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世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

世界最大の楽器メーカーといえばヤマハ……ですが、では世界最大の楽譜出版社は?【演奏しない人のための楽譜入門#05】

山葉寅楠(1851~1916)によって創業された日本楽器製造株式会社が、ヤマハ株式会社に社名変更したのは創業100周年を迎えた1987年のこと。130年以上の歴史のなかで、誰もが認める大企業となり、世界的に見てもこれほど手広く楽器制作を手掛け、評価を勝ち得ている会社はヤマハをおいて他にありません。 ヤマハが世界最大の楽器メーカーであることは日本で多くの方々に知られているかと思いますが、「世界最大の楽譜出版社は?」と聴かれると、意外に音楽愛好家の方でも答えられない方が多いのでは?……その答えは、アメリカの ハル・レナード社となります。   Sheet Music StoreやAmazonなどで「Hal Leonard」とアルファベット表記で検索してみると、その理由の一端がご理解いただけるでしょう。数千~数万の検索結果が表示され、多岐にわたるジャンルの広さは他の追随を許しません。 まず目に入ってくるのはディズニー。実はハル・レナード社はディズニーの楽譜を北米で独占的に出版しています。日本でも英語の歌詞がメロディに振られたディズニーの楽譜を買おうとすると、ヤマハが発売している楽譜でも、実はハル・レナードから権利を取得して発売していたりするのです。 その他にはジャズ、ロック、ミュージカルあたりがハル・レナードの中心となる分野となりますが、スコア(総譜)のような、その楽曲を構成する全てのパートが網羅された楽譜は少なめ。主となるのは、趣味として人気の楽曲をピアノやギターで弾きたい!……というような人に向けた、取り組みやすい楽譜です。更に音数を減らした、ごくごく初心者でも挑める「Easy」や「Five-Finger」と銘打たれたバージョンなども出版されています。 「Five-Finger」というのは、両手の10指を指定した箇所の鍵盤の上に置くと、そこから移動することなく1曲演奏が出来るという簡素なバージョンのこと。演奏というと、楽譜が読めて、楽器が弾けて……と、とかくハードルが高いものだと思われがちですが、ハル・レナード社の楽譜は徹底して、初心者に寄り添おうとしています。 それもそのはず、ハル・レナード社は自社を「世界最大の音楽教育出版社」と呼んでいるのですから。楽譜以外にも「Guide」「Method(メソード)」と銘打たれた教則本もたくさん出版していますし、気軽に本格的な音楽演奏体験が出来るCDの伴奏音源付き楽譜も数多く出されています。また、ジャズをやろうとするなら必携の『The Real Book』(ジャズ・スタンダードのメロディ譜集)は本来、1970年代に非正規の楽譜として流通したものですが、きちんと著作権の問題をクリアした正規版が現在、ハル・レナード社から出版されているのです。   ▲『The Real book』   いかにして、ハル・レナード社は世界最大の楽譜出版社となったのか? どういう経緯で、ハル・レナード社が現在の地位を築くことになったのか、設立からの歴史を辿ってみましょう。   ▲ハロルド・“ハル”・エドストローム Harold "Hal" Edstrom(1914~1996)とエヴァレット・“レナード”・エドストローム Everett "Leonard" Edstrom(1915~2000)  ...

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

超一流のドイツ人職人が実演で“魅せる”美しい楽譜の作り方~ヘンレ社の場合~【演奏しない人のための楽譜入門#04 】

現在の出版譜は、コンピュータ上で「Finale(フィナーレ)」に代表されるような浄書ソフトを用いて作られるのが一般的ですが、それ以前は当然、手作業で作られていました。例えば、1948年にギュンター・ヘンレ(1899-1979)が創業した Henle Verlag(ヘンレ社)では、1990年代後半までエングレービング(金属版画の彫刻凹版技法)で印刷譜を製作していたといいます。この職人技を後世へと語り継ぐため、ベテラン職人のハンス・キューナー氏による貴重なデモンストレーション映像(2007年収録)が、ヘンレ社 のYouTube公式チャンネルで公開されていますのでその映像をご紹介するとともに、かつてどのように楽譜が作られていたのか、みていきましょう! 題材となるのはフランツ・リストが作曲したピアノ曲《愛の夢第1番》です。   【①00:46~】まずは「五線 staff lines」を削っていきます。もちろん事前に、上下にどのくらいの間隔で線を引くべきかを決めた上で削っていますよ。 【②01:03~】「拍(音符)beats」を置く位置の下書きをしていきます。テロップに出ている「marking off」は、日本語で「けがき」と訳され、その後の作業の基準となる線を引くことを指し、ピンセットのような器具をクルクルと回しながら距離を測っていきます。 【③01:20~】先程下書きした音符の位置に合わせて、縦のガイドラインを引いています。後に登場しますがこのぐらいの浅く引く線は、印刷に反映されません。 【④01:30~】鉛筆で音符を下書きしていきます。もちろん版画ですので、最終的なプリント結果とは左右が入れ替わった形で書き入れています。   ※この譜例はライターによって制作されたものです。   【⑤01:48~】「ブレース brace」と呼ばれ、大譜表をまとめる記号“{”を書き入れます。本来の意味での「活字 type」(活版印刷で枠に並べる文字)がスタンプのようになっていて、ハンマーを用いて彫っていきます。 【⑥02:06~】同様に、ト音記号などの「音部記号 clef」、その右側に調性を決定する「調号 key」、更にその右側に○分の○という形で「拍子記号 time signature」も彫っていきます。 【⑦02:22~】「符頭 noteheads」――いわゆるオタマジャクシの頭の部分を、鉛筆の下書きに合わせて彫っていきます。そして作業風景を引いた映像で映す場面では、これほど沢山の活字スタンプを使いこなしていたことがうかがえますし、彫っている映像を確認できる場面では③で弾いた縦のガイドラインに合わせながら作業していることが確認できますね。 【⑧02:46~】金属板にかかったテンションを、裏側からハンマーで叩くことで緩和しています。⑦のように彫っていくと、段々と金属板がゆがんでしまうのですね!最終的に美しい楽譜を仕上げるためには、こうした細かい配慮も必要なのです。 【⑨02:56~】今度は「休符 rests」を彫っていきます。なお、映っているのは8分休符になります。 【⑩03:09~】もう一度「五線...

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本当に正しい楽譜の選び方 ~ショパンの楽譜を例に~【演奏しない人のための楽譜入門#03 】

