹(1968~)さんとか、セドリック・ティベルギアン(Cédric Tiberghien, 1975~)などがいました。要するに、「伴奏科」といっても伴奏だけを専門にしている人はほとんどいなくて、国際ピアノコンクールで優勝してソリストとしても活躍しているような人がゴロゴロいるのです。 だから入学試験もエグいですよ。一次試験はピアノの実技なんですが、私が受けた時の課題曲は、シェーンベルクの初期に書かれた無調のピアノ曲、ショパンの前奏曲変ロ短調(最初から最後までひたすら速いパッセージで駆け抜ける)、そしてなぜかシューベルトの《楽興の時》の3番。これらをすべて暗譜で。しかも、課題曲は試験の2週間前に発表されるんです。 試験はさらに続きます。初見(その場で楽譜を渡され数分間黙読したあとに演奏する)で伴奏する試験もありましたし、さまざまな音部記号(よく見るト音記号やヘ音記号以外にアルト記号やソプラノ記号などがあります)で書かれたコラール(讃美歌の合唱曲)を初見で弾きなさい、というのもありました。また、リスト編曲によるベルリオーズの《幻想交響曲》ピアノ独奏版というのがあるんですが、その終楽章の楽譜を見せられて「何の曲か答えよ」という試験。私は知っていたからよかったんですが、答えられないとそこで不合格。もちろんこれも初見で演奏しなければなりません。こんな感じで1週間くらいかけて試験を行います。 つまり、このクラスに入ってくる人たちはどんな複雑な曲もすらすら読めて初見に強い、モンスター級の能力の持ち主ばかりなのです。そのため伴奏科は一種の職業あっせん所のようになっていました。「本番直前にソリストが急病になり代役を探している」というような緊急要請がフランス各地からこの伴奏科宛てに入ってくるのです。伴奏科の先生の手元には学生の特質や得意ジャンルを把握したリストのようなものがあって、プログラムや共演者との相性を見ながら「じゃあ、誰々がよいでしょう」といって適任者を派遣します。 伴奏ピアニスト時代。トランペットは現在ミュンヘン・フィルの首席奏者アレクサンドル・バティ。 伴奏科に入学後は、私もこの「職業あっせん所」にたびたび仕事を紹介してもらいました。一度、地方の音楽院に伴奏を頼まれて行ったのですが、着いてみたらピアニストは私一人。そしていろんな楽器を持った音楽院の生徒がずらーっと100人くらい並んでいる。この生徒たちの伴奏をしなさい、というのです。もちろん初見で! 40人くらいまではなんとか頑張って正気を保っていたのですが、80人を超えたあたりからだんだん目が見えなくなってきて、最後はあまりにも疲れ果てて泣き出してしまいました。するとようやく周りの先生たちも「これだけの人数を一人で伴奏させるのはおかしい」「こんなことは人道的に間違ってる」と言い出して(気づくのが遅すぎる!)、その日は音楽院のそばにホテルをとってもらい一泊してから帰った、なんてこともありました。 20代の頃。本番前のひととき。 恩師のもとで培った音楽の基礎能力 当時は「指揮者になりたい」とか「ピアニストになりたい」という以前に、とにかく「音楽家としてのスキルを蓄えたい」と思っていました。だから仕事は来るものを拒まず、あらゆるものをやりました。時にはポップスの編曲やピアノの出張レッスンなどもやりましたが、一番多くやったのが伴奏の仕事で、多い時にはバレエやオペラの伴奏ピアノに加えて何十人分もの伴奏を掛け持ちしていて、頭の中に何十曲もの音楽が入っていました。本番直前でギブアップしてしまったピアニストの代演を急に頼まれ、難解な現代曲のピアノパートを弾く、などということもありました。 フランスの古城で開催されたリサイタルで歌手の伴奏をした時。寒かった… この頃はいつも必死でした。結婚を機に、言葉もままならないうちにフランスに移住することになったので、「自分は外国人なんだ」という意識がとても強かったのです。