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ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

ショパンコンクール、観るだけじゃもったいない!初心者でもやさしく弾ける30曲でショパンをはじめよう

2025年は5年に一度のショパン国際ピアノコンクールの開催年。世界中のピアニストの名演を耳にして、「自分もショパンを弾いてみたい」と思う方も多いのではないでしょうか。そんな初心者や大人の再挑戦にぴったりの、やさしいショパン楽譜を集めた一冊をご紹介します。 やさしい曲を厳選、初心者にも安心 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 楽譜が読めなくても楽しめる!そうちゃんによる「謎解き幻想即興曲」 1. やさしい曲を厳選、初心者にも安心 ショパンといえば「難曲」のイメージがありますが、本書ではやさしく弾ける小品やアレンジ譜を中心に厳選。初心者でも無理なく楽しめるよう、4つのレベルに分けて構成しました。ピアノを始めたばかりの方や、長いブランクのある大人でも「弾けるかも」と思える曲から始められるのが大きな魅力です。 ▲ レベルに合わせた曲を選べるので、初心者でも取り組みやすい! 2. 人気ピアニストたちの「はじめてのショパン」初公開 巻頭には、前回のショパンコンクールで活躍した反田恭平さん、小林愛実さん、角野隼斗さんのインタビューも収録。コンクールを振り返るエピソードとともに、彼らの「はじめてのショパン」や「初心者におすすめの1曲」を教えてもらいました。プロの視点で語られる、ショパンを弾く上での演奏アドバイスはピアノ学習者必見です。 ▲ だれがどの曲を「はじめて弾いて」「おすすめ」しているでしょう? 答えは本誌にて! 3. 本格派も楽しめる 読んで楽しいショパン雑学やコンクール情報 ショパンの人となりや生涯、ゆかりの地、ショパンコンクールのガイドなど、演奏だけでなく“読む楽しさ”も盛り込まれています。人気音楽イラストレーター・やまみちゆかさんによる「ショパンってどんな人?」のほか、全6ページにわたる「第19回ショパン国際ピアノコンクールまるわかりガイド」では、2025年大会の日程や課題曲一覧のほか、舞台裏でサポートに徹するメーカースタッフによる奮闘記まで、ここでしか読めない記事が満載! ▲ 知られざるショパンの姿や、コンクールの珍事件まで幅広く紹介。 4. 2024年に発見されたばかりの“ショパンの新曲”が収録!? 2024年10月、ニューヨークのモルガン図書館・博物館で新たに発見されたショパンの未発表作品「ワルツ イ短調 遺作(2024年発見)」。長年にわたりショパンのエディション研究に取り組まれてきた岡部玲子先生の監修と解説のもと、本書に楽譜を収録しました。ショパンの新たな響きを、ぜひご自身の手で確かめてみてください。 ▲ 記事ページには岡部玲子先生による解説もたっぷり収録。 5....

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

踊りがつないだ縁――故郷を離れても人々のなかに生きる「徳山おどり」(岐阜県揖斐郡旧徳山村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 水になった村「徳山村」    祭りは本来、地域社会の営みであり、その地域の人々だけで行われるのが一般的だ。しかし近年は担い手不足から、地域外の人が参加するケースも増えている。その1つの事例として、著者自身がここ数年「部外者」として参加している、とある地域の郷土芸能活動について紹介したい。その郷土芸能とは、岐阜県揖斐郡(いびぐん)の旧徳山村に伝わる盆踊り「徳山おどり」である。「旧」と付くのは、徳山村という自治体がダム建設によって消滅したためである。    徳山村は岐阜県の最西部、揖斐川流域に位置する集落である。この地に伝わる盆踊り歌に「東にひかえる馬坂(峠)、西は江州(現在の滋賀県)国ざかい、北は越前(福井県と石川県の一部)に連なりて、冠山をば境とし」(括弧内は筆者)と歌われるように、福井県と滋賀県に接し、四方を山々に囲まれた谷間の地であった。 現在、徳山ダムがある岐阜県揖斐郡揖斐川町 ダム湖に沈んだあとの徳山村全景 徳ダムの造成でできた人工湖の「徳山湖」    この地でのダム建設の構想は戦前からあり、水力発電所建設のための調査が断続的に行われていた。戦後の経済発展に伴い、人口の増加と、それに伴う都市用水や電力の確保が課題となり、日本各地で多くのダム建設が計画された。その一環として、1957年(昭和32年)、揖斐川は電源開発株式会社(1952年に制定された「電源開発促進法」に基づき設立された電力会社)の調査河川に指定された。    集落のほとんどが水没するという大規模なダム計画であることが公に明らかになると、当初住民は絶対反対を表明した。しかしその後、補償交渉など紆余曲折があって、ダム計画の正式発表から30年後の1987(昭和62)年に徳山村が閉村、隣接する藤橋村に合併。さらに20年の歳月を経て、2008(平成20)年に、ようやく「徳山ダム」が完成した。    50年という歳月は、あまりにも長い。「いずれ水に沈む村」と見なされた徳山には、ダム完成までの間に民俗学、考古学、生物学など、さまざまな分野の研究者がこの地を訪れ調査を行った。その結果、徳山村に関する本も数多く出版されている。もし徳山村が沈まなければ、これほどの記録が残されることも、この地域が広く世間に知られることもなかったかもしれない。そう考えると、これは皮肉な結果とも言える。 筆者がこれまでに収集した徳山村関連の資料    映像作品を通じて、在りし日の徳山村の姿を確認することもできる。代表的な作品は神山 征二郎監督による『ふるさと』(1983)だ。徳山村戸入地区出身の児童文学作家・平方浩介氏の作品『じいと山のコボたち』を原作とした映画で、徳山村を舞台とし、実際の撮影もダム湖に沈む前の徳山村で行われている。    また、徳山村が廃村となったあと、それでも村に留まって自給自足の生活を送る年寄りたちを取材したドキュメンタリー映画・大西暢夫監督『水になった村』(2007)も、村の人々の地域への深い愛が感じられる素晴らしい作品である。    世間一般的には、“カメラばあちゃん”こと、増山たづ子さんの存在を通じて、徳山村の存在を知った人も多いかもしれない。増山さんは徳山村戸入地区の出身で、この地で民宿を営んでいたが、ダムに沈む前の村の様子を記録しようと、コンパクトカメラで膨大な枚数の写真を撮影。残された写真は生前増山さんと交流のあった研究者・野部博子さんによって管理され、現在でも時折、写真展が開催されている。 2021年に東京都美術館で開催された企画展のメインビジュアルにも、増山たづ子さんが撮影した徳山村の写真が採用された 移転先に受け継がれた徳山おどり    さて、徳山村を離れた住人たちは、親戚などを頼りにまったくの別天地に移り住んだ者もいたが、約70%の人々は、ダム計画の事業主となる水資源開発機構の用意した徳山・文殊・表山・大溝・芝原(すべて本巣市・揖斐川町に存在)の団地に移り住んだ。ちなみに、ここでいう団地とは、一般的にイメージされるアパートやマンションのような集合住宅ではなく、戸建て住宅である。    徳山村といっても、その中には八つの集落があり、それぞれに独自の文化があった。移転先に受け継がれた行事や風習もある。その代表例が、本郷地区で正月に行われていた「元服式」である。現在の成人式にあたるもので、各家庭の子弟が15歳を迎えると、厳粛な儀式を通じて一人前の大人になったことを祝った。 徳山村の集落位置図    徳山村に伝わる盆踊り・徳山おどりもまた、移転先で継承された。集落によって多少の演目の違いや、踊り方の違いはあるものの、徳山の踊りに共通して見られる特徴としては、太鼓や三味線といった鳴り物が入らないこと、音頭取りの生歌で踊ること、踊りの種類が多いこと(全部で11種類)、などの点が挙げられる。徳山の人々はお盆に限らず、何かにつけて一年中踊っていたというし、小学校では必ず「ほっそれ」という踊りを習わされる、また村が解散する際の「お別れ会」でも盆踊りが踊られたということで、村の人々にとって、徳山おどりは生活に密着した、なくてはならない娯楽だったに違いない。 現在伝わる徳山おどりの曲目    それだけに、移転先の各団地でも盆踊り大会が企画され、徳山おどりが踊られたというのも「しかるべし」という話なのであるが、故郷を思い出す懐かしいその行事も、年月が経つと次第に下火になっていったという。その理由はいろいろと考えられるだろうが、地元の人から聞いた話だと、近隣住民から盆踊りに対して「うるさい」というクレームが入ることもあったらしい。    廃れゆく状況に歯止めをかけようと、徳山おどりにもほかの郷土芸能と同じように「保存会」が結成された(徳山踊り保存会)。正確な設立時期は不明だが、現在の保存会会長の小西順二郎さん(通称・じゅんじい)に見せていただいた結成当時のものという役員名簿には「平成12年」「平成13年」という数字が記されており、おそらく2000年前後の結成と考えられる。25年前と聞けば一昔前のように思えるが、郷土芸能の保存会としては比較的新しい団体であると言える。 徳山踊り保存会 会長の小西順二郎さん。徳山村の山手地区の出身    また、この役員名簿には会の「事業計画」も綴じられていた。その中には、「現在11種類の踊りがあるが、先ず理事の方々が代表的な徳山おどりを選び、統一した踊りを習得すること(同じ踊りでも地区毎に多少の違いがある)」「各地区とも踊りよりも先ず音頭とりに一番困っていることと思いますが、理事さん方の一考をお願いしたい処です(中略)音頭とりの育成方法について是非一考を」などの文言がある。当時の住民たちが徳山おどりの保存のため、継承の方法を真剣に模索していた様子がうかがえる。 ニュース記事をきっかけに交流がスタート    私が徳山おどりのことを知ったのは、そこからぐっと時代が下って2018年3月のことになる。当時の私は、盆踊りにハマって全国各地の盆踊りを探訪するようになり、なかでも岐阜県郡上市の郡上おどりや白鳥おどりに特別な魅力を見出していた。そんな中、ネットでたまたま「「ふるさと」の記憶つなぐ――...

