ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】
日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 数珠が回り、獅子が舞う、異色の民俗芸能 タスキがけの男たちが代わるがわる滑車にかけられた長さ約9メートルという巨大な数珠(じゅず)に取りつき、力強く回し続けている。滑車から吐き出された数珠は天井に向かって勢いよく投げられ、蛇が波打つような曲線を描いた刹那、床の上で「ガシャガシャ」と大きな音を立てる。数珠は再び滑車に巻き取られていき、また力任せに引き寄せられる。それが何度も繰り返される。数珠回しの最中は、絶え間なく太鼓の音が響き、時折「南無阿弥陀仏……」と念仏の唱和も挟み込まれる。 男たちが大きな数珠を引き寄せ、勢いよく回し続ける いま私が見学しているのは、神奈川県足柄上郡山北町に伝わる「世附(よづく)の百万遍念仏」という民俗芸能である。山北町向原の能安寺というお寺の道場を舞台に、毎年2月15日に近い土・日曜日に開催される。「百万遍念仏」というのは、全国各地に広まる「百万遍信仰」にもとづく行事で、その目的も、五穀豊穣、雨乞い、追善供養、虫送り、疫病退散など、地域によって多岐にわたる。 『民間念仏信仰の研究』(仏教大学民間念仏研究会 編)によれば、一言に百万遍念仏といっても大きく二つのタイプに大別され、一つは一人の人間が7日間ないし10日間かけて文字通り百万遍、念仏を唱えるというもの。もう一つは大勢の人間が車座に座って、巨大な数珠を繰りながら、念仏をみんなで唱和するというもの。多勢による念仏の総和をもって「百万遍」とするという、その合理的な発想に感心させられる。世附の百万遍念仏は後者のタイプに属するが、滑車を使って一人で数珠を回すという点で、他とは一線を画している。 百万遍念仏が行われる能安寺。お寺の背後には東名高速道路が走る 数珠回しが終わると、今度は「獅子舞」や「遊び神楽」といった余興的な演目が始まる。獅子舞にはいくつかの曲があり、笛と太鼓の伴奏とともに「剣の舞」「幣の舞」「狂いの舞」「姫の舞」などの舞が演じられる。舞の最中は太鼓と笛の演奏、そして時折歌が入るが、耳をすませていると「来いと呼ばれて行かりょか佐渡に」と民謡『佐渡おけさ』の文句が入ったり、「牛の角蜂がさした蜂の金玉蚊なめた」などユニークな歌詞が聞こえてきて面白い。 剣と鈴を持って舞う、剣の舞 二人1組で獅子を演じる、狂いの舞 「二上りの舞」「おかめの舞」「鳥さしの舞」はもっとユニークで、二上りの舞はひょっとこ面の恰幅のいい男性が滑稽な動きをしながら、お堂の中を所狭しと歩き回る。おかめの舞はまるっきり漫才で、舞とともにおかめ(女)とかんさん(男)の色っぽくて笑える問答が繰り広げられる。鳥さしの舞は、さまざまな芸能の題材となっている「曾我兄弟の仇討ち」をモチーフとした芝居仕立ての演目だが、鳥さし(鳥餅を用いて野鳥を捕まえる職業の人)役の男性の演技がとにかく色っぽく、驚いてしまった。そもそも太鼓や笛の演奏もきわめてレベルが高く、全員がかなりの修練を積んでこの行事に臨んでいることがうかがい知れる。 ひょっとこがコミカルに立ち回る、二上りの舞 リズムカルな歌やセリフに合わせて鳥さしが舞う 神楽が一通り演じられると、最後に「カガリ」が行われる。「カガリ」は儀式的な演目だ。道場の真ん中に太鼓を置いて、バチを手にした人々がそれを囲む。太鼓を叩きながら「融通念仏」という念仏を全員で唱和する。融通念仏は数え歌のようで、一番から始まり、十番で終わる。十番の歌詞に達すると、天井からたくさん吊るされた紙飾りが落ちてきて、参加者全員でそれを奪い合う。一種のトランス状態に陥って、その日の行事は終わる。 「カガリ」では太鼓を囲んで「融通念仏」を唱える しかし、百万遍念仏の本当のエンディングはこれではない。山北町のホームページには、次のように書かれている。 戦前は百万遍念仏の翌日に獅子舞が幣束を持って、世附地域の全戸をお祓いをしながら周り、最後に幣束を永歳橋から流す「悪魔祓い」を行っていました。現在は向原の能安寺で念仏が行われているため、悪魔祓いは念仏の翌週に世附地域出身者の家々をまわり、幣束は大口橋から流されます。 この悪魔祓い(地元の人は「アクマッパライ」と呼ぶ)をもって、百万遍念仏は一区切りとなる。「現在は向原の能安寺〜で行われている」と書かれているのは、実はこの百万遍念仏が元々行われていた「世附」という集落はすでにこの世に存在しないからだ。1978(昭和53)年に竣工した山北町の山間部にある「三保(みほ)ダム」の建設によって、ダム湖(丹沢湖)に水没してしまったのだ。この「三保ダム」という名称は、かつてこの場所に存在した「三保」という地名に由来している。1909(明治42)年に、世附をはじめ、中川、玄倉(くろくら)の三村が合併して三保村が成立(1925年には神縄村の尾崎・田ノ入・ヲソノ地区も編入)。1955(昭和30)年のさらなる合併で三保村は廃止となり、山北町となった。 ダムの建設で、三保の住人たちの大半(223世帯)は山から降り、麓の地域に分散して移り住んだ。しかし、いまもなお百万遍念仏や悪魔祓いは、元世附住民の移転先で継承されている。水没から50年近く経ったいまも、出身地域に根ざした行事が行われているという事実には驚嘆せざるを得ない。彼らが祭りを続ける、その原動力とは一体なんなのだろうか。 川で結ばれた「ふるさと」と「新天地」 一週間後、悪魔祓いを見学するために、私は再び山北町に足を運んだ。場所は、住人たちの移転先の一つである「原耕地」地区だ。到着すると、笛や太鼓を持ってぞろぞろと歩く集団に遭遇する。獅子頭をかぶった者もいる。 JR「東山北」の駅から原耕地の集落を臨む 悪魔祓いをしながら集落を回る一団 一団は訪問先の家に着くと、まず案内役の人がインターホンを押して家人に到着を知らせる。続いて獅子頭を身につけた人が玄関の前に進み出て(家によっては家屋の中に入って)、幣束を手にしながら笛と太鼓に合わせて悪魔祓いの舞を行う。 軒先で舞う獅子 悪魔祓いの最中は、太鼓と笛の演奏が行われる 一連の流れが終わると足早にその場を離れ、次の家へと向かう。トータルで80戸近くの家を回るらしい。元世附住民の家は山北町のほか、中井町、開成町など、足柄上郡の各地域に点在する。なので悪魔祓いの当日は、車を利用しながら数チームに分かれて家々を訪問することになる。午前中には、丹沢湖の方にも行っていたそうだ。 百万遍念仏で際立った太鼓の腕を披露していた男性も、悪魔祓いに参加していた(写真右)...