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ベートーヴェンの「第九」――コロナ禍と、初版の出版【演奏しない人のための楽譜入門#14】

ベートーヴェンの「第九」――コロナ禍と、初版の出版【演奏しない人のための楽譜入門#14】

 かつて2018年に、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』に出演し、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱付き》――通称「第九」の解説をさせていただいたタイミングで、筆者はあることを調べました。一体、日本国内では12月に何回、「第九」が演奏され、何人ぐらいが合唱団の一員として歌っているのでしょうか。  クラシック音楽のコンサート情報が最も集約されているフリーペーパー『ぶらあぼ』(2018年12月号)に掲載された公演を数えてみると、およそ180回の演奏が確認できます(載っていない公演もあるだろうと考えれば、約200回!?)。  そして「1万人の第九」「5000人の第九」といった極端な例を含み、公演の8割はアマチュア合唱団が出演しているため、1公演100人以上が歌っていると考えられます(古楽系の演奏でプロの合唱団であれば、30名ほどの演奏も何とかあり得るが……)。つまり、延べ人数3万人ほどは12月に第九を歌っている概算となるわけです。こんな国は、ドイツ語圏を含めても、日本の他に存在しません。 コロナ禍の「第九」    世界中のどの国よりも「第九」を愛する日本人は、合唱による飛沫が問題視される昨今でも、万全の対策を講じて12月に「第九」を演奏しようと、各所で準備が進められています。毎年、第九の特別演奏会を企画している(オーケストラ連盟に所属するプロの)オーケストラに加え、世界的な評価も高い古楽器オーケストラであるバッハ・コレギウム・ジャパンも12月27日に急遽「第九」の公演を行うことにするなど、コロナ禍でも「12月に第九」という風習は続いてゆきそうです。  その先駆けとなったのが横浜のみなとみらいホールで、10月5日にはフランツ・リスト編曲のピアノ独奏版を若林顕が取り上げ、合唱も独唱陣もいない「第九」を演奏。そして11月10日には、渡辺祐介の指揮で古楽器によるオルケストル・アヴァン=ギャルドと合唱団クール・ド・オルケストル・アヴァン=ギャルドが「第九」を演奏しました。合唱はプロの声楽家が集まった28名(ソプラノ8名、アルト8名、テノール6名、バス6名)による少数精鋭で、一人ひとりをアクリルボードで区切って飛沫対策。これで演奏が実現できたのもプロだからであり、大人数を前提としたアマチュア合唱団による演奏が今年に限っては大幅に減ってしまうのは致し方ないでしょう。  ちなみに、これまでアマチュア合唱団が「第九」を歌う上で重要なアイテムとなってきたのが、第4楽章だけを抜粋したピアノ・リダクションの楽譜です。特に国内の出版社から出された、初心者が演奏する上で役立つ情報を盛り込んだ楽譜が各社から出版されており、合唱団指定の楽譜を購入して、プロの指導をもとに譜読みと練習を重ねていきます。  実は、こうした第4楽章だけを抜粋した国内版のほとんどは、ブライトコプフ&ヘルテル社が出版した楽譜(1864年/1930年/1964年)をもとにして、作られています。それは何故なのでしょうか? 第九の誕生と楽譜出版の経緯を、振り返ってみたいと思います。   「第九」の作曲    そもそも「第九」が書かれるきっかけを作ったのは、ロンドンのフィルハーモニック協会だと言われています。現代ではオーケストラの名称として使われている「フィルハーモニック」「フィルハーモニー」という言葉の原義は「フィル(愛する)+ハーモニー(調和=音楽)」で、「音楽愛好家」という意味になります。フィルハーモニック協会は音楽愛好家(※プロも含む)の集まりで、演奏会を企画したり、新作を委嘱したりと、当地の音楽文化を振興するための団体なのです。  1813年2月に設立されたロンドンのフィルハーモニック協会は、1815年5月にフェルディナント・リースをディレクターに任命します。リースは、ベートーヴェンと同じボン出身の作曲家・ピアニストで、ベートーヴェンの愛弟子として知られる人物でした。彼はフィルハーモニック協会の事業として、イギリス国外から優れた音楽家の招聘を企画します。そのうちのひとりがベートーヴェンだったのです。  1817年6月にリースは、ベートーヴェンに手紙をしたためます。依頼は「次の冬のコンサートシーズンにロンドンに滞在して欲しいこと」「フィルハーモニック協会のために交響曲を2つ作曲して欲しいこと」「その交響曲はフィルハーモニック協会の所有物となること」「報酬は300ギニーで、契約すれば100ギニーを前払いすること」という内容でした。  当時の1ギニーは、現在の通貨価値でいえば8000円強にあたるそうなので、およそ250万円で交響曲2曲とロンドン滞在という依頼になります(とはいえ、少なくとも「第九」のような巨大な作品は想定されていなかったと思われます)。この依頼に対し、ベートーヴェンは旅費として別途100ギニーを乗せるように要求。聴覚障害を抱えるため、旅には同伴者が必要という理由付けでした。  しかし、結局はベートーヴェン自身の身辺事情や体調を理由に延期。ベートーヴェンは「ロンドンに行けるかどうかは体調次第。交響曲を1曲書くだけなら、いくら払えるか?」という主旨の手紙をリースに送り、「50ポンド支払うが、18ヶ月間は協会の専有物(=出版してはならない)とすること。提出期限は来年3月」という協会の会議を経た上での返答が1822年11月に届きます。当時の50ポンドは現在の紙幣価値で「40万円」ほどだといいますので、前回の金額よりも大幅に下がっていますが、ベートーヴェン自身はこの条件を飲みます。  しかし提示された期限には間に合わず、代わりに《献堂式序曲》Op. 124をロンドンへ送って、18ヶ月の専有権を与えることで場つなぎ。締切から11ヶ月後の1824年2月になって、やっと完成にこぎ着けました。筆写譜を作成し、ロンドンに楽譜を送り出したのは同年4月だったにもかかわらず、理由は不明ですが届いたのは12月だった模様です。こうしてベートーヴェンはフィルハーモニック協会から50ポンドを支払われました。   ▲ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年) (出典:Wikipedia)   「第九」で稼ぐ    たかだか40万円ほどで「第九」を売り渡したことに疑問を感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろんベートーヴェン自身も、これだけで終わらすつもりは毛頭ありません。当時のベートーヴェンは兄弟や秘書の協力も得ながら、出版の権利をなるべく高く売るべく、複数の出版社と交渉を重ねています。そのため、それまで契約のなかった出版社との関係も生まれたりしています。最終的に「第九」の初版を出したショット社もそのひとつです。  ベートーヴェンが生まれた1770年、同じ年に創業したショット社は、1791年に《リギーニのアリエッタ〈愛よ来たれ〉による24の変奏曲》WoO65というベートーヴェンの初期作品を出版しているのですが、関係はそれっきり。ベートーヴェンがショット社と交渉するようになるのは、1819~23年にかけて作曲された《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》Op. 123以降のことです。  この段階では7~8社目の交渉相手に過ぎませんでしたが、なんとショット社は《ミサ・ソレムニス》、《交響曲第9番》、《弦楽四重奏曲第12番》などと、同時期に書かれた作品をまるごと請け負うことになります。ベートーヴェンが提示した額はそれぞれ、《ミサ・ソレムニス》が1000グルデン(現在の紙幣価値で約90万円)、《交響曲第9番》が600グルデン(約53万円)、《弦楽四重奏曲第12番》が50ドゥカーテン(約20万円)となっていますが、前述したように「第九」にはロンドンのフィルハーモニック協会が18ヶ月間の専有していたため、出版はそれまで待たなければなりませんでした。そういったややこしい条件も飲んでくれたのがショット社だったわけです。「第九」完成の翌月、1824年3月には話がまとまっていました。...

