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「現代音楽」ってなんだろう?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「現代音楽」ってなんだろう?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新たなチャレンジ みなさん、こんにちは! そろそろ日本でも春を告げる花々が咲き始める頃でしょうか。卒業や入学など、新たな門出を迎える方も多いことと思います。 この記事が公開される頃、私は前回の連載でもちょっとご紹介した新作オペラ《ウンム》の初日を迎えます。「普段はアラブ音楽を演奏している伝統楽器アンサンブルを、フランスで西洋音楽を学んだ日本人が指揮する」というのは、会場となるオランダ国立歌劇場にとっても史上初の試みなのだとか。そんな新しいチャレンジに、私自身とてもワクワクしています! 新作オペラ《ウンム》のリハーサル風景。左から、作曲家のブシュラ、演出家のケンザ、私、ソプラノ歌手のベルナデタ。 オペラ《ウンム》を演奏するアムステルダム・アンダルシアン・オーケストラのメンバー達と。 気づいたら「現代音楽の専門家」に 最近では古典作品を振る機会も増えましたが、私がパリで指揮活動を始めてから15年ほどはずっと現代音楽ばかり演奏していました。これまで手掛けた新作初演は200を超えます。ですから、私のことを「現代音楽の専門家」と認識している人もきっと多いでしょう。 そういう人からすると意外に思われるかもしれませんが、実は昔から現代音楽が好きだったというわけではないんです。むしろ、私の両親は合唱指揮者で、自分も小さい頃からミュージカルや児童合唱団で歌ったりしていましたから、芸高に進んでからも「私はきっと合唱曲を書くような人になるんだろう」と思っていました。学生の頃はフランス近現代の作曲家が好きでよく聴いていましたね。特にメシアンとデュティユー、それからプーランク。自分は、彼らが書くような美しい響きを持つ曲を書きたいと思っていました。私の親戚のおじさん(横川晴児)がNHK交響楽団の首席クラリネット奏者だった関係で、高校時代はクラリネットの作品をよく聴いていたのですが、とりわけ好きだったのがプーランクのソナタです。芸高の作曲科卒業作品にもクラリネット・ソナタを書きました。現代音楽の象徴みたいに思われている、いわゆる無調の音楽(調性のない音楽)を自分で書くことはありませんでした。 プーランク《クラリネット・ソナタ》。当時持っていたCDがポール・メイエさんの演奏によるものでしたが、その後共演をきっかけに仲良くさせていただくことになるなど夢にも思っていませんでした。 ただ、小さいときから「新しいもの好き」だったことと、ソルフェージュ(楽譜を読んで演奏するための基礎能力)が得意だったことは、少なからず影響していると思います。複雑な現代音楽を演奏するのに、ソルフェージュ能力はとても役に立つんです。私はわりと子どものときから楽譜を読むのが速く、また耳も良かったので一度聴いた曲はだいたい覚えてしまいました。だからほかの人が苦労するような変拍子とか複雑な譜面も、わりに楽に読めてすぐ振ることができる。すると周囲からも「あなた得意だからやってよ」と頼られるようになり、私も「自分が得意なことで役に立てるなら」と率先して引き受けているうちに、「あなた現代音楽好きなんでしょう」といってさらに依頼される機会が増え……気づいたら現代音楽の仕事ばかりが私に集中していました(笑)。 音楽家の基礎教養 一般に、現代音楽と聞くと「難解」というイメージを持つ方が多いでしょうか。フランス語で「現代音楽」を含む表現の一つに「musique savante」という言葉がありますが、これは言ってみれば「教養のある人のための音楽」というような意味です。アカデミックな作曲を勉強した人が書いた、歴史に残るような作品を指すときに使います。これは現代音楽の一側面を言い得ているかもしれません。 私が20代の頃に学んだパリ音楽院の楽曲分析のクラスでは、歴史に残る偉大な作曲家の古典作品を徹底的に勉強させられました。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ドビュッシー、フォーレなどの書法を学び、彼らの書法を使って自分でも曲を書いてみるという授業です。過去の偉大な作曲家の書法を学ぶことは、音楽家の基礎教養の一つというわけですね。 楽曲分析のクラスで作曲家の書法を勉強するうち、自分の中で何かが繋がるのを感じました。それまで現代音楽は現代音楽として、古典作品とは別個に存在するものだと思っていたのが、リンクし始めたのです。過去にどんな書法があり、どんな過程を経て現在の書法が生まれたのか、一つの大きな流れとして見えてくるようになりました。すると一見難解に見える現代音楽も、過去の音楽に連なる表現の一つとしてよくわかるようになるんです。 それだけではありません。時代ごとの音楽が、実際の社会の変遷とどう連動し、その結果何が起きたか。その歴史的な繋がりを知ると、自分自身の音楽家としての役割の自覚が促されます。すると、自分が音楽家として社会にどう発信していけばよいかが明確になるし、自分が今後進むべき道も見えてくる。過去を学ぶことは、結局自分の未来にも繋がってくるんです。楽曲分析のクラスでそれを学ぶことができたのは、非常に有意義なことでした。私は猪突猛進したいタイプなので(笑)、自分の進むべき道がよくわからないままなのは嫌ですから。 科学技術の発展と現代音楽 現代音楽というのは、そもそも世の中の大多数の人が是とするものに決然と異を唱えるような、そういう精神を持つものですよね。私が当時知り合った現代音楽の作曲家たちもそうでした。彼らはみな非常に教養があって話していて面白いし、音楽についても教わることがとても多かった。そうして自分も知識が増えてくると、まったく新しい音楽に接したときでも知識をどう応用すればいいかがわかって俄然面白くなるわけです。 他方で、今私がお話ししたような音楽、つまり「musique savante」とはまったく異なるタイプの現代音楽もあります。パリ音楽院にはチリやペルー、ヴェネズエラといった南米出身の留学生もたくさんいるのですが、彼らの多くはそもそも調性だとかバッハから現代に至るまでの作曲の書法を参照して作曲していません。むしろ音楽以外の造形美術や現代アート、映画制作の技術などから影響を受けている人が多いんです。 特に大きな影響を与えているのは電子音楽です。いきなり電子音楽から作曲に目覚める、そういう人たちが生まれてくる世代なんですね。歴史的に見れば電子音楽というのも科学技術の発展のなかで生まれたものですが、電子音楽が生まれたことはその後の現代音楽の有り様にも大きな変化をもたらしました。それまでの音楽がハーモニー・リズム・メロディを三大要素とするようなものだったのに対して、そこからこぼれ落ちるもの、たとえばノイズなども音楽の要素として扱われるようになるわけです。その先駆けとなった作曲家の一人が、エドガー・ヴァレーズ(Edgard Varèse, 1883~1965)です。 エドガー・ヴァレーズ《アメリカ》。いつか日本でも指揮してみたい作品の1つです。 科学技術の発展はそのほかにも同時代の多くの作曲家にインスピレーションを与えました。フランスを代表する作曲家、ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez, 1925~2016)がパリに国立音響音楽研究所(IRCAM)を創設したのも、その流れの一つです。その頃になると音楽というものが何か情緒的な意味をなすものというだけでなく、科学的な現象の一つとしても捉えられていくようになります。それこそ音の周波数を解析したりするような、緻密な計算のもとに音楽が作られるようになるわけです。 そういう音楽を初めて聴いた人は、耳慣れない響きに戸惑うかもしれません。ですが、音楽というのは本来、言葉にしがたい抽象的なものを表現できるものです。聴き手がどのように受け取るのか、そこに正解はありません。もちろん、聴き手の知識や経験によって受け取る情報が変わってくることはあると思いますが、そこに優劣はないはず。解釈は個人の自由に委ねられています。誰かの受け止め方を「間違っている」などと批判することはできないし、批判する必要もまったくない。そもそも芸術というのは、そういうものだと思っています。 「発明」とは、集積された技術や知識を組み替えること...

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

商店街とともに発展した盆踊り・白鳥おどり〈前編〉(岐阜県郡上市白鳥町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 朝4時まで徹夜で踊る盆踊り    2010年代のはじめ頃、盆踊りにハマった。それから全国各地の盆踊りに足を運ぶようになり、いつしか盆踊りに限らず、祭りや民俗行事全般に興味を持つようになった。そういう意味で、盆踊りこそが自分の祭り人生の原点と言えるのかもしれない。思い入れの深い盆踊りを尋ねられれば、いくつか思い浮かぶものがある。なかでも岐阜県郡上市白鳥(しろとり)町の盆踊り「白鳥おどり」は、私にとって特別な存在だ。7月から9月にかけて約20夜にわたり開催され、特にお盆の13〜15日は朝4時まで徹夜で踊り通すという、ぶっ飛んだ盆踊りである。 白鳥おどりの踊り屋台 写真:渡辺 葉 ハイテンションで踊る若者たち 写真:渡辺 葉 小さな子どもたちも踊りに熱狂 写真:渡辺 葉    私が初めて白鳥おどりを体験したのは2014年のことだ。現地に到着したのは深夜0時。大雨の中、エネルギッシュに踊る人々の姿を見た時の衝撃は忘れられない。以来、毎年参加するようになり、あまりにのめり込んで、関連するレコードや資料を収集したり、東京で白鳥おどりに関する体験イベントを開催したり、現地の関係者に取材をして記事を作ったりもした。挙げ句の果てには踊るに飽き足らず、白鳥おどりのお囃子を練習する会まで仲間たちと作ってしまった。 筆者が初めて白鳥おどりに参加した時の写真。深夜0時、土砂降りの雨の中、大勢の人が明け方まで踊っていた(2014)    そんな、私の偏愛する白鳥おどりも継承問題とは無縁ではない。特に近年、大きな問題となっているのが、祭りを支えてきた商店街の衰退だ。町の中心地となる越美南線「美濃白鳥駅」周辺には多くの商店が軒を並べる。この商店主たちが長らく白鳥おどりの運営を担ってきたが、お店の廃業、それに伴う発展会(商店街の組織、白鳥町の商店街は複数の発展会で構成されている)の解散、店主たちの高齢化によって、商店街が運営から離脱しつつあるという。 昼間でも静かな美濃白鳥駅前の商店街    長年白鳥おどりを見つめてきた地元の方々は、その最盛期を昭和50〜60年頃だと証言する。踊りの輪が何重にも形成され、町を人が埋め尽くした。もちろん商店にもずっと活気があった。いまも勢いのある祭りではあるが、昭和末期の最盛期と思しき写真を見ると、明らかに近年の踊り子の数は当時と比べ減少している。それはなぜか。 1985(昭和60)年の徹夜おどりの様子 出典:白鳥踊り保存会五十年史    歴史をたどっていくと、白鳥おどり隆盛の背景には、戦後の好景気によって力を増した町の商店街の存在があったことが見えてくる。そこでこの記事では、白鳥町の商店街繁栄の歴史を補助線としながら、白鳥おどりがいかに誕生し、発展していったのか、その経緯を明らかにしてみたいと思う。 白山信仰の拠点として発展してきた白鳥町    岐阜県中部、福井県の県境に接する白鳥町は、古くから白山信仰の拠点として栄えてきた。白山信仰とは、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2,702mの白山を崇拝の対象とする山岳信仰である。奈良時代に泰澄(たいちょう)という僧が白山に登り、山頂に奥宮を祀ったことで、白山信仰は修験道として体系化され、山伏たちの布教によって全国に広まった。    白山信仰が普及すると、「白山まいり」をする人々の道が整備されていく。白山に至る道は石川、福井、岐阜と三方から開かれていき、奥美濃から白山方面への道筋に位置する白鳥周辺も「美濃馬場(ばんば)」(馬場とは信者が修行する場所)としてにぎわいを見せることになった。 白山信仰の美濃方面における聖地の一つ、白山中居神社(白鳥町石徹白)。かつて信者たちはこの神社にお参りしてから、白山へと向かった    そんな白鳥も、明治から大正初期までは長良川の支流・上保川(かみのほがわ)沿いに点在する集落の一つに過ぎなかったという。しかし、越前街道・飛騨街道が交差する交通の要所でもあったことも起因し、次第に商業の中心地として発展を遂げていくことになった。    木材・繭・生糸・家畜などの農林産物を始め、食料その他の消費財の集散・通過の地点として周辺地域に広範な販路を持ち、周辺農家を中心とする消費需要の伸長と、交通機関の発達に伴って、次第に商取引の規模も大きくなってきた。 (白鳥町教育委員会 編『白鳥町史 下巻』より)    1909(明治42)年には白鳥に「商業組合」(『白鳥町史』では「商業会」)が結成され、現代に連なる近代的な商店街の原型がこの時期に出来上がったと見える。 明治中頃の本町通り 出典:写真に残った白鳥 我がふるさと    1928(昭和3)年、町制施行により上保町から白鳥町に改称。1933(昭和8)年には、町内に国鉄越美南線の「美濃白鳥駅」が開業した。駅前通りが新設された頃から店舗数が増加。1935(昭和10)年頃には、白鳥町の商家戸数は168戸(全戸数の16.8%)、商店人口は802名(18.0%)となった。この時代、白鳥町内には芸者を抱えた料理店まであったようで「夕方になると首を真白くした女衆が、白鳥稲荷神社へお詣りをしてにぎわった」という古老の証言が『白鳥町商工会二十年のあゆみ...

