インドネシアにインスパイアされて【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】
ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新シーズンの始まり みなさん、こんにちは! 日本もやっと涼しくなったようですね。 ヨーロッパでも新しいシーズンが始まりました。私は2022年から音楽監督を務めているフランスのドーム交響楽団で、今シーズンから新たに芸術監督を兼任します。年々責任ある仕事が増え、よりいっそう気持ちが引き締まる思いです。この記事が公開される頃にはオペラ《ゼロ度の女(Woman at point zero)》のソウル公演を終えていったんヨーロッパに戻り、再び日本に来る頃でしょう。前回とは打って変わって、秋の装いとなった日本を訪れるのが楽しみです! インドネシアとの出会い 普段はヨーロッパと日本を行き来することが多い私ですが、10年ほど前、とあるきっかけでインドネシアとご縁ができました。今回はそのお話を。 2011年4月にパリで行った東日本大震災チャリティコンサート(連載第5回)のあと、世界各地からさまざまなチャリティのオファーをいただきました。とても一人で対処できる量ではなく、大半はお断りせざるを得なかったのですが、その中で1年間あきらめずに私にSNSでメッセージを送り続けてきた人がいました。それは、インドネシアの国立芸術大学でクラシック音楽を教えている先生でした。彼いわく、ジョグジャカルタにあるその大学ではクラシック音楽を学べる学科が新設されて日が浅く、まだ充分に環境が整っていない。そこで学生オーケストラを指導しに来てほしい、というのです。 当時の私はジャカルタとジョグジャカルタの違いもよくわかっておらず、相手が実在する人なのかどうかも半信半疑でした。しかし彼もかつて日本に留学して音楽を学んでいたことや共通の知人がいることがわかると親近感が湧き、少しずつ心が傾き始めました。何より向こうの押しの強さと情熱にほだされ、ついに行く決心をしたのでした。もし空港に着いて誰もいなかったら、気持ちを切り替えてバカンスにしよう! そんな勢いでジョグジャカルタに向けて旅立ったのです。 予想に反して(?)、空港に到着するとその先生が出迎えに来てくれていて、まずはひと安心。彼の運転する車で市内のホテルに向かいました。実は私にとって、これが初めての東南アジア。低い建物や手付かずの豊かな自然、街の中心部にも残る遺跡など、目にするものすべてが新鮮で、人々はみんな笑顔に溢れ幸せそうに見えます。 宿泊したホテルの外にはのどかな田んぼの風景が広がっていました。 ホテルと同じ敷地内にはガムランの練習場も。 私が訪れたインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校は、もともとあった舞台芸術学部に美術学部、記録メディア芸術学部が加わった3学部から成ります。なかでも大切にしているのはガムラン音楽やジャワ舞踊などの伝統音楽を教える舞台芸術学部。自国の伝統芸術を尊重し、伝承している大学なのです。他方、新設されたクラシック音楽学科はインドネシアではまだ新しい分野です。事前に聞いていた通り指導者が足りず、一人の先生が打楽器も管楽器も弦楽器も教えている、という状態でした。 芸術的センスの優れた国民性 この時の滞在予定は1週間。最終日には学生オケによるコンサートを開くことになっていたので、翌日からさっそくリハーサルです。時間通りに指定された会場に行くと……誰もいない! 一瞬場所を間違えたのかと思いましたがどうやらここで合っているよう。仕方ないので一人でポツンと座って待っていると、30分くらいしてようやく楽器を持った学生たちが集まり始め、全員揃ったのはなんと1時間後でした。メンバーが揃ったところでいざチューニングを始めようとすると、みんなキョトンとしています。どうもチューニングの仕方を知らないようです。こうして初日はチューニングを教えるところから始まったのでした。 コンサートのプログラムは、ロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲、グリーグの組曲《ペール・ギュント》、そしてメインにドヴォルザークの《交響曲第8番》を予定していました。肝心の演奏はというと、全曲通せるくらいの準備はしてあると聞いていたはずが、実際に振り始めると冒頭4小節からまったく先へ進めない……。こんな状態でリハーサルに1時間も遅れてくるなんて、いったいどういうつもり? 