【インタビュー】憎しみを直球で受けながら人を信じることをやめない。『オノ・ヨーコ』翻訳家に聞く、世界にオノ・ヨーコが必要な理由

【インタビュー】憎しみを直球で受けながら人を信じることをやめない。『オノ・ヨーコ』翻訳家に聞く、世界にオノ・ヨーコが必要な理由

オノ・ヨーコの決定版伝記として『オノ・ヨーコ』(デヴィッド・シェフ著)が発売された。ビートルズを解散させた悪女、うさんくさい変人などという不当な評価を受けてきたオノ・ヨーコ。世界中に嫌われ、壮絶な差別を受け、それでも人類をあきらめずに大真面目に戦争反対を、愛を、平和を訴え続けたオノ・ヨーコ。本書の翻訳家である岩木貴子さんに話を聞いた。 自分のオノ・ヨーコ像はほとんどが偏見? ――本書の翻訳を手掛ける前、オノ・ヨーコに対してどのような印象を持っていましたか? 本書ではヨーコに対するさまざまな不当な評価について触れていますが、それこそ私自身が彼女に対してもともと持っていた印象でした。たとえば、変な歌唱法を使っていて金切り声ばかりでろくに歌えない、パフォーマンスがうさんくさいといったもの。だからこそ今回の本でオノ・ヨーコ側のストーリーが読めることを楽しみにしていました。翻訳をしたことでその印象がくつがえった部分もあれば、印象通りのままだったところもありましたが、とても翻訳しがいのある本だったことはたしかです。結局、もともと持っていた印象の多くは偏見に基づく差別で、自分もそれに加担していたということに気づいてショックでした。 ――とくにどんな部分で印象が変わりましたか? 大きく変わったのはジョン・レノンとの関係性です。これまでは“ジョン・レノンの奥さん”という視点で見ていたから、ジョンが“主”でオノ・ヨーコは“従”だと思っていたのですが、その点を誤解していました。ジョンはヨーコでないと尊敬できなかったでしょうし、アーティストであるジョンにインスピレーションを与えて、新たな高みに引っ張り上げるのはヨーコにしか無理でした。 ヨーコの楽曲を色眼鏡なしで聴いてみたら…… ――オノ・ヨーコの音楽に対する印象は変わりましたか? 変わりましたね。今まではジョンとヨーコの楽曲を聴いても、うさんくさい人というバイアスがかかっていたからか、「ヨーコがまた変な声出してる」と思うだけでした。しかし今回、ヨーコ自身の楽曲を色眼鏡なしではじめて聴いたところ、この人って本当に才能のあるミュージシャンなんだ! 素晴らしい音楽を作っていたんだなと思いました。申し訳ないというか……懺悔の気持ちですね。ただ、著者の解説による楽曲のバックグランド情報も頭に入っている状態で聞いているので、今度はまた別のバイアスがかかっているかもしれませんが(笑)。 ――難しい楽曲が多いという印象がありましたが、聴きやすい楽曲もありますね。 彼女はポップスを意外と重視していたんですね。尖ったアバンギャルドな前衛音楽の部分と、王道なポップスの部分の二面性がある人だということを知らなくて。前衛のイメージばかり見ていたのだと気づきました。とてもクレバーで、かつ懐が深いのですが、ひとくくりにはできないアーティストです。ひとつだけ取り上げてわかった気になっていたら、オノ・ヨーコのことはまだ理解できていないのです(笑)。 違和感も含めて受け入れる懐の深さ ――懐の深さはどういうところで感じられましたか? 音楽の幅の広さもそうなんですけど、とくに感じたのはアートからですね。当時のボーイフレンドのサム・ハヴァトイから、「初期のアート作品をブロンズで再現したらどうか」という提案があったときのことです。ヨーコはその発言に大きなショックを受けて、「私のアートを根本的に理解していない」と泣くほど怒ります。しかしその後、「泣くほど私を動揺させるということは、何かあるはずだ」と考え直し、結果的に今の時代(1980年代当時)にはブロンズの方が合っているかもしれないと、サムの提案を受け入れたのです。アートの素人から見ると、明らかにブロンズじゃないでしょ! と思うのですが、ヨーコは人の意見を聞き、今の時代にはこうなのかもしれないという違和感も含めて取り入れることで、人に訴えかける作品にしている。60年代には自由だったものが、今(80年代)の世の中はこう変化してしまったのよということを見せてくれているところに懐の深さを感じます。 ――ジョンとの関係性においてはいかがでしょうか。 ジョンとの関係は恋人とか夫婦というだけではありませんでした。ジョンが亡くなった後は、自らにジョンのレガシーの守り手としての使命を課しています。たとえばナイキのCMで「インスタント・カーマ」の使用許諾を出したときのこと。やはり世間からは批判されるわけです。金儲けだと。しかしヨーコはこう返します。「これで何百万人もの人々に『インスタント・カーマ』を聴いてもらえて、80万ドルがもらえて、そのお金はユナイテッド・ニグロ・カレッジ・ファンドにまわした。それが、私があの曲で得たものです。何か問題でも?」 何十年もさまざまなことで批判されて叩かれ続けてきた女性ですが、自分のプライドよりも、ジョンと一緒に訴えてきたメッセージは世界にとって大切なのだから守らなくてはいけないという強い使命感があったと思います。正しいものや良いもののために尽くせるところに彼女の懐の深さを感じます。 ――ヨーコは、こんなにも自分を受け入れてくれない世界に対してあきらめませんね。 本当にそう思います。ヨーコが受けてきた差別は壮絶で、世界中の見も知らぬ他人から憎まれ、その憎しみを直球で受けるわけです。たとえば彼女が妊娠をしたときのこと。それまでは妊娠がわかるとすぐに公表していたのですが、彼女は何度も流産を繰り返していたので、今回は少し待ってほしいとジョンに言います。今であれば普通のことですよね。妊娠を公表すると「針が刺さった人形」などが送られてきたそうなんです。子供が生まれないようにと。そういった悪意をヨーコは若い頃からずっと浴びせられ続けてきたのです。それなのに、人類に対する愛情を失わないでポジティブな愛のメッセージをずっと訴え続けられたのがすごい。さらには、人を疑わない純真な気持ちを持ち続けてもいます。ジョンの死後、多くの人に裏切られたり信頼につけ込まれたりしたのに、それでも人を信じることをやめませんでした。 ヨーコ本人の声にできるだけ近づけるために ――本書を翻訳するときに苦労された点はありますか? 原文がわりと淡々としていて、大げさに盛り上げようとするわけでもなく、ただ事実を述べていくという感じで書かれています。おそらく著者が意図的に選んだ文体だと思ったので、無意識のうちに自分の価値判断が入り込まないように、できるだけ原文と同じように淡々と訳すように心がけました。ただ、英語はポンポンポンと事実だけ述べる文体でもそんなに違和感がないのですが、日本語で同じようにするとつまらない文章になってしまいます。そこで、どうしても単調になってしまうくだりでは流れを作ってバランスを取るようにしました。 ――セリフについてはいかがでしょうか。 本書ではヨーコの声を伝える一端を担っていたので、特にセリフの役割語(編注:語り手の性別や職業など、属性を想起させる話し方)では悩みました。役割語は表現を豊かにしてくれるものではありますが、今の時代、くびきから解放した方がいいのではないかという意見もあります。できるだけ使いたくないという思いがある一方で、ヨーコ本人の声に近づけたかったのです。ヨーコの若い頃の動画を見ると、山の手言葉のような話し方をしています。日本語で話している最近の動画は見つけられなかったのですが、文章を見ると割とくだけた話し方をしているようです。それぞれの時代の雰囲気が伝わるように、おさえながらも役割語は使いました。 ――ヨーコはアメリカの大学に入学するまでは主に日本で、日本語を使って生活していたわけですが、ヨーコの発言の中で翻訳しづらい部分はありましたか? いくつか翻訳しづらい箇所がありました。それは日本人だからということではなくて、ヨーコが英語を学んだ事情が関係していると思います。彼女は最初にアメリカ英語に触れているので、その影響が一番強いと思うのですが、ジョン・レノンと過ごした時代は彼からイギリス英語の影響も受けているはずです。そのためか、イギリス英語とアメリカ英語のどちら側から見ればいいのか……と悩む部分がありました。言語からはそれがはっきり読み取れないのです。 私自身はもともとイギリス英語を勉強したのちにアイルランドに留学してアイルランド英語に触れ、翻訳の仕事をするようになってからアメリカ英語を意識的に取り入れて勉強しました。アメリカ英語とイギリス英語は単純にワードチョイスだけの違いではなく国民性による感覚の違いもあるので、その部分についてはヨーコの英語に少し惑わされました。おそらくアメリカ英語がベースにあるのだろうということで、本当に悩んだある箇所ではアメリカ育ちの翻訳家の友人に解釈を確認したりもしました。 自分が“何を知らないか”には気づきにくい ――翻訳をする際には、事前にリサーチをするそうですが、どのぐらいの時間をかけるものなのでしょうか。 実は翻訳そのものよりもリサーチの方に時間がかかっているのですが、リサーチをしっかりやっておくと翻訳がスムーズに行えます。翻訳におけるリサーチの重要性は7~8割だと言っても過言ではありません。なので、今回も知り合いの翻訳家にリサーチで協力していただいています。なぜ大切かというと、知らないことは訳せないからです。当たり前なのですが(笑)。たとえばある物事や現象について書かれているとして、そのことについて知らないと、本当の意味では訳せません。言葉を他言語に置き換える=翻訳ではないからです。時代背景の知識が必要ですし、点だけで存在している事象はないので、ある程度まとまりで調べないといけません。そうしないと、自分が“何を知らないか”ということに気づけないのです。知っているつもりになってしまうのが一番危険です。実感がないまま言葉だけ拾って訳していると、他言語を挟んだ伝言ゲーム状態になってしまいます。...