「女性指揮者ブーム」?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「女性指揮者ブーム」?【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 時代の転換期 みなさん、こんにちは! 今月から、3月にオランダ国立歌劇場で初演する現代オペラのリハーサルが始まりました。《ゼロ度の女》の作曲家、ブシュラ=エル・トゥルクさんの新作オペラ《ウンム》です。「ウンム」というのは、アラブ世界では誰もが知る有名な歌姫ウンム・クルスームの名前。アラビア語で歌われる彼女の歌を背景に、とある母と息子の物語が展開します。 演奏は、アムステルダム・アンダルシア・オーケストラ。オーケストラといっても奏者は12人、ほぼ全員が民族楽器の演奏者で楽譜を読める人はわずか数人、という編成です。いわゆる西洋のクラシック音楽とはチューニングも楽器の特性も異なるので、指揮もなかなか一筋縄ではいきません。しかし彼らと仕事をしていると、世界にはまだまだいろんな音楽や多様な表現方法があるということをヒシヒシと感じます。新しいことをたくさん吸収したい私にとっては、毎回が刺激と発見の連続です。 西洋の占星術によると、我々は今ちょうど200年に一度の大きな転換期にあるんだそうです。なんでも、形あるものを重視する物質主義の「土の時代」から、多様な価値観や自由な精神性に重きを置く「風の時代」に移り変わりつつあるのだとか。特に占星術を信じているというわけではないんですが、私自身もこの数年、自分が身を置いている世界の変化を感じていました。 「女性指揮者ブーム」の到来 その変化の一つに、「女性指揮者ブーム」があります。しばらく前からこの言葉を耳にするようになりました。確かに、指揮台に立つのは長らく男性がほとんどでした。もちろん、女性がまったくいなかったわけではないですよ。でも、私の二世代くらい前の先輩方には相当な苦難があったようです。指揮者になったものの壮絶ないじめにあったとか、安定したポストにつけなくて苦労した、という話をたくさん聞きました。それが、現在ではだいぶ潮目が変わっています。日本では沖澤のどか(1987~)さんがブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した2019年頃からでしょうか、指揮者として活躍する女性が増えてきました。 世代の異なる2人のポーランド人指揮者、ゾフィア・ウィスロッカさん(左から2人目)とアンナ・デュツマルさん(右)。女性の指揮者がほとんどいなかった時代に苦労を味わったゾフィアさんは、国際女性マエストロ協会の発起人として女性指揮者の育成・活躍にも尽力されています。 世の中全体がダイバーシティを推進するようになったことも、もちろん影響しているでしょう。これまでの反動か、ヨーロッパではむしろ「女性をどんどん使いましょう!」といって、エージェントが女性の指揮者を積極的にプッシュすることもあるようです。私も知り合いの男性指揮者から、「君は女だからいいよな。今の時代、女性指揮者の方が仕事をもらえるもんな」なんて言われたことがありましたっけ。言ってみれば、今は前の時代の反動で、振り子が正反対に振り切れているような状態なのでしょう。 昨年だけでも、世界有数のオーケストラの音楽監督や芸術監督に就任した女性の指揮者が何人もいました。でも、彼女たちの就任は決して「女性指揮者ブーム」に乗じたものではなく、然るべき実力を評価された結果だと私は見ています。これまでは、実力があっても女性はなかなか相応のポストにつくことはできませんでした。時代の風向きが変わって、今ようやく実力が正当に評価されるようになったのだと思います。 しかしこの「女性指揮者」という言葉、皆さんは違和感ありませんか。私にはなんだか「男がすなる指揮といふものを、女もしてみむとて……」というニュアンスが含まれているように感じてしまいます。今でも時々「女性指揮者の阿部加奈子さんです!」と紹介されることがあり、思わずモヤッとした気持ちになります。もちろん本人に他意はないことはわかっているんですけどね。 同じような言葉に、「マエストロ」「マエストラ」という使い分けがあります。フランス語も男性なら「le chef d'orchestre」ですが、女性になると冠詞もその次の単語も変わって「la cheffe d'orchestre」になる。でも私自身は、わざわざ性別によって言い換えなくていいんじゃない?と思っています。日本語には少なくとも文法上「性の一致」がありませんから、あえて「女性指揮者」という必要はないですよね。もしかしたら、「女性指揮者ブーム」が落ち着く頃には、この言葉自体も使われなくなっているのかもしれません。 リハーサル中の一場面。休憩時間に奏者の質問に答えているところ。 「女性指揮者ブーム」の背景にあるもの ブームのもう一つの背景として、プロオーケストラの水準が向上したことも大きいと思います。カラヤンやフルトヴェングラーに代表されるように、かつてはカリスマ的な指揮者が強いリーダーシップを発揮し、オーケストラを引っ張っていくやり方が主流でした。しかし現在、プロオーケストラの技術は全体的に当時よりもずっと向上しています。その要因としては音楽教育制度の充実と普及、またそれによって個々の演奏家の技術が向上したことなども挙げられるでしょう。オーケストラはある意味一つの生き物のようなものなので、集団で一つの音楽を作ることを通じて優れた技術が次の世代に受け継がれ、時間と共にグループ全体が成熟を遂げていきます。そうしてオーケストラのレベルが向上した結果、強権的なリーダーを必要としなくなった、と言えるのではないかと思います。 今や、ベルリン・フィルとかウィーン・フィルのようなトップレベルのオケは、指揮者がいなくても定番の交響曲ぐらいは演奏できるんです。つまり、単に拍子を取るとか音を揃えるだけなら、もはや指揮者は必要ない。では、オケが指揮者に何を求めているのかというと、それは「音楽性」なんです。指揮者がいったいどんな優れた解釈を持っていて、自分たちをどれほど驚きに満ちた新しい世界に導いてくれるのか? 自分たちの魂をどれほど崇高なところへ誘ってくれるのか? それを期待しているはずです。だって、楽員の一人一人がすでに経験豊かな、音楽を愛する人々なのですから。 リハーサル中、オケのメンバーに特殊な奏法の説明をしている図。 カリスマ指揮者の時代は、オーケストラの運営もトップダウンで決められることが多かったのが、今では楽員の意見を尊重し、民主的に運営されるようになっています。たとえば、初めて客演した指揮者がその後も同じオーケストラから呼ばれるかどうかというのは、楽員さんたちの意見によるところが大きい。それはカラヤンの時代にはありえないことでした。 今の時代に求められる指揮者像 今の指揮者に求められるのは、自分の持つ音楽的信念を押し付けるのではなく、すべてのメンバーが納得して理解できるように伝えるコミュニケーション力。そして多くの人に目を配り、耳を傾ける細やかな気配り。そうしたことができる指揮者が、オーケストラから支持されるようになっています。この時代の流れに、「女性指揮者」という存在がうまくフィットしたのではないでしょうか。 もちろん、女性だからといって必ずしも全員が同じような指揮のスタイルを持つわけではないし、男性指揮者の中にも神経の細やかな人はたくさんいます。あまり物事を「男性・女性」という属性で判断してはいけませんが、「統計的に」女性によく見られる気質とか傾向というのはきっとあるでしょう。昨今の「女性指揮者ブーム」は、今の時代が求める指揮者像に、女性が持つ特質が当てはまった結果なのではないかと考えています。 父性と母性を持ち合わせた指揮者 もっと言うと、私が「優秀だなぁ」と思う人は男性か女性かにかかわらず、父性と母性を両方兼ね備えていることが多いと感じます。父性とは、物事を大局的に捉え、包容力を持って判断する力のこと。母性は、見過ごされがちな細部にまで心を配り、的確にフォローする細やかさ。そんなイメージでしょうか。 私の師匠で現在N響の首席指揮者であるファビオ・ルイージ(Fabio Luisi,...