1週間後には本番だというのに! これは相当心を入れ替えて取り組まないと間に合わないぞ、と感じた私は少し厳しい口調で全員に喝を入れました。「私はあなたたちを指揮するために遠路はるばるここへ来たのよ? 本当にやる気があるの!?」すると神妙な面持ちで聞いていた彼らはとたんに目の色を変え、ものすごい勢いで練習に取り組み始めたのです。 普段からコツコツ練習するというよりは、短期集中型なのがインドネシア人の気質なのでしょう。しかしオーケストラから感じる彼らの芸術的センスには非常に優れたものを感じました。もともと「歌を勉強するならインドネシア」と言われるくらい歌に定評のある国なのですが、それはオーケストラの演奏にも表れていて、どの楽器も天性の歌心が自然と湧き出てくるのです。そして驚いたのは打楽器。やはりガムランが発展した国だからでしょうか、リズム感が抜群に良い。あとはコントラバスもすごく上手でしたね。難しいパッセージも最初からしっかり弾けていました。 インドネシアでは誰もが即興で歌も歌うし、お茶を飲みながらギター片手に弾き語りもする。全員がアーティストなのです。生活に芸術が浸透していて、両者を分けていない。先進国ではピアノ専攻とかヴァイオリン専攻というように、ひとつの楽器に特化した訓練をしますが、インドネシアではほとんどの人が複数の楽器を演奏するし、それが当たり前なのです。でも、クラシック音楽だって昔は作曲する人が演奏もして、楽器を弾くこともあれば歌も歌うというのが普通でした。本来あった音楽の在り方のようなものを、私はインドネシアで垣間見たような気がしました。 キラキラした瞳で熱く語られて 練習を始めて3日目のことです。ホテルに帰ると10人ほどの学生たちが私を待ち構えていました。私に話したいことがある、と。急きょ、ホテルのレストランで話を聞くことになりました。すると彼らは、インドネシアの現状と自分たちの問題意識を語り始めたのです。「次世代のために、私たちの世代がインドネシアの音楽教育制度を変えていきたい。それにはあなたの力が必要です。どうか力を貸してください!」。ビー玉みたいにキラキラした瞳で熱く語る若者たちを前にしたら、とても「ノー」とは言えません。未来を語る学生たちの純粋な想いに共感し、私も彼らの力になりたいと思いました。 17世紀から前世紀に至るまでオランダの統治を受けてきたインドネシアは、戦後に独立を勝ち取ったばかりの若い国です。それも、日本の5倍近い国土に300を超える民族が住む、多民族・多言語国家。ガムランやジャワ舞踊などが尊重されているのも、そうした伝統芸能が統一国家としての一種の鎹(かすがい)のような役割を果たしているからなのでしょう。彼らは、そこへクラシック音楽を自分たちの新たな文化として採り入れようとしているわけです。そこには、ただ自分たちがやりたいからというのではなく、自分の国をどうしていきたいのか、ということが背後に強く意識されているのを感じました。 いつからか、私は学生たちから「ママ」と呼ばれるようになっていました。まるで子どものようにみんな私のことを慕ってくるんです。男子学生だけでなく、ヒジャブ(イスラム教徒の女性が髪や身体を覆う布)を付けた女子学生までもが私のあとをゾロゾロついて回りました。そして私が教えたことを貪欲に吸収して、彼らの演奏はぐんぐん良くなっていったのです。 リハーサルのあと、学生オーケストラのメンバーと。 大歓声とウェーブが巻き起こるコンサート 迎えた本番当日。これまでの経緯から、きちんとコンサートがオーガナイズされているのかどうかも不安でしたが蓋を開けてみてびっくり。近隣の大学や学校からチャーターバスで次々と若者が来場し、ホールはあっという間に超満員に。会場に入りきれない人たちのために、野外スクリーンを設置したほどでした。 司会による指揮者の紹介のあと、「マエストロ・カナコ・アベ!」というアナウンスと共に私がステージに出ていくと観客が立ち上がって「ウオ~!」という大歓声とウェーブが! まるでロックコンサートのような盛り上がり方(笑)。彼らにとって、クラシック音楽は最近知った新しい音楽のひとつという感覚なのです。演奏中も音楽に合わせて体を揺らし、心から楽しんで聴いている様子が伝わってきます。コンサートは、練習での仕上がりをはるかに超えた演奏で大いに盛り上がりました。もちろんまだ粗削りなところもありましたが、全員の「表現したい」という情熱がこもった、人の心を揺さぶる素晴らしいコンサートになったのです。 2013年、インドネシアで学生オケと行った初めてのコンサート。...