本連載の第2回「なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?」では、“正しい楽譜”を出版するというのは案外と難しいことなのだ……という話をいたしました。作曲家の意図を正しく再現しようとした「原典版 Urtext」が、現代ではファーストチョイスとして推奨されていますが、「原典版」以外の楽譜は手に取る必要がないのでしょうか? 今回は有名作曲家のなかでも特に、多種多様な楽譜が出版されているショパンに焦点を合わせ、“本当に正しい楽譜の選び方”を考えてみたいと思います。   ショパンの肖像画   そもそもショパン(1810~49)の楽譜が抱える最大の問題点は、作曲者の生前に楽譜が出版される際、同時期にフランス、ドイツ、イギリスの3国で別々の会社が出版をおこなったため、3つの版のあいだに細かい違いが生まれやすかったのです。同時並行的に作られているため、3つの版のなかでどれをより“正しい楽譜”であるとするか判断すること自体も難しくなっています。 その上、ショパンは弟子のレッスンのなかで日常的に、楽譜に音の変更を加えることがしばしばありました。もし、それを“改訂”とみなすならば、原典版に反映させなければなりません(※ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米屋治郎/中島弘二訳『弟子から見たショパン そのピアノ教育法と演奏美学』に、様々な事例が書かれている)。 ショパンの死後に出版された作品については、同門の友人で雑用係を務めたユリアン・フォンタナ(1810~69)が勝手に音を変えてしまっている(!)という問題もあります。ショパンが如何に原典版を出そうとする出版社泣かせの存在であるかがお分かりいただけるでしょう。   フォンタナの肖像写真。彼自身は59歳の時に自殺している。   ショパンの代表作となるような有名曲の場合、優に20種類を超える楽譜がこれまでに出版されてきました。その多くは現在、絶版(そもそも19世紀や20世紀前半に出版された楽譜のなかには、既に出版社がなくなってしまったものも!)となっていますが、音楽大学の図書館や、現在ではIMSLPというクラシック音楽の楽譜に特化した「青空文庫」のようなWEBサイトにおいて、目にすることが出来ます。 とはいえ最新の研究成果を反映した、より“正しい楽譜”としての「原典版」が売られているわけですから、ショパンを研究して論文を書いたり、それこそ原典版を製作するのでもない限り、こうした古い楽譜に目を通したりする意味は無いのでしょうか? 全ての楽譜が「原典版」的なるものを目指して作られているのだとすれば、答えは「YES」といえるかもしれませんが、そうではありません。敢えて、意図的に作曲者の書いた通りに楽譜を作らないという選択肢もあるのです。その際たるものが、いわゆる「解釈版」になります。   解釈版は悪くない!   著名な演奏家(ショパン作品の場合はピアニスト)が、その作品をどのように演奏すべきか、その方針を書き込み、時には音の変更を加えているのが解釈版と呼ばれる楽譜。ショパンの例でいえば、名ピアニストのアルフレッド・コルトー(1877~1962)が校訂した版がその筆頭にあげられます。   ショパンが作曲した《バラード第2番》のコルトー版の楽譜冒頭。紙面の半分以上が説明に費やされている。   このコルトー版のユニークなところは、楽譜に編集を加えただけでなく文章による詳細な解説や、練習方法の提案があったりするところ。ピアニストというよりも教師としてのコルトーの側面が反映された楽譜だともいえます。とりわけ優れていると称賛されることが多いのは、指番号。それぞれの音をどの指で弾くと、より音楽的な演奏が出来るのか考え抜かれた指使いは、そのまま踏襲しないとしても、参考にする価値のある内容です。 他にもブラームス、リスト、ドビュッシーなどが校訂に携わったショパンの楽譜でも、コルトー版ほどではありませんが編集が加えられています。偉大なピアニストの録音を聴くことで、自らの演奏の参考にするというのは、よくなされることですが、録音を残していない偉大な演奏家や作曲家であっても、楽譜を通すことで彼らのショパン演奏の痕跡を探すことが出来るのです。 こうして過去の演奏スタイルを、解釈版によって探るという手法は、なんと最新の原典版の楽譜で取り入れられていることもあるのです。近年、ベーレンライター社から出版されたクライヴ・ブラウンとニール・ペレ・ダ・コスタの校訂によるブラームスの室内楽作品(ヴァイオリン・ソナタなど)の楽譜では、20世紀初頭に出版された解釈版を比べていくことで、ブラームスが意図した演奏スタイルを探ろうとしています(演奏法だけを解説したものも出版されています)。 原典版主義が広まってからというもの、不要なものとして邪魔者扱いされることもあった解釈版ですが、使い方や距離感さえ間違えなければ現在でも有効活用できる存在なのです。ただし、1種類の解釈版を盲信することはオススメできません。あくまで原典版と併用しつつ、いくつかの解釈版を参考にしてみる……ぐらいに、しておきましょう!   最新の原典版を比較する!...

なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?【演奏しない人のための楽譜入門#02 】

なぜ、クラシック音楽は、同じ楽曲でも何種類もの楽譜が出版されているのか?【演奏しない人のための楽譜入門#02 】

あなたのご家族に、音楽をされている方がいるとしましょう。「〇〇が作曲した△△という曲の楽譜を買ってきて!」と、おつかいを頼まれて、ヤマハ銀座店のような大きな楽器店に足を運んでみると、きっと驚くはずです。多様な出版社から同じ楽曲の楽譜が出版されており、値段も内容も様々なのですから。きっと何も分からなければ、日本の出版社から発売している(輸入の経費がかかっていないために)比較的安価な楽譜を選んでしまいそうなところですが……。今回は何故、同じ楽曲の楽譜がたくさん出版されているのかという理由を、ドイツの音楽出版社 ベーレンライターを軸にして探っていきましょう!  楽譜が出版されるまで   最初におさえておくべき点は「楽譜」と一口にいっても、その形態は様々なのだということです。   J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 第1楽章の「自筆譜」   まず作曲者自身による手書きの譜面のことを「自筆譜 autograph」などと呼びます。自筆譜を「manuscript」と表記することも頻繁にありますが、これはより正確には「手稿譜」のことで、自筆譜だけでなく、手書きで別の人物が書き写した楽譜のことも含む場合があり、「holograph manuscript」と書くと自筆の手稿譜という意味になります。   J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番 第1曲〈前奏曲〉の「筆写譜」 バッハ自身の自筆譜が残されていないため、 このアンナ・マクダレーナ・バッハ(妻)の筆写譜が最重要な資料となる。   そして現在であれば、この自筆譜をコピー機にかけたり、スキャナーで取り込んだりしたり出来るわけですが、そうした技術が出来なかった時代はまず、手で書き写すのが基本でした。そうした譜面のことを「筆写譜 copy」と呼びます。「筆写師 copyist」を務めたのは、家族だったり、弟子だったり、筆写を仕事にしている職人であったりしました。   J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第1番 第1曲〈前奏曲〉の「初版譜」 バッハの死後、かなり経ってからパリで出版された楽譜。 このあとすぐにドイツなどでも出版されているようだ。   印刷による出版をしようという段階になると、作曲家の自筆譜(場合によっては丁寧に清書された筆写譜)をもとに「ゲラ刷り」が作られ、作曲者本人が存命中かつ出版に携わっている場合は直接、校正作業をおこないました。そうした過程を経て、最初に出版されたバージョンが「初版...