民族音楽だけじゃない! 心安らぐ癒しの音色『カリンバ』の魅力に迫る

民族音楽だけじゃない! 心安らぐ癒しの音色『カリンバ』の魅力に迫る

  (本記事は、2022年5月に執筆した記事を再掲載しています。) 「カリンバ」という楽器を聞いたことがありますか? 人気ゲーム『あつまれどうぶつの森』にも登場して注目されるなど、おうち時間が増えた今、静かなブームを巻き起こしています。「癒される」とハマる人が続出のこのカリンバ、一体どんな楽器なのでしょうか。 木製の箱の上に並んだ金属の棒を、指で軽やかにはじいて演奏する楽器、カリンバ。楽器名を知らなくても、その音色を聴けば、「オルゴール?」「デパートや歯医者さんのBGMでよく聴く、インストゥルメンタル音楽みたい」と思う人もいるかもしれません。アフリカの伝統的な民族楽器で、親指ではじいて演奏することから“親指ピアノ”と呼ばれたり、その柔らかな音色から“ハンドオルゴール”と呼ばれることも。聴けば誰もが心が落ち着き、“癒される”と感じることでしょう。長引くコロナ禍でおうち時間が増え、現在爆発的に売り上げを伸ばしているというこのカリンバ。楽器店やネット通販などでも気軽に購入することができ、3〜4千円と価格も手頃。指ではじくだけで、誰でも簡単に演奏できることもあり、「気軽に始められる」と人気が高まっています。20年以上前に楽器店で働いていた筆者は、民族楽器が好きで、このカリンバをはじめ、インドの弦楽器「シタール」や、ペルーの縦笛「ケーナ」、木で出来た棒状の本体を上下に振ると、雨が振っているような音がする「レインスティック」など、さまざまな民族楽器を取り扱ってきました。中でも価格の手頃なカリンバは、結婚式や忘年会の余興で演奏するために購入する人も多く、プレゼント用としても人気がありました。当時、このカリンバで演奏する曲目といえば、民族音楽のほかには童謡などのやさしい曲が中心でしたが、YouTubeで検索すると、クラシックの名曲から映画音楽、最新のヒット曲やオリジナル曲まで、世界中のさまざまなカリンバ動画を見ることができます。​​​​​​​ 民族音楽だけではない、カリンバの可能性   人気ゲーム『あつまれどうぶつの森』にもアイテムとして登場していることもきっかけとなり、この数年でカリンバの知名度はずいぶん上がりました。カリンバブームの牽引役ともいえる“カリンバYouTuber”のMisaさんは、YOASOBIの『夜に駆ける』や、人気ボカロ曲『千本桜』、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』などのジブリ映画音楽など、流行曲やヒットソングをカリンバで軽やかに演奏し、コンスタントに動画をアップ。民族音楽だけではないカリンバの可能性を追求し、その音色の美しさや気軽に奏でられる楽しさを広め、注目を集めています。     そもそも、Misaさんはどのようにしてカリンバを知ったのでしょうか。「きっかけは、通勤電車の中で見ていたYouTubeでした。もともとYouTubeを見るのが好きで、ポップスや洋楽など、いろいろな音楽動画をチェックしていたのですが、ある日突然おすすめに出てきたのが、『OCEANS』という海をバックにカリンバを弾いている海外の動画でした。サムネイルにカリンバが映っていたのですが、最初はそれが楽器ということもわからず、『何だろうこれ?』と、何気なくクリックしてみたんです」(Misaさん)ほんの好奇心から観てみたカリンバ動画。「とても癒される美しい音色に、驚いたと同時に感動しました」というMisaさんは、直感でこの楽器の可能性を感じ、その日のうちにネットで注文。翌日に到着し、自分でも「YouTubeで発信することを決意した」といいます。Misaさんにこれまでの音楽遍歴を尋ねたところ、原点となっているのは子どもの頃に始めたピアノで、中高時代に熱中していた吹奏楽部での経験も、現在に大いに生きているそうです。「幼稚園の頃からピアノを始め、中2くらいまでやっていました。中高は吹奏楽部でオーボエを担当し、中学時代はマーチングの全国大会にも出場するなど、かなり熱心に取り組んでいました」(Misaさん)大人になってからは、ピアノやオーボエを演奏する機会はめっきり減ってしまいましたが、音楽が好きなことに変わりはなく、Misaさんの周りは常に音楽であふれていました。そんな時に出会ったのがカリンバだったのです。「カリンバは、自分で弾いていてもその音色に癒されますし、アレンジを考えるのもわくわくします。オーボエも好きですが、音量を考えると家で吹くのをためらってしまいますし、オーケストラや吹奏楽団などに所属しないと難しいですが、カリンバは音量を気にすることもなく、1人で気軽に楽しめるのも魅力ですね。軽くてどこにでも持ち運びができるので、旅先に持って行ってきれいな景色をみつけると、そこで演奏して動画を撮ることもあります。風景とのマッチングを考えるのも楽しいですね」(Misaさん)     YouTubeでは、定期的に動画をアップすることが重要ですが、継続することの大切さは、部活動からも学んだといいます。「中高の部活動で、音楽の楽しさや、毎日コツコツ努力することの大切さを学びました。その時の経験が、日々の動画制作にも生きているなあと、つくづく感じます」(Misaさん)「カリンバが気になるけれど、何から初めていいのかわからない」という人もいると思いますが、現在はさまざまな楽譜集が出版されています。Misaさんも、これまでに初心者向けの教則本や楽譜集を数冊出版していますが、今回新たに出版された『豪華アレンジで楽しむ Misaカリンバセレクション』(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)は、どのような点にこだわったのでしょうか。「これまでの教則本や楽譜集は、初心者や中級者向けにどんどんステップアップしていく構成で、楽譜も意識して初心者や中級者向けに作っていましたが、今回は完全に私の動画でアップしているアレンジを採用しています。けっこう難しい部分もあると思うんですけど、自分が今できる限りのアレンジを詰め込んだので、ぜひお楽しみいただけるとうれしいです」(Misaさん)カリンバといえば、民族音楽や童謡などを奏でることが主流だった時代を知っているだけに、日本から遠く離れたアフリカの民族楽器でJ-POPやボカロ曲など自由に演奏し、大勢の人たちとYouTubeで楽しさを共有しながらコメント欄で盛り上がることができる現在は、すごい時代になったものだなあ……と、しみじみ感じます。昔はこのような楽しみ方はなく、SNSや動画サイトが当たり前となった、現代ならではといえるでしょう。まだまだ続きそうなおうち時間。年齢問わず気軽にチャレンジできるカリンバで、さらに充実させてみませんか?   <PROFILE> Misa 2019年11月にカリンバに出会いYouTubeに演奏動画を投稿スタート。オルゴールのような癒しの音色のカリンバで演奏する動画が人気急上昇。YouTubeの総再生回数は2200万回。チャンネル登録者は13万人を超える。(2022年5月現在) 各メディアに演奏動画が取り上げられるなど、活動の幅を広げている。 Official Web Site:https://misa-kalimbamusic.com/topYouTube:https://www.youtube.com/channel/UCXxhNwJYn9qcEaevTQebmCwX(旧Twitter):https://x.com/misa_kalimbaInstagram:https://www.instagram.com/misa_kalimba/   Text:梅津有希子   本記事で紹介した楽譜   豪華アレンジで楽しむ Misaカリンバセレクション (発行:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)...

「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方 ~ピアニストで人気YouTuberで東大卒……角野隼斗のマルチな才能はいかにして育まれたか?~

「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方 ~ピアニストで人気YouTuberで東大卒……角野隼斗のマルチな才能はいかにして育まれたか?~