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

復興の島に鳴り響く太鼓の音・三宅島の牛頭天王祭(東京都三宅村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 火山の島に伝わる祭りと太鼓    2000(平成12)年。東京都の伊豆諸島南部に位置する三宅島で大規模な噴火が発生した。6月末の海底噴火からはじまり、7月には山頂陥没を伴う噴火が発生。噴火の規模は8月からさらに拡大し、8月18日には噴煙が高さ14,000mに到達。9月からは有害な火山ガス放出もはじまり、結果として約4,000人の島民が全島避難を余儀なくされた。避難指示が解除されたのは、2005年2月のこと。島民が再び島に戻るまでに、実に4年半もの歳月が流れていた。    噴火当時、私は中学3年生で、テレビで連日報道される噴火の経過をただ呆然と見守っていた。自然の力になすすべもなく故郷を追われる人々が味わったであろう無力感は、未熟な中学生の自分でも容易に想像することができる。地域の人はいつ帰島できるのか。何の約束もない永遠の別れがそこに横たわっているようで、深い絶望を感じた。    それから20年以上の歳月が経った2023年11月のこと、私はとある仕事の取材で、はじめて三宅島を訪れた。東京の調布飛行場から乗客定員19名の小型旅客機に乗り、わずか45分間のフライト。災害をテーマとした取材ではなかったため、正直に言えば、島に着くまで噴火のことは、ほとんど意識していなかった。しかし、撮影のために地元の方の運転するタクシーで島内を回るうちに、否応なく、あの未曾有の災害の爪痕を目の当たりにすることになった。 旅客機から見下ろす三宅島    溶岩によって焼かれた建物、泥流(火山灰や溶岩のかけらが水と混ざり合って谷を流れ下る現象)によって埋まった鳥居、島の施設に設置された小型脱硫装置(火山ガスに含まれる二酸化硫黄を除去するための機械)など、その島で見たさまざまな遺物や器具は、文字や数字よりも雄弁に2000年噴火の規模の大きさと、活火山とともにある生活のリアルを如実に物語っていた。動揺とともに、何かいたたまれないような気持ちに襲われた。    撮影をしている最中、運転手さんが三宅島に関するさまざまなことを教えてくれた。三宅島の歴史のこと、観光スポットのこと、そしてご自身の来歴。 「僕も全島避難の際は内地(島しょ地域からみた本土のこと)に住んでいました。ここだけの話、本当はずっと内地に住んでいたかったんですけど、長男なので実家を継ぐために島に戻ってきたんです」    2000年の噴火前、三宅島の人口は約3,800人近くあったが、長期避難は人口を大きく減少させ(2005年には1995年比で約36%減)、高齢化率を加速させた(1995年の24%から2005年には37%へ上昇)。つまり避難指示が解除された後も、島外にとどまった人は少なくなかった。被災後に若者の就労の場を確保できなかったことから、特に若年層の島外流出が顕著だった。2025(令和7)年5月31日時点で、三宅島の人口は2,165人。「昔は新島よりも人口が多かったんですけどね」と、男性は海を見ながら寂しそうに語る。    三宅島での滞在体験は、私の心に深く重い印象を残した。そして、この島についてもっと知りたいという気持ちが芽生えた。調べていくうちに、毎年7月に島の神着(かみつき)という地区で行われている「牛頭(ごず)天王祭」のことを知った。    読売新聞オンラインの記事(「三宅島の災害生き延びた太鼓、次世代へ…『木遣太鼓』の伝統受け継ぐ」2021年7月16日掲載)によれば、祭りで神輿の先導役を務める「木遣太鼓」は、東京都の無形民俗文化財に指定され、島の人々によって大切に受け継がれてきたという。全島避難の際には、島民たちが協力して太鼓を島外に運び出し、避難先でも、住民が集う場で演奏されることがあったそうだ。    未曾有の災害を経ても守られ続けてきた「木遣太鼓」とは、いったいどのようなものなのか。それを確かめるため、実際に祭りに参加してみることにした。 破壊的な自然現象に「神」を見た古代の人々    三宅島へは、調布飛行場から飛行機で向かう空路のほか、東京・竹芝埠頭から出る船便も利用できる。伊豆諸島行きの大型客船は夜に出発し、一晩かけて航行したのち、早朝5時に三宅島へ到着する。今回の旅では船便を利用して三宅島へと向かった。 三宅島・御蔵島を経由して八丈島に向かう大型客船の橘丸    祭りは朝から行われるとは聞いていたが、さすがに時間が早すぎるので少し島内を散策してみることにした。特に今回、足を運んで確認してきたいとおきたいと思ったのは、島の南西部に位置する「阿古(あこ)地区」の被災状況だ。    三宅島が噴火の災害に見舞われたのは2000年だけではない。島の中央に位置する「雄山(おやま)」は、有史以来いくども噴火現象を繰り返してきた。20世紀以降では、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年の4回。またそれ以前にも、1085(応徳2)年から1835年(天保6年)にかけて、13回の噴火が記録として残されている(池田信道『三宅島の歴史と民俗』)。噴火の多さから、「御焼島(おんやけのしま)」という名称から転じて「三宅島」になったのではないかという説すらある。    1983(昭和58)年の噴火は、人的被害もなく、全島避難までは至らしめなかったが、火口から流れ出した溶岩流は阿古地区の400棟を超える住家、そして集落の小学校や中学校を埋没させ・焼き尽くした。現在、溶岩流の流れた場所には遊歩道(火山体験遊歩道)が設置されていて、噴火の恐ろしさを体感できるようになっている。前回、島を訪れた際、道路の脇に朽ち果てた建物を見かけ、それが溶岩で焼けたものだと例のタクシー運転者の男性に教えられ、気になっていたのだ。 火山体験遊歩道から見た光景 溶岩流で焼けた建造物 写真に残るかつての阿古地区の姿    緑に包まれた山の裾野に、黒く無機質な溶岩原が広がっている。その風景に、思わず息を飲む。あとどれほどの年月が経てば、この地に再び緑が戻り、人々が居住できるようになるのだろうか。地殻変動による破壊と再生の繰り返しで、いま私たちが住むこの美しい世界が形成されている。そういった道理は理解できても、いざ「破壊」そのものを目の当たりにしてしまうと、ただただ途方に暮れてしまう。    古くから、人々は圧倒的な自然現象に神の存在を感じてきた。三宅島をはじめとした伊豆諸島でも同様に、火山の噴火や島の生成といった自然の営みに神の力「神威(しんい)」が見出され、「三嶋信仰(みしましんこう)」と呼ばれる信仰が発展してきた。三嶋信仰では、伊豆諸島の島々を生み出し、開拓した神として「三嶋大明神(みしまだいみょうじん、または三嶋神)」が崇敬されている。三嶋大明神は、日本神話に登場する事代主命(ことしろぬしのみこと)と同一視される神で、三宅島の阿古地区にある富賀山(とみがやま)の「富賀神社」には、この事代主命が三宅島に渡り、阿古の地に最初の拠点を築いて島を開いたという伝承が残されている。    現在の三宅島は、数万年にわたる火山活動の積み重ねによって形成されたとされている。火山と島の歴史は不可分であり、人と火山の関係もまた単純なものではない。ただ、これだけは言えるだろう。どうすることもできない自然の脅威にさらされながら、島の人々が神や、その神をもてなす神事や祭りに託してきた祈りや願いには、並々ならぬ思いが込められていたはずである。 海を目指す子どもたちの神輿    島内を巡回するバスに乗って、島の北側に位置する神着地区に向かう。バスを降りると、祭りの拠点となる御笏(おしゃく)神社には早朝8時ながら、すでに多くの人々が集まっていた。 神社に続々と詰め掛ける人々    「牛頭天王祭」は、伝承によると江戸時代末期、神着村の百姓、藤助、八三郎、又八の3名が伊勢参りの帰路に京都の八坂神社を詣で、祇園祭を見学。当時、神着では伝染病が流行っており、祇園祭が悪疫除けを目的としたことを知った3人が、帰島後、神着に牛頭天王社を勧請(地元の守り神として他の土地から神様を招いて祀ること)。これが牛頭天王祭のはじまりであるとされている。なお牛頭天王社はのちに、御笏神社に合祀(複数の神様を一つの神社にまとめてまつること)された。...