現存する最古の音楽出版社ブライトコプフ&ヘルテルは、なぜリーディングカンパニーであり続けられたのか?【演奏しない人のための楽譜入門#01 】

現存する最古の音楽出版社ブライトコプフ&ヘルテルは、なぜリーディングカンパニーであり続けられたのか?【演奏しない人のための楽譜入門#01 】

15世紀の中頃のドイツにおいて、その後の歴史を一変させてしまう、まさに世紀の大発明が誕生しました。それがヨハネス・グーテンベルク(1398–1468)による活版印刷の実用化です。それまで存在していた版画の延長線上にある技術を改良・刷新することで、印刷を工業化。これにより書物が格段に手に入りやすいものとなったのです。最初のベストセラーとなったのは「聖書」……という話は、世界史の授業で習った記憶があるかもしれませんね。本日ご紹介するのは、ここから派生した楽譜印刷の歴史のはじまりのお話です。   楽譜の印刷技術が歴史にもたらしたもの 金属製の「活字」を並べることで版をつくる活版印刷   活版印刷が実用化される前から、教会で歌われるためのシンプルな聖歌の印刷がなされることもありましたが、こちらは木版画での印刷。彫刻刀で1枚ずつ彫るわけですからプロであっても音符ひとつひとつのサイズや長さは異なってきてしまいますし、木製ですから強度が足りず、綺麗に刷れる枚数もあまり多くありませんでした。そんな状況が変わったのは16世紀の初頭。イタリア人のオッターヴィオ・ペトルッチが活版印刷を用いて楽譜の印刷に成功したのです。更には徐々に複雑かつ美しい楽譜(例えば3色刷り等)も印刷できるようになっていきました。   こうした楽譜印刷の技術が確立されるまで、楽譜の複製(コピー)は手で書き写すのが主流。(オリジナルの自筆譜を含めて)火災や紛失などですべての資料が失われてしまうことも珍しくありませんでした。楽譜に印刷されるようになるとコピーの絶対数も増えますし、あちこちに売れることで作品が散逸する危険性が大きく減ったのです。 そのうえ、手で書き写しているだけだと(伝言ゲームのようなものですから)書き写すたびにミスが発生することが多かったため、後世の音楽学者を悩ます「異稿」が発生することが多かったのも問題でした。楽譜を出版する場合は印刷前に作曲家本人が確認をしているため、そうしたことも手で書き写していた頃よりは減らせたのです。 どうでしょう、楽譜の印刷技術が確実に歴史を変えていったこと、ご理解いただけましたでしょうか。そのうえでご紹介するのは、近代的な楽譜出版のはじまりとなった(現存する最古の楽譜出版社でもある) ブライトコプフ&ヘルテル(ドイツ語なので「&」は「ウント」と読みましょう!)についてです。   ブライトコプフが起こした楽譜出版の改革   14歳になる年に印刷業界で見習いをはじめたベルンハルト・クリストフ・ブライトコプフ(1695–1777)は、1719年に結婚。妻の父ヨハン・カスパー・ミュラーの印刷・出版業を継ぐことで、後にブライトコプフ&ヘルテル社として世界的に知られるようになる事業をはじめます。1736年頃からは、かのJ.S.バッハとも関わりを持ちますが、バッハから依頼を受けたのは、歌詞や演奏会プログラムなど。楽譜の印刷で本格的に名を上げていくのはベルンハルトの息子、ヨハン・ゴットロープ・イマヌエル・ブライトコプフ(1719–1794)が1745年にこの会社を継いだあとになります。   1枚目・父ベルンハルト/2枚目・息子ヨハン   ヨハンは金属製の「モザイク活字 Mosaic Types」を(その名の通り、モザイク状に)並べる手法によって、美しくて音符の読みやすい楽譜印刷の手法を他社よりも高いクオリティで実現。これにより、テレマン、C.P.E.バッハ(あの大バッハの次男)、レオポルド・モーツァルト(神童モーツァルトの父)、ハイドンといった歴史上に名を刻む偉大な作曲家たちの楽譜を次々と出版していきます。当時、印刷所には100名以上のスタッフがいたといいますから、どれほど事業規模が大きくなっていたか、お分かりいただけるかと思いますし、この時代の著名な作曲家のほとんどがブライトコプフ社から楽譜を出版したいと強く願うほど、憧れられる存在になっていました。   ヘルテルによる更なる挑戦と飛躍   一大楽譜出版社へと育て上げてあげたヨハンは1794年に亡くなりますが、彼の息子たちは最終的には家業を継ぎませんでした。そのためゴットフリート・クリストフ・ヘルテル(1763–1827)が1796年に会社を買収。経営を担うようになり、遂に社名が、現在知られている通りのブライトコプフ&ヘルテルになったのです。 彼は、当時最新のリトグラフ(石版画)の技術を取り入れようとしたり、音楽批評を掲載する新聞を発行したり、メンデルスゾーン、リスト、クララ・シューマン、ワーグナーといった著名な作曲家も弾くようなピアノの生産を手掛けたりするなど、これまでの常識にとらわれず、事業を拡大。その全てが上手くいったわけではありませんが、ヘルテルの挑戦があったからこそ、ブライトコプフ&ヘルテル社はパイオニアとしての地位を保つことが出来たのでしょう。その最たるものが「批判校訂版 critical editions」です。資料を検討し直し、改めて作曲家の意図が正しく反映された出版譜を世に出そうという姿勢は、現代における「原典版 urtext」の先駆となりました。 また、この時期はベートーヴェンとの交流も重要です。ベートーヴェンが音楽史に革命を巻き起こしていた時期の多くの作品を最初に出版したのが、ブライトコプフ&ヘルテル社でした。交響曲第5番《運命》、第6番《田園》、そしてピアノ協奏曲第5番《皇帝》など、出版の権利を作曲家から高額で買うことで、彼の創作を支援しました。加えて、出版に際してやり取りされた数多くの手紙が保存されていたので、ベートーヴェンが作品に込めた思いを、後世の私たちも知ることが出来たりするのです。...

インドネシアにインスパイアされて【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

インドネシアにインスパイアされて【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新シーズンの始まり みなさん、こんにちは! 日本もやっと涼しくなったようですね。 ヨーロッパでも新しいシーズンが始まりました。私は2022年から音楽監督を務めているフランスのドーム交響楽団で、今シーズンから新たに芸術監督を兼任します。年々責任ある仕事が増え、よりいっそう気持ちが引き締まる思いです。この記事が公開される頃にはオペラ《ゼロ度の女(Woman at point zero)》のソウル公演を終えていったんヨーロッパに戻り、再び日本に来る頃でしょう。前回とは打って変わって、秋の装いとなった日本を訪れるのが楽しみです! インドネシアとの出会い 普段はヨーロッパと日本を行き来することが多い私ですが、10年ほど前、とあるきっかけでインドネシアとご縁ができました。今回はそのお話を。 2011年4月にパリで行った東日本大震災チャリティコンサート(連載第5回)のあと、世界各地からさまざまなチャリティのオファーをいただきました。とても一人で対処できる量ではなく、大半はお断りせざるを得なかったのですが、その中で1年間あきらめずに私にSNSでメッセージを送り続けてきた人がいました。それは、インドネシアの国立芸術大学でクラシック音楽を教えている先生でした。彼いわく、ジョグジャカルタにあるその大学ではクラシック音楽を学べる学科が新設されて日が浅く、まだ充分に環境が整っていない。そこで学生オーケストラを指導しに来てほしい、というのです。 当時の私はジャカルタとジョグジャカルタの違いもよくわかっておらず、相手が実在する人なのかどうかも半信半疑でした。しかし彼もかつて日本に留学して音楽を学んでいたことや共通の知人がいることがわかると親近感が湧き、少しずつ心が傾き始めました。何より向こうの押しの強さと情熱にほだされ、ついに行く決心をしたのでした。もし空港に着いて誰もいなかったら、気持ちを切り替えてバカンスにしよう! そんな勢いでジョグジャカルタに向けて旅立ったのです。 予想に反して(?)、空港に到着するとその先生が出迎えに来てくれていて、まずはひと安心。彼の運転する車で市内のホテルに向かいました。実は私にとって、これが初めての東南アジア。低い建物や手付かずの豊かな自然、街の中心部にも残る遺跡など、目にするものすべてが新鮮で、人々はみんな笑顔に溢れ幸せそうに見えます。 宿泊したホテルの外にはのどかな田んぼの風景が広がっていました。 ホテルと同じ敷地内にはガムランの練習場も。 私が訪れたインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校は、もともとあった舞台芸術学部に美術学部、記録メディア芸術学部が加わった3学部から成ります。なかでも大切にしているのはガムラン音楽やジャワ舞踊などの伝統音楽を教える舞台芸術学部。自国の伝統芸術を尊重し、伝承している大学なのです。他方、新設されたクラシック音楽学科はインドネシアではまだ新しい分野です。事前に聞いていた通り指導者が足りず、一人の先生が打楽器も管楽器も弦楽器も教えている、という状態でした。 芸術的センスの優れた国民性 この時の滞在予定は1週間。最終日には学生オケによるコンサートを開くことになっていたので、翌日からさっそくリハーサルです。時間通りに指定された会場に行くと……誰もいない! 一瞬場所を間違えたのかと思いましたがどうやらここで合っているよう。仕方ないので一人でポツンと座って待っていると、30分くらいしてようやく楽器を持った学生たちが集まり始め、全員揃ったのはなんと1時間後でした。メンバーが揃ったところでいざチューニングを始めようとすると、みんなキョトンとしています。どうもチューニングの仕方を知らないようです。こうして初日はチューニングを教えるところから始まったのでした。 コンサートのプログラムは、ロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲、グリーグの組曲《ペール・ギュント》、そしてメインにドヴォルザークの《交響曲第8番》を予定していました。肝心の演奏はというと、全曲通せるくらいの準備はしてあると聞いていたはずが、実際に振り始めると冒頭4小節からまったく先へ進めない……。こんな状態でリハーサルに1時間も遅れてくるなんて、いったいどういうつもり? 1週間後には本番だというのに! これは相当心を入れ替えて取り組まないと間に合わないぞ、と感じた私は少し厳しい口調で全員に喝を入れました。「私はあなたたちを指揮するために遠路はるばるここへ来たのよ? 本当にやる気があるの!?」すると神妙な面持ちで聞いていた彼らはとたんに目の色を変え、ものすごい勢いで練習に取り組み始めたのです。 普段からコツコツ練習するというよりは、短期集中型なのがインドネシア人の気質なのでしょう。しかしオーケストラから感じる彼らの芸術的センスには非常に優れたものを感じました。もともと「歌を勉強するならインドネシア」と言われるくらい歌に定評のある国なのですが、それはオーケストラの演奏にも表れていて、どの楽器も天性の歌心が自然と湧き出てくるのです。そして驚いたのは打楽器。やはりガムランが発展した国だからでしょうか、リズム感が抜群に良い。あとはコントラバスもすごく上手でしたね。難しいパッセージも最初からしっかり弾けていました。 インドネシアでは誰もが即興で歌も歌うし、お茶を飲みながらギター片手に弾き語りもする。全員がアーティストなのです。生活に芸術が浸透していて、両者を分けていない。先進国ではピアノ専攻とかヴァイオリン専攻というように、ひとつの楽器に特化した訓練をしますが、インドネシアではほとんどの人が複数の楽器を演奏するし、それが当たり前なのです。でも、クラシック音楽だって昔は作曲する人が演奏もして、楽器を弾くこともあれば歌も歌うというのが普通でした。本来あった音楽の在り方のようなものを、私はインドネシアで垣間見たような気がしました。 キラキラした瞳で熱く語られて 練習を始めて3日目のことです。ホテルに帰ると10人ほどの学生たちが私を待ち構えていました。私に話したいことがある、と。急きょ、ホテルのレストランで話を聞くことになりました。すると彼らは、インドネシアの現状と自分たちの問題意識を語り始めたのです。「次世代のために、私たちの世代がインドネシアの音楽教育制度を変えていきたい。それにはあなたの力が必要です。どうか力を貸してください!」。ビー玉みたいにキラキラした瞳で熱く語る若者たちを前にしたら、とても「ノー」とは言えません。未来を語る学生たちの純粋な想いに共感し、私も彼らの力になりたいと思いました。 17世紀から前世紀に至るまでオランダの統治を受けてきたインドネシアは、戦後に独立を勝ち取ったばかりの若い国です。それも、日本の5倍近い国土に300を超える民族が住む、多民族・多言語国家。ガムランやジャワ舞踊などが尊重されているのも、そうした伝統芸能が統一国家としての一種の鎹(かすがい)のような役割を果たしているからなのでしょう。彼らは、そこへクラシック音楽を自分たちの新たな文化として採り入れようとしているわけです。そこには、ただ自分たちがやりたいからというのではなく、自分の国をどうしていきたいのか、ということが背後に強く意識されているのを感じました。 いつからか、私は学生たちから「ママ」と呼ばれるようになっていました。まるで子どものようにみんな私のことを慕ってくるんです。男子学生だけでなく、ヒジャブ(イスラム教徒の女性が髪や身体を覆う布)を付けた女子学生までもが私のあとをゾロゾロついて回りました。そして私が教えたことを貪欲に吸収して、彼らの演奏はぐんぐん良くなっていったのです。 リハーサルのあと、学生オーケストラのメンバーと。 大歓声とウェーブが巻き起こるコンサート 迎えた本番当日。これまでの経緯から、きちんとコンサートがオーガナイズされているのかどうかも不安でしたが蓋を開けてみてびっくり。近隣の大学や学校からチャーターバスで次々と若者が来場し、ホールはあっという間に超満員に。会場に入りきれない人たちのために、野外スクリーンを設置したほどでした。 司会による指揮者の紹介のあと、「マエストロ・カナコ・アベ!」というアナウンスと共に私がステージに出ていくと観客が立ち上がって「ウオ~!」という大歓声とウェーブが! まるでロックコンサートのような盛り上がり方(笑)。彼らにとって、クラシック音楽は最近知った新しい音楽のひとつという感覚なのです。演奏中も音楽に合わせて体を揺らし、心から楽しんで聴いている様子が伝わってきます。コンサートは、練習での仕上がりをはるかに超えた演奏で大いに盛り上がりました。もちろんまだ粗削りなところもありましたが、全員の「表現したい」という情熱がこもった、人の心を揺さぶる素晴らしいコンサートになったのです。 2013年、インドネシアで学生オケと行った初めてのコンサート。...