フランスのように自国の文化に誇りを持つ国で外国人の自分が音楽家として仕事をしていくには、とにかくスキルがなくちゃいけない。だから「20代は修行時代」と位置付けて、何があっても歯をくいしばって頑張ろうと思っていました。 当時住んでいたパリの自宅で。 外国で修業時代を生き抜くことができたのは、芸高・芸大時代に恩師たちから授かった基礎教育の賜物だと思います。なかでも、私が中学生の頃から大学までお世話になった永冨正之(1932~2020)先生は日本におけるソルフェージュ教育の大家で、フランスの先進的なソルフェージュ教材をレッスンに積極的に取り入れていらっしゃいました。クレ読み(ト音記号やヘ音記号以外のさまざまな音部記号で楽譜を読むこと)や複雑なリズム視唱(楽譜を読んでリズムを叩く)など、当時は「なんでこんな勉強をするのだろう?」と思うような難しい教材をたくさんやらされましたが、永冨先生のもとで培ったソルフェージュ能力(楽譜を読み、演奏するための基礎的な能力)は修行時代に大いに役立ちました。特に、複雑なピッチやリズムが頻出する現代音楽の演奏の時にはとても重宝され、おかげでのちに多くの現代曲の初演指揮を手掛けることにも繋がりました。 2014年、日本での指揮者デビューに駆けつけてくださった永富正之先生。 指揮との出会い 実はパリ音楽院で最初に取った「管弦楽法」のクラスにいた頃、生涯はじめての指揮を経験しているんです。管弦楽法の指導教官だったマルク=アンドレ・ダルバヴィ(Marc-André Dalbavie, 1961~)先生から、編曲の仕事をいただいた時のことです。それはパリ管弦楽団が子ども向けに行うコンサートのために楽曲をオーケストラに編曲する仕事だったのですが、ある時練習を見に行ったら現場の人から突然、「本番は指揮者なしで演奏するんだけど、さすがに最初から指揮なしじゃ難しいから、編曲者であるあなたが振ってくれない?」と。...

ワタシの音楽武者修行【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ワタシの音楽武者修行【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 口コミで開かれた、指揮者の道 皆さん、こんにちは! 指揮者の阿部加奈子と申します。 オランダのハーグに居を移して今年で7年目。その前は約20年間、パリを拠点に主にヨーロッパで演奏活動を行ってきました。よく音楽家は「旅ガラス」などと形容されますが、2023年の私の活動範囲をGoogleアプリで調べてみたところ、1年間で10ヵ国95都市を訪れていたようです。近年は日本で演奏する機会も増えてきたので、どこかで私の名前を見かけてくださった方もいるでしょうか。昔に比べると女性の指揮者はずいぶん増えましたが、まだまだ少数派なので「今日の指揮者は女性なんだ」と記憶に留めてくださった方も多いかもしれません。 日本で仕立てた新しいスーツを着て、本番前のショット! ちょうどこの記事が公開される頃には、神奈川県立音楽堂で神奈川フィルハーモニー管弦楽団を指揮します(5月18日)。終演後はウィーン芸術週間に出演するためその晩のフライトでヨーロッパにとんぼ返りですが、7月には関西フィルハーモニー管弦楽団との共演のため再び日本に来ます。公演の詳細は記事の末尾にありますので、お近くの方はぜひ聴きにいらしてください! 日本では今年1月(東京)と2月(名古屋)にも、藤原歌劇団本公演でグノー作曲のオペラ《ファウスト》を振りました。《ファウスト》はメインキャストやオーケストラに加えて合唱やバレエも入り、上演に3時間以上かかる大規模な舞台です。普段日本にいない私は12月中旬に帰国して、1ヶ月間ほぼ毎日リハーサルを行い本番に臨む、というハードなスケジュールでしたが、無事3回の公演を終え、たくさんのブラヴォーをいただくことができました。 