  (本記事は、2020年11月に執筆した記事を再掲載しています。) 今、話題のピアニスト角野隼斗の母であり、コンクール入賞者を数多く輩出してきたピアノ指導者・角野美智子が、書籍『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』を上梓した。本インタビューは、音楽ライターであり、大学で教鞭を執る小室敬幸氏が、その“「原石を磨く」子育て論 ”を最も間近で受けてきた隼斗氏に迫った。  かつては「クラシック音楽の演奏家は技術に長けていても、楽譜がなければ何も弾けない」なんて、嫌味を言われることもあったが、そんな状況も徐々に変わりつつある。近年、若手ピアニストたちを筆頭に自ら作曲・編曲をしたレパートリーを披露することも珍しくなくなったからだ。そもそも20世紀前半まで、偉大なピアニストの多くは作曲家でもあったことを思えば、なんら不思議なことではない。むしろ、聴衆をあっと言わせるエンターテイメント性と、心に深く語りかける芸術性を両立できるコンポーザー=ピアニストこそが、クラシック音楽の未来を切り開く存在となり得るはずなのだ。 そうした期待のかかる新世代ピアニストの筆頭格が角野隼斗(すみの・はやと)である。国内外のコンクールで優勝・上位入賞を重ねてきた実力派であると同時に、2020年11月現在でチャンネル登録数55万人を誇る人気YouTuber “Cateen(かてぃん)”として、それまでクラシック音楽に興味のない人々からも熱狂的に支持されている。それでいて東京大学・大学院を修了したインテリジェンスな経歴も持つのだから驚くほかない。この才人は、どのような環境で育ったのか? その謎を解くヒントとなる書籍が11月28日に発売となった。書名は『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』、著者は角野隼斗の母・美智子だ。ピティナ(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会)の指導者賞を連続20回受賞するなど、ベテランのピアノ指導者として知られている角野美智子は、なんと隼斗だけでなく現役の芸大生である妹の未来(みらい)も優れたピアニストへと導いている。 さぞやスパルタ英才教育だったのかと思いきや、そうでもないらしい。書名からも伝わる通り、子ども一人ひとりの「好き」を大切にする指導は、ピアノや音楽だけに留まらず、21世紀に相応しい子育て論にもなっていて、実に興味深い。今回は著者ご本人ではなく、息子・隼斗の目線から母・角野美智子の教育について語ってもらった。     ――まずは率直に、お母様が書かれた原稿を読んでみていかがでしたか? 僕は普段から「好奇心が原動力であることが、一番大事だ」と考えたり、たびたび言ってきたりしたんですけれど、読んでみると同じことが書いてあって、母の受け売りじゃんと(笑)。それで初めて、教育だったんだなと気付きました。そういえば、そうだったなと思い出したというか。――子育て論や音楽教育論であると同時に、隼斗さんと未来さんの半生を綴った内容でしたもんね。 エピソードは盛られていませんでしたよ(笑)。――教育を受けたご当人が読まれても、ありのままの内容だと(笑)。プロを目指すようなピアノのレッスンというと、未だに昭和的な「スポ根」イメージというか、スパルタでビシバシやるもんだと思われている方がいるかもしれないですけど、角野家の教育方針は真逆ですよね。とにかく、子ども自身の意思を尊重する。そして結果を出すことばかりにこだわらない。 そういうことをちゃんとアピールしてくれたのは僕も嬉しくて。実際、厳しく「こうやりなさいっ!」っていうスパルタ教育を受けたわけではないですから。あくまでも楽しんだ先に、たまたま現在のような結果がついてきたんです。教育熱心な方ほど具体的なノウハウを求めがちかもしれませんが、大事なのはマインド。この本もノウハウを書いているんじゃなくて、マインドを示しているんだと思います。――具体的な方法論ではなく、意識の持ち方・考え方が大事だということですよね。ピアノの指導者としてではなく、母としての美智子さんはどんなママだったんですか? 千葉が地元なんですけど、小学校の頃はやんちゃで不真面目で、先生にも呼び出されてましたし、母にもよく怒られてました。今から思えば心配してくれていたんだと思います。でも中学受験をして、開成(中学校・高等学校)に入ってからは何をしても……ってそんなに悪いことをしたわけじゃないけど(笑)、帰りが遅くても勉強しなくても、怒られたり、何か言われたりはしなかったですね。――一方、お母様は本のなかで『中学生になって、子どもたちだけでゲームセンターに出入りするようなことも、まったく気にならなかったと言えば嘘になりますが、隼斗が熱中していたのは音ゲーでしたので、これもまた「音楽に関係があるなら、いいか」とおおらかに見ていました』と正直に書かれていらっしゃいますね(笑)。放任するのではなく、親として心配はする。でも強制や束縛まではしない。言うは易しですけど、親としてはさじ加減が難しいところです……。 母は教えている時に、子どもが楽しそうかそうじゃないかが敏感に分かるみたいなんです。だから無理矢理やらされて、あんまり笑顔がないままというのは、母としても苦しい。とはいえコンクールで良い成績を取るために目指す過程は、成長するためにすごく重要で。なおかつ重要と言いながらも、それが全てにならないよう気を使ってるように見えますね。発表会とかでも、そんなことをスピーチでいつも言っています。 だから「好き」を大事にするというのは、放任しているだけでもなくて、興味がある部分や得意な部分をどうやってブーストしてあげるのかってことだと思うんです。コンクールも結果を出すことにこだわるんじゃなくて、ブーストするために良い成績を目指す。親もピアノの先生も、そのための潤滑油になるというか。     ――結果にこだわってしまうと入賞できなかった時、努力した分だけかえって精神的にこたえますしね……。本に書かれていた、妹・未来さんが小学校5年生の時にコンクールで思うような結果が出なかったことが続き、進学校を目指して中学受験をしたいと言い出したというエピソードは非常に印象的でした。 僕からすると妹は対照的な存在ですね。小さい頃の僕は、本は全く読まない完全に理系でとにかく数字が大好き。それに対して未来は本が大好きで、逆に算数・数学があまり好きではなかった。そして、音楽家としてやっていくために表に積極的に出ていかないといけないと僕が思っているのに対して、妹は自分からあんまり何かを言い出したりはしないんです。――おふたりのTwitterのアカウントを比べると、割となんでもつぶやかれる隼斗さんと、自分の出演情報が中心の未来さんってな感じで、その性格の違いがはっきり出ていますね(笑)。 でも、意思はすごく強くあるんですよ! そういう根本部分は僕も未来も一緒なのかもしれない。妹の意思が強いなと特に感じたのは中学と高校受験を決めた時で、僕も中学受験をしましたけど、そこに強い意思はなかったですから。――本のなかで書かれていたように、小学校の授業が退屈になってしまった隼斗さんに、好奇心を育める環境として塾に行ってみないかとお母様が勧められたんですよね。中学受験をするために塾に通いだしたわけではなかった。 そうなんです。東大に行くときも迷いましたけど、それは開成にいれば普通の道ですから。でも妹は中学受験で進学校を、高校受験で芸高(東京芸術大学附属音楽高等学校)を受けていて、自分がその時いる環境とは敢えて違う選択をするっていうのを、人生で2回もやっている。強い意思がないと出来ないなと。――兄妹でこんなに対照的な受験だったんですね……。でも、ちゃんとどちらの受験勉強も乗り越えられたのは、ただ塾に通わせたり、家で勉強しなさいって言ったりするだけでなく、お父様が朝一緒に勉強に付き合ってくれていたことも大きかったそうですね。 いま思うと本当にすごいなって思うんですよね……。だって毎朝6時に起きるのは僕もつらかったけど、平日毎日遅くまで仕事している父さんの方がもっとつらいじゃないですか。そんな中で朝の1時間、その勉強に付き合ってくれたのは本当にありがたかったなと思っています。 そもそも、もっと小さかった頃からパズルゲームや数学の問題をだしてくれていたので、算数まわりの興味に関しては母だけじゃなく、父のお陰でもありますね。ちょっとした待ち時間に魔方陣の問題を出してくれたりして楽しませてくれましたし。――なんかお話を伺っていくと、家族であり、チームでもあるように思えてきます! 何かプロジェクトを遂行する上で、当人に丸投げされるのではなく、力が発揮できるようチーム一丸となって出来る範囲の協力を惜しみません。 この本は子育て論ということにはなっていますけど、学生とかが読んでもきっと面白いんじゃないかなと思うんです。要は、この本の中における僕の視点で読めば、どういうふうにに考えてどう生きるのか、みたいなところにも通じてくるから。さっきも言ったように、僕は常日頃から「好奇心が原動力であることが、一番大事だ」と思っていて、それは何のどんなジャンルにおいても変わらないんです。     ――ピアニストとしても、YouTuberとしても、東大の大学院で研究をしていた時も、変わらないと! 自分が興味あるかもしれないと思ったことを、どんどん突き詰めていくからこそ、どんどん知らない世界が広がっていってもっと楽しくなる。そこに楽しみを見いだせるようになることこそが、人生を豊かにするために大事なことだと思うので、そういう意味では今後の進路を迷ってる方とか、学生に限らず社会人にとっても、子育てに関係ない目線で読んでも面白いんじゃないかなとは思いますね。――確かに、会社のなかで部下との関係に悩む上司にとっては、どうやったらお互いにとって無理なく、良い仕事が出来るのか?を考えるヒントにもなりそうです。これからの時代に相応しい、根性論とは正反対に位置するこうした考え方へシフトチェンジしていくためには、各々が「誰かの正解」を目指すのではなく、ひとりひとりが「自分の正解」を見つけられるようになる必要があるようにも思えます。 そうですね。やっぱり自信のなさとか、コンプレックスからくるものだと思うんですよ。だから具体的な結果とか、分かりやすく周りから認められる何かに、すがりつこうとしてしまうんじゃないんでしょうか。本来、それは何のためにやっていたかって考えてみれば、ピアノだったら音楽を楽しむ“ため”に始めたわけですよね。でも結果に固執してしまい始めると、何の“ため”だったのか分からなくなってしまう。それはすごくもったいない。 結果って相対的なものだから、コンクールで一位になる経験を全員がするのは不可能なわけじゃないですか。全員が一位になったら、今度は一位の意味がなくなってしまいますし。――都市伝説的に語られた「運動会の徒競走で、全員手を繋いで、並列でゴールする」なんて例と一緒ですもんね。 だからこそ、子どもに頑張れば良い結果が取れるよって言うのも、それはそれで無責任な話だと思っているんです。でも、結果を求めるために起こした行動の中で、自分が何を学んだか? どんな新しい世界を知れたか?っていう、自分の中で変化が起きていれば、それはすごく意味のあることになると思います。それを楽しめるようになってもらいたい。 そのためには、もうひとつ、何が自分の信念で、何がそうではないかっていう意識を持つことも大事ですね。それを貫き通さないと、SNS上の誹謗中傷とか悪口に振り回されてしまうし、ころころと方向性がぶれてしまうと、誰から見ても何をやってるのかが分からなくなってしまいますから。――まさに、それを背中で示してくれていたのがご両親であったわけですよね。この本にお母様が込められたであろう思いと重なってきます。 自分の考え方や興味の方向とかもそうだし、自分のマインドとか考え方みたいなところも学んでいたんだってことを本を読んで改めて気付かされましたし、親の偉大さ、大きさみたいなことを強く感じることが出来ました。――ご本人があとから気付くっていうのは、理想の教育かもしれませんよね。無理強いされることなく導かれていき、辿り着いた先が自分自身にとって幸せで、素直に感謝できる。理想的な親子関係だなって思ってしまいました。是非、色んな方に『「好き」が「才能」を飛躍させる子どもの伸ばし方』を読んでいただきたいですね!   (インタビュアー小室敬幸氏と)​​​​​​​   Interview&Text:小室敬幸Photo:神保未来   本記事で紹介した書籍 「好き」が「才能」を飛躍させる 子どもの伸ばし方 (発行:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス) 角野美智子 著発売日:2020年11月28日仕様:四六判縦/168ページ定価:1,760円(税込)ISBN:9784636965551 購入はこちら...

6月にデビュー・アルバムを発表、現役の東大院生でユーチューバーの顔も持つ、角野隼斗とは?

6月にデビュー・アルバムを発表、現役の東大院生でユーチューバーの顔も持つ、角野隼斗とは?