ショパン国際ピアノコンクール2021 ハイレベルな競演

ショパン国際ピアノコンクール2021 ハイレベルな競演

コロナ禍で、ポーランドへ行けるの? 行けてもホールで聴けるの? と、直前まで本当に不安でしたが、願いが叶いました!!  これまで1995年の第13回と2010年の第16回を現地で聴いていますが、1次予選を聴くのは今回が初めてです。予備予選のライブ配信からもレベルの高さはある程度予想していましたが、1次予選とは思えない演奏ばかりで、しかも様々な個性があり、コンクールというピリピリ感もなく、面白くてとても楽しめました。 コンクール会場であるワルシャワ・フィルハーモニー入り口 ホールで聴くコンテスタントたちの音楽   ホールで実際に耳にする演奏は、ライブ配信とはまったく違いました。空気の振動を感じる、風を感じる、身体が音に包まれる……文字にするとまるで嘘のようですが、演奏者によって音の包まれ方が違うのです。   例えば2位になった反田恭平さんの演奏は、圧倒的な音響でギュッと包まれるよう。彼にしか出せないであろう弱音でさえもギュッと来るのです。反田さんの演奏は1次予選から一貫して、聞こえてくる音も音楽も別次元の素晴らしいものでした。6年かけて体格も改造したとのこと、見事です。   セミファイナルまで進んだ角野隼斗さんの音は、優しく包まれてフワッとどこかに連れて行かれるような、そして何か物語を聴いているような感じがしました。髪型やお顔もまるでショパンのよう。『ピアノの森』のアニメで、演奏が始まるとピアノから客席にキラキラが飛んでいくような場面がたくさんありましたが、まさに会場ではそういうことが起こっていたのです。   出国直前に、ご縁あって隼斗さんのお母様、角野美智子先生とオンライン対談をしました。角野隼斗さんのお母様はヤマハから本も出されているピアノ指導者です。対談の場で「会場でお会いしましょう」と申したものの、実際の会場では人が多く、この中から探してお会いできるかどうか……。角野先生は2次予選からいらっしゃると伺っていたので、2次予選初日のモーニングセッション終了後にそろそろお見えになる頃?と考えながら階段を数段降りてふと隣を見ると、お隣もほぼ同時に見つめ合って、次の瞬間2人で「あら~っ!」。なんと角野先生だったのです。対談が結んでくださったご縁、ここでも奇跡的に出会えました。さっそく会場1階のロビーで一緒に記念撮影! 会場で隼斗さんのお母様、角野美智子先生と再会……いえ実は初対面! 演奏から窺える、今回のコンテスタントの版の選択と演奏への活かし方   ピアノを習っている方ならご存じの通り、ショパンの楽譜には様々な版があり、それらには細かい相違がたくさんあります。演奏や指導の時に、困った経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。   ショパン・コンクールでは、2005年の第15回から、エキエル版(ナショナル・エディション)が推奨楽譜とされました。そしてエントリーシートには、使用する版を記入させます。今回は曲ごとに使用する版の記入が求められていたようです。   コンテスタントたちがどの版を使用しているかについては、一般には公開されていませんが、私は科研の研究目的で特別に2005年、2010年、2015年について調査しました。以前は世界的にもパデレフスキ版が圧倒的に多く使用されていて、2005年まではコンテスタントもパデレフスキ版を使う人が多かったものの、2010年にはパデレフスキ版とエキエル版が同じ位になり、2015年には完全に逆転したことが調査の結果わかりました。   今回のコンテスタントたちがどの版を選択したかは、演奏からその版に特有の音が聞こえてくることで推測することができます。音を聞いていると、今回もやはりエキエル版が多くなってきていると感じます。推奨版と言われると、それを使った方が有利なのでは、と思うのが人間の心理ですね。   でも面白かったのは、作品10-3のエチュード(有名な「別れの曲」)です。1次予選の課題とは別に作品10-3を弾いた人が2人いました。我々がよく知っているこの曲の中間部第30-31小節と第34-35小節は、「長調-短調」「長調-短調」※の繰り返しです。一方、エキエル版では同じ箇所が「長調-長調」「短調-短調」となっています。この箇所に関しては、レッスンで生徒に「音が違う」と注意しようとしたら楽譜にそう書かれていたので驚いた、とおっしゃる先生も多いようです。   資料研究をすると、ショパンがエキエル版のような音を書いていたのは確かで、我々が良く知る音になった経緯はとても複雑です。ショパンが最初に書いた音、印刷のもととなった自筆譜の音、フランス初版の校正で現れた音、ドイツ初版に現れた音、ショパンが弟子の楽譜に書き込んだ音、というように、それぞれに少しずつ変化があり、我々が聴き慣れている音は、それらが混ぜ合わされた音ということになります(詳しい経緯については拙著『[増補新版]ショパンの楽譜、どの版を選べばいいの?』をご参照ください)。1870年代頃からそうなっていて、パデレフスキ版もこの音を採用しているわけですが、この箇所については校訂報告にコメントがあります。実はこの各版のコメントこそがそれぞれの版の命なのですが、ピアノを弾く人はあまり読まないので、エキエル版でメインの楽譜に現れた音に皆ビックリしたわけです。   しかし今回、エキエル版の音が多く聞こえてくる中で、この箇所に関しては、演奏した2人ともがパデレフスキ版の音で弾いていました。そのうち1人は第6位入賞のジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ JJ Jun Li Bui(カナダ、17歳)です。別の曲になりますが、第5位のレオノーラ・アルメリーニ Leonara Armellini(イタリア、29歳)が2次予選で弾いたバラード第4番も、エキエル版の音ではなかったです。   つまり、単にエキエル版がこの音だから、ショパンが書いたのはこの音だからという理由でその音を弾くのではなく、自分でその音、その響きを確かめて、納得して、自分のものにして弾くことが大切だと思います。音が変わることによって、そのフレーズの表現、時には曲全体の表現が変わることもあります。版による違いを見つけたら「これぞショパン!」と、様々な表現を楽しみながら、自分の表現にしていけると良いですね。 ※ユンファン・ヤン(1:56あたり) ※ジェイ・ジェイ・ジュン・リ・ブイ(2:32あたり) 選んだピアノを最大限生かした演奏   ステージ上には、スタインウェイ2台、ファツィオリ、ヤマハ、カワイ各1台、計5台のピアノが用意され、コンテスタントが試弾して選びます。自分が選んだピアノの特性をどう生かして、どう音を出して表現するか、特にファツィオリは演奏者による差が大きく出ていたように思います。1次予選の時からファツィオリを弾きこなしていたのが、ブルース・リウ...

「おてんば」な女性の数奇な人生【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「おてんば」な女性の数奇な人生【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 今年3度目の日本 皆さん、こんにちは。 今年も暑い夏がやってきましたね。夏バテなどされていませんか? 私は7月から再び(正確には今年に入って3度目!)、日本に来ています。今年は例年に増して移動が多く、その合間を縫って作曲もしなければならないので、頭の中がいつも落ち着きません。たまには休息を取ろうと思って映画を観ても、「この演出は……」とか「脚本が……」などと指揮者目線でいろいろ考えてしまって、あまり休んだ気がしないんですよね(笑)。これも職業病でしょうか。 室内オペラ《おてんば》初演 日本に来る前はオランダで、私にとって3作目となる室内オペラ、《おてんば:大胆な女性たち (OTEMBA: DARING WOMEN)》の公演がありました。この作品はホラント音楽祭(オランダ芸術祭)の1プログラムとして上演されたものですが、タイトルからもおわかりの通り、実は日本にも縁のある内容で、17世紀に長崎県平戸でオランダ人と日本人の間に生まれたコルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode、1629~1691)という実在の女性が主役の一人として登場します。ちょうど今年がアムステルダム建立750周年にあたるため、芸術祭では周年を意識したプログラム作りがされていて、今回のオペラもその一環として制作されたのでした。 主役のコルネリア・ファン・ネイエンローデを演じるのは能声楽家の青木涼子さん。「能声楽家」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、能の声楽パートである「謡(うたい)」を現代音楽に融合し、新たな表現を切り開いている涼子さんは、今や世界中から熱いオファーの絶えないアーティストの一人です。能の世界も一昔前までは男性だけの世界でしたが、彼女は現在、世界各国の現代作曲家たちとのコラボレーションを通じて日本の「能」を世界に広める、いわば文化大使のような存在となっています。 そして作曲は望月京(みさと)さん。彼女は日本を代表する現代作曲家の一人で、女性の作曲家の草分けといってもよいでしょう。芸大を卒業後、パリで研鑽を積まれ、数々の作曲賞を受賞。現在では世界のあちこちで作品が演奏され、国際的に活躍されていらっしゃいます。私にとっては芸高時代からの先輩ですが、当時から彼女は「超」がつくほど頭が良くて有名でした。ピアノもものすごく上手ですし、文才にも恵まれていて新聞の書評委員も務めておられます。まさに「才女」という言葉がぴったりです。 能声楽家の青木涼子さん(中央)と作曲家の望月京さん(左)。 涼子さんといい京さんといい、今や日本の音楽界を背負って立つ優秀な2人の女性とご一緒できるなんて、私にとってはとても光栄なことです。ですが、最初にお話をいただいたときにいちばん驚いたのは、そのオペラの内容でした。 人類史上初めて訴訟を起こした女性 物語は、アムステルダム国立美術館に勤めるキラナという女性(ベルナデータ・アスタリ、Sop.)が登場するところから始まります。キラナはインドネシア人の絵画保存修復家で、美術館に所蔵されている一枚の絵画を修復しようとしているのですが、その絵に描かれているのが先に触れたコルネリアの一家です。 17世紀の画家ヤコプ・クーマンによって描かれたコルネリアとその夫ピーテル・クノルと二人の娘の家族肖像画。画面右端、薄暗い背景に2人の奴隷の姿が見える。(1665年) コルネリアは、東インド会社の一員で平戸の商館長を務めていたオランダ人の父親と日本人の母親との間に生まれました。彼女は不運にも1639年の鎖国令を機に両親と引き離され、バタヴィア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に送還されてしまいます。バタヴィアの孤児院で育った彼女は、やがてオランダ人のピーテル・クノル(彼もまた東インド会社に勤める裕福な商人です)と結婚し、たくさんの子宝に恵まれました(とはいえ、成人したのはたった一人でした)。 青木涼子さん演じるコルネリアが登場する場面。(©Daan van Eijndhoven) しかし、クノルを病気で亡くしたあと、再び彼女に受難が訪れます。彼女の再婚相手、ビッターに財産を奪われそうになり、コルネリアは裁判で争うことになるのです。当時、オランダの法律は、夫が妻の財産に対し全面的に支配権を持つことを認めていました。コルネリアはそのような不利な立場にありながら、自分の財産を守るべく人生をかけて闘ったのでした。聞いたところによると、彼女は「人類史上初めて訴訟を起こした女性」とされているそうです。 タイトルの「おてんば」は、もともとオランダ語に由来する言葉ですが、「飼いならすことができない」という意味があるんですね。このオペラは、女性の人権が著しく侵害されていた時代にあって、それに抗って生きた女性の生き様を描いた作品なのです。 オランダ、インドネシア、日本 お話を舞台に戻しましょう。絵画修復家のキラナは、この絵の右端に描かれた2人の奴隷の部分を修復しようと試みます。実は、2人の奴隷のうちオレンジを手にした男性はスラパティといって、のちに逃亡奴隷を率いて東インド会社に反乱を起こした人物とされています。つまり、インドネシア人のキラナにとっては歴史上の英雄なのです。絵画では暗くてよく見えませんが、キラナと同じ美術館に勤めるAI技術師の男性(ミヒャエル・ウィルメリング 、Bar.)がスキャナーを当てると舞台背後のスクリーンに絵の細部が大きく映し出され、そこにスラパティの姿を認めることができます。 バリトンのミヒャエル・ウィルメリング演じるAI技術者が、スキャナーを使って絵画の細部を背後のスクリーンに映し出します。(©Daan van Eijndhoven)...