2藤原歌劇団公演《ファウスト》のカーテンコール。(写真提供:公益財団法人日本オペラ振興会) 今回が私にとって日本で初めてのオペラ指揮となる「オペラ・デビュー」でしたが、個人的に《ファウスト》自体はとても馴染みのある作品です。なぜなら、20代の頃にフランスでオペラ作品ばかり歌う合唱団の専属ピアニストをしていたことがあって、その頃に《ファウスト》も全幕ピアノで弾き、さらにはときどき自分も歌ったりしていたことがあったので、全部頭に入っていたからです。 当時はまさか20年後に自分がこの作品を指揮することになるとは想像もしていませんでした。それどころか、「将来、指揮者になるぞ」とも思っていなかったかもしれません。普通、指揮者のキャリアといえばアシスタントをしながら研鑚と経験を積み、コンクールで入賞したり、あるいは有力者から推薦を受けたりしてエージェントと契約し、エージェントにプロモーションしてもらって徐々に仕事の幅を広げていく、というのが王道です。 ところが私の場合、指揮の仕事を得てきたのはほとんど「口コミ」のおかげです。20代の頃にやっていた合唱団の専属ピアニストの仕事が噂で広まり、その後あちこちからオペラ関連の仕事に呼ばれるようになりました。その一つがパリ管弦楽団合唱団です。そこで出会ったアーサー・オールダム(Arthur Oldham, 1926~2003)――親しみを込めて「アーサーおじいちゃん」と呼んでいます――という指揮者から、音楽についての貴重な教えをたくさん授けてもらいました。当時は伴奏ピアニストとして参加していましたが、いま思うとオペラのことも指揮のことも、この時に実地で大いに学ばせてもらったのだと思います。そうやって「口コミ」で仕事をいただくうちに、いつしか指揮台の上で仕事をするようになったのです。 20代で結婚し、「作曲」を封印する 私は20歳のときに当時通っていた東京芸大を休学してパリ国立高等音楽院に留学したのですが、それから20代はほぼずっと学生でした。留学から戻って芸大を卒業したあと再びフランスに渡り、さらに11年間かけてパリ国立高等音楽院で7つのクラス(和声・対位法・フーガ・管弦楽法・楽曲分析・伴奏・指揮)に在籍しました。最後の方は学生として在籍しながら先生として教えたり伴奏助手の仕事もしたりしていたので、音楽院はほとんど第二のホームのような感じです。そうやって昼間は学生をしながら、授業のない時間は伴奏ピアニストや作曲や編曲など、生活のためにありとあらゆる仕事を掛け持ちしていたので、それはそれはハードな毎日でした。 20代の頃の私。 どうして働きながらそんなに長く学生をやっていたかというと、それは当時結婚していた夫のためでもありました。結婚相手は留学時代に音楽院で知り合ったフランス人の作曲家です。実を言えば、芸大卒業後に再び渡仏したのも、彼と24歳で結婚したからでした。音楽院の学生になると、必要な楽譜や資料が借りられるなど、音楽家にとっては得がたいさまざまな恩恵があります。「加奈子は学生を続けてほしい」というのは、当時駆け出しの作曲家だった夫からの要望でした。私も芸高・芸大を通じてずっと専攻は作曲でしたが、結婚を機に作曲は封印しようと思いました。これからは「作曲家の奥さん」として、夫のサポート役に徹しようと考えたのです。 「君は実践のクラスに行くべきだ」  結婚後にパリ国立高等音楽院で最初に取ったのは「管弦楽法」と「楽曲分析」のクラスです。当時、両方のクラスの先生から同じことを言われました。「結婚したからといって自己研鑽や活動を制限しないでほしい。もったいない」。どういうわけか、2人とも私の能力をとても買ってくださっていました。 楽曲分析というのはいわゆる作曲理論を専門的に学ぶクラスで、指導教官はミカエル・レヴィナス先生です。