  (本記事は、2019年7月に執筆した記事を再掲載しています。) 2018年、ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリを受賞し、今年6月には初の公式アルバム『パッション』をリリース(デジタル限定配信発売)した角野隼斗。現在、東京大学大学院でAIの研究をしている現役の学生でもある。そしてCateen名義でYouTubeチャンネルを持つユーチューバーでもあるのだ。あらゆる音楽のジャンルを行き来しながらアクティブに活動している彼は、穏やかに、言葉を慎重に選びながらも、研究について、音楽について、興味深い話をいろいろと聞かせてくれた。※ピティナとは、1966年に発足した、ピアノを中心とする音楽指導者の団体で、ピアノ指導者をはじめ、ピアノ学習者や音楽愛好者など、約16,000人の会員が所属する団体。(ピティナHPより)   グランプリを受賞して、ピアノはただの趣味ではなくなった   ―まずは、ピアノを始めたきっかけから教えてください。角野:母がピアノの先生で、3歳頃から始めたみたいですが、最初の記憶は、4歳で初めてピティナのコンクールに出たことですね。当時は、A2級という幼稚園のクラスの下にA3級というクラスがあって、それが最初に出たコンクールです。5歳のときにはA2級で全国(決勝大会)まで行けて、その後ピティナには毎年出ていました。―そして昨年はついに特級グランプリを受賞されて。角野:よかったです、本当に。実は特級に出る前は、コンクールに出ることに対して、自分の中でマンネリ化というか、モチベーションが下がっていたんです。2016年の、大学3年のときには日本国内やアジアで行われた様々なコンクールに出たりしたんですけどコンクールに参加することの意味がわからなくなっていたんです。―それは、なぜですか?角野:音大生でもない人間が、コンクールなんか出て何の意味があるのかな、と思っていました。ピアノを弾くことは変わらず楽しいんですけど、目標というか、向き合い方がわからなくなっていたんです。そんなときに、特級に出ることを勧められて。これは大きな挑戦だし、しっかりやろうと。グランプリをとったことで、世界が一気に開けました。コンサートも爆発的に増えたし、こうやっていろいろなメディアで取材していただいたり。自分の中で、ピアノに対する思いが、ただの趣味ではなくなったというか、責任を持って音楽活動をしていこう、という覚悟ができました。     ―開成中学・高校から東京大学に進まれたわけですが、音大に行こうと思ったことは?角野:実は高校の頃は、ピアノというか、クラシックから気持ちが離れていたんです。部活でX JAPANのコピーバンドをやったりして。僕はドラムを叩いてまして。YOSHIKI、ですね(笑)。あと、音楽ゲームが好きで、jubeat(ユビート)というゲームの全国大会では、高3のときベスト8に入りました。これは、16個のマスから音が出てきて、それを正しいタイミングで指で叩くという、指でやるもぐらたたきみたいなゲームで、ピアノをやってる人はすぐ上手くなっちゃうんですよ(笑)。音ゲーは、音楽が電子音楽なので、エレクトロニカとかテクノとかも好きでしたね。―そうして様々なジャンルを経由して、またクラシックに気持ちが戻ったわけですね。角野:大学に入ってからですね、クラシックの楽しさを再認識したのは。再認識といっても、そもそも小学校の頃だって、クラシックをおもしろいと感じていたかどうか微妙です。おもしろいと感じる以前に、やっているのが当然、だったので。本番で弾くのは好きだったんですけど、練習は嫌いだったし。中学に入ってから、親から練習しろとあまり言われなくなったことで、開放感というか、ちょっと逃げというか、そんな感じになって。思春期にありがちな(笑)。でも、逃げる先は、ジャンルは違ってもやっぱり音楽でしたね。―東大ではクラシックの「ピアノの会」とバンドサークル「POMP」の両方に所属されてたんですよね。角野:はい、POMPではジャズもやってました。やっぱり、複雑に作りこまれているような音楽がおもしろいと思うようになって、ジャズを聴いたり、自分でも弾くようになって。そのうえでクラシックを聴くと、楽曲の構成や、ポリフォニックな和声、音色の美しさに改めて気がついて。アレンジ、作曲の勉強という意味でも、クラシックから学べることは本当に多いんです。   AIと音楽について研究中、AIと人間の演奏は“変さ”が違う!?   ―アレンジといえば、YouTubeでチャンネルを持っているんですよね。米津玄師さんの曲なんかもピアノで演奏されてアップされてます。こういう活動はいつから?  youtube Cateen / Hayato Suminoチャンネル 角野:中学くらいからですね。ニコ動(ニコニコ動画)が盛り上がっていた頃で、自分でもやってみたいと思って、中3のとき初めてボカロとか音ゲーの曲をニコ動にアップしました。―ほんとにジャンルの垣根がないですね~。自由!角野:僕はジェイコブ・コリアーというアーティストが好きなのですが、彼もきっとジャンルのことなんか考えてないと思うんです。自分の表現したいものを突き詰めていった結果、新しい音楽が生まれた、ということだと思います。僕もジャンルのことは今はあまり考えてないです。もちろん、クラシックももっと勉強したいと思っていますが、最終的には自分で作った作品を自分の演奏を通して伝えたい、新しいものを表現したいなという思いがあるので、これからも編曲した曲や作曲した曲をYouTubeで公開していくつもりです。生配信も定期的にやっているので、ぜひ、チャットでリクエストなんかもしていただければ嬉しいです。―昨年はフランスに留学されていたそうですね。角野:フランス音響音楽研究所というところに、9月から5か月間行っていました。僕は音楽とAIの研究をやりたいと思っていて、今、院の研究室では自動採譜、自動編曲の研究をしているんです。音源を与えられたときに自動的にスコアに変換するというのは、ある程度は今の技術でもできるんですが、単純にスコアにするだけではあまりおもしろくないので、オーケストラの音源を、ピアノで演奏したときに近くなるようなスコアにする、要するに編曲が自動でできるような技術を研究しているんです。フランス音響音楽研究所はまさに僕がやりたいことを勉強できる場所でした。―留学中、ピアノは?角野:もちろん、ピアノも弾いていました。ご縁があって、ジャン=マルク・ルイサダ先生とクレール・テゼール先生につくことができて。ルイサダ先生にはショパンを、テゼール先生にはフランスものを主にレッスンしていただきました。パリでは何回かリサイタルもやりました。4月にはサール・コルトーというホールでやらせていただき、300人を超えるお客様にご来場いただけました。     ―大学院を終えられあとは、どうされるんですか。角野:研究もピアノも、どんな形にせよ両立させていきたいと思っています。すごく難しいことですけど、どちらも音楽のことなので、自分で音楽をやっている人間の視点は研究にも絶対メリットになると信じています。この前、とあるイベントでAIとジャズセッションしたんです。POMPの先輩にも参加してもらって、僕はピアノを弾いて。そのときおもしろいことがわかったのですが、AIと人間の演奏は“変さ”が違うんです。AIは人間をまねて作ってるのに、人間とは“ハズれ方”が違うんですよ。そこに、人間の下手な演奏を再現するよりはるかにおもしろい、新たな音楽があるんじゃないかと思いました。芸術の発展というのは、きっとそういうことなのかな、と。人間が予想できる範疇をちょっと超えたところ、それが新しいと感じられるんです。ものすごく遠いことをやると、なんだそりゃ、と理解されないんですよね。そういう“ちょっと超えたところ”をAIで探せるんじゃないかと、今、可能性を感じています。より、ピアノに深く迫ったインタビューは、月刊ピアノ9月号(8月20日発売)に掲載。https://www.ymm.co.jp/magazine/piano/<PROFILE>[角野隼斗(すみのはやと)] 1995年生まれ。2018年、ピティナピアノコンペティション特級グランプリ、及び文部科学大臣賞、スタインウェイ賞受賞。2002年、千葉音楽コンクール全部門最優秀賞を史上最年少(小1)にて受賞。2005年、ピティナピアノコンペティション全国大会にて、Jr.G 級金賞受賞。2011年および2017年、ショパン国際コンクール in ASIA 中学生の部および大学・一般部門アジア大会にてそれぞれ金賞受賞。これまでに国立ブラショフ・フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、千葉交響楽団等と共演。現在、東京大学大学院2年生。金子勝子、吉田友昭の各氏に師事。2018年9月より半年間、フランス音響音楽研究所 (IRCAM)...

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

守りたいのは神楽のある風景・鵜鳥神楽(岩手県下閉伊郡普代村)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「ルーツ」となる祭りを求めて    郷土芸能を追いかけていると、さて自分のルーツとなる祭りとはなんだろう?という疑問に思い至ることがある。自分が生まれ育った土地に根ざした祭りは何だろうか?と考えると、私の地元千葉県には数えの7年目ごとに開催される、周辺市町村をも巻き込んだ大規模な神輿祭りがあるのだが、地域の氏子が中心となる祭りなので、祖父の代から移り住んできた身としては、町内の祭りとはいえ、いつも内側というよりは、外側から鑑賞しているような他人事感があって、無邪気に“ルーツ”とまで呼んでいいか躊躇する部分がある。    ところで厳密にいうと私は、育ちは千葉だが、生まれは岩手だ。母の出身地が三陸地方沿岸の下閉伊郡普代村(しもへいぐんふだいむら)というところで、下閉伊郡と北で接する久慈市内の病院で生まれた。普代村は朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道沿線の漁村であり、昆布や鮭、ウニなどの海産物を特産品としてうたっている。子どもの頃は、毎年夏になると家族で帰省して、兄弟で虫かごいっぱいトンボを捕まえたり、従姉妹とテレビゲームで遊んだり、近くの海岸へ浜遊びに行ったり、美しい思い出ばかりの場所だが、思春期を迎えてからは足が遠ざかってしまった(慶弔の機会に何度か訪れてはいる)。    しかし年齢を重ねるにつれて、なぜか自分が生まれた場所に対する郷愁の思いは募っていく。もしかしたら、そこに自分のルーツとなる祭りがあるのかもしれない。そういえば母から、普代村には「鵜鳥(うのとり)神楽」という郷土芸能があることを何度か聞いていた。「自分探しの旅」というわけでもないが、神楽を見に2024年2月、普代村を再び訪れた。 明治三陸大津波を機に「三陸」の地域名が浸透    2月4日の夕方、久慈駅に着く。神楽が行われるのは午前帯なので、前日に前乗りする形となった。駅を出ると、バスロータリーを挟んで「駅前デパート」と呼ばれる老朽化の目立つビルがまず視界に入ってくる。外壁には“潮騒のメモリーズ”と書かれた朝ドラ『あまちゃん』の看板が掲げられている。劇中、久慈駅は「北三陸駅」という名称で登場しており、ドラマの第一話、母に連れられてやってきた主人公の「アキ」が降り立った場所でもある。 久慈駅前にある1965(昭和40)年竣工の「駅前デパート」。『あまちゃん』の劇中にも登場した看板が掲げられている(写真は2019年撮影時のもの) 駅周辺のいたるところに『あまちゃん』の案内板やシャッターアートなどが設置されている(写真は2019年撮影時のもの)    駅前デパートだけではない。駅周辺を散策すると『あまちゃん』関連の看板やら、観光案内板やらがいろいろと目に付く。ドラマの放映は2013(平成25)年のことだが、いまだ根強く愛される作品のようで、10年以上たっても三陸沿岸地域の強力な地域振興、または震災復興のシンボルとして君臨している。    久慈駅前のロータリーにたたずんでいると、停車した車の横で手を振る女性がいた。その顔を認め、急いで近寄って「ご無沙汰しています」と挨拶する。運転席から出てきた男性にも「どうもお願いします」と会釈をした。このご夫妻とは2年前に、東京で毎年開催されている「ふるさと普代会の集い」(上京した普代村の出身者同士で親睦を深める郷友会)で知り合った。 2023年の「ふるさと普代会の集い」の様子。学校の校歌を合唱している一幕    夫のSさんが普代村の出身者で、若くして上京され「ふるさと普代会」の運営にも長く関わっていたが、最近になってご夫婦で普代村にUターンして新生活をスタート。普代と東京をつなぐ架け橋となっている。今回も「鵜鳥神楽を見たい」という私の要望に応えていただき、車での移動から、神楽が公演される地域との交渉まで(後にも説明するが、通常、鵜鳥神楽はイベントや神社の例大祭以外では、地域の人のみしか観覧ができない)、いろいろと旅のコーディネートをしていただいた。本当に感謝に堪えない。    「さあ、乗って」というお言葉に甘えて、乗車する。車は勢いよく走り出し、市街地を抜けると東日本大震災からの復興を目的に整備された真新しい自動車専用道路「野田久慈道路」(2021年開通)に乗り、普代への道を一気に駆け抜けた。 「サケはドル箱」サケ漁で栄えた普代村    普代村は人口2,000人ほどの、岩手県北部海岸に位置する漁業や観光業を主産業とした町である。祖父母も、ともに漁業に従事しており、私が物心つく前に亡くなった祖父は漁師であったし、数年前に亡くなった祖母も、家で畑をやりながら、浜でウニの身を殻から取り出す作業を行っていた姿が、私の記憶の中にも残っている。 生まれて間もない私を抱える祖父(写真右)    生ウニと並んで、普代を代表する海の特産品に挙げられるのが、サケとイクラだ。普代村との接点として個人的に印象深かったのが、毎年秋頃に送られてくる、木製のケースにたっぷりと詰められた冷凍イクラだ。実家にいた頃は、解凍したばかりのイクラをスプーンでざっくりとすくって、ほかほかのご飯に乗せてかき込むのが本当に楽しみだった。    吉村健司・青山潤によると、江戸時代、普代村を治める盛岡藩の財政にとって、漁業生産は重要な位置を占めており、なかでもサケは他領移出を許された七品目のうちの一つでもあった。種々の記録からも、当時からサケはすでに三陸の名産品として認知されていたことがうかがい知れるという。またその年に初めて獲られたサケは「初鮭」として珍重され、藩を通じて江戸に献上、献上者には褒美として米一駄(約120kg)が与えられたそうだ。 普代駅前に設置されていた、魚を持ち上げる猫たちの像(2019)    戦後、普代村では漁港整備の進捗とともに、水産養殖業も盛んとなった。サケ漁は昭和末期から平成初期にかけて最盛期を迎え、1984(昭和59)年発行の『普代村史』(普代村)に掲載された普代村漁協太田部市場扱いのサケの漁獲量データは以下の通りになっている。 51年 149.7トン/48,327匹 52年 297.3トン/794,23匹 53年 523.5トン/14,1626匹 54年 1754.3トン/513,540匹 55年 1091.2トン/338,343匹 ※前者は漁獲量、後者は漁獲数    「普代村の場合、サケは普代村水産業のドル箱ともいい得るようになった」という、ちょっと露骨過ぎる普代村史の説明もあながち間違いではなかったようで、景気の良い時期にはサケ御殿とも呼べるような豪邸が建ったとか、村内を外車が走り回っていたとか、海上に大漁を告げる「富来旗(ふらいき)」という大漁旗がいつもはためいていたと、太田部漁港の近くに住む伯母も証言している。    鵜鳥神楽を理解する上で、漁業や漁民という要素は切っても切り離すことはできない。そこで次に、鵜鳥神楽の概要について大まかに解説してみたい。...