【ヤマハのおうたえほん】出産や進級祝いにぴったり!豪華なサウンドとかわいいイラストの大人気絵本

【ヤマハのおうたえほん】出産や進級祝いにぴったり!豪華なサウンドとかわいいイラストの大人気絵本

たくさんの方に愛されているヤマハの音の出る絵本シリーズに、「おうた」バージョンが追加! 音の出る絵本はたくさんあって、どれを選ぶか迷いますよね……。 この商品は、次のような方におすすめ。 ✓子どもが夢中になれるおもちゃを探している ✓音楽や言葉に関することをそろそろ身につけさせたい ✓リトミック教室や音楽教室に通わせたいけど余裕がない ✓おもちゃで遊ぶついでに楽しく英語も学ばせたい 担当編集が、「ヤマハのおうたえほん」「えいごでたのしむ!ヤマハのおうたえほん」の魅力を深掘りしてお届けします! |担当編集が伝えたい!絵本の魅力と活用方法 ー ヤマハ商品だからこその品質の高さ。豊かな音楽体験ができる! ー レアなあの曲を収載。保育現場でもよく歌われている! ー もちろん全曲再生機能付き。モードがたくさんで自由度が高い! |このこだわりを聞いてほしい!音源開発者のおすすめポイント大公開 |脳神経科学者もたいこばん!歌をうたうことが「発達」に良い理由 |関連絵本をご紹介 |商品概要 |まとめ 1|担当編集が伝えたい!絵本の魅力と活用方法 ヤマハ商品だからこその品質の高さ。豊かな音楽体験ができる! 1.ハモリパートがあることで豪華な音に! ヤマハのおうたえほんで遊んでみた方々が口をそろえて言うのは、「ハモリパートがあって、とにかく音が豪華に聞こえる!」ということ。豊かな音楽体験ができます。 2.歌いやすいアレンジとキー設定 小さいお子さんでも歌いやすいアレンジにこだわりました。 また、幅広い年齢のお子さんが楽しく歌えるように、高すぎないキー、速すぎないテンポを意識しました。 3.こだわりぬいた音のバランス 伴奏、ハモリ、メロディをどんなバランスにするとより心地よいかを何度も実験! ずーっと流していても耳が痛くなりにくいです。 レアなあの曲を収載。保育現場でもよく歌われている!...

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

ダムの水底から受けつがれた芸能「世附の百万遍念仏」(神奈川県足柄上郡山北町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 数珠が回り、獅子が舞う、異色の民俗芸能    タスキがけの男たちが代わるがわる滑車にかけられた長さ約9メートルという巨大な数珠(じゅず)に取りつき、力強く回し続けている。滑車から吐き出された数珠は天井に向かって勢いよく投げられ、蛇が波打つような曲線を描いた刹那、床の上で「ガシャガシャ」と大きな音を立てる。数珠は再び滑車に巻き取られていき、また力任せに引き寄せられる。それが何度も繰り返される。数珠回しの最中は、絶え間なく太鼓の音が響き、時折「南無阿弥陀仏……」と念仏の唱和も挟み込まれる。 男たちが大きな数珠を引き寄せ、勢いよく回し続ける    いま私が見学しているのは、神奈川県足柄上郡山北町に伝わる「世附(よづく)の百万遍念仏」という民俗芸能である。山北町向原の能安寺というお寺の道場を舞台に、毎年2月15日に近い土・日曜日に開催される。「百万遍念仏」というのは、全国各地に広まる「百万遍信仰」にもとづく行事で、その目的も、五穀豊穣、雨乞い、追善供養、虫送り、疫病退散など、地域によって多岐にわたる。    『民間念仏信仰の研究』(仏教大学民間念仏研究会 編)によれば、一言に百万遍念仏といっても大きく二つのタイプに大別され、一つは一人の人間が7日間ないし10日間かけて文字通り百万遍、念仏を唱えるというもの。もう一つは大勢の人間が車座に座って、巨大な数珠を繰りながら、念仏をみんなで唱和するというもの。多勢による念仏の総和をもって「百万遍」とするという、その合理的な発想に感心させられる。世附の百万遍念仏は後者のタイプに属するが、滑車を使って一人で数珠を回すという点で、他とは一線を画している。 百万遍念仏が行われる能安寺。お寺の背後には東名高速道路が走る    数珠回しが終わると、今度は「獅子舞」や「遊び神楽」といった余興的な演目が始まる。獅子舞にはいくつかの曲があり、笛と太鼓の伴奏とともに「剣の舞」「幣の舞」「狂いの舞」「姫の舞」などの舞が演じられる。舞の最中は太鼓と笛の演奏、そして時折歌が入るが、耳をすませていると「来いと呼ばれて行かりょか佐渡に」と民謡『佐渡おけさ』の文句が入ったり、「牛の角蜂がさした蜂の金玉蚊なめた」などユニークな歌詞が聞こえてきて面白い。 剣と鈴を持って舞う、剣の舞 二人1組で獅子を演じる、狂いの舞    「二上りの舞」「おかめの舞」「鳥さしの舞」はもっとユニークで、二上りの舞はひょっとこ面の恰幅のいい男性が滑稽な動きをしながら、お堂の中を所狭しと歩き回る。おかめの舞はまるっきり漫才で、舞とともにおかめ(女)とかんさん(男)の色っぽくて笑える問答が繰り広げられる。鳥さしの舞は、さまざまな芸能の題材となっている「曾我兄弟の仇討ち」をモチーフとした芝居仕立ての演目だが、鳥さし(鳥餅を用いて野鳥を捕まえる職業の人)役の男性の演技がとにかく色っぽく、驚いてしまった。そもそも太鼓や笛の演奏もきわめてレベルが高く、全員がかなりの修練を積んでこの行事に臨んでいることがうかがい知れる。 ひょっとこがコミカルに立ち回る、二上りの舞 リズムカルな歌やセリフに合わせて鳥さしが舞う    神楽が一通り演じられると、最後に「カガリ」が行われる。「カガリ」は儀式的な演目だ。道場の真ん中に太鼓を置いて、バチを手にした人々がそれを囲む。太鼓を叩きながら「融通念仏」という念仏を全員で唱和する。融通念仏は数え歌のようで、一番から始まり、十番で終わる。十番の歌詞に達すると、天井からたくさん吊るされた紙飾りが落ちてきて、参加者全員でそれを奪い合う。一種のトランス状態に陥って、その日の行事は終わる。 「カガリ」では太鼓を囲んで「融通念仏」を唱える    しかし、百万遍念仏の本当のエンディングはこれではない。山北町のホームページには、次のように書かれている。    戦前は百万遍念仏の翌日に獅子舞が幣束を持って、世附地域の全戸をお祓いをしながら周り、最後に幣束を永歳橋から流す「悪魔祓い」を行っていました。現在は向原の能安寺で念仏が行われているため、悪魔祓いは念仏の翌週に世附地域出身者の家々をまわり、幣束は大口橋から流されます。    この悪魔祓い(地元の人は「アクマッパライ」と呼ぶ)をもって、百万遍念仏は一区切りとなる。「現在は向原の能安寺〜で行われている」と書かれているのは、実はこの百万遍念仏が元々行われていた「世附」という集落はすでにこの世に存在しないからだ。1978(昭和53)年に竣工した山北町の山間部にある「三保(みほ)ダム」の建設によって、ダム湖(丹沢湖)に水没してしまったのだ。この「三保ダム」という名称は、かつてこの場所に存在した「三保」という地名に由来している。1909(明治42)年に、世附をはじめ、中川、玄倉(くろくら)の三村が合併して三保村が成立(1925年には神縄村の尾崎・田ノ入・ヲソノ地区も編入)。1955(昭和30)年のさらなる合併で三保村は廃止となり、山北町となった。    ダムの建設で、三保の住人たちの大半(223世帯)は山から降り、麓の地域に分散して移り住んだ。しかし、いまもなお百万遍念仏や悪魔祓いは、元世附住民の移転先で継承されている。水没から50年近く経ったいまも、出身地域に根ざした行事が行われているという事実には驚嘆せざるを得ない。彼らが祭りを続ける、その原動力とは一体なんなのだろうか。 川で結ばれた「ふるさと」と「新天地」    一週間後、悪魔祓いを見学するために、私は再び山北町に足を運んだ。場所は、住人たちの移転先の一つである「原耕地」地区だ。到着すると、笛や太鼓を持ってぞろぞろと歩く集団に遭遇する。獅子頭をかぶった者もいる。 JR「東山北」の駅から原耕地の集落を臨む 悪魔祓いをしながら集落を回る一団    一団は訪問先の家に着くと、まず案内役の人がインターホンを押して家人に到着を知らせる。続いて獅子頭を身につけた人が玄関の前に進み出て(家によっては家屋の中に入って)、幣束を手にしながら笛と太鼓に合わせて悪魔祓いの舞を行う。 軒先で舞う獅子 悪魔祓いの最中は、太鼓と笛の演奏が行われる    一連の流れが終わると足早にその場を離れ、次の家へと向かう。トータルで80戸近くの家を回るらしい。元世附住民の家は山北町のほか、中井町、開成町など、足柄上郡の各地域に点在する。なので悪魔祓いの当日は、車を利用しながら数チームに分かれて家々を訪問することになる。午前中には、丹沢湖の方にも行っていたそうだ。 百万遍念仏で際立った太鼓の腕を披露していた男性も、悪魔祓いに参加していた(写真右)...

