指揮者への道のりは、茨の道!?①【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】
ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 私の原点――両親は合唱指揮者 皆さん、こんにちは! 今年も暑い季節がやってきましたね。 夏といえば今年はパリ・オリンピックが開催されます。先月はじめにパリへ行ったときはまだ盛り上がっている様子が感じられませんでしたが、この記事が公開される頃には日本でも話題になっているでしょうか? 連載第2回目ではパリ国立高等音楽院「伴奏科」時代のお話をしました。 作曲科を出て、伴奏ピアニストの仕事をして……という私の経歴を見て、「いつ頃から指揮者になりたいと思ったのですか?」とお尋ねになる方も多いのですが、自分でもはっきりと「いつ頃から」というのは難しいかもしれません。 私の両親は合唱団で出会い、結婚しました。大阪では「合唱界の大助・花子」と呼ばれるおしどり夫婦で、私は物心つく頃から両親が合唱団を率いて合唱指揮や指導を行う姿を見て育ちました。週末になると『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ・ファミリーよろしく一家で歌うのがならわしで、一つ下の弟がアルト、三つ下の妹がソプラノ、私がメゾを受け持ち兄弟で三重唱をやったりして、音楽がごく自然に生活のなかにあるような環境でした。両親が合唱指揮をしていたので、子どもの頃は逆に「指揮者は3人もいらない、自分は別のことをしよう」と考えていたように思います。 両親が主宰する帝塚山少年少女合唱団で歌っていた頃(右から2番目)。 録音スタジオにて。少年少女合唱団時代には、CMソングの収録なども行いました(右から3番目)。 その一方で、両親の後ろ姿を見て、指揮者の音楽的な側面以上に「リーダーシップ」に強く惹かれるものを感じていました。合唱団にはいろんな人が来ます。ただ歌が好きな人、合唱に生きがいを求める人、孤独を癒しに来る人、子どもの心を豊かにしたい人……。両親の元で、たくさんの人が合唱を通じて交流する様子を小さい頃から間近で見ていたせいか、「人々を、良き方向へ導く人」という役割には漠然と憧れがありました。強いて言えば、それが指揮者になりたいと思った原点かもしれません。 フランスに移り、両親と離れてみてようやく「もしかしたら私は指揮に興味があるかもしれない」と感じ始めたのですが、その頃は異国の地で音楽家としてちゃんと仕事ができるようになることがまず先決でした。その時に、伴奏ピアニストというのはある意味、「日本人」「女性」であることが大きなアドバンテージになるんです。外国では、「日本人女性は穏やかで、人の話をよく聞いて、その場に合わせた対応ができる」と評判が良いからです。 それで私も伴奏の仕事をたくさんやってきたわけですが、ある時ふと「これを何十年も続けていって、私ははたして幸せだろうか?」と考えてしまいました。どうも自分はここではない、もっと別な場所で活動するような気がする……そんな胸騒ぎのようなものを当時はずっと抱えていました。でも、ここではない場所へ行くためにはもっと頑張らなくてはいけない。そのためには、30歳までに何をするべきか? 20代はずっとそういうふうに考えていました。 指揮者に必要な資質とは 伴奏ピアニストであれば歓迎される大和撫子も、指揮者となるとまったく逆です。オケだって「大丈夫? ちゃんとできるの??」と不安になるでしょう。だから「指揮者になりたい」と思った時点で、ただ優秀なだけではだめで、よほど人よりも抜きん出ないかぎり仕事は来ないぞ、という危機感がありました。 音楽院指揮科時代、サクソフォンアンサンブルの指揮者として中国ツアーに出かけた時。 中国ツアーでの一コマ。 では、指揮者にはどんな資質が必要なのでしょう。 これは私の考えですが、指揮者には「なれる人」と「なれない人」がいると思います。それは音楽的な能力以前に、その人が持っているエネルギーの質を観察するとわかります。エネルギーに満ちていて、人にポジティブな印象を与える人は指揮者に向いています。