指揮者のレパートリー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

指揮者のレパートリー【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 新しい年の幕開け 2025年が明けましたね! 皆さんはどんなお正月を過ごしましたか? 昔から「新年に日付が変わるタイミングに何をしているかがその一年を決定する」と信じている私は、今年の元日を作曲しながら迎えました。取り組んでいるのはもちろん、今年11月に自分の指揮で初演するオルガンと管弦楽のための新作(連載第8回参照)です。 作曲する時は、指揮をするのとは全然違う脳みそを使います。だから、ちょっと空いた時間にサッと書き進める、みたいなことができないのが悩みどころ。一方で今年も指揮の方は通常の演奏会に加えて日本とヨーロッパでオペラプロダクションが5作(うち2作が初演)控えていて、作曲に充てられる時間は限られています。でも、私は挑戦することが嫌いではありません。今年も皆さんに素晴らしい音楽をお届けできるよう、時間管理と健康管理に神経を払いつつ、一つ一つ着実にこなしていきたいと思います。 「指揮者のレパートリー」とは  現在では「作曲」と「指揮」を別々の活動、と捉えるのは一般的な感覚かもしれませんが、少し視点を引いて歴史を振り返ると、ロマン派初期頃まではモーツァルトやベートーヴェンのように“作曲家が自作を振る”というのがもっとも一般的な在り方でした。そこから時代が下ってメンデルスゾーン、ベルリオーズ、リストの時代になると作曲家が自作以外の作品も指揮するようになり、加えてオーケストラの大規模化や音楽の複雑化とも相まって指揮者の専業化が進んでいったのですね。ですから、現在のような「古典から現代までさまざまな作曲家の作品を振る指揮者」が現れたのは長い歴史からすればほんの最近のことなんです。 古今東西を合わせれば星の数ほどある作品のなかで、指揮者はどうやって自分のレパートリーを築いていくのでしょう? 今回は編集部からのリクエストにこたえて「指揮者のレパートリー」についてお話ししたいと思います。 私のレパートリー 連載第3回と第4回で私の指揮科時代のエピソードをご紹介しましたが、どこの音大でも指揮科の学生が避けては通れない必修のレパートリーというのがあります。たとえばベートーヴェンの交響曲全曲などがそうです。ピアノ科の学生がショパンを勉強するようなものですね。同時に本人の特性や傾向というのもやはりあって、指揮科の学生時代、現代音楽を演奏する話が来ると同級生がいつも私に譲ってくれていました。「カナコは現代音楽好きだし、きっと卒業してからもたくさん振るでしょ!」と(笑)。 また、ピアノ伴奏科時代(連載第2回参照)にはオペラのコレペティトゥール(音楽の部分をピアノで弾いて歌手に稽古をつける人)をたくさん経験していたこともあり、オペラプロダクションというのもキャリアの初期から大切なレパートリーの一部でした。それから言うまでもなく、ラヴェルをはじめとするフレンチ・レパートリーは、20年以上パリで暮らし、パリ音楽院で指揮法を学んだ私の根幹となるものです。 ベルリオーズ《幻想交響曲》(神戸フィルハーモニック、2023年11月) 逆に、ずっとフランスにいたことでマーラーやブルックナー、R. シュトラウスの交響曲・交響詩などの “ドイツもの”を振ることに対しては、長い間どこか遠慮するところがありました。「私が振っていいのかな?」と。おそらく指揮者を招聘する側としても、“ドイツもの”はドイツのバックグラウンドがある人にお願いしたい、と考えますよね。 でも去年の4月、アルバニアのオケを客演してから少し考えが変わりました。そのコンサートではアルバニアの国民的作曲家、フェイム・イブラヒミ(Feim Ibrahimi, 1935~1997)の代表作であるピアノ協奏曲を振ったのですが、正直なところ、お話をいただくまで私はイブラヒミの名前はもちろん、アルバニアについてほとんど何も知りませんでした。そんな私が、作曲家のご遺族も臨席される大事な演奏会で指揮をしていいのだろうか……。アルバニアに行くまではすごく心配でした。 2024年4月、アルバニアのテレビニュースで紹介された際の様子。 ところが蓋を開けてみたら演奏会は大盛況。終演後、作曲家の奥様が楽屋を訪ねてこられて「これこそが亡き夫が聴きたかった演奏だ」「あなたはアルバニアの心をわかっている」と涙を流して感激しておられるのです。私の手を握り締めて感動している夫人を見ていて、自分で壁を作る必要はないんだと気づきました。「ずっとフランスにいたからドイツものを理解していないんじゃないか」とか「日本人だからわからないんじゃないか」と、今まで自分で思い込んでいたものが少しほどけた感じがありました。 レパートリーに対する考え方 レパートリーの深め方として、自分が得意とするものを徹底的に究める、という考え方もあると思います。同じ曲を何百回、何千回と演奏し続けるうちに誰にもたどり着けない新しい境地に達する、というのも芸術家としての一つの有り様でしょう。ですが私の場合、レパートリーを増やしていくことに貪欲でありたい、とずっと思い続けてきました。元来好奇心が強いということもありますが、できるだけ多くの音楽に触れて、そこからさまざまなメッセージを受け取りたいと思っているからです。音楽という言語には果てしない可能性が詰まっています。私はその無限の可能性を一つでも多く学びたい。私が現代音楽を好きなのも、その動機が根底にあります。 ダヴィッド・ウドリ《インターセクションズ》(アンサンブル・ミュルチラテラル、2014年) 私は個人的にも現代音楽が好きで、機会があれば現代音楽を紹介するためにもプログラムに入れたいと思っていますが、より正確に言うと「演奏機会の少ない作品を紹介したい」という気持ちが強いんですね。古い時代の音楽にも、後世の作曲家に大きな影響を残しながら演奏される機会の少ない作品はたくさんあります。そうした知られざる名曲と新しい作品を並べて、新しい作品がいかに古い時代の音楽からヒントを得ていたかがおのずと聴き取れるようなプログラムを組むなど、やってみたいアイデアがたくさんあります。 おそらく、それは私がもともと作曲の出身だからということもあるでしょう。型にはまった「定番・安定」のプログラムではない、何か新しいことをやりたいという気持ちが常にあります。クラシック音楽のリスナーが年々高齢化していて若い人が増えないとよく言われますが、本当はもっとやり方次第で若い世代の人たちを惹きつけることができると思うんです。今は小さい頃からYouTubeやSpotifyでいろんな音楽に触れて、ある意味音楽に対するバリアがない人が増えています。インドネシアでは若者たちがマーラーとメタリカを同時に聴いてましたからね(笑)。彼らのような柔軟な発想に、もしかしたら突破口となるヒントが隠されているのかもしれません。 日本人作曲家の作品 日本人作曲家の作品も世界に紹介していきたいですね。芥川也寸志さん(1925~1989)や黛敏郎さん(1929~1997)、先年亡くなられた西村朗さん(1953~2023)など、振ってみたい優れた作品はたくさんあります。ヨーロッパにはいまだに日本といえば「ゲイシャ・フジヤマ」、音楽といえばすべてペンタトニック(笑)みたいなステレオタイプのイメージを持っている人もいますが、そうではない日本の音楽を発信していきたい。 オランダで私が芸術監督を務めるアンサンブル・オロチという現代音楽アンサンブルのレジデント・コンポーザー、向井響(1993~)君の作品も非常にユニークです。彼の《美少女革命:Dolls》という作品には人形浄瑠璃がとり入れられているのですが、伝統邦楽の要素と西洋音楽の語法が違和感なくマッチしているんです。そんな新鮮な感性を持った若い人たちともたくさんコラボレーションしていきたいと思っています。 こうしてやりたいことを挙げていると体がいくつあっても足りない気がしてきますが(笑)、2025年も健康に留意しつつ精進を続けていく所存です。皆様にとっても幸多き一年となりますように! 今年もどうぞよろしくお願いします。 前の記事...

音楽の理解が変わる!Sheet Music Store おすすめ記事ガイド

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36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