これまでに作った楽器は180種類以上! 「不思議な音」を追究し続けるkajiiの原点にあるもの

これまでに作った楽器は180種類以上! 「不思議な音」を追究し続けるkajiiの原点にあるもの

2本のスプーンが軽快なテンポでリズムを刻み始めると、続いて卓上に並んだ食器が涼しげな音色でメロディを歌い出す――いったいなんの話?と思うかもしれない。百聞は一見に如かず、まずはこちらの動画をご覧いただきたい。 運動会などでお馴染み、カバレフスキーの「道化師のギャロップ」 演奏しているのはkajii(カジー)。クマーマと創(そう)による二人組のユニットだ。kajiiは2014年結成、「音楽と楽器をもっと身近に」をモットーに、日用品や廃材から独自の楽器を作り出し、名古屋を拠点として全国各地で演奏活動を行っている。既製の楽器を使わず、ペットボトルやお菓子の空き箱など普通なら捨てられてしまうようなものから思いもかけない楽器を作り出すユニークな活動を、もしかしたらSNSや YouTubeで見かけたことがある人もいるかもしれない。 今年6月、活動12年目となるkajiiの初となる書籍『おうちでできる!kajiiのふしぎな手づくり楽器』が発売されるのを機に、お二人にこれまで歩みと創作楽器の魅力について語ってもらった。 家庭でもかんたんにできる手づくり楽器のノウハウがたくさん詰まった一冊 kajii結成の経緯とユニット名に込めた思い ――まずはお二人の出会いからkajii結成に至るまでのお話を聞かせてください。 クマーマ:ちょうど僕と創くんがそれぞれ東京でソロ活動をしているときに飲み会で一緒になったのが初対面です。たまたま二人とも同郷(愛知県)で、僕はシンガーソングライター、創くんはドラムのスタジオミュージシャンを目指して活動していた時期だったので、お互いの演奏サポートをするようになって音楽的な付き合いが始まりました。 創:最初はそのまま「創&クマーマ」でやっていたんですが、さすがにユニット名があった方がいいだろうと。そこで「日常生活の中から(家事)、工夫して楽器を作り(鍛冶)、新しい風を生む(風)」というトリプルミーニングを込めて「kajii(カジー)」という名前を考えました。短くて覚えやすいのと、当時は「検索したときにほかとかぶらないのがいいんじゃないか」というのもありましたね。 クマーマ:二人で活動を始めた頃、僕がホームパーティーにハマってたんですよ。料理を作って友達とみんなでワイワイやるのがすごく好きで。そのうち、「ホームパーティーを音楽に置き換えたら何になるんだろう?」と考えたときに「家の中にあるもので音楽をやったらホームパーティー感が出るんじゃないか」と思いついて、身のまわりにある良い音の出るものを探し始めたのが始まりですね。 創:本の「おわりに」にも少し書きましたが、ある日クマーマがスタジオにドレミファソの音が出るお茶わんを5つ持ってきたんです。「これはもっとたくさん揃えたらすごいんじゃないか?」と言ったらクマーマが本気になって。といってもこれ、ちゃんと音の合った食器を揃えるのはけっこう大変で、現在の2オクターブ半の音域になるまで2年くらいかかっています。当初は鍵盤のように横に並べて演奏していた時期もありましたが、最終的には現在の円形に配置するかたちに落ち着きました。 クマーマ:そうして最初に生まれたのがkajiiのメイン楽器、「食琴(しょっきん)」です。 記念すべき最初の動画は食琴による演奏でkajiiのオリジナル曲「ハツタイケン」 YouTube動画の反響 ――お二人が活動を始めた頃はちょうどYouTubeで動画を投稿することが一般の人にも広がり始めた時期でした。演奏動画を投稿し始めた頃の反響はどうでしたか。 創:今もkajiiの人気プログラムの一つになっている「トルコ行進曲」のYouTube動画は、結成してわりとすぐの頃に公開したものです。動画がきっかけで終了間際の「笑っていいとも!」や韓国のテレビ番組から出演依頼をいただきました。テレビ番組にはリサーチャーというスタッフがいて、常に珍しいパフォーマーを探しているんですよね。韓国の方は現地でもけっこう人気のあるバラエティ番組だったのですが、初めての海外演奏ということもあってかなりドキドキでした。 いわずと知れたモーツァルトの「トルコ行進曲」もkajiiの手にかかるとこうなる クマーマ:我々の渡航費も楽器の輸送費も全部先方が持ってくれたんですが、輸送費だけでたぶん20万円くらいしたんじゃないかな。 創:タライの真ん中に穴を開けてコタツのコードとデッキブラシを繋いだ弦楽器があるんですけど……「これ、どうやって運ぼう」って(笑)。僕らの楽器の場合、現地で調達するというわけにもいかないですからね。 クマーマ:食器が割れたりしたらどうしよう、とか。 創:今思えば微笑ましいんですけど、当時はまだ出張演奏に慣れていなかったのでてんやわんやでした。 コロナ禍を経て、生演奏の価値を再認識 ――その後も徐々に新聞やテレビなどで取り上げられる機会も増えていったkajiiですが、2020年から始まったコロナ禍はとりわけミュージシャンにとって厳しい時期でした。当時、どんな風に過ごしていましたか。 クマーマ:僕は子どもが三人いるんですが、最初はどんなウイルスかもわからないので全員保育園を休ませて僕が家で見ていました。逆に妻は看護師なので、それこそ当時はめちゃくちゃ忙しくて。僕が主夫業に徹して家事も育児もやっていました。 創:当然、演奏の仕事はなくなってしまったので、補助金を申請したり、クラウドファンディングをやったり、オンラインのコンテストに応募したり、リモートでワークショップをやったり……。とにかくやれることをなんでもやって、あがいていました。あと、楽器を作ってましたね。時間だけはたくさんあったので。たぶん一年で20種類くらい作っていたんじゃないかな。 コロナ禍で時間がたくさんあった頃に作った「ビー玉の楽器」 クマーマ:なんとか潰れなかった、という感じだよね。まあ、僕たち二人だけなので維持費がそんなにかかるわけではないというのもありますが。 創:コロナ禍ならではの出来事もありました。ステイホームが叫ばれていた頃、星野源さんが「うちで踊ろう」という演奏動画を投稿して、他の人にもコラボレーションを呼びかけたことがありましたよね。それを見ていて、僕もTwitter(現X)で「誰か『トルコ行進曲』に音をのせてくれないかな」ってつぶやいたんです。そしたら打首獄門同好会という有名なバンドの会長が演奏してくださったんです、メタルバージョンで(笑)。 クマーマ:それがすごいバズって。Twitter上で400万回近く再生されました。その後もいろんな人が「トルコ行進曲」に合わせて演奏してくれて、嬉しかったよね。...