著作権とレンタル楽譜 ~海賊版はどのように駆逐されてきたか?~【演奏しない人のための楽譜入門#13】

著作権とレンタル楽譜 ~海賊版はどのように駆逐されてきたか?~【演奏しない人のための楽譜入門#13】

  音楽に限らず、深刻な社会問題となっている違法アップロード。著作者が本来得られるはずだった収入が奪われることで、新しい作品を生み出すための資金が減り、結果として文化全体が弱体化……。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これは紛れもなく実際に起きていることなのです。現代は多くの場合、WEB上で権利侵害が発生していますが、同様の問題は古くから海賊版というかたちで著作権者にとっての悩みの種でした。有名な作曲家たちは、どのようにこの問題と向き合ってきたのか? 著作権法の成立やレンタル楽譜という出版形態の話を交えつつ、ご紹介してまいりましょう。 旋律を盗まれるな!    これまでの連載で楽譜出版について様々な角度から紹介してきましたが、現代でこそ若い世代を中心に、作曲家自身がコンピューターで浄書(清書)するケースも珍しくなくなりましたし、これからもっと増えていくことでしょう。しかし改めて言うまでもなく、作曲家の自筆譜は千年以上にわたって手書きが基本。なんなら、プロの写譜屋にパート譜の作成を依頼すれば、美しくて見やすい譜面を今も手書きで製作してくれます。  このような作曲家が書いた総譜(スコア)から、作曲家自身ないしは第三者がパート譜を作成するという流れ作業は、今から数百年前のバッハやモーツァルトの時代であろうと変わりません。ところが当時は、この写譜をおこなう職人が――まるで経理が金銭を横領するかのように!――こっそり自分用に楽譜を書き写して無断で転売したり、海賊版の出版に繋げてしまう悪人がいたというのです。  実際、ハイドンが自分の作品を出版していたアルタリア社に対して、一部の職人がそうした悪事を働いているとクレームをつけていたり、レオポルド・モーツァルトは息子 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに、主要な旋律のパート譜だけは自分の目の届く範囲で写譜をさせるように助言を残しているほど。作曲家たちにとっては珍しい話ではなく、日々の防犯意識の一部であったろうことが想像されます。  また出版された楽譜をもとにして、何食わぬ顔で海賊版を製作されてしまう場合もありました。当時の流通状況も影響し、出版地とは異なる都市で海賊版が出回るケースが多かったので、 ベートーヴェンは、大きな音楽出版社がある主要都市で並行して出版の準備を進めたりしました。「悪貨は良貨を駆逐する」の逆で、正しい楽譜を流通させることで、海賊版の稼ぎを潰しにかかったわけです。   あなたが使っている楽譜は正しく入手したものですか?   著作権/上演権という概念の誕生    ですが、こうして作曲家の自衛で対応できる範囲も限られています。そこでコピーライト(Copyright)――直訳すれば「複製の権利」である著作権が法律で定められるようになっていくのです。現代の著作権法の先駆となったのは、イギリスで1709年(現在の西暦では1710年)に発行された「アン法」で、出版物を複製する権利を14年(後に28年)間にわたって保護するというもの(ただし、この法律が守られるようになっていくには、相当な時間を要しています)。  1814年になると「著作権者の存命中」もしくは「出版から28年間」を比べた時に、より長い期間を保護するようになりました。そして1886年のベルヌ条約以降になると、作者の死後50年間(以上)という国々が広まっていくこととなります。  そして演劇や音楽のように舞台上でパフォーマンスされる分野については、印刷物以外でも権利が守られるべきだという考えが登場。先駆となったのは1791年にフランスの法律で定められたパフォーミング・ライツ(Performing rights)――直訳すると上演権・演奏権――です。こうしてオペラや演劇のような舞台作品は、保護期間にある限り、作者の許諾なく上演できない(≒無断上演を裁判で訴えられたら負ける)という風に変化していくのです。  この延長線上で、今度は(「天国と地獄」で知られる作曲家)オッフェンバックのオペレッタ作品で台本作家をつとめたエルネスト・ブルジェが裁判をおこし、自分が関わった作品が舞台で上演されるたびに、金銭を受け取る権利を1851年に勝ち取ります。これがきかっけとなって設立されたのが、世界最古の音楽著作権管理団体SACEM(Société des Auteurs, Compositeurs et Editeurs de Musique)でした。日本における日本音楽著作権協会(JASRAC)の先駆となった団体といえるでしょう。こうして、作品が演奏されるたびに著作権者が収入を得られる仕組みが整えられていったのです。   レンタル楽譜の存在意義...

ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」【演奏しない人のための楽譜入門#12】

ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」【演奏しない人のための楽譜入門#12】

 今回のタイトルを見て、頭に「?」が浮かんだ方もいらっしゃるかもしれません。「ジャズといえば即興!」というイメージをお持ちでしたら、それ自体は決して間違っていないですし、小編成のジャズではメロ譜(リード・シート)と呼ばれるメロディとコードネームだけが書かれた楽譜をもとに即興演奏をしていくのが基本です。一方、ビッグバンドや現代のラージアンサンブルであれば各奏者はパート譜をみながら演奏し、その合間にソロ(アドリブ)がフューチャーされることになるのですが、今回のテーマに設定したのは、あくまで「クラシック音楽」なので、それらとも異なります。一体なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、ジャズとクラシックは遠いようでいて意外と近しい……そんなお話をしたいと思います。   どこからがジャズ? どこからがクラシック?    ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」――というと、まるで自己矛盾した文章のように思えてもしまいますが、今回の場合は「クラシック音楽の音楽家に演奏されることを想定した作品」と定義しておきましょう。あるいは、ジャズの即興演奏する能力がなくとも、楽譜の通りに演奏することが可能な音楽と言い換えることが出来るかもしれません。  ジャズのサウンドを持っていて、なおかつアドリブがない音楽といえば、まず筆頭に挙げられるのは、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)の《ラプソディ・イン・ブルー》(1924)でしょうか。ジャズ・ピアニストが演奏する場合は適宜、即興が加わることが多いですが、基本的には楽譜通りに演奏される楽曲です。ところが、ガーシュウィンは、あくまでも当時流行の最先端にあったジャズのサウンドを取り入れたミュージカルの作曲家、後に転じてクラシック音楽の作曲家になったとはいえるかもしれませんが、ジャズ・ミュージシャンとして活動した音楽家ではありませんでした。  むしろ、よりジャズに近いところにいたのは《ラプソディ・イン・ブルー》のオーケストレーション(当時のガーシュウィンにはオーケストラの楽譜を書くスキルがなかったため、その代わり)を担ったファーディ・グローフェ(1892~1972)だったともいえますが、現在の視点からみればジャズとクラシックの中間にいた人……というぐらいの認識が適切であるようにも思います。  ガーシュウィンやグローフェが手掛けたオーケストラ作品はシンフォニック・ジャズと呼ばれていますが、こうしたジャズのサウンドをもった(先に定義した通りの意味での)「クラシック音楽」というのは長らく、クラシック側がジャズの語法を取り入れたものであったので、“ジャズ・ミュージシャンの作曲した「クラシック音楽」”という今回のテーマには合致しない作品ばかりなのです。(この連載の第10回「ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る」に登場したクラウス・オガーマン(1930~2016)も、これまたグローフェに近い事例といえます。)   ▲ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937) (出典:Wikimedia)   ▲ファーディ・グローフェ(1892~1972) (出典:Wikimedia)   「ECM New Series」という発表の場    プロのアレンジャーではないジャズ・ミュージシャンが「クラシック音楽」を手掛けた初期の事例のなかで、比較的知られているのはフリージャズの旗手オーネット・コールマン(1930~2015)が作曲した《Forms & Sounds》(1965年録音)という木管五重奏曲……なのですが、調べた限り、楽譜は市販もレンタルもされていない模様。再演するためには採譜するしかなさそうです(楽譜の情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡ください!)。オーネットに近いスタンスの「クラシック音楽」としては、ジョン・ゾーン(1953~ )も挙げられるでしょう。Hips Road Editionという自身の出版社のWEBサイトで確認すると、1972年から現在まで、コンスタントに「クラシック音楽」が書かれ続けていることが確認できます。  こうしたフリージャズと現代音楽(≒第二次世界大戦後のクラシック音楽)の接近は、1957年頃からガンサー・シュラーが主導した「第三の流れ(サード・ストリーム)」という文脈と深く関係しているのですが、その説明についてはnoteにて拙稿の「ジャズとクラシックの100年【第3回】 1960-70年代:[前編]ジャズでもクラシックでもない音楽」に譲ります。今回の本題からは逸れてしまうので、ご興味ある方だけお読みください。  そこそこ前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。前述した「第三の流れ」とも異なる文脈で、(アレンジャーを本業としない)ジャズ・ミュージシャンが「クラシック音楽」を発表しはじめるのは、1970年代以降のこと。発表の場となったのはECMレコード(1969~ )で、先駆をきったのがジャズ・ピアニストのキース・ジャレット(1945~...

映画音楽と楽譜の“微妙”な関係~ジョン・ウィリアムズとウィーン・フィルの共演を記念して~【演奏しない人のための楽譜入門#11】

映画音楽と楽譜の“微妙”な関係~ジョン・ウィリアムズとウィーン・フィルの共演を記念して~【演奏しない人のための楽譜入門#11】

 2020年1月18日は、記念すべき日となった。世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に『スターウォーズ』などの音楽で知られるジョン・ウィリアムズが立ったのだ。そもそもウィーン・フィルが初めてジョン・ウィリアムズの曲を演奏したのは、2010年とごく最近。音楽の都で映画音楽が軽んじられてきた原因を、「楽譜」というキーワードで探っていきましょう。   サイレント映画時代の映画音楽    現存する最古の映画音楽として知られているのは、フランスの作曲家カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)が作曲した『ギーズ公の暗殺 L'assassinat du duc de Guise』(1908)という作品です。当時はまだサイレントの時代でしたから、映画に音楽をつけるには上映にあわせて生演奏をするしかありませんでした。ピアノやシアターオルガン(打楽器付きのオルガン)で即興的に演奏されることもありましたが、サン=サーンスは劇付随音楽の延長で『ギーズ公の暗殺』の音楽を作曲したのです。   ▲『ギーズ公の暗殺』 ピアノのパート譜 (出典: International Music Score Library Project)    劇付随音楽というのは演劇の上演に合わせて書かれた音楽のことで、クラシック音楽以外の分野では一般的に劇伴(げきばん)と呼ばれます。ベートーヴェンの『エグモント』、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』、ビゼーの『アルルの女』、グリーグの『ペール・ギュント』など、数々の管弦楽曲が劇付随音楽として書かれたのです。  ただし、サン=サーンスの作曲した『ギーズ公の暗殺』は、管弦楽曲ではなく室内楽(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハルモニウム、ピアノによる七重奏)。おそらくは、『ギーズ公の暗殺』自体が15分程度と短いこと、映画は演劇よりも繰り返し上映されることから、再演しやすい小さな編成で作曲されたのだと推測されます。  その後、アルテュール・オネゲル(1892~1955)がアベル・ガンス監督の長編映画『ナポレオン』(1927)(※オリジナルの上演時間は6時間半!)のためにオーケストラで音楽をつけていますが、現在演奏可能なのは映画から独立して編曲された組曲版のみ。しかも音楽をどの場面のどのタイミングで演奏するかを指示したキュー・シートは現存していない模様で、上映当時の再現は難しいのです。   トーキー時代初期の映画音楽    音声と映像が同期される「トーキー」の技術――特にサウンドトラック方式――が実用化されると、音楽はより映画に欠かせないものとなっていきます。クラシックの作曲家としては、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)がセルゲイ・エイゼンシュテイン監督と組んだ『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)、ウィリアム・ウォルトン(1902~1983)がローレンス・オリヴィエ監督と組んだ『ヘンリィ五世』(1944) など高度なコラボレーションの事例として挙げられるでしょう。  例えば、下記の設計図は『アレクサンドル・ネフスキー』の戦闘場面の音楽と、シーンの対応を図示したものなのですが、どの瞬間にどの音符が鳴るべきなのかが分かりやすく示されています。音楽が開始するタイミングだけでなく、音楽が流れている間は常に映像と完璧に結合させられていることがご理解いただけるはず。  ...

ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る【演奏しない人のための楽譜入門#10】

ポケットマネーを駆使した音楽家の自費出版事情を探る【演奏しない人のための楽譜入門#10】

これまで出版社を中心に様々な輸入楽譜の話題をお送りしてきましたが、今回のテーマは自費出版(自社出版)。作曲家はどんなときに自費出版をしてきたのか?また、21世紀現在の作曲家たちにとっての自費出版とは?そして、自社出版の抱える問題について……と、このテーマを多角的に掘り下げてみたいと思います。   自費出版をしてまで得たかったもの   楽譜出版が本格化していくのは、イタリアのペトルッチ(1466~1539)による「活版印刷の多重刷り」以後のこと……と言われておりますが、それ以前にも以後にも手書きの「筆写譜」や「木版画」による楽譜などが流通していました。しかし、国や時代によっては出版までのハードルに大きな差があったようです。例えば、かのヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)が1000曲以上手掛けた作品のうち、生前に出版されたのは僅か20曲ほどに過ぎません。   ▲《6つのパルティータ BWV 825–830》/ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)   その数少ない例に含まれる《6つのパルティータ BWV 825–830》が、実はバッハ自身の自費出版によって世に出されたのです。1726~30年にかけて1曲ずつ出版したのち、1731年に6曲まとめて再版されているのですが、その際の表紙をみてみましょう。赤丸で囲んだ部分に「In Verlegung des Autoris(著者による出版)」と書かれていますね。 生前のバッハは、作曲家としての評価以上にオルガン・チェンバロ奏者として名を馳せたことで知られていますが、この曲以前に出版された2つの作品はカンタータ(管弦楽付きの声楽・合唱曲)でした。1723年からライプツィヒ聖トーマス教会のカントルという要職に就いていたバッハは、日々の激務のあいだを縫って、職務内では実現が難しい自らの鍵盤楽器奏者としての実力、そして勿論、作曲家としての実力を知らしめられる作品を自腹で世に問おうとしたのでしょう。(ちなみにバッハが本作のモデルにしたことで知られるクーナウの《新クラヴィーア練習曲集》も自費で出版された作品です。) 音楽家としての知名度と評価を目的とした自費出版としては、シューベルト(1797~1828)の《魔王》(1815)も似た事例といえるかもしれません。今でこそ音楽史に燦然と輝く傑作として知られているこの曲も、当時の感覚では作曲者は無名の18歳。もととなった詩を書いた巨匠ゲーテ(1749~1832)や出版社に楽譜を送っても、相手にされることはありませんでした。 作曲から6年ほど経った頃、シューベルトの音楽を理解し応援してくれる人が増えてきます。そうなると何故、楽譜が全然出版されていないのか?……という違和感を、シューベルト本人になりかわって思い至る友人があらわれ、改めて出版社を経営するハスリンガーとディアベリに楽譜が持ち込まれます(後者は、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》の主題を書いたあのディアベリです!)。 しかし、どちらの出版社も「作曲者の知名度が低い」「ピアノ伴奏が難しすぎる」……ゆえに「売れない!」と判断。シューベルト側が「印税はいらない」と大幅の譲歩をみせても、首は縦にふられません。そこで自費出版ということになるのですが、家計に余裕のないシューベルトはそのお金が出せず、彼を応援する4名が肩代わりすることで、遂にディアベリ社から出版されることになったのです。   ▲《魔王》(1815)/シューベルト(1797~1828)   この楽譜が即日で100部売れると、その費用をもとに次の曲、また売れると次の曲……と自費出版を繰り返していくと、ディアベリ社も態度を変えます。通常の出版契約を結べたことで、シューベルトの様々な作品が世に出ていくきっかけとなっていきました。   左から ▲『ヴァイオリン奏法論 Art of Playing...

高額だけど買ってしまう!? ファクシミリ版の世界【演奏しない人のための楽譜入門#09】

高額だけど買ってしまう!? ファクシミリ版の世界【演奏しない人のための楽譜入門#09】

Sheet Music Storeで「輸入楽譜」と検索し、「価格の高い順」に並び替えてみると、上位にくるのは「全集楽譜」や「パート譜セット」など、物理的にページ数や冊数が多い楽譜が中心となります。ところが1曲の総譜(スコア)であるにもかかわらず、5~15万円ぐらいの価格帯が並ぶのが「ファクシミリ版」と呼ばれる楽譜です。ファクシミリといえばFAX(ファックス)の正式名称をイメージされる方が多いことと思いますが、facsimileは「複写」を意味する英単語で、楽譜の場合、作曲家自身が手書きした「自筆譜」の複製を指す言葉として使われることが多いのです。今回はこのファクシミリ版の存在意義について、迫ってみようと思います。   出版譜からこぼれ落ちてしまう情報   そもそも、これまで連載のなかで紹介してきたように専門家が仔細に研究を重ねて出版した原典版(作曲家の最終判断を反映させた楽譜)が存在しているのに何故、手書きの譜面に立ち戻る必要性があるのでしょうか? 例えば、下記の画像はベートーヴェンの月光ソナタ(ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調)の第1楽章の自筆譜から抜粋したものですが、右手と左手で楽譜の縦の線が揃っていなかったり、表記が省略されていたり、ぐちゃぐちゃと音符が消されていたり、手書きで五線が書き足されていたりと、お世辞にも読みやすい楽譜とはいえません。     そして自筆譜であろうと音の間違いが存在しています。下記はベートーヴェンの熱情ソナタ(ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調)の第3楽章の終結部なのですが、赤丸で囲んだ音符は「ラ♭」になっており、実際、ウラディーミル・ホロヴィッツはこの自筆譜の通りの音にした演奏を録音しています。ところが専門家は総じて、様々な根拠によりベートーヴェンの書き間違いと判断。出版されている楽譜では「ファ」に修正されているのです。     以上のような状況を鑑みると、自筆譜はベストな選択とは言い難いことがご理解いただけるでしょう。ところが、出版譜になる過程で実は削ぎ落とされてしまう情報もあるのです。有名な事例として挙げられるのが、シューベルト作曲の未完成交響曲(交響曲第7番 ロ短調)の第1楽章のラストです。ちなみに、下記の楽譜はあのブラームスが校訂編集した出版譜になります。     最後から5小節目にff(フォルティシモ/とても強く)と指示があり、音楽は決然と終わるかのように思われるのですが、最後から2小節目の和音までくると、全ての音符に「>」を横長にした記号がつけられています。これは「徐々に弱く」という意味のデクレッシェンドを表す記号であるため、この最後の和音はffの付された音よりも柔らかく演奏されることが多いのです。古今東西、有名な指揮者の数多くがそのように演奏した録音を残しています。     しかしながら、シューベルト自身が手書きした自筆譜と、先程の出版譜をじっくり見比べてみると、異なる可能性が浮かび上がります。デクレッシェンドが上に書いてあるか、下に書いてあるかという違いはスペースの都合に過ぎませんが、音符を中心に見た時に「>」を横長にした記号の位置が微妙に異なっているのです。自筆譜(下記図の左)は中央で、出版譜(下記図の右)は右寄りに付されているように見えないでしょうか? もし中央に付けられている記号だとしたら、これはデクレッシェンドではなくアクセント(通常は横長ではない「>」)の可能性が出てきます。     他のページも見比べてみると、より傾向がはっきりします。下記の譜例のなかで水色で囲んだ部分はデクレッシェンドだけでなく、クレッシェンド(横長の「<」)も含まれていますが、いずれも音符の中央に書かれているように見えません。一方、オレンジ色で囲んだ音符に付けられた「>」は音符の中央に位置しているように見えますよね?(先程のブラームスが校訂した出版譜でも、ここはアクセントとして印刷されています。)つまりシューベルトは、「デクレッシェンド(横長の「>」)」と「アクセント(ただの「>」)」を横長かどうかで書き分けているのではなく、音符の中央に位置しているかどうかで表しているようなのです。     なお、似たような問題はショパンでも発生しております。ノクターン(夜想曲)第8番変ニ長調(Op.27...

