
「本棚の前で音楽と……」~音楽ライター・小室敬幸が誘う読書ノススメ~ 【第1回:『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』】
音楽ライター・映画音楽評論家の小室敬幸氏が “今、読むべき1冊” を、音楽を愛するあなたにお届けします。第1回は、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』(中央公論新社刊)です。 研究者ほどではないと思うが、音楽ライターという仕事柄、音楽に関する書籍に囲まれて日常を過ごしている。以前ならば頻繁に利用する書籍以外は当時勤務していた大学の附属図書館で借りていたのだが、コロナ禍になってからは図書館が長期にわたって閉まってしまうことも多く、全て自宅で完結するように資料を買い集めるように方向転換したからだ。昔は大型の書店に足繁く通っていたが、現在はAmazonを中心に、もっぱらインターネット通販頼りとなってしまった。それまで使ったことのなかったメルカリで絶版となった書籍を探すことも増えている。 蔵書が急激に増えて部屋を圧迫していったため、何の気なしに計算してみると2021年の1年間、Amazonだけで(音楽書以外も含めて)45万円ほど書籍を購入していた。他のWEBサイトで購入した本もあるし、他にもCDやDVD、Blu-rayなども多数購入しているので、働いて稼いだお金で(長期的な目線で)仕事に必要な資料を買い集めているような状況となっている。更には仕事の一環で献本も多数いただくため、積ん読は増える一方だ。 そんな有様なので一冊を通読する場合は流し読み、精読する場合は書物仕事に必要な部分だけを取り出して……という形の読書が普段は多くなってしまうのだが、久しぶりにメモしながら(約18000字)、一冊丸々をじっくりと楽しみながら読んだ本がある。それが今年3月に、第35回ミュージック・ペンクラブ音楽賞(研究・評論部門)を受賞した沼野雄司 著『現代音楽史――闘争しつづける芸術のゆくえ』だ。 発売は2021年1月。その直後に購入して流し読みはしていたのだが、今年4月16日に日本最大級の読書会コミュニティ「猫町倶楽部」で本書を課題本として扱うので、しっかりと時間をかけて読み直したのである。猫町倶楽部については次回以降の連載で触れることとなると思うので、ここではこの『現代音楽史』という本がいかに待望されたものであったかを語ってみたい。 音楽史で「現代音楽」はどのように扱われてきたか? 『現代音楽史』のあとがきは、次のように始まる。 現代音楽史を書こうとした動機はいくつかある。 まず類書がほとんどないこと。日本語で書かれた書物で二十一世紀までを含めて通観できるもの、それもある程度コンパクトなものが必要だと考えていた。実際、いまだに柴田南雄『現代音楽史』(1967初版)を参照する人もいると聞くので(確かに名著ではあるが)、いくらなんでも情報や音楽史観をアップデートしなくてはならない。 今一度、当たり前の事実を強調しておいた方がよいだろう。これは“2021年”に出版された書籍のあとがきである。類書の筆頭格に挙げられた書籍が半世紀以上前のものであることに改めて驚くしかない(ちなみに1967年といえば武満徹の代表作にして、音楽の教科書にも掲載された、いわば日本を代表する現代音楽作品《ノヴェンバー・ステップス》が作曲・初演された年である!)。 もちろん1967年以降に、類書が一切発売されなかったわけではない。そもそも現代音楽に特化せずとも、「西洋音楽史」と題された書籍のなかでも20世紀まで取り扱われることが一般的だ。日本で最も多くの音楽学者から支持されている音楽史であろうグラウト/パリスカ著『新 西洋音楽史』(音楽之友社, 1998〜2001/訳者まえがきに2007年追記あり)は、1996年に出版された原著“A History of Western Music”の改訂第5版を翻訳したもの。上・中・下巻あるうちの下巻の後半で20世紀音楽に頁を割いているのだが、ヨーロッパの作曲家を取り扱った項目ではW. ルトスワフスキ(1913〜94)の交響曲第3番(1983)で、アメリカの作曲家を取り扱った項目ではD. デル・トレディチ(1937〜 )の《ファイナル・アリス》(1975)で締めくくられている。つまり、1980年前後までしか歴史が綴られていないのだ。 この「1980年」という年代は、西洋音楽の歴史を記述しようとする時、ひとつの壁となっているように思われる。2020年8月に出版された金澤正剛『ヨーロッパ音楽の歴史』(音楽之友社)のあとがきでは「若干の例外はあるものの、ほぼ一九八〇年代までを書いたところで筆をとどめた。それ以後の出来事はいまだ「歴史」として判断できかねると感じたからである」と記されている。日本音楽学会の会長などを歴任した金澤氏が、何故このような判断をしたかといえば、この数十年のあいだに「現代音楽」についての認識がかなり変わってしまったからだとしている。多くの人々によって共有されるような認識が得られるまでは、歴史として記述されるべきではないという判断なのだろう。...