「レヴィナス」という名前を聞いてピンとくる方もいるでしょうか。ミカエル先生は、フランスの有名な哲学者エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas, 1906~1995)の息子さんです。お父さんゆずりの非常に難解なフランス語を話されるのですが、当時まだフランス語を十分に習得していなかった私には何を話しているのかちんぷんかんぷん。当てられないように、いつも教室の隅の方で大人しくしていました。 しかしさすがに何回かすると、先生も「変なのが混じっているな」と気づきます。ある日、授業中に「ちょっと」と呼ばれて教室のピアノの前に座らされました。「これを弾いて」と渡されたのはハイドンの交響曲のスコア。スコア(総譜)というのはオーケストラの全パートが縦にずらっと並べて書かれた楽譜です。演奏会で指揮者が見ている楽譜ですね。それを読みながらピアノで再現することを「スコアリーディング」というのですが、ミカエル先生は普段存在感を消している私が何者なのか不審に思ったのでしょう、スコアリーディングをしてみよ、というわけです。 私は初見演奏(楽譜を見てすぐに演奏すること)もスコアリーディングも得意でした。ほかの学生たちがピアノの周りを取り囲んで事の次第を見守るなか、言われた箇所を私が一通り演奏すると、ミカエル先生が言いました。「君、ドビュッシーの交響詩《海》は知ってるね? 第3章の第1テーマを弾いてみて」。今度はスコア無しです。退学させられては困るので、必死で記憶を頼りに演奏すると、ミカエル先生が「オーッ!」と驚きます。すると最後にかばんからハイドンの弦楽四重奏曲のCDを取り出してこう言いました。「いまから第1楽章を2回聴かせる。それをピアノで再現してごらん」。 まるでサーカスみたいに学生たちの好奇の視線にさらされて嫌でしたが、しょうがないから一生懸命聴いて、弾きました。するとミカエル先生はこう言いました。「君は入るクラスを間違えた。実践のクラスに行くべきだ」。実践、つまり伴奏科、作曲科、指揮科を受けなさい、というのです。 卒業試験で審査員からアンコール とはいえ、楽曲分析のクラスに入ってしまった以上、卒業しなければなりません。卒業するには論文を書いて発表する必要があります。私は卒業論文のテーマにラヴェルの管弦楽曲《ラ・ヴァルス》を選んだのですが……。 試験の前日になって自分の書いたものをミカエル先生に見せたところ、青くなって「これは論文というよりただのデッサンじゃないか」と言われてしまいました。当時はまだ、フランス語で研究論文が書けるほどの語学力がなかったのです。私がすっかりしょげていると、ミカエル先生が言いました。「僕は君に優秀な成績で卒業してほしいんだ。どうだい、僕と協定を結ばないか?」。 ミカエル先生の提案はこういうものでした。私が書いた「デッサン」は、明日までに先生が論文にふさわしい文章に整える。そして、「明日の発表はまず演奏から始めなさい。いますぐ家に帰って、《ラ・ヴァルス》のスコアを最初から最後まで全部ピアノで弾けるようにしておいで」。 その日は徹夜です。当時、私はラヴェル自身による《ラ・ヴァルス》のピアノ編曲版があることを知りませんでした。オーケストラのスコアと首っぴきで、翌日も学校へ行くギリギリの時間まで必死で練習して、試験会場に駆け込みました。自分の発表の番になると、「まずは、演奏からご披露致します」といっておもむろにピアノの前に座り、一夜漬けでスコアリーディングした《ラ・ヴァルス》を弾きました。すると審査員席がワーッ!と盛り上がってしまって、「もう1回弾いて」と声がかかります。アンコールにこたえてもう一度弾くと、ちょうどいい時間稼ぎに。あとはミカエル先生が整えてくださった論文を、そのままだと不自然なので、時折自分のコメントを挟んだりしながら発表しました。...