楽譜を通して、歴史にその名を轟かす偉大な演奏家の解釈を学ぶ ~正しい楽譜が、唯一の正義なのか?~【演奏しない人のための楽譜入門#08】

楽譜を通して、歴史にその名を轟かす偉大な演奏家の解釈を学ぶ ~正しい楽譜が、唯一の正義なのか?~【演奏しない人のための楽譜入門#08】

これまでの連載のなかで、何度か「原典版」の話題を取り上げました。いま一度、残された資料を創作や受容の過程を含めて整理し、出版後におこなわれた修正・改訂も含めて、作曲家が意図した最終的な完成形を正しく反映した楽譜を出版しようというのが、原典版の目指すところです。演奏の際には原典版を使うべきだ!……という意見が現在では主流になりつつありますが、ある意味でその真逆をいくのが、いわゆる「解釈版」と呼ばれる楽譜。先月の記事で取り上げたコルトー版も代表的な例のひとつですが、それ以上に深く浸透したのがインターナショナル・ミュージック社による出版譜でした。   日本では単にインターナショナル版、あるいは略してインター版なんて呼ばれることもありますが、正式にはインターナショナル・ミュージック・カンパニー(略称 IMC)という1941年にアメリカで設立された出版社です。日本語に訳した時に混同されてしまいそうなインターナショナル・ミュージック・パブリケーションズという企業もありますが、こちらはイギリスで設立されたワーナー・ブラザース系の出版社なので全くの別系列になります。 インターナショナル・ミュージック・カンパニーを立ち上げたのはエイブラハム W.ヘンドラー Abraham W. Haendler (1894頃~1979)という人物で、経営だけでなく、マーラーの楽譜を出版する際にはドイツ語の楽語*1を英語に翻訳したりもしているようなのですが、いずれにせよ資料が少なく、詳細は不明。亡くなるまで、この出版社の経営を続けました。そして彼の死後は、フランク・マルクスという人物が会社を継ぎ、ボーン音楽出版社 Bourne Co. Music Publishers(「ホワイトクリスマス」などの名曲で有名なアーヴィング・バーリンらによって設立)の子会社となって現在に至ります。 *1……音楽用語のこと   ▲アーヴィング・バーリン(1888~1989)     ヘンドラーの経営方針は、作曲家の新作を手掛けるというよりも、既にある程度知られた楽曲のアメリカ国内版や、原曲とは異なる編成のアレンジを手掛けることにあったようです。様々な楽譜が出版されましたが、ボーン社の傘下となっている現在の公式サイトをみると、次のような売り文句が書かれています。   私たちの〔楽譜の〕編集者は、あらゆる音楽分野における世界で最も卓越した演奏家や、一流交響楽団の楽団員、教育者、教師と、それぞれの分野で著しく有名な顔ぶれを揃えています。彼らの貢献により、IMC版は音楽界にとってかけがえのない存在となっているのです。 どういうことかといえば、卓越した演奏家や、優秀な弟子を輩出する教育者が楽譜の編集者を務めることで、彼らの演奏や指導の秘密の一端を今からでも学ぶことが出来るのです。それこそがインターナショナル・ミュージック・カンパニーの楽譜が現在でも愛用されている理由なのです。 この出版社と最も深い関係にあった演奏家のひとりがジノ・フランチェスカッティ(1902~1991)――イタリア系のフランス人ヴァイオリニストでした。フランチェスカッティの父は、パガニーニの孫弟子にあたる人物であり、彼自身もその教えを継いだパガニーニ弾きとして知られています。パリ時代にはフランスの大ヴァイオリニストであるジャック・ティボーに師事したり、ラヴェルの弾くピアノとも共演したりと、若い頃から偉大な音楽家から薫陶を受けています。転機となったのは1939年、第二次世界大戦を避けてアメリカに移住したこと。同じ年にアメリカへと逃れてきた大指揮者ブルーノ・ワルターとも度々共演し、とりわけモーツァルトのヴァイオリン協奏曲集の録音は、史上最高の名演のひとつとされています。 どういう経緯があったかは不明ですが、確認できる範囲で早い時期にフランチェスカッティが編集に携わったのは1954年のショーソン《詩曲》でした(※なお、シベリウス《ヴァイオリン協奏曲》の楽譜には1942年&1964年とクレジットされていますが、1942年の方にフランチェスカッティは関わっていない模様です)。その楽譜にはどのような特徴があるのでしょうか? ヴァイオリンなどの擦弦楽器(弓で弦を擦ることによって音を出す楽器)の楽譜は、スラー(音符から音符にかけられた曲線)のかけ方によって、弓をどこまで折り返さずに演奏するのか(これをボウイングもしくは運弓といいます)を指示しています。作曲者のショーソンはピアノを演奏しましたが、ヴァイオリン弾きではなかったからでしょうか。全体的な傾向としてスラーが長め。いわゆるフレージング・スラー(運弓ではなくフレーズ感を示したスラー)と呼ばれるような、弦楽器奏者がそもそもから考え直す必要があるようなスラーの付け方になっているのです。 それに対し、フランチェスカッティの編集が加わった楽譜(公式サイトに楽譜のサンプルがあるので、必要があれば参照してみてくださいね!)は、スラーが付け直されているだけでなく、どこで上げ弓、下げ弓にするのかという指示も適宜書かれていたり、使用する弦やフィンガリング(指使い)も細かく書き込まれています。これらは本来、演奏者が練習するなかで自ら判断し、書き込んでいく内容ですから、通常は弟子入りでもしない限り、見せてもらえません。いわば一流企業が企業秘密の一端を公開するようなものと考えれば、ヴァイオリニストにとってどれほどインパクトがある存在か、感じていただけるのではないでしょうか。   ▲詩曲 Op.25/フランチェスカッティ編 ショーソン,...