失われた海の記憶を求めて。元半農半漁の町に伝わる剣祭り(千葉県習志野市)【それでも祭りは続く】

失われた海の記憶を求めて。元半農半漁の町に伝わる剣祭り(千葉県習志野市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 災いが起きた時こそ祭りが求められた    2020(令和2)年、新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の祭りの多くが開催中止を余儀なくされた。その後、いくつかの地域は感染対策を施したり、規模を縮小したりしながら祭りを再開し、2024(令和6)年現在、各地のお祭りはすっかり従来のにぎわいを取り戻しているようにも見える。一方で、コロナ禍を機に祭りそのものが廃止となってしまった地域や、持続可能な形を模索して内容を大幅に変更した地域もあると聞く。その影響の全容は明らかになっていないが、パンデミックがこれからも「祭り」という文化の存続に深い影を落としたことは確かなようだ。    ところで、各地の祭りの由来について調べてみると、「疫病退散」を目的としてスタートした祭りというものは案外に多い。有名なところでは京都の「祇園祭」などがそうだ。そんな祇園祭もコロナの影響で、2020(令和2)年、2021(令和3)年と山鉾巡行が中止となった。疫病退散を祈願して実施される祭りが、疫病で中止となる。現代的な感覚からすると致し方ない判断と言えるが、かつて人々が本気で祭りや神事の呪力を信じた時代は、やはり疫病だからこそ祭りを実施しようという機運はあったようだ。    千葉県習志野市の鷺沼地区で行われている八剱(やつるぎ)神社の祭礼「剣」という祭りを知ったのは、ほんの数年前のことだ。祭りの由緒はよくわかっていないようだが、およそ300〜400年の歴史があると地元では伝えられており、かつユニークなのは、中断されてもなお、村を襲う災いを鎮めるために復活したという歴史をこの祭りが持っていることだ。習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』には次のように書かれている。 何度か中断しかけたこともあったようだが、災害などをきっかけに、復活することがしばしあったようだ。(中略)鷺沼在住の男性(大正11年生)によれば、戦後も、祭りを中断したところ腸チフスがはやったので、再び行うようになったことがあった。 (習志野市教育委員会 編『習志野市史. 別編 (民俗)』より)    同書に掲載されている別の男性(大正4年生)の証言によれば、剣祭りが特に盛んになったのは1919(大正8)年に多数の死者を出した大嵐と、その後に流行したコレラがきっかけであるという。コレラではないが、1919年は世界的にスペイン風邪が流行した時期と重なる。また「大嵐」に関しては、1917(大正6)年に、気圧952ヘクトパスカル、最大風速43メートルが関東に直撃、暴風と高潮で東京湾沿岸部の町々に大きな被害をもたらした「大正6年の大津波」という災害が記録されているので、これを指すのではないかと思われる。    実は鷺沼は船橋市にある私の地元からそう遠くない距離にある町で、そういう意味でも興味の引く祭りであった。どのような催しなのか、実際に見学しに行ってみることにした。 町中を、剣を手に駆け巡り「悪事災難」を祓う    「剣」祭りは、鷺沼にある八剱神社の祭礼である。かつては毎年3月1日の日付固定で実施されていたようだが、現在は3月の第一土曜日の開催となっている。それ以上の詳しい情報は告知されていないのでわからない。そんな心許ない状態で、2023年3月4日、私は八剱神社の最寄りとなるバス停に降り立った。時間は正午を回った頃。ともかく、八剱神社の周辺をやみくもに歩いていると、住宅地の細い路地で白い半纏をまとった一団と出会った。「これだ」と直感したが、周囲に見物人の類は一人もいない。そういう祭りではないのかもしれない。 住宅街の中で遭遇した剣祭りの一団    ともあれ「本当にやっていた!」という喜びが勝り、勢いに任せて一人の男性に「見学してもいいですか」と聞いてみた。すると、「大丈夫ですよ」と色良い返事をいただけたので、お言葉に甘えて、カメラを手についていくことにした。    聞くと男性の名前は相原和幸さんといい、剣祭りを運営する氏子総代メンバーの一人であるという。ブログで祭りの情報を発信するなど、氏子総代の中でもスポークスマンのような立ち回りをされているようで、そのせいか私のような得体の知れない訪問者にも気をかけてくれて、剣祭りの概要や歴史を教えてくれる。    相原さんのお話を聞きながらしばらく同行していると、だんだんと剣祭りの大まかな内容が見えてくる。まず、「剣」という鉾(ほこ)のようなものを手にした「剣士」8名と、太鼓の台車を曳く人間、「御神酒」「御神米」の受けわたしを担当するメンバーがチームとなって動く。剣士は通常地域の中学生が務めるが、この年はコロナ禍の余波もあり子どもたちは呼ばず、剣祭りを主催する氏子総代、そしてヘルプで来ていた市の職員によって剣士は構成されていた。剣士の中でもリーダー格となる1名は「親剣」と呼ばれ、これも本来はOBの高校生などが担当して他のメンバーを率いることになっている。 白装束をまとって剣を携える剣士たち(左)    太鼓は寄せ太鼓の役目を果たし、住民たちに剣士たちの到着を告げる。家に到着して呼び鈴を鳴らすと、家の者がおひねりを手に出てくる。剣士は住民の頭上に剣をかざし、「悪事災難のがれるように」とまじないを唱える。続けて、後ろから来た人間が「御神酒、御神米」と言いながら、小袋に入ったお米と、紙パックのお酒をわたす。かつては一升瓶から直接お椀にお酒を注いでいたようだが、コロナ対策でこの方法に切り替えたらしい。御神酒、御神米を受け取った住民はおひねりをわたす。これでお祓いは終了である。 剣士たちの来訪を心待ちにする住民の姿    訪問する家は1日250戸近くにのぼり、数が多いのでメンバーが二手に分かれて行動することもある。不幸にあった家を避けるために、事前に訪問していいか各戸にアンケートをとっているそうだが、当日でも「うちに寄って欲しい」と声をかければ訪問してくれるそうだ。 おひねりを受け取るとともに、「御神酒」「御神米」をわたす    勝手知ったる土地でもあるためか、剣士たちの足取りは迷うことを知らず、ものすごいスピードで町の中を駆け巡っていく。とにかく剣士は「走り抜ける」ことが大事らしい。とはいえ1日がかりの大仕事なので、一気呵成にすべての家を訪問するわけではない。下宿、上宿、本郷、大堀込(オオボッコメ)という4つの地区に分けて、順番に巡っていき、一つの地区が終わるごとに休息をとる。かつては地域の有力者が「宿」として剣士たちを迎え入れ、満腹でその後歩けなくなるくらいご馳走をしたそうだが、運営体制の変化や、これもまたコロナ禍の影響によって、現在は一丁目にある根神社の社務所に休憩所を集約して、そこで飲み食いをするようにしている。 祭りの休憩所として利用されている根神社の社務所    また剣祭りの最中、村の境となる4つの箇所で「辻切り」も行われる。ちなみにこの儀式、2023年の訪問時には目にすることができず、2024年に剣祭りを再訪した際に、はじめて見ることができた。辻切りは「道切り」とも呼ばれ、村の中に災厄や疫病が入ってこないよう、集落の入り口となる場所(辻)を封印する風習のことである。辻に到着すると事前に立てていたお札の前で、神主が祝詞を奏上する。八剱神社には常駐の神主がいないため、隣町の谷津にある丹生(にう)神社の神主がこの任を担当する。祝詞が終わると、剣士たちが「えい」と言って剣を突き出し、辻切りを完了させる。自動車が高速で通り抜けていく音を背中で聞きながら、時代が1世紀ほど後退したような古式ゆかしい行事を見守るのは、なんともシュールな心持ちだ。...