36年ぶりに復活した「幻の獅子舞」・田倉の三匹獅子(茨城県つくば市)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 つくば科学万博を最後に35年間演じられなかった    2022年頃からだろうか。コロナ禍の休止を経て、ぽつぽつと復活を遂げる祭りが増えてきた。最初は規模を縮小して、段階的に従来通りの形に戻していくというケースをよく見かけた。2024年ともなると感染症に対する警戒心もだいぶ弱まり、「4年ぶり開催」「5年ぶり開催」というフレーズがニュース記事の見出しに踊った。「祭りは1年休止しただけでも再開は難しい」という話も聞いたことがあるので、そんな報道を見ると、よくぞ復活してくれたと感慨深い気持ちになる。    ところで、コロナ禍中、4年5年なんて年数ではきかないくらいのスケールで復活を遂げた祭り・民俗芸能がある。それが茨城県つくば市田倉に伝わる「田倉の三匹獅子」だ。この獅子舞、つくば市無形民俗文化財にも指定されていながら、2021年に再開するまで36年間も披露される機会がなかった。最後に舞ったのは1985年の国際科学技術博覧会、通称・つくば科学万博。つくば科学万博は「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、1985(昭和60)年3月17日から同年9月16日までの期間に開催され、日本を含む48ヵ国と37の国際機関が参加。来場者数は延べ2,033万4,727人を記録する、壮大な国際博覧会となった。これだけの晴れの舞台で演じていながら、休止となってしまった理由はなんなのか、疑問が残る。    そもそも、なぜこれほどの長い期間、休止することになったのか、そしてこのタイミングで復活することになった理由とは。次々と湧いてくる疑問を解決するために、田倉の三匹獅子を取材することにした。 三匹獅子とは、その名の通り三匹の獅子が登場する獅子舞    ところで「獅子舞」という言葉は聞いたことはあるが、「三匹獅子」については初耳だという人も多いのではないだろうか。私自身、祭りの世界に足を踏み入れるまで獅子舞といえば、お正月のショッピングモールなどでよく見るタイプの獅子舞のイメージぐらいしかなかった。実際には獅子舞にはさまざまなバリエーションがあるようで、例えば、本連載の第四回で取り上げた新十津川獅子神楽は、複数の人間が胴体に入る「ムカデ獅子」に分類されるし、変わったところでは虎を模した「虎舞」というものもある(本連載第一回、第二回参照)。    三匹獅子舞は、その名の通り三匹がひと組となって演じられる獅子舞で、一匹の獅子を一人の人間が担当することから「一頭立て獅子舞」とも呼ばれる。関東地方を中心に東北にかけても分布しており、私の出身地でもある千葉でもいくつかの場所で伝承されているようだが、子どもの頃に遭遇することはなく、大人になってからその存在を知って「そんな獅子舞があるのか」と驚いた。 埼玉県川越市の「石原のささら獅子舞」(2024) 東京都町田市の「矢部八幡宮獅子舞」(2023)    はじめて見たのは、福島県会津若松市で行われている「会津彼岸獅子」。まさにお彼岸の時期に披露される三匹獅子舞なのだが、きらびやかな衣装と躍動感あふれる獅子舞の動き、三匹のチームワークで織りなされるドラマティックな演目の数々に魅了され、以来、機会を見つけては、関東近郊の三匹獅子舞を見学しに行くようになった。 福島県会津若松市の「会津彼岸獅子」(2017) 川沿いの神社で行われるアットホームな村祭り    ネットでリサーチをしていると、田倉の獅子舞が茨城県つくば市上郷(かみごう)の「上郷フェスティバル」という地域イベントに出演するという情報を得た。上郷はつくば市の西部に位置し、北で田倉の集落と接している。イベント主催者や保存会の連絡先がわからず、事前に取材アポは取れなかったが、いつものように「まあ、行けばなんとかなるだろう」の精神で、現地に突撃することにした。    北千住駅からつくばエクスプレスに乗り研究学園駅で下車。バスに乗り換え、会場最寄りの「金村別雷(かなむらわけいかづち)神社入口」バス停で降りる。会場となる神社までは、徒歩で15分ほど。のどかな農村の風景を眺めながらゆっくりと歩を進めた。 当日、雨予報だったので、朝の段階ではやや曇り気味だった    金村別雷神社は利根川の支流である一級河川、小貝川のほとりに位置する神社である。地域の人には「雷神様」の名前で親しまれており、『豊里町小史』(つくば市は1987年に大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併して誕生した市)の解説によると、「御祭神の別来大神は天に昇って雷を支配し給う大猛雷神にあらせ」られ、「その荒魂は霹靂(へきれき)一声すさまじい威力を以て正邪を匡(ただ)し一切の悪事災難を消除する」とあるから、「雷様」という力強い名称に違わず、その霊験は相当なものであることがうかがい知れる。特に五穀豊穣を祈願する農業神として金村別雷神社は崇敬を集め、近郷近在の住民のみならず、関東一円にその信仰圏は広がったという。 金村別雷神社の鳥居    神社に到着して境内に足を踏み入れると早朝にもかかわらず、出店の設営準備をする人でにぎわいを見せていた。参道を進んでいくと神社の拝殿に突き当たり、そのかたわらに設けられた小さなステージでは、いままさにサウンドチェックが行われているところだった。いかにも正しく「村祭り」という雰囲気で、どこか心がなごむ。 さまざまな催しが行われるステージ    「三匹獅子保存会」の銘入りの半纏を着た方が何名かいたので、一人の方に取材をしたい旨を伝えると、それならばと保存会の会長さんを連れてきてくれ、獅子舞の公演後にお話を聞かせていただけることになった。    フェスティバル開始の午前10時前になると拝殿の前に祭り関係者たちが集まり、イベントの成功を祈願する祈祷が行われた。その後、ステージで主催者らによる挨拶があり、いよいよ田倉三匹獅子の出番となった。 フェスティバル前の祈祷の様子 悪魔を退治にしにやってきた三匹の獅子舞    神社の参道を通って白い半纏をまとった人々が入場してくる。梵天(ぼんてん)や錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる祭具を持った人が先頭に立ち、そのあとに獅子や、笛、幟(のぼり)を手にした人らが続く。道行き(獅子が入場すること)の間、会場には透き通るように美しく、そして哀愁を帯びた笛の音が絶え間なく響く。いい笛だなと思って聴き入っていると、ちょうど司会の女性から「この曲は、“とおり”といいます」という解説が入った。 参道を通って入場してくる田倉三匹獅子保存会の面々    ステージに三匹の獅子が並ぶと、演奏が止む。再び司会者の解説が始まり、まず田倉の三匹獅子の由来について説明が行われた。いわく、江戸時代前期、田倉の畑を荒らす獅子が現れ、周辺地域の領主である大塚豊後守(おおつかぶんごのかみ)が家来とともに退治に出かけた。大塚豊後守は見事獅子たちを捕え、これからは人々のために生きよと教えさとし、それから五穀豊穣や雨乞い、無病息災の祈りを込めて、地域住民が獅子舞を踊り、舞うようになったという。    続けて、これから披露される演目に関する解説も行われた。「ステージの中央に立てられている梵天を悪魔と見立てフェスティバルを邪魔する悪魔を退治に、獅子たちがやってきた」というストーリーは、まるでヒーローショーのようで面白い。 悪魔に見立てた梵天の横に立つ獅子...

「才能」よりも大切なこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

「才能」よりも大切なこと【指揮者・阿部加奈子の世界かけ巡り音楽見聞録】

ある時は指揮者、またある時は作曲家、そしてまたある時はピアニスト……その素顔は世界平和と人類愛を追求する大阪のオバチャン。ヨーロッパを拠点に年間10ヵ国以上をかけ巡る指揮者・阿部加奈子が出会った人、食べ物、自然、音楽etc.を通じて、目まぐるしく移りゆく世界の行く末を見つめます。 2025年の抱負 みなさん、こんにちは! いよいよ暮れも押し詰まってきましたね。みなさんにとって2024年はどんな一年だったでしょうか。 私にとって今年は「携わる仕事の種類が急激に増えた」一年でした。それにともなって交友関係にも大きな変化を感じています。音楽的にも人間的にも尊敬できる、才能ある方々とたくさん知り合い、お互いに世界各地を転々としながら連絡を取り合う……そんな新しい交流の仕方が多くなってきました。 新年も、欧州と日本を行き来する生活は続きそうです。特に、2025年11月1日には横浜みなとみらいホールから作曲委嘱をいただいたオルガンとオーケストラのための新作を、自分の指揮で初演します! オーケストラは今年5月に初共演した神奈川フィルハーモニー管弦楽団、オルガンは横浜みなとみらいホール・オルガニストで大学の同級生でもある近藤岳さん。横浜みなとみらいホールの素晴らしいオルガンで信頼する共演者の方々に自作を演奏していただけると思うと、今から身震いするほど楽しみです! 少し先になりますが、ぜひ来年の手帳に予定を入れておいてくださいね。 「才能」ってなんだろう? こうして一年中世界のあちこちで仕事をしていると、いろいろな才能と巡り会う機会があります。世界に名だたるトップ奏者や世間の耳目を集める早熟の天才もいれば、マスタークラスや音楽院の試験などでは開花する前の原石みたいな才能にも出会います。音楽の世界ではことさら若い才能が話題を集めがちですが、果たして「才能」ってなんなのでしょう? 「天才」といって私が思い出すのは、昨年ベルリン・フィルの首席トランペットに就任したダヴィッド・ゲリエ(David Guerrier, 1984~)君。彼は知人でもあるのですが、7歳でトランペットを始めて10代で数々の国際コンクールで優勝、一躍脚光を浴びるものの18歳でホルンに転向し、わずか数年後にフランス国立管弦楽団首席ホルン奏者に就任、リヨン国立高等音楽院ではホルン科教授も務めたあと再びトランペットに戻り、フランス国立放送管弦楽団の首席奏者を務め、その後ベルリン・フィルに入団……という超人的なキャリアの持ち主です。以前、彼のリサイタルに行ったことがありますが、一晩でいったい何種類楽器を持ち替えたかわからない(笑)。管楽器はほとんど全部吹けるんです。さらに最近は並行してヴァイオリンも始めたそうで、一年でチャイコフスキーの協奏曲が弾けるようになったとか(!)。一口に「天才」といっても彼の場合、10年後に何をしているか誰も予測できません。これはかなり特殊な例かもしれませんが、そんな「才能」もありますね。 神様が定めたエコシステム かくいう私自身も、わりと幼少の頃から周囲に「才能がある」とか「天才だ」と言われたり期待されたりすることが多かったので、「才能とは何か」ということを昔からよく考えていました。 私が思うに、人は誰しも何らかの才能を持って生まれてきているんです。ただ世の中には騒がれやすい才能とそうでない才能があるというだけで。生まれたときの時代や社会の有り様によって、そういう差はあるかもしれません。でも、そうやって持って生まれた何らかの才能を発揮して、社会に貢献することで人類は発展してきたのだと思います。 もともと才能とは個人差の大きいものですが、それが発露するまでの時間にも個人差があります。音楽の才能は特にそれが顕著かもしれません。いつの時代も「天才少女・天才少年」がもてはやされるのはある意味自然なことで、早熟な才能は人々に人間の可能性や未来への希望を感じさせてくれるんですよね。ただし草木と同じで、きちんと水をやって世話をしなければ才能は育っていきません。「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」という言葉があるように、どんな才能も不断の努力なしにはありえないのです。 私に言わせれば、才能とは「神様からの預かりもの」。持って生まれたその人だけの占有物ではないと思うのです。神様から預かっているものですから、その人は一生懸命それを磨いて、与えられた恩恵を社会に還元しなければなりません。そうすることによって社会はより良く豊かになり、人類は存続していく……。「才能」とは、そんな「神様が定めたエコシステム」に含まれているものではないかと思います。 没個性社会から「創造性を促す共同体」へ 本人の努力に加えて、社会もそれを温かく見守る必要があります。若い時だけちやほやするのではなく、その才能がその後どんな枝を拡げ、どんな花を咲かせ、どんな実を結ぶのか、最後まで見届けるべきでしょう。一つの才能が花開くためには、多くの人の援助が必要なこともあります。そうやって社会で才能を見守り育てていくことは、誰か一人の栄誉や利益のためではなく、社会全体の繁栄に繋がるのです。今の資本主義社会にはそうした視点が欠けているように思います。 日本は戦後、高度成長期を経て先進国の仲間入りをしました。しかしその急成長を生み出した大量生産・大量消費モデルというのは、没個性を促すシステムでもあるんですよね。日本は今でもその影響が続いていて、「創造性を促す共同体」という考え方が足りないのではないかという気がします。もっと、人とは違う感性を大切に育んでいく余裕が社会全体にほしいところです。 才能を磨くための「人間力」 「才能」について考えるときに私が合わせ鏡のように思い出すのが「人間力」です。才能を磨くためには、それ相応の「人間力」を得る必要があります。そして、それは「才能」や「天才」とは違って、努力によって誰でも高めることができるものです。人は才能「だけ」あってもだめで、成長するためには必ず他者を必要とします。他者の手助けを得ようとする時、この「人間力」がとても重要な要素になってくるのです。 「人間力」というと抽象的ですが、具体的にいうとコミュニケーション能力、共感力、忍耐力、自己管理力、好奇心、学習能力などがここに含まれるでしょうか。とりわけ私が大事だと思うのが学習能力で、これは何か失敗したときにとことん自分と向き合って、どこに原因があったのか、どうすれば回避できたのか、学び取って次の成長に繋げる能力のことです。 とはいうものの、私自身は子どもの頃からずっと優等生タイプで、失敗することをすごく恐れているところがありました。でも、今になってみると「若い頃にもっと挫折を経験しておけばよかった!」と痛感します。なぜなら、失敗の経験ほど自分自身を大きく成長させてくれるチャンスはないですから。 私の人生でこれまで一番の失敗といえば、離婚でしょう(笑)。それまでは、自分にそんなことが起こるなんて信じられない!というくらい、ありえないことだと思っていました。でも、まったく後悔していません。離婚してはじめて、「あ、自分の名前でやっていいんだ」と気づいたんです。結婚してからずっと封印していた作曲(連載第1回参照)も再開しました。フランス人作曲家の元夫は決して「後ろに下がってろ」というタイプではありませんでしたが、無意識に「夫を支えなければ」「自分が前に出てはいけない」と自制していたんですね。40代になってはじめて味わった大きな挫折でしたが、それがなければ今の私はありません。来年、「日本で自作の協奏曲を自分で指揮する」なんて、当時の自分が知ったらびっくりするでしょう(笑)。この経験から得たことは大きかったと今は思います。 「才能」よりも大切なこと 今や「人生100年」と言われる時代です。時には挫折して落ち込んだり、人と比べて「才能がない」と思い悩んだりすることもあるかもしれませんが、それは長い人生のほんの一部。5年後、10年後にどうなっているかなんてわかりません。それよりも挫折から学び、自分の感性を磨いていくことが、その人の人生を豊かで幸せなものにするではないでしょうか。そしてそれは、「才能」よりもずっと大切なことだと思うのです。(つづく) 前の記事 第7回へ 次の記事 第9回へ 著者出演情報...