武満徹は、いかにして「世界のタケミツ」になったのか? ~出版社との関わりから読み解く~【演奏しない人のための楽譜入門#07】

武満徹は、いかにして「世界のタケミツ」になったのか? ~出版社との関わりから読み解く~【演奏しない人のための楽譜入門#07】

クラシック・現代音楽の日本人作曲家のなかで、欧米においてその才能を認められただけでなく、現在もレパートリーとして広く定着しているのが来年2月に没後25年をむかえる武満 徹(1930~1996)です。音楽の教科書にも載っている代表作《ノヴェンバー・ステップス》をはじめ、その作品の多くが海外の出版社から販売・レンタルされている武満。彼の出世街道を、出版社との関わりという観点から眺め返してみましょう。   現在確認できる範囲で最初に出版された武満の楽曲は、1958年に作曲された弦楽八重奏曲《ソン・カリグラフィⅠ》です。この作品は、音楽評論家の吉田秀和を所長とする「20世紀音楽研究所」が主催する作曲コンクールで第1位とともに、フランス大使賞と音楽之友社出版賞を受賞しました。後者の副賞は、その名前からして明らかに音楽之友社(1941年創業)がこの作品の楽譜を出版するという内容だったと思われます(実際、武満とともにこのコンクールで賞を獲った松下真一の《8人の奏者のための室内コンポジシオン》は、1958年に音楽之友社から出版されています)。しかし《ソン・カリグラフィⅠ》は音楽之友社ではなく、フランスの出版社サラベールから楽譜が出されていました。おそらくは、もうひとつ副賞として獲得した「フランス大使賞」の繋がりだったのだと思われます。   ▲武満 徹(1930~1996)   1970年代のサラベール社   もともとサラベール社(Editions Salabert)は、19世紀後半にエドゥアール・サラベール(1838~1903)によって立ち上げられ、彼が体調を崩したあとは息子のフランシス(1884~1946)に引き継がれた出版社です。シリアスな音楽ではなく、昔風にいえば軽音楽(ライトミュージック)を中心に取り扱ったため、フランス版のティン・パン・アレイともいえるでしょう。オペレッタ(喜歌劇)やミュージカルで歌われるような楽曲の楽譜の販売により、経済的な成功をおさめています。 そうしたお金を元手にして、1920年代からサラベールは出版社の買収を開始。そのなかにはフローラン=シュミット(1870~1958)、ラヴェル(1875~1937)、ミヨー(1892~1974)といった作曲家の作品をいくつか出版していたA.Z.マトー社をはじめ、それまで自社では大きく取り扱ってこなかったシリアスなクラシック音楽の楽譜を取り扱う出版社が含まれていました。こうしてサラベールは、買収した出版社と契約をしていた存命中の作曲家の楽譜も出版しはじめるようになるのです。 この時期は、前述したミヨーを含む、いわゆるフランス六人組の作品に加え、フランスと縁の深いスペインの作曲家モンポウ(1893~1987)、そしてピアニストでパリ音楽院の教授であったアルフレッド・コルトー(1877~1962)が編集をおこなったロマン派のピアノ曲を主に出版していました。この「コルトー版」といえば、本連載でも以前に取り上げたショパンのエディションが有名ですが(※)、他にもシューマン、リスト、メンデルスゾーンなども手掛けており、基本的にその時代時代の新しい音楽を出版していたサラベール社にとっては、新たな金脈となったであろうことが想像されます。   >関連記事(楽譜入門#3)はコチラ   ▲アルフレッド・コルトー(1877~1962)   ところがフランス六人組以降、次に続くフランスの若い世代の作曲家とは蜜月関係を築くに至らず、例えばジョリヴェ(1905~1974)やメシアン(1908~1992)の楽譜は単発での出版に留まってしまうのです。そして創業者の息子フランシスが1946年に亡くなり、彼の妻ミカが経営を担うようになると、新たな方向へかじを切ります。というのもミカ・サラベールは後の1981年に作曲家を支援する財団を立ち上げたほど、現代音楽に深い理解を示した人物だったのです。1960年代後半からはクセナキス(1922~2001)、1980年代からはアペルギス(1945~ )やシェルシ(1905~1988)と、アカデミックな正統な路線から外れたフランス人以外の作曲家と契約を結んでいます。実は、この路線の先駆となったのが1958年から1990年にかけて断続的に出版された武満徹だったのです。 ただし1960年代に関しては、1962年に出世作《弦楽のためのレクイエム》(1957)を含む6つの作品が出版されただけで、他の作品は音楽之友社から3作品、ドイツのペータースから3作品(なお、ペータースは1950年代後半から黛敏郎の楽譜を出版していました)から出されています。ところが1970年代になると、ペータース(1作品)とオーストリアのウニヴェルザール(2作品)といったような一部の例外を除き、武満作品はサラベール社から出版されていきます。おそらくは1967年にニューヨーク・フィルからの委嘱作《ノヴェンバー・ステップス》が成功したあたりから、海外からの委嘱が増えていったこととも呼応しており、武満の国際化が進んだ証左といえるでしょう。   ▲弦楽のためのレクイエム(Editions Salabert)   ▲ノヴェンバー・ステップス(C. F. Peters Musikverlag)...

新しいレパートリーを広め“現代”の作曲家を支援する出版社ブージー&ホークス【演奏しない人のための楽譜入門#06】

新しいレパートリーを広め“現代”の作曲家を支援する出版社ブージー&ホークス【演奏しない人のための楽譜入門#06】

前回の連載で世界最大の楽譜出版社について取り上げましたが、クラシック音楽に特化した出版社のなかで最大の規模を誇るのがブージー&ホークス。1760年代に起源をさかのぼりますが、現在の社名になったのは1930年のことです。そこから100年も経たないうちに、現在のポジションを築くに至った経緯に今回は迫ってみましょう。キーワードになるのは「現代の作曲家」です。   ブージーとホークス、2つの出版社が合併するまで   起源は1760年代にジョン・ブージーがロンドンで立ち上げた貸本屋にあります。1792年にジョンの孫であるトーマスがビジネスを拡大。廉価版の楽譜を充実させることで事業が成長し、19世紀になりビクトリア朝時代に入ると当時人気を博していたロッシーニなどのイタリアオペラの楽譜をイギリスで出版して成功を収めます。ところが1854年に諸外国と英国間における著作権に関して条約が結ばれ、それにより外国の人気楽曲が出版出来なくなってしまうのです。 この窮地を救ったのが、まずは1851年から新規参入していた管楽器の製造。そして1876年から始まった「ブージー・バラッド・コンサーツ」(ロンドン・バラッド・コンサーツと題された場合も……)が大きな役割を果たしました。これは当時流行していたプロムナード・コンサート(いわゆる名曲コンサートのようなビギナーでも楽しみやすい演奏会)の亜種ともいえるものです。 ウェールズ、スコットランド、北アイルランドを含むイギリスの作曲家が書いた親しみやすい歌――例えば民謡、賛美歌、アーサー・サリヴァン(1842~1900)が作曲したオペレッタの人気曲など――の楽譜を売るために、そうした楽曲を有名歌手が歌うコンサートシリーズを開催しました。この目論見は大成功を収め、1933年まで続いていきます。また、エドワード・エルガー(1857~1934)やフレデリック・ディーリアス(1862~1934)やレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)といった20世紀初頭のイギリスで人気を博した作曲家とも契約を結び、バラッド・コンサーツの演目に加えたりしつつ、また彼らのオーケストラ作品なども出版するようになりました。 一方、軍楽隊を引退した優秀なトランペット奏者ウィリアム・ホークスが1865年に設立したホークス社は、軍楽隊の楽譜や楽器などを主に取り扱う会社として始まりました。吹奏楽や管弦楽のスコアの出版を手掛けているという意味ではブージー社と長らく競合関係にありましたが、1930年に両社は合併することになります。きっかけとなったのは、当時両社の責任者だったレスリー・ブージーとラルフ・ホークスが、演奏権利協会(Performing Right Society/現:PRS for Music ※イギリスにおけるJASRAC的な存在)の理事会メンバーとして出会ったことでした。こうして現在知られるブージー&ホークスという社名が生まれます。   社の方針はどのように生まれたのか?   時代が前後してしまいますが、ブージー社は合併前の1892年にニューヨークオフィスを構えていました。こうした国際路線が1930年の合併後、一気に進むことになったのは時代背景も絡んでいます。1938年にナチス・ドイツによってオーストリアが併合されたため、ウィーンの出版社ウニヴェルザール(英語読みだとユニヴァーサル)で働いていた優秀なユダヤ人編集者がロンドンに逃れ、ブージー&ホークスに務めることになったのです。そしてウニヴェルザールで取り扱っていたグスタフ・マーラー(1860~1911)、ベーラ・バルトーク(1881~1945)、ゾルターン・コダーイ(1882~1967)といった作曲家の代理店となったり、新しく契約を結んだりしました。1943年にはリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)とも契約をし、主に晩年の作品を出版しています。   ▲リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)   そして1947年には指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951)が立ち上げたロシア出版社(Éditions Russes de Musique)などのカタログが加わることになり、セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)、セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)の有名な傑作を手掛けるようになります。この中にはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ストラヴィンスキーのバレエ《ペトルーシュカ》《春の祭典》、プロコフィエフの交響曲第1番《古典》、ラヴェル編曲のムソルグスキー《展覧会の絵》といった今もオーケストラの中核レパートリーとなっている人気楽曲が含まれているのですから、いかに大きな出来事だったのかお分かりいただけるでしょう。   ▲イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)   こうして、20世紀に活躍する作曲家たちが出版リストの核を担うようになり、ブージー&ホークスという出版社の方向性が決まっていくのです。他にも1935年、当時まだ22歳の若手だった自国イギリスのベンジャミン・ブリテン(1913~1976)を青田買い。そして戦時中には、アーロン・コープランド(1900~1990)がアメリカ人として初の契約に至ります。第二次世界大戦後になると、ここにレナード・バーンスタイン(1918~1990)、エリオット・カーター(1908~2012)、スティーヴ・ライヒ(1936~ )、ジョン・アダムズ(1947~ )といったアメリカを代表する作曲家が加わるのです。...