『Ado』エレクトーン楽譜集 発刊記念インタビュー第二弾 倉沢×高田×中野

『Ado』エレクトーン楽譜集 発刊記念インタビュー第二弾 倉沢×高田×中野

日本のみならず世界的に活躍する唯一無二の歌い手、Adoの人気曲を6曲収載したエレクトーン曲集が5月に発売された。スコアプロデューサーに富岡ヤスヤを迎え、窪田宏、鷹野雅史、倉沢大樹、高田和泉、中野正英という豪華アレンジャー陣が集結した本作のリリースを記念し、各人の並々ならぬこだわりを紐解く鼎談(ていだん)が『月刊エレクトーン』に連続掲載される。 その第二弾となる『2025年7月号』の「倉沢大樹×高田和泉×中野正英 スペシャル鼎談」より、本誌で掲載しきれなかった制作秘話を中心に、富岡ヤスヤも交えて曲集の魅力を語っていただいた。 ――“アレンジの聴かせどころ”や“こだわりポイント”があったら教えてください。高田さんは「踊」ですね。 高田はい。でも、普段自分が選曲してアレンジするなら「踊」は選ばなかったと思うんです。というのも、ヤスヤさんの「唱」もそうですけど、“同じ音程”を何度も続けて歌うメロディーが多くて、そのまま楽器で再現すると表情が乏しくて、単調に聞こえてしまうからなんですね。Adoさんのボーカルはとてもカッコよくて勢いがありますが、その魅力をインストでも表現するにはどうしたらいいかすごく悩みました。そこで、思い切ってベースにピッチベンド(音を滑らかに変化させる奏法)を使いながら、1オクターブ下げる動きを取り入れることで、同じ音が続くメロディーでもアレンジ全体に抑揚が生まれるように工夫したんです。特に意識したのは、聴く人の耳がベースラインに引き込まれるようなアレンジにすることです。結果的に、歌詞がなくても単調にならず、インストならではのカッコよさが出せたのではないかと思っています。ここが今回のアレンジのこだわりポイントですね。 ――倉沢さんの「クラクラ」は、どんなところがポイントでしょうか? 倉沢やっぱり“自分が弾いていて気持ちいい”が基本で、原曲はハードなドラムが聴こえてくるので、とにかく“自分をその気にさせてくれるようなリズムの打ち込み”に命をかけました。力が入りすぎて“スネアがちょっと大きいかな?”という心配もあったんですけど、ヤスヤさんから“この曲はガンガンいったほうが気持ちいいよ”と言われたので安心しました(笑)。なので、皆さんもガンガン弾いていただけたら嬉しいです。 ――中野さんの「私は最強」は、どんな風に工夫されたのでしょうか? 中野レジストで言えば、“華やかさや鮮やかさの変化をどうつけていくか”を気にしました。音色で言うとグロッケン、木管楽器、ハープなど原曲にはない音や“シンフォニックゴング”など、華やかな音色をどう散りばめたのか聴いてほしいですし、そういった楽器を見つけてもらえたら工夫が伝わると思うので。音符的な着眼点では、最初のサビで和音やオーケストレーションを変えてみたり、副旋律も作って足しています。 ――今回の曲集は、皆さんのプロならではの素晴らしい演奏が【参考演奏付レジスト】として販売されて大きな話題になっています。中野さんは月エレ本誌でお二人の演奏について語っていらっしゃいますが、倉沢さんと高田さんはお二人の演奏を聴いていかがでしたか? 倉沢まず、高田さんの「踊」は一曲で何曲も聴いたくらいの充実感で、ラストで「ブラボー!」と叫びたい気持ちになりました。高田さんの新たな一面を見せてもらいましたね! 一曲を通して生楽器とシンセサウンドが融合されていて、エレクトーンの機能をフルに使った印象。本誌インタビューでも言われてましたが、“音色”と“アカンパニメント”を探すのにとても苦労しただろうな〜と思いました。 中野くんの「私は最強」は全体的に爽やかなサウンドで、中野くんらしさが存分に楽しめるアレンジでした。特に高音ストリングス、グロッケン、チャイムなどのオーケストラサウンドが、今回のポイントだと思いましたね。そして、ハープのグリッサンドなど、さりげなく使われているアカンパニメントがとても自然な流れになっていて、まるで打ち込んでいる!?ようなクオリティ! さすがだと思いましたね。 高田私は、「うわぁぁぁ倉沢さーーーーん!!!!!!」「うおぉぉぉ中野くんーーーー!!!!!!」と聴きながら悶絶(笑)。二人とも原曲コピーが基本のアレンジなのに、ちゃんとそれぞれのカラーが色濃く出ていて、しかも原曲にも負けないくらい豪華に聞こえる…なんだこのマジック〜!と言うか、とにかくお二人の底力に圧倒されました。 富岡今回はいわゆる模範演奏じゃなくて、「プレイヤーのオムニバスアルバムを作る!」くらいの気合で本気の演奏をしてもらって、みんなとても苦労したようだけど、「エレクトーン2年目の小学生の生徒が、弾けないけど聴いて楽しんでいるようです」とか、すでにたくさんの嬉しい声をもらってるんだよね。だから、演奏はできたらまず“曲順”に聴いてもらえるとすごく嬉しい。1曲目の「阿修羅ちゃん(窪田アレンジ)」のワクワクから始まって、中野くんの「私は最強」の高揚感で終わる...そういう流れを考えた曲順なので。STAGEAのMDRには“リピート再生”機能があって、その中の“ALL”(写真参照)を選ぶとずーっとエンドレスに演奏をループ再生してくれるけど、 気持ちがアガる曲が多いから、“ながら聴き”しながら片付けとか洗い物とか苦手な作業をクリアするのもいいかもしれない(笑)。もちろん自分の好きな順に入れ替えて聴くのもランダムに聴くのもアリです! ――好きな順に聴きたい場合は、USB内にソングコピーして曲名のアタマに数字を付ければ、その順に再生してくれるわけですね。この“参考演奏”の制作では、思わぬ苦労があったと聞きました。 倉沢そうなんです、参考演奏のレコーディングでは“オーディオ・メーター”に本当に苦労しました(笑)。 富岡みんなそうだよね。普段、プレイヤーのコンサートではPA機器を使うことが多いので、それを前提に音を作ってしまって、STAGEAのスピーカーで音が割れないようにレベル調整するところで、みんな苦労したよね。 倉沢最後の最後までやっていたのは僕じゃないかな? 高田私も倉沢さんと同じで、最後に待っていたのはピーク超えを示す赤ランプの消火作業でした(笑)。 「踊」はダンスミュージックだし、弾きやすさを優先するとA.B.C.全活用かなと思って、何十周も探したけどピッタリなものがなくて。“ビートをもっと強化しては?”とヤスヤさんにいただいたアドバイスは、結局キックなどをバスバス打ち込むことでクリアできたんですけど、それによって赤ランプとの戦いがすごく複雑なものになってしまって(笑)。一番大変だったのはそこかな。 中野高田さんのアレンジは、ほかにも戦いの成果がすごく感じられて感動しましたね。僕もEDMはよく扱うジャンルなので、あの大変さは本当によくわかります。とにかく音色やエフェクトの種類が多いし、しかも今回はバンクを4つまで使えたので、やろうと思えばいくらでもできる反面、それだけ仕掛けや工夫もたくさん盛り込まなければいけない。リズムもアセンブリーで組んで、隠しエフェクトもたくさん引っ張ってこないといけないし、他のジャンルではあまり使わない手法も多いから。 富岡そういった隠れた苦労の成果を、レジストを覗いて見つけてほしいよね。ところで皆さんは、VA音源は使ったりしますか? 倉沢STAGEAでは、あまり使っていないです。 中野今回は使っていないですが、僕は普段はよく使います。それこそシンセサウンドのとき、どうしてもサンプリングされた音源よりもアナログシンセのほうがタッチに対する音質の変化に優れているので。ただ、カジュアル(ELC-02)にはないのでケースバイケースですが、“V-ウッディリード”や“V-ソーリード”は今でも一軍ですね。 高田私は曲によってですね。時々使う音は“V-エアフォン”です。すごく柔らかい音で、それだけはVA音源でしか出せないと思っているので好んで使います。タッチで個性が出せる音色が入っていて、単発で使うよりもエッセンスとして混ぜたり、それを加工してさらにワウをかけてみたり、遊びの音色のような感覚で。“V-エアフォン”は単発で使うこともありますね。 ――この機会に、メンバーに尋ねたいことはありますか? 高田ヤスヤさんに質問してもいいですか? 今回のメンバーって、(2025年)3月にあった三木楽器さんのコンサート『HIT...