大勢の個性豊かな人たちを動かして一つの音楽を生み出すわけですから、当然といえば当然かもしれません。普通自動車を運転するのと同じパワーで大型トラックのハンドルは切れないですよね。 伴奏科を修了したあと、指揮科に入学して最初の年にこんなことがありました。 突然、「今年から年度末試験を行うことになりました」と通達されて、オーケストラのリハーサルをする試験が課されることになったんです。課題曲として与えられたのはバルトークの《管弦楽のための協奏曲》。5人の先生が審査をするなか、決められた時間内にリハーサルを行う試験です。当時、指揮科の1年生は私を含めて3人いたのですが、最後に試験を受けた男の子だけは、2年生に進めませんでした。 「君はこのまま勉強しても将来プロの指揮者にはなれない。だから2年生に上がる必要はない」といって退学になってしまったんです。彼は私よりも少し年下でしたが、少なくとも指揮科に入学した時は同期で一番指揮のテクニックがありました。私も彼の試験を聴いていましたが、決して落第するような演奏ではなかったです。 けれど以前、彼が指揮をするときに、オケのメンバーの一人が「あの男の子が振るの? ちょっと変えてもらえないかなぁ、あの子で始まるとやる気出ないんだよね」とこっそり伝えに来たことがありました。指揮台に上がる前からそんなふうに言われて気の毒に思いましたが、人相手の仕事ですからそういうこともあり得ます。 指揮の仕事は「コミュニケーション」が大半なので、最初に「いけ好かない奴だ」と思われてしまうともうそこで扉は8割くらい閉まってしまう。すると、どんなにすぐれた音楽性を持っていようと相手に伝えることが難しくなってしまいます。彼が落第した直接の理由はわかりませんが、彼には人を動かすエネルギーが不足していたのかもしれません。 パリ国立高等音楽院の指揮科は、授業で毎月オーケストラを使うのですごくお金がかかります。そしてそのお金を出しているのはフランス政府です。だから指揮科に在籍していると、自分の卒業演奏会の告知がフランス大手紙『ル・モンド』に掲載されたりするんですね。つまり、認められた学生は政府から手厚く援護を受ける一方、そうでなければさっさと退学させられてしまう。音楽院の指揮科は、半分学校のようで半分プロのような、そんな雰囲気がありました。 「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」 音楽院の指揮科では、卒業生たちから成るオーケストラを相手に毎月1週間ほどリハーサルを行います。それまでのクラスとは違って、実地に投げ込んで鍛えるスタイルです。オケのメンバーは卒業生ですから、私のこともよく知っている人がいるわけです。だからちょっとミスしたり、もたもたしたりしているとすぐヤジが飛んでくる。こちらの言葉尻を捕えて軽口を叩かれたることもしょっちゅう。最初の頃はそういうことにいちいち傷ついていました。「お前がやってること、全然わかんねーよ!」「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」と言われて目に涙をためながら振ったこともありました。 しかも私が指揮を始めた頃は、今よりずっと女性に厳しかった。「女が指揮台に立ったらオーケストラの奴らが見るのはボインのところだけだよ!」なんて平気で言う人がいた時代です。オケのメンバーも、男の人だけでなく、女の人からも「女性指揮者なんてありえない!」と反発があるくらい拒否反応が大きかったんです。指揮台の上でちょっと女性っぽいしぐさをしようものなら、「それがいけないんだよ!」と言われたり。今考えたらおかしな話なんですけどね。 指揮科演奏会のリハーサル風景(2005年頃)。 この時の演目はプロコフィエフの組曲《ロミオとジュリエット》。 私も最初は自信がなかったし、自信がなければないほどよけい頑なになってしまって、自分を強く見せようとしていました。妙に肩肘張って、「こうするんだ!」と自分の考えを相手に押し付けようとして、逆に「何あいつ」と思われてしまったこともありました。長いこと、指揮台にのぼることはすごく特別なことのような感じがして、いつも緊張していました。慣れてきたのは本当にここ数年です。...