なぜ、完成した後も楽譜に手を入れ続けるのか? ~改訂癖のある作曲家たち【演奏しない人のための楽譜入門#18】
クラシック音楽にある程度触れていらっしゃる方なら、曲名のあとにカッコ書きで(改定稿)(改訂版)(○○○○年版 or 稿)といったような表記をご覧になったことがあるはず。あるいは、(○○○○/○○年)といった感じでカッコ書きによって作曲年が付されている時、スラッシュのあとに表記されている数字は多くの場合、改訂された年を指しています。そこから改訂が施されている作品だということが分かるのです。こうした視点で色んな作品を眺め返してみると、完成した後に再度手を加えられた楽曲は案外と多いことに気付かされます。この「改訂 revision」という行為と、楽譜の関係について今回は深堀りしてみましょう。 なお、手書き譜や出版譜に修正を書き入れた楽譜については「稿」(英:version/独:Ausgabe)、第三者による浄書や校訂を経て出版された楽譜については「版」(英:edition/独:Fassung)と呼び分けています。 問題視されて議論になる改訂と、そうではない改訂……何が違うの? 「改訂」の問題が頻繁に取り沙汰される代表的な作曲家といえば、 アントン・ブルックナー(1824~96)でしょう。一方、同時代のウィーンで活躍していた ヨハネス・ブラームス(1833~97)は対照的に、ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 Op. 8(1853~54/89)などの一部の例外を除いて、改訂稿が話題になる機会は少ない作曲家といえます。両者最大の違いとなるのが、どの稿を演奏すべきかの判断が難しいという点です。 ▲アントン・ブルックナー(1824~96) (出典元:Wikipedia) これまでの連載のなかでもたびたび説明してきたように、自筆譜に忠実であるだけでは不十分で、その後の経過も含めて作曲家自身の最終判断を追い求め、それを楽譜に落とし込む……というのが現代で重要視される「原典版」という“思想”でした。例えば前述した ブラームスのピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 Op. 8を演奏する場合、ブラームスの最終判断にあたるのが1897年の改訂稿であることは自明であるため、研究や比較目的でもない限り、初稿(……に基づく1854年のジムロック版〔=初版〕など)はほとんど演奏されません。ブラームスの場合、改訂されていても初稿が破棄されて現存していないことが多い……という事情も絡んでいます。 ところがブルックナーの場合、最終判断がどこにあったのか?……という点について、専門家のなかでも大きく意見が割れてしまうのです。(※正確さを徹底しようとすると話がややこしくなってしまうので、ここでは大雑把な説明に留めておくことにします。) ブルックナーの交響曲は、作曲者の存命中や亡くなって間もない頃から第三者(主に指揮者)が楽譜に大きく手を加えて演奏したり、出版(後に「改竄版」と呼ばれることも……)したりすることが珍しくありませんでした。これらを正式な改訂とみなさないのは当然だと皆さま納得されるかと思いますが、なんとブルックナー自身が手を加えたものであろうとも、それは周囲にいた指揮者らに強いられてであって、作曲者自身の本意ではなかったのではないか?……という見解をもつ人々があらわれてくるのです。 そうした人々が中心となって1929年に国際ブルックナー協会が設立され、「原典版」が出版されはじめます。編集の主幹となったのはロベルト・ハース(1886~1960)で、彼が校訂した楽譜が「ハース版」と呼ばれているものです。ブルックナーの最終判断を求めて、原則1曲につき1つの版を出版するという方針をとっていました。そのため、ハースの主観的な判断によって、異なる時期の改訂要素が混在する版が生まれることもありました。 ナチスと関係が深かったハースは戦後に追放されてしまい、今度はレオポルト・ノヴァーク(1904~91)が編集主幹を務めるようになります。ハースによる主観的な編集方針に批判的だったノヴァークは客観性を徹底。複数の初稿・改訂稿が存在する交響曲の場合は、すべて出版する……という方針がとられました。とはいえ、多くの指揮者は(改竄版とみなされたものは除き)最終的な改訂を選ぶのが一般的ですから、これで稿・版の問題も万事解決……かと思いきや、そうもいきません。 朝比奈隆(1908~2001)やギュンター・ヴァント(1912~2002)を筆頭に、ブルックナーを得意とする大物指揮者にハース版の根強い支持者がいたり、ノヴァーク版における判断が最新研究では覆されたり(第7番 第2楽章のシンバルの有無について、その結果、ハース版と同じに!)と、とにかく話は一筋縄ではいきません。 ...