世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

山葉寅楠(1851~1916)によって創業された日本楽器製造株式会社が、ヤマハ株式会社に社名変更したのは創業100周年を迎えた1987年のこと。130年以上の歴史のなかで、誰もが認める大企業となり、世界的に見てもこれほど手広く楽器制作を手掛け、評価を勝ち得ている会社はヤマハをおいて他にありません。 ヤマハが世界最大の楽器メーカーであることは日本で多くの方々に知られているかと思いますが、「世界最大の楽譜出版社は?」と聴かれると、意外に音楽愛好家の方でも答えられない方が多いのでは?……その答えは、アメリカの ハル・レナード社となります。   Sheet Music StoreやAmazonなどで「Hal Leonard」とアルファベット表記で検索してみると、その理由の一端がご理解いただけるでしょう。数千~数万の検索結果が表示され、多岐にわたるジャンルの広さは他の追随を許しません。 まず目に入ってくるのはディズニー。実はハル・レナード社はディズニーの楽譜を北米で独占的に出版しています。日本でも英語の歌詞がメロディに振られたディズニーの楽譜を買おうとすると、ヤマハが発売している楽譜でも、実はハル・レナードから権利を取得して発売していたりするのです。 その他にはジャズ、ロック、ミュージカルあたりがハル・レナードの中心となる分野となりますが、スコア(総譜)のような、その楽曲を構成する全てのパートが網羅された楽譜は少なめ。主となるのは、趣味として人気の楽曲をピアノやギターで弾きたい!……というような人に向けた、取り組みやすい楽譜です。更に音数を減らした、ごくごく初心者でも挑める「Easy」や「Five-Finger」と銘打たれたバージョンなども出版されています。 「Five-Finger」というのは、両手の10指を指定した箇所の鍵盤の上に置くと、そこから移動することなく1曲演奏が出来るという簡素なバージョンのこと。演奏というと、楽譜が読めて、楽器が弾けて……と、とかくハードルが高いものだと思われがちですが、ハル・レナード社の楽譜は徹底して、初心者に寄り添おうとしています。 それもそのはず、ハル・レナード社は自社を「世界最大の音楽教育出版社」と呼んでいるのですから。楽譜以外にも「Guide」「Method(メソード)」と銘打たれた教則本もたくさん出版していますし、気軽に本格的な音楽演奏体験が出来るCDの伴奏音源付き楽譜も数多く出されています。また、ジャズをやろうとするなら必携の『The Real Book』(ジャズ・スタンダードのメロディ譜集)は本来、1970年代に非正規の楽譜として流通したものですが、きちんと著作権の問題をクリアした正規版が現在、ハル・レナード社から出版されているのです。   ▲『The Real book』   いかにして、ハル・レナード社は世界最大の楽譜出版社となったのか? どういう経緯で、ハル・レナード社が現在の地位を築くことになったのか、設立からの歴史を辿ってみましょう。   ▲ハロルド・“ハル”・エドストローム Harold "Hal" Edstrom(1914~1996)とエヴァレット・“レナード”・エドストローム Everett "Leonard" Edstrom(1915~2000)  ...

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

現在の出版譜は、コンピュータ上で「Finale(フィナーレ)」に代表されるような浄書ソフトを用いて作られるのが一般的ですが、それ以前は当然、手作業で作られていました。例えば、1948年にギュンター・ヘンレ(1899-1979)が創業した Henle Verlag(ヘンレ社)では、1990年代後半までエングレービング(金属版画の彫刻凹版技法)で印刷譜を製作していたといいます。この職人技を後世へと語り継ぐため、ベテラン職人のハンス・キューナー氏による貴重なデモンストレーション映像(2007年収録)が、ヘンレ社 のYouTube公式チャンネルで公開されていますのでその映像をご紹介するとともに、かつてどのように楽譜が作られていたのか、みていきましょう! 題材となるのはフランツ・リストが作曲したピアノ曲《愛の夢第1番》です。   【①00:46~】まずは「五線 staff lines」を削っていきます。もちろん事前に、上下にどのくらいの間隔で線を引くべきかを決めた上で削っていますよ。 【②01:03~】「拍(音符)beats」を置く位置の下書きをしていきます。テロップに出ている「marking off」は、日本語で「けがき」と訳され、その後の作業の基準となる線を引くことを指し、ピンセットのような器具をクルクルと回しながら距離を測っていきます。 【③01:20~】先程下書きした音符の位置に合わせて、縦のガイドラインを引いています。後に登場しますがこのぐらいの浅く引く線は、印刷に反映されません。 【④01:30~】鉛筆で音符を下書きしていきます。もちろん版画ですので、最終的なプリント結果とは左右が入れ替わった形で書き入れています。   ※この譜例はライターによって制作されたものです。   【⑤01:48~】「ブレース brace」と呼ばれ、大譜表をまとめる記号“{”を書き入れます。本来の意味での「活字 type」(活版印刷で枠に並べる文字)がスタンプのようになっていて、ハンマーを用いて彫っていきます。 【⑥02:06~】同様に、ト音記号などの「音部記号 clef」、その右側に調性を決定する「調号 key」、更にその右側に○分の○という形で「拍子記号 time signature」も彫っていきます。 【⑦02:22~】「符頭 noteheads」――いわゆるオタマジャクシの頭の部分を、鉛筆の下書きに合わせて彫っていきます。そして作業風景を引いた映像で映す場面では、これほど沢山の活字スタンプを使いこなしていたことがうかがえますし、彫っている映像を確認できる場面では③で弾いた縦のガイドラインに合わせながら作業していることが確認できますね。 【⑧02:46~】金属板にかかったテンションを、裏側からハンマーで叩くことで緩和しています。⑦のように彫っていくと、段々と金属板がゆがんでしまうのですね!最終的に美しい楽譜を仕上げるためには、こうした細かい配慮も必要なのです。 【⑨02:56~】今度は「休符 rests」を彫っていきます。なお、映っているのは8分休符になります。 【⑩03:09~】もう一度「五線...

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本連載の第2回「なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?」では、“正しい楽譜”を出版するというのは案外と難しいことなのだ……という話をいたしました。作曲家の意図を正しく再現しようとした「原典版 Urtext」が、現代ではファーストチョイスとして推奨されていますが、「原典版」以外の楽譜は手に取る必要がないのでしょうか? 今回は有名作曲家のなかでも特に、多種多様な楽譜が出版されているショパンに焦点を合わせ、“本当に正しい楽譜の選び方”を考えてみたいと思います。   ショパンの肖像画   そもそもショパン(1810~49)の楽譜が抱える最大の問題点は、作曲者の生前に楽譜が出版される際、同時期にフランス、ドイツ、イギリスの3国で別々の会社が出版をおこなったため、3つの版のあいだに細かい違いが生まれやすかったのです。同時並行的に作られているため、3つの版のなかでどれをより“正しい楽譜”であるとするか判断すること自体も難しくなっています。その上、ショパンは弟子のレッスンのなかで日常的に、楽譜に音の変更を加えることがしばしばありました。もし、それを“改訂”とみなすならば、原典版に反映させなければなりません(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米屋治郎/中島弘二訳『弟子から見たショパン そのピアノ教育法と演奏美学』に、様々な事例が書かれている)。ショパンの死後に出版された作品については、同門の友人で雑用係を務めたユリアン・フォンタナ(1810~69)が勝手に音を変えてしまっている(!)という問題もあります。ショパンが如何に原典版を出そうとする出版社泣かせの存在であるかがお分かりいただけるでしょう。   フォンタナの肖像写真。彼自身は59歳の時に自殺している。   ショパンの代表作となるような有名曲の場合、優に20種類を超える楽譜がこれまでに出版されてきました。その多くは現在、絶版(そもそも19世紀や20世紀前半に出版された楽譜のなかには、既に出版社がなくなってしまったものも!)となっていますが、音楽大学の図書館や、現在ではIMSLPというクラシック音楽の楽譜に特化した「青空文庫」のようなWEBサイトにおいて、目にすることが出来ます。とはいえ最新の研究成果を反映した、より“正しい楽譜”としての「原典版」が売られているわけですから、ショパンを研究して論文を書いたり、それこそ原典版を製作するのでもない限り、こうした古い楽譜に目を通したりする意味は無いのでしょうか?全ての楽譜が「原典版」的なるものを目指して作られているのだとすれば、答えは「YES」といえるかもしれませんが、そうではありません。敢えて、意図的に作曲者の書いた通りに楽譜を作らないという選択肢もあるのです。その際たるものが、いわゆる「解釈版」になります。  解釈版は悪くない!   著名な演奏家(ショパン作品の場合はピアニスト)が、その作品をどのように演奏すべきか、その方針を書き込み、時には音の変更を加えているのが解釈版と呼ばれる楽譜。ショパンの例でいえば、名ピアニストのアルフレッド・コルトー(1877~1962)が校訂した版がその筆頭にあげられます。   ショパンが作曲した《バラード第2番》のコルトー版の楽譜冒頭。紙面の半分以上が説明に費やされている。   このコルトー版のユニークなところは、楽譜に編集を加えただけでなく文章による詳細な解説や、練習方法の提案があったりするところ。ピアニストというよりも教師としてのコルトーの側面が反映された楽譜だともいえます。とりわけ優れていると称賛されることが多いのは、指番号。それぞれの音をどの指で弾くと、より音楽的な演奏が出来るのか考え抜かれた指使いは、そのまま踏襲しないとしても、参考にする価値のある内容です。他にもブラームス、リスト、ドビュッシーなどが校訂に携わったショパンの楽譜でも、コルトー版ほどではありませんが編集が加えられています。偉大なピアニストの録音を聴くことで、自らの演奏の参考にするというのは、よくなされることですが、録音を残していない偉大な演奏家や作曲家であっても、楽譜を通すことで彼らのショパン演奏の痕跡を探すことが出来るのです。こうして過去の演奏スタイルを、解釈版によって探るという手法は、なんと最新の原典版の楽譜で取り入れられていることもあるのです。近年、ベーレンライター社から出版されたクライヴ・ブラウンとニール・ペレ・ダ・コスタの校訂によるブラームスの室内楽作品(ヴァイオリン・ソナタなど)の楽譜では、20世紀初頭に出版された解釈版を比べていくことで、ブラームスが意図した演奏スタイルを探ろうとしています(演奏法だけを解説したものも出版されています)。原典版主義が広まってからというもの、不要なものとして邪魔者扱いされることもあった解釈版ですが、使い方や距離感さえ間違えなければ現在でも有効活用できる存在なのです。ただし、1種類の解釈版を盲信することはオススメできません。あくまで原典版と併用しつつ、いくつかの解釈版を参考にしてみる……ぐらいに、しておきましょう!  最新の原典版を比較する!   というわけで解釈版を活かすためにも、やはり原典版が必須であることには変わらないのですが、「原典版」と名乗っている楽譜もやはりたくさん出版されています。最新の研究成果を反映していることを期待して、なるべく新しく出版された原典版を手に取りたいところではありますけれど、ショパンの場合はそれでも絞りきれず、主だった選択肢は3つ残ります。1)エキエル版(と通称される「ナショナル・エディション」)2)ペータース版(新校訂版)3)ヘンレ版(新校訂版)上記3つとも旧版と新版が存在していることに注意が必要なのですが、ここで話題に挙げたいのは、もちろん新版の方です。そして、3のヘンレ版は、いわばエキエル版とペータース版で問題提起された編集方針を後追いしたものになるため、保留しておきましょう。   ▲1のエキエル版ことナショナル・エディションによるショパン《バラード集》   1は「ナショナル」という名の通り、ポーランドの国家事業として行われた事実上のショパン全集です。責任者となったのはピアニストのヤン・エキエル(1913~2014)……というよりも、ほぼエキエルの独力によって校訂作業が進められています。30年がかりで1990年代前半に刊行が一旦完了したのち、90年代後半にスタッフひとりが加わり、既に古くなってしまったものから改めて新版が出版され、遂に2010年、プロジェクトが完結しています。もう一方の2は、ショパンを研究する最先端の音楽学者たちによって校訂されている楽譜になります。   ▲2のペータース版(新校訂版)によるショパン《バラード集》  ...