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

開拓民たちによって持ち込まれた獅子舞・新十津川獅子神楽(北海道樺戸郡新十津川町)【それでも祭りは続く】

日本には数え切れないほど多くの祭り、民俗芸能が存在する。しかし、さまざまな要因から、その存続がいま危ぶまれている。生活様式の変化、少子高齢化、娯楽の多様化、近年ではコロナ禍も祭りの継承に大きな打撃を与えた。不可逆ともいえるこの衰退の流れの中で、ある祭りは歴史に幕を下ろし、ある祭りは継続の道を模索し、またある祭りはこの機に数十年ぶりの復活を遂げた。 なぜ人々はそれでも祭りを必要とするのか。祭りのある場に出向き、土地の歴史を紐解き、地域の人々の声に耳を傾けることで、祭りの意味を明らかにしたいと思った。 「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために始まった獅子舞    伝統的な祭りには、ほぼ必ず「由緒」というものが存在する。どれくらいの歴史があるのか、何のために始められたのか、その内容が立派であればあるほど、祭りの権威性や正当性も高まってくる。それゆえに、なかには神話めいた由緒というのも存在するが、一方で、おそらくほぼ何の脚色もなく、事実ベースでその来歴を伝える祭り・民俗芸能もある。その一つが、北海道樺戸郡新十津川町に伝わる「新十津川獅子神楽」だ。新十津川町のホームページには、次のような解説文が記載されている。 明治41年、日露戦争後の人心退廃の風潮を憂う富山県出身者たちが青年たちに健全な娯楽を授けるとともに、併せて村祭りにも寄与しようと獅子神楽の普及を計画し、獅子神楽会を設立。以来、玉置神社(現新十津川神社)の例大祭などで舞いを奉納し、近隣市町に例のない伝統と特色ある郷土芸能として名声を博しました。 (新十津川町役場ホームページより) 新十津川町(北海道)    これ以上ないほどの明確な理由をもってスタートした民俗芸能であることがわかる。より詳しい来歴に関しては、新十津川町獅子神楽保存会が1982(昭和57)年に発行した『獅子神楽七十五年 記念誌』に書かれており、そこには獅子舞を新十津川の町に最初に持ち込んだメンバーの名前まで記載されている。    それだけに、「なぜ、祭りが必要とされたのか」、このテーマを検討する上で、新十津川獅子神楽は格好の題材とも言えそうだ。「青年たちに健全な娯楽を授ける」ために、富山県から移植された獅子舞が、120年近く経ったいま、どうなっているのか。その現場を見に、新十津川町に行ってみることにした。 大水害を機に北海道に大量入植した奈良県十津川村住民たち    内地に住む人間からの視点になってしまうが、北海道は開拓民たちによって拓かれた土地であることは多くの人に知られているところだと思う。では、移住者たちは本土のどういった地域からやってきたのだろうか。地理的に、北海道から近い東北からの移民が多いことは容易に想像できるが、北海道開拓の歴史を伝える施設「野外博物館 北海道開拓の村」ホームページによると、1882(明治15)年~1935(昭和10)年の移住戸数に関しては、1位青森県、2位秋田県に次ぎ、新潟県が3位につけている。以下、富山、石川、岩手、山形、福島、福井が上位を占め、北陸からの出身者も多いことがわかる。    北陸出身者の移住が多いことについては、さまざまな理由が考えられるだろうが、1963(昭和38)年に北海道史編集員を務めた篤志家の片山敬次は「地理的接近と、帆船時代に本道と内地間との交通が、夏季は濃霧、冬は風波の為太平洋岸の航路が開けず、松前との交通は殆んど日本海沿岸の諸港に限られ、従って北陸より商人漁夫等の出稼ぎが多く、自然本道との親しみが深い関係からであらう」と自著『北海道拓殖誌』の中で考察している。    では、新十津川町を開拓したのは誰であったのかというと、初期の開拓者は東北でも、北陸でもなく、その名の通り奈良県の十津川村出身者であった。 十津川村(奈良県)    十津川村というと、地理が好きな方なら名前を聞いたことがあるかもしれない。面積は672.38k㎡。「村」としては日本一の広さを誇る一方、紀伊山脈の只中にあることから、奥山の秘境といった様相を呈している。私も十年ほど前に十津川の盆踊りを体験しに現地を訪れたことがあるが、集落に至る道のりが崖っぷちの細道といった有様で、車が転げ落ちないかとヒヤヒヤしながら座席で硬直していた記憶がある。 山々に囲まれた奈良県十津川村武蔵地区。中央にあるのは盆踊りの櫓(2014)    外界から隔絶された土地ということもあり、十津川村の歩んできた歴史もまた独特である。壬申の乱の時代から朝廷に仕え、長らく「諸税勅免」(勅命によって税が免除されること)の地として優遇されてきた十津川村。豊臣秀吉時代、江戸幕府時代と、国の統治者が変わってもその特権は引き継がれた。また、古来より勤皇の意思が強いことから、明治維新前後には「十津川郷士(ごうし)」を輩出。後に郷士たちは、尊皇攘夷派浪士の一団である天誅組が幕府軍に壊滅させられた「天誅組の変」(1863年)にも関わった。    そんな「ご勅免の地」も、1873(明治6)年の地租改正によって「有租の地」となってから状況は一変。もとより山間部で平地が極めて少なく、農耕の成り立たない土地であった十津川村では、公共事業として杉檜の植栽事業を興そうとしたものの、その矢先となる1889(明治22)年8月に、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋184戸という未曾有の大水害が発生。水田の50%、畑20%が流亡、山林被害も甚大な被害となり、生活の根幹も奪われたことから、600戸、2,489人が北海道に移住するに至り、1890(明治23)年には移住先となる「トック原野」(新十津川町役場ホームページによると、「トック」はアイヌ語で「凸起(物)・凸出(物)」の意)に、「新十津川村(1957年に新十津川町に改称)」が誕生した。 故郷との「死別」、開拓地に向かった人々の思い    新十津川獅子神楽が披露される「新十津川神社例大祭」は、毎年日付固定の9月4日に開催される。ネット上ではそれ以上の情報はないため、獅子神楽保存会の事務局となっている教育委員会事務局社会教育グループに電話で連絡を取り、ともかく9月4日の朝に新十津川神社に行けば、神輿の宮出しから祭りを見学できるという情報を得られた。いずれにせよ、東京から行くとなると現地への前乗りは必須らしい。 新千歳空港    3日の午後、成田国際空港から新千歳空港へ。そこから札幌駅を経由して、鈍行列車を乗り継ぎ、本日の目的地である滝川駅を目指す。滝川市は石狩川を挟んで新十津川町に隣接する都市。なぜ、新十津川町に直行しないのかというと、かつてあった札沼線の「新十津川駅」が2020(令和2)年に廃止となり(北海道医療大学~新十津川間)、札幌方面から鉄道で向かうルートが絶たれてしまったからだ。もしこの路線が生きていれば、よりスムーズに新十津川町に行けたはずで(もっとも末期には一日一発着のみで、最終列車が朝の9時台という状況だったようだが……)、いつかニュースで耳にした、北海道の鉄道路線が次々と廃止になっているという報道の現実を、今回の旅ではからずも実感することになった。 公園として整備されている新十津川駅跡地    新千歳空港の駅を発った時点ですでに夕刻となっていたので、滝川市に接近する頃には、車窓の向こうはすっかり闇となっていた。夜間、知らない土地を駆け抜ける鉄道旅というのは、なんとも心細い。寂しさから、ふと明治時代、陸の孤島と呼ばれる土地を出、汽車や船に揺られながら見果てぬ北海道を目指した十津川村の人々に心を寄せてみる。    資料を読むと、その様相はまず出立の状況からして壮絶だ。 いよいよ前夜、各自思い思いの出立祝いをなす。生別であり死別である。送別宴は歌う踊ると賑わう中にも、言いしれぬ異常の感に咽ぶは誰も同じ。自分は後にも家を残し、弟辰二郎も残って住むのでさまででもないが、家を失って移住する人々は感慨もいっそう深い。岡本の源七と辻の四平が佐古の家で、年寄りのことゆえこれが最後だから故郷への置土産にするとて踊ったのは、勇ましくもまた憐れであった。 (中略) いよいよ伯母子峠一、三四二メートル。住み慣れたふる里との別れである。生涯もう見ることはないかも知れぬ。後にきけばこの時の二百人の中に、誰か頂上で郷里に尻を向けて捲り、ピシャピシャ叩いてみせた夫人がいたとか。そうせずにはおれぬほど切ない別れだったのであろう。泣くよりも辛いおどけである。...