人生の転機となったチャリティコンサート【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

人生の転機となったチャリティコンサート【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 充実の日本滞在 皆さん、こんにちは! 今年は久しぶりに日本で夏を過ごしました。 日本の暑さは、関西弁で言う「アカンやつ」です! 特に蒸し暑いのには参りました。私が住むオランダのハーグでは、例年より気温が低くて日中でも16度くらいでしたから、夜になると厚手の上着が必要なくらい。その差なんと20度! しかしお陰様で体調を崩すこともなく、滞在中は演奏会、ラジオ収録、指揮法講座、カンファレンス……と、ほとんど休むことなく音楽にどっぷり浸かった毎日でした。今回は自作(IWBC委嘱作品《ダンシングマニア》)の初演を自分で指揮するという機会にも恵まれ(実は、人生で初めて!)、新作を丁寧に演奏していただくことがいかに作品や作曲者にとって幸せなことか、改めて認識しました。やはり、どの作品も一つ一つ大切に取り組まなくては!と意を新たにした次第です。 NHK FMでは「ヨーロッパ夏の音楽祭」をテーマに、評論家の舩木篤也さんとモンペリエ音楽祭についてお話ししました。 8月に水戸で開催されたIWBCカンファレンスで、陸上自衛隊中央音楽隊を指揮しました。 モニターの前で釘付けになった「あの日」 さて、前回までは私がどのようにして指揮者の道に進んだかをお話してきました。外国で指揮者として身を立てるためにがむしゃらに勉強してきた私ですが、指揮科を卒業後は歌劇場の副指揮者というポストに着任。徐々に指揮者としての活動範囲を拡げ、もうすぐ40代に手が届くという頃、人生の転機となる出来事が起きました。2011年3月11日に発生した東日本大震災です。 私は、当時住んでいたパリで地震の発生を知りました。朝、いつものようにパソコンをつけると、SNSを通じて目に飛び込んできたのが「大地震発生」の投稿。慌ててネットでニュースを検索し、ようやく日本に何が起きたのかを知りました。それからは次々とアップされてくる動画に圧倒され、2日間パソコンの前から動けなくなってしまいました。 日本は終わってしまうのではないか。あまりの衝撃で、そんなことまで頭をよぎりました。被災し救助を待つ人たちの映像を目にして、ただただ胸を痛めながらモニターの前で動けずにいる自分が歯がゆくて仕方ありませんでした。私が医師や救助隊員なら、今、この時に人命を救うことができるのに……。でも自分にできることといえば音楽しかない。それがとても不甲斐なく思えました。 しかし2日目の夜、このままではいられない!と奮い立ちました。祖国がこんな大変な目に遭っているのだから、何か自分にできることをしたい。音楽家としてできることはないだろうか。その気持ちを周囲の音楽家仲間に話したところ、みんな同じ思いを抱いていることがわかりました。何人もの音楽家が、義援金を集めるためのチャリティコンサートを行うことを自発的に考えていたのです。 そこでパリ在住の日本人の音楽仲間を中心に、「東日本大震災チャリティコンサート実行委員会」を立ち上げました。メンバーの多くが学生だったこともあり、パリ生活が一番長い私が実行委員長を引き受けることに。数ヵ月にわたって行うチャリティコンサートの準備を急ピッチで進めることになったのです。 コンサート会場での義援金集め 一刻も早く義援金を送りたい。私たちの思いはただその一つでした。実行委員会が発足した時点で、すでにいくつかの室内楽コンサートが計画されていたので、まずはその開催準備に奔走しました。最終的に、3月と4月で計7回の室内楽コンサートを開催。その会場探し、参加者募集、プログラム作成、広報など、実行委員はみんな寝る間も惜しんで作業しました。 「何か手助けをしたい」と思っていたのは、フランスの人たちも同じでした。パリ国立高等音楽院の教授陣によるコンサートが開催され、パリにある楽器製作会社や教会、さまざまな文化施設も演奏会のために会場を提供してくださいました。私もできるだけコンサート会場に足を運んで、籠や箱を持って客席を回り、義援金の協力をお願いしました。 こうしたチャリティコンサートの舞台裏で大きな力を貸してくださったのが、パリを拠点に活動するアーティストたちから成る「ジャポネード」というボランティア団体です。ジャポネード代表の故・齋藤しおりさん(残念ながらご病気のため2016年に44歳の若さで亡くなられてしまいました)の素晴らしいイニシアチブのもと、一連のチャリティコンサートで集まった義援金は適切に管理され、最終的に全額無事に被災地に送ることができました。大勢のボランティアスタッフを統括し、細やかにケアしてくださったのも彼らでした。数人で立ち上げたチャリティコンサートは、いつのまにか志を同じくする多くの方々によって支えられていたのです。 チャリティでも経費はこんなにかかる 一方で、ある程度のまとまった義援金を送るためには規模の大きなイベントも必要です。私たちは実行委員会が発足した当初から、オーケストラのコンサートを開くことを考えていました。しかし、どうやって? オーケストラのコンサート制作は、室内楽とは桁違いに人手もコストもかかります。そんな大規模なイベントをオーガナイズするノウハウは私たちにありませんでした。 ちょうどその頃、ユネスコに勤務する日本人職員の方たちともつながりができ、彼らもまた何かしたいと思っていることを知りました。そこで副委員長の松宮圭太さんの提案で、ユネスコ・パリ本部の国際会議場をコンサート会場として提供してもらえないか、打診してみることに。彼の作った企画書を携えて打ち合わせに行くと、私たちの熱意に共感してくださったユネスコ職員の方々のご厚意で、休日に会議場を使わせてもらえることになりました。ただし、会場費は無料ながら、休日に稼働する人件費が必要とのこと。チャリティコンサートでもこんなに経費が必要なのかと、私は初めて思い知りました。 しかしここでも松宮さんが力を発揮。以前、日本の音楽財団で働いていた経験から笹川日仏財団に連絡を取って相談したところ、なんと「必要な経費は援助するので、演奏会で集まった義援金は全額、被災地に送ってください」と快く申し出てくださったのです。ここから、オーケストラのコンサートに向けた準備が進み始めました。 すべてボランティアの手によって開催 会場が決まったら、次は演奏者です。SNSを通じてオーケストラへの参加を呼びかけたところ、1日で100人以上の音楽家たちが手を挙げてくれました。学生や駐在員などのアマチュアプレーヤーから、プロオケの首席奏者まで、大勢の方がこのコンサートのために参加表明をしてくれたのです。楽器奏者だけではありません。歌でも参加したいと、オペラハウスの歌手やソリストなどプロの声楽家を含む約40人が合唱団を結成してくれました。 しかし演奏者だけではコンサートは成り立ちません。広報、チケット販売、楽器運搬用トラックの手配からパート譜の準備、出演者用の軽食手配などに加え、通常のコンサートホールには備えられている演奏者用の椅子や譜面台の手配・運搬など、仕事は山積み。そうしたありとあらゆる準備を手伝ってくれた舞台裏のボランティアが約200人。ですからコンサートに関わった人たちは総勢400人くらいになっていたのではないでしょうか。 その人たちに効率良く役割を振り分ける作業や演奏者リストの作成、リハーサルの連絡、著作権の申請など、実行委員も仕事を分担して、それぞれが遠隔でできることをやり、全員が裏方に徹して、文字通り寝ずの3週間が続きました。 1350席のチケット販売を一手に引き受けてくれたのは、会場探しの際に力を貸してくれたユネスコの日本人職員の方でした。チケットは早々に完売となったのですが、たった一人でそれをさばいた彼女がどれほど大変だったか。想像に難くありません。 たくさんの人の思いのこもった音楽 いよいよ迎えた本番当日。「東日本大震災チャリティコンサート」のプログラムは次のように決まりました。 武満徹《弦楽のためのレクイエム》 ラヴェル《ピアノ協奏曲ト長調》(ソリストは荻原麻未さん)...

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞〈後編〉(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 阪神虎舞の拠点、神戸区長田区へ    「東日本大震災の記憶の風化に抵抗する」――そのような思いから、岩手県から兵庫県に移植された民俗芸能、虎舞。その継承団体である「阪神虎舞」が拠点とするのが、兵庫県神戸市長田区だ。三陸沿岸の漁師たちから厚く信仰され、震災以降は復興のシンボルともなった虎舞は、この新天地にどのように根付いていくのだろうか。長田区に足を運び、担い手たちに話を聞くことにした。(前編記事はこちら) 震災から復興した町に虎舞はやってきた 新長田駅の駅前    新長田駅前には、東京郊外のニュータウンのような風景が広がっていた。駅前は綺麗に整備されていて、見渡すと高層ビルや商業施設が視界に入ってくる。朝早い時間であったとはいえ、人通りはそこまで多くなく、静かで住みやすそうな町だな、という印象を受けた。 新長田駅周辺エリアは「新長田」と呼ばれ、多くの商店街がひしめいている    駅の南側に向かって歩みを進めていくと、高速道路を挟んでアーケード商店街の大きなサインが見えてくる。大正筋商店街。阪神虎舞が拠点とするNPO法人DANCE BOXの劇場は、この商店街の中にある。 大正筋商店街    長田を語る上で「震災」というキーワードは避けて通れない。この町は1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受け、その後、神戸市が主導となって大規模な再開発が行われたという歴史を持つ。神戸市のなかでも、特に長田区では多くの火災が発生。市内全体での火災被害のうち、面積にして約64%、棟数にして約68%、被害額にして約51%を占めた。また、区内にあった住宅のうち、58%が全壊・半壊の被害を受けたという。多くの商店が肩を並べる新長田駅前の商業エリアも、火災で壊滅的な状態となった。 震災当時の大正筋商店街(出典:神戸市「阪神・淡路大震災 1.17の記憶」)    長田区でも商業施設が集約していた新長田エリアでは震災後、行政の主導による大規模な再開発が進められた。長屋が軒を連ねる商店街は、まるで大型商業施設のような建物に再建され、一時は復興の象徴たる地区でもあった。しかし再建から年月が経ち、空き店舗の増加が目立つようになるなど、新たな問題も顕在化し、数年前からたびたびニュースで報道されるようになっている。     現在の大正筋商店街(2024年4月17日撮影)    商店街に入って3~4分ほど歩くと、右手に「db」と描かれた赤い看板が現れる。正面の建物に入りエレベーターで4階へ上がると、カラフルなポスターがいくつも目に飛び込んできた。 DANCE BOXの入口    「もともと、このテナントにはライブハウスが入っていたみたいですね」 NPO法人DANCE BOXの事務局長で、阪神虎舞の設立にも関わった文(あや)さんは、そのように話す。言われてみれば、ロビーにチケットを販売するカウンターのような構造物があり、いかにもそれらしい。    DANCE BOXはコンテンポラリーダンスを起点として、アーティストの育成事業や国際交流事業、地域における教育や福祉、街の活性化などの事業に関わる組織だ。阪神虎舞を企画した橋本裕之さん(連載第1回参照)との縁は、2011(平成23)年、長田区の長田神社で鵜鳥神楽を公演した際に、DANCE BOXが神社との交渉や、神楽メンバーの宿泊地の手配など、現地コーディネートの一切を担当したことに始まる。その仲介役となったのは、橋本さんとともに阪神虎舞を立ち上げた中川 眞さんだった。数年が経ち、阪神虎舞の拠点探しをはじめた橋本さんは、関西のさまざまな団体にアプローチをした末に、以前イベント開催に協力をしてもらったDANCE BOXに問い合わせてみることにした。    「DANCE BOXには劇場もあるし、多くのダンサーや俳優が出入りしていたので、ここに来れば、虎舞を踊ってくれる人もいるだろうと考えられたんでしょうね。もちろん私たちも鵜鳥神楽のことが強く印象に残っていましたし、民俗芸能とコンテンポラリーダンスが、そう遠いものではないという認識もありました。また虎舞という芸能を実際に見てみたいなという好奇心もありました」...

指揮者への道のりは、茨の道!?②【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者への道のりは、茨の道!?②【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 関西フィルと初共演 皆さん、こんにちは! 猛暑の毎日、いかがお過ごしですか? 今夏は私も日本で演奏会やカンファレンスに出演するため、こちらで暑~い夏を過ごしています。7月の演奏会は私の出身地でもある大阪で、関西フィルハーモニー管弦楽団を客演しました。 今回の演奏会場、大阪市中央公会堂の前で(2024年7月)。 ©Ryota Funahashi プログラムは私がもっとも愛する作曲家の一人、モーツァルトの《フリーメイソンのための葬送音楽》《交響曲第40番》とベートーヴェン《交響曲第7番》。いつも「これから指揮する作品ほどの傑作は人類史上ほかにない」と惚れ込んで取り組みますが、今回は名曲中の名曲。あふれんばかりの作品への愛を込めて演奏しました。関西フィルの熱演が、ご来場いただいた皆さんにもそれを届けてくださったものと思います。すばらしい作品は何度演奏しても新たに得るものがありますし、エネルギーをもらえます。それを本番で会場の皆さんと共有できることは何ものにも代えがたい、至福の時間です。 「新曲をていねいに初演する指揮者」になる 近年でこそ古典を振る機会も増えてきましたが、もし10年前の私が今回のプログラムを見たらびっくりすると思います。というのも、フランスにいた頃の私に対する一般的な認識は、「世界初演を数多く手掛ける現代音楽のスペシャリスト」だったからです。 前回の連載で音楽院の指揮科に入った頃のお話をしましたが、当時から「私は新曲をていねいに初演する指揮者になろう」と思っていました。なぜなら若い頃、仲間の作曲家が書いた新作がなおざりに初演されるのを目の当たりにして、強い憤りを覚えることが度々あったからです。 パリ国立高等音楽院指揮科のクラスメートたちと。前列左端が当時の主任教授、ジョルト・ナジ先生。 後列右から2人目が私。 たとえば演奏会で、ラフマニノフとかチャイコフスキーなどの有名な協奏曲と交響曲をメインにして、1曲目に短い現代曲が入るようなプログラム、よくありますよね。もちろんお客さんの多くは、人気のソリストやメインプログラムを楽しみにしていらっしゃるわけですが、そのときに、演奏するオケや指揮者までが現代曲を“前菜”みたいに扱ってはいけないと思うのです。 新作の世界初演というのは、言ってみれば今まさにこの世に生まれ出ようとしている赤ん坊のようなものです。できるかぎりベストな状態で演奏して、今後も再演されるように繋げていくことが、クリエイションに携わる芸術家として大事な務めであるはず。にもかかわらず、少なからぬ演奏団体が古典作品に比べて現代曲をいい加減に扱っているのを見て、「違うだろう」と思っていました。 自分は結婚を機に作曲を封印していましたが、書いた曲がはじめて音になる瞬間を作曲家がどんな気持ちで待ち焦がれているか、初演がうまくいかない時どれほど落胆するか、仲間や元夫の初演にたくさん立ち会ってきた私には痛いほどわかります。 だから時々、指揮をしている自分のことを「ずるいなぁ」とすら思うんです。演奏が成功すると、舞台の真ん中に立っている指揮者が盛大な拍手を一身に受けているように見えますが、本当に大変なのは作曲家だと知っているからです。もちろん指揮者には指揮者の苦労もありますが、「作曲家の苦労に比べたら、たいしたことないな」と思ってしまいます。世の中の一般的なイメージでは指揮者が偉大な統率者のように思われているのかもしれませんが、私に言わせれば指揮者は「人柱」(笑)。指揮台に立つ以上、万が一演奏に何か瑕疵があれば指揮者が全責任を負う、くらいの覚悟でやらないとだめだろう、と思うのです。 指揮者としての初仕事 私が指揮科に入ってはじめてギャラをもらった仕事も現代音楽でした。ある時、有名な企業の社長さんから「趣味で作曲した曲を、自分が元気なうちに演奏してほしい」と依頼されたのです。社長さんは70歳過ぎくらいでしたがずっと趣味で作曲を続けていて、若い頃にはクセナキス(Iannis Xenakis, 1922~2001)に師事したこともあるとお聞きしました。そして「金は出すから」といって、ポンと大金を渡されたんです。 アマチュア作曲家の作品とはいえ、真剣にやろうと思いました。すべて私に一任されていたので、演奏者を集め、ギャラの配分を決め、会場や練習室を押さえるための事務手続きや楽器搬入用のトラックの手配まで、全部一人でやりました。準備している間はなかなか大変な毎日で、ある晩目が覚めたら顎が外れていました(笑)。疲れがたまると顎が外れる、ということをその時はじめて知りました。 通常の演奏会と同じように、本番は社長さんの曲をメインにほかの曲も加えたプログラムを組み、リハーサルを行い、録音もプロのエンジニアを手配しました。そうして迎えた当日は思った以上にお客さんがたくさん入り、コンサートは大成功のうちに終えることができました。社長さんにも満足していただくことができて、私は指揮者としてはじめての仕事を無事完遂することができたのでした。 はじめてギャラをもらって企画したコンサートのリハーサル風景。 社長さんの曲に加えて、ヴァレーズの《オクタンドル》を演奏しました。 私の元夫、レジス・カンポ《ポップアート》のリハーサル風景。 現代音楽のアンサンブルを立ち上げる 「一緒に現代音楽のアンサンブルを作らないか」と誘われたのは、それからしばらくたったある日のことでした。声をかけてきたのは同じ音楽院の作曲科に在籍する学生のヤン君。先日の演奏会を聴きに来ていて、新しく立ち上げるアンサンブルの指揮者として私に白羽の矢を立てたのでした。 そして2005年、私を含めた5人で「ミュルチラテラル」という現代音楽アンサンブルを創設しました。グループ名の「Multilatérale」は「多角的な、多元的な」という意味です。誰か一人がリーダーになってほかの人がそれに従うのではなく、全員がそれぞれの方面から意見を出し合って民主的に決めていこう、というのがグループの方針でした。そのアンサンブルで、私やヤン君のような若い世代の作品と、もっと前の世代で古典になりつつある優れた作品を両方並べて、時代の潮流を掴むような趣旨の演奏会をたくさんやりました。 アンサンブル・ミュルチラテラル結成後第1回目となる演奏会のリハーサル風景。...

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

虎は千里を行って――被災地をつなぐ民俗芸能・阪神虎舞(兵庫県神戸市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 東北から関西に移植された民俗芸能    東日本大震災を機に、東北から遠く兵庫県神戸市にわたった民俗芸能があると聞いて興味を持った。その名は2018(平成30)年に結成された「阪神虎舞」。岩手県三陸沿岸地方に伝わる民俗芸能「虎舞」を、コンテンポラリーダンサーら有志が地元団体の指導のもと習得し、神戸市の新長田地区を拠点にさまざまな場で披露しているというのである。なぜ岩手の芸能が神戸市で? なぜダンサーが担い手に? いくつかのクエスチョンが頭に浮かぶ。その理由を知りたいと思い、神戸市へと向かった。 海の彼方から「虎」がやってきた    東京から夜行バスに乗り、およそ10時間。神戸三宮駅に到着した頃には、すっかりと夜が明け、駅前では通勤通学の人々がせわしなく往来する、東京と変わらない風景が広がっていた。神戸には十数年近く前に来たことがあるような記憶もあるが、個人的にはなじみの薄い場所だ。目当ての電車がわからず、5分ほど改札の前で右往左往したのち、ようやくそれらしい電車を見つけて乗りこんだ。    ここで、虎舞について少し予習をしておきたい。獅子舞は聞いたことがあるが、虎舞は「?」という人も多いのではないだろうか。虎舞の伝承地の一つである岩手県山田町の郷土誌『山田町史 上巻』では、次のように説明されている。 ”虎舞は風流獅子踊り系の一種といわれ虎頭から下がる布胴に二人の人が入って激しく踊る。(中略)大太鼓、小太鼓、笛、てん平金<ママ>の囃子に、若者連中の掛け声が入り威勢のいい踊りがくり広げられる。” (山田町教育委員会 編『山田町史 上巻』) 三陸沿岸地域における虎舞の発祥とも言われる、岩手県山田町の大沢虎舞(2015) 提供:橋本裕之    実は虎舞は全国各地に分布しており、1992年に刊行された佐藤敏彦  編著『全国虎舞考』によると、北は青森から、南は鹿児島まで継承団体が存在するという(刊行当時)。多少の例外はあるが、多くは太平洋沿岸地域に分布しているというのが大きな特徴で、虎舞が海に関係する芸能であろうということが想像できる。    また、三陸沿岸地域に伝わる虎舞には二系統が存在すると言われている。Webサイトの「いわての文化情報大辞典」(岩手県文化スポーツ部文化振興課 文化芸術担当)によると、岩手県県南部(釜石市以南)や宮城県など、旧仙台藩域に分布する虎舞は獅子舞が変化したものであると考えられており、悪魔祓いや火伏せを意図している場合が多いという。確かに、私が以前鑑賞したことのある岩手県大船渡市末崎町の門中組虎舞は、虎というよりは「獅子」の顔つきをしていた。 獅子舞から虎舞に変化したものとされる、岩手県大船渡市末崎町の門中組虎舞(2017)    ちなみに今回、取材する阪神虎舞は、岩手県大槌町の大槌城山虎舞から指導を受けている団体で、釜石市以北、旧盛岡藩域に伝わる系統の虎舞となる。 大槌城山虎舞。毎年9月に開催される「大槌まつり」や、「三陸大槌町郷土芸能 かがり火の舞」といったイベントで披露される 提供:大槌町観光交流協会    このように二系統の虎舞が三陸沿岸地域に伝わるわけだが、ルーツは違っても、海への信仰という点で両者は共通している。例えば、門中組虎舞の獅子頭には、虎舞と海を結びつける伝承がある。『大船渡市史 第4巻 (民俗編)』によれば、鎌倉時代、末崎町の泊里浜に、神輿・祭器・仏体などを載せた船が漂着した。村人たちははじめこれをいぶかしんだが、村に祭ることにした。数々の宝物の中には獅子頭もあった。これをもって獅子舞を奉納すれば、「悪魔退散・五穀豊饒・大漁」の霊験あらたかなるものありということで、「虎舞い」として今日まで受け継がれるようになったという。    また三陸沿岸地域の虎舞には、漁師が無事に帰ることを祈願する「航海安全」の信仰を持つものが多い。これは「虎は一日にして千里行って、千里帰る」という故事にちなんでいる。    いずれにしても、虎舞と海とは切っても切れない縁であるということがおわかりいただけるだろう。国文学者の佐藤 彰は論考「「虎舞」系譜考――静岡県南伊豆町小稲の事例をめぐって」の中で、万葉集の長歌の一節「居り居りて 物にい行くとは 韓国(からくに)の 虎といふ神を...

指揮者への道のりは、茨の道!?①【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者への道のりは、茨の道!?①【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 私の原点――両親は合唱指揮者 皆さん、こんにちは! 今年も暑い季節がやってきましたね。 夏といえば今年はパリ・オリンピックが開催されます。先月はじめにパリへ行ったときはまだ盛り上がっている様子が感じられませんでしたが、この記事が公開される頃には日本でも話題になっているでしょうか? 連載第2回目ではパリ国立高等音楽院「伴奏科」時代のお話をしました。 作曲科を出て、伴奏ピアニストの仕事をして……という私の経歴を見て、「いつ頃から指揮者になりたいと思ったのですか?」とお尋ねになる方も多いのですが、自分でもはっきりと「いつ頃から」というのは難しいかもしれません。 私の両親は合唱団で出会い、結婚しました。大阪では「合唱界の大助・花子」と呼ばれるおしどり夫婦で、私は物心つく頃から両親が合唱団を率いて合唱指揮や指導を行う姿を見て育ちました。週末になると『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ・ファミリーよろしく一家で歌うのがならわしで、一つ下の弟がアルト、三つ下の妹がソプラノ、私がメゾを受け持ち兄弟で三重唱をやったりして、音楽がごく自然に生活のなかにあるような環境でした。両親が合唱指揮をしていたので、子どもの頃は逆に「指揮者は3人もいらない、自分は別のことをしよう」と考えていたように思います。 両親が主宰する帝塚山少年少女合唱団で歌っていた頃(右から2番目)。 録音スタジオにて。少年少女合唱団時代には、CMソングの収録なども行いました(右から3番目)。 その一方で、両親の後ろ姿を見て、指揮者の音楽的な側面以上に「リーダーシップ」に強く惹かれるものを感じていました。合唱団にはいろんな人が来ます。ただ歌が好きな人、合唱に生きがいを求める人、孤独を癒しに来る人、子どもの心を豊かにしたい人……。両親の元で、たくさんの人が合唱を通じて交流する様子を小さい頃から間近で見ていたせいか、「人々を、良き方向へ導く人」という役割には漠然と憧れがありました。強いて言えば、それが指揮者になりたいと思った原点かもしれません。 フランスに移り、両親と離れてみてようやく「もしかしたら私は指揮に興味があるかもしれない」と感じ始めたのですが、その頃は異国の地で音楽家としてちゃんと仕事ができるようになることがまず先決でした。その時に、伴奏ピアニストというのはある意味、「日本人」「女性」であることが大きなアドバンテージになるんです。外国では、「日本人女性は穏やかで、人の話をよく聞いて、その場に合わせた対応ができる」と評判が良いからです。 それで私も伴奏の仕事をたくさんやってきたわけですが、ある時ふと「これを何十年も続けていって、私ははたして幸せだろうか?」と考えてしまいました。どうも自分はここではない、もっと別な場所で活動するような気がする……そんな胸騒ぎのようなものを当時はずっと抱えていました。でも、ここではない場所へ行くためにはもっと頑張らなくてはいけない。そのためには、30歳までに何をするべきか? 20代はずっとそういうふうに考えていました。 指揮者に必要な資質とは 伴奏ピアニストであれば歓迎される大和撫子も、指揮者となるとまったく逆です。オケだって「大丈夫? ちゃんとできるの??」と不安になるでしょう。だから「指揮者になりたい」と思った時点で、ただ優秀なだけではだめで、よほど人よりも抜きん出ないかぎり仕事は来ないぞ、という危機感がありました。 音楽院指揮科時代、サクソフォンアンサンブルの指揮者として中国ツアーに出かけた時。 中国ツアーでの一コマ。 では、指揮者にはどんな資質が必要なのでしょう。 これは私の考えですが、指揮者には「なれる人」と「なれない人」がいると思います。それは音楽的な能力以前に、その人が持っているエネルギーの質を観察するとわかります。エネルギーに満ちていて、人にポジティブな印象を与える人は指揮者に向いています。大勢の個性豊かな人たちを動かして一つの音楽を生み出すわけですから、当然といえば当然かもしれません。普通自動車を運転するのと同じパワーで大型トラックのハンドルは切れないですよね。 伴奏科を修了したあと、指揮科に入学して最初の年にこんなことがありました。 突然、「今年から年度末試験を行うことになりました」と通達されて、オーケストラのリハーサルをする試験が課されることになったんです。課題曲として与えられたのはバルトークの《管弦楽のための協奏曲》。5人の先生が審査をするなか、決められた時間内にリハーサルを行う試験です。当時、指揮科の1年生は私を含めて3人いたのですが、最後に試験を受けた男の子だけは、2年生に進めませんでした。 「君はこのまま勉強しても将来プロの指揮者にはなれない。だから2年生に上がる必要はない」といって退学になってしまったんです。彼は私よりも少し年下でしたが、少なくとも指揮科に入学した時は同期で一番指揮のテクニックがありました。私も彼の試験を聴いていましたが、決して落第するような演奏ではなかったです。 けれど以前、彼が指揮をするときに、オケのメンバーの一人が「あの男の子が振るの? ちょっと変えてもらえないかなぁ、あの子で始まるとやる気出ないんだよね」とこっそり伝えに来たことがありました。指揮台に上がる前からそんなふうに言われて気の毒に思いましたが、人相手の仕事ですからそういうこともあり得ます。 指揮の仕事は「コミュニケーション」が大半なので、最初に「いけ好かない奴だ」と思われてしまうともうそこで扉は8割くらい閉まってしまう。すると、どんなにすぐれた音楽性を持っていようと相手に伝えることが難しくなってしまいます。彼が落第した直接の理由はわかりませんが、彼には人を動かすエネルギーが不足していたのかもしれません。 パリ国立高等音楽院の指揮科は、授業で毎月オーケストラを使うのですごくお金がかかります。そしてそのお金を出しているのはフランス政府です。だから指揮科に在籍していると、自分の卒業演奏会の告知がフランス大手紙『ル・モンド』に掲載されたりするんですね。つまり、認められた学生は政府から手厚く援護を受ける一方、そうでなければさっさと退学させられてしまう。音楽院の指揮科は、半分学校のようで半分プロのような、そんな雰囲気がありました。 「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」  音楽院の指揮科では、卒業生たちから成るオーケストラを相手に毎月1週間ほどリハーサルを行います。それまでのクラスとは違って、実地に投げ込んで鍛えるスタイルです。オケのメンバーは卒業生ですから、私のこともよく知っている人がいるわけです。だからちょっとミスしたり、もたもたしたりしているとすぐヤジが飛んでくる。こちらの言葉尻を捕えて軽口を叩かれたることもしょっちゅう。最初の頃はそういうことにいちいち傷ついていました。「お前がやってること、全然わかんねーよ!」「お前の指揮なんかで演奏できるかよ!」と言われて目に涙をためながら振ったこともありました。 しかも私が指揮を始めた頃は、今よりずっと女性に厳しかった。「女が指揮台に立ったらオーケストラの奴らが見るのはボインのところだけだよ!」なんて平気で言う人がいた時代です。オケのメンバーも、男の人だけでなく、女の人からも「女性指揮者なんてありえない!」と反発があるくらい拒否反応が大きかったんです。指揮台の上でちょっと女性っぽいしぐさをしようものなら、「それがいけないんだよ!」と言われたり。今考えたらおかしな話なんですけどね。 指揮科演奏会のリハーサル風景(2005年頃)。 この時の演目はプロコフィエフの組曲《ロミオとジュリエット》。 私も最初は自信がなかったし、自信がなければないほどよけい頑なになってしまって、自分を強く見せようとしていました。妙に肩肘張って、「こうするんだ!」と自分の考えを相手に押し付けようとして、逆に「何あいつ」と思われてしまったこともありました。長いこと、指揮台にのぼることはすごく特別なことのような感じがして、いつも緊張していました。慣れてきたのは本当にここ数年です。...