【インタビュー】"推し活"きっかけで夢叶う『漫画 パガニーニ』─やまみちゆかが明かす制作の裏側

【インタビュー】"推し活"きっかけで夢叶う『漫画 パガニーニ』─やまみちゆかが明かす制作の裏側

  SNSで話題沸騰し、待望の書籍化が発表された『漫画 パガニーニ ~悪魔と呼ばれた超絶技巧ヴァイオリニスト~』(9月29日発売予定)。クラシック音楽の歴史に名を刻んだ伝説的ヴァイオリニスト・パガニーニの生涯を、情熱とユーモアで描き出したのは、ピアノ講師の傍ら、イラストレーター・漫画家として活躍中のやまみちさん。『漫画 パガニーニ』誕生秘話や制作の裏側について、たっぷり語っていただきました。 ギャップ萌えで始まった推し活 ──最初に、なぜパガニーニを漫画の題材にしようと思ったのですか?  一言で言うと“ギャップ萌え”です。SNSでクラシック作曲家の紹介漫画を描いていたときに「次はパガニーニを描いてみよう」と思って。そのときは「だらしない」「お金に汚い」「女癖も悪い」……みたいな印象でした(笑)。それで、浦久俊彦さんのパガニーニの伝記を読んでみたら「パガニーニは子どもをすごく大事に思っていた」というエピソードがあったんです。そんな子煩悩な姿に"ギャップ萌え"してしまって。 ──“ギャップ萌え”がきっかけだったんですね。  そうです(笑)。さらに調べていくうちに、音楽史に与えた影響も大きいこともわかりました。ショパンやリストなども「パガニーニ」をテーマにした曲を作曲するくらい、19世紀の音楽家たちはみんなパガニーニに憧れていたんです。なのに、現代では悪い印象だけが広まり、知名度も低い。このままだと永遠にパガニーニの真の姿が語られることがないかもしれないと思って、私がぜひとも日本で名誉回復をしたい!と思いました。 ▲SNSに載せていたクラシック作曲家の紹介漫画 読者の声援が支えた創作活動 ──2023年5月頃からパガニーニの漫画をSNS上で描かれていますが、最初から本にしようと考えていたのでしょうか。  いいえ。推し活の一環で、ただただ描いて、SNSにアップロードするという感じでした。なので、読んでくださった方の声援がないと続けられなかったんです。「楽しみにしています」とか「パガニーニに全然興味なかったけど、好きになりました」という声が励みになりました。あとは、単純にパガファンが増えていくのも嬉しかったですね(笑)。 ──世間では"同担拒否"という「推しが被るのは避けたい」派の方もいらっしゃいますが、やまみちさんは?  今のところ"同担歓迎"なんですけど、いつか"同担拒否"に変貌するかもしれない(笑)。でも今はやっぱり、パガニーニ推しが増えてほしいなと思っています。 ──パガニーニについてのリサーチはどのように進めましたか?  当時、日本語で書かれたパガニーニの書籍は3冊(うち1冊は絶版)だけだったので、海外から、ドイツ語やイタリア語の文献を取り寄せることにしました。海外の文献の探し方は、最初は浦久さんの本の参考文献からたどって、あとはSNSで知り合った海外の"パガ友"も、良い本を教えてくれました。 ──パガニーニ繋がりのお友達がいたとは(笑)。翻訳するのは大変だったのでは?  現代はありがたいことに翻訳ツールが発達しているので、基本的には自分で翻訳ソフトを使って、どうしても詳しく知りたいところは翻訳家の方に依頼しています。でも、そのおかげで、まだ勉強中ですがイタリア語もわかるようになってきました。 ──パガニーニへの熱量に圧倒されます。  パガニーニへの愛が溢れて、調べ始めると止まらなくなってしまうんです(笑)。 ▲海外文献の一例。本の厚さが解読の困難さを物語っている 書籍化で見えてきた新たな発見 ──今回の書籍化にあたり、修正されたところもありますか?  SNSにアップしていたときにはリサーチが足りなかった部分を細かく加筆したり、エピソードも少し足したりしています。パガニーニが生きていた時代は紙が高価だったから、封筒を使わず、手紙を折りたたんで蝋を直接つけていたらしいんです。そういった当時の文化も調べてみると本当に面白くて。 ──描きおろしとしてどんなコンテンツが追加されますか?  巻末には、描きおろしのコラムやおまけ漫画、パガニーニ年表、あとは各章に解説をたっぷり追加しました。私の“パガ愛”を詰め込んでしまったので、読者の方がついてきていただけるか、若干不安ですが(笑)。あとはこの漫画が描き上げるまでの過程をレポ漫画として入れる予定です。 細部へのこだわりと史実への忠実さ ──やまみちさんは、ヴァイオリンは弾かれるのでしょうか。...

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

生と死が交差する山里の踊り「新野の盆踊り」(長野県下伊那郡阿南町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 徹夜で踊る山里の盆踊り 「昔は朝まで踊り明かしたもんだよ」    全国に盆踊り行脚を重ねていると、地元の人からそんな話をよく聞かされる。その昔は、むしろ徹夜で踊るのが盆踊りのデフォルトであったらしい。しかし、いまでも徹夜おどりを実施している「伝統的」な盆踊りを、私は4例しか知らない。その一つが、長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)地区に伝わる「新野の盆踊り」だ。開催時期は毎年8月の14日〜16日で、現在でも毎晩夜9時から翌朝6〜7時頃まで踊られている。    新野は長野県の南端、標高1000〜1100メートルの山々に囲まれた高原の盆地に位置する山間の集落だ。そんな奥山の山村に、昔ながらの形を残しながら朝まで踊られる盆踊りがあると聞けば、誰だって興味を抱かずにはいられないだろう。 冬の新野高原 提供:金原渚    私が初めて新野の盆踊りを体験したのは、2015(平成27)年の夏である。当時は盆踊りにハマってまだ間もない時期で、知的好奇心に突き動かされるまま、全国の面白そうな盆踊りに積極的に足を運んでいた。新野の盆踊りに惹かれたのは、「徹夜で踊る」という点に興味を引かれたからだ。実際に訪れてみると、それは非常に衝撃的で、忘れがたい体験となった。一度きりでは、この祭りのすべてを理解できたとは到底思えず、「一体、あれは何だったのだろうか」と考え、翌年も再び足を運んだ。いまでは、年に一度でも参加しないと気がすまないほど好きな盆踊りとなっている。 筆者が初めて新野の盆踊りに参加した際の写真。一晩中雨に降られた    10年通う中で、個人的に最も大きな「事件」だったのは、コロナ禍によって2020年(令和2年)と2021年(令和3年)の盆踊りが中止になったことだ。台風が来ても決行され、終戦の年ですら踊られたという新野の盆踊りが、止まった。一ファンである私にとっても大きな出来事だったが、地元の人々にとっては、さらに深い喪失感をともなうものだったに違いない。    ネガティブな話題だけではない。2022(令和4)年にはユネスコ無形文化遺産に「風流踊」の一つとして登録された。さらに2023(令和5)年には、4年ぶりに制限なし(前年の2022年はマスク着用、手指消毒、踊り中の2mの距離確保、また一部行事内容の変更など、さまざまな制限を設けた上で盆踊りが開催された)で盆踊りが開催されることになった。この祭りはこれからどこへ向かうことになるのか。私にとっては10年目の節目となるいま、新野の盆踊りの現在地を確認してみたいと思った。 音頭取りと踊り子の掛け合いで生まれる一体感    まず「新野の盆踊り」とはどのような盆踊りなのだろうか。地元では「500年の歴史がある」と伝えられているが、その存在が全国的に認知されるようになったのは大正時代になってからのことである。決して交通の便がいいとは言えない信州の山奥の村で盆踊りが盛大に開催されている。そんな話を耳にした民俗学者の柳田國男が、1926(大正15)年、舞踊研究家の小寺融吉とともに新野を訪れ、盆踊りを見学した。早速その体験談を「信州随筆」として東京朝日新聞に発表。古くからの形式を残す価値ある盆踊りとして評価したことで、新野の盆踊りは全国に知れ渡ることになった。 宿場町の面影が残る町並みの中で新野の盆踊りが行われる 撮影:金田誠    「信州随筆」の中で柳田が着目した点で、現代まで受け継がれている新野の盆踊りの特徴を挙げていこう。まず一つは、扇を盛んに用いて踊ること。新野には7種類の歌と踊りが伝えられていて、そのうち、「すくいさ」「音頭」「おさま甚句」「おやま」では扇を手に持ち、優雅に操って踊る。扇を使った盆踊りは全国的に見られるが、南信州や東三河地方では特にポピュラーな形態である。 扇を用いることで、踊りにしなやかさと優雅さが生まれる 撮影:金田誠    また、太鼓や三味線といった鳴り物がなく、音頭取り(盆踊りで歌を出す役目の人)の生歌だけで踊る点も大きな特徴だ。伴奏がないため、音頭取りと踊り手が調子を合わせる必要があり、自然と歌の「コール&レスポンス」が生まれる。たとえば、音頭取りの歌の合間に踊り手が「ソレッ」と掛け声をかけたり、七七七五の歌を音頭取りが歌った後に、踊り手が下の句(七五)だけを繰り返して歌ったり、こうした相互のやりとりによって、盆踊りの場がともに作り上げられていく。 ヤグラの上の音頭取りの歌に、踊り子たちがまた歌で返す 死者と共に踊り、生を思う    また、柳田が「佛法以前からの亡霊祭却の古式」だといって評したのが、踊り最終日の16日の晩から17日の明け方に行われる「踊り神送り」の神事だ。これは盆に迎えた新盆の精霊を、踊りながら送るという儀式である。    こまかい作法や行事の次第については、柳田の時代と多少の相違はあるようだが、大まかな形は変わらない。新盆の家から持ち寄られた「切子灯籠」という美しく装飾された灯籠を手に人々が行列をなし、市神様や御太子様といった場所で祈りを捧げたのち、最後は村の境に位置する場所で切子灯籠を焼却するというのが一連の流れだ。 新盆の家の数だけ切子灯籠が作られ、最終日の16日にはヤグラから吊るされる 切子灯籠には緻密で美しい装飾がほどこされている。すべて手作り 17日早朝、空が白んでくると、ヤグラから切子灯籠が下される    踊り神送りの神事で最も盛り上がるのが、切子灯籠を手にした行列と踊り子たちの輪が衝突する場面だ。御太子様から戻ってきた行列は、「ナンマイダンボ」と唱えながら、踊り会場を経由して、瑞光院というお寺まで向かう。 切子灯籠を持った行列が踊り会場に戻ってくる    一方で踊りの会場で待ち受けている踊り子たちは、「切子灯籠の列が通り過ぎたら踊りを終えなければならない」という決まりがあるため、肩を組んで踊りの輪を強固にし、行列の進行を阻止しようとする。踊りの輪が崩れると、すぐに先回りして新しい輪をつくり、再び阻止。切子灯籠を運ぶ人たちにとっては「いつになったら終わるんだ」と難儀なことかもしれないが、この攻防戦こそが、新野の盆踊りの醍醐味のひとつだ。踊りはこの時だけの特別な「能登」という威勢のいい踊りに変わり、踊り子たちのテンションも最高潮となる。 踊り子たちが肩を組んで、行列の進行を阻もうとする 撮影:金田誠 踊りの輪が崩れても、すぐさま新しい踊りの輪ができる    時間をかけて、ようやく行列が瑞光院の広場に到着すると、踊り子たちは観念したように静かとなり、厳かな雰囲気を持ったまま最後の儀式を見守る。運ばれてきた切子灯籠を一カ所に積み上げる。続いて袴姿の「御嶽行者」が現れ、切子灯籠の